2006年12月31日

ゆく年(2006年(平成18年))

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:こんなときまで、熟睡しておるのお。寝息と寝言がなかったら、永眠かと思うわい。
ハッシュ:(パチン)ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:…。こんなときまで、おぬしは…。
ハッシュ:こんなとき?
ボッシュ:暦が変わるの!2006年から2007年にじゃ!!…おぬし、本当に時の賢者か?
ハッシュ:フフ……。そう言われた事もある様な気がするよ……。そう、はるか昔……な。
ボッシュ:…。今はゲームをやっている場合じゃないんじゃ。いったい、そのセリフをどこで覚えたのか、問い詰めたいところじゃが。今日は、暦が変わる日なんじゃ。細かいところにうるさい御仁もいらっしゃるじゃろうから、あのデブが困らないように言っておくが、元号で言えば、平成18年から平成19年に変わるんじゃ。
ハッシュ:で、暦が変わって、なにが変わるんじゃ?
ボッシュ:…。ジールのときにも暦があったじゃろ。だいたい、女王の指示でおぬしが暦を定めたではないか?暦が変わるときには、祭りがあったじゃろ?
ハッシュ:そういえば、そうかな。
ボッシュ:太陽のめぐりを下に暦を定めた方がよいと女王に進言したのは、おぬしではないか。暦を考えた方がこのありさまではジールも浮かばれんのお。
ハッシュ:そんなこともあったなあ。
ボッシュ:…。やっぱり、こんなトコにいると、ボ○るのお(不適切な表現を含んでおりましたので、一部、伏字にいたしました:書記係)。
ハッシュ:ところで、おぬしはジパングのお祝いにはゆかぬのか?
ボッシュ:…。わざわざ誘われたのを断って、ココに来たんじゃ。店長もシェフも客人も、いろんな人が誘ってくれたが、それを断ってきたというのに…。
ハッシュ:ほお、おぬし、なかなか人気者じゃな。
ボッシュ:・・・。他の人に言われたら嬉しいが、おぬしに言われると、気が抜けるのお。
ハッシュ:ところでジパングの暦は、太陽かね?それとも月かね?
ボッシュ:…妙なところはしっかりしておるのお。太陽じゃ。
ハッシュ:ほお。ジパングには季節があるんじゃな。
ボッシュ:おぬし、ワシやあのデブの記憶をたどれるのじゃから、気がついておったんじゃないのか?
ハッシュ:まあ、そうなんだが。問題は、それをどう意識しているかじゃ。
ボッシュ:そういえば、ジールには季節というほど、激しい変化はなかったはずじゃ。宮殿や都市の内部はほとんど同じ気温だった。なぜ、おぬしは太陽の動きを元に暦を定めたんじゃ?
ハッシュ:それはじゃな…。
ボッシュ:待て待て。みなまで言うな。ジールから離れておぬしの正体がようやくわかってきたからな。こんないい加減な御仁とは思わなんだ。どうせ、太陽の方がいいという気分じゃろ?
ハッシュ:…。ワシが暦のことを考えた頃には、まだ太陽崇拝が残っておった。太陽でも月でも、どちらでもいいんじゃが、みなが納得しなければ困る。あとは、今のジパングでは太陽暦と呼んでおるのかな、こちらの方がシンプルじゃ。まあ、閏日で調整しなければならぬが。月の場合、すなわち太陰暦の場合、ちと調整が多くて面倒じゃ。そんなこんなで暦をつくるときに太陽暦にしたというわけじゃ。
ボッシュ:…。
ハッシュ:ワシの顔になにかついておるのか?
ボッシュ:煽りにマジレスとはな。それはさておき、ワシはびっくりしたぞ。これを聞けば、おぬしもびっくりするじゃろ。大地の周りを太陽が回っているのではなく、太陽の周りを大地が動いておるんじゃ。地動説と呼んでいる。これにはおぬしも気がつかなんだだろ?
ハッシュ:実は、その件についてはガッシュと話をしておった。太陽が動いておるとすると、あまりにも計算があわないことが多すぎる。そこで、ガッシュが考えたのが、太陽の周りを大地が巡っておるということだった。これにはさすがのガッシュも首をかしげておったがのお。そこでワシが釘を刺したんじゃ。大地が動いているとなると騒ぐ者もでてくるだろうし、女王がガッシュを変人扱いして遠ざけてしまうかも知れぬ。悪いが、おぬしにも内緒だった。
ボッシュ:…まさか、そこまで知っていたのか?
ハッシュ:確証がなかったんじゃ。それに話が奇天烈すぎる。今のジパングの人たちからすれば、当たり前じゃろうが、ワシらの時代には早すぎたのじゃ。気がつくのがな。もちろん、ワシ自身が信じられなかったんじゃ。大地が動いているなどというのはな。
ボッシュ:あのデブが「日の下には新しいものは一つもない」などとぬかすから、ツッコミをいれようと思ったんじゃが。まさか、仲間が裏切るとはな。
ハッシュ:裏切ったわけではないぞ。おぬしにも内緒にしていたのは済まぬが。それと、あのデブの記事でつっこむなら、ここじゃな。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」。これはなにかの間違いじゃ。次のように訂正するように。「実に、食事が多くなれば体重も増え、食事を増す者は重みを増す」。
ボッシュ:…。…。…。
ハッシュ:おぬし、どうした?
ボッシュ:おぬしの方がきついのお。ワシは、もう少し高尚な話をしたかったんじゃが。
ハッシュ:…。これは申し訳ない。それでは、おぬしの話を聴くとするか。

 …。あのお、今日は大晦日なんですが。時の最果てから送られてきたのが、これ。まだ続きがあってどうしろっていう感じですね。時の賢者が暦をつくったなんてベタな話をされてもねえ。地動説に気がついていたっていうのも、なんだか。私の記事に難癖をつけるのが目的の御様子なので、とくと伺うことにしますか。

 大晦日は書類ゴミとの戦いになりそうです。というか、部屋の掃除をしだしたら、ゴミをこれだけよく貯めて生活していたなと思うぐらい、ゴミがでてまいります。やはり住むなら土地付一戸建てがいいですね。書斎そのものは狭くてもいいのですが、資料室をつくって図書や書類を整理しておきたいもの。マンションだと改造するわけにもゆかず、生活と仕事が分離せず、書類ゴミの「分別」が面倒です。嫁はいないし、まして子供もいないので平屋で十分ですが。

 本年は某所にて新年のカウントダウンに参加する予定です。場所ですか?全国1000万の『らんま』ファンの方のためにあれを使っちゃいましょう。

N・A・I・S・H・O(エヌ・エー・アイ・エス・エイチ・オー)!

な・い・しょ。

 すみません、大晦日だというのに。隠すほどの場所でもないんですが、書くほどの場所でもありませんので。こんな日に、こんな鄙びたブログをこんな下までスクロールして下さったおそらく100人を超えるかどうかという方々にお約束(大晦日ver.)を捧げます。

ここは「時の最果て」、すべては「寝言」。

よいお年を!

