2006年11月05日

「いじめ」考

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:ここまで、お約束どおりだと、数少ない読者のみなさんにもあれじゃが…。あのデブのブログが人気がないゆえ、ワシらの人気も出ないのがちと寂しいのお。おい、いい加減に起きんか。
ハッシュ:ふわあ、なんじゃ、おぬしか。
ボッシュ:…。おぬし、いつも同じことを言っていて飽きんのか?
ハッシュ:いつも同じだったかな。
ボッシュ:…。知らぬが仏ともいうから、なにも言うまい。ちょっと古い話だが、ジパングではいじめというのが話題になっておる。
ハッシュ:いじめ?
ボッシュ:体が弱かったり、喧嘩が弱そうな子供を別の子供が集団になって嫌がらせをしたり、暴力を振るったり、いろいろじゃな。小学校や中学校あたりの教室単位で起こることが多いようじゃ。子供が子供をいじめるというのは、どうも好かんな。いじめられた子が自殺まですることもある。ここまでくると、犯罪に近い。
ハッシュ:しかし、ジールの頃とて自殺した者は知らぬが、それに似たことならあったじゃろ?
ボッシュ:まあ、そうなんじゃが。ただ、ワシが今いる時代だと、だいたい15歳ぐらいまでは学校に行くことが義務づけられておる。同じ学校とはいえ、いろんな子供がおるじゃろ。そこで、狭い教室に閉じ込めると、いろんな理由でいじめが起きやすいんじゃ。いったん、この子をいじめても大丈夫という雰囲気ができると、やっかいなんじゃ。呆れたことに、学校の教師ともあろうものが、その雰囲気を煽ることもあるらしい。
ハッシュ:雰囲気でなぜいじめるんじゃ?
ボッシュ:…。説明が難しいなあ。ワシらはこの手の話とは無縁ゆえ。まあ、どう言ったらいいんじゃ、テレビなどを見ておるとじゃな、今の子は、といっても、今の20代ぐらいまでそうらしいんじゃが、「浮く」ということを嫌うんじゃ。簡単に言うと、周りと同じことをやっていないと、目立ってしまう。それを嫌がるんじゃ。ただ、ワシの目からすると、テレビにでている人など、ジパングでも世間からずれた人の方が多いようじゃから、こんなことが言えるわけで、会社というところでも大して変わらんようじゃ。ワシの印象では、ガルディアよりも、ジパングでは周囲から浮くということが、仕事や学校生活に支障がでかねないぐらい、集団への意識が強いようじゃ。
ハッシュ:しかし、ワシらとて、それでいったら、ジールで浮いておったじゃろ?「理の賢者」だの、「命の賢者」だの、「時の賢者」だの、頭がおかしいだけじゃないのかと陰口を叩くものもおったじゃないか?
ボッシュ:…。まあ、それはそうだが、ワシらは女王の庇護の下にあったし、周りも変わり者と思いつつも、大半は、一目おいてくれた。しかし、小中学生の場合は難しいんじゃよ。ちょっとしたことで、自分と違うものに敵意をもつし、それを抑える力も弱い。さらに、いじめる子供の保護者や学校がそれを見てみぬふりをしたり、最悪の場合、煽るんじゃ。こうなると、もう勢いさ。手のつけようがない。
ハッシュ:しかし、程度の差こそあれ、ワシらの頃にもあったじゃろ?
ボッシュ:なんというのか、その雰囲気の強さがジパングは、違うようなんじゃ。
ハッシュ:しかし、雰囲気といっても、所詮は、一人一人の感じ方の問題じゃないのか?いじめられる子供のことが憎たらしいと思うものもいれば、そうでない者、どうでもいい者、人それぞれじゃろ?
ボッシュ:そうだが、ジパングはどうも集団から浮くのが難しいんじゃ。政党の有力者や政府の権力者ですら、集団のコンセンサスから離れたことを言うと、ぼろくそに叩かれる。
