2006年11月28日

陰謀論と戦略的行動

 やじゅんさんが、またおもしろい記事を更新してしまうので、考え込んでしまいました。やじゅんさんの記事の主題である「核武装論」に関しては、私自身は結果オーライというすちゃらかな評価です。中川政調会長や麻生外相の発言が、この国の安保環境を悪くしたという状況ではないので、ことさらに問題とするほどではないと考えております。それよりも、「日本陰謀論」というのは恥ずかしながら、初耳でした。「時の最果て」だから書けるのですが、日本人ほど戦略的行動に向かない民族は珍しいのではと思います。「日中安全保障対話」では中国側が日本の「戦略的行動」を過大評価しているように私には映りましたが(岡崎研究所の方々と対話すると、そう見えるのかもしれませんが)、民主主帰国のコンセンサスという多様な意見が透明に表明される社会での常識の積み重ねの意義がわかっていないように思えました。

 話を変えて、経済や経営の話を考えて見ましょう。カルテルへの課徴金制度へリニエンシー制度を導入するときの経済団体の反応を見ていると、「悪人の自白」のように見えてしまいました。もちろん、ざっくりとしか議論をおっていないので、もっと深い分析があるのかもしれませんが、まるでカルテルをやってますととられても仕方がない反応をしてしまう。日本人は、少なくとも過去は、集団行動が得意だという経済評論では多いのですが、戦略的行動は下手くそだと思います。

 最近は、広告のことばかり考えていたのですが、経済学と経営学でアプローチの違いが面白いです。乱暴に言ってしまうと、経営学では、「広告」は企業と消費者のコミュニケーション・ツールの一つということになるようです。当然ながら、マスメディアを通した広告だけでは不十分で他のコミュニケーション・ツールとミックスさせなければ、双方向的なコミュニケーションは成立しないということになります。あまり「土地勘」のない話なので的外れな理解をしている可能性はありますが。

 他方で、経済学では広告を消費者の立場から捉える傾向が鮮明で、「説得的な広告」と「情報提供的な広告」という、ちょっと苦しい区別をしています。「説得的な広告」というのは、露骨に言えば、消費者を「騙す」資源の浪費であり、「情報提供的な広告」というのは、製品の品質や価格、入手経路など消費者に有益な情報を提供する積極的な活動ということになります。笑ってはいけないのですが、このような区別をして分析して結局、実際の広告が両者が混在しているという話になってしまう。そんなの当たり前ですがな(もっとも、この分野ではいろんな文献を見ていると、経済学と経営学で議論している中身はあまり異ならない印象がありますが。アプローチと関心の相違が必要以上に強調されていて、もったいない気がします)。

 ただ、広告の戦略的効果となると、意外と面白いです。ある企業が広告支出を増加させるとしましょう。このとき、広告によって同一の価格であっても、広告支出によって需要量が増えると(需要曲線の右シフト)、需要量が価格の上昇と反対の動きをする状態であれば(供給量は逆に価格が上昇すると増加する状態だという前提が必要ですが)、自社ブランドの価格は上昇します。こちらが広告の直接効果。

 逆にライバル企業からすると、ライバルの広告支出の増加によって需要を奪われてしまいます(需要曲線の左シフト)。結果として、ライバル企業の製品価格は低下してしまいます。こちらは広告の間接効果になります。話を単純化するために、一方の企業のみが広告支出を増加させるケースを考えていますが、実際の問題は、競合する2社が広告支出を同時に増加させた場合、どうなるのかという問題になります。これは一例ですが、双方が直接効果のみを考慮して行動すると、双方の価格は上昇し、利潤が増大するという結果になります。ただし、この場合、消費者の状態が改善するのかは自明ではなく、かなり複雑な分析が必要になります。

 「戦略的行動」という場合、ゲーム理論の文脈では他のプレイヤーの選択に「最適な」反応を行うということが前提になります。プレイヤーの「戦略」の選択に確率の要素が入ってくると話が複雑になりますし、最適化を図るのに十分な情報がなければ、さらに複雑になります。

 もう一つ大切なことは、各プレイヤーの行動が合理的であるということが、すべてのプレイヤーの共有知識となっているという前提です。実は、これらの前提が成り立たない場合でも、分析は可能ですが、相当、難しい話になります。この場合、コミュニケーションは、プレイヤーどうしが互いに合理的であるという「信念」を共有するという役割を果たすことになります(この辺はかなり雑な表現をしております)。ざっくり話を分析する場合には、この部分をオミットするわけですが、現実にはコミュニケーションの部分が大切でありまして、経済学のように金銭が主として問題になる場合でも難しいのですが、安全保障のように命が問題になる場合には互いの「合理性」を確認しあう地道な作業が不可欠になります。また、広告のように、直接効果と間接効果を数理的に明示することは難しい部分があるのでしょうが、プレイヤーの重視する変数によって結果が異なってくるでしょう。台湾問題では、中国の「戦略」は明確ですが、中共の「合理性」に関しては疑わしい点もあるので、「核論議」のように中国の利害計算を複雑にすることも無視できないでしょうが、それ以上に、よりコミュニケーションを図る必要があるのでしょう。

 ありゃま、やじゅんさんの記事から遠く離れてしまいました。日本外交が「戦略的」ではないとするならば、対内的な説得のためにあまりに選択肢が制限されていて、対外的な反応と信念を共有するためのコミュニケーション手段が限定されていることが大きいと思います。余計ですが、私自身は、国内的制約を無視すれば、「非核三原則」のうち、「持ち込ませず」は削ってしまった方がよいと思います。にもかかわらず、安部総理の「非核三原則」堅持を支持するのは、国内的説得がまだまだ難しいという実感があるため、現状では堅持せざるをえないだろうと考えております。対外政策に国内的制約をもちだすのは民主主義国では程度の差こそあれ、やむをえない部分もありますが、この国の場合、小泉政権下でだいぶよくなりましたが、まだまだ異常な水準にあると思います。「普通の国」への過渡期ではあると思いますが、細かい作業が山積みのようにも見えます。

 『報道2001』の2006年11月26日放送分の世論調査の結果をみて、唖然としました。「あなたは、北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを発射した場合、日本が迎撃することができるようにするべきだと思いますか」という問いに、@Yes(48.0%)、ANO(43.6%)、Bその他・わからない(8.4%)という結果になっていました。日米同盟が大切だというコンセンサスは強固だと思いますが、日米同盟の双務性を高めるという具体的な問題になると、なかなか厳しいという実感をもたざるをえません。

 私自身は、「日米同盟は、日本民族の安全と繁栄の根幹である」という岡崎久彦大使の見解に深く共感いたしますが、これを政治家が国民に説得してゆくのには時間がかかると感じずにはいられません。岡崎先生のおかげで戦略論というのはシンプルな話なのだと、少しずつ理解できるようになりましたが、これをまず国民の「共有知識」とするにはまだまだ時間がかかる。中国ナショナリズムの高揚や北朝鮮の反作用だけでは持続的に戦略を国内レベルで共有するには不十分で、やはり地道な努力が不可欠なのでしょう。「寝言@時の最果て」がそのような努力のお手伝いをするには力不足ですが、少しでも、この問題に持続的な関心をもっていただける「同好の士」が増えることを願ってやみません。

「続き」は、かんべえ師匠への私信ですので(メール書くのが面倒くさい)、かんべえ師匠以外の方がアクセスできないよう、アクセス制限をしております。

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posted by Hache at 02:11| Comment(3) | TrackBack(0) | まじめな?寝言