2006年11月07日

『少女A』が流行した時代

 日曜日の記事を書きながら、ふと思い出したのですが、私の子供の頃の「不良」は少しだけ変わっておりました。本題に入る前に、ちょっとだけ懐古趣味モードです。

 中森明菜の『少女A』が流行したのが中学生の頃でした。私は団塊の世代ジュニアのちょっと上で、彼らほどではありませんが、同世代の人数が多い。当時は、大勢の中に埋没せずに個性をだそうという意欲が強くて暑苦しい次代に、『少女A』はちょいワルっぽい中森明菜が哀愁と不思議な可憐さをだしていた時代でした。ちなみに、当時は、少年犯罪の容疑者を「少年A」などと報道するのが、通例でした。

 当時は「校内暴力」などという言葉が巷でよく使われていて、私の母校も、入学前の2年ぐらいまで、かなり荒れていたようです。今、考えると、60年安保を中学生のときに済ませていたようなものでしょうかね。まじめに、「安保反対!」を叫んでいた方々には申し訳ないのですが、いかれた外道には、校内暴力みたいなもんだなと映ってしまいます。私が入学した当時は一学年が500人近い「マンモス校」で若くて体力がある先生が、体罰をするのは当たり前(10年ぐらい前に体罰をすると親がクレームをつけたり、子供が教育委員会に携帯で連絡するなど、時代も変わったなあと思いましたね)。不良といえば、髪にそりが入っていてボタンがなんか変。見たら、「不良」とわかる格好をしていて、ものめずらしく見ておりました。入学して早々のホームルームで担任にいきなり学級委員をやれと言われて、ちとびっくり。小学校でも2回ほど経験していたので、たいした役目ではないことはわかっていましたが、「いきなりですか」と思いました。今、中学校の教諭をしている友人に尋ねてみると、小学校から中学校へ上がるときに、いろんな資料が送られていて、学級別に偏らないよう、割り振っているようです。

 「不良さん」との「出会い」は、1年生の秋頃でしょうか。カバンを廊下におきっ放しにして、図書「廊下」(図書室をつくる空間的な余裕がなかったので廊下が図書室がわりになっていました)で本を探して帰ってくると、カバンがない。財布の紐がかたい母上が珍しく大枚をはたいて買ってくれたので、なくしたなどとはいえません。必死になって探しました。そこら中をうろうろしていると、カバンを隠している男女の不良さんが教室でたむろしているのを発見しました。私は、ふだん、声がか細いほどにお小さいのですが、いざというときには声が大きいのでありまして、「なにをしている!!」と叫ぶと、不良連中がびっくりして一人の男がカバンをもって逃走しました。当然、追っかけます。

 どうも、教師から受けがいいので前から目をつけられていたらしく、計画犯だったようですが、幸い、「処分」される前に犯行者を見つけたので、さっさと取り返すべく、必死に追いかけました。私は勉強ができるだけで足はとろいと思われていたようです。小学生のときは陸上クラブに所属して、それなりのトレーニングはしていたので、あっさり追いつく。冷静に振り返ると、結構怖いシチュエーションなのですが、無我夢中で相手と取っ組み合いになってもぎとっていました。相手を殴ったのかは覚えていないのですが、悪罵の限りをつくして立ち去りました。なぜか、それ以来、この不良グループが私になついてしまって、困惑した覚えがあります。

 不良グループにも、「派閥」があって、私が喧嘩した相手は「大手」の一つだったようです。あまりお近づきにはなりたくないのですが、彼らの「ネットワーク」には驚きでありまして、誰と誰ができているとか、どの教師が破廉恥行為をしたとか、いろんな情報が入ってきます。これで、学校の大体の状況はわかります。いじめのときには、さすがに彼らに頭を下げました。だって、私の言うことを聞いたところで、彼らの利益にも、評判にもつながらないのに、私の言うとおり、あるいは考えていた以上のことをしてくれて、本当に助かりました。彼らなりに「仁義」があって行動しているので、感心した覚えがあります。まあ、普通の生徒には公開されていない情報を彼らに示唆してグループの「拡張」にそ知らぬ顔をして手を貸したことも大きいのでしょうけれど。

 書き出したら、長くなったので、続きの「寝言」は明日にいたします。
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2006年11月06日

ジムで行うピラティス 初心者編

 月曜日はピラティスのコーナーみたいになっていますね。管理画面で「検索ワード」から適当にこれで検索したのかなと「ピラティス 胸郭」でググルと、10件目あたりでヒットいたしますので、ちとびっくり。これは書かないわけには参りませぬ。mitsu様には「裏切り者」、「軟弱」と批判されるのを覚悟しつつも、断腸の想いで綴るしかありますまい。…癖になって、やめられないだけですが。今日は、30分のレッスンの中身を大公開。っていっても、たいしたことはしていないのですが。

 ジムでの今月のトレーニングは、基本の徹底。スタジオの鏡に背中をくっつけてまずは直立。その上で、胸郭呼吸をしながら、立ったまま、ニュートラル・ポジション。これは、どうということのない動作です。問題は、立ったまま、インプリントする指示が出るのですが、どうもうまくゆかない。インストラクターのねらいは、参加者に腹横筋の動きを自覚させることにあるのですが、思ったように骨盤が動かず、腰がうねうねしてしまいます。仰向けに寝た状態よりも負担が大きいので腹横筋の動きが強く感じられるはずなのですが、思うように動いてくれないので、意外と大変です。私の前にくると、もっと下腹部を押し付けるように手取り足取り、教えていただくのですが、できの悪い生徒みたいで、恥ずかしい。

