2006年08月31日

抑止論の周辺

 よれよれなのですが、昨日の記事の補足です。motton様のコメントに感謝いたします。今の状態で記事を書くこと自体、やめた方がよい気がいたしますが、とりあえず、考えが及ぶ範囲で続けておきます。

 抑止力というのは、大雑把にいって次の二つの点に依存していると考えております。まず、第1に、相手国の行動に対して自国が「最適な」選択肢を計算することができるということです。第2に、相互に、第1の意味で、双方が合理的であるということを双方、またはそれ以上の国が共有しているということです。現実には「国益」を整合的に定義することができるのかどうかについては突き詰めると、微妙な部分があります。また、国益の内容は、国際秩序を構成する国によって異なる可能性があります。拉致問題がなくても、あるいは前回のミサイル発射を行わなくても、北朝鮮は理解しがたい国だというのが、ごく普通の日本人の感覚だと思います。体制の是非について議論しだすと、きりがないのでやめますが(北朝鮮に関してはキッシンジャーの「あの体制が地上から消えたとしても、誰も悲しむものなどいないだろう」という言葉に共感しますが)、金正日は、第2の点を上手に利用して瀬戸際外交を成立させてきたという点があります。

 金正日は、上記の意味で自らが合理的ではないかのように演出することで、合理性を前提とした民主主義国の外交判断を狂わせてきました。金大中政権以前の韓国の政権でも、この点は、十分にコントロールすることはできませんでした。観念的な話になって恐縮ですが、北朝鮮は、核兵器をもたずとも、通常兵器で米軍を抑止することに成功してきました。金日成当時の、有事の際には「ソウルが火の海となる」という脅迫は、カラ脅しではありませんでした。38度線の北に北朝鮮が数千門といわれる高射砲を米軍の軍事技術をもってしても除去できない深部に潜ませてきています(現在でも、この前提が成り立っているのかは私には判らない部分がありますが)。他方で、北朝鮮も本格的に武力を行使すれば、米軍によって抹殺することは理解できていたでしょう。しかるに、北朝鮮は、この前提を理解していないかのように振舞うことによって、民主主義諸国の判断を狂わせ、巧みに譲歩を引き出してきました。「何をしでかすかわからない」、「彼らには失うものがないのかもしれない」という印象を相手に持たせることによって、北朝鮮による武力行使の可能性を実態よりも大きく見せることに成功してきたといえます。

 それが、初めて失敗したのが、前回のミサイル発射でした。安保理決議1695は生ぬるいという批判もあるようですが、瀬戸際外交にアメではなく、ムチでもって対処する最初になったと私自身は評価しております。実質的には、北朝鮮はアメリカを中心に締め上げられていて、事実上の現状追認になったと考えているからです。この時期から、策源地攻撃能力、あるいは敵基地攻撃能力が国会でも議論されるようになりましたが、北朝鮮問題に関して言えば、金正日が合理的であるという前提と日米同盟が機能するという前提が崩れない限りは、二重に保険をかけるという話で、「専守防衛」のように実質をもたない安全保障戦略を無視すれば、乱暴な議論かもしれませんが、保険に要する費用(空中給油機の配備や敵地に進入するための装備など)と効果(抑止力の向上、抑止が破られた場合の自衛措置の担保)の問題だと思います。さらに視野を広げると、日米同盟を強化することとリンクさせて行えば、極東におけるバランス・オブ・パワーの安定化に資するという点で非常に効果的だと思います。国防における費用対効果の分析と同時に外交面での効果(やり方が拙ければ、アメリカの猜疑を招きます)を正確に行うことが望ましいと思います。金正日、あるいは北朝鮮が合理的ではないという前提が崩れた場合には、なおのこと策源地攻撃能力は抑止の手段という以上に、意義をもってくると思います。ただし、くどいようですが、米軍の抑止力といわば二重投資となる部分もでてくるので、同盟の信頼性を高めることと補完的な形で行うことがいずれにせよ、大切だと思います。

 この問題は、台湾海峡の問題にもつながってきます。2008年以降でも、台湾海峡で米中が直接、攻撃しあう事態は、ほとんど生じないだろうと思います。これは主として中国側の合理性にかかわりますが、負けるとわかっている戦争を行うほど中国の指導部が愚かではないということが前提になります。この前提が成り立つかどうかについては、議論があるようですが、最後は核抑止が効いてきます。表現が悪いかもしれませんが、中国に人命軽視の風潮があっても、自国の体制が維持できない事態に直面することができないでしょう。ただし、中国は、戦力の近代化と大陸間弾道ミサイルの整備には強い関心をもっているので、侮ることはできませんが、逆にいえば、自国が劣勢にあるということを理解しており、劣勢の下でアメリカ相手に戦争をするリスクをとる可能性はほぼ無視できると思います。

 万が一の場合、通常戦力に限って言えば、実質的にはアメリカの戦力を補完する形になるでしょうが、日本が策源地攻撃能力をもつことは、アメリカの利益と共通するでしょう。ただし、何度でも繰り返しますが、これは外交による共通の利益を顕在化する努力がなければ、アメリカの猜疑を招きます。敗戦国の再軍備は、神経質すぎるぐらい外交による共通の利益の顕在化を行う努力がなければ、非常に危うい部分があります。現実的には、いまの日本に領土の拡張などを目的とする古典的な戦争を行う可能性はゼロといってよいと思います。しかし、それを他国が理解するかどうかは別です。本題からそれるので深入りはしませんが、戦後の安全保障戦略の混乱は、敗戦国の再軍備というデリケートな問題の本質に触れることなく、議論が行われてきたことにあると思います。非国民と言われてもかまわないのですが、戦争をしかけて負けただけで悪魔のように扱われるのは、国際社会ではやむをえない部分があります。そのような認識が、現状を正しく反映していないとしても、です。現状を正しく他国に認識させるためには、単なる広報に留まらず、戦略的意図を明確に表現した上で、行動することが不可欠です。

 最後に、核抑止論ですが、私はこの問題には不案内です。中国が本気でアメリカと覇を争う気があるとすれば、核の問題に行き着くと思います。他方で、核抑止論は実証のない空論が多いという批判もあるようです。間違いがないのは、敵対的な関係にある双方のうち、一方に抑止力が全くない場合、どうなるのかということは、不幸にもこの国が経験しました。この問題に関してはアメリカがなぜ原爆投下に踏み切ったのかなど延々と議論があり、感情論も入ってくるのですが、冷たく言えば、交戦状態にあって一方が核をもてば、事実上、反撃する能力のない相手に使うのは力学的な要素になってしまうということでしょう。また、冷戦期には最初に述べた抑止一般に関する素人的な発想の第2の点に関しても、相互信頼醸成措置などによって米ソの間には互いが合理的であるという「信念」を共有する基盤が形成されていました。米中にはそのような基盤はありません。これは批判的に検討して頂きたいのですが、まず、第1にアメリカから見て中国とそのような措置を行うほど、中国の核の脅威が切実なのかどうかという問題です。警戒を怒ったっているとは思えないのではありますが。MDと中国という国を過去形にできるほどの核戦力をもつアメリカが、どのように中国の核戦力を分析しているのかという点です。第2に、台湾海峡では武力行使も辞さずという姿勢を中国側が崩さなければ、中国との交渉は無価値であるということです。これは、北朝鮮の外交よりもはるかにあやうく見えます。こちらが本質的な問題であると私は考えます。

