2006年11月02日

私の個人主義(後編)

【お知らせ】

 お食事中の方は、食事後に読まれることを強くお勧めします。文中、食事中にはふさわしくない表現がでます。この点に関する苦情には一切、お答えしませんので、了解ください。

【本文】

 記事タイトルに偽りありですね。「私の個人主義」となっているにもかかわらず、個人主義の話がでてこない。うっかりしておりましたが、ジムのインストラクターと話をしていて、なんとなく感じたのは、個人主義的だなあということです。最近の教育改革論議では、個人主義という表現は悪い意味の文脈で使われる印象があります。私が個人主義という言葉を使うとき、私の主義主張というよりは、処「生」術のような意味あいが強いです。私は私であって、君ではない。もちろん、私が私であるのは、君がいるからなんだけれども、私の頭がかゆいと感じるときには私がそう感じるのであって、君ではない。他人なしの私などないわけですが、ある範囲内においては自分の行動や考えを律するのは私以外にはありえず、その点において、私の行動や考えの最終的な審判者は私以外には認めることができない。

 まあ、これでは抽象的すぎるので、インストラクターと話していると、とても親切ですし、優しく、文句なく、いい人です。しかし、どこかで突き放したようなところがある。最終的には自分のことは自分でお決めくださいという部分がでてくる。簡単に言うと、ドライなんですね。まあ、陸上をやっている人の数だけ個性があるので、なんともいえないのですが、集団競技をやっている人と比べると、どこか、よく言えば醒めていて、悪く言うと冷たい。私からすると、これはあくまで傾向ですが、集団競技をやっていた方は、よく言えば利他的で、悪く言うと暑苦しい。そこまで教えてくれなくても、あとは自分でやるからと言いたくなります。また、無意識に他人の内面に踏み込んでくる感覚があります。それを自然と受け入れるか、どこかで疎ましいと思うか。個人競技をやっていると、一見、人と馴れ合っているようでも、どこかで、人は人、他人は他人というのが、スポーツをしているときですが、集団競技の場合よりも、程度問題でしょうが、強く出てきます。まあ、インストラクターと話をしていてふと感じただけですが。

えっ、お前と口を利くのも本当は嫌いなんだけれど、仕事だから、教えてくれって言われれば、嫌でも教えなきゃいけないから、そうなる?

…。その可能性を読み落としておりました。その可能性を認めるだけで議論の前提がすべて崩れますが、強引に話を進めてまいります。

 長距離パートですが、私が高校2年のときで3年生を含めて14人ぐらいでした。同級生がたしか、6人ぐらい。個人競技とはいえ、練習は共同作業になります。まずは、軽くアップして体操をした後でじっくりストレッチ。主将が練習の内容を告げて、2−3時間程度、走ります。長距離とはいえ、瞬発力がないとお話にならないので、当然、ダッシュをすることもあります。しかし、最も楽しいのは、やはりロード。15−20q程度を途中の休憩を含めて2時間ぐらいで走っていました。最初はのんきなもので、通りすがりの女子高生を見ながら、各自が採点なんてくだらんというか、高校生お約束の話題を話しながら、ぬるめに走ります。50分ぐらい走ると、しばし休憩。もちろん、ガチで20q超をひたすら走りぬくこともありますが、ふだんは意外とのんきなもの。後半は、真剣勝負になります。誰も口を利きません。ただ、皆の目は、たいてい私に向けられます。なんせ、いつもダントツのビリ。そうであるがゆえに、こいつにだけは負けたくないという意識があるのでしょう。もちろん、一番手と二番手は私ごとき、歯牙にもかけていませんが。

 実は、小学生のときに陸上を始めたのですが、中学の時には科学部で過ごしたために、高校で再開したときには基礎トレーニングができていませんでした。足はしょっちゅうつるわ、足首の内側が痛くて痛くて、医者に通ってもまるでおさまらないわで、1年の時には何度もやめようと思いましたね。実は、2年に上がる時に退部届をだしにゆこうとしたのですが、この程度でやめるんだったら勝手にすればと突き放されて、「意志が弱い」の一言につい反発して続けてしまいました(今、考えると、先輩連中は私の性格をよく知っていたのだなあと思います)。そんなこんなで迎えた2学期早々にハーフの大会。例の「いきはよいよい、帰りは怖い」というコースです。草薙から出発して日本平をえっちらこっちら登って、帰りは下るという、楽そうで意外ときついコース。距離は、約20q。標高差は300m前後でしょうか。