2006年12月30日

私にとっての2006年

 もう一年が過ぎてゆくという感覚とまだ一年も経っていないのかという感覚の双方がないまぜになっています。本業ではメニューを盛り込みすぎて、一つは「ハードランディング」。基本的に時間と比例する仕事だったので、どこかで下りるべきだったなあと反省してしまいます。、自発的にやっているというより、やらさられている感覚になった時点でダメだったなあと思います。要は、仕事にのまれてしまったいたので、この年齢としては失格です。まあ、上手にコントロールしないと、空回りしてしまうことを実感しました。いい年を恥ずかしい限りです。

 このブログを始めたという意味では、2006年というのは私自身の記憶に残る年でした。やじゅんさんのお勧めで始めてみたのですが、『寝言@時の最果て』を始める半年以上前でしょうか、『時の最果てで寝言』というブログを私一人で試運転していた時期があります。その頃は、やたらと他人のブログでコメントをしていましたが、自分で記事を書くとなると、難しいなあと思いました。あとは、ブログのタイトルがどうも落ち着かない。というわけで、記事もほとんど載せずに、店じまいです。たぶん、私以外の誰も理解ができないと思いますが、「寝言」と「時の最果て(at the end of time)」はキーワードなので外せないのですが、どうも、うまく組み合わせられない。あるとき、ポンと手を叩いたのが『寝言@時の最果て』とすれば、シンプルでいいじゃないという、実に下らない話です。自分でも不思議なのですが、タイトルが決まると、記事がどんどん出てきました。元々、「ある敗戦国の幸福な衰退史」という訳のわからない文章の断片を2003年4月頃に書いたのですが、ワードで3頁ほど書いて、そこから進みませんでした。この文章をまとめることが、このブログの幹になっています。

 「ある敗戦国の幸福な衰退史」というと、陰鬱に響くかもしれません。実際の着想は、集団的自衛権の行使に関する解釈が混迷を極めていることを近代以降の文明史――フランス、ドイツ、ロシアの興亡――の中で考えようという、いかにも素人臭い「大風呂敷」です。民主主義的な意思決定過程が形成される経緯と同盟という、組む相手を間違えると、国を滅ぼしかねない外交政策の基本をリンケージさせようというわけですから、まとまるはずがありません。もっと抽象化してしまうと、分権的な意思決定プロセスによって同盟という他の国家と利害の一致が前提でありながらも不一致もある外交政策を整合的に構築し、執行し、持続できるのかという「答え」があるような、ないような話です。こんな変なことを考えるのは私ぐらいだろうと。そして、「問い」自体に意味があるのかどうかすら、わからない。だから、「寝言」です。また、過去・現在・未来を自由自在に行き来できなければ、こんな話自体ができない。ゆえに、「時の最果て」で考えるしかありません。

 このブログを始めてみて、あらためて問題設定の曖昧さと勉強不足を痛感したという意味では、一歩前進というところでしょうか。書き始めてから10ヶ月以上が経過したにもかかわらず、大した進歩はないのですが。私が「寝言」を書いている間に、集団的自衛権の問題がクリアーされ、日米同盟の双務性が高まって、この国が安全になり、「何をやってんだか」と自嘲したり、他人から嘲笑されるようになれば、私にとっては幸福です。論証などの前に現実が先に進むことが日本人として最も望むところです。逆に、私の考えがまとまるまでに現実が進まなかったら、失望と危機感を抱くことになるのでしょう。

 私にとって最も大切なことは、この国の運命であって、私の「寝言」などは、私見にすぎません。一回の書生の私見ごときで世の中が動くものでもないでしょう。変なもので、結論自体は、今のところ、まるで変える必要を感じておりません。駄文で恐縮ですが、以下のような具合です。

 この論考で私は,戦後のわが国の歩みが幸福な衰退であったという仮説を提起する.先の大戦においてわが国はポツダム宣言を受諾し,条件付きで降伏した.条件付きとはいえ,降伏したのだから敗戦である.20世紀以降の大国間戦争における敗者の末路は哀れである.典型はドイツである.帝政を打倒した後,不幸にも民主主義が全体主義を生むという悲劇をドイツは経験しなければならなった.ロシアは,1度は敗戦したものの,2度目の大戦で戦勝国側に立場をおいていたために,皮肉にも長く全体主義を経験しなければならなかった.ドイツやロシアの先駆者はフランスであろう.王制の打倒後,革命が急進化し,ナポレオンによる専制を経験し,大国間戦争に敗れ,ドイツの興隆とともに独力での安全の確保が脅かされるまでにいたった.
 対照的に,わが国は,大戦後,日米同盟によって安全を確保し,長期にわたる経済成長を経験した.超大国に自ら挑戦し,敗れたのだから,悲劇が待っていても不思議ではない.事実,敗戦により帝国は解体された.しかし,血の犠牲に冷戦という幸運が重なった結果,日米同盟を獲得したためにわが国の安全は確保された.アメリカは戦う相手としては最悪であったが,負ける相手としてはけっして悪くなかった.まず,立憲君主制は維持された.革命の危機はあったものの,占領軍の存在のおかげでわが国は全体主義を経験することはなかった.次に占領軍による総力戦体制の解体とともに自発的に民主主義が復活し,自由をえた国民は経済的な繁栄を享受し続けてきた.そのため,わが国には戦後史が衰退の過程であるという自覚が欠如してきた.国の衰退の定義は困難であり,学術的に定義するのは不可能なのかもしれない.本稿では敢えてある国の衰退とは,その国の国民の運命を自ら決定する意思と能力を失う過程であるとあえて「非学術的に」定義する.わが国の戦後史は幸福な衰退史であった.なぜなら,自らの運命を決定する能力を人々がもちながら,それを決定する意思を明確にし,合意に至らなかったからである.端的に言えば,わが国は日米同盟のおかげで冷戦のもとでも経済成長を享受し,冷戦後は「アメリカ一人勝ち」の最大の受益者であった.しかし,わが国は日米同盟をより堅固にするための意思決定を避けてきた.この仮説は,人々が合意形成に成功すれば,衰退に歯止めがかかる可能性が存在することを示唆するものである.
 以上で述べたことは,論証を欠いた仮説である.以下で述べるのは,論証そのものではなく,仮説の詳細な内容である.私が望むことは,この仮説に興味をもった方がその真偽を判断するために検証を行っていただくことである.もっとも,このような奇妙な仮説に興味をもつのは私以外には存在しないので,いつか私自身が検証しなければならないのではあろうが.


 来年、あるいは、今後10年で期待しているのは、こんな「寝言」を考える必要がないほど、現実が先に進んでしまうことです。来年にそのような兆しが見えなければ、失望するでしょうが、「寝言」を綴ってゆくことになるでしょう。「寝言」ついでに、断片の最後を、含羞はありますが、アクセス数がかなり減ってきているので載せやすい気分なので、公開しておきます。 

 「彼れを知らずして己れを知れば,一勝一負す」.自分自身を理解したとしても,世界の情勢を把握しなければ,この国の運命は偶然にゆだねられてしまう.しかし,自分自身すら理解できなければ,衰退の歩みは確実に止まらないであろう.私たちが,再び自分の運命を決定する意思を明確にするには,私たち自身のことを冷静に理解することが不可欠である.それはけっしてやさしい道ではない.しかし,もはや浅薄な歴史観に左右されているほど,優雅なゆとりがないことも忘れてはならないだろう.他方,既に良心的な歴史家たちによって,この国の歩みを的確に記す作業は確実に進んでいる.
 本稿は,私たち自身を理解するための仮説を提起したにすぎない.検証を欠いた仮説にもとづいて意見を述べるのは,不健全である.したがって,私はあえてこの国の将来について意見を述べようとは思わない.しかし,私の仮説に興味をもち,検証していただくことは,歓迎すべきことである.もっとも,立証する責任は私自身が負わなくてはならないのかもしれないが.