 マットに戻ると、まずは呼吸の確認。初めての人がいると、胸郭呼吸のやり方から繰り返しになりますが、やはり腹式呼吸に慣れている者からすると、呼吸を整えることからやっていただいた方がありがたいです。さらに、左右のわき腹を伸ばすストレッチ。正確には肋骨の間を広げるためにやるのですが、動作を正確に書いていると面倒なので省略。ストレッチが5分程度で次にニュートラル・ポジションとインプリントの確認です。ニュートラル・ポジション自体は、腹圧を高めた状態で恥骨と腸骨でできる三角形の平面をマットと平行にするだけなので、自然にできます。問題は、インプリント。直立した状態よりも、楽ではあるのですが、うまく動かなかったり、あまり意識せずにできたりと、日によってバラバラ。金曜日は苦労しましたが、日曜日は自然に動いて、こころなしか、筋肉の動きも自覚できました。というより、普通の腹筋では痛くないところが痛いので、嫌でもわかりますね。ついでに上体を軽く起こす動作を3回ほど行います。このとき、腹直筋(通常の腹筋トレーニングで鍛えられる筋肉)を使っては意味がないので、お腹の浅いところの筋肉が張っていないのかをチェックします。

…。腹直筋は使っていないのですが…。それにしても、まだぶよぶよですなあ…。

 次の動作は、いよいよ応用編。マットの端に膝をたてて座って(いわゆる「体育座り」)、膝の間にこぶしがひとつ分程度、空くようにして、まずは骨盤を立てます。ニュートラル・ポジション。そこから、インプリント。背中が丸くなるのがポイントですが、立ったままより楽とはいえ、やはり厳しい。ついつい、肩が動いてしまうので、これを力を抜きつつ、骨盤だけ動かす感覚です。最初は、背中を丸くする程度を3回、次に、ウェスト・ラインまで骨盤を倒してゆきます。このときも、背骨の付け根から徐々に倒れてゆく感覚を保つのがコツなのだそうですが、思い通りに動いているのか自信がありません。さらに、ウェストラインまで下げる動作を3回ほどした後に、肩甲骨までゆっくりと状態を倒してゆきます。ここで厄介なのが、ついつい、腹直筋を使ってしまいがちなこと。ある程度はやむをえないのでしょうが、気をつけないと、ぬるい筋トレになってしまいます。単純な動作ではあるのですが、使う筋肉が違うので、意外と難しい。

 肩甲骨まで上体をおろしたら、今度はゆっくりとウェストラインまで戻してゆきます。これを腹直筋をできるだけ使わないようにやると、なかなかシビアです。これが3回。さらに、肩甲骨まで下がった上体から、さらに上体をおろして完全に寝ます。そこからすぐにゆっくりと背骨をマットから引き剥がすように、上体を起こしてニュートラル・ポジションまで戻します。もちろん、腹直筋を利用するのは不可。てなわけで、傍目にはぬるい動作を3セットやるのですが、この時点で、私は以前ほど汗をかきませんが、かなりきついです。

 実は、ここまでで、既に20分が経過。この後も、四つん這いになってニュートラルからインプリントとか、うつぶせの状態からインプリントをしながら、手足をバタバタさせて、骨盤を固定しながら、腹横筋と背筋の両方をやる動作などをやって30分のレッスンが35分かかって終了。以前ほど苦しくはないのですが、思ったように骨盤が動いてくれないのでイライラします。この後は、ポールを使ったストレッチをやって、間をおいてから、軽く筋トレ。腹筋が痛いこと。昨年の11月にジムへ通いだしたのですが、トレーニングを始めた頃でも、これほど腹筋がきつかった覚えがありません。ちょっと、無理をしている感があるので、通常の腹筋は傾斜をぬるめにして、落ちない程度にしています。

 それにしても、最後まで読んでくださった、そこのあなた。暇な方でなければ、よほど忍耐力のある方ですね。実は、このブログに書いておいて、ジムへ行けないときに動作を忘れたときに確認するためのメモなんですけど。ここまでスクロールされるとは、あなたの持久力は素晴らしいです。そんなあなたにピラティスはお勧めです。そういえば、ヨガはサボりまくっているなあ…。あのインストラクター、怖いんで、入りにくいなあ…。ピラティスのみにしようかなあ(弱気)。

