2006年11月18日

「寝言」あるいは下手くそなカデンツァ

 どんな仕事でも、意識して行う部分と、既に慣れてしまって事実上、「無意識」にやっている部分があるものだろうと。この「無意識」の部分を意識的に説明しようとすると、うまく形式が整わず、非常にしんどいものがあります。私の場合、本来、形式を叩き込むのが仕事なのですが、これをマニュアルどおりにやると、実にくだらない。叩き込まれる側にはわからないように、「寝言」(カデンツァという表現は上品すぎるので私には「寝言」の方がしっくりきます)を連発しながら、形式に導いてゆくのが、私の「お作法」であります。そんな私でも、さすがに仕事では言えないことがあるので、「時の最果て」なるところで「寝言」(「不規則発言」というおいしい表現は先着されてしまいました)を連発するわけであります。もちろん、仕事に直結することは書かないのがポリシーなのですが。

 「無意識」にやっている作業を意識的にやろうとすると、どうしてもぎこちなくなります。ピラティスをやりながら感じたのですが、初心者は意識的に体に叩き込まなくてはいけないゆえ、動作に優雅さがまるでありません。自分でやっていても、ああ、骨盤が動いたと感じるときもあれば、「ダメだこりゃ」となることもあります。こういう場合は、体が覚えてくれるまで意識するしかないのでしょう。意識している間は、いつまでも初心者のままなのでしょうが。

 夏に浜松に帰って中学校の教諭をやっている同級生と会って驚いたのが、「なぜ勉強をするのか」ということから生徒に考えさせているという話でした。少々のことでは驚かない私も、これには絶句。ちょっと耳障りでしょうが、中学時代は平均すると、試験の点数が95%を超えていたので(小学校のときは99.5%前後だったようです)、「なんであんなに点数がとれたんだ」と尋ねられて困ってしまう。考えたこともない。正確に表現すれば、考えること自体が好きだったので、学校の勉強はおまけでやっていて「なぜ勉強するのか」などということは考えたこともありませんでした。デリケートな部分ですが、公立の中学校は保護者の方が多様で、生徒も多様。よって、「なんでべんきょうさせられなきゃいけないんだ?」という問いが生徒からでてしまう。振り返ってみれば、そういう悩みを感じている人の方が多数派なわけでありまして、粗暴な私が中学校の先生だと、そんな「寝言」を考えている暇があったら、まず、勉強してから言えと言いそうで、「指導力不足」の烙印を押されそうです。

 どんどんとりとめがなくなってきましたが、どうも世の中、だんだんと意識化されてマニュアル通りの動作を要求するあまり、カデンツァを許さない方向に動いているように感じます。「時の最果て」の住人は、いきなり善悪是非を考えるのではなくて、泣く子は放置して泣いている様子をじっと見てしまいます。どうも、人間社会で分業が発達すると、お互いを共約する「言語」が意識化されないと、具合が悪いことが増えるらしい。よって、即興的な発想は極力、排除される。他方で、他者との意識的な共同作業が増えるほど、マニュアルでは対応できない部分が増えてしまう。「臨機応変」と「原理原則」は互いにとって代わるものではないのでしょうが、現代の文明をもってしても、両者はいまだに排他的なレベルが多いように見えます。

 根拠のない楽観論ですが、これはあくまで過渡的な時期であり、現代文明の「原理原則」が普遍化するほど、より高いレベルで多様なカデンツァが響く時代がやってくるのかもしれません。他方で、このような「理想主義」がいつの時代でも挫折したことを忘れることはできません。率直なところ、100年後に現在の生活水準を維持できるのか、疑わしい部分があります。「時の最果て」にしてはスケールの小さい「寝言」ですが、50年後ぐらいに現代文明は頂点を迎え、衰退してゆくのではないだろうかとふと思いました。
posted by Hache at 09:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言