 台湾を併合するためには、直接の武力行使までゆかなくても、武力による威嚇が不可欠でしょう。統一という中国の目的を達成するためには、通商の利益だけでは非常に困難だと思います。通商の利益で国境が決まるのなら、日米はとっくの昔に合併し、その日米に飲まれる形で中国を含むアジア諸国も併合されるでしょう。子供じみた議論のように聞こえるかもしれませんが、台湾海峡の問題を両岸の経済的利益からのみ議論する傾向はいまだに強く、その前提がバカバカしいことに気がつかない方が多すぎる気がいたします。台湾を併合するためには中国に武力の威嚇が必要であり、そこにアメリカが介入する隙を与えないようにするためには、結局は核戦力の強化にゆきつかざるをえません。外交上のトリックを弄しても、岡崎先生が指摘されているように、台湾関係法がある限り、アメリカが介入する可能性が十分にあるからです。中国に危険な道を歩ませないためには、台湾の民主主義の維持にアメリカの行政府も明確にコミットし、事の本質が朝鮮半島をめぐる状況と同じであることを中国に理解させることが不可欠でしょう。最初に述べた抑止の第2の前提を中国が満たしていることを中国側に明言させるためには、アメリカのコミットが不可欠だと思います。日中「友好」は、そこから始めても十分でしょう。日本が台湾海峡の問題に直接コミットする胆がないのなら、まずは具体的に事態を定めずに事態に日米共同で対処する(集団的自衛権の行使にいらざる留保は不要)姿勢を明確にすることが不可欠だと思います。主として想定される事態が朝鮮半島と台湾海峡であっても、それを明言しないのが同盟の基本でもあります。ただし、日本が戦略的意図を明確にしない場合、敗戦によってえた自国の生存にとっての致命的な資産である日米同盟を失う可能性があることを今日でも無視できないことを忘れてはならないと思います。

2006年08月30日

北朝鮮情勢(2006年8月30日)

 岡崎研究所HPに岡崎先生の「新しい台湾問題」が掲載されていて、あらためて論じようと考えておりましたが、その前に喉元に引っかかる問題があります。北朝鮮の情勢です。私自身が勉強不足、消化不足の点があり、記事として生煮えの部分が多いことをお許しください。

 シャイローの横須賀入港が報じられていますが、私の勉強不足でMD運用の一貫として「予定通り」に配備されたのか、北朝鮮情勢の対応によるものなのか、現時点では不明。『産経』朝刊(平成18年(2006年)8月30日)では「安全保障新時代 第11部 敵基地攻撃論2」として「北ミサイル 日本着弾シミュレーション」が掲載されています。興味深い記事ですが、もう少し、シミュレーションの前提を明確にしないと、個々の描写には関心がわきますが、シミュレーションとしてはわかりにくい印象があります。時期設定が「20XX年7月5日」となっていて、北朝鮮が日本を直接ミサイル攻撃を行う時期がかなり曖昧になっている点が、別の意味で面白いです。どのような前提が揃うと、北朝鮮が日本に対して武力攻撃を行うのかということを吟味する必要があります。この点は、後でふれます。

 さらに興味を引くのが、『日経』夕刊(2006年(平成18年)8月20日の「北朝鮮の対中輸出額減少」という小さな記事。北朝鮮の対中輸出額が2006年1−6月期で1億9,900万ドルと同年前期比で14.6%減少したとのことです。同記事によると、対中輸出の減少は6年ぶりで、減少の要因として海産物や「鉄鋼」の輸出価格下落など経済的要因が効いているとされています。ただし、下半期(7−12月期)にはミサイル発射による政治要因でさらに落ち込む可能性が指摘されています。

 北朝鮮が日本を武力攻撃するケースとして、大雑把ですが、第1に、韓国を北主導で統一するために米軍の干渉を排除するために在日米軍基地を攻撃する場合と第2に北朝鮮が体制崩壊リスクに直面するケースとにわけてみましょう。第1のケースは、夢想的に聞こえるかもしれませんが、韓国政府の対応しだいでは北朝鮮が武力統一を目指す可能性は、非常に低いものの、ゼロではないと思います。その際、アメリカの干渉を招きかねない日本への攻撃が行われる可能性も低いでしょう。今回は、後者についてあらためて考えてみます。

 まず、北朝鮮の体制崩壊というときに、日本人の感覚では経済的困窮を考えますが、経済的困窮が続いても、北の体制はもつという特異な国であることは、ポスト冷戦時代に本格的に市場経済を導入するような「改革」もないまま、今日に至っているという点に注意が必要だと思います。北朝鮮の体制は、経済の従属変数ではなくて、国内の治安機関を金正日が掌握できるかどうかにかかっているというのが、安全保障の専門家ではコンセンサスです。したがって、一般国民の飢餓や経済的困窮は、体制を直ちに不安定化させるものではありません。

 ただし、私はちょっとした疑問があって金正日が治安機関を掌握するのにもカネとモノが必要です。北朝鮮、むしろ金正日の資金源は通常の交易によるものだけでなく、「地下経済」による部分もあります。この部分がどの程度であるのか、私は正確なデータをもっておりませんが、「地下経済」からえる資金は、アメリカによる適切な措置によって狭まっているようです。さらに、対中輸出が減少するとなると、治安機関を統治するための資金面での裏づけが非常に制約され、体制崩壊リスクが上昇するでしょう。ただし、どのレベルまで北朝鮮の経済的困窮ではなく、金正日の自由にできるカネが減少すれば、そのようなリスクがどの程度、上昇するのかは、かならずしも明確ではありません。

 『産経』のシミュレーションでは、金正日がクーデターを鎮圧して権力を握ったまま、国内体制を再構築するために日本を攻撃する事態が想定されています。体制が崩壊する場合、体制の変革者は、軍や治安機関などが想定されますが、クーデター前後で、金正日は自暴自棄になってミサイル発射を行えるかどうかは予測が難しいです。クーデターの首謀者がアメリカの介入を招くような攻撃を妨害する可能性があるからです。この種のシミュレーションを行うことによって、現在の日本の防衛体制の問題点を洗い出すというのは大切だと思います。他方で、北朝鮮の「意図」に深入りしすぎると、神学論争になりかねない印象があります。

 北朝鮮のミサイルで懸念すべきはノドンミサイルです。正確な数字を把握しておりませんが、200基程度という推計があります。北朝鮮の発射能力を私は把握していないので、これが一斉に発射することが可能なのか、数基程度なのかはわかりません。ただし、これらのミサイルが攻撃の手段として用いられた場合、核開発も重要ですが、核爆弾を搭載しなくても、BC兵器やプルトニウム(核爆発する必要はありません)などを弾道に搭載するだけで、発射能力によりますが、数百万単位で日本人を殺すことが可能です。能力の面から見れば、北朝鮮は脅威であり、体制の維持可能性に不確実性がある以上、意図にかかわらず、これを無力化する必要があります。

 ノドンミサイルが固体燃料で稼動するタイプだと、防御は非常に困難になります。液体燃料の場合、発射準備までに策源地攻撃を行う余地が十分に生じます。憲法との関連での法整備や国防の本質論などの議論は大切だと思いますが、潜在的な脅威を常に念頭におきながら、不作為にも、過度に攻撃的になることもなく、事態に対処する現実的な対応が必要だと思います。できれば、安全保障上、具体的に予測される事態へどのような対応の手段が望ましいのかという点から自衛隊が任務を遂行する上で必要な選択肢を明確にすることが、現状では最も大切だと思います。私自身は、北朝鮮の「脅威」を過度に重視するあまり、国防の長期的な展望が軽視されることを警戒してきましたが、北の「脅威」への対応の議論から入ったほうが、日本人に見たくない現実を見る上では、効果的であると認めざるをえません。