 こんな駄文を公開できるようになっただけでも、2006年は実りのある年であったと思います。

2006年12月29日

「伝道者の書」(「寝言」的解釈)

 木曜にあんなことを書いたら、自宅の資料の整理をして年賀状を書いていたら、午前3時。ぐったりしてしまいました。いつもは、できうる限り、宛名を下手くそな字で手で書いて、なにか一言、書き加えるのですが、そんな余裕すらない状態です。というわけで、宛名を全部印刷してしまう。もう、投函するだけなのですが、さすがに一言、付け加えなくてはとやりだすと、パッと思いつく方とそうではない方に分かれてしまいます。パッと思いつかない方の分は後回しにして、パッと思いつく方を最優先。今日中に投函できるのでしょうか。

 休みになって楽になるはずが…。アーノンクール指揮のモツレクを聴きながら、思わず、『聖書』(新改訳聖書刊行会訳、日本聖書刊行会、1970年)を手にとってしまいました。こんなすちゃらかな人間が、特定の宗教に帰依するわけでもなく(自分でも恐ろしいことに「自分」以外の神を認めることができませぬ)、スノビズムでもなく、プレステ2の下敷きになっていた『聖書』を「サルベージ」しただけです。ついつい、自称「心の友」、「伝道者の書」を読んでしまいました。

   
   エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
   空の空。伝道者は言う。
   空の空。すべては空。
   日の下で、どんなに労苦しても、それが人になんの益になろう。

(「寝言」的解釈)
 これだけでは、あまりひねりのない文章。しかし、考えても考えなくても同じという「確信犯」が書いただけに説得力がある。

   
   一つの時代は去り、次の時代が来る。
   しかし地はいつまでも変わらない。
   日は上り、日は沈み、また元の上る所に帰ってゆく。
   風は南に吹き、巡って北に吹く。
   巡り巡って風は吹く。
   しかし、その巡る道に風は帰る。
   川はみな海に流れ込むが、海は満ちることはない。
   川は流れ込む所に、また流れる。
   すべての事はものうい。
   人は語ることさえできない。
   目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
   昔あったものは、これからもあり、昔起こった事は、これからも起こる。
   日の下には新しいものは一つもない。

(「寝言」的解釈)
 「寝言」が本当の「極み」に達すると、「詩」になることを示した、達意の文章。まあ、こんな文章を私が独力で書けるようになったら、この世とおさらばでしょうな。「日の下には新しいものは一つもない」はあまりに深く読まれてしまった。この確信から、すべての「新しいもの」が始まり、すべてが新しく映り、やがてすべては「新しいもの」などなく、再び、出発点に戻る。近代の迷妄は、この循環が無意味だと考えたところに尽きてしまう。事実と価値を切り離したものの、相変わらず「進歩」という価値を原点にせざるをえない。古代の人は、自然と人間を切り離さなかった。事実を価値から切り離すことができないことを事実として認めることを原点としたから、現代ほど技術がなくても、ものがよく見えていた。「進歩」という強迫観念から自由になることが難しい時代なのです。

 
「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。

(「寝言」的解釈)
 やや理屈っぽい点に難がありますが、その分、解釈は不要でしょう。これと「忘れえぬこと」あるいは「いったん忘れられたにもかかわらず、再び思い出されたこと」を「真理」と名づけたギリシア人は車の両輪のように切り離すことができない存在でしょう。

 
私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
私は一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
   実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、
   知識を増す者は悲しみを増す。

(「寝言」的解釈)
 最後の一文は、あまりにも美しいために、誤解されてきたように思います。鼻につく人は、バカにしてしまう(まあ、ある種の「気どり」があることは否定できませんが)。「時の最果て」だから書けるのですが、こんなことを書く人は、要は「病気」なのだ。「病気」は「病気」のままだと苦痛でしょうがないので、「病気」にもお作法とルールをつくってゲームにしちゃった最先端が、純粋数学と分析哲学な訳です。1つの問題の解がわかると、その周辺に10の新しい問題が生じるなんて病気そのものです。単なる「病気」自慢では飯が食えぬ。これを食えるようにしたわけですよ。しかも、ある意味、無駄といえば無駄なことを真剣に予算をつけているアメリカという国は恐ろしいのだ。アメリカの「ソフトパワー」という場合、美術や映画、音楽など目や耳でわかりやすいもの、あるいは科学技術など本当のところは専門的なトレーニングを受けていないとわからないけれど、成果が目に見えてわかるものに集中しがちなんですが、そうじゃないところに秘密がある。「ソフトパワー」はどれだけ「病人」を養えるかで決まり(「病人」もほどほどの数がよく、時折、知識人も「首」にしないと困る)、「ハードパワー」はどれだけ自国民を守るために自国民を死地に向けられるかで決まる(ゆきすぎると、戦前のこの国みたいになってしまいますが)。そんなもんでしょう。

私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。
知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたまたむなしい。」と。
事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。

(「寝言」的解釈)
 「伝道者の書」をニヒリズムの発露として読むのは笑止千万。このあたりは、「神」の伏線ですね。ごく一部分しかとり上げていませんが、よくできているんですよ、『聖書』という奴は。人を絶句するしかないところに追い込んで、最後は「神」で落とす。現代的な意味で「論理的」ではありませんから、理屈っぽい人なら、いくらでもツッコミができるわけですが、そんな輩には「縁なき衆生は度し難し」。ソロモンも預言者にしてしまうイスラム教を克服するなんて容易じゃありません。時間をかけて「堕落」して頂くのを待つか、アメリカがでかい顔をしているのに腹が立つのを上手にガス抜きをするしかけをつくるしかないんじゃないかな。究極の手段は、信長公を蘇らせて…。

 ああ、こんなことをやっている暇があったら、年賀状を…。まだまだ、年内の「仕事納め」がため息がでるほど残っておりますので、今日はここまで。

(蛇足)引用文中のかぎかっこと句点は訳書の表記にしたがいました。
posted by Hache at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2006年12月28日

Air

 日曜の夜は古楽三昧としゃれこんでいたのですが、不覚にも途中で寝てしまいました(ピリオド演奏に関してはこちらを)。最近、10時を回ると眠たくなって、11時過ぎには寝てしまう(朝6時ごろに目が覚めます)という私にとっては「不健康な」生活になっております。他人が多く移動するときには動かないといういかにも「ずれた人」らしいひねくれ者ですので、年末年始も「寝言@時の最果て」は「開業」しております。ココログとは異なって、「さくらのブログ」は生ログを保存していないので、想像ですが、一日のアクセス数の推移からご勤務先から御覧になっている方が、大半を占めていると思います。明日あたりが、御用納めのピークかと存じます。よいお年をお迎えください。

 クイケンで検索した『G線上アリア100%』を始め、年末年始はバッハ・モーツァルトづくし+ジム三昧で年末年始は過ごすことにしました。アーノンクールの『レクイエム』は進化の途上という印象がありますが、透明な響きが無機質ではなく、この秘密をついつい考えてしまいます。まあ、「寝言」は別途、ぶつぶつ呟きますが、余計なことを考えずに、頭の中を空っぽにしましょうという訳です。脳みその「デトックス」というところでしょうか。一昨年からずっと同じようなことばかりやってきて、ようやく一段落したので(一つはデフォルトしましたが)、そろそろ新しいことをやりたい気分です。

――どうでもいいんだけど、もともとあんたの頭は空っぽじゃないの?必要なもの、入ってる?

 …。それは言わないお約束でございます。それはそれ、これはこれ。30数年も生きていると、どんどんと余計な「牡蠣殻」がこびりついてしまいます。あれやこれやと心配していることを全部、捨ててしまって、気分を一新しようという訳でございます。

――年末年始モードに入るのはいいけれど、なにか忘れ物をしていないかな?

