2006年09月29日

とりあえず

寒気と暑苦しさが交互にきて水以外、摂取する気にもならない状態です。記事は停止。コメントも復調しだいということで、申し訳ありませんが、御理解ください。季節の変わり目に体温調整がついてゆかないようで。36.0℃から37.5℃程度の間で体温がコロコロ変わっています。よくあることですので、とりあえず土日は寝ます。
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気分しだいの政治

 相変わらず発熱が続きます。気にしてもしょうがないので、無視するしかないんですが、とてつもなく眠い。ほぼ思考能力がゼロ。「寝言」を書くのが精一杯です。最近、夢を見ても覚えていないことが増えたのですが、ある方と二人きりで話をしていて幸せな気分になる夢を見ました。これは、危うい。疲れが溜まるほど、仕事をした覚えもないのですが。相変わらずなので、今日もマニュアル作りを少しだけ進めて『らんま1/2』を読んでしまいました。

 4巻では掟で男乱馬へ結婚を迫るシャンプーが、「恋敵」のあかねに「洗髪香膏指圧拳」という技をかけてあかねの記憶から乱馬に関する記憶だけ消してしまいます。要は、特殊なシャンプー(本来の意味です)で頭を洗ってツボをおして操作するという技なのですが。これほど安直な「洗脳」は聞いたことがなく、このベタな感じがたまりません。乱馬は、あかねの記憶を取り戻すべく、必死の努力をするのですが、すべては空しく、記憶をなくしたあかねの心ない言葉におもわず「かわいくねーな!」とお約束の言葉をぶつけます。な、なんと、これがあかねの記憶を刺激します。あかねの父、天道早雲は「乱馬くんっ、もっと魂をゆさぶる言葉を…」と励まし、乱馬も「愛」ゆえに「そーゆーことならまかしてとけっ!!」とあかねの「魂」を目覚めさせる麗しい言葉を投げかけます。

らんま「色気がねえ!!凶暴!不器用!!ずん胴!まぬけっ!!」(コメントは控えさせて頂きます)
…中略…

あかねの頭の中でらんまの「愛」の言葉が鳴り響きます。「かわいくねー かわいくねー かわいくねー かわいくねー 色気がねー 色気がねー 色気がねー 色気がねー」。魂を揺さぶられたあかねは…。

あかね「な…なによ、乱馬のバカー!!」

ってな訳で記憶が戻るという、高橋留美子の人間心理の洞察力に感服いたしました。というわけで、今日も「獅子咆哮弾」編から入りましょう(われながら、究極のインフレファイター復活ですな。まじめなブログと勘違いされてお付き合いいただいている方には心よりお詫び申し上げます)。

 『らんま1/2』の読み方としては邪道そのものですが、「獅子咆哮弾」編ほど「気分」を面白おかしく扱っている漫画も珍しいです。「気分」がテーマなだけに、それに関わる日本語がたくさんでてきます。ざっと、並べてみましょう。

「元気」、「そんな気分じゃねーんだ」、「気がつかなかった」、「気が重かった」、「気が軽く…」、「気をためつつ」、「気が進まない」、「気が散る」、「気の迷い」、「気がでかく」、「気楽」、「気がはやっていた」、「短気」、「強気」、「弱気」、「気が抜けていた」、「気力だけで」。

 他にも、「気が利く(利かない)」や「気立てのいい(悪い)」、「病も気から」、「気持いい(悪い)」、「気にする(しない)」など「気」あるいは「気分」に関する日本語は山ほどあります。私自身、ふと気がつくと(ここにも「気」が入っていますが)、「…という気がします」という表現を「時の最果て」ではよく使っています。実は、仕事では一切、使わない表現なのですが。

 「気分」というのは、実に扱いが難しい。ある行動をとる理由を自分の気分がそうだったからと言えば、まず社会人失格でしょう。しかるに、気分ほど人の行動を左右していることについつい無自覚になるものはありません。これとよく似た表現に「空気」があります。

 実は、この言葉ほど私が嫌いなものはないです。中学生ぐらいの頃、小室直樹氏という評論家の本を読んでいて山本七平氏の引用があったので読んでみたのですが、『「空気」の研究』という本を読んだ途端に冷めてしまいました。うろ覚えなので間違いだらけの可能性が高いのですが、確か、山本氏も「空気」が支配する状況は必ずしも、日本特有とまでは断定していない。しかし、戦時下の雰囲気を「空気」の支配と断じてしまうのは山本氏の「気分」ではないのか。「集団意識」なるものに違和感や異議を唱える方が忘れがちなのは、それが御本人の「気分」だということです。山本氏には失礼ですが、負け戦であのような気分になることは責めるべきことではないでしょう。他方で、「空気」ではなく、彼の「気分」の問題でしかない。

 「気分」、「気分」ってこだわってなんになるのと思った、そこのあなた。あなたは民主主義社会における「気分」の怖さを知らないと申し上げましょう。戦前の軍部は、時代の最先端を走っているつもりだったのかもしれません。それを「暴走」と呼ぶのか、何と呼ぶのかは個人の主観に属する問題でしょう。軍部の「暴走」が帝国の滅亡の一因であったと私も思います。しかし、「暴走」に歯止めがかからなかったのはなぜか。当時の軍部の内部でさえ、統制がとれていたわけではありません。陸軍・海軍も割れていた。盧溝橋事件以降、私が怖いと感じるのは、「空気」ではなく、「暴支膺懲」という「気分」です。軍部は、ときに気分を利用し、ときに気分におされてどうにもならなくなってしまった。露骨にいってしまうと、戦前の失敗の正体なるものは、民衆の気分しだいの政治に堕してしまったということだと考えております。「鬼畜米英」なる言葉は、それ自体、汚らわしいですが、民衆の気分に迎合してしまったという意味で非常に不吉な印象を与えます。

 「気分」と「空気」。言葉遊びのように見えるかもしれません。「知能指数≒0」の状態では私自身も、自信がありませんが、「空気」という表現には空気を構成する「個」の違いを無視する乱暴な印象があります。「空気」を熱烈に感じた人もいれば、そうでない人、中間的な人、小泉総理もとい前総理じゃありませんが、「人生いろいろ」です。「気分」というのは、すぐれて個人のものです。たいていの場合、個人の気分などというのはバラバラです。「空気」にもとづく議論は、個人軽視そのものです。社会全体を俯瞰すれば、政治がなければ個人の生活は成り立ちませんが、ふだんの生活ではそのことを意識することは、稀でしょう。「空気」なるものは、戦前に個人がなかったかのような印象を与えるという点で、あまりに一面的だと思います。