 北朝鮮以上に中国の軍事的台頭はより長期的にははるかに深刻な問題です。この点については、またあらためて論じます。

(追記)下線部を訂正いたしました(2006年8月31日)。

2006年08月29日

季節外れのニューイヤーコンサート

 気がつくと、あと3ヶ月とちょっとで年が変わるのですね。私は人付き合いが悪くて、みんなでわいわいとお酒を飲む機会も一月に一回程度です。自宅ではいっさいお酒を飲みません。例外は、年末・新年の時期です。とくに、ニューイヤーコンサートはお祭り気分で、いそいそとオードブルから料理まで自分の気の済むまで準備して、コンサート直前に赤ワインを開けて楽しみます。高いワインは私にはネコに小判なので、3,000円程度の安いワインで十分です。今年などは、年末に忙しくてスーパーで1,000円ちょっと赤を買いましたが、意外とおいしいのでびっくりしました。

 ワインを飲みながら、オードブルをつまんでいると、出来上がってきます。一度は生でみたいものだと思いますが、テレビだと音質はどうにもなりませんが、バレエが美しくて目を楽しませてくれます。衣装や優雅さもさることながら、肉体がしなやかで健康美を感じます。私は、運動神経が鈍い上に、体が硬く、加えてデブなのでご縁がないのですが、ちょっと憧れます。

 ジムにバレエの教室があるのですが、レッスンが終わった後でスタジオから出てくる方たちを拝見していると、女性がほとんどですが、姿勢がとても美しくてつい見とれてしまいます。男性のきりっとした姿勢とは異なる柔軟さがあって、それでいて背筋がすーっとしていてつくづく美しいなあと思います。変な人と間違われないようにレッスンを見たことがあるのですが、素人目には判らない部分が多いのですが、思った以上にハードな感じで、白鳥が優雅に踊りながら、水面で必死に足を動かしている、そんな印象をもちました。やはり、美しいと感じるバレエも、ふだんのトレーニングがあってのことなんだなと、平凡ですが、感じました。

 バレエほどの効果があるのかは疑問ですが、ピラティスやヨガをやっていると、以前より姿勢がよくなってきている気がいたします。性根が曲がっているのは、どうにもなりませんが。バレエをやっている方を見ると、筋肉質というほど筋肉が目立たないのですが、バレエの参加者の方がヨガのレッスンに参加していると、とても、きれいにポーズを決めるので、とても、あのようにはなれないとは思いながら、励みになります。性根が曲がっていても、しなやかな体作りをしたいものだと思います。できれば、性根の曲がったところもまっすぐになればよいのですが。

 ニューイヤーコンサートの衛星放送で流れるバレエは、超一流の方によるものですが、私のように市井の者でも接する方たちは美しいです。クラシック、バレエと並べると、鼻持ちのならない人間のように思われるかもしれません。聴衆や観衆を相手に魅せるということを意識するということは、聴衆や観衆には見えないところで途方もない努力があることを実感します。私は、「天上天下唯我独尊」と皮肉られることが多いのですが、やはり少しは他人の目を気にした方がよいのかなと思います。美しく見られたいということではなく、ある種の高度なコミュニケーションに関する感性が自分でも鈍いなあと思います。

 それにしても、クラシック好きというだけで嫌味な人間のようにとられてしまうのは残念です。クラシックを楽しむには敷居が高いのは事実だと思いますが、コンサートに行くと、ポップスなどと変わらずに、演奏者と聴衆のコミュニケーションであるというのは変わらないように思います。プレゼンする側は、聴衆を楽しませようとし、聴衆がそのメッセージに拍手やアンコール(形式的ではありますが)などで答えるという点では、クラシックやバレエとポップスその他の現代の「クラシック」とは大差が内容に思います。発信する側も、受け手の側も場を共通して楽しむことが、原点だと思います。このブログも、そのような形に進化してゆければと存じます。
posted by Hache at 06:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言

2006年08月28日

ピラティスと呼吸

 この話題を書くと、mitsuさんに「看板に偽りあり」と怒られそうなので、おっかなびっくりです。私が「時の最果て」で書くことはすべて「寝言」ということでお許しください。

 ピラティスを始めて1ヶ月がたちましたが、なかなか上達しません。動作そのものは初級に毛が生えた程度なので、難しいことはありません。正確に表現すると、仰向けに寝ている状態でいえば、ニュートラルポジション(下腹部がマットと平行な状態。骨盤がやや浮き気味になるの腰が自然と軽く浮き気味になります)とインプリント(恥骨がやや盛り上がって腰が自然とマットに押し付けられた状態)をいろいろな姿勢で繰り返してゆく場合が多いのですが、動作に気をとられていると、骨盤や腹横筋の動きを意識せずに、意味のない動作を繰り返してしまいます。私は、初心者なので複雑な動作を何回も行うこと以上に、正確に動作の意味を理解して自分の体の、どこを鍛えているのかをできるだけ意識するようにしています。

 さらに、難しいのは呼吸です。参加者の多くは女性なのですが、私は男です。ピラティスでは胸郭呼吸を続けるのですが、これが意外とつらいです。ふだん、まったく意識しませんが、私は腹式呼吸をしています。作業をして少し疲れたなあと思うと、手のひらを上にして腕を伸ばしてゆったりと左右に揺らす癖があります。ピラティスを始めて気がついたのですが、若い頃とくらべて呼吸が浅くなっていて、しかも、息を吸ったときにお腹がふくらんで吐くときにお腹がへこみます。ピラティスをやっているときには、お腹をへこましたまま、息を吸ったときに肋骨が開いて胸がふくらみ、吐くときにもお腹をほぼ同じ状態で胸がへこみます。レッスンのたびに説明を受け、分かった気になっているのですが、いざ動作をすると、この呼吸が実に難しい。これを意識して保ちながらエクササイズをしているつもりなのですが、お腹から力が抜けていて胸郭呼吸ができていないことも多いです。呼吸を無視して動作をしても、あまり意味がないので、意識して正確な動作をするしかありません。

 骨盤の動きもまだまだ意識しないと、単なる動作にすぎなくなってしまいます。動作そのものは単純です。今、やっているレッスンで最も単純なものでは、まず膝を軽く立てて上半身をマットに垂直に立てニュートラルポジションをつくります。そこから軽くインプリントして両足を浮かせます。そこから、さらに腸骨と肋骨を引き寄せて背骨がCカーブを描くと、からだがごろんと倒れます。その状態から、お腹を引き締めてあがるだけなのですが、呼吸が乱れたり(はあはあするのではなく、胸郭呼吸を保つ)、反動を使ったりと動作に意味がなくなります。実際にはさらに複雑な動作を行うための基本なのですが、それでも意外と難しい。この動作を意識して行うだけで汗がでてきます。たぶん、自然にできるレベルではないので他の筋肉に余計な力が入っているのでしょう。さらに複雑な動作になると、軽く走ったときよりも、大量の汗が出ます。一緒にレッスンを受けている方を見ていると、私みたいに汗をかいていないので、基本ができていないのかなと不安になります。

 ヨガも難しいのですが、ピラティスの方が私にはより難しく感じます。とにかく呼吸が普段と違うので、意識せずに自然とできるようになるためには、いったい、どれほど時間がかかるのか…。よく言えば、凝り性なのですが、実は、そんな美しい話ではありません。最初のレッスンで本当に汗まみれになって、動作も思い通りにゆかずに悔しくて悔しくて…。基本的に負けず嫌いなんですね。長距離も、小学生から始めたのですが、よくいえば克己心、ぶっちゃけいえば、自分が自分に甘いのが腹が立って意地でやっておりました。最初に高橋尚子の顔を見たときに、負けたと思いました。だって、意地っ張りさではあの顔には勝てません。克己心というと、美しいのですが、要は自分に偏狭だということで、世の中のことにも偏狭になります。先週、自分で書いた記事を読みながら、苦笑しました。相変わらずですね。心が狭い(高橋尚子は、根はいい人だと思いますよ)。この性格だけは、ピラティスをやろうが、ヨガをやろうが、治りそうにありません。