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2006年11月05日

「いじめ」考

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:ここまで、お約束どおりだと、数少ない読者のみなさんにもあれじゃが…。あのデブのブログが人気がないゆえ、ワシらの人気も出ないのがちと寂しいのお。おい、いい加減に起きんか。
ハッシュ:ふわあ、なんじゃ、おぬしか。
ボッシュ:…。おぬし、いつも同じことを言っていて飽きんのか?
ハッシュ:いつも同じだったかな。
ボッシュ:…。知らぬが仏ともいうから、なにも言うまい。ちょっと古い話だが、ジパングではいじめというのが話題になっておる。
ハッシュ:いじめ?
ボッシュ:体が弱かったり、喧嘩が弱そうな子供を別の子供が集団になって嫌がらせをしたり、暴力を振るったり、いろいろじゃな。小学校や中学校あたりの教室単位で起こることが多いようじゃ。子供が子供をいじめるというのは、どうも好かんな。いじめられた子が自殺まですることもある。ここまでくると、犯罪に近い。
ハッシュ:しかし、ジールの頃とて自殺した者は知らぬが、それに似たことならあったじゃろ?
ボッシュ:まあ、そうなんじゃが。ただ、ワシが今いる時代だと、だいたい15歳ぐらいまでは学校に行くことが義務づけられておる。同じ学校とはいえ、いろんな子供がおるじゃろ。そこで、狭い教室に閉じ込めると、いろんな理由でいじめが起きやすいんじゃ。いったん、この子をいじめても大丈夫という雰囲気ができると、やっかいなんじゃ。呆れたことに、学校の教師ともあろうものが、その雰囲気を煽ることもあるらしい。
ハッシュ:雰囲気でなぜいじめるんじゃ?
ボッシュ:…。説明が難しいなあ。ワシらはこの手の話とは無縁ゆえ。まあ、どう言ったらいいんじゃ、テレビなどを見ておるとじゃな、今の子は、といっても、今の20代ぐらいまでそうらしいんじゃが、「浮く」ということを嫌うんじゃ。簡単に言うと、周りと同じことをやっていないと、目立ってしまう。それを嫌がるんじゃ。ただ、ワシの目からすると、テレビにでている人など、ジパングでも世間からずれた人の方が多いようじゃから、こんなことが言えるわけで、会社というところでも大して変わらんようじゃ。ワシの印象では、ガルディアよりも、ジパングでは周囲から浮くということが、仕事や学校生活に支障がでかねないぐらい、集団への意識が強いようじゃ。
ハッシュ:しかし、ワシらとて、それでいったら、ジールで浮いておったじゃろ?「理の賢者」だの、「命の賢者」だの、「時の賢者」だの、頭がおかしいだけじゃないのかと陰口を叩くものもおったじゃないか?
ボッシュ:…。まあ、それはそうだが、ワシらは女王の庇護の下にあったし、周りも変わり者と思いつつも、大半は、一目おいてくれた。しかし、小中学生の場合は難しいんじゃよ。ちょっとしたことで、自分と違うものに敵意をもつし、それを抑える力も弱い。さらに、いじめる子供の保護者や学校がそれを見てみぬふりをしたり、最悪の場合、煽るんじゃ。こうなると、もう勢いさ。手のつけようがない。
ハッシュ:しかし、程度の差こそあれ、ワシらの頃にもあったじゃろ?
ボッシュ:なんというのか、その雰囲気の強さがジパングは、違うようなんじゃ。
ハッシュ:しかし、雰囲気といっても、所詮は、一人一人の感じ方の問題じゃないのか?いじめられる子供のことが憎たらしいと思うものもいれば、そうでない者、どうでもいい者、人それぞれじゃろ?
ボッシュ:そうだが、ジパングはどうも集団から浮くのが難しいんじゃ。政党の有力者や政府の権力者ですら、集団のコンセンサスから離れたことを言うと、ぼろくそに叩かれる。
ハッシュ:しかし、その場合には、おぬしが以前、言っていたように、選ばれた人たちだから、ちゃんと自分の趣旨を的確に説明すれば、収まる話じゃろ。そういう場も保証されているようじゃないか。それができなければ、無能ということじゃな。だいたい、人の上に立つものが、世間を説得できぬようでは終わっておるな。いじめの話は、ワシにはようわからんが、人の上に立つ者が「いじめ」なるものから自分を守れなかったら、まして子供など、ご無体な話じゃ。
ボッシュ:…。話がそれるから、元に戻すが、ジパングでは村八分といって昔から周りから浮かぬことが、生きてゆくうえで肝心なんじゃ。こんなところでぼーっとしている御仁にはわからぬじゃろうが。村の掟を破ると、葬式と火事以外は面倒を見ないという話なんじゃな。いいかえると、いじめにも限界があったようじゃ。今は、その限界がなくなっておる。これは容易ではない。
ハッシュ:最初からそうじゃが、いよいよワシにはわからん話になってきたな。掟を破ったら、しょうがないんじゃないの?
ボッシュ:…。おぬし、いじめを肯定するのか?
ハッシュ:たとえば、核爆弾なる物騒なものをつくろうとした国があるとする。まさに掟破りじゃな。これに、カネで締め上げ、場合によっては「暴力」を加えるのはいじめではないのかね?
ボッシュ:…。それとこれとは別の問題じゃろ?おぬし、どうかしたのか?
ハッシュ:ほおれ、おぬしもそう答えるじゃろ。掟を破った場合、破った者が平然としてたら、掟などあってなきがごとしじゃ。しかし、なんじゃ、「せいさい」とかいうものを受ける側からすれば、「いじめ」じゃのお。「いじめ」など、それをいじめと感じるかというのは立場によってまったく違う。さらに言うと、なんじゃ「ほうりつ」とかいう話の場合でも、罰則があったり、なかったり曖昧だったりするようじゃ。こうなると、ワシにもようわからん。ただ、子供のいじめの場合、掟自体が曖昧なんじゃ。いじめる側もなんでいじめたのかということを突き詰めてみれば、よくわからないとなるんじゃないかな。要は、いじめたいからいじめたという話ぐらいにしかならぬ。いじめられる方も同じじゃ。よほど変わり者でもない限り、自分からいじめられたいという者は少ないじゃろ。いじめられる側からすれば、理由がよくわからない。いじめる側もいじめられる側も、どうでもいい話なんじゃ。ただし、お互いがどうでもいいと気がつくには、大人になるしかない。もっとも、年をとることが大人になることとは限らないが。
ボッシュ:…。しかし、自殺した子供はかわいそうじゃぞ。おぬしは、それを放置しろと言うのか?
ハッシュ:おぬしは、昔からそうじゃった。正義感が強くて、ワシも好きじゃ。しかし、元々、感情的になりやすい話で感情をぶちまけたところで、なにも変わるまい?表現は悪いが、いじめなるものも、ある種の自然現象のようなものと思って、ある確率で起こると見るんじゃ。それをゼロにすることなど、到底、不可能に近い。それを低くする、そして起きたら、状況に応じて対処する。いじめの「なぜ」を問うのではなく、「どのようにして」対処するかが問題じゃ。「なぜ」を問うている間にも、いじめは起きる。もちろん、「なぜ」を問うことは大切じゃ。しかし、いじめの現場で臨機応変の対応ができなければ、意味がない。ワシ自身は、集団生活などごめん真っ平じゃが、集団で暮らす以上、この手の問題は絶えぬ。絶えぬことをまず認めないと、どうにもならんとワシは思うな。
ボッシュ:…。ワシにはついてゆけない話になった。なんだか疲れてしもうた。悪いが、そろそろ、お暇する時間じゃ。それでは。
ハッシュ:まあ、そうことを急かぬことじゃな。また、おいで。