 もっといえば、個人レベルで気分を重視するというのは、民主主義社会でこともなければ個人の気分がバラバラであるのが、対外関係など重大な局面で個々の気分がある極端な方向に傾いたときに、それを制御することが非常に難しいという、現代の民主主義でも完全には解をえていない問題を重視しているにすぎません。多様性をもつはずの自由な社会における個人の見解が、極端な方向をもったときに、政治はこれを上手にコントロールしなければなりません。現代の民主主義社会ですら、統治者と非統治者の区別は、厳然としてあります。統治者が非統治者の「気分」に流されてしまえば、民主主義など衆愚政治でしかありません。冷たくいえば、昭和期の政党政治、軍部による統治、いずれも衆愚政治に陥ったという点が失敗だったと思います。

 小泉総理は、気分の問題を本当によく理解してリーダーシップを発揮されたと思います。安倍総理にも地味ではあってもそのようなリーダーシップを発揮して頂くことを期待いたしております。

 …。われながら、説得力がまるでないのが感心しますが。

【おまけ】アイデンティティ

「私は私である」というときに、主語である「私」と述語に含まれている「私」にはずれがあります。失礼ではありますが、40代で世代論や「空気」の議論をされる方は、このずれに鈍感な印象があります。このままではわかりにくいので、次のような命題を考えましょう。

「あかねはかわいくねー」。

先験的総合判断とか面倒な話をもってくると、ややこしいので、もっと素朴に考えましょう。「かわいくねー」というのはすぐれて主観に属する形容ですが、ここでは真偽判断が可能であるとしましょう。「かわいくねー」と述べるということは同時に「あかね」という主語のその他の属性は、否定されてしまいます。正確にいえば、「あかね」を「かわいくねー」と規定することによって、他の属性は忘れられてしまいます。したがって、「あかね」を描写するためには、「色気がねー」、「凶暴」、「ずん胴」、「まぬけ」など様々な命題を枚挙するしかありません。このような枚挙によって「あかね」が完全に描写できることはありません。

 さらに、高橋留美子の深いところは、「あかねはかわいくねー」という非常に単純な命題に乱馬の「あかねはかわいい」という深層では微妙な部分を表現しているところです。あかねに対する愛のないのところに、このような命題は成立しません。

 以上のことを踏まえて「私は私である」(「AはAである」)という、命題に戻りましょう。世代論や「空気」を好む人たちは、主語である「私」は、実は個ではなく、世代や「空気」のように曖昧とした全体をもってきます。実は、既にそこに述語にくる「私」をステイトメントを述べる側が含ませているのが味噌です。「AはAである」というのは、単なる同義反復では必ずしもないのですが、世代論や「空気」の議論では、同義反復の域をでることはまずありません。なぜ、このようなことになるかといえば、ある世代や「空気」に対する違和感というステイトメントを述べる側の「気分」があり、それを正当化するために、「私は私である」ということを保証するのは「気分」であることを覆い隠すことが主眼になっているからです。現段階で具体的な政策論で安倍政権を批判するかのように見える人たちも同様のことでしょう。それより、「私は安倍総理が嫌いだ」と言った方が、議論が透明になると思います。

 『らんま1/2』は、このように世相を考える上でも、深い洞察を与えてくれるものと確信しております。

…。

…。

…。

 やっぱり、調子が悪いようで。読み返してきたら、自分の頭の悪さに気分が重くなってきました。

気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。重い気。

     獅子咆哮弾(完成型)!!
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2006年09月28日

気分しだいの必殺技

 昔は、よく風邪をひいては発熱してたいてい39℃を越えていました。それでも、咳がでない限りは、6時間、しゃべってふらふらでもなんとかこなしておりましたが、年をとりました。ここ数日、37.5℃前後の微熱でまいってしまう。この程度の熱で頭が回らなくなるというのは、10年前にはなかったのですが、もうそういう歳というところでしょうか。平熱のときに頭が回っているのかという根本的な問題には沈黙するしかないのですが。

 仕事が溜まる一方で体と頭がついてこないと、鬱になるので、こういうときの特効薬、ベッドにぐったりしながら、高橋留美子『らんま1/2』を読んでいます。こんなことやってる場合ではないのですが、気分まで沈むと長引くので、アホなことをやっています。コアなファンには「貧力虚脱灸」編とか「新之助」編が受けるようです。これは文句のつけようがない。ただし、ちゃらんぽらんな読者は「獅子咆哮弾」編(20巻)が思い出深い一編です。

 思えば、20年以上昔は、『ジャンプ』派と『サンデー』派とで60年安保も文化大革命も吹き飛ぶような壮絶かつ空しい戦いが全国で繰り広げられていたのでありました。どちらも読むなどというのは、けしからんと両派から攻撃されてしまう始末。書く申す私めも『ジャンプ』派の一員として、「軟弱」だの、「○々しい」だの、汚らわしい言葉で相手陣営を非難しておりました。このような時期に、『スピリッツ』が仕掛けた『めぞん一刻』で『ジャンプ』派の多くが切り崩され、「裏切り者」という怒号も空しく、戦いはいつの間にか雲散霧消したのでありました。

 まあ、実際には両方読む人がほとんどでありまして、上記のことは悪い冗談ですが。

 時は流れ、20代の半ばあたりでしょうか、帰省してもやることがなく、母上と20分以上間が持たないので、まんが喫茶でぶらぶらしていると、『らんま1/2』が目に付いて読み出したら、ツボにはまってしまいました。どこでツボにはまったかというと、「ずれた人」らしく「獅子咆哮弾」編だったわけであります。

 お読みになったことのない方がほとんどかもしれませんので、一応、背景を整理しますと、主人公である早乙女乱馬は、天道あかね(三女)と両親(早乙女玄馬、天道早雲)によって幼少のみぎりに許婚となることを定められてしまいます(正確には、早雲には3人の娘(長女かすみ、次女なびき、三女あかね)がいて、そのうちの一人を許婚にするという、まあ、ちゃらんぽらんな約束な訳ですが)。玄馬は、ちゃらんぽらんを体現したような格闘家(無差別格闘早乙女流)でありまして、お好み焼き屋の主人と屋台と引き換えに乱馬を主人の娘、久遠寺右京と許婚の約束をするわ、中国での修行時代に女乱馬を抹殺すべく追ってきたシャンプーが男乱馬に敗れ「女傑族の掟」なるもので勝手に結婚したがっても、これを否定せず、それは、それはちゃらんぽらん道を極めた親父であります。中国の「呪泉郷」で乱馬は「修行」中に父に「溺女泉(ニャンニーチュアン)」に突き落とされてしまい、水をかぶると、女に変身してしまう体になってしまったという話が全篇を貫くキモではあるのですが、本題と関係ないので詳細は省きます。

 さて、「獅子咆哮弾」なる技。基本は土木工事のための技だそうですが(まじめに書くとバカみたいですな)、基本レベルでは重い気を放って相手を吹き飛ばすという技ですが、重い気を放つには不幸が不可欠。乱馬のライバル、響良牙は、あかねに心を寄せるも、一つ屋根の下で暮らすうちに乱馬とあかねは、次第にお互いを意識しあうようになり、良牙はあかねと友だち以上の関係にはなれない不幸な星の下にありました。そんな良牙には「獅子咆哮弾」がうってつけの技でした。乱馬は手も足もでず、ぶちのめされてしまいます。ひそかにリベンジを果たすべく、特訓に励む乱馬。不幸な気分になるための乱馬の秘策とは…?

