2006年11月16日

「国家不信」の周辺

 月曜日ほどではないのですが、火・水曜日も60件以上、やじゅんさんのところからお越し頂いていて、お目当てはやじゅんさんのコメントだとわかりきっているのですが、自意識過剰なせいか、無言の圧力を感じております。やじゅんさんのコメントを拝読して、リプライに困っております。正直なところ、あまり異論がないです。mitsuさんが例示されているテロのようなケースを考えますと、ある特定の「私権」を抑制しないと、国民の生命や財産が守れない可能性が生じるわけですから、頭の悪い私には程度問題ではないのかと思ってしまいます。

 やじゅんさんのコメントは、素人にもわかりやすく、法学的な発想を書かれていて、なるほどと思いました。率直に言えば、私は「リーガル・マインド」というのが今ひとつわからないところがあり、やじゅんさんのコメントを本当に理解しているのかどうか、自分でも怪しいところがあります。私の頭に法学的な発想がぬけてしまっています。もっと下世話な話をすると、あまり生活で法律を意識することがない、平凡な生活をしているので、法律的な発想が弱いです。あとは、法学畑の方とお話していると、ものすごく緻密な議論になるので、彼我「兵力」の差を感じることも多いです。

 「国家不信」や「政府不信」に関する話で、私が気がかりなのは、法学的な議論から外れてしまうのでしょうが、政治的な「党派性」の問題です。かなり前のことですが、防衛政務次官をされていた方が、ある週刊誌にインタビューが掲載されていて、喫茶店で外食をしている最中に読んだ覚えがあります。当時は、「核武装」発言が問題となっていましたが、私がもっとまずいと思ったのは、自衛隊を「敵視」してきた現在の社民党や共産党(インタビューでは主として現社民党所属の議員を名指しで挙げられていたと記憶しております)の幹部や関連する人たちを有事の際に守るつもりはないとも読める発言でした。これはさすがにひきました。

 核武装でいくら勇ましいことを言っても、実現可能性はほとんどゼロだと思っておりましたので、こちらは「どうぞご勝手に」と思いましたが、自衛隊が特定の党派の人だけは守らないかのようにとられてもしかたがない発言は、論外だと思いました。もちろん、インタビューを読んだ限りは、安全保障に「幻想」の世界で考え、発言する社民党や共産党を批判するうちについ軽口を叩いたという程度だと思いましたが、意地の悪い読み方をする人もいるということを忘れている方ではないのかと思いました。幸い、名指しされた議員が、核武装のことばかり問題にしていたので、ホッとした覚えがあります。

 露悪的にいえば、私を守ってくれて、私と異なる意見をもつ人たちを守らない実力部隊というのは、私自身にとってはありがたいです。しかし、それは私軍です。自衛隊が、現行憲法の下で「ままこ」扱いされてきたのは異常なことであり、現在、そのような風潮が衰退して影響力が弱まっていることは、まともだと思います。例外も少なくないでしょうが、私の周囲では自衛隊への信頼が高い人の方がはるかに多いです。素朴すぎるかもしれませんが、お国のためにいざというときに命をすてるという方に敬意を払うことは、私自身は当然のことであると考えます。だからこそ、私には先のように安全保障に関して過度に党派性を煽りかねない発言をする政治家は信頼しません。

 本来の話題に戻りますが、国家不信というのは、どこかに不信ではなくて「否定」の考えが入っているのだろうと。それは、政党政治の下では、他の政治体制以上に、権力を担う人たちが程度の差こそあれ、「党派的」であることが被統治者には赤裸々に伝わり、異なる党派性の持ち主からすれば、「公」を代表するように映らないのだろうと。他方で、民主主義の本質は多数の専制とはいえ、少数者を守る様々な配慮が法的にも、実際の政策にも行われていることが多いことは、やじゅんさんの御指摘の通りだと思います。

 やじゅんさんのまともな議論に乱暴な議論で申し訳ないのですが、自民党が政権の座にある限り、民主党の支持層やシンパシーを抱く人たちは、常に不満をもつでしょう。かなり雑に書きますが、政権政党の役割は、立法や政策の遂行にあたって、自分たちが疎外されていると感じている人たちの不満をあるレベル以下に抑えこみ、野党の役割は政権を奪うことを最大の目標として政権政党の批判をし、ときに賛成して支持を広げてゆくことでしょう。議会制民主主義の下での政党政治では、特定の政党が「公」を代表するのではなく、このようなプロセスそのものが「公」なのだと理解しております。

 国民が「代表者」として権利を行使できるのは、基本的には選挙での投票であり、迂遠な過程をへて、「民意」なるものが形成される。実際には、自分が投票した政党が政権についたとしても、不満をもつ人も少なくないでしょう。したがって、特定の政党が国家権力を担うといっても、法律は当然ですが、様々な制約があり、党派的な言動を抑制すると同時に常に説得が要求されます。論理が飛躍しますが、「国家不信」や「政府不信」は自分の支持する党派が政権につけない不満というレベルであれば大した問題ではないのでしょうが、政党政治における「面倒なこと」を否定する傾向となれば、政党政治の下での「公」のあり方を否定しかねない虞があると考えております。現代での「政府不信」はちょっと次元が異なるのでしょうが、戦前の政党政治の否定は、民主主義の「自殺」だったという私の「寝言」と関連がありそうななさそうな感覚があります。この辺は、今の私には手に負いかねるので、考えを止めます。

 ちと、「マジやばい」状態ですので、とりあえず、「時の最果て」におけるやじゅんさんのコメントへのリプライ(「寝言」)は、以上です。読み直してやじゅんさんの考えいている論点をかえってぼかしてしまうような下手くそな文章になってしまい、申し訳ないです。ふう。この問題は、もうちょっと考えてみたいので、余裕ができたら、再論してみようと思います。
posted by Hache at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言