 …。しつこいですね。書類は全部、片付けたし、もうなにもないですよ。…。はっ!年賀状が…。まだ、全部、白紙でした…。はあ…。

 というわけで、なんだかんだとバタバタしながら、年の暮れを迎えそうです。本当に更新できるんでしょうか。何を書くかは、なにも考えていないのですが。1月3日は、一日中、新年会のため、お休みする予定でおります。本音を言うと、年が変わるだけでなにも感慨はないのですが。"real reason"を言ってしまえば、世間がお休みだというのに乗じて、すちゃらかにいっそう磨きを…。
posted by Hache at 13:24| Comment(2) | TrackBack(1) | 気分しだいの寝言

2006年12月27日

イラク戦争の「本当の理由」

 ふう。残っていた書類を無理やり押し込んで、事実上の御用納めとあいなりました。現金なもので、一気に気が楽になりました。読み返すと、あれこれ書きたいのはわかるが無理して書いているのを自分自身で感じてしまいます。イラクに台湾海峡、集団的自衛権と並べると、これは無理ですね。何を書いているのかが、怪しくなってしまう。核武装に関する報道もあって、こちらも書きたいとか、紛れることばかりやっていて、仕事の能率も悪いわけです。

 実は、この記事を書いている途中で寝てしまい、起きたらパソコンの電源がONになったままになっていたので、書き続けていたら、正真正銘のフリーズでダウンしてしまいました。テキストエディタで下書きしているので、バックアップは全くありません。最初に書いたことの一部を忘れてしまいました。言い訳で申し訳ないのですが、以上の事情で文章のつながりが悪いことをお許しください。

 恥ずかしながら、かんべえ師匠の示唆のおかげで、Thomas Friedman,"Because We Could"(New York Times, June 4, 2003, Wednesday)を漸く入手しました。私自身が、イラク戦争前には当たり前だと思っていたことを置き去りにしていたことに気がつきます。開戦前には、アメリカ人の命が重いことをテロリストやそれを支援している国家に示すためには、徹底した武力攻撃が必要だと考えておりました。T. Friedmanのコラムは、この点を明快に述べています。既に、内容についてはM.N.生様が述べられているので、蛇足になると思いますが、まず、最も大切な点である"real reason"について述べます。

 9.11では、テロリストが一方的に市民を標的に大量虐殺を行いました。フリードマンは、「本当の理由("real reason")」は、テロリストが自爆も辞さない覚悟でアラブ世界と西側の力関係を変えようとしているのに対抗して、中東の心臓部に米兵を送り込んで、アメリカが命を捨ててでも、テロリストを殺す覚悟があることを示すことだと明快に述べています。なぜイラクかといえば、サウジ(当時はアメリカに睨まれていましたから)やシリアでもいいんだが、イラクは攻撃しやすいからだとあまりに赤裸々に述べています。対テロ戦争の延長線上にイラク戦争を位置づける場合(これだけでは、かならずしも、イラク戦争そのものを説明するのには不十分だと考えておりますが)、この肝心の部分があからさまに語られることは少ないのです。フリードマンは、まず、核心部分を提示しています。

 その上で「正当な理由(right reason)」をフセイン体制崩壊後、進歩的なアラブの体制を築くことだと論じています。本当の「大量破壊(mass destruction)」はミサイルではなく、アメリカを憎む若いアラブ人やムスリムだと指摘しています。"decent Iraq"を築くことは、他のアラブ諸国のモデルとなり、さらに、イスラエルとパレスチナの和解に貢献し、アメリカにとっての真の脅威である「大量破壊」を除去すると論じています。

 まず、感じるのは、"decent Iraq"という柔軟性をもたせた表現は、「民主化」にこだわったいわゆる「ネオコン」よりも視野が広いことを感じさせます。"decent"では曖昧なように聞こえるかもしれませんが、狭く言えば、自爆テロの温床となったり、鼓舞するような体制ではないことであればよいわけで、アラブの人たちに選択の余地が残ります。このあたりは、ざっくばらんな表現なようで懐の深さを感じます。また、この時点でイラク戦争が中東和平とリンケージしていることは、アメリカの識者のある範囲内ではコンセンサスになっていたことを感じさせます。「バグダードからエルサレムへ」という直截な表現は用いられていませんが、イラク戦争を見るときに中東和平から切り離してしまっては、戦争の意義が見えなくなってしまうと思います。

 フリードマンのコラムに戻ります。彼は"moral reason"としてフセイン体制が先に述べた反米的なアラブ人の温床となるという意味で大量破壊の温床となっていることやジェノサイドを挙げています。フリードマンは、ブッシュ政権が「本当の理由("real reason")を述べてしまうと、「正当な理由(right reason)」や「倫理上の理由(moral reason)」への支持がえられないがゆえに、「本当の理由」を述べずに、"stated reason"、すなわち、サダムが大量破壊兵器を保有してアメリカへの切羽詰った脅威になっていると主張していると指摘しています。2003年6月の時点で彼は、既にサダムが大量破壊兵器をもっていないことやアルカイダとの繋がりがないことを指摘した上で、戦争に反対するのではなく、"stated reason"(「公式の理由」、あるいは建前論、露骨に言えば、口実・因縁)ではなく、「正当な理由」と「倫理上の理由」で戦うべしと論じています。さらに、イラクで大量破壊兵器を見つけることは、ブッシュ・チームやネオコン、ブレア、CIAにとって信用を守るという意味で必要だろうが、戦争に勝つにはイラクの再建が必要だとまで断言しています。彼の見解は、卓見の一つでしょう。

 彼が指摘している戦争に際しての不手際(大量破壊兵器やインテリジェンスなど)は、多くの戦争で生じる類のものです。また、民主主義国家では「本当の理由」をあからさまに述べることには、他の政体とは異なる困難がつきまとうでしょう。戦前ならば、通州事件などによって民衆が「暴支膺懲」に流れ、「本当の理由」に歯止めがかからなくなった例もあります。「本当の理由」を政府が「隠す」のは、民衆を煽ることなく、説得の手段を確保しておくための手段なのかもしれません。このあたりは、デリケートすぎて私の手には負えませんが、フリードマンの凄味は、このあたりをけれんみなく整理しているところです。対テロ戦争の延長としてイラク戦争を位置づけるのならば、フリードマンの説明で「本当の理由」は、ほとんど語られているでしょう。

 イラクの占領統治は、最悪といってもよい状態にあります。現時点で、"decent state"の具体像は、まるで見えない状態です。イラクからの「出口」は、"decent state"の国家像が見えた時点から始まるのかもしれません。もっと言えば、中東政策を考えると、イラクの占領統治は「入口」であって「出口」ではないのかもしれません。過度の反米感情をアラブ諸国からなくしてゆくには、途方もない時間がかかるでしょう。「時の最果て」の「中の人」はお下劣なので、反米感情ですら、なくす必要はなく、要は程度問題だと思います。

 占領統治の不首尾に乗じてアメリカを嘲笑したり、悲嘆するのはたやすいことです。しかし、アメリカの真におそるべき点は、2歩退いたと思ったら、いつの間にか5歩も6歩も進んでいるという特性にあります。アメリカは、ときに救い難いと映る失敗を犯します。並の国なら失敗から学習する程度でしょう(もっとも、これでも十分に世界史に残る国ではありますが)。アメリカは、自ら、なかば滅んで蘇るという驚くべき力をもっています。もちろん、彼らが、そうなるように合目的的に行動しているわけではないのでしょう。アメリカという国は、100人いれば、100人の意見があって、てんでバラバラです。100人が100人、自分の好きなことをやっているだけだといえば、そうでしょう。しかし、このような徹底した分権的な社会が生み出す、分権的な社会のみが有するダイナミズムを忘れてしまっては、ナチスや戦前のこの国や旧ソ連と同じ過ちを繰り返すだけでしょう。