かすみ「本当にお食事抜いてもいいのね?」
なびき「負けたらあたしの家来になるのね?」
あかね「あんたの不幸ってこの程度なの?」
らんま「やっぱりだめか…」

 …。この時点で、私には「萌え」です。これは私からすると、究極の不幸。もう、晩飯ぬきとなったら、この世の終わりのような気分です(今は、食欲がまるでないのですけれど)。さて本編「気分しだいの必殺技」。父、玄馬にまで「聞けば獅子咆哮弾とは、不幸で気が重くなればなるだけ?気?の重さが増し…。破壊力も増すのだそうではないか。チャランポランなおまえに使える技ではない」と言われてしまう始末。私だったら、わかっちゃいるけど「あんたにだけは言われたくねえよ」となるところです。それでも、「健気に」特訓に励む乱馬。「気が進むまねーんだ、ほっといてくれ」と叫んで放った乱馬の一撃は…。

 …。乱馬の手元でぴたりと止まったのでありました。

あかね「?気?が進まない…」
なびき「あーら、おもしろい」
らんま「今度こそ〜〜」

 気を放つ乱馬の横でなびきがあかねのスカートをめくると、思わず乱馬が目を奪われ、放った気は散ってしまいます。

あかね「なにすんのよ」。
なびき「?気?が散るかなーと思って…」
らんま「邪魔すんじゃねーっ」。

 自信をなくした乱馬は必死に気を放つも「本当に良牙に勝てるのか〜〜〜!?」とくよくよしてしまいます。放った気は迷走して乱馬に命中し、気を失わせます。

なびき「こっこれは!?」
玄馬「?気?の迷い!!」
あかね「乱馬!!」
 
 窮地に立たされた乱馬の秘策とは?獅子咆哮弾を完成させた良牙へのあかねの言葉。そして、良牙の完成した技に究極の破壊力をもたせたあかねのとどめの言葉。すんませんが、続きを知りたい方は、まんが喫茶でどうぞ。

 漸く本論なのですが、この「獅子咆哮弾」編ほど、私がちゃらんぽらんな性格であることを自覚させてくれた作品はありません(って、まじめに書くことか?)。乱馬から格闘に強くかっこよく、女性にもてることを除いたら、なんと性格の似ていることよ。生真面目で神経質という自己認識は、高橋留美子のすばらしい「気分」の描写によって無残にも打ち砕かれ、実は気分しだいのちゃらんぽらんな人間であるということを深く、深く自覚したのでした。そして、気分という私が最も軽視していたことが人間社会を洞察する上で深いヒントを与えてくれたのでした。

 え゛って、体調不良にかこつけて遊んでいるだけじゃないのって?いえいえ、そうではありませんよ。頭が働かないなりに、次回は誰も書かない「気分」の恐ろしさについて、真剣に「寝言」を綴ってまいります。

…かもしれない。

 それにしても、なんで微熱でこんなにしんどいのでしょう。体がだるいは、直ぐに眠くなるは、まいったなあ。仕事は溜まる一方だし。気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。重い気。

  獅子咆哮弾!!
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2006年09月27日

政治における大人と子供

 安倍政権についてあれこれ書き散らしてまいりましたが、自分が幼稚であることに気がつかされました。珈琲様「安倍政権発足」です。トラックバックが2006年9月26日現在で25件もありますので、多くの方が読まれ、共感されたことと存じます。あらためて御紹介するのは気恥ずかしいのですが、お読みになられていない方がいらっしゃったら、是非、一読されることをお勧めします。個々の論点の設定と分析が犀利であるにもかかわらず、簡潔に必要なことだけ書かれていらっしゃるので、鋭すぎる印象を読み手に与えません。非常に高い見識を、見識ぶることなく披露されていて、本当に勉強になりました。けれんみも押しつけがましさも全くなく、失礼ではありますが、まともとしか申し上げようがありません。書き手の精神の健全さを感じさせる文章です。

 このような文章を拝見してしまうと、自分の書いてきたものがガラクタのように思えます。適切な表現かどうか、自信はありませんが、子供と大人の違いでしょうか。本来、歴史に関することをメインに書かれていらっしゃるので、このような不躾な紹介の仕方は珈琲様には御迷惑かもしれませんが、御容赦頂ければ幸いです。

 それにしても、あと3年と数ヶ月で40代。果たして、珈琲様と同じ年齢に達したときに、このような文章が書けるのかと思うと、頭が痛くなります。私みたいな幼稚な者は40代になったときに、昔の30代程度の精神年齢になれば十分なのだと言い聞かせるしかないです。以前、雪斎先生のブログで珈琲様が非常に的確なことを書かれていて、ブログを拝見して勝手にリンクさせて頂きましたが、こうした出会いがあるというのは、ネット時代のありがたさをしみじみ感じます。感心しているばかりではいけないのですが、今日はよい気分なので、これにて失礼いたします。 

2006年09月26日

安倍執行部と内政

 『産経』夕刊には見出しに「安倍色半分基本は『論功行賞』」とあって思わず記者の「意中の方」は誰だったんだろうと思いました。個人的には二階国対委員長が…。小沢「封じ込め」の御意向の御様子。中川幹事長ではイメージが暗いというのはあまりに気の毒。麻生外相が幹事長というのは噂としてはでていたんですねえ。麻生幹事長だけは勘弁してほしいです。日曜日が朝からテレビ漬けになりそう。『日経』夕刊は2面で「にじむ『安倍氏との近さ』」とあって「改革継続」をアピールしながら持論を支えてくれる人物を選んだと対照的な評価。

 言いにくいですが、期待値の違いが出ているような気がします。「安倍総裁、麻生総理」は悪い冗談ですが、素人的には麻生副総理兼外相は考えたいところ。これで安倍総裁からすれば、役に立つと同時に一番おっかない人物を上がりにできますからね。万が一の時には連帯責任。もちろん、麻生外相には悪意はないのですが、私だったらこんな感じでしょうか。予想じゃなくて、あくまでお遊びですけど。私は予想なんて無粋なことはしません。失礼ながら、総理・総裁になられた方は、素人目にはいわゆる「政治のプロ」(主としてマスメディアに露出している評論家)やインテリよりも、はるかに怜悧だった方がほとんどのように思います。

