2006年10月09日

手荒い祝砲

 うーむ、命の賢者様(ボッシュ)のおっしゃるように私が体調を崩したというのは、なにかの前触れだったのでしょうか。9月の中頃に『産経』が安倍政権誕生後、中国を訪問する話が浮上していて韓国が焦っている旨の記事があったので、中韓訪問はサプライズではなかったのですが、こんな手荒い「祝砲」が待っているとは…。北の意図はわからないのですが、安倍総理の「標的」が北朝鮮だとすると、中韓を歴訪するというのは「真綿で首を絞める」ような迫力があります。小泉総理のような痛快さは全くないのですが、真綿で相手の首を絞める手法は私自身が好きなので、思わず歓迎したくなります。これに北朝鮮が反応したとは思わないのですが、金正日の意図がどうであれ、自らどんどん選択肢を狭めている印象があります。ミサイル発射への「見返り」が罰であったことで、瀬戸際外交は破綻しました。核実験に関しては報道での情報しかわからないのですが、朝鮮半島をめぐるゲームの構造が変わったことを北朝鮮が認識しているのかは別としても、戦争への道を急いでいるようにも見えます。

 現段階で記事にするには早すぎる感がありますが、今回の「核実験」でえた北朝鮮の「見返り」を考えてみました。

(1)安倍総理の訪中、訪韓とあいまって中韓が真意はともかく日米、とくにアメリカへ近づく機会を与えた。とくに韓国には米韓同盟に再び戻る最後の機会になるかもしれない。「統一」という野心を臆病さで抑えられるかどうか。私は、臆病は恥ずべきではないと考えるが。この機会を逃した場合、韓国の運命はまるでわからなくなる。中国は、事前にアメリカに情報を通告することで、この件に関してはアメリカに「恭順」の意を示している。胡錦濤は仕事がやりやすくなった。

(2)アメリカ側の選択肢を増やした。元々、アメリカの方がはるかに選択肢が広いのだが、今回の一件は、核実験が成功したか否かにかからず、外交上だけでなく、道義上の前提を踏みにじった。以前から軍事的オプションをブッシュ政権は考えていたかもしれないが、行使する蓋然性はほぼゼロだったのがこれで無視できなくなった。

(3)イランと同等、あるいはそれ以上の悪評を欧米のメディアからえることに北朝鮮は成功した。国連でのアメリカの仕事はやりやすくなった。また、日本がアジアの不安定要因であるかのような表現は、少なくとも、当面はひそめる。

(4)北朝鮮がえたのは国威の発揚ぐらいである。どこまで国内的要因によって体制の維持可能性が危うくなっているのかはわからないが、ミサイル発射からほぼ3ヶ月であり、自転車操業状態になっている可能性がある。

 当面の舞台は国連安保理でしょうが、最悪の場合、周辺事態法が想定している事態が生じる可能性が無視できないでしょう。制裁などの措置は、もちろん強いメッセージでしょうが、周辺事態法で訳のわからん憲法解釈で禁じられている行為を見直すのも、それ以上に強いメッセージとなるでしょう。2条2項を削ってしまえというのは、乱暴でしょうが、変な条文が多い法律だなあと思います。直ぐそばで米軍が戦っているところに支援したら憲法違反というのはなんだか情けない話だなあと思います。他人事ではない「事態」なのに、まるで他人事のようにしか扱っていないかのように読めてしまうのは、やっぱり私の頭が悪いからかしら。