 私もついてゆけない展開ですが、いじめられた経験もありますし、止めた経験もあります。いじめというのは、ある水準を超えてしまうと、とめどがなくなります。小学校低学年のときにはいじめられました。まあ、露骨に言うと、殺意を覚えましたが、あんな奴を殺して自分がひどい目にあうのも癪なので、だんだんと鈍感になってしまう。時々、仕返しをしてやるんですね。テスト程度も自分でできない奴が相手だったので、わざと全部、間違った解答を見せてやって、残りの10分で自分だけ正しい答えに全部書き換えてしまう。当然、写したバカは先生にどしかられるので、周りがバカにするようになります。私は、「同盟不能者」だったので、「自主防衛」でそうやっていじめをしかけてくる中心メンバーを一人一人、追い詰めてゆきました。最終段階ではいじめる側が周りから浮いてしまって、メンバーの一人が窓から飛び降りそうになりました。そばに行って「この程度で死ぬんだったら、勝手に死ねば」と言って、とどめをさしてやりました。どうせ、いじめなどをする連中は死ぬ気がないんで、これぐらいやらないとダメです。

 止める方は、はるかに難しい。「いい子ぶってる」と浮きかねません。中学生のときですが、前から嫌な雰囲気は感じていたので、まずいなと思っていましたが、こういう場合、ことが大きくなるまで対処が難しいです。あるとき、いじめられていた子が学校から授業中に耐えられなくなって逃げ出してしまいました。クラスは騒然として、先生もおろおろするばかり。言いにくいのですが、こういうときがチャンスでありまして、まずは、いじめている側の中心人物に向かって「あの子、死ぬ気かもしれないよ」と冷たく言い放つと、震え上がりました(最近は、この手は利かない水準にきているので大変だなあと思います)。これまた書きにくいのですが、いじめられる側にも全く問題がないケースというのは少ないのですが、「いじめた方が悪い」と決め付けるしかありません。

 後は、学級委員長の名を借りて内々に先生に、家に連絡するように指示して、学校に戻らせて、私と二人で話し合いました。とにかく話を聞いてあげる。全部、鬱憤を吐きださせるしかないんです。タイプにもよりますが、私の見るところ、この子は冗談抜きで自殺しかねない。だから、全部、吐き出させてしまう。彼の言うことに、いいとも、悪いとも一切、口を挟まない。彼は、相手が全部、悪いと思っちゃっている。そこで、君もこうすべきだとか言ってしまうと、もうダメです。だから、とにかく、あなたを認めているという態度で接するしかない。全部、聞いた上で、学校の先生に頼んで翌日は自宅で休ませることにして、保護者の方に観察してもらうように頼みました。

 あとは、「裏社会」に根回しです。当時は、まだ侠気のある不良連中が生き残っていました。経緯を書くと面倒なのですが、私が学校で評判がいいので、目をつけていたらしく、ある事件で逆手をとって不良に参ったと言わせておいたので、私の言うことなら聞いてくれる。いじめていた連中を軽く脅して(手はだすなという指示も)もらうように頼んで、学校ででかい顔ができないように手を打っておきました。問題は、見て見ぬふりをしていた、良くも悪くも普通の生徒たちです。これが多数派だったので、一日だけではなく、間をおいておく必要がある。休んだ理由は、風邪という見えすいた話にするよう、担任に頼んで、彼らの動向を抑えておかなくてはゆけない。いじめられた子に過度に同情すると、その子が正常に学校生活を送るのにかえって息苦しくなります。どうも、過度に罪悪感を感じている様子だったので、不良連中に頼んで、間が空いている隙に、騒ぎを起こしてもらって男子・女子ともに別の話題へ関心をそらせる策をとりました。幸い、話が軽くなりました。様子を見計らって登校させると、もう大丈夫で、いじめはぴたりと止みました。

 まあ、とにかくいじめをなくすなんて容易じゃないですね。とくに、当事者じゃない第三者が止めるというのは、難しい。たまたま、うまくゆきましたが、彼がはにかみながら、「ありがとう」と言ってくれたときに、ホッとしました。自分でも打つ手は打ったけれど、この手のことは、逆効果になりかねないことも子供心に理解しておりましたから。また、その場しのぎの対応でしかないことも。

 まあ、こんな経験をしたせいでしょうか、中学校のときの弁論大会で人の数だけある「価値観」というものを「物差し」に喩えて、多様な価値観を否定するのではなく、多様なままでどうやって暑苦しくないつきあいかたをするのかという弁論をぶちました。異なる単位の物差しをどうやって共通の単位でお互いが理解してゆくのか。私の個人主義や自由主義は書物によるものではなく、個人的な経験にもとづいています。だから、よいとか悪いとかという話ではありません。私の個人主義・自由主義というのは、どうにもならない癖(へき)なんです。まあ、これも「寝言」かな。