ハッシュ:しかし、その場合には、おぬしが以前、言っていたように、選ばれた人たちだから、ちゃんと自分の趣旨を的確に説明すれば、収まる話じゃろ。そういう場も保証されているようじゃないか。それができなければ、無能ということじゃな。だいたい、人の上に立つものが、世間を説得できぬようでは終わっておるな。いじめの話は、ワシにはようわからんが、人の上に立つ者が「いじめ」なるものから自分を守れなかったら、まして子供など、ご無体な話じゃ。
ボッシュ:…。話がそれるから、元に戻すが、ジパングでは村八分といって昔から周りから浮かぬことが、生きてゆくうえで肝心なんじゃ。こんなところでぼーっとしている御仁にはわからぬじゃろうが。村の掟を破ると、葬式と火事以外は面倒を見ないという話なんじゃな。いいかえると、いじめにも限界があったようじゃ。今は、その限界がなくなっておる。これは容易ではない。
ハッシュ:最初からそうじゃが、いよいよワシにはわからん話になってきたな。掟を破ったら、しょうがないんじゃないの?
ボッシュ:…。おぬし、いじめを肯定するのか?
ハッシュ:たとえば、核爆弾なる物騒なものをつくろうとした国があるとする。まさに掟破りじゃな。これに、カネで締め上げ、場合によっては「暴力」を加えるのはいじめではないのかね?
ボッシュ:…。それとこれとは別の問題じゃろ?おぬし、どうかしたのか?
ハッシュ:ほおれ、おぬしもそう答えるじゃろ。掟を破った場合、破った者が平然としてたら、掟などあってなきがごとしじゃ。しかし、なんじゃ、「せいさい」とかいうものを受ける側からすれば、「いじめ」じゃのお。「いじめ」など、それをいじめと感じるかというのは立場によってまったく違う。さらに言うと、なんじゃ「ほうりつ」とかいう話の場合でも、罰則があったり、なかったり曖昧だったりするようじゃ。こうなると、ワシにもようわからん。ただ、子供のいじめの場合、掟自体が曖昧なんじゃ。いじめる側もなんでいじめたのかということを突き詰めてみれば、よくわからないとなるんじゃないかな。要は、いじめたいからいじめたという話ぐらいにしかならぬ。いじめられる方も同じじゃ。よほど変わり者でもない限り、自分からいじめられたいという者は少ないじゃろ。いじめられる側からすれば、理由がよくわからない。いじめる側もいじめられる側も、どうでもいい話なんじゃ。ただし、お互いがどうでもいいと気がつくには、大人になるしかない。もっとも、年をとることが大人になることとは限らないが。
ボッシュ:…。しかし、自殺した子供はかわいそうじゃぞ。おぬしは、それを放置しろと言うのか?
ハッシュ:おぬしは、昔からそうじゃった。正義感が強くて、ワシも好きじゃ。しかし、元々、感情的になりやすい話で感情をぶちまけたところで、なにも変わるまい?表現は悪いが、いじめなるものも、ある種の自然現象のようなものと思って、ある確率で起こると見るんじゃ。それをゼロにすることなど、到底、不可能に近い。それを低くする、そして起きたら、状況に応じて対処する。いじめの「なぜ」を問うのではなく、「どのようにして」対処するかが問題じゃ。「なぜ」を問うている間にも、いじめは起きる。もちろん、「なぜ」を問うことは大切じゃ。しかし、いじめの現場で臨機応変の対応ができなければ、意味がない。ワシ自身は、集団生活などごめん真っ平じゃが、集団で暮らす以上、この手の問題は絶えぬ。絶えぬことをまず認めないと、どうにもならんとワシは思うな。
ボッシュ:…。ワシにはついてゆけない話になった。なんだか疲れてしもうた。悪いが、そろそろ、お暇する時間じゃ。それでは。
ハッシュ:まあ、そうことを急かぬことじゃな。また、おいで。