 ここで、ただでさえ下らない記事の水準が落ちるのですが、グループエクササイズをやっていて気がついたのですが、女性は大変だなあと。胸が揺れるのがつい目に入るのですが、あんな余計なもの(もちろん、育児の上では大切ですが)を抱えて運動するのは辛そうに見えます。あんなものなくてよかったと思いますね。かわりといってはなんですが、お腹の周りの肉がついて自分でも暑苦しいのですが。

 どうせ、不届きなことを考えてジムに行ってるんでしょ、と考えたそこのあなた。

…。

…。

…。

…残念(みのもんた風)。

 はっきり言って、いかがわしいことを考えている余裕などありません。というよりも、そんなことすら忘れて体を動かすことにすべてを集中して世のもろもろのことを忘れたいんです。たぶん、こんな鄙びたブログを読んでいる方は、男性がほとんどだと思うので、女性がいる場では書けませんが、どうでもいい女性の胸なんて、どうでもいいです。この点は、偏狭な人間らしく、関心のない女性にはまるで関心がわかないですね(痴漢の話題になったときに、「どこの誰だかもわからない。風呂に入ったかもわからない体にさわるなんて、カネをもらってもいや」と言ったら、口をきいてくれる女性が減りました(涙))。ただ、いざというときに開けてみたら、昔風の「よせてあげて」だったときは、女性というのは大変だなあと。男性の資質というのは、そのときに女心を「かわいい」と思うのか、白けるのかで決まると思います。私は…。訴追の虞はありませんが、黙秘いたします。これはピラティスをやっても、どうにもならない「呼吸もの」でしょうか。
posted by Hache at 07:25| Comment(2) | TrackBack(2) | 健康な?寝言

2006年08月27日

お引越し

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:うーむ、この御仁ばかりは…。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、おぬしか。
ボッシュ:…。「時の最果て」は変わっても、時の最果ては変わらぬのお。
ハッシュ:ほお?
ボッシュ:あのデブめ、ブログを変えよった。名前はそのままで、いったいなんじゃ?
ハッシュ:なんのことだろう。…ああ、思い出したぞ。なにやらアルファベットとか数字とかで表わされている名前を「時の最果て」にしたかったらしい。「http://the-end-of-time.sblo.jp/」とすると、日本語で時の最果てとなるのがよほど嬉しかったらしい。ただ、あのデブめ、ぬけておって、「http://at-the-end-of-time.sblo.jp/」とするんだったと叫んでおった。
ボッシュ:…。くだらん。前はどうだったんじゃ?
ハッシュ:たしか「http://journalintimedehache.cocolog-nifty.com/negoto/」だったかな。「ハッシュの日記:寝言モード」というところらしいぞ。
ボッシュ:…。どうでもいい話じゃな。
ハッシュ:まあ、あのデブも「引越し」でてんやわんやだったようじゃ。
ボッシュ:それならワシの方が忙しいぞ。いよいよ、新装した店が来月からスタートじゃ。
ハッシュ:ほお。それはなかなか大変そうじゃな。
ボッシュ:こんなところでボーっとしている方には理解できんじゃろうが、調理器具から什器類、ワシの自慢のコレクションまでぜーんぶ、新しい店に運び込むんじゃ。もっとも、今の店からそんなに遠くないから、運転は店長に任せて店総がかりで作業じゃ。
ハッシュ:おぬしのコレクション?
ボッシュ:ワシの「作品」じゃよ。剣に盾、あとはガルディアで手に入れた絵、高価なワインなどじゃ。さらに、ガルディアで手に入れた珍しいテーブルと椅子なども好評だったから、せっせと運び込んでおる。来週には、新天地で商売じゃ。
ハッシュ:店は休みなのか?
ボッシュ:実は、お盆が空けて客人が減るんじゃないかとひやひやしておったんじゃが、意外と好調じゃ。ありがたい話じゃ。ワシの顔を見て「ボッシュさん、顔が黒くなって若返りましたなあ」などとからかわれて恥ずかしい限りじゃ。
ハッシュ:そういえば、肌が少し黒いのお。
ボッシュ:実は、お盆のときにシェフの家族と店長とで海水浴にいったんじゃ。シェフめ、なかなかすみにおけぬ。奥さんはきれいで、子供は可愛い男の子に女の子じゃ。「ボッシュじいさん」と呼ぶと、シェフが慌てて「ボッシュ兄さん」と呼びなさいなんて言うから、「じいさん」でええよと平和なもんじゃ。もう歳ゆえ、水着というより上半身だけ裸で下は半ズボンみたいなもんじゃな。
ハッシュ:おぬし、その体で上半身をさらけだしたのか?
ボッシュ:…。失礼な。あのデブよりはマシじゃ。
ハッシュ:そういえば、あのデブ、なんか必死じゃ。
ボッシュ:どうせ暑苦しい話じゃろ。
ハッシュ:なんか、マットとかいうものに寝そべって膝を立てて変な格好をしておったのお。お腹をへこましては、脚をあげたりして、若いお姉さんに「下手くそ!」とか怒られておったわい。
ボッシュ:…ワシにはわからぬが。
ハッシュ:最後の方でお姉さんから「みなさんにプレゼントがあります」と言われてのお。途中でへたばっておったわい。帰り際に「そのうち10倍にして返しますよ」とか負け犬の遠吠えじゃな。
ボッシュ:まあ、ようわからんが、熱心にやることはいいことじゃ。ただ、恨みはよくないな。まあ、あのデブじゃ、所詮は負け犬の遠吠えじゃろうが。
ハッシュ:そういえば、なにやら「恨みはよくない」とかぶつぶつ言っておったのお。
ボッシュ:おぬしの寝言、あのデブの「寝言」に付き合うのも疲れるのお。ワシは仕事があるゆえ、そろそろ帰るぞ。
ハッシュ:また、おいで。

 …。時の賢者様は、どうして恥ずかしいことばかり暴露するのでしょう。ピラティスの中級編に苦労しております。ちょっと動作が複雑になるだけでニュートラル・ポジションを保ったり、インプリントを正確に行うのが大変です。私がとろいだけかもしれませんが。

 ブログの「お引越し」自体は、あっけないほど簡単でした。インポートを3回も行ったせいで過去ログの件数が3倍に表示されていることを除けば、快適です。お遊びでアクセスカウンターをつけてみましたが、自分でもこれはいかがなものかと。命の賢者様のお店とは対照的に、閑古鳥が鳴いていることを示しているようなもので、外そうかと迷いましたが、恥を晒すのも一興かと。ブログが一周年を迎える頃に50,000の訪問者の方々にきて頂ければと無謀な夢をもっております。

 今週は、岡崎先生の論稿に関する記事が「メイン・ディッシュ」になりました。私は他のブログでもっと問題視されるのではと思っておりましたが、思った以上に反応が少なかったです。mitsuさんへのコメントでも述べましたが、私自身は、遊就館の展示など、自分でも納得のゆく整理はできておりません。

