2007年01月31日

自己責任?

 「自己責任」という言葉を見ると、胸がむかついてしかたがありません。なんで胸がむかつくのかは説明が難しいのですが。この言葉は、小泉政権あたりから節操もなく、使われるようになった印象があります。ほお、散々、ほめちぎったくせに、小泉批判ですか。無節操というのは楽ですなあと思った、あなた。そういうあなたが「自己責任」という言葉を独り歩きさせてしまったと断言させていただきます。

 自己責任というのは、あなたの人生はあなたの人生であって私の人生ではない。あなたの人生の苦楽をいくばくかは共有できるけれども、私の人生そのものではない。私の人生でない以上、あなた自身で決めてくださいね。それが自己責任。そんなの当たり前じゃないかと思う方は、幸せな人生を送っている方でしょう。それが当たり前じゃなくなったから、「自己責任」と言わざるをえなくなってしまった。当たり前のことを当たり前のこととして言わざるをえなくなったことが「戦後レジーム」の構成要素なら、「戦後レジーム」など根本的に地上から消え去ってほしいというのが正直な感覚です。

 自己責任などという言葉は死語にしてほしいというのが本音であります。あなたの人生はあなたのものであって私のものではない。よって政府という名の「他人」が幸福を最大化するにしても、不幸を最小化するにしても限度というものがある。そんなことはわかりきっているというなら、あえてこんな「寝言」を書くのは無粋の極みでしょう。言いにくいが、日本人というのはそれほどさとい人ばかりとは思えないというのが本音であります。あえて問題を面倒にすると、さとい方も無視できないほどにいるのが話を複雑にしてしまう印象があります。

 露骨に言えば、「自己責任」というのが政府の「無責任」というのはバカバカしすぎるのだ。当たり前すぎて。でも、それがあまりにバカバカしいことだと気がついている方が少ないことが怖いんであります。さらに露骨に言えば、バカバカしいことほど、カネに(場合によっては票に)なるということも否定できないんです。このバカバカしいことにどれだけ耐えられるかということが分権的社会を生きるための「知恵」であり、「ヴァイタリー」であることもわからんではない。しかし、ときにはバカバカしいことをバカバカしいと断言してほしくなる「短気」もあるわけで難しい問題です。あなたの人生はあなたのものであって私のものではない。だから、他人の「善意」による改善にも限度がある。このように描写してしまうと、バカバカしい限りです。しかし、くどいようですが、バカバカしいことをバカバカしいことと自覚している人の少なさに慄然としてしまう。「馬」を「馬」、「鹿」を「鹿」と明言するのは「文明社会」では野蛮すぎるけれども、その野蛮さを失った途端に「文明」なるものは崩壊してしまう。こんな簡単なことがわからない、自称あるいは他称の「インテリ」にむかついて仕方がないという野蛮人の「寝言」。

 
 彼は、何一つ成功したことがなく、結果として見れば、彼が天地の間に存在したと存在しなかったとで、一つの増減もない(陸奥宗光「後藤伯」(岡崎久彦『陸奥宗光』下巻 PHP出版 1990年 472頁)。 

 これが最高の誉め言葉だという感性を失ったインテリなど、この世から消えてほしいのですが、すべては変わって、何一つ変わらない。 このバカバカしさに嘆息するのか、笑い事として楽しむのかで、その人の「奥行き」がはかれるような気がします。
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2007年01月29日

なにごともほどほどに

 塵も積もれば山となるという具合で細かい作業がどんどん入ってくる日々が続きます。まあ、来週あたりに「解放」されるでしょうという見通しが立っているので、淡々とこなすというところでしょうか。まあ、こういう作業も必要なのかなと肩に力を要れずに処理するのみです。

 今更ですが、中岡望『アメリカ保守革命』(中央公論新社 2004年)を読みながら、この手の話は苦手だなあと痛感します。中岡先生の著作そのものではなくて、「主義主張」というものにどこかついてゆけないものを感じてしまう。この本を読んでいると、私の価値観は、ある一面においては保守主義的に近いものがあり、ある一面においてはリバタリアニズム的な要素をもっているように感じます。ただ、このような考えを「主義主張」として固定してしまうと、自分でも胡散臭くて信じられなくなります。このあたりは私の器ではうまく表現できないのですが、「中道」ですら、自ら「中道」と称すると、途端に話が堅くなってしまう印象があります。