 さて、本題。小泉改革の最大の貢献はと聞かれると、ほとんどバカの一つ覚えのように「景気対策に対する期待値を下げたこと」と答えています。お世辞にも財政政策が効率的になったという水準ではありませんが、まず、景気対策に対する期待値を下げないとどうにもなりません。『報道2001』の世論調査では2004年8月1日にようやく「あなたが、今、国会でもっとも議論して欲しい問題は何ですか。次の中から1つだけ選んで下さい」という問いに「景気対策」が17.6%に低下して代わりに「年金」が50.4%に上昇しています。首都圏だけの調査なのでこの点はかなりバイアスがかかっていそうですが、景気対策をやらずに期待値だけを下げたというのは並の内閣ではできません。同様に年金も筋が悪い話です。まともにやると、内政だけで手一杯になってしまう。

 年金が不安だといえば、きりがない。今のところ大丈夫といくら数字を示しても、感情論だからなかなか難しい。しかし、増税は嫌。こんなのが通るわけがない。というわけで次期内閣ではいかに年金問題をスルーするかが内政面では勝負どころだと思います。ただし、景気循環と異なって年金や医療その他の社会保障は政府が直接コントロールできるだけに何もしないわけにもゆかないし、現に小泉内閣でも維持可能な水準に落ち着くよう、努力はされています。露骨にいえば、みんながやってほしいことをやるだけなら間接民主制など不要。教育改革に安倍総裁は本気でしょう。で、失礼ながら、これは「神学論争」だらけになりそうな予感。しかも、なんだかんだいって身近で人口の9割以上は教育の「被害者意識」があるでしょうから、どうでもいいと思いつつも、こちらの話に引っ張られる可能性は十分にあるでしょう。社会保障の話がこれで実務的な水準でできる程度に目立たなくなるかは疑問ですが、憲法改正と組み合わせれば、かなりうまくゆきそうな気がします。もちろん、これは安倍総裁の意図するところではないでしょうが。

 年金その他の社会保障問題は数字の問題であって感情の問題ではない。しかし、「まともに」やってしまうと感情論になってしまう。いくら改革しても不安だということになりかねない。安倍総裁の力量の第一関門は、有権者がどうでもいいと思う問題をそうではない問題として設定して冷徹に有権者にとってどうでもよくない問題を解決することができるかどうかということだと思います。

 僭越ながら、党役員人事は巷間で言われている安倍氏のイメージが誤りであることを示したと思います。失礼ながら、私自身は律儀で真面目な方というイメージで真面目すぎて大丈夫だろうかと思いましたが。実際にうまくゆくかは時の運。こればかりはどうにもなりますまい。

無節操な私は、上手にやって頂ける方であれば誰でもいいのだ。好きか嫌いかは人間である以上避けられないのかもしれないけれど、大事を前に感情に身をゆだねれば、愚かでしかない。

2006年09月25日

お約束どおりのとりとめのない「寝言」

 どこかでわがブログと思しきところが「軟弱」と非難されていたような気がしますが、きっと空耳でしょう。最近、疲労気味なので被害妄想気味なのかも。木星人さんのコメントは、私には荷が重すぎる気がしますが、私のちゃらんぽらんぶりを理解していただくには格好の話題ではありますので、真摯なコメントに失礼ではありますが、とりとめのない話をさせていただきます。

 あまりおつむがよろしくない私には哲学や思想は難解すぎるので、当たり前のことを考えるしかありません。私の哲学書の読み方などひどいものでして、カントを読むと、「ああ、『物自体』があなたの神なんですね」としか読めないですし、ヘーゲルになると、「ああ、絶対精神である、あなた自身が神なんですね」(こちらの方が私に近いなどと思ったりします)という無茶苦茶な読み方しかできません。よってまともな哲学や思想の話は無理なので、「いかれた外道」なりにない頭を使うしかありません。

 「多元的」という形容の対極は「一元的」ということでしょうか。両者は、通常、排他的なものとして捉えられるようです。まず、ここで頭の悪い私は躓いてしまいます。右があれば、左がある。右翼がいなければ、左翼は仕事がなく、左翼がいなければ、右翼は商売があがったりでしょう(こんなことを書いちゃっていいんでしょうか。小心者の癖に。「炎上」は怖いのお)。上があれば、下がある。一があれば、多がある。「多元的な価値」は、「一元的な価値」がなければ成り立たず、逆もまた然り。ただし、人間に意識とか自我がなければ、このような区別は無意味ですが。

 一と多の問題をさらに考えると、個人の価値観というものが成立するのはそれとは異なる他人の価値観があるから成立するわけでして、個も多も含めた全体というものがあって個の価値観が成立する。しかるに、全体というものは個の観念のなかにしか存在せず、一に対して多を意識するのも個でしかない。多元主義なるものも、世界は多元的であるという一元的な個の世界観ということになります。逆に、普遍しかないという個の世界観も普遍なるものが個の観念のうちにしか存在しない以上、他の個を抹殺しない限り、多元的な価値観とならざるをません。そもそも、異なる個を抹殺しなければ成り立たない「普遍」など普遍ではないでしょう。一即多即一。なんだか騙された気分になる方もいらっしゃるかもしれませんが、世の中、そんなものだと思います。

えっ?
それはあんたがちゃらんぽらんで脳がざるだからだって?
否定はしませんよ。いや、これは私らしくない。

その通り(きっぱり)。

 「ざるの脳」は便利な面もありまして、どうでもいいものは全部どこかに行ってしまう。こぼれてしまうなかには砂金やダイヤもあるかもしれませんが、いちいち気にしていては身がもたないです。誰か、もっと利巧な人が拾ってくれるでしょうから、気にしない、気にしない。

 木星人様のコメントへのリプライにはなっているとは思えないのですが、「ざるの脳」で考えられるのはこのぐらいでしょうか。申し訳ありませぬ。

 それにしても、上川隆也さんというのはいい役者さんですねえ。男の癖に変かもしれませんが、命の賢者様とは対照的に仲間さんより上川さんの演技目当てで『功名が辻』を見てしまう。華麗な演技でもないですし、渋い演技でもないですが、なんだか自然な感じがして安心してみてしまいます。気がつくと、仲間さんの演技までくさみ(うまくいえませんが、最初の頃は訳に張り込みすぎていて気合が入りすぎている気がしました)が減って上手になっている気がします。NHKの「商売」に乗せられている気もしますが、お二人が実際に結ばれたら、なかなかお似合いかも。他人の幸福を願う暇があったら、自分の心配をしろという声が頭のどこかから聞こえますが、やっぱり疲れているのかなあ。ドラマ自体は平凡な出来だと思いますし、殺伐とした時期を描いているのですが、あの二人を見ると、なぜかホッとしますね。柄本さんが演技じゃないように見えるのが怖いのですが(来週はもっと怖いなあ)。大河ドラマを初回からすべて見るという、生まれて初めての快挙が続いております。
posted by Hache at 16:38| Comment(8) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2006年09月24日