 この問題を離れて、この国が道を誤るとしたら、英米への怨恨感情だと考えております。戦前の日本の人種差別にたいする異議申し立ては、現代からみて正当なものであったと思います。しかし、世界恐慌を経て満州事変を起きると、対外硬の世論が強くなります。1941年の日米開戦前夜は、対外硬の世論に歯止めを欠ける政治指導者は誰もいませんでした。このプロセスを正確に説明する能力はありません。ただ、いろんな分析を拝見しながら、なかなか納得がゆかないときに岡崎先生の『重光・東郷とその時代』を拝読して、日英同盟破棄以後、日本の主張が国際的に認められないときに同盟国であったイギリスへの怨恨感情、自らの理念に反するものに非妥協的な(人種差別問題では日本側の主張がまっとうだとは思います)アメリカへの憤激などが、背景にあったという補助線を私なりにひくことができました。邦人排斥の問題ではアメリカは自らの修正してゆきますが、当時の日本人にはアメリカへの憧憬の裏返しという側面もあったのでしょう。戦前の歴史を感情面から捉えると、それで歴史が説明できるとは思いませんが、あのような錯誤が生じた背景に理解が深まると思います。

 問題は、現代の日本です。中韓の靖国参拝に対する対応、安保理入りに反対する中国の反日デモなどには、多くの日本人が怒りました。私もそうです。しかし、それで国を誤るほど、排外的なナショナリズムが高まる懸念はほとんどありませんでした。先の大戦でこの国は敗戦国となりましたが、中韓に負けたという感覚は希薄だと思います。もちろん、両国がわが国に武力でもって攻撃を行えば別ですが、感情論にある程度、歯止めがかかる部分があります。

 他方で、日本はアメリカに敗れました。日米開戦に至るプロセスは、双方の過誤の積み重ねであったと思います。コミンテルンの暗躍などもあるのでしょうが、基本的にアメリカは日本をあまりに軽く見ていたと思います。他方で、日本の政治的指導者は対外硬の世論を抑えることはできませんでした。私があの時代に命を捨てる覚悟で政局にあたったとしても、これを抑えることは100%不可能だったでしょう。日米開戦が必至であったという見方は一面的だと思いますが、これを避けることも難しい状況であったと思います。

 イラク戦争では他国と比較しても、反米的な言辞ははるかに少ない状態でした。小泉−ブッシュ関係の良好さは、失礼ながら、ちと気味が悪いぐらいですが、この数年間の日米関係を極めて良好にしました。しかし、いつの時代にも錯誤はあるものです。現代の日本人が、戦前の日本人よりも怜悧であるのかどうか、私は懐疑的です。同時代人をバカにしているわけではありません。このブログは、どちらかと言えば、「保守系ブログ」に分類されているようですが、私にとってはどうでもいいことです。私が強いて保守的であるとするならば、人間というのはそんなに急に進歩するものでもないとか、「日の下に新しいものなどなにもない」という程度の感覚でしかありません。話がそれましたが、アメリカも過誤をするかもしれません。仮定の話にすぎませんが、そのような状況でも冷静に日本人が事態に対応することができれば、この国はまず安泰だと思います。小泉総理の靖国参拝が終わり、国民の多数がこれを支持する状況の下で、靖国神社の「改革」が行われていることは、率直に日本人として感慨を覚えます。

 このブログのサブタイトルである、「他人がそうであっても、お前はそうであってはならない。 "Aliis licet: tibi licet,"−"others may: you mayn't."」は、戦後史が衰退史ではなく、幸福な興隆の歴史であったと矜持をもって語れる国になる、そんな願望をささやかながらも、表現したものでもあります。

2006年08月26日

勝者の論理 phlegm and truthfulness

 ショックなことにさっきまでテキストエディタで編集していた記事が保存できませんでした。泣く泣く強制終了しました。文章に勢いがなくなっていますが、簡潔にまいります。

 24日の『産経』正論欄にに岡崎先生の論稿が掲載されていて、G.F.Willの"The Uneasy Sleep of Japan's Dead"(Washingtonpost, Sunday, August 20, 2006)を読みました。迂闊な話ですが、遊就館の展示説明にこんな惨めな部分があるとはしりませんでした。ルーズベルトに匹敵するような政治指導者が当時の日本にいなかったとは思います。しかし、不況を克服するための陰謀のせいで戦死して靖国に祀られている方も、祀られていなくても亡くなった方もこれではあまりに惨めすぎます。

 事の顛末は『溜池通信』の「不規則発言」(2006年8月25日)に詳しいので、御覧になっていない方は、そちらをお読みください。当方は、この間の事情には疎いので、いつものように「寝言」を綴ります。

 以前の記事で"british phlegm"という言葉について騒いだ顛末を書きました。この言葉は、非常に訳しにくいです。手元の辞書で見ると、"calm"の類義語となっていて平静と訳すのがよいのでしょうが、私の感覚では事実を直視して動じない態度です。お題の"truthfulness"も訳が難しい。こだわらなければ、誠実という訳が適切なのでしょうが、私の感覚では真実を語ることを恐れない態度となります。英米圏の優れた方に見るのは、この二つの美徳です。英米圏の独占ではありませんが、やはり抜きん出いている印象があります。

 この記事は、前回の記事の続きという位置にあるのですが、"phlegm"にしても"truthfulness"も、科学的精神のように、よくいえば真実を求める精神、悪くいえば形式的な精神とは重なる部分もありますが、もっと曖昧で処「生」術に近いものがあります。今日は、歯切れが悪いですねえ。要は、貴族的精神の要だと思います。この言葉は、縁なき衆生である私が使うのは含羞と躊躇がありますが、品格ともいえるのでしょう。このようなものを言葉で表わすとなると、私の手に負えませんが、トゥキュディデスやカエサル、チャーチルなどは濃淡はありますが、文章によってこの精神をよく体現していると思います。

 もっと露骨に申しましょう。"phlegm"と"truthfulness"というのは勝者の精神です。トゥキュディデスは国が敗れたために、『戦史』を残したので違和感を覚える方も少なくないでしょうが、絶頂期のアテナイを経験しているからでしょうか、やはり他の二者と同じ精神を感じます。その後、アテナイの崩壊を目の当たりにした分、彼の洞察は他にない深い人間味を感じます。

 他方、カエサルは『ガリア戦記』という「難題」を後世に残しました。塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語?』も、私には『ガリア戦記』に敗れたたくさんの作品の一つに映ります。塩野さんをけなしているわけではなくて、対象が悪いんす。"phlegm"と"truthfulness"を一身に体現していた時期のカエサルが、自ら残した戦記以上の「作品」を生むのは無理があります。むしろ興味深いのは、塩野さんがあの巻を書くにあたって参考にした文献の多くは、イギリス人の手によるものであり、散々、イギリス人をからかいながら、最後にはひれ伏している(あの時期にはまだ一筋縄ではゆかない方だったでしょうが)ことです。大陸諸国もそれぞれ固有の伝統と文化をもち、貴族的精神ではイギリスにはないタイプの傑物も生んでいますが、イギリスの層の厚さにはかなわない印象があります。

 ふと、英米の歴史を見ると、ヨーロッパ大陸の強国が征服しようとしてきたところを迎え撃っては破っています。オランダのように言いがかりのような口実でやられた国もありますが。鶏が先か、卵が先かという議論になりかねませんが、イギリスは19世紀まで自らの力で自国の安全を守り、20世紀にはアメリカとともにドイツ、ソ連の挑戦をしりぞけています。このような歴史が二つの美徳、すなわち"phlegm"と"truthfulness"という美徳を涵養するのに不可欠であったと考えます。「値段」の話から遠く離れてしまいましたが、政治・経済を問わず、一貫した価値の体系を築くには背後に血で自らの安全を守ってきたという歴史があったと思います。自分でも、かなり強引な議論だとは思うのですが。