 私の価値観というのは、「なにごともほどほどがよい」という自分でもとるに足らないことにつきるのでしょう。そして現実には、「ほどほど」をあらかじめ見極めることは非常に難しい。たいていの場合、後から「やり過ぎた」とか「あそこでもっと踏ん張っていれば」と後悔することばかりです。だから、「なにごともほどほどがよい」と私が敢えて「主張」するとき、そのほどほどが自分では見極め切れていないという自信のなさがあります。こんなアバウトな「イデオロギー」を「○○主義」にあてはめられるのか、まるでわかりませんが、ほどほどがよいというのは常識なんだけれども、えてして人はやりすぎたり、足りなかったりする。その意味では、保守主義もリベラルも私にとっては同じだけ価値があります。…。無節操なだけかもしれませんが。

 ご快癒のご様子のかんべえさんをちょっとだけからかうと、ISG報告書のように「大人の解決」をブッシュ大統領ができる人だったら、そもそもイラク戦争などしないでしょう。こういうときはカリカリせずに情勢を淡々とおってゆくのがよいだろうと悟ったような「寝言」が浮かんでしまいます。

 「寝言」の更新もほどほどがよいのでしょうが、腹にためるよりも吐き出してしまった方が、よいのかなあと思ったりします。もちろん、考えがまとまらずに眠らせている話題の方が多いのですが。私の場合は、書いた方が考えがまとまってくることが多いタイプのようです。正確には、書く前よりもほんの少しだけ整理ができるという程度ですが。
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2007年01月28日