夢の後で

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:…。良くも悪くも、いつもどうりじゃな。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、またおぬしか。
ボッシュ:世の中は移ろいやすいが、ここだけは変わらないのお。
ハッシュ:ここは時の最果てじゃ。祭りの後といってもよい。
ボッシュ:ワシも年をとったかのお。ココにくると、ホッとする。
ハッシュ:おぬしはワシと同じくジールの生き残りゆえ、不思議ではあるまい?
ボッシュ:それもそうじゃな。ジパングも悪いところではないが、慣れていないことが多いせいか、疲れる。
ハッシュ:しかし、おぬし、もう店は引退したんじゃろ?
ボッシュ:店は順調そのものじゃよ。うまくゆきすぎて怖いぐらいじゃ。今のところ、不安はほとんどない。店長は若いがなかなかやり手ではあるし、シェフも料理人の育成に余念がない。店長は、あと数年したら、まったく別の店をだす考えのようじゃ。元々のワシの店とは別のな。まあ、うまくいくかどうかはお手並み拝見というところじゃ。
ハッシュ:なんだか余裕じゃな。それなら、疲れることもあるまい?
ボッシュ:疲れるというほどでもないが…。ジパングでは自民党総裁選というのがあってな、そこで選ばれた者が、事実上、総理大臣という地位につくんじゃ。地位はジールに仕える者じゃが、権限はジールなみになる立場になる。ワシはよそ者ゆえ、ジパングの上の人が誰になろうと、バカなことをしなければよいのじゃが、誰がなるのがいいか、くどくどお説教をされてうんざりじゃ。
ハッシュ:ワシらの頃は女王じゃったが、みんなで選ぶという発想はなかったなあ。
ボッシュ:そうなんじゃ。ジールはジパングのゲームではひどい扱いをされているが、ああではないがな。それはともかく、ワシがジパングにとばされた頃には小泉純一郎という人物が総理大臣じゃった。なんでも、一年前に選挙をやって大勝したそうじゃ。今回は、その跡目争いで、安倍晋三という人物が人気もあり、小泉純一郎という人物からも信頼されておるから、よほどのことがない限り、そのまま後を継ぐのが自然じゃ。ワシみたいなよそ者からすると、予想通りの人物がそのまま選ばれただけの話で、特にどうということはない。
ハッシュ:聞いていてわからぬこともあるが、なんだか平和な話じゃないか。
ボッシュ:そうなんじゃが。他に麻生太郎、谷垣禎一という人物が候補になっていて、麻生太郎という人物がいいという人も客人はいてな。これが実に始末に悪い。冷静に見て選ばれる可能性はゼロじゃが、好きな人に言わせると、安倍晋三とは比べものにならないそうじゃ。しかるに、その理由を聞いてゆくと、自分が好きだという以上のものが見当たらぬ。失礼ながら、どちらでも同じとしか思えぬのじゃが、うんざりするぐらい聞かされたわい。もっとも、シェフがニヤニヤしながらパソコンでなにやら変てこな画像を見せてくれてな。これを見ると、麻生太郎という人物に好感がもてる。しかし、それを言葉で説明する人の話を聞くのはうんざりじゃ。麻生太郎という人物がなぜよいかではなくて、安倍晋三という人物がいかにダメかが話の8割を占める。こういう話を聞くと、ワシの性格が変なのかもしれないが、麻生太郎という人物の欠点も教えてもらわないと、その話を信じることはできぬ。ガルディアにいた頃も選挙はあったが、田舎だったせいか、あまりこの種の話を聞く機会がなかった。慣れていないだけかもしれないが、ワシにとってはどうでもいい話じゃ。ひどいことを言うとな、惚れた女性の自慢話とふられた女性の悪口を聞かされているような気分になるんじゃ。それで、惚れた女性がみんながよいと言わないのが不満で、まだ愚痴を言ってくる御仁もいて、これには参った。
ハッシュ:…。難しいところじゃが、そこは商売と割り切って…。
ボッシュ:おぬしに言われなくても、そうしておるよ。まあ、だんだん性格が悪くなってきて「そんなもんですか。よそ者にはなかなかわかりませんなあ。また一つ利巧になりましたな」とでも言っておくだけじゃ。相手が自慢げにしゃべっていても、何を言っていたのか、なーんにも覚えておらぬが。
ハッシュ:もともと、おぬし、他人の話を聞いておったかのお?
ボッシュ:…。…。…。ワシより性格が悪い御仁がいるのがわかって安心したわい。今日は無粋な話をしない大切な客人のお相手じゃ。久々にやる気がでるのお。それでは帰るね。
ハッシュ:おやまあ。現金なことで。また、おいで。

 気がつくと、8月の方が総裁選の記事が多いですね。私の悪口がないこともありますが、今回は命の賢者様に一票。自民党総裁選は2001年に既に変わっていて、今回は、本命が変わっただけだと思いますが、おかげでネガティブ・キャンペーンが碌なことがないということも肌身で感じました。個人的には麻生さんがよいと思っていましたが、思い込みの強い記事を読めば読むほど、白ける。安倍さんを応援しようが、麻生さんを応援しようが、谷垣さんを応援しようが、私にはなんの利得もないので、押しつけがましい話は全部スルーさせて頂きました。

 お祭りが終わって安倍政権の品定めと行きたいところですが、これは実に難しい。小泉政権も、政権発足後、何度もダッチロール状態になりかけました。まあ、過疎ブログなので本音を書いても大丈夫でしょうが、政権発足前は小泉総理誕生に思い入れがありましたが、発足直後の支持率を見てひょっとして期待値が高すぎて短命で終わるのではないかと心配しました。人事を見てさらにびっくり。田中真紀子外相というのはさすがにまずい。案の定、外交は機能不全に陥って、小泉総理は私から見て最悪のタイミングで(更迭される側が同情されるという意味で)外相を切りました。おそらく、このあたりが小泉政権への評価の底だったかもしれません。後知恵でいえば、最初の3年は官邸主導を確立するプロセス、最後の2年はその威力が遺憾なく発揮された時期ということになるのでしょうか。