 この二つの美徳の対極にあるのが、卑屈さです。自分の主張を事実に基づいて整合的に他者に説明することができないことを示している態度です。岡崎先生とWillの文章を拝読して敗戦国というのはここまで堕ちてしまうのかと暗然とした気分になりました。幸い、靖国神社が対応しているとのことで救われた気分になりました。思うに、この二十年間以上、靖国参拝を国際問題化しようとする国内の卑屈な人たち(私には彼らが敗戦によって最も卑屈になった日本人に映ります。安保反対を叫んでいた左派の人が「米軍は『傭兵』だ」などと発言して二度と口を利かなくなりました。左派の人たちがすべてそうだとは申しませんが、私はこの手の手合いだけは受け付けられません)に攻撃されているうちに、頑なになってしまっていたのかもしれません。もう一度、慰霊という原点から靖国神社の現行のあり方を前提にして静寂な環境をまずつくって、靖国神社が頑なになってしまった部分を多くの人たちの共感がえられる形で、できうる限り、神社が自発的に手を入れてゆくことが肝要だと思います。

 本題からそれてしまいましたが、私は岡崎先生は、現代の日本人で数少なない、二つの美徳、"phlegm"と"truethfulness"を保たれている方だと尊敬しております。伊藤師匠が引用しているFTの記事では"rightwing political commentator"と紹介されていて、私も右翼、ないし右派?と思いました。右だの、左だの、鳥類でもいいんですが、こういう分類は人間の性ですかね。バカバカしい限りですが、自由な社会でも不自由はあるんだなあとぼんやりと思いました。宇宙の歴史の前では人類など一抹の夢。一抹の夢なら、結果はともかく自由に生きることが、なにより美しいと呟きます。
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2006年08月25日

会社のお値段 政治のお値段

 さて、本格的に再開いたします。まずは、事務的なことから。旧「寝言@時の最果て」では2006年5月18日から2006年8月23日まででアクセス数合計49,950、訪問者数27,793でした。累計アクセス数が73,361ですが、5月18日以前の訪問者数(IPベース)がわからないので、アクセスカウンターの初期値は27,793に設定しております。このカウンターがなかなか厳しい基準で管理画面で見ると、訪問者数が5倍ぐらいあるのですが、JAVAとCoookieの設定が緩めでないと、ユニークアクセスとして勘定しないようで正常に機能さえすれば、ココログの方が便利な印象はあります。アクセス数を無理にリアルタイムで管理画面に反映させようとしなけりゃよかったのにと思います。「さくら」は無理をしていないので、訪問者数が多めに出てしまうのを除けば、安定している感じがいたします。それにしても、管理画面を除いていたら、公表以前に私以外にこちらにアクセスしている方がいて、ネットの世界も狭いものだと思いました。

 あと、ログのインポートを繰り返しているうちに過去ログの記事数が「インフレ」してしまいました。2006年2月から7月までは記事数の3倍になっています。数が異常な値を示しているのは、上記の理由によるものです。基本的にレンタルサーバですので、ポータビリティはよさげ。ココログはプラスからベーシックに移行しましたので、当面は放置しておきます。なお、ココログの方は、新規コメント・トラックバックは受け付けない状態になっておりますので、御理解ください。

 さっそく雪斎先生にコメントを賜り、恐縮です。引越しをして気がついたのですが、最近、「寝言」らしい「寝言」を書いておりません。過去ログを見ていると、忙しいときほど、どうでもいいことを書いているような気がしました。『日英同盟と日本海軍』シリーズは中断しておりますが、9月末まではお休みする予定です。

 今日は、「お値段」に関するちょっとした「寝言」です。ぐっちーさんが王子製紙によるTOBで勉強になることを書かれていて助かります。私が学生だった頃は、アメリカの合併・買収を横目に大学の先生が「会社に値段をつけて売り買いするなどけしからん!」と講義で言っているようなレベルでありまして、曲がりなりにもこの国も変わりつつあるんだなあと思います。

 小泉政権が発足して9.11をへた頃には株価は急落し、不良債権処理が喧しく議論された時期があります。私自身は、金融のことはさっぱりなのですが、やはり気になっていろんな方の意見を伺いましたが、最近になってふと思い出すのは、ある方から頂いたメールのなかの一節でした。

「日本人とアングロサクソン&Jewを比べて一番違うと思うのは、『何にでも値段をつけてしまう能力』ですね。ここだけはDNA的に違うと思えてしまいます。それ以外はどっこいでしょう」。

 私信を公開するというのは、不躾かもしれません。しかしながら、当時、聞いた議論のなかで一番印象に残っております。おそらくはメールを下さった方には御迷惑にならないと思いますので、そのまま引用させていただきました。「ハゲタカ」さんの行動にそんなに詳しくないのですが、不良債権処理にせよ、いま話題のTOBにせよ、日本人が値段をつける能力というのは確かにまだまだ鍛えられないと、大変です。私からすると、値付けをする能力が最も厳しく問われるのは、資本市場と芸術品・骨董品の市場と政治ではないかと。どれも、需給によって大きく動きますし、「値段」をつける目利きになるにはなかなか大変です。

 ちょっと待て。あんた。政治が入っているってどういうことよ?
政治に値段はないでしょ?

 甘い、甘い。選挙なんてまさに供給サイドからすれば「就職活動」、需要サイドからすれば「値踏み」そのものじゃありませんか。政策の優先順位を決めるという作業は、本質的には多数の変数からある整合的な選好を築くという点では値段をつけるという行為と本質的には同質です。「政治は商売じゃない」というお叱りを頂くかもしれませんが、功利主義の発想は経済学ではなく、むしろ政治や法とからんで発展してきました。日本ではこの種の発想は、非常に評価が低いです。どこかのHPに経済学や経営学をバカにされている記事がありましたが(無知を認めることを恥としないが、無知を克服する努力を怠るのを深く恥じる…べきじゃないかしらん?)、アメリカだと公立大学ですら、会計学のPh.Dをもっていて実績のある方だと年俸60万ドルのオファーがあったりします(ビジネス・スクールのおかげではありますが)。会計は、会計制度・実務はもちろん、経済学・経営学が理解できないと無理な学問なので、こんなオファーがでるわけです。お勘定も複雑になってくると、意識的な設計が不可欠になります。日本人が「DNA」的に英米やユダヤに劣るとは思わないのですが、複雑さがあるレベルを超えると、学として客観的かつ意識的に分析し、設計するという点では英米と越えられない壁を感じます。

 なにか日本でもっと経済学や経営学、政治学に力を入れるべきだという安直なことを申し上げようというわけではありません。江戸時代の先物市場の発達など日本人のもっている潜在的能力というのは侮ることができません。それが、なぜ、今ではこんなありさまになっているのか。軍事にせよ、経済にせよ、文化・芸術にせよ、一時的に興隆する時期というのは多くの民族が経験してきました。しかし、難しいのは、それを持続することです。こんな大きな問題に答えられるとは思いませんが、次回は、まったく別の問題を対象に別の角度から考えてみたいと思います。

2006年08月24日

ブログ移転のお知らせ

 ブログを移転することにいたしました。新しいブログのアドレスは下記の通りです。

http://the-end-of-time.sblo.jp/

 ココログではこの記事をもって更新を止めます。なお、当面、ココログにもブログを保存して、時機を見て解約する予定で降ります。今後は、上記のブログにて記事を更新いたします。今後も、鄙びたブログにお付き合いいただける方は、上記のブログで記事を御覧いただければ、幸いです。