賢者様たちの「床屋談義」

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:1週間ぶりじゃな。例によってこの御仁はぐっすりのようだし、今回はワシ一人でしゃべろうか…。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:…。まったく、どうでもいいときばかり起きて、肝心なときには寝ておる。まさに昼行灯じゃな。
ハッシュ:ひるあんどん?
ボッシュ:…。しまった。お約束のパターンじゃな。お日様が地上を照らしているときの灯りのように役に立たないことを指すんじゃ。
ハッシュ:そう言われれば、そんな気もするよ。
ボッシュ:…。話が続かないではないか。そう、あっさり認められては。
ハッシュ:そういえば、今日はあのデブからリクエストがある。
ボッシュ:どうせ、碌でもない話じゃろ。ワシの店のデザートには蛾が入っているとか、そんな与太話は御免真っ平じゃ。
ハッシュ:なんでも安部政権について命の賢者様に語ってほしいとたっての願いだそうじゃ。
ボッシュ:…。おい、ここは時の最果てではないのか?
ハッシュ:いかにも。
ボッシュ:ここで語られることは寝言ではないのか?
ハッシュ:いかにも。
ボッシュ:しかも、ワシたちはもとはジールの者じゃ。ワシは住んでいるとはいえ、1年もたたぬ。ジパングのことは知っていることより、知らないことの方が多い。
ハッシュ:おっしゃるとおり。
ボッシュ:そこへ安部政権について論じよというのは、あのデブはどうかしたのかね?
ハッシュ:ワシにもわからぬが、たっての願いだそうじゃ。
ボッシュ:…。なんだか無理があるような気がするが、好き放題にいってよいのなら、できるぞ。
ハッシュ:それでよい。
ボッシュ:まず、今のままだと安部政権は長くはもつまい。
ハッシュ:ほお?
ボッシュ:理由は簡単じゃ。あのデブが支持をしておるようでは、先が見えておる。なにしろ、あのデブの応援・支持は、究極のネガティブ・キャンペーンゆえ。
ハッシュ:あのデブによると、その話は昨年の衆院補選で終わったそうじゃ。なんでも、応援したら負けるのが怖くて一切、考えないようにしていたが、やはり結果は変わらなかったそうじゃ。
ボッシュ:…。話から逃げようとしたんだが、おぬし、ワシをいじめたいのか?
ハッシュ:…そういう気はないんじゃが。
ボッシュ:安部政権について語れといわれてもなあ。ワシは客人から聞いた話やテレビ、新聞などで見聞きするぐらいで、たいした話はないなあ。ワシはジパングの人たちからするといくつぐらいなのか実は自分でも見当がつかんのじゃが、年をとっている客人ほど政権を支持している人の割合が高くなるな。そういえば、店長は今年で30になるとぼやいておったが、あまり政治に関心がないらしい。よけいなことをしてくれなければ、それでよいそうじゃ。
ハッシュ:逆に言うと、若い人ほど支持しないというわけか?
ボッシュ:そんなの簡単じゃ。「教育再生」と言ったら、今の教育を受けてきて社会にでてさほどたっていない人からすれば、自分はダメだといわれているようなもんだからなあ。「なんか、ムカつく」というやつじゃ。それはいい気はせんじゃろ。逆に今の若い世代がダメだと思っている年配の人たちには受けるというわけじゃ。
ハッシュ:そんなものかの。妙に話が単純すぎる気がするんじゃが。
ボッシュ:よそ者からすると、前の総理大臣はその辺、上手じゃった。悪いのは政治、それも自分の基盤である自民党だと決め付けたわけじゃ。トップというのは、そうでない人以上に個性が問われるもんじゃ。これはワシの憶測じゃが、前の総理大臣は本気で自民党が悪いと思っておったんじゃないかな。それがジパングの人にも受けた。ワシには難しすぎてわからんのじゃが、大衆迎合とかポピュリズムとかいう評価があるようじゃ。あのデブの表現を使うと、前の総理大臣の気分とジパングの大多数の人の気分がだいたい一致していたというのが、妥当なところなんじゃないのか。
ハッシュ:ワシにはようわからんが、そんなもんじゃろ。
ボッシュ:…。なんだかしゃべる気がなくなる相棒じゃな。なんだか、しゃべる気がしなくなるんじゃが。
ハッシュ:今の総理大臣はどうじゃ?
ボッシュ:難しいところじゃ。よそ者からすると、やろうとしていることは悪くないように見える。ただ、「戦後レジームからの脱却」というと、まず「『レジーム』って何?」という話になる。言葉が難しすぎるんじゃ。「戦後政治の総決算」という表現があったゆえ、遠慮しているのか、違いを出そうとしているのか、わからぬが、もっとわかりやすい表現にしないと、理解されないだろうな。さらに、「戦後」が全部悪かったのかという話になる。「戦後」が悪いとなると、戦後生まれの人には違和感もあるじゃろ。もちろん、全部悪かったなどということを今の総理大臣が言っているわけではない。しかしじゃな、言葉というのは曲解されることも覚悟して使わなくてはならぬ。どうも、その辺は気になる。シェフが言っておったのじゃが、「美しい国」という表現も突っ込まれやすい。シェフは、安部政権を支持しておるそうじゃが、あの表現は微妙だといっておったな。仮に改革が成功して「美しい国」と思える状態になっても、それを自ら言わないのがジパングの人たちの美徳ではないのかといっておった。このあたりはワシにはわからぬが、そんな感覚のようじゃ。
ハッシュ:要は、言葉が悪いということか?
ボッシュ:すべての言葉は誤解される。誤解されることを恐れてはダメじゃ。ワシも最初は苦労したからなあ。ただ、人を育てるときにはまずいいところをほめてから、改善すべきところへ話をもってゆかぬと、相手が単に反発するだけだったり、場合によっては過度に落ち込んでしまう。状況しだいでは、頭ごなしにしかることも必要じゃが、相手がある程度、知的ならば、まず相手を肯定した上で改善するべきところを指摘しないと、難しいんじゃないかな。あと、不人気なのは期待が高いことの裏返しでもある。もともと期待していないんだったら、無関心になるはずじゃ。ただ気になるのは、ワシがよそ者だからかも知れぬが、政治に多くを期待するというのはワシにはわからぬ。本音を言うと、商売に口を出すな、税金を安くしてくれというところじゃ。ただ、新聞やテレビで悪口を言われているうちが華かも知れぬ。それだけ「商品」としての価値が高いということだからなあ。
ハッシュ:なんだか、ワシにはチンプンカンプンなんじゃが。どうすればいいんじゃろ?
ボッシュ:いっそ「世直し内閣」とでもした方がわかりやすい気がするんじゃが。まあ、ワシが話せるのはこんな程度じゃ。ふう。こんなに疲れる話になるとは思わなかったわい。そろそろ、お暇しようかの。
ハッシュ:無理を言ったようじゃな。また、おいで。