 なんだか、息苦しい話になってしまったので、こんな下までスクロールして下さったお礼に、気が楽になる話を紹介させて頂きます。肩の力を抜きたい方は、「続き」をどうぞ。




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2006年11月04日

「文化の日」の光景

 金曜日は午後6時早々に仕事を切り上げて、ジムへ「潜り込みました」。9月の終わりごろから、ピラティス以外のことはさぼりぎみだったので、アップからストレッチ、筋トレ、クロストレーナーなどを軽めにこなしました。一通り終わると、最初は眠気があったのが、困ったことに目が覚めてしまいます。それにしても、ピラティスのレッスンで汗だくにならなくなったのは、スタジオ内の室温が低かったせいなのか、余計なところに力が入らなくなったおかげなのか。体調を崩したこともあって、おそるおそるやっていますが、幸い、普通に疲れるだけで、まあ、ほぼ復調といってよい状態でしょうか。

 ちょっと気になったのは、祝日なのに、割と空いていたことでした。おかげでマシーンも快適に使えるので、贅沢な話ではありますが。気がつけば、世の中は事実上の三連休中でもっと楽しいことをしている人が多いのかなあと思ったり。紅葉でも見にゆきたいところですが、それどころではなく、体を動かして頭を空っぽにするのが、一番、手軽でカネもあまりかからない、ささやかな楽しみです。

 ピラティスを始めて、ようやくどのあたりを鍛えているのかをなんとなく感じるようになりました。というより、今まで腹筋のトレーニングをやっていたことが、ようやくわかりました。あまり、通常の腹筋運動では使わない部分で、なんか奥のほうとしかいいようがないのですが。内臓脂肪も燃焼してくれるとありがたいのですが、うまくゆきますやら。

 そういえば、父上は、なぜかマラソンや駅伝の中継を見るのが好きで、あれだけは理解しがたい趣味でした。マラソンなんて見るより、走った方が楽しいと思うのですが(駅伝は本当に勘弁)。

 …。と書いてから、私の方が変だということに気がつきました。体調が悪いのに乗じて堕落した生活をしていたために、リバウンドこそしませんでしたが、体重が減らない。秋晴れが美しくて、そろそろ外で意味もなく、ぶらぶらしたい気分になります。…今の状況では、それどころではないのですが。

 そういえば、昨日は何で世間は休みなんだろうと思ったら、「文化の日」。いやあ、わがブログに一番、ふさわしくない名称でございます。私の生活も然り。雪斎先生が魂のこもった文章を書かれているのに、私ときたら…。「鷲鳥は群れず」とかっこよく言い切りたいですが、「寝言@時の最果て」というネーミングに志の低さが象徴されていて、時々、思い出したようにくる人がいらっしゃれば、ありがたいことというのが正直なところです。極悪師匠がおそらくバカにし、かつ嫌悪するNZ路線みたいなものかなあ…。それでも、NZはNZなりに苦労があるでしょうから、北極あたりがふさわしいのかも。

 ああ、私としたことが、想像力が地球なんてせせこましい範囲にとどまっておりました。「時の最果て」などという、宇宙の一部であるかどうかも怪しいところで、「寝言」という名の「夢」を語るというのが、このブログの本来のあり方。これで、まともな読者の方が減ると確信しておりますが、地球というちっぽけな星に「知的存在」なるものが生まれたなんて、悪い冗談みたいなもの。悪い冗談はお前の顔と文章だけにしろと言われそうですが、あえて反論はいたしませんが、「時の最果て」ではすべてが「寝言」。「知的存在」なるものがすべて消え去った状態の宇宙を考えると、たいして変わらないんじゃないかと思ったりします。

 「寝言」ブログならではの一言ですが、「知的存在」なるものの歴史たるや、暗黒の中にぽつぽつと光が存在するような、暗澹たるものです。それらがすべて抹殺されたところで、「宇宙」なるものに意識があったとして、どうでもいいってなりそうな気が。ニヒリズムとか、現代思想とか利巧な話ではありませんよ。無私の私というものを考えると、物狂いになりかねないようですが、旧態依然として、「知的存在」としての「私」から一歩も出ることができない。どうでもいいことで右顧左眄するわが身を振り返るに、「知的存在」なるものは、所詮、自然現象のように映ります。もし、「宇宙」なるものに意識なるものがあるならば、その一部としてそれ相応に愛するかもしれないけれども、他と分け隔てなく、一部として扱うだけでしょう。かくして、知性も低ければ、文化の香りにも縁が遠い私の人生は、自然現象と同じものになってしまいます。要は、同じことの繰り返し。どんな進歩思想も、どんな保守「反動」思想も、「寝言」をぶつぶつ言っている人には無縁で、ピラティスで「はぁはぁ」している快感に劣ってしまうのです。

 どうでもいいことをぐだぐだと書いていたら、本当に眠たくなってしまいました。おやすみなさい。
posted by Hache at 01:30| Comment(4) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言

2006年11月03日

家庭でできるピラティス 実践編

ようやく、この話題にたどりつきました。ちとよれよれではありますが、せっかく20分もかけて教えていただいたので、やらなくては申し訳ありません。不思議なもので、家でやると、ジムのときよりも楽に動かすことができます。まあ、自意識過剰なのでしょう。

 まずは、呼吸を整えます。例の胸郭呼吸という奴ですが、意外と深い息ができるので不思議です。さすがに走っているときには無理でしょうが、心なしか、静かに呼吸をしていると、身も心もリラックスしてきます。疲れているときは、そのまま寝てしまいそうなので要注意なのですが。

 …。というより、最初は寝てしまったので、最近は、目を覚ましたときににやっているというのが正直なところであります。

 まずは、ニュートラル・ポジション。下腹部の三角形が床と平行になる状態です。インストラクターは腹部にボールを乗せることを勧めていましたが、あいにく見当たらないので、自分で触って確認。ゆっくり息を吸ってから、吐きながら、インプリント。DVDでもみかけるシーンではあるのですが、なかなか思い通りに骨盤が動いてくれません。やっぱり体が硬いなあ。これは、DVDだけではダメ。腹筋に軽く力を入れながら、ゆっくりと骨盤の付け根の辺りが沈む感じなのですが、とても、3日程度では、イメージ通りには動いてくれません。腹筋に必要以上に力を入れないようにして、沈めるのですが、道のりは遠い。