 ブログ移転にいたる経緯を簡潔に説明いたします。2006年8月6日の記事で8月2日に新アクセス解析がアクセスが反映されない状態に一時的ですがなりました。ココログからのお知らせでは、当初、「約6分の1」のユーザーに影響があったと記載されておりましたが、現時点では65名となっております。この数字の変化にココログ側からの説明は一切ありません。

 既に8月6日の段階でココログのサポートに事情を連絡しておりましたが、誠意ある対応はありませんでした。言葉遣いはごく丁寧ですが、文面からウェブの知識のないユーザーがマニュアルも読まずにクレームをつけているといわんばかりの対応でした。その後、8月22日にアクセス解析に支障がでているお知らせがでましたが、当初、発表した内容と数字その他が変更されているものの、不誠実さを感じました。幸い、記事やコメントなどに影響はありませんでしたが、不誠実な対応に終始したプロバイダーは信用できません。以前から、カワセミ様からアドバイスを頂いて試験的に別途、運用しておりましたが、とくに支障もなく、必要以上のアクセス解析機能もついていないので、移転することにしたしだいです。

 当方の都合により、お越しいただいてきた方々に御迷惑をおかけしますが、ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。引き続き、お越しいただければ、これに勝る幸せはありません。
posted by Hache at 05:10| Comment(4) | TrackBack(0) | ウェブログ関連

2006年08月23日

総裁選をめぐる不寛容

(@不気味な大学の地下室)



勧誘員A:世の中には「相対的な幸福」と「絶対的な幸福」がある。
新入生(私):はあ。
勧誘員A:世の中はバブルで浮かれている。金儲けにあくせくして贅沢な車に乗ってけばけばしい女を抱いて阿呆のようだ。これが「相対的な幸福」だ。だが、幸福はそんなところにはない。幸福は精神に宿る。わがサークルは、絶対的な幸福を探求する場だ。
新入生(私):はあ。
勧誘員A:なんだか腑抜けた返事ばかりだなあ。君は、どちらを望むのか?
新入生(私):(きっぱり)相対的な幸福です!お金ほしいし、いい車に乗りたいし、できれば運転手つきがいいでしょう?きれいな女のヒトは大好きだし。○は、まだまだ経験不足だし。
勧誘員A:…………。お前みたいな堕落した人間の末路は悲惨だぞ!!
新入生(私):だってえ、自分の欲求に素直でなにが悪いんですか?
勧誘員A:貴様みたいな奴は!!
勧誘員B:待て。われわれは、君みたいな人とはご縁がないのかもしれぬ。いつか君の浅はかさに気がついたら、遠慮なくおいで。



 あるカルトとのやりとりをふと思い出しました。名前は忘れてしまいましたあ。誤魔化しているのではなくて、本当に忘れてしまいました。なんとか真理教ではなかったと思います。なんとか学会でもなかったと思います。実際はこんな生易しいやりとりではなく、お説教をしていた勧誘員の方が実際には本気で切れてしまって、身の危険を感じました。そういえば、過激派がヘルメットをかぶって授業妨害にきたときに、うざったくて「こんなところでヘルメットをかぶらずに、土方さんと方を並べて汗を流したらどうだ」と言って、二度と私のクラスには来なくなったなんてこともありました。



 大学に入って周囲の学生や教官を見て、「珍獣博物館」だなあと思いました。当時は授業料が年間で30万程度でしたが、見物料みたいなものかなと母上(大学にいっていないので、どんな凄いところだろうと期待していたようです)に報告したら、「もっとマシな大学に行きなさい!」と怒られてしまいました。歴史だけは古いそうで、入学式のときに本学は「来年で建学から百年を迎えますが」みたいな調子で誇らしげに語られていて思わず、笑ってしまいました。だって高校のほうがずっと古いんだもの。



 大学時代に珍しいものばかりを見ましたが、おかげで「日の下に新しいものなどなにもない」ということを次元の低いレベルで実感したしだいです。



 「思うに逆境や試練に耐えて成長する人というのは、今の世の中では希少価値であるのかもしれません」などとかんべえ師匠が書かれると、失礼ながら、お老けになったなあと思います。2001年4月の小泉政権の誕生の際には今よりも文章はこなれていなくても、輝いていた。時代ごとに逆境や試練はあるものです。いつの時代でも逆境や試練に耐えて成長する人は決して多くはないでしょう。たいていは、挫折したまま志を捨てるか、時代によっては命を落としたりします。たとえ志を曲げなくても、人間が偏狭になったり、かえって視野が狭くなって使いものにならない方が大半です。誰だって逆境や試練は、程度の差こそあれ、経験するものです。そこで鍛えられたと言う方よりも、そんなことを口に出さずに飄々と世を楽しんで市井で暮らしながら、小奇麗に生きている方のほうが頼もしく感じます。



 雪斎先生は、安倍氏のひ弱さを指摘されています。小泉政権は、前政権への極端な期待値の低さに助けられて、広範な世論の支持の下に誕生しましたが、期待値の高さにむしろ苦しんだ印象があります。現政権の発足当初を見ると、閣僚の配置からして「おニャン子クラブ」状態で派閥にとらわれないという点は満たしていたものの、混乱が続きました。権力の掌握はおろか、民意も政権に期待しない状態が2年近く続いていました。5年で「長期政権」というのも寂しいですが、ほどよく次期政権への期待値が下がることは次期総裁、ひいては次期総理が力みさえしなければ、淡々と権力固めをするには意外と悪くない環境だと考えます。ただし、安倍氏が次期総裁となったときに、憲法改正や安全保障政策の見直し、教育基本法の改正に本格的に取り組むとすると、連立のパートナーである公明党をどう扱うのかは、派閥がどうのこうのよりもはるかに難しいでしょう。政局リスクがあるとすれば、連立与党の枠組みの崩壊が問題だと思います。



 小泉政権が発足してから景気が急速に悪化した時期に、これだけ悪いのだから思い切ったことをやったらいいんじゃないのと思いました。今回は逆に次期総裁への期待値が低下しているのなら、控え目に思い切ったことをやったらいいんじゃないのと思います。ただし、今回の場合、どの候補でも現政権ほどの共感の広がりは期待できませんから、「説得」と「教育」が肝要だということは変わらないです。寛容に関していえば、反対する人たちを排除するのではなく、聞く耳をもった上で彼らの思い通りにならなければ十分でしょう。それにしても、安倍さんにしても、麻生さんにしても、応援する方たちの「不寛容さ」は、ちょっと度し難い印象があります。現時点で最有力とされている安倍さんが総裁になったところで思い通りに行かないことが多いでしょう。麻生さんも同じ。そのことにいちいち腹を立てていては、身がもちません。

 以和爲貴 無忤爲宗 人皆有黨 亦少達者 是以或不順君父
  乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成

 聖徳太子は、「和」を統治の手段として利用しようとしました。残念ながら、「和を以って貴しと為す」は、なあなあの象徴に、特に戦後は用いられるようになりました。「和」を統治の手段にするためには、「説得」と「教育」が不可欠です。現実には実現可能性という点で非常に厳しいとは思いますが、小泉後の諸懸案を解決するには、まず総理のリーダーシップの下で「内閣主導」という名の和の政治が不可欠です。寛容であることは、他人の意見によって左右されることを意味するものではありません。自分の政策を実現するために「説得」と「教育」を絶えず行っていることを印象付けることが肝要です。失礼ながら、外野の議論を伺っていると、空しさを覚えますが、外野よりもプレーヤーは怜悧な方たちであろうと思います。