 …。命の賢者様が一方的にしゃべる展開になってしまいました。まあ、年末年始にずいぶんな目にあわれたので、ちょっとはうさも晴らされたのでは。この展開では時の賢者様の出番はないですな。ちなみにこの話が届いたのが日曜日なので、日時はそれにあわせて調整しております。御理解いただければ、幸いです。

 「世直し内閣」はさすがに…。ただ、「戦後レジーム」というのは、わかる人にはわかるみたいな響きがあるのは否定できない部分があります。このあたりは「言いがかり」に近いものがありますが、やはりわかりやすい言葉の方が安部総理が何をしたいのかがすっと通るのだろうと思います。

 それにしても、小泉政権というのはすさまじい政権であったことを実感します。小泉改革の「検証」は今後も行われるのでしょうが、郵政解散・郵政選挙で戦前・戦後を通しての日本政治の基本である「コンセンサス」にしたがう統治を部分的とはいえ、破壊してしまいました。郵政解散の直前まで郵政民営化を最優先とする小泉前総理の立場を支持する世論はほとんどなく(内閣支持率そのものではなく、各種世論調査では年金や医療などの社会保障を優先してほしいというのが概ねコンセンサスだったと思います)、自民党内でも妥協に妥協を重ねたとはいえ、コンセンサスにしたがうのではなく、それを壊して自らの意見をコンセンサスにするようにここまで能動的に総理が動いた事例というのはちょっと見当たらないように思います。

 週末は岡崎久彦『陸奥宗光』を読み返していたのですが、日本の政党政治というのは、その初期の段階から政党レベルのコンセンサス、議会内部でのコンセンサスによって動いてゆくという特性があるのだということを再確認しました。表現が悪いのですが、郵政民営化は、「この程度の改革」と小泉前総理自身が明言される程度だったから、「無理が通れば、道理引っ込む」となったのでしょう。他方で、「小泉改革」は広範囲にわたっていますが、私自身が核心だとみなしているのは、政治的意思決定プロセスを部分的とはいえ、根本的に変えてしまったことだと考えております。

 別の見方をすれば、政治的リーダーシップとは何かという問題に行き着きます。小泉前総理とてすべての政策上の問題で自民党内のコンセンサス、国会のコンセンサス、国民のコンセンサスから「超然」としていたわけではないでしょう。郵政解散は、小泉政権でも例外に属するケースです。ただし、小泉政権以前にはコンセンサス政治の機能不全が多くの方の目にも明らかだったように思います。もっといえば、実際にはコンセンサスにもとづく政治は歴代総理のリーダーシップによって補完されてきました。小泉総理は、党内基盤の脆弱さから「官邸主導」を確立しました。私は、日本の議会民主主義の進化の方向は、総理の政治的リーダーシップがコンセンサス政治にとって変わるのではなく、コンセンサスを適切に導くようにより機動的に政治的リーダーシップが確立される時期が続くだろうと考えております。「官邸主導」から「内閣主導」へ政治的リーダーシップが進化するためには、安部総理がやるべきことは多い。今は、不都合なことばかりがでてきていますが、これはなんとしてもやり遂げていただきたいと考えております。その理由は、今後、10年ぐらいは日本を取り巻く環境が19世紀のヨーロッパのように激変する可能性が高く、そのショックを吸収するために不可欠な日米同盟の双務性の強化は、コンセンサスの変化を待っているのではあまりに遅く、強力な政治的リーダーシップの発揮が不可欠だと考えることです。

 なお、次の2週間は「殺人的スケジュール」になりますので、不定期更新になると思います。更新はなくても、生きておりますので、ご安心のほどを。更新がなくても、心配してくれる方がいるかなあ(遠い目)。