 イラク占領統治の不首尾は危機的な状態です。この2、3年で適切な解がでてくるのかさえ、疑わしい。ようやくここで今日の「寝言」の核心ですが、アメリカ人自身が、アメリカの一極支配に適応していないことをイラクで露呈してしまいました。私は、イラクの占領統治をめぐるアメリカ国内世論の混乱は、アメリカ人自身がアメリカの一極支配に適応してゆく過程での挿話に過ぎないという感覚をもっています。「寝言」の極みですが、アメリカ人は自分たちが「帝国」であるという自覚がないまま(そうであるからこそ)、帝国をつくってゆくという予想をしております。アメリカ国内の世論が分裂し、妥協し、また分裂するというのは、まさに分権的社会が機能していることを示しているでしょう。もちろん、このまま、アメリカが迷走する可能性もあるでしょう。しかし、分権的社会の驚くべき復元力を軽侮することは、アメリカが事実上の帝国である現状を鑑みると、取り返しのつかない過ちにつながる判断をしかねません。あくまで、アバウトな認識と「男の勘」にもとづく、仮定に仮定を重ねた話ですので、「『寝言』というより『妄言』だね」という感覚で読み流して頂ければ、幸いです。

2006年12月26日

イラクからの「出発」

 …。やじゅんさんがさりげなくテロをされて(変な表現ですが)、『やじゅんのページ』と『カワセミの世界情勢ブログ』経由のアクセスが合計で200を越えていました。二人の「テロリスト」にブログを乗っ取られた感じで、「国破れて山河あり」というべき事態でしょうか。「テロリスト」(別名「闇の組織」)の元締めことかんべえ師匠がでてきたら、「弱小国」とはいえ、死なばもろとも。やばい話をブログに仕込んでトラックバック攻撃という最後の手段を使うまでです。わが国の核武装と違って3年もいりません(『産経』を読むと、不謹慎ですが、対外的な信用などはかりしれない部分を除くと、意外と安いもんだなと思ってしまいましたが。さらに、不謹慎ですが、金正日の「異常な愛情」が少しだけ理解できるような気もします)。3分はさすがにきついですが、30分もあれば、簡単にできてしまう。いいですか、テロを容認できるのは、やじゅんさんとカワセミさんだけですよ(というより、「抑止」の手段がありません。お二人とも、「誉め殺し」の手口でこられるので、参ってしまいます)。最初に、メールを送る代わりに「警告」です。

 さて、本題。考えているうちに、何が問いだったのかがわからなくなってしまいましたが、M.N.生様のコメントを拝見しながら、何が出発点だったのかが漸く思い出せました。勝手ながら、コメントの主要部分を引用させて頂きます。

 やっぱり、9.11、イラクとくると、日本国内の言説への違和感(日本はアメリカのこと判ってんのかな。それで日米同盟と言ったってねえ・・・)が拭えないものですから。

 「イラクからの出口」ということから、二つの感想を持ちました。一つは、出口というのは、例えば冷戦の象徴だったベトナム戦争なんかに当てはまる言葉であって、あれは境界(必ずしも地理的物理的な意味に限らない)のある戦争でした。境界があるから、出口もある。

 だけども、冷戦が終って、グローバル化がここまで進んで、超大国(少なくとも軍事的、地政学的な意味で)が一国になったような二十一世紀初頭の世界で、対テロ戦争に、出口なんかないんじゃあないかと思うんです。アメリカがイラクから段階撤退したって、戦争は続くんじゃあないかって、思っちゃうんです。こりゃあ、憂鬱だなあ。これが第一点。

 もう一つは、カワセミさんが的確に指摘したように、イラク問題を、アメリカ問題として捉える人々が多すぎる。そのとおりで、私も反省させられます。中東のことを、ズバリと直接考えることが必要ですね。

 それに関連することなんですが、中東はいい意味でのグローバル化から取り残されている、それをなんとかしないとダメだと思います。悪い意味では、グローバル化の最前線です。石油がありますから。資源の争奪戦の舞台になりますね。「イラク介入の本当の理由は石油だ」という考えには、直接には賛成しかねるんですけど、石油のおかげで、皮肉なことにグローバル化が進まない、それが戦争の深い底流になっている、ということは言えると思います。

 その意味で、迂遠なようですけど、対テロ戦争の本当の出口は、少なくともアメリカが石油依存病から脱却することだと思ってます。私の好きな、トム・フリードマンもそう主張してますね。それと、(石油以外の分野で、日欧が)もっと投資をすること。結局、ある領域的な経済発展こそが、部族や宗派対立を超えた国民国家の基礎になる、これしかないんじゃあないですか。遠い道かもしれません。それまでは、混乱は続く。残念ですけど。


 繰り返しになりますが、「イラクからの『出口』」を書いたときには、こんな話もあったなあというぐらいの感覚でした。カワセミさんがアメリカの視点から離れろと書かれたときは刺激的で非常に興味深く拝見しました。ただ、コメントをしようとすると、非常に手強い。「寝言」よりも、はるかに視野が深く、いろんな補助線を引かれていて、おもしろい。ただ、私の考えようとしていたこととは、なかなか繋がらない。ハッとさせられたのが、M.N.生様のコメントで、「日本→アメリカ→イラク(あるいは中東)」で考えていてはダメなのであって、「イラク→アメリカ→日本」のルートで考えればよいのだと気がつきました。ただ、このプロセスを描写するにはまだまだインプットが必要だと思いますが。

 このコメントを拝読して、最初に考えていた問題が何であったのかがわかったしだいです。イラクを見て、私が信頼している方たちでも、「アメリカ恃むに足らず」ともとれる主張が、わずかですが、でてきている。これが一番、危うい。かんべえ師匠は、「脱アメリカ?」とは異なる立場から、「米軍の抑止力の低下」を指摘しています(念のため、お断りしますが、かんべえ師匠は、ちゃんとアメリカの復元力について述べらています。『溜池通信』のどれかなのですが、ちと手が回らないのでお許しを)。イラクを見ていると、現況は集団的自衛権の行使に関する解釈を正常なものにするには(要は必要があれば行使できるという解釈にして同盟の抑止力を高めるコミットメントを明確にすること)最悪の環境だということです。

 ここから、いよいよ「寝言」の本領です。ここでいきなり盤面をぐるりとひっくり返してみましょう。

 今、日米同盟が日本側のある種の「作為」から、離れたらどうなるか?まさに、事態は最悪です。最も親しい友人が、それもこちらが喧嘩をふっかけて負けた上で、同盟関係に入った友人を事実上、見捨てるかのごとき行為をすれば、それこそ、取り返しがつかない。以下に引用する小泉前総理の記者会見(「イラク問題に関する対応について」平成15年3月20日)は、最もimpressiveな人間性の発露を含んでいます。

 アメリカは、日本への攻撃はアメリカへの攻撃とはっきり明言しています。日本への攻撃はアメリカへの攻撃とみなすということをはっきり言っているただ一つの国であります。いかなる日本への攻撃も、アメリカへの攻撃とみなすということ自体、日本を攻撃しようと思ういかなる国に対しても、大きな抑止力になっているということを日本国民は忘れてはならないと思っております。


 小泉前総理は、非情の人ともいわれました。たしかに、薄情な方なのかもしれない。しかし、彼がいざというときに見せる人間味は魅力的であり、人情を超えたなにかを感じさせました。同盟は、同盟を結ぶ国どうしの利害の一致という基礎が脆ければ、なんの意味もありません。ですが、小泉演説は、利害の一致と人間性を分け隔てることなく、同盟の利益と価値を渾然一体として、しかし、曖昧ではなく、これほどまでにimpressive人間性の発露を見たことがないほど、見事です。