 それにしても、コップの中の嵐ですね。私自身は、命あっての物種ですから、次期政権におかれましては、国内外の安全の確保にもっと力を注いでいただきたいです。

2006年08月22日

自民党総裁選と安全保障

 書きたいことがいろいろあって整理するのが大変です。まず、早実が夏の選手権初優勝とは恥ずかしながら、知りませんでした。高校3年生のときに2回戦から決勝戦まで母校を応援して甲子園出場を決めたときは本当に嬉しかったのですが、悪友が河合塾の京大対策とかいうしょうもない講座(もともと塾とか予備校とかバカにしていたので)を受けるのが一人では嫌で私を誘ってきたのでやむをえず名古屋へ。くだらない講義を聴いていたら、一回戦負け。それ以来、高校野球には興味がなくなってしまいました。戦前に夏の選手権で優勝が一回、戦後に準優勝が一回あるだけで大して強い学校ではないのですが、高3の夏以来、選抜に一回だけ出場するだけで後は音沙汰がなく、情けない限りです。



 かんべえ師匠の「ソージツ」で久しぶりにほろ苦ひ、かんべえ節を味わいました。これまでの私の心ない所業を反省いたします。さくらさんは麻生さんにラブラブ。安倍さんと麻生さんを並べてどちらかを支持しなさいと言われると、ちょっと苦しいです。「安倍さんとの違いについては、外交政策については『違う方が問題』として、大きな違いがないほうがいい」とさくらさんのところに書かれていたので、僭越ではありますが、やはり大人の方なんだなあと思いました。



 素人目には今回の総裁選は、いつも以上に、総裁選の中で行われる政策論議が総裁選後にも生きてくるように思います。地方行政というのは、大切な話だと思います。浜松に帰って驚いたのですが、私と同じく普通の暮らしをしている人の「反小泉」意識は思った以上に強いです。『溜池通信』208号(2003年10月24日)のタイトルは「日本経済3つの断層」です。3番目の「断層」として挙げられている中央と地方は昔ながらの問題(他の二つも)ではありますが、目先の問題に限定しても、来年の参院選に直結するだけに、真剣な議論が必要だと思います。



 雑談が長くなってしまいましたが、今回の総裁選でおそらくは主たる争点にはならないでしょうが、私が次期総裁に期待しているのは、安全保障政策で日米同盟の強化(集団的自衛権の行使)と基盤的防衛力の整備に関して国民的なコンセンサスをえることです。ここで大切な点は、両者は代替するものではなく、補完的であるという認識です。いつも同じことばかり書いていて恥ずかしいのですが、自国を守れない国は同盟国たりえません。そして安全にはカネがかかる。財政健全化や歳出削減は、財政の論理としては正当なものでしょう。ただし、その大前提は国が安全であるということです。そのためには、ヒト・モノ・カネが欠かせません。財政の論理だけで防衛費を削減してしまうと、前提を崩すとまでは申しませんが、自衛隊の選択肢は必要な範囲ではなく、予算の枠で決まるということになりかねません。財政の論理では、同盟強化と防衛力の強化(実際にはそんな景気のよい話ではないと思いますが)は代替関係になってしまう。これを補完的な関係であることを明確にすることが、次期総理に私が期待することです。これは、総理のリーダーシップなしではまず実現しないでしょう。



 次に、リーダーシップのあり方ですが、小泉総理タイプのあり方は望ましくないと思います。誤解のないように申し上げますが、郵政選挙の「批判」を2006年8月12日の記事で行いましたが、「説得」と「教育」という点で不足していたということを問題にしているのであって、共感をえるという点では小泉総理のリーダーシップは、おそらく現時点で総裁候補に名前が挙がっている方には真似ができないと思います。共感をえるということは、リーダーシップのなかで最も難しいことかもしれません。その点で、小泉総理は特異なリーダーであったと思います。しかし、国防の問題は、冷戦期とは異なった意味で世論が感情にぶれやすく、自衛隊やアメリカに過大な期待をしたり、極端に他国に攻撃的になる可能性もあります。世論のブレを瀬踏みしながら、国民の代表者を説得し、世論の理解をえるというリーダーシップが必要だと考えます。



 これは、いわゆる「調整型」のリーダーとは異なります。もちろん、政治的な取引の必要性を否定するつもりはありませんが、国防に関するコンセンサスは、ボトムアップではなく、トップダウンでなければ形成することは難しいでしょう。ただし、リーダーと意見が異なる人たちを「抵抗勢力」として攻撃する手法は、国防に関するコンセンサスをえるのには逆効果だと思います。国防に関するコンセンサスは、失礼ながら、道路公団民営化や郵政民営化よりもはるかに公共性の高い話です。事実、この問題に関しては小泉総理は、「構造改革」とは異なった「忍耐」をされてきたと思います。既に、小泉改革の評価が行われていますし、これからも行われてゆくでしょうが、小泉総理のリーダーシップのあり方は、決して郵政選挙のような劇的な手法ばかりではありません。次期総理は、小泉総理以上に「説得」と「教育」の能力が必要だと考えます。



 2008年以降はデリケートな時期に入ります。いろんな予測がありますが、中国共産党の一党独裁が続き、台湾の民主主義が動揺して台湾海峡が危険な状態になるというシナリオがリスクが高いだけでなく、蓋然性も高いと思います。総裁選ではこのような問題があからさまに争点になるとは思いませんが、どなたが総裁になっても、国防に関するコンセンサスを形成することが要になると思います。リーダーの能力として「説得」と「教育」が必要だと書きましたが、リーダーの資質として大切なのは誠実さと寛容だと思います。どんな政治的主張も党派性を免れることはできません。私の主張も党派的です。



 政治から党派性をなくすことはできません。しかし、主義主張の違いはあっても、共通の利害を顕在化させ、全員ではなくても、多数派のコンセンサスを形成させることが民主主義のリーダーの役目だと考えます。次の総裁選の課題は、「戦時モード」から「平時モード」への転換ではなく、いつ「戦時モード」に至っても、ブレが少ないできうる限り強固なコンセンサスを形成するという地味な作業だと思います。誠実さは党派が異なる方の信用をえる上で不可欠ですし、寛容さは議論を自由にします。さらに贅沢をいえば、真剣かつ地味でありながら「物騒な」話を明るく見せる遊び心があれば、いうことがありません。不謹慎なことを申し上げますると、真剣にやる物騒な話を私はつい楽しんでしまいます。



 あらためて思うのですが、経済の論理と安全保障の論理は、相性が非常に悪いように見えます。この問題は、この記事の趣旨(あるいは私の能力)を超えるので簡単なことだけ申します。ゲーム理論を用いた経済分析では経済主体間の対立が問題になりますが、背後には協力解を基準に判断する発想があります。もっと素朴にいえば、経済活動の基本は、市場全体での互恵的な関係です。対照的に安全保障の世界ではこのような発想はあまりに牧歌的でしょう。同盟は基本的に互恵的な関係ですが、そうではない世界があるから同盟が必要になるわけで、経済とはどこか根本的に異なる部分があるように思います。これは私がどちらの分野でも知見がないからかもしれませんが、経済畑の方が安全保障を議論すると、あらぬ方向へいってしまいますし、逆も多いように思います。知識の多寡が問題なのではなくて、同じ人間がやることでも経済と軍事では違う世界なのだということかもしれません。これは、私自身が整理できておりませんので、とりあえずの「寝言」です。



 ここまで書いてきてようやく自分が何を書きたいのかがわかりました。まともなことを当たり前にやってほしいという「寝言」でした。



…。頭が悪いってつらいですね。はあ。こんな中身の薄っぺらで、そのくせ長い記事に最後までお付き合いしていただいた方に心から感謝いたします。