2007年01月27日

あらかると

 元同人誌『溜池通信』が予告なしの初休刊。風邪で寝込まれてしまうとは…。あと十年もすると、そんな年になってしまうんだなと少し鬱になってしまいました。風邪といえば、数年前に父上が母上とともに風邪で寝込んでしまったと電話で告げられて、「バカでも風邪をひくんだ。信じられん」と母上に漏らしたところ、「あんたって人は!」と怒鳴りつけられて、私の一言で不思議と二人とも数日で快癒したそうです。最初にお会いしたとき、かんべえさんが「HPの文章のイメージと違うってよく言われるんだけど、どう?」と答えにくいことを聞かれてまいりました。思ったより背が高いというぐらいで、容貌に関する話がでてこないので、イメージもなにも、考えていない(いくら図々しい私でも「思ったとおりです。視線がオタクっぽいです」とは初対面の方に申し上げるわけにはゆかず、言葉を呑み込みました)。師匠には誠に申し訳ないのですが、赤坂界隈の『蘭苑』につれてゆかれて、ここが小沢一郎氏の贔屓の店という案内をして頂きながら、記事を思い出しつつ、「この人、本当にオタクだなあ」とそればっかり考えておりました。この後、「かんべえ」の名に恥じぬ知将ぶりを発揮されて、「策士、策に溺れる」を実感するのですが、この部分は武士の情けでカット。

 こちらにお越しいただいているわけではないと思いますが、佐藤空将が政治の機微に疎い私にもわかりやすく安倍政権のこと をとりあげられていて、安心しました。施政方針演説をビデオライブラリで見ていると、野次がずいぶん減ったなあと感心しました。全体の印象は、内政面では小泉改革を継承しつつ(そのように明言されてはおりませんが、中身を見ると、そんなに大差がない印象)、外政では「日米同盟と国際協調」から「日米同盟+α」に変化していて教育再生以上にこちらで安倍色がよくでている印象があります。

 まだ充電中なのですが、平間洋一『第一次世界大戦と日英同盟』(慶應義塾大学出版会 1998年)のシリーズを再開する前にまだまだ勉強しなくてはならないことが多いことを感じます。日英同盟は、まさに日本人が「臥薪嘗胆」のプロセスで勝ち取った同盟で、日米同盟とは出発点が異なります。自分の国は自分で守る。この延長上に自分の国を守るためには他国を守るという発想が自然に位置付けば、安全保障政策に関する「神学論争」はほとんど消え去ると思います。安倍総理の言動を見ていると、小泉前総理のように、「あれが本丸だ!」と言って一気に機が熟したら畳み掛けてゆくというスタイルではなくて、本丸を意識しながら、まずは外堀、内堀と埋めていって在任中に本丸が落ちればよし、そうでなくても、落とすだけにしておくよう、布石を打ってゆくというタイプのような気がします。「戦後レジームからの脱却」は、多様な内容を含んでいるのでしょうが、日米同盟の双務性の強化と憲法改正が「本丸」だと考えております。

 「フクロウ」を巡る議論は素人にはよくわからないのですが、岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』(PHP文庫版 2003年)には陸奥宗光が『世界之日本』に投稿した、次のような文章があります。

 そして、外交の姿勢については、軟弱外交を批判し強硬外交をもって善しとする風潮に対して、「外交の術は、巧拙にあり、決して硬軟の別を問うを要せず」と、時に応じて、ハト派、タカ派いずれであっても、日本外交の目的を巧みに達成することがもっとも大事だと論じている。

 乱暴なようですが、「タカ」、「ハト」、「フクロウ」のいずれでもよいのですが、外交で守るべき利益、それを達成するための手段、そしてなにより外交ですから、外部環境の評価によって問題の重点は変わってくると思います。雪斎先生の考えからすると粗雑すぎるかもしれませんが、「よい政治家」というのは問題の軽重を適切に判断し、順序付けを行い、国民に論点を提示するとともに、実際の交渉でもそれを貫いてゆく(状況によっては豹変することもありえますが)ことだろうと。発足100日程度で安倍政権の評価はできかねますが、現状ではそのような資質をもった方が総理であるように思います。
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2007年01月25日