 まだ、効果を実感できる期間ではないのですが、10分でできるし、朝、ぼーっとしているところでやると、意外と気もちいいです。10分程度、練習をしてあとは腹筋を100回程度、こなしています。これですっきり頭も体もしますね。ジムだと、傾斜のある台になるので20回を3セットが限界ですが、平らな状態だと、いくらでもいける感じ。お腹の脂肪がとれたら、腹筋が少しは見えそうです。

 まあ、とにかく続けるしかないですね。私より、はるかに筋のよいインストラクターが半年かかったというのだから、一年でできるようになったら、上出来でしょうか。ようやく、入り口にたどり着いたところですから、力む必要もなく、淡々とマスターしてゆきたいです。気長な話ではありますが。

 あんた、平和そうだなあって?英語に訳すと"choice"なんて雑誌を見ていると、みっともないなあと思います。大変なときに「てえへんだ、てえへんだ」と騒ぐことほど見苦しいものはない。安倍政権が淡々とまともなことをまともにやってくれれば、それを淡々と支持するだけです。おそらく「善意」(スタンドプレーの可能性も否定はできませんが)で安倍総理の足をひっぱていた方が約2名いらっしゃいましたが、最近は静かで精神衛生に実によろしい。核をもつかもしれないという「こけおどし」で、中国に嫌味をつけておくなんて、常任理事国入り程度のことすらできない国がとる「戦略」ではないでしょう。この程度のことは、「戦略」というにも値しない。

 私自身の考える戦略は、5年前からまったく変わっていません。哀しみを覚えずにはいられないのですが。私がある方に送った私信の一部を引用して、この問題には、これ以上、かかわらないことにいたします。

 わが国は戦前、誤った情勢判断にもとづいて勢力均衡を変える立場にたち、敗れました。そして、侵略者として汚名を歴史に残しました。戦争によって確定した国際関係や失った名声を戦争以外の手段で変えることは困難です。まして、世界中を巻きこんだ大戦争の結果をいわゆる平和的手段のみで変革することは不可能だと思います。私は、イデオロギー的な反戦思想には違和感を覚えますが、戦争を好むものではありません。しかし、国際秩序に武力で公然と挑戦する国が現れたならば、同盟国である合衆国とともに戦うのは当然であると考えます。そして、国際秩序の維持と同盟国を守るために集団的自衛権を行使することによって結果的にではありますが、わが国の国際的な名声の幾ばくかは回復されるものと思っております。これは自国の利益・評判に偏った見方かもしれませんが、先生が繰り返しご指摘されている「自国を守る心情が自然に発露されれば、ときには自己犠牲をはらって同盟国を守るのが当然である」ということを私なりに上記のごとく理解いたしております。

 国家レベルの戦略は、「ひらがな」で説明できなくてはダメです。広く共有されなければならないから。戦略など常識で考えれば、そんなに難しいとは思いません。問題は、それを実現する仕掛けを些かの懈怠なく、細心の注意を払って行う政治的営みです。その営みに専念していただくために、私たちは代表者を選んでいるのです。
posted by Hache at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康な?寝言

2006年11月02日

私の個人主義(後編)

【お知らせ】

 お食事中の方は、食事後に読まれることを強くお勧めします。文中、食事中にはふさわしくない表現がでます。この点に関する苦情には一切、お答えしませんので、了解ください。

【本文】

 記事タイトルに偽りありですね。「私の個人主義」となっているにもかかわらず、個人主義の話がでてこない。うっかりしておりましたが、ジムのインストラクターと話をしていて、なんとなく感じたのは、個人主義的だなあということです。最近の教育改革論議では、個人主義という表現は悪い意味の文脈で使われる印象があります。私が個人主義という言葉を使うとき、私の主義主張というよりは、処「生」術のような意味あいが強いです。私は私であって、君ではない。もちろん、私が私であるのは、君がいるからなんだけれども、私の頭がかゆいと感じるときには私がそう感じるのであって、君ではない。他人なしの私などないわけですが、ある範囲内においては自分の行動や考えを律するのは私以外にはありえず、その点において、私の行動や考えの最終的な審判者は私以外には認めることができない。

 まあ、これでは抽象的すぎるので、インストラクターと話していると、とても親切ですし、優しく、文句なく、いい人です。しかし、どこかで突き放したようなところがある。最終的には自分のことは自分でお決めくださいという部分がでてくる。簡単に言うと、ドライなんですね。まあ、陸上をやっている人の数だけ個性があるので、なんともいえないのですが、集団競技をやっている人と比べると、どこか、よく言えば醒めていて、悪く言うと冷たい。私からすると、これはあくまで傾向ですが、集団競技をやっていた方は、よく言えば利他的で、悪く言うと暑苦しい。そこまで教えてくれなくても、あとは自分でやるからと言いたくなります。また、無意識に他人の内面に踏み込んでくる感覚があります。それを自然と受け入れるか、どこかで疎ましいと思うか。個人競技をやっていると、一見、人と馴れ合っているようでも、どこかで、人は人、他人は他人というのが、スポーツをしているときですが、集団競技の場合よりも、程度問題でしょうが、強く出てきます。まあ、インストラクターと話をしていてふと感じただけですが。

えっ、お前と口を利くのも本当は嫌いなんだけれど、仕事だから、教えてくれって言われれば、嫌でも教えなきゃいけないから、そうなる?