 陸自のイラクでの貢献はけっして派手ではありませんでしたが、大きな一歩でした。いまでも、空自はイラクでの輸送で貢献を続けています。海自もインド洋で活躍しています。イラクやアフガニスタンという現場での人間性は、自衛隊の方々が遺憾なく発揮されています。この状況下で、アメリカを軽侮することは、これらの高貴な人間性の発露――自国の安全を確実にするために同盟国との友誼を深める――を無にするものでしかありません。

 以上のことを考えるならば、場合によっては自衛隊の方々に命を賭ける命令を下す立場の方とそれを粛々と受けて国を守る立場の方々の人間性の発露を基礎にあらためてアメリカとの同盟関係を深める絶好の機会でしょう。くどいようですが、日米同盟は、情緒ではなく、利害計算にもとづいた関係です。しかし、イラクの現状から日米同盟を表面上、維持するという立場では、日米同盟の維持すら困難になりかねません。お互いの命を守りあう関係は、個人だけでなく、国家どうしの関係においても、最も重く、人間性が問われる関係です。厳しい表現をすれば、イラクでの困難に直面してアメリカを軽侮する傾向は、自らの人間性を表していると思います。「イラク→アメリカ→日本」という関係を描写するには至っていませんが、イラクの「混迷」は勝者の混迷に過ぎず、アメリカが本格的に世界にコミットしてゆく「入口」での混乱にすぎないのかもしれません。イラク問題があろうとなかろうと、同盟関係の双務性を高めるにはリスクがともないます。このリスクを負う覚悟があるのかどうか。一時的な困難に際して判断を誤ることは、その程度の国であるということを示すだけでしょう。

 以前、「毅然とした敗者」という稚拙な文章を書きました。「時の最果て」で「寝言」を綴るだけの能無しには「ノブレス・オブリージュ」を語る資格などありません。しかし、この国の少なからぬ方は、そのような精神をおもちだと信頼しております。日米同盟の双務性を高めることは、第一義的にはこの国の安全を高めるための「利己的な」選択です。しかし、この利己的な行動が、同時に利他的な性格をもつこともあるでしょう。以上の意味で、私のような「寝言」そのものの人生を送っている人ではなく、しかるべき方に「ノブレス・オブリージュ」を発揮していただくことを願ってやみません。

(追記)下線部を加筆・修正いたしました(2006年12月27日)。


続きを読む

2006年12月25日

日本人の姿勢

 ジムにもスポーツ科学の先生がみえることがあって、お話を伺うと、「日本人総猫背」といってもよいほど、姿勢が悪化しているようです。とくに、座っているときの姿勢が極端に悪くて、新陳代謝から思考力の低下まで相当、危ない状況のようです。座業中に足を組んだりすると骨盤が歪んでゆきますし、ソファーなどで寝そべりながらテレビを見ていると、骨盤と背骨をつなぐ部分が歪んでくるそうです。私は脚を組む癖がひどいので、椅子を変えて姿勢を矯正中です。

 私も、猫背なのですが、ピラティスを始めてから少しマシになりました。ヨガをやっている方も、姿勢がきれいです。これは柔軟性にも影響があって10年単位で体が硬くなりにつれて、腰を中心に万病の元になるようです。腰痛というよりも、上半身・下半身の動作だけでなく、知的活動にも影響があるとのこと。

 イラクに関するコメントは遅れます。申し訳ありません。姿勢が悪いせいでしょうか、頭がどうも…です。あの記事自体はメモ程度なので、コメントが頂けるとは思っておりませんでした。コメント欄を拝見しながら、最新の情勢ではなく、戦争前にどんな議論があったのかを読み返そうと思ったら、資料がでてこない。はあ、まず部屋の大掃除が最優先ですね。仕事納めの後は、体と部屋の掃除で頭には手が回らないか…。

 余談ですが、安全保障は、国のいわば骨格です。周辺での紛争の可能性が高まっているのに、防衛費がまた減少して、社会保障費が増加するというのは異常な感じがいたします。社会保障費は、制度を変更しない限り、やむをえないのでしょうが、防衛費の減額は度し難いと思います。いくら自衛隊の士気や練度が高いといっても、「国を守る」という自衛隊の本来の任務だけでなく、災害救助や国際貢献(同盟以外で外交を補完する大切な仕事)での任務が増えているのに、予算を圧縮するというのは、信じられないです。表現は悪いのですが、こんなことを数年も続けていると、国の安全という骨格部分で「骨粗鬆症」になりかねないと思います。イラク情勢を見て「アメリカ恃むに足らず」と考えるのは浅薄だと思いますが、現下で防衛費をケチり続けることは、日本の姿勢に関して対外的にも誤ったシグナルになりかねません。

 この面での日本人の姿勢は、ただちにあらためて頂きたいと思います。日常の生活が大切だということを否定するつもりはありませんが、安全よりも「食べる」ことを優先するのは、国家として恥ずべきことだと思います。
posted by Hache at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 不幸せな寝言

2006年12月24日

賢者様たちのクリスマス

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:こんなときまで…。まるでここだけ時が止まっておるようじゃ。
ハッシュ:zzz
ボッシュ:…。おい、いい加減に起きんか。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、おぬしか。
ボッシュ:…。ココにくると、ぼけそうじゃ。
ハッシュ:まあまあ、そう悪く言うでない。ココにいると、いろんなことが見えるものじゃ。たとえばだな、あのデブは今日も…。
ボッシュ:今日は、あのデブの話はなしじゃ。とにかく行くぞ。
ハッシュ:ほお?どこへ?
ボッシュ:決まっておる。ワシの店じゃ。店長やシェフは呆れておったが、常連さんをすべて断って、今日はおぬしを招いて特別パーティじゃ。
ハッシュ:…。好意はありがたいが、ワシはココを離れるわけには行かぬ。
ボッシュ:…。どうしてもじゃな?
ハッシュ:こればかりは譲れぬ。
ボッシュ:後悔はないな?
ハッシュ:ない。
ボッシュ:そう言うと思ってきたのじゃ。やむをえぬ、いったんさらばじゃ!
ハッシュ:今日は気ぜわしいのお。また、おいで。



















ハッシュ:zzz
ボッシュ:…。信じられん。1時間も経っていないはずじゃが。
ハッシュ:zzz
ボッシュ:おーい、こっちじゃ。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:来られないというから、こっちから来たぞ。会場ごとな。
ハッシュ:なんの用じゃ。…。おや、おぬしたち。
一同:お久しぶり!!
ハッシュ:クロノにマールにルッカ。カエルに、おぬしはエイラではないか。ロボに、なんとジャキ!サラまで…。
ボッシュ:現代では、12月24日はクリスマス・イブと呼んで楽しんでおる。まあ、反発する人たちもいるようじゃがな。まあ、そんなことはどうでもいい。今日は、食べて飲むぞ!
一同:メリークリスマス!!