安倍政権への不安

 『中央公論』を読みながら、ちょっと違和感を覚えてしまいました。主に御厨先生と雪斎先生の論文なのですが、素人目には誤ったことは書かれていないように思いました。御厨先生は、ばっさり戦後保守政治を素人にもわかりやすく、「無思想」の政治と断じて安倍政権の「異質性」を論じられています。雪斎先生は、安倍総理がタカ派であり、現実政治ではタカ派の信条だけではうまくゆかないから「フクロウ」たるべしと論じられています(乱暴すぎる読み方ではありますが)。「エコノミスト」(あえてかぎかっこをつけるのは、特定の分野のスペシャリストというより情報の「総合商社」というイメージが拭えないからですが)のかんべえさんが経済学に唾をはきかけるのはどうかと思いますが、学者先生がおっしゃっていることは正しいのだけれど、教えてほしいところをなかなか教えてくれない、なんともいえないもどかしさを感じてしまいます。

 簡単に言えば、私が安倍政権に期待しているのは、日米同盟の双務性を高めることと憲法改正です。で、なんでこんなことを期待するのかといえば、安倍総理の「理念」に共鳴するというよりも、露骨に言えば、その方が日本の安全が確実になるという「損得勘定」が理由です。私自身は、理念で政治を論じるほど気高い人間ではないので、ある政策を実施した際にどのような利得、あるいは損失が生じるのかに興味が向いてしまいます。この点では、良くも悪くも、御厨先生のおっしゃるとおり、戦後世代なのかもしれない。私の気になるところは、(1)この利害計算が妥当なのか、(2)利害計算が妥当だとしても実現可能なのかどうかという点にあります。だから、このお二人を批判するつもりはなく、ただ関心があまりに違っていることに驚いてしまう。このあたりは、私がど素人だから、こんな乱暴なことを考えてしまうのでしょうが(念のために申し上げておきますが、かんべえさんよりもプロの怖さを私を存じておりまする。まあ、あれだけいろいろ見えてしまうと、他人がバカに見えてしまうのかなあと思ったりもしますが)。

 実現可能性という点に関して言えば、(3)政策を実現するとしてどのようなリーダーシップが必要なのかという問題があります。これと安倍総理のスタイルが合致しないと、仮に政策が望ましいものであっても、実現可能性には疑問符がついてしまいます。余計な先入観をもたずに、文字通り読んで頂きたいのですが、安倍総理のリーダーシップは私にはよくわかりませんでした。理由は単純で、政権が発足してから半年もたたないので、まるでわからない。この問題で、副会長さんがずばり怖いことを書かれていて、考え込んでしまいました。実は、私は安倍総理は小泉前総理以上に「丸投げ」をするタイプだと思い込んでいましたが、実態はどうも違うらしい。これが実はかなりショックです。これがなぜ「ショック」なのかを説明するには私の能力が追いつかない部分がありますが。

 「丸投げ」というと、どうしても「官製談合」に絡む業界のイメージがあって、よろしくないように響きますが、現行憲法では総理大臣に国務大臣の任命権があるのだから、ある程度までは任してしまって、あとはどのように成果をだすようにインセンティブを与えるのかは、当たり前ではありますが、憲法には書いておらず、総理大臣のパーソナリティによる部分が大なのだろうと思います(素人って言いたい放題でいいご身分だわねと自分でも思いますが)。小泉前総理は、丸投げの名人であったというと、批判のように響くかもしれませんが、私にしてみれば、最高の「賛辞」です。総理が一人でなんでもこなさなければならないのなら、国務大臣を置く意味がない。小泉総理の凄みは、あの麻生さんを総務相として「三位一体改革」で雑巾のように使いこなしてしまった。大元は抑えた上で上手に丸投げをするのが総理の仕事であって、小泉政権での例外は郵政民営化の最終段階と靖国参拝ぐらいでしょう。

 私の不確かな記憶ですが、塩野七生さんが『文藝春秋』で小泉政権発足直後にカエサルとアウグストゥスの対比を使って、小泉前総理はアウグストゥス・タイプのようですねと書かれていたように思います。失礼な話ですが、カエサルの前にはたいていのまともな政治指導者はアウグストゥス・タイプとなるんじゃないかと思うのですが。そうじゃなかったら、愚劣な独裁者で終わるのが関の山という気がします。しっかし、『ローマ人の物語』を書き終えられて、そろそろ弱ってこられたかと思いきや、「高嶺の花」は遠いわねと『文藝春秋』を読みながら、ため息がもれてしまいました。