…。その可能性を読み落としておりました。その可能性を認めるだけで議論の前提がすべて崩れますが、強引に話を進めてまいります。

 長距離パートですが、私が高校2年のときで3年生を含めて14人ぐらいでした。同級生がたしか、6人ぐらい。個人競技とはいえ、練習は共同作業になります。まずは、軽くアップして体操をした後でじっくりストレッチ。主将が練習の内容を告げて、2−3時間程度、走ります。長距離とはいえ、瞬発力がないとお話にならないので、当然、ダッシュをすることもあります。しかし、最も楽しいのは、やはりロード。15−20q程度を途中の休憩を含めて2時間ぐらいで走っていました。最初はのんきなもので、通りすがりの女子高生を見ながら、各自が採点なんてくだらんというか、高校生お約束の話題を話しながら、ぬるめに走ります。50分ぐらい走ると、しばし休憩。もちろん、ガチで20q超をひたすら走りぬくこともありますが、ふだんは意外とのんきなもの。後半は、真剣勝負になります。誰も口を利きません。ただ、皆の目は、たいてい私に向けられます。なんせ、いつもダントツのビリ。そうであるがゆえに、こいつにだけは負けたくないという意識があるのでしょう。もちろん、一番手と二番手は私ごとき、歯牙にもかけていませんが。

 実は、小学生のときに陸上を始めたのですが、中学の時には科学部で過ごしたために、高校で再開したときには基礎トレーニングができていませんでした。足はしょっちゅうつるわ、足首の内側が痛くて痛くて、医者に通ってもまるでおさまらないわで、1年の時には何度もやめようと思いましたね。実は、2年に上がる時に退部届をだしにゆこうとしたのですが、この程度でやめるんだったら勝手にすればと突き放されて、「意志が弱い」の一言につい反発して続けてしまいました(今、考えると、先輩連中は私の性格をよく知っていたのだなあと思います)。そんなこんなで迎えた2学期早々にハーフの大会。例の「いきはよいよい、帰りは怖い」というコースです。草薙から出発して日本平をえっちらこっちら登って、帰りは下るという、楽そうで意外ときついコース。距離は、約20q。標高差は300m前後でしょうか。

 スタート前に、大きい方を催しまして、さっさと済ませてしまう。これが、まさに「運」でした。スタート時から、異常に体が軽い。5q時点でとうに先頭が見えなくなっていますが、全然、余裕。本当は完走することが目標だったのですが、ちと欲がでて、登りはとにかくセーブしてゆきました。給水は、正確には覚えていないのですが、適当にとっていたはずです。折り返し地点に来て、苦しさがまるでない。さらに欲がでます。下りは完全にセーブして、真ん中あたりでうろうろ。お腹にこないことを確認して残り5qから徐々にペースを上げ、2qを切るあたりで猛然と全力で何も考えずに、ひたすら走るのみ。気がつくと、顔の知っている部員をどんどん抜いて自分でも唖然。あとで気がついたのですが、部では3番手でゴールしていました。

 さらに驚いたのが、かわいい女子部員がみんな私の周りに集まってくれて祝福してくれて、ありゃまみたいな感じ。とどめに顧問の先生(女性)が、顔をくしゃくしゃにして「本当によくやったわ。女子は賢いけど、ずるいのよ。自力の6割でみんな止めちゃう。男子は本当にかわいい。バカだから、誉めたら、体壊しちゃうんじゃないかとこっちが心配になるぐらい頑張っちゃう。今日のあなたの出来は120点よ」と誉めているのか、貶しているのかわからないのですが、とにかく嬉しそう。翌日、学校に出かけると、突如、ヒーロー扱いをされて、「はぁ?」てな感じ。実は知らなかったのですが、地元の地方紙に大会結果(一応、海外から招待選手を呼んで参加者が400人程度の大会ではありました)が掲載されていて、上位30位以内に私が入っていたようで、確かに23位ぐらいに私の氏名が。「今まで受験のために精神を鍛える目的で長距離をやっているんだろうとか言って済まなかった。本気だというのが漸くわかった」などと謝られて、私の方が困惑してしまいました。言いにくいけど、他人の言っていることなんてまるで聞いていないですから。

 これで終わると、なんだ自慢話かと思われるでしょうが、まあ、そうです。オチをつけると、このおかげで駅伝の「正規軍」に入れられそうになって、株価を落とすのに必死になりました。つくづく集団行動には向かない性格なんですよ。要は、私の個人主義というのは、基本的に自己満足であります。自分が思い描いた走りができれば、それでいい。他人に迷惑がかからなければ。

 あえて賢しらぶったことを言えば、長距離で下位・中位・上位(この大会だけですが)を経験したおかげで、それぞれでそれぞれの楽しみ方があることがわかります。たいてい下位に甘んじていましたが、実はその頃が一番、苦しいと同時に楽しい時期でした。格差なんてそんな簡単になくなりません。下位に甘んじていた人が、努力の末、上位になるということなど、映画か漫画の世界です。私だって、この大会で一度だけ、マシな結果がでただけで、たいていは下位グループか中位です。しかし、下の方なりにかくあるべしという夢を描いて走っているわけで、その中身を他人がとやかく言う筋合いはありません。上位の場合も、常に結果を出すというプレッシャーと戦っています。時間という一次元で結果が計れる世界ですら、その内実は極めて多様です。むしろ、結果が一次元ではかれるこそ、多様になるのかもしれません。