 …。なんでこんなことを私が写さなくてはならんでしょうか…。サラが生きているわけですか…。このコーナー、いよいよ『霊界通信』とした方がよいのでしょうか。

 私?ジムへ行って、ピラティスをやって帰ってきましたよ。予想通り、「クリスマス・プレゼント」で鬼のような30分間を体験させてくださったインストラクターの方には心から感謝いたします。金・土・日と連続で体ばかり使っていたので、少しは錆がとれたようです。それにしても、金曜日は、ひどかったですね。前屈をすると、2pばかり手が届かない。今日のトレーニング後でようやく、マイナス3pになりました。元々、体が硬いほうなので、この数字でもまあまあなのですが、体重よりも見えにくい「老け度」なので、要注意というところでしょうか。

 というわけで、今日は、この後、書類のチェックをして就寝であります。ずいぶんと寂しいイブでしょ?ふだん、さぼっていたツケがこういうところででてきます。

 …もっとも、それ以外のことが大きいのですが、空しくなるだけなのでやめます。おやすみなさいといきたいのですが、孤独な私を慰めるかのように、NHK教育がモーツァルト三昧なので珍しくテレビで夜更かししそうです。アーノンクール+ウィーンフィルは、生で聴きたかったなあ…。いよいよ寂しくなるので、このあたりで失礼いたします。

2006年12月22日

9.11から(バグダード経由)台湾海峡へ

 アップダウンの揃しい一週間でした。カワセミさんの「テロ」のおかげで、金曜日はページビューでやじゅんさんのときと同じぐらいの勢いでアクセス数が揃増しました。メジャーなブログにリンクを貼って頂くと、怖いです。ブログの中の人は、事実上、水曜日で燃え尽きて、あとはなにもやる気が起こらない。事務的な書類を残すのみとなったのに、頭が空回りして、文章が書けない。動悸や息切れもあり、なんだかまずい。仕事のことを考えると、イラクのことが頭の中を占め、イラクのことを書こうとすると、戦前の日本はなんであんな戦争をしたんだろうということで頭が一杯になり、「ある敗戦国の幸福な衰退史」に関することを考えようとすると仕事が気になってしかたがなくなるという状態です。しかも、この二週間ぐらい、夜1時には寝て朝7時に起きるという私の生活習慣からすると、極めて不健康な状態がつづいてます。ひょっとしたら、これって…。

 ジムへ駆け込んでピラティスのレッスンに割り込み、再度、アップからストレッチ、筋トレ、クロストレーナーと負荷は揃めにして一通りこなすと、あら不思議。言いにくいのですが、イラクがどうしたとか、人事がどうなるとか、なんでアメリカと戦争なんかしたんだとか、全部、どっかに行ってしまいました。要は、やはり仕事量が多くて運動不足。しかも、仕事の後は忘年会を連荘していて、栄養のとりすぎ。久々にハードなトレーニングをしても、お腹が全く減らないので、カロリー摂取がすさまじかったことを自覚しました。まあ、この程度で気分が揃くなってしまう程度の人なので、「ノブレス・オブリージュ」などという言葉は、「時の最果て」の辞書にはございませぬ。

 しかし、月曜日に浅い話を書いてコメントを頂けるとは思えませんでした。記事よりもコメント欄を拝読すると、こちらが勉強になります。さらに、リンクを貼って頂いたカワセミさんの記事のほうがどう見ても充実していますね。正直なところ、ISGの報告書は斜め読み(なんだか今更ねえというのが率直な感想)ですし、この1ヶ月ぐらい、英語の文書は仕事関連以外は読んでいないので、浦島太郎状態です。あらためてイラク情勢を論じるにはあまりに知識が不足していますし、イラク戦争そのものを議論しだすとキリがありません。私自身は、M.N.生様(こちらでも卓見を示されています)に共感いたしますが、油田を確保したいからという笛吹働爺様の解釈は、それ自体が間違っているわけではないので(戦争目的というのは、後解釈でどうとでもなる部分がありますから)、否定はしませんが、基本的に兵力の配置がそうなっているのなら、テロの抑止で油田に力を入れすぎているという程度の問題でしょう(過剰な水準なのかどうかは兵力の配置を知らないのでわからないというのが正直なところです)。

 余計ですが、イラク戦争開戦直前に阿久津博康さん(同世代でウィキペディアで紹介されている唯一の知人です)が「対米協力が必要だということを説得するためには、バカバカしい話ですが、原油の確保が目的だと主張してもいいと思っています」と気迫のこもった眼で冷静に語っていただいたことを思い出します。「あっくん」ファンの方の憤激と嫉妬をかいそうですが、『朝生』初登場時の必殺「ストロー落とし」は、ジュースを飲もうとしたら、隣の宮崎哲弥さんが突然、大声でしゃべり始めて思わぬ不覚をとったとのことでした。春秋の筆法でいえば、ストロー落としは、宮崎さんの大声が遠因であった。

 …。まじめな話に戻りますと、フセイン体制への攻撃は9.11の前から準備されていたと書くと、陰謀論臭くなりますが、PNACの文書には、ブッシュ政権1期目の中枢の人たちが名前を連ねています。もし9.11がなければ、今頃、イラクへの武力攻撃が始まっていたとしても、不思議ではないと思います。あれを「テロ」と呼ぶのは、私にはなんとなく違和感があります。テロと言えば、つい要人テロを思い浮かべてしまうからです。あんな大量虐殺をやって、歴史が変わったことなどない。単に、時の進み方が早くなるだけです。もっとも、9.11の後、しばらく考えることすらできませんでしたが。

 2週間ぐらいして漸く自分の考えが整理できたので、以下の文章を書きました。今思うと、あの頃は若かったと思います。

 この2週間ぐらい、いつも以上に岡崎研究所HPを拝見し、勉強させていただいております。あの事件は生々しく、もう2週間もたったのだとはとても思えません。恥ずかしながら私は、同時多発テロが生じてからしばらく抑鬱状態になってしまいました。米孫をはじめとする自由諸国に恐怖心を植え付けるためにこれだけの深い罪が犯されたことに悲しみと憤りを覚えました。今回、テロリストたちは倫理的な一・を明かに越えてしまったと感じました。したがってテロとの戦いは、これまで以上に、単に武力行使を伴うという意味ではなく、徹底的なものになるだろうと思いました。

 今回の事件でテロとの米国の戦いは、国際的にも公共的な性格を強めたと思います。虐殺のためには高度な兵器はかならずしも必要がないことをテロリストたちは示しました。自由諸国だけでなく、テロリストたちが敵だと見なした国々は常に脅威にさらされることになります。もちろん、米国が実力を行使するのは自国の利益のためだと思いますが、同時にテロに反対している国々の共通の利益を代表していることを忘れてはならないと思います。わが国が米国に協力するハードルは、湾岸戦争のときに比べてはるかに低くなっていると思います。

 また、今回の事件は、日本人が好もうが好まざろうが、私たちが世界的な政治的経済的依存関係のなかで生きてゆかざるをえない現実をあらためて示しました。少なくない日本人は、このような現実を意識しながら、直面しようとするのを避けているように思います。その原因は、日本人特有の孤立主義的な心情にあると愚考いたしております。日米協力を妨げる最大の要因は、この心情にあると思います。

 日本人特有と述べましたが、自国のことは自国で決めたいというのはごく自然なことで、各国に共通して見られる感情だと思います。問題は、反米感情の強い方たちの影響のもとで、この心情が日米同盟を弱体化させたり、湾岸戦争時のように当然の国際貢献すら否定する方存に存くよう利用されてきたことです。今回の事件は、私たち日本人が偏狭な孤立へのこだわりを捨てる絶好の機会だと思います。

 テロ事件のみをとっても、わが国単独で国際的なテロに立ち存かうことは不可能です。また、法と理性による解決を行うには、まさに法を踏みにじる勢力に対して実力でこれを抑えこむことが不可欠です。また、国際紛争にともなって発生するグローバル経済へのショックを最小限に緩和するには国際協調が欠かせません。このような現実を認識し、国民よりも一歩先を進む覚悟をもちながら、国民を教育してゆく政治的リーダーシップの発揮に期待しております。