 スタート前に、大きい方を催しまして、さっさと済ませてしまう。これが、まさに「運」でした。スタート時から、異常に体が軽い。5q時点でとうに先頭が見えなくなっていますが、全然、余裕。本当は完走することが目標だったのですが、ちと欲がでて、登りはとにかくセーブしてゆきました。給水は、正確には覚えていないのですが、適当にとっていたはずです。折り返し地点に来て、苦しさがまるでない。さらに欲がでます。下りは完全にセーブして、真ん中あたりでうろうろ。お腹にこないことを確認して残り5qから徐々にペースを上げ、2qを切るあたりで猛然と全力で何も考えずに、ひたすら走るのみ。気がつくと、顔の知っている部員をどんどん抜いて自分でも唖然。あとで気がついたのですが、部では3番手でゴールしていました。

 さらに驚いたのが、かわいい女子部員がみんな私の周りに集まってくれて祝福してくれて、ありゃまみたいな感じ。とどめに顧問の先生(女性)が、顔をくしゃくしゃにして「本当によくやったわ。女子は賢いけど、ずるいのよ。自力の6割でみんな止めちゃう。男子は本当にかわいい。バカだから、誉めたら、体壊しちゃうんじゃないかとこっちが心配になるぐらい頑張っちゃう。今日のあなたの出来は120点よ」と誉めているのか、貶しているのかわからないのですが、とにかく嬉しそう。翌日、学校に出かけると、突如、ヒーロー扱いをされて、「はぁ?」てな感じ。実は知らなかったのですが、地元の地方紙に大会結果(一応、海外から招待選手を呼んで参加者が400人程度の大会ではありました)が掲載されていて、上位30位以内に私が入っていたようで、確かに23位ぐらいに私の氏名が。「今まで受験のために精神を鍛える目的で長距離をやっているんだろうとか言って済まなかった。本気だというのが漸くわかった」などと謝られて、私の方が困惑してしまいました。言いにくいけど、他人の言っていることなんてまるで聞いていないですから。

 これで終わると、なんだ自慢話かと思われるでしょうが、まあ、そうです。オチをつけると、このおかげで駅伝の「正規軍」に入れられそうになって、株価を落とすのに必死になりました。つくづく集団行動には向かない性格なんですよ。要は、私の個人主義というのは、基本的に自己満足であります。自分が思い描いた走りができれば、それでいい。他人に迷惑がかからなければ。

 あえて賢しらぶったことを言えば、長距離で下位・中位・上位(この大会だけですが)を経験したおかげで、それぞれでそれぞれの楽しみ方があることがわかります。たいてい下位に甘んじていましたが、実はその頃が一番、苦しいと同時に楽しい時期でした。格差なんてそんな簡単になくなりません。下位に甘んじていた人が、努力の末、上位になるということなど、映画か漫画の世界です。私だって、この大会で一度だけ、マシな結果がでただけで、たいていは下位グループか中位です。しかし、下の方なりにかくあるべしという夢を描いて走っているわけで、その中身を他人がとやかく言う筋合いはありません。上位の場合も、常に結果を出すというプレッシャーと戦っています。時間という一次元で結果が計れる世界ですら、その内実は極めて多様です。むしろ、結果が一次元ではかれるこそ、多様になるのかもしれません。

 他方で、自由な社会は常に自らをあやうくする危険をもっています。自由が拡大するほど、自ら事柄に関する「適切な」選好順序を形成できない個人が生じる確率が上昇するからです。しかも、どのような選好順序が「適切」であるのかは、個人の数だけあるという社会です。ルールや慣習が、選好順序にある制限を設ける「不自由」であるとしても、多くの場合、単に他人に迷惑をかけないというレベルに留まるでしょう。しかし、それだけでは自らも整合的であると納得できる選好順序が形成できるという保証は、私の知る限り、ありません。この問題は、自らのおかれている状況では低い満足しかえられない個人が生じるという問題とは区別する必要があります。現実世界では両者は一体となっていますが、自由な社会の「病理」を考える際には、両者を区別すべきだと思います。後者は公的な扶助などで問題を緩和することが可能ですが、前者は本人が自らを救うしかないからです。ただ、このように書いてしまうと、前者の問題は救いようがなくなってしまいます。

 また後者の問題に関しても、個人が適切な手段を選択しているのかを外部が判断することは非常に難しいでしょう。さらにいえば、ある人の不満を緩和する際に、他の人の満足した状態を下げることが正当化できるのかは疑問が残ります。現実にはこちらの方が問題になっていますが、公的関与を増加させるという意味では、この問題を過度に重視することは、自由な社会そのものの根源を脅かしかねないでしょう。公的関与が正当化される理由が明確でない限り、手段の選択という意味で間接的ではありますが、選好順序を自ら決めるという前提に他者が介入し、それが正当であるか否かの判断ができないからです。ある人の選択肢を広げるために、他の人の選択肢を狭めるという行為は、古来からあるのですが、けっきょくは、その場しのぎの対応以上のものではありません。悪い冗談ですが、近代における「福祉国家」というのは、自由な社会の緩慢な自殺であると「寝言」を申し上げておきます。
posted by Hache at 01:12| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言