 他方で、自由な社会は常に自らをあやうくする危険をもっています。自由が拡大するほど、自ら事柄に関する「適切な」選好順序を形成できない個人が生じる確率が上昇するからです。しかも、どのような選好順序が「適切」であるのかは、個人の数だけあるという社会です。ルールや慣習が、選好順序にある制限を設ける「不自由」であるとしても、多くの場合、単に他人に迷惑をかけないというレベルに留まるでしょう。しかし、それだけでは自らも整合的であると納得できる選好順序が形成できるという保証は、私の知る限り、ありません。この問題は、自らのおかれている状況では低い満足しかえられない個人が生じるという問題とは区別する必要があります。現実世界では両者は一体となっていますが、自由な社会の「病理」を考える際には、両者を区別すべきだと思います。後者は公的な扶助などで問題を緩和することが可能ですが、前者は本人が自らを救うしかないからです。ただ、このように書いてしまうと、前者の問題は救いようがなくなってしまいます。

 また後者の問題に関しても、個人が適切な手段を選択しているのかを外部が判断することは非常に難しいでしょう。さらにいえば、ある人の不満を緩和する際に、他の人の満足した状態を下げることが正当化できるのかは疑問が残ります。現実にはこちらの方が問題になっていますが、公的関与を増加させるという意味では、この問題を過度に重視することは、自由な社会そのものの根源を脅かしかねないでしょう。公的関与が正当化される理由が明確でない限り、手段の選択という意味で間接的ではありますが、選好順序を自ら決めるという前提に他者が介入し、それが正当であるか否かの判断ができないからです。ある人の選択肢を広げるために、他の人の選択肢を狭めるという行為は、古来からあるのですが、けっきょくは、その場しのぎの対応以上のものではありません。悪い冗談ですが、近代における「福祉国家」というのは、自由な社会の緩慢な自殺であると「寝言」を申し上げておきます。
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2006年11月01日

私の個人主義(前編)

 「寝言診断士」なんて書くんじゃなかったですね。mitsu様、雪斎様の一句は、拝読しながら、いろいろなことが頭を駆け巡り、ジーンときました。「返歌」になっておりませんが、御両人とも、私ごときが「器」を云々する方ではございません。ブログを始めてよかったと思う瞬間がこれまでにも何度かありましたが、御両人には新たな時を刻んで頂き、感謝の念で一杯です。

 ピラティスをやりながら、ふと思ったのですが、インストラクターとは妙にうまが合う部分があって、不思議だったのですが、陸上をやっていたという点でなんとなく腑に落ちてしまいました。陸上といっても短距離と中・長距離でまるで風景が異なりますし、跳躍や投擲となると、ジャンルが違うという感じです。現役のときにも、「ただ走っているだけじゃないか」(実際はもっとひどいことも言われました)などと言われて、そういってしまえばそうなんですが、ただ走ればいいってもんじゃない。走るだけなら、苦痛でしかないわけで、他の競技なら動作の一つにすぎないわけです。走ることが楽しいと感じないとどうにもならない。きれいごとではありますが、きれいごと、あるいはある種の「嘘」がないと陸上はできない。もっとも、これは他の競技でも似たようなものでありまして、好きだからやる、やるから好きになるという「きれいごと」が必要なのでしょう。

 短距離と長距離の違いは、距離というよりも、時間です(障害のような競技は、難しいので省きます)。屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、100m走を考えてみてください。「あ・い・う・え・お・か・き・く・け・こ・さ・し・す…」とゆっくり頭の中で唱えている間にレースが終わってしまいます。すなわち、全身の筋肉の状態、グラウンドとの相性、風の向きや速度などを瞬時に計算して体に命令を送っている間にレースが終わってしまいます。もっといえば、計算は走る前に終わっていて体に覚えこませておかないと話になりません。状況の変化も脳が計算しているのでしょうが、それを意識している余裕はないわけです。大会となれば、予選、準決勝、決勝でどうペース配分をするかということが問題にもなります。このあたりまでは他の競技とそれほど変わらないのでしょう。

 長距離の場合、距離の幅が広いのですが、私がやった中で最も長いハーフマラソンの場合、1時間から1時間半程度はあります。私の場合、ベストで高校2年のときの1時間18分。まあ、大した記録ではありません。問題は考えているということを意識できるぐらい、十分な時間があります。コースの傾斜など頭に入っていても、やってみるとまるで違う感覚になることは、無名のアスリートにはざらです。瞬時、瞬時で脳と体が一体になっているのは短距離と同じなのですが、体と相談していることを意識する余裕があります。単純化のために、折り返しまでが上り坂、帰りが下り坂のコースを考えると、私ぐらいのレベルの場合、下り坂がやっかいです。ここでオーバーペースになりやすい。まさに「行きはよいよい、帰りは怖い」です。優秀なアスリートなら、オーバーペースの幅を極力抑えることが上手ですが、平均以下の私のような場合には、このブレを抑えることがなかなか難しい。下りは楽そうに見えますが、上り以上に腹部への振動がきつく、運が悪いと…てなことになります。

 ざっくり「戦略」を述べると、上りで消耗を抑え、下りは最初の8qで抜かれるのを甘受して最後の2qちょっとで一気に差すという話になります。もっと単純に言えば、最後の2qでなにも考えずにとにかく走りきるという準備を18qの間に整えるということです。勝負は最後の2qで決まるわけですが、実際にはその前の18qで準備ができているかどうかで事実上、勝負がほぼ決まってしまいます。これが実に厳しい。トップ・アスリートは私の理解の範囲を超えますが、私の場合、レースをイメージして体に叩き込んでゆくのですが、まあ、体は頭の言うことを聞きませんし、頭は頭で余計なことを考えてしまいます。ベストの走りは、両者の違いを意識しないで体が実際に動くことなのですが、レベルが低いと頭と体がちぐはぐになります。

 ここまで書いて眠気に勝てなくなったので、寝ます。おやすみなさい。
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