 …。話がそれましたが、1月21日の『サンデープロジェクト』を見ながらで「かんべえさん、今なんかヤバイことを口にしませんでした?」と思いましたが(元々渋面だった茂木さんの表情がこわばったように見えました)、どうも「ヤバイ」らしい。安倍総理が外遊している間に閣僚から訳のわからん発言が飛び出してくる。現段階では杞憂かもしれませんが、安倍総理が「丸投げ」が上手でないとすると、期待を修正せざるをえないと思います。極論すれば、安倍総理がこれだけは実現したいということ以外は、「真空」でよいというのが今日の「寝言」です。冒頭で「違和感」を表明しながら、実は雪斎先生の記事と同工異曲(ただし替え歌はまだまだ「お試しコース」ですよん)なんですけどね。もちろん、「同工異曲」というのは雪斎先生に失礼千万な話でありまして、「これだけ」というところを明示するより、「これだけ」以外のところを「丸投げ」してしまった方がいいでしょという、粗雑な話なんですが。

 話が急に展開しますが、小渕政権のようなリーダーシップが現況では政策を実行するのに好ましいと思います。小渕政権の政策は、とりわけ経済政策は問題が多かったように思います。2000年頃の好景気を「小春日和」なんて「寝言」をこいていました。しかし、政策を遂行する手法としては優れた面が多い。小渕−野中という組み合わせは、批判も多いでしょうし、私も批判的でしたが、手法としては驚くほど融通無碍でした。小泉政権でも小泉−竹中というラインが存在しました。政権が発足してまだ日は浅いので、あくまで「不安」にすぎませんが、今のままだと、すべてを安倍総理がやらなければならず、やるべきことが山ほどある以上、なにもできずに終わってしまいかねないという危惧を、ちょっとだけですが、もったりします。うまく言えないのですが、生真面目すぎるのが安倍総理の不安材料というのは「寝言」というより「たわごと」かしら。

2007年01月24日

鳥インフルエンザと「不適切な表示」

 少しだけ全体のレイアウトをいじってみました。感想、あるいはご批判を頂ければ、幸いです。単に文字のサイズをちょっと大きめにしただけなのですが。

 われながら変な趣味ですが、官庁のHPを意味もなく眺めるのが仕事中の隠れた趣味だったりします(間違っても「現実世界」では、「趣味は?」と尋ねられて「首相官邸HPの『官公庁』のリンクを見るのが趣味だ」などと口走ったりすることはないのですが)。もちろん、通常の企業のHPもなんですが。ふと目にとまったのが、農林水産省のこのプレスリリースです。プレスリリースではスーパーその他の小売店舗で「発生場所と離れた場所で生産しているのでご安心してご購入下さい」や「宮崎県清武町からの仕入れは一切ございませんので、ご安心してお求め下さい」などの表示があったようです。ちなみにこのプレスリリースでは「鶏卵、鶏肉を食べることにより、鳥インフルエンザウイルスが人に感染することは世界的にも報告されていません」とあります。鳥インフルエンザの問題自体が深刻ではあるのですが、なんでこんな表示を小売店がしてしまうのか、まことにどうでもよいところで考え込んでしまいました。まあ、舞台裏を書くと、私の巡回先では「納豆党」が多数派のようなので、鄙びたブログらしく、他の方が書かないことをボーっと考えていただけですが。

 まず、医学的に「鶏卵、鶏肉を食べることにより、鳥インフルエンザウイルスが人に感染することはない」ということは証明されてはいないけれども、いまのところ例外が見つかっていないというあたりが、小売業者や消費者の不安の原因かもしれません。農林水産省を困らせたいわけではないのですが、「絶対ありえないんですね?」と問い詰められれば、前例はないというしかないでしょう。このあたりは梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社 2006年)の第13章「杞憂――リスクに備える」が絡んできそうです。

