2006年11月11日

「権力のコントロール」へのコメント

 やじゅんさんの記事にコメントを書いていたら、長くなりました。これが怖いので、最近、コメントしないことにしているのですが。久々に土曜日にゆとりがあったので、「誘惑」に負けてしまいました。

 まず、結論から入ると、分権と集権の問題は、程度の問題でしかないと思います。極論すれば、権力とそれを担う人たちへの「信仰」や「不信」は、どちらも正しい。行過ぎなければ、ですが。ただし、国家というものは、歴史的経緯とは別に論理的には集権がなければ、成り立たないので、民主国家といえども、集権を否定するというのは、私にはついてゆけないものを感じます。

 具体的な問題でゆけば、記事で扱っている問題よりもスケールが小さくて申し訳ないのですが、たとえば談合や汚職のような問題の方が、むしろ「政府不信」、「官僚不信」を煽っているように見えます。談合の問題などは、まさに制度設計の問題ですが、理論的に「最適な制度」なるものを考えることができても、実際の制度に落とし込むことができるかどうかということになると、はなはだ、心許ない部分があります。また、理論家が「最適」と考える状態であっても、多くの場合、好ましくない状態が生じる確率がより低くなるだけであって、モデルで考慮されている変数以外の要素が利いてしまうと、脆いものです。この種の議論は、「空理空論」とバカにされがちなのですが、権力を担うのは諸個人であること、彼らが常に全体のために行動するのではなくて利己的でありうること、理論を理解するための面倒な手続きを踏まなくてはならないけれども、それさえ踏めば、真偽判断は可能であることなどから、本当に頭のいい人から見ればバカバカしいでしょうが、控え目に言っても、議論を透明にするぐらいの意義はあると思います。

 権力を担う人が「ハーベイ・ロードの前提」をすべて満たすような状態が好ましいのかもしれませんが、現実的ではないでしょう。権力を担う人が、最悪の場合、腐敗し、それを過度に批判するというのは自然現象のようなものだと思います。とりわけ民主国家、あるいは分権的な社会では、このような無駄が避けられないと思います。他方で、分権的な社会は、権力を担う人たちが利己的であるという前提の下で、ある種のインセンティブの体系をある程度までは自覚的に、ある程度までは無自覚的に「設計」することで、よりマシな国になることが可能であるし、それが分権的な社会の強みなのだろうと思います。ある時期に「正しい制度」(このような制度が存在するのか自体、怪しいのですが)がつくられたとしても、前提が変化すれば、変な制度になることは珍しくないでしょう。常によりマシな制度をつくる潜在力が高いことが分権的な社会の強みだと考えております。だから、「政府不信」そのものは、しばしば行過ぎることもあるけれども、分権的な社会を維持するためには行き過ぎすら、社会を維持するためのやむをえない費用と割り切るのがよいと思います。

 分権的な社会ではすべての人を満足させることはできません。分権的な社会の致命的な「失敗」は、不満をもつ人たちが、分権的な社会そのものを否定するようになり、その「誘惑」に抗することができなくなる事態でしょう。古代ギリシアはこの種の悲劇の典型ですし、第一次世界大戦から第二次世界大戦への道のりは、現代でも同じことが起きうる確率がゼロではないことを示しているのでしょう。現代の分権的な社会は、このような失敗の上につくられたもので、それが転覆されてしまう確率は非常に低いと思います。あるいは、岡崎先生のように「民主政というのは最悪の政体だけれども、他の現存する、あるいは過去に存在した政体のどれよりもマシであるという哲理が国民に浸透している」と言い換えた方がわかりやすいかもしれません。現在の民主国家の様々な「病理」は救い難いように見えますが、分権的な社会そのものを否定する主張が他を圧倒するような状況であるとは思えないです。

 分権的な社会でも、リーダーなしでは存続しえません。歴史に名を残すような人物を育成することは意識的な努力のみでは難しいでしょうが、そのような人物が輩出する確率を少しでも高くしておく努力は不可欠だと思います。雪斎先生が指摘されているように、高等教育機関が「英雄を英雄として尊重しない」風潮を育んでいるとしたら、あやういことでしょう。「時の最果て」だから書けるのですが、学者先生の性癖を考えると、これはやむをえないことだという気もいたします。さらにいえば、分権的な社会は、このような学者の性癖を強める傾向があることも否定しがたいとおもいます。英雄として歴史に名を残す人のほとんどは、分権的社会を絶対視する人から見れば、分権的な社会への敵として映るでしょうから。