 小泉政権で印象に残っているのは、ありきたりではありますが、9.17訪朝とイラク戦争への支持演説です。訪朝前に『産経』が異常な反応を見せていて、真偽は確かめていませんが、訪朝にあたって私用する航空機からありとあらゆるキャンペーンを張っていてうんざりした覚えがあります。私自身は、総理がこれだけの決意で行くのだから、結果を見て判断しましょうという立場でした。あてにならない新聞記事からの憶測でしかありませんが、米国務省は訪朝に反対だったのでしょうが、ブッシュ大統領が抑えたのだろうと考えております。結果的には、国務省も収まったのだろうと憶測でしかありませんが、考えております。

 小泉政権への期待が信頼に変わったのは、イラク戦争への支持表明でした。「アメリカは、日本への攻撃はアメリカへの攻撃とはっきり明言しています。日本への攻撃はアメリカへの攻撃とみなすということをはっきり言っているただ一つの国であります。いかなる日本への攻撃も、アメリカへの攻撃とみなすということ自体、日本を攻撃しようと思ういかなる国に対しても、大きな抑止力になっているということを日本国民は忘れてはならないと思っております」(2003年3月20日)。これほど明快に日米同盟の意義を説明した総理は記憶になく、今後もこの演説を基調として対米外交が展開されれば、アメリカがどのようにブレようとも(アメリカ側に選択肢が多いという現実を忘れることは危険ですが)、まず、この国の安全は大丈夫だと思いました。

 もし、小泉総理が集団的自衛権の行使に関する解釈を80年代以前に戻していたならば、このブログも誕生せず、既存のブログで訳のわからないことを書き込んでいただけになっていただろうと思います。安倍さんも、麻生さんもこの点ではまったく一致しているので、あとは巧拙の問題だけだと考えていました。素人臭くて恥ずかしいのですが、こればかりはやらせてみないとわからない。安倍総裁が誕生した現実がある以上、是非、この問題に取り組んでいただきたいというのが率直な実感です。ただし、小泉政権で実現できなかったプロセスを見て行くと、連立の枠組みやタイミングなど私のような素人には窺い知れない政治の機微の部分が多く、この問題に関して今後も「寝言」を綴ってゆきますが、現場で議論されている方からすれば、ずれた議論になるでしょう。まあ、ずれた「寝言」を臆面もなく綴ってゆくのが「時の最果て」の基本ではありますが。この問題が解決したときに、ブログを続けるかどうかを考えようと思います。

 それにしても、小泉さんが総裁に選出されるのが確実になっても、信じられませんでした。小選挙区比例代表制の下で総選挙が行われるたびにこのような総裁選出プロセスが定着して行くのが自然な流れなのかまでは私には確信がありませんが、今回の総裁選は、新しい制度が定着したことを実感させられました。過渡期には過渡期にしかない苦労があり、小泉総理はその貴重な経験をされた方だと思います。本当に御疲れさまでした。今後、若い総裁が新しい制度を定着するプロセスをしっかりと見守って頂きますように心からお願いいたします。

2006年09月23日

マネジメント 人を育てる

 法律の話は異様なまでに疎いので、自信はありませんが、新司法試験についてです。まず、『日経』に法科大学院ランキングが掲載されていたので、ちょっと驚いて法務省のHPを見たら、法科大学院別の合格者数が公開されていました。司法試験改革の最大の成果は、法科大学院を新設し、序列化することであるというのは、無知であるからいえることでしょうか。法曹人口を増やすのはけっこうなことなのでしょうが、素人目にはとりあえず試験を緩くして人材育成の費用を弁護士事務所や裁判所、検察につけ回しするように見えます。旧制度では司法試験受験者の負担が大きかったので、これはこれで合理的なのかも。

 またやっちゃいましたねと思うのが、文科省。法科大学院の設置基準をめぐるゴタゴタでやはりダメな役所であることがよくわかりました。現場の先生は、司法試験の予備校みたいなことをやらされていると嘆いているとか。『産経』に受験テクニックを教える場に法科大学院がなってしまうという懸念が書いてありましたが、懸念じゃなくて現実と思ったほうがよいでしょう。『産経』は、教育関係では周回遅れの記事が多くて楽しめますね。「知識偏重」という、現行制度への批判にもとづいて改革すると、ろくなことがありません。知識だけでは不十分だが、知識がなければ論外という当たり前のことを忘れると、現場を混乱させるだけでしょう。

 私の素朴な実感では「教育改革」ほど、やればやるほど碌なことがない分野というのはほかにないです。浜松に帰って小学校や中学校の先生をやっている旧友の話を聞いていましたが、「東京化」という用語がでてきて違和感がありました。聞いてみると、私立高校が中高一貫教育に力を入れてきて戦々恐々としている様子。そんなの定員割れが心配な私立高校の生き残り策じゃないのと言うと、たぶんそうなんだろうけれど、ただでさえ学力が低下しているところによい生徒が私立に流れると、クラスを維持するのが大変だという危機感があるようです。どうも、悪いことは東京からくるという意識があるようでおもしろい。話がそれましたが、既に地方都市でも教育での競争はとっくに始まっていて、教育にも競争を導入すべきだという議論を聞くと、バカバカしいなあと思います。

 学力低下についてはいろいろなことが言われていますが、個人的には家庭の教育能力が主な原因だと思います。中学校の先生と話をしていてびっくりするのですが、学校の宿題すらやらず、親も怒らない。そういう親御さんに限って学校の指導が悪いとなる。もちろん、教員にも指導能力に濃淡はありますが、学校で一回、習っただけで勉強ができるようになるわけではないことは、よほど知的能力に恵まれた方ではない限り、実体験しているのではないでしょうか。私は、生徒としては塾に行ったことがありませんが、教えた感じでは、教材さえあれば、塾は不要です。私みたいに頭のできが今ひとつだと、まず、問題集の答えを見て模範解答を書く。その後は、解答を見ずによい問題集を10回繰り返して解いて解けない問題がなくなるまでやるという芸のない勉強法でした。家に帰って復習をするという当たり前の躾が家庭でできていなくては、優れた先生でもお手上げでしょう。あるレベルまでは学力は、勉強に費やした時間で決まると思います。

 法曹に限らず、人を育てるのには時間がかかります。環境変化が激しい時代かもしれませんが、過去と比較してそれほどかなあとも思います。私の教育法は、芸がなくてある水準まで行くまでは叱ることもしますが、そこからあとは長所を伸ばすことぐらいでしょうか。わが身を振り返っても、欠点を直すのは長所を伸ばすのと比較して10倍ぐらい、大変な労力を要します。あと、若い人を見ていて違いを感じることも多々ありますが、よくよく見ていると、やはり同じ人間だなあと思います。違いばかりを見て人間など大して変わるものではないという感覚をもっている方が皆無なのを見ながら、自分がつくづく「サイレント・マイノリティ」であることを感じます。私があまりに鈍いからでしょうが,特異な才能をもった方は別として凡庸な人間が世の大半を占めるというのは、どこの国でも大して変わりませんし、凡庸なりに生活をしているのが現実ではないのとわが身の凡庸さに含羞を覚えつつも、「寝言」を呟く今日、この頃です。
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2006年09月21日