 江畑謙介さんがNHKに出演されていたので、満足してしまいました。でも、江畑さんがNHKに呼ばれるときは…。

黒い風が泣いてる…。

よくかぜをひくデブ

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:相変わらずかあ…。それにしても、よくこれだけ眠れるのお。
ハッシュ:ふわあ、なんじゃ、おぬしか。
ボッシュ:…。なんとも平和な光景じゃな。
ハッシュ:気のせいか、最近、客人が多いのじゃが…。あまり、喜べぬことじゃが。
ボッシュ:こんなトコにも、ワシ以外に客人が来るのか?
ハッシュ:客人といっても、物やサービスを売るわけではないがな。おぬしやあのデブがくたばった後ぐらいからが異様に多い。
ボッシュ:…。いきなり、おっかないのお。おぬしはワシやあのデブの死期までお見通しか?
ハッシュ:あくまで喩えじゃ。正確な年代は特定できぬが、まあ、あの様子では大きな異変があったんじゃないのかな。ジールが、火山の爆発で吹き飛んだ後の状態のようじゃ。口を利けぬものばかりがくるし、記憶がとんでおる。ワシもお手上げじゃ。
ボッシュ:…。なんだか、「ノストラダムスの大予言」みないな話じゃ。まあ、おぬしの寝言はともかく、ワシはちと驚いたぞ。
ハッシュ:ほお?
ボッシュ:バカはかぜをひかいそうじゃが、あのデブがかぜをひくというのは、天変地異の前触れかもしれぬ。
ハッシュ:あのデブ、見かけよりも体が弱いからのお。「寝言」で書かないだけでしょっちゅう体調を崩しておるわ。
ボッシュ:ほお。意外よのお。あのデブに殺虫剤をかけても、死なないように見えるんじゃが。
ハッシュ:…。
ボッシュ:…失礼。ところで、おぬしのところの客人が増えているというのは…。
ハッシュ:客人といっても、おぬしと違ってお金をもらうわけではないがな。あのデブは、ちと例外じゃな。あんな平和な国からやってくるというのは、まず他にない。たいていは、戦争とか大災害の時期にここにふらりとやってくる者が多い。つまり、社会が混乱している時期にここにふらりとやってくる。あのデブの場合、頭の中の整理がつかなくなってここにふらりとやってきたようじゃ。
ボッシュ:…。言いにくいんじゃが、おぬしの方が、ひどいことを言っていないか?
ハッシュ:そうかのお。ワシは、眼に映ずるままのことを言っているだけじゃが。
ボッシュ:まあ、あのデブの話はどうでもいいんじゃが、どうもバカはかぜをひかないというのはひっかかる。
ハッシュ:ほお?
ボッシュ:なんだか、体力と知力は対立するもののように聞こえるんじゃ。
ハッシュ:…。
ボッシュ:逆にな、健全な肉体に健全な精神が宿るという言葉もあるんじゃ。どうも、わからぬ。
ハッシュ:まず、ワシにわからないのは、肉体と精神は別のものかね?
ボッシュ:…。そういえば、ジールの頃にはそのような発想はなかったな。
ハッシュ:ワシは懐古話をしたいのではない。肉体と精神が別だと考えるのは、どういうときじゃ?
ボッシュ:…。なんだか、嫌な雰囲気だな。突っ込まれることを覚悟して言ってしまうと、体が丈夫だが頭は今ひとつとか、逆の場合を見ると、肉体と精神は別のように思える。
ハッシュ:もっと、それを実感するときがあるじゃろ?
ボッシュ:すまん、おぬしの問答にはついてゆけぬ。
ハッシュ:死じゃ。
ボッシュ:…。肉体だけが残って、魂は去ってゆくというわけか。ジールでは逆だったな。肉体は有限だが、魂は無限だった。
ハッシュ:肉体と精神が別だといってもよいし、同じだといってもよい。
ボッシュ:…。ワシの頭ではおぬしが今、言ったことがまるでわからぬが。どちらかしかありえないんじゃないのか?
ハッシュ:ワシの睨むところでは、あのデブの混乱の始まりは、どちらかしかありえぬという発想じゃな。あのデブが考えても、どうにもならぬ問題じゃ。
ボッシュ:ワシにもわからぬが…。
ハッシュ:考えずに生きれば、それが答えになる。考えてわかる現実など、現実ではない。
ボッシュ:済まんが、ワシまで気が触れそうになる。今日は、そろそろ帰るね。
ハッシュ:おや、まあ。また、おいで。そうそう、あのデブへの独り言じゃ。ジパングでは連休じゃそうだから、とっととかぜを治すように。