 テロに怯えて家に閉じこもっているよりも、外に出て反乱を抑制する方がはるかに安全であることを、日本人の多くが納得できるような言説が、これからも岡崎研究所から発信されることを期待いたしております。

 最後に、私個人の心情を申し上げますと、今回の事件では日本のために命をかけても守ると約束している友人(米国)の命が狙われ、深い傷を負わされました。日本人の命も失われました。その友人を助けるのは当然のことであると思います。集団的自衛権の問題以前に、人として当然のことをすべきである、というのが私の率直な感情です。

 内容が薄く、まとまりもありませんが、岡崎研究所HPを拝見してこの間感じていたことを編集部の方にお伝えいたしたく、文章にいたしました。ご容赦ください。

 問題は、9.11後、アメリカの一連の武力行使で世界がより安全になったのか、さらに言えば、それをアメリカをはじめ、それ造れの国の人たちがどのように感じているかという問題になります。月曜日の記事は、一日本人の目から見た話であって、アメリカの立場でもなければ、イラク現地の問題でもありません。あっさり結論を言ってしまうと、ブッシュ政権の間にイラクの秩序を再興するのは困難でしょう。アメリカの兵力の多くがイラクに釘付けになっている間に、中国が台湾海峡でアメリカ中心の国際秩序に挑戦してくるでしょう。それに対して、一日本人としてどう対応するのかを考えていたところです。おまけ扱いで恐縮ですが、北朝鮮は虫歯。当面は「鎮痛剤」で黙らしておくしかないでしょう。問題は、隠然と台湾に中国が攻勢をかけ、日米が「間違える」場合の事態です。この場合、どのような事態が予想されるのかは、"Strategic Value of Taiwan" (英語が面倒な方はこちらをどうぞ。品質保証はありませんが)で示されていますが、私にはここまで達観はできません。専制は、開明的な政治を、一時的な事態で終わることも多いですが、圧倒することもあります。この問題に解があるかさえ怪しい。

 最悪の事態がきたときに、この国の人たちはどこへ行くのか。そんな仮定に仮定を重ねた議論をして利益があるんですかと尋ねられれば、確率自体はまさに「万が一」。しかし、事態がきたときの「損失」と掛け合わせると、無視はできないというのが、いかれた「外道」のあてにならない「見立て」です。
posted by Hache at 23:37| Comment(5) | TrackBack(1) | まじめな?寝言

2006年12月21日

百姓の本懐

 まずは言い訳ですが、ブログの記事はほとんどすべてといってよいぐらい、テキストエディタで書いてからブログに反映させています。しかるに、昨日の記事では文字化けが多発していました。「原稿」を見ると、誤変換がないのに、とんでもない単語に変わっていたので、自分で見ていてゾッといたしました。ほとんど直したと思いますが、文字コードに異常が生じるというのは初めてでこの現象が続くようですと、移転先を考えざるをえないです。今は、それどころではないので、うっちゃっておくしかないのですが。

 昨日は「大一番」。にもかかわらず、気合が入らない。まあ、お給料がそんなに増えるという話でもないらしいので(私を今の勤務先に引っ張っておいてよそへ移った方がおっしゃっていたので、間違いないでしょう)、今ひとつ、インセンティブに欠けるというのが本音だったりします(母上のありがたい教え(「野球でどこが勝つなどお給料が増えないことに熱中するのはバカバカしい)が骨の髄まで浸透してしまってます)。もっとも、自分の仕事で面白い話をすればよいのでこの点ではインセンティブ自体は最高です。恥ずかしながら、しゃべりだすと、もう止まらない。かんべえ師匠を散々こき下ろしておきながら、自分が極度のオタク体質であることを自覚した一日でした。この1%を性的欲求に向ければ、とっくに結婚していたんだろうなと思います。こういう場だから書けるのですが、うっかり1割ぐらいをそちらに回すと、「ミ○ー○○」になりかねないので、これはこれである種の「均衡」かなと思ったりします。

 終わってから、ふぐづくし。好き放題しゃべって、好き放題食べて、好き放題に飲んでしまいました。書類が残っていて面倒ですが、まあ、どうでもいいか。クリスマスを過ぎれば、漸く、オタクの世界に戻れるので、我慢、我慢。S先生が、私の「一生」がかかった「大一番」で過去の私の悪行を逐一、紹介していただいたので、「ええい、俺はこんなにすちゃらかな奴だぞ!!」と開き直ることができた上に、ふぐづくしまでおごって頂く。なにせ、タイトルはお堅いのに、委員会のこの人とこの人は共和党で、あの人とあの人は民主党で、合併にいったん待ったをかけて依怙地な民主党系の人たちを宥めてるんですよとかどうでもいいといえばどうでもいい話をする一方で、数式を使わずにこの値とこの値はこんな感じでリンクしてますよ(まともにやると、右辺に項が30近くでてくるのでしょうがないんですけどね)という話を男女関係に喩えて説明をするなど、まるでワイドショーで誰と誰がくっついて、誰と誰が別れちゃったみたいなノリで、辛気臭い計算の話を済ませてしまうので、いいんでしょうか。

 い、いかん。ブログをやりすぎて本業まで「寝言」になりつつあります(これは嘘ですね。本業でも、いや本業こそ「寝言」の「聖地」なので)。

 話し終えてから、ふと気がついたのですが、手を変え、品を変えて10年以上も同じことばかりやってきた。一所懸命の由来からかけ離れているのですが、ひたすらある目標に向かって翔んでゆく。もちろん、一直線というほどきれいではありません。ただ、じぐざぐの軌跡を振り返ると、なんのことはない、歩けばそこになにがしかの道ができている。小径が大道に通じていることを祈りながら。

 もっと言ってしまえば、「大道」すらうそ臭い。まずは、自分が食べてうまいと思うものをつくること。次に他人にうまいと言わせること。両親とも元をたどれば百姓の生まれで、豪農とはほど遠いので、私も大して変わらないのだろうと。必死に田んぼを整えたり、畑を耕したりで一生が終わるのだろうと。「自己満足欲」なるものが存在するとすれば、私という人格の99.9%はそれで説明ができてしまいそうです。

 他者を語るということは、自分を語ることであることを忘れたプレゼンテーションほどくだらないものはない。百姓の作った作物には百姓の汗と血が滲んでいる。若い人に「品格」を説くのもけっこうですが、それ以上になにかと必死に泥まみれになることをお勧めします。こんな鄙びたブログでは、なんの影響力もないのですが。若いうちに、とにかく途方にくれることが肝要です。歳をとれば、なんと下らないことでああでもない、こうでもないとやっていたことに気がつく。ふと気がつくと、もっと広い沃野が広がっている。広いと思った沃野がさらに狭くなる。あと数年で40に手が届く人間でもバカをやれる時代です。良くも悪くも、社会は寛容になっている。40をすぎてもバカができれば、「器」であり、「大器晩成」の本来の意味からすれば、死ぬまでバカができれば、「器」ですらない。

 「寝言」モード「半開」ですが、今の若い人がつまらないとしたら、バカをやらないことにつきると思います。利巧すぎるのだ。「廉恥」など恥を掻かなければ身につかず、「品格」など品格をぶち壊す勢いがなければ、ついてこない。一つでもいい、なんでもいい。とにかく、自分が「うまい」と思うものを創造することにすべてを捧げること。どのみち、日本人の大半など、百姓に適性にあるのだから。ただし、私の真似などしてはダメですよ。正真正銘のバカですから。自分で言うのもなんですが、私みたいなのばかりだったら、世の中がややこしくて始末に困る。
posted by Hache at 00:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言