安倍新総裁 小泉的なるものの継承と否定

 安倍新総裁が誕生しました。安倍新総裁については、様々な観測や憶測がメディアやブログでも流れていて、「いかれた外道」の「寝言」を綴る「時の最果て」で取り扱うテーマにふさわしくありませんが、「ずれた人」から見た小泉政権から安倍政権への道のりを考えてみます。

 安倍政権の課題はいくつもありますが、他を圧倒しているのが日米関係です。小泉−ブッシュ関係の終わりを危惧する向きもあるでしょうし、安倍さんの手腕を危ぶむ観測も多いです。結論から言えば、日米同盟強化という小泉的なるものは継承する他ないでしょうし、継承すべきだと思いますが、首脳どうしの信頼関係が両国間の問題を先延ばしする小泉的なるものは否定されてゆくでしょう。以上で述べたことは平凡かもしれませんが、安倍さんの資質というよりも情勢、それも日米関係で相手となるアメリカの事情によるところが大きいと思います。

 国際秩序を担保するのは軍事力です。この点で、アメリカは、核戦力でも、通常戦力でも他の主要国が束になったも、匹敵できない力をもっています。最悪の事態を想定しても、アメリカの軍事力は依然として卓越しています。イラクの占領統治の迷走に悲観的なるあまり、この現実を見失ってはならないと思います。「多極化」といっても、イラク問題でアメリカが手を縛られているから他の国の選択肢が多くあるかのように見えるだけで、現状ではアメリカ中心の国際秩序の基礎は相変わらず堅牢です。長期的な国益と同時に、朝鮮半島と台湾海峡という二つのわが国の安全保障にとって致命的な問題を抱えている現状では日米同盟の強化をさらに進めることが最大の懸案でしょう。

 安倍総理に期待する人たちも、批判する人たちも、簡単なことを忘れていると思います。問題は、いくら日本がアメリカを必要としていても、アメリカが巨大である以上、日本自体が動かすことができる諸変数はきわめて限定的であり、アメリカを動かす力はほとんどないという現実です。結局、外交というのは、国と国との関係であり、相手がいる以上、相手の事情を考えなければ、無意味だという、ごくごく平凡な話です。露骨にいえば、国際秩序がどのように変化してゆくのかは、アメリカの国内問題によって多くが決まるという現実です。たとえば、アメリカにおける日本の好感度は、現時点では極めて高い。中国の好感度上昇に神経質になる方もいるかもしれませんが、あまり問題ではないと思います。アメリカの対外政策は、現状では日中への好感度ではなく、イラク問題がやはり中心であり、世論、議会の動きによって左右されるという点が肝要だと考えます。

 中岡望先生は、「アメリカ中間選挙を予測する:民主党が両院あるいは一院で過半数獲得も」という記事でこの点に関する非常に有益な分析をされているので、この記事を元に現状を考えてみます。問題は、(1)ブッシュ政権の国内での説得力の低下、(2)議会選挙での共和党の苦戦、(3)外交問題での党派性の高まりです。

(1)ブッシュ政権の国内での説得力の低下

 まず、(1)は、ブッシュ政権への支持率の低下と9.11以降、テロからは安全になったものの、「副産物」であるイラク問題への不満です。ブッシュ政権は、保守派からも、パシフィストからも嫌悪される傾向にあるようです。イラクからの「出口政策」は、私には現状ではまるで見えてきません。ラムズフェルド国防長官への個人的な評価は別として、彼の言うとおり、いま撤兵するのはあまりに無責任だと思いますが、イラクが安定した民主国家になるという見通しはほとんど立っていません。現状のままでは、イラクが分裂状態になり、アメリカが「名誉ある撤退」をどこかの時点で図るというのが現実的な見通しだと思います。この手詰まり状態の下では、イラク戦争の善悪是非などという「空理空論」が盛んになるのも、やむをえないことと思います。今更、イラク戦争をすべきでなかったというのはバカバカしい限りで、その後の占領政策とイラクへの主権譲渡のプロセスが問題だと思いますが、問題が複雑になれば、空理空論が盛んになるのはアメリカも同じなのでしょう。いずれにせよ、ブッシュ政権の国内的な説得力、とりわけ議会に対する影響力が低下するのは当然だと思います。ただし、現在のイラク問題を抜本的に解決することは、政権が交代しても、非常に難しいでしょう。

(2)議会選挙での共和党の苦戦

 議院内閣制とは異なるアメリカの議会選挙は、ブッシュ政権の不人気振りがただちに反映されるかどうかは微妙な部分があります。話がそれますが、小泉人気のおかげとはいえ、内閣支持率が自民党支持率を20ポイント前後、上回る状況というのは、やはり普通の政権ではなかったと思います。本題に戻りますが、中岡先生の記事では2006年8月7−10日のギャロップ社の世論調査で中間選挙に関して「もし今投票するとすれば、どの党の候補者に投票しますか」という設問に共和党に投票するとした回答が41%にすぎず、民主党候補に投票するした回答が50%に上るという結果が紹介されています。3月時点では共和党が39%、民主党が55%で、この約半年で差は縮まっているものの、民主党が優勢な状況のようです。アメリカの議会選挙は単純小選挙区制なのでこの調査結果がストレートに選挙結果に反映するかどうかは、わからないのですが、中岡先生は上下両院で民主党が過半数を制する可能性を指摘されています。議院内閣制をとっているこの国とは対照的に、ブッシュ政権の支持率が議会選挙に影響をおよぼしているのでしょう。私自身は、立法・行政の共和党が両方を握る期間が長かった上に、期待したほどのパフォーマンスがえられず、イラク問題はとどめにすぎないのではないかと思いますが。仮に、共和党が上下両院で過半数を維持したとしても、ブッシュ政権の議会への影響力はさらに低下すると見たほうがよいと思います。なぜなら、「逆風」にもかかわらず、当選した共和党議員は、おそらくブッシュ政権と距離を置くというよりも、親近感をもたないだろうと考えるからです。

(3)外交問題での党派性の高まり

 かんべえ師匠も「不規則発言」で2006年8月に行われたコネチカット州の民主党予備選でリーバーマン候補がレモント候補に敗れた事態をとりあげて、アメリカ政治の党派性の強まりに懸念を示しています。中岡先生も、この問題を重視し、『ウォール・ストリート・ジャーナル』を引用して左派勢力が有権者と共鳴できる問題をイラクにおいて見つけたという評価をされています。さらに、「ムーブオン(MoveOn.org)」の活動の内容や背景を詳しく分析されています。この点は、中岡先生の記事をお読みください。中岡先生は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』から議会選挙で民主党の優勢と同時にイラクとブッシュ政権が過去のものとなったときに民主党の方向性に疑問を呈するクラウサマーの分析を引用されています。外交問題での党派性の高まりへの懸念は、もっともだと思います。