 …。…。…。かぜなのかどうかはわからないのですが。季節の変わり目には必ずといってよいほど、こういう羽目になります。少なからぬ方々に御心配をおかけしました。あらためて感謝いたします。

 それにしても、死についてどこかでいつも考えてしまいます。祖母が亡くなった未明に祖母が私の夢に現れて「さようならを言いに来たの」と言うので、思わず夜中に目が覚めて家中を見渡したら、弟は寝ていたものの、両親が見当たらず、子供心にこれは只事ではないと思いました。祖母が息をひきとる前の出来事でした。神秘体験など、科学に「汚された」私は、一切、受けつけないのですが、これだけは生々しく、昨日のことのように記憶しております。祖母のお通夜の時には、後にも先にもないぐらい泣いてしまいました。翌朝、亡骸を見ていると、涙が止められなくなって、三河の親戚に殴られてようやく収まりました。それ以来、死は常に私とともにあります。子供の頃ほど思いつめた状態ではなくなりましたが。子供の頃は、明日、死ぬかもしれないという感覚から今日やっておくことばかり考えていました。さすがに年とともに、そのような緊張感が薄れ、堕落してきましたが。

 私自身がおっちょこちょいなのでえらそうなことはいえませんが、フランシス・フクヤマという人の「歴史の終焉」や『歴史の終わり』を読んでなんて危なっかしい議論なんだろうと思いました。他方で、こういう議論ができてしまうのもアメリカの強みかなあとも。「寝言」ブログなので書けることですが、世間では生活に支障がでないように「現実主義者」のように振舞っていますが、内面では素朴な現実など信じることができません。もっと言ってしまうと、疑うことも信じられないです。「私は私である」というときの、真偽判断をする「私」はいったいなんなんだということを考えると、さすがにこれは危ない感じがします。

 イギリスの自由主義的な伝統は、現存する、あるいはこの数百年の歴史で存在した文明の中でよりマシなものだとは思いますが、それをなんの衒いもなく肯定することにはどうしてもためらいがあります。危ない人と思われるかもしれませんが、なにもかもを疑いだすと、自我すら疑わざるをえません。主義主張のなんと儚いことよと思います。どんな主義主張も信じられなくなると、生活に困るので比較的マシなものを信じているふりをするしかないのですが、頭の悪い私には、真剣にやるふりでしかないように感じます。

 芸がないのですが、精神的に危ないと思うと「私が私である」こと自体を忘れてしまいます。自我?どうでもいい。他人?どうでもいい。社会?どうでもいい。自然?どうでもいい。すべてを放逐してしまうと、あとは絶句するのみです。言葉にできない「なにか」があって、所詮、知的営みなどそこから断片をもってきては、「これはこうだ」と形にする。絶句するしかないものを表現するには、そうするしかない。そんな感覚で生きています。

 社会や自然について真剣に議論をしている方たちをバカにするつもりはありません。結局、なにかに真剣に取り組むことが答えそのものですから。私の場合、子供のように絶句しながら、とりあえず「こういうことにしておく」という感覚からぬけることができません。祖母が亡くなった6歳のときに、自分が何をしたいのか、哲学や思想など他人の借り物に頼らずに自分で考え続けた時期がありました。答えはありませんでしたが、人間、社会、自然を問わず本当のことが知りたいという欲求しか自分にはないのだということに気がつきました。あれから、30年、時期に濃淡はあれ、あまり変わらないことに気がつきます。本当のことを知ろうとすると、絶句するしかないというどうにもならない事態に困惑を覚えつつも、「思い通りにならない『現実』」と付き合ってゆく術を覚えてきたのかなと思います。それが、進歩なのか退歩なのか、自分でもわからないのですが。まあ、「時の最果て」で「寝言」を書いている人は、そんな程度の人です。

 連休中にこんな訳のわからない「寝言」を最後まで読んでくださった方に感謝いたします。例によって、心から感謝の念をこめてお約束を捧げます。



ここは「時の最果て」、すべては「寝言」。

おやすみなさい。