 分権的な社会といえども、集権的な要素がなければ成り立たないという、なんでもないことを理解するのは意外と難しいという、つまらない、しかし、いつの時代でも議論されてきた問題に帰ってきます。やじゅんさんが問題にされているのは、分権と集権という両立しないように捉えられがちな要素を政策の実際においてどのように補完的な関係にもってゆくのかという現実的な話ですが、「時の最果て」ですと、こんな「寝言」になってしまいます。

 最後になりましたが、「求められるのは、組織が正しい方向に進むように適切に目標を設定し資源を配分できる、制度の設計なのだと思います」というのは全く同感なのですが、これは、漸進的にしか進まないでしょう。失敗しない「制度設計」などありえない。資源の浪費と言ってしまえばそれまでですが、この失敗に耐えられなくなったときに、社会は衰退し、滅んでしまうことは、歴史が、厳密な意味では「証明」してはいないですが、多くのことを示唆していると思います。

 民主国家も失敗する。初期と成熟期で失敗の内容は変わりますが、本質的には同じことで、成熟期には「自殺」に至る確率が非常に低くなるだけでしょう。この自明のことを頭で理解するだけでなく、わがものにしない限りは、この種の問題は解決がない。つまらないことばかり書いておりますが、自明のことを自明とせずに、ときには突き詰めて考える必要があると思います。もちろん、政治やそれに関する学のプロではないので、この程度の「寝言」が限界で、自分でもちょっと寂しいものがありますが。

「気分」と「気づき」の効用

 なんだかんだとバタバタしておりまして、新聞もまるで読んでいない。ふと『産経』を見ると、「核論議 是か非か」という私には意味不明のタイトルの特集があって平成17年11月9日(15版)の二面に岡崎先生の論稿が掲載されていました。「議論をすべきか否か」(『産経』のスタンスからすると、「すべき」なんでしょうが)というテーマであるにもかかわらず、いきなり日本の核戦略に関して述べられてしまい、あっさり論議自体をやってしまい、論議が終わった気分になります。

 というより、ここで述べられていることは、岡崎先生の私見とはいえ、とっくに論議された内容です。頭の悪い私には、あんまり日本のとりうる選択肢を多めに見積もっても、一つぐらいしかないように見えます。いざというとき、アメリカとともに戦うことがあるかもしれないという明確なコミットメントを海外へ向けて発信することです。頭が悪いせいか、議論はいいから、やることをやってほしいなあという気分になってしまいます。

 岡崎先生の本意ではないのでしょうが、議論をすべきか否かでぎゃあぎゃあ言っている間に、悪いけど、議論を終わらせましたよ。結論もだしました。こんなしょうもない話よりも、もっと大切な話があるんで失礼。そんな印象をもちました。

 かんべえ師匠によると、安倍総理はとっても「人が悪い」そうで。これは国家の最高機密に属すると思うのですが、もうあと数日でのべ500万を超えるアクセス数を誇るサイトに堂々と掲載されてしまう。安倍総理が軽く見られている現状の方が仕事がしやすいのではと思います。あんまり他人の仕事を邪魔しちゃダメなんじゃないかなあ。それにしても、なんと言論の自由が保障されている国よと思いますね。

 今回の「騒ぎ」のおかげで、「日米同盟が大切」と頭ではわかっていても、いざというときにどこかに置き忘れてしまう人が多いことがよくわかりました。「情と理」というのとも違う。だから、私はあえて「気分」という曖昧な表現をしています。うまく表現できないのですが、理屈は理屈として理解することはもちろん大切なのですが、それが自分のものになっていない。だから、ことが起きると、紛れだらけの議論をしてしまう。別に、非難しているわけではないのですよ。それは、ちょっとした「気づき」の問題であり、誰しもすべての問題に関して的確な見解を自分のものとしているわけではないでしょう。誰しも、「生きる」ということは初めてであり、知らないこと、わからないことの方が多いことに、私みたいな出来の悪い人間は寛大です。ただ、国の命運に関わるところで、現状のままではお寒い。この種の問題は、既存の教育でもある程度、解決しているけれども、副次的になっている。普通の教育では、教育される側が気づくのを気長に待つしかない。しかし、エリート教育では不可欠なので「雪斎塾」にお任せとなります。「気づき」の世界も奥が深くて、子供の頃から初めて、40歳前後になって効果がでてくれば、元がとれるという気長な話です。

えらそうなことを書いているあんたはどうなの?

 …。悔しい限りですが、『溜池通信』ごときで清純かつ善良なお坊ちゃまであることを深く自覚させられる程度の人間ですので、棺桶の中に入って蓋が閉まるまで目が開いている方のお話を虚心坦懐に伺うしかないですねえ。いやあ、先週あたりからかんべえ節が全開でいいですねえ(負け犬の遠吠え)。
posted by Hache at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言