 私もついてゆけない展開ですが、いじめられた経験もありますし、止めた経験もあります。いじめというのは、ある水準を超えてしまうと、とめどがなくなります。小学校低学年のときにはいじめられました。まあ、露骨に言うと、殺意を覚えましたが、あんな奴を殺して自分がひどい目にあうのも癪なので、だんだんと鈍感になってしまう。時々、仕返しをしてやるんですね。テスト程度も自分でできない奴が相手だったので、わざと全部、間違った解答を見せてやって、残りの10分で自分だけ正しい答えに全部書き換えてしまう。当然、写したバカは先生にどしかられるので、周りがバカにするようになります。私は、「同盟不能者」だったので、「自主防衛」でそうやっていじめをしかけてくる中心メンバーを一人一人、追い詰めてゆきました。最終段階ではいじめる側が周りから浮いてしまって、メンバーの一人が窓から飛び降りそうになりました。そばに行って「この程度で死ぬんだったら、勝手に死ねば」と言って、とどめをさしてやりました。どうせ、いじめなどをする連中は死ぬ気がないんで、これぐらいやらないとダメです。

 止める方は、はるかに難しい。「いい子ぶってる」と浮きかねません。中学生のときですが、前から嫌な雰囲気は感じていたので、まずいなと思っていましたが、こういう場合、ことが大きくなるまで対処が難しいです。あるとき、いじめられていた子が学校から授業中に耐えられなくなって逃げ出してしまいました。クラスは騒然として、先生もおろおろするばかり。言いにくいのですが、こういうときがチャンスでありまして、まずは、いじめている側の中心人物に向かって「あの子、死ぬ気かもしれないよ」と冷たく言い放つと、震え上がりました(最近は、この手は利かない水準にきているので大変だなあと思います)。これまた書きにくいのですが、いじめられる側にも全く問題がないケースというのは少ないのですが、「いじめた方が悪い」と決め付けるしかありません。

 後は、学級委員長の名を借りて内々に先生に、家に連絡するように指示して、学校に戻らせて、私と二人で話し合いました。とにかく話を聞いてあげる。全部、鬱憤を吐きださせるしかないんです。タイプにもよりますが、私の見るところ、この子は冗談抜きで自殺しかねない。だから、全部、吐き出させてしまう。彼の言うことに、いいとも、悪いとも一切、口を挟まない。彼は、相手が全部、悪いと思っちゃっている。そこで、君もこうすべきだとか言ってしまうと、もうダメです。だから、とにかく、あなたを認めているという態度で接するしかない。全部、聞いた上で、学校の先生に頼んで翌日は自宅で休ませることにして、保護者の方に観察してもらうように頼みました。

 あとは、「裏社会」に根回しです。当時は、まだ侠気のある不良連中が生き残っていました。経緯を書くと面倒なのですが、私が学校で評判がいいので、目をつけていたらしく、ある事件で逆手をとって不良に参ったと言わせておいたので、私の言うことなら聞いてくれる。いじめていた連中を軽く脅して(手はだすなという指示も)もらうように頼んで、学校ででかい顔ができないように手を打っておきました。問題は、見て見ぬふりをしていた、良くも悪くも普通の生徒たちです。これが多数派だったので、一日だけではなく、間をおいておく必要がある。休んだ理由は、風邪という見えすいた話にするよう、担任に頼んで、彼らの動向を抑えておかなくてはゆけない。いじめられた子に過度に同情すると、その子が正常に学校生活を送るのにかえって息苦しくなります。どうも、過度に罪悪感を感じている様子だったので、不良連中に頼んで、間が空いている隙に、騒ぎを起こしてもらって男子・女子ともに別の話題へ関心をそらせる策をとりました。幸い、話が軽くなりました。様子を見計らって登校させると、もう大丈夫で、いじめはぴたりと止みました。

 まあ、とにかくいじめをなくすなんて容易じゃないですね。とくに、当事者じゃない第三者が止めるというのは、難しい。たまたま、うまくゆきましたが、彼がはにかみながら、「ありがとう」と言ってくれたときに、ホッとしました。自分でも打つ手は打ったけれど、この手のことは、逆効果になりかねないことも子供心に理解しておりましたから。また、その場しのぎの対応でしかないことも。

 まあ、こんな経験をしたせいでしょうか、中学校のときの弁論大会で人の数だけある「価値観」というものを「物差し」に喩えて、多様な価値観を否定するのではなく、多様なままでどうやって暑苦しくないつきあいかたをするのかという弁論をぶちました。異なる単位の物差しをどうやって共通の単位でお互いが理解してゆくのか。私の個人主義や自由主義は書物によるものではなく、個人的な経験にもとづいています。だから、よいとか悪いとかという話ではありません。私の個人主義・自由主義というのは、どうにもならない癖(へき)なんです。まあ、これも「寝言」かな。

 なんだか、息苦しい話になってしまったので、こんな下までスクロールして下さったお礼に、気が楽になる話を紹介させて頂きます。肩の力を抜きたい方は、「続き」をどうぞ。




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