 以上、3点ほど論点を検討してきましたが、冷たい見方をすると、中間選挙の結果にもよりますが、海外から見れば、アメリカの対外政策がどの方向に向かうのかは、アメリカの有権者が選ぶ議会しだいであるという、現実です。これは、アメリカの同盟国であるわが国にとっては非常に悩ましい問題です。露骨にいってしまうと、外交問題での党派性の高まりというのは、アメリカ国内の気分しだいで対外政策が変わってしまう事態を意味するからです。他方で、中岡先生の記事の最後で分析されているように、左派勢力はアメリカが国際秩序を担保するという現実を理解しているようには思えません。さらに、複雑なのは、右派も伝統的な孤立主義的な傾向に戻りつつあることです。イラクの占領統治と主権委譲の不首尾は、アメリカ国内に多いな亀裂をもたらしました。この亀裂は、容易には埋まらないでしょう。議会選挙の結果に関わらず、アメリカの対外政策は、孤立主義的な方向に傾く確率が高いと思います。

 問題は、2008年頃から、台湾海峡は微妙な時期に入ることです。また、朝鮮半島も複雑な情勢になる可能性が高いでしょう。冷たいかもしれませんが、これらの問題にわが国が単独で対処することはほとんど不可能に近いと思います。他方で、アメリカは最悪の場合、孤立主義的な傾向を極端に強める可能性が高いでしょう。右派・左派問わず、アメリカの孤立主義は根深いものがあります。日本側の動かせる変数は限られています。アメリカの対外政策に影響を与える力はありません。しかし、限られた変数を最大限、動かす努力をしなければ、アメリカの動向に単に振り回されるだけになるでしょう。好ましくない事態を想定しつつも、最善をつくすしかありません。

 安倍新総裁は、集団的自衛権の行使に関する見直しで政府解釈を一気に正常化する、いわば「トップダウン・アプローチ」をとらずに個別的に検討してゆく「ボトムアップ・アプローチ」を採用するようです。これは、国内外の情勢を考えると、現実的なアプローチだと評価します。「トップダウン・アプローチ」は、いずれ必要になるのでしょうが、よい政策でも、タイミングや国内で多数のコンセンサスをえなければ、定着させることは困難になります。野党は、きたるべき安倍政権と扇情的なほど対立する姿勢を見せると同時に、侮っているように見えます。安倍新総裁に期待することは、第1に、日米同盟の強化という「小泉的なるもの」を政策として明確に継承することです。この点は、私自身はあまり不安はありません。それ以上に、大切なことは、アメリカの世論がぶれたとしても、同盟が揺らぐことがないよう、首脳間の友情に過度に依存しない実務的なアプローチで「小泉的なるもの」を否定することです。

2006年09月20日

宗教と音楽と科学

 カワセミさんへのコメントを考えているうちに、長くなりそうなので記事にしました。「宗教と音楽と科学」というと、テーマとしては大きすぎますし、今の私にこのテーマでそれほど考えが熟しているわけではありません。以前から、ボーっと考えていることを少々。

 まず、お断りしておきますが、大勲位の前で「そんなおっかない遺言を残されても困りますよ」という趣旨の発言をされる方に「神」の称号を送ってしまう私が敬虔な人であるはずがありません。世俗にまみれた、かんべえ師匠、雪斎先生を仰げば尊しとし方と考える者が、仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、敬虔な信徒であるはずがない(二度と口をきいていただけなかったりして)。私自身が、世俗のことで生計をたて特定の宗教に帰依しているわけではありません。占いや世間で「神秘現象」とされていることにも神秘を感じる感性がまるで抜けてしまっている。私が信長だったら、叡山などは焼き討ちどころか、邪教の類としてこの世から抹殺していたでしょう。理由は簡単で坊主は坊主らしくしろという一言で事足ります。

 他方で、科学は万能ではない。自然科学の精度は、ある意味において「神秘的」ですらありますが、それでも「蓋然性」の域から抜けることはないのでしょう。それでも、自然科学は自然のありようについて多くを教えてくれる。社会科学は、自然科学ほどの精度を期待できませんが、それでも政治のありようや経済のありようについて少なくないことを教えてくれる。自然科学との違いは、精度の問題もさることながら、価値の問題にコミットせざるをえないという、これも程度問題ではありますが、宿命なのかなと思ったりします。失礼ながら、政治学が進歩しても理想的な政体が生まれるとは思えず、経済学が進歩しても理想的な経済が実現するとは思えない。現状よりも少しでもマシになることに貢献できれば、素晴らしい。現状がどうなっているかということを正確に示すだけでも困難ですから、やむをえないと思います。

 音楽をはじめとする芸術は、科学が真なるものに奉仕するのとは対照的に美に奉仕する。私みたいないい加減な人間は、宗教心がなくても(『聖書』にある奇跡というのがどうも私にはむずかしすぎるようです)、バッハを楽しむことはできます。また、宗教音楽も宗教から切り離すのではなく、宗教的な情熱を私自身がもたないにしても、それを尊重して崇高なものへの憧れをもつ人は素晴らしいと思います。これは極論ですが、芸術も科学も目に映じた「現実」から離れたなにかへの憧憬がなければ、けっして成立しないでしょう。それが宗教的動機なのか、それ以外のものなのかの区別は、考えだすと止まらないぐらい難しい。

 「結局西洋クラシック音楽の勝利は文化というより論理と科学の勝利」というカワセミさんのコメントは一側面を的確に捉えているのでしょう。一面において西洋音楽と科学の発達は、キリスト教的世界観からの解放なのでしょう。他方で、普遍的なものへの憧れがなければ、西洋音楽も科学も発達しなかったでしょう。歴史的にみて科学や芸術の発展を担った人が、宗教的であることも少なくありません。私には現代社会が宗教にかわる確固とした価値観をうみだしたと断言できるほどの確信はありません。他方で宗教的世界に戻っても、問題が解決することはないのでしょう。お約束のように、とりとめがなくなりましたが、「神なき世界」はかならずしも生きるのが容易ではないのは、先進国の諸現象が示していると思います。

 もっとも、宗教的な暑苦しさのない現代の方が私みたいなちゃらんぽらんな人間には生きやすい世界であることは否定できないのではありますが。私みたいなのが、仮に音楽的才能に恵まれたとしても、「マタイ受難曲」を心を込めて作曲している姿など想像するだけで恥ずかしい。オチがついたので今回はここまで。
posted by Hache at 09:24| Comment(1) | TrackBack(0) | まじめな?寝言