 もっとも、不適切な表示があった小売店舗は全国平均で調査対象数の約4.0%であり、最も調査対象数の多い九州(調査対象数1,193)でも約5.6%(不適切な表示を行った店舗数67)に留まっているということは注意が必要です。このあたりは、むしろ、不適切な表示をしてしまった店舗(失礼ながら、農林水産省のHPでは「不適切店舗数」となっていて店舗自体が「不適切」とも読めるのはちょっとどうかなとドン引きしますが。文脈でわかるだろうといえばそうなんですけどね)の管理者が、現時点での主要な鳥インフルエンザの感染経路を的確に理解していたのかどうかという問題なのかもしれません。ということは、少なくとも鳥インフルエンザに関する限り、「不適切な表示」を行ったかどうかは、その店舗の管理者が鶏卵・鶏肉の基本を理解していない可能性があるということになり、別の意味での「シグナリング」(前掲書 第12章)の問題としても捉えることが可能でしょう(ありゃま、「寝言」じゃなくって「皮肉」になってしまいましたが。「皮肉って分かってる?」)。

 さらに、「へ」のつく理屈(誤解のないように申し上げておきますが、梶井先生の本の「誤用」の一例を書き綴っているのであって、正しく活用すれば、大変、有益でしょうと)をこねると、こんな表示をする店舗はさすがにないと思いますが、「宮崎県○○町から○○km離れた産地です」という旨の表示を行うと、鳥インフルエンザに罹患した鶏卵・鶏肉が混ざっているリスクが高まります。既に同県内の別の地点で鳥インフルエンザに感染した鶏が存在したことが報告されています。現時点で鶏卵・鶏肉を食することでヒトが罹患した事例がないことを知らない消費者からすれば、むしろ、この店の鶏卵・鶏肉は危ないかもしれないという負のシグナルとなる可能性があります。もっとも、前述のことを知らない消費者の場合、「距離が離れているから安全だ」という「誤解」をするタイプと「距離が離れていても不安だ」というタイプに分かれるかもしれません。この場合、「不適切な表示」を行った小売店舗は、このような消費者のタイプを考慮せずに表示を行ったわけでありまして、鳥インフルエンザに関する知識そのものが誤っていたにしても、それを前提に合理的な意思決定を行っていたのかどうか怪しいということになります。すなわち、(表現は悪いのですが)無知の上に無知を重ねていたということです(ま、ぶっちゃっけた話、恥の上塗りですな)。あくまで仮想の話でしかないのですが。

 さて、農林水産省のデータを信頼すると、全国で約95%、九州でも約93%の小売店舗では「不適切な表示」がなかったということになります。まず、そもそも宮崎県産の鶏卵・鶏肉を扱っていない小売店舗の割合がわからないので、微妙な部分はありますが、全体で見れば、比較的、冷静に対応していることが窺えます。また、農林水産省がデータを開示することで二次的な情報の波及(好ましい意味ではありませんが)がかなりの程度、抑えられるでしょう。もちろん、宮崎県の「努力」も大切ですが、「不適切な表示」によって消費者が鳥インフルエンザに罹患した鶏卵・鶏肉を食すという行為によって感染する事例があったかのように誤解が広がらないためには、全国的に情報を提供する能力のある行政主体に依存せざるをえません。それにしても「不適切」というのは便利な言葉だとあらためて感心しました(まあ、常套句ではありますが)。役所のHPは、この種の知恵が詰まっているので、意外と便利だったりします(あくまで「寝言」ですよ、「寝言」)。

 ようやく今日の「寝言」ですが、役所の信頼が低下するというのは、適切な情報が行政から発信されても、信用されないというリスクが生じるという意味で「公共性」を大きく損ないかねないということでしょうか。本当は、東国原英夫宮崎県知事に安藤忠恕前知事を起用して「官製談合お目付け役」(手口を熟知しているわけですから、全部、示していただこうってな感じ)とするという「寝言」を書く予定でしたが、周囲で思いのほか不評だったので宮崎県つながりで鳥インフルエンザの話題となりました(再チャレンジに成功した新知事が前知事に再チャレンジの機会を与えるすばらしい事例だと言ったら、「品格」を疑われてしまいました)。宮崎県の方々に悪いイメージはまったくなく、ただの思い付きですので、ご容赦を。

(追記)下線部を修正いたしました(2007年1月25日)。
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2007年01月23日

いっぺん○んで来い!

 昨日の記事を書いた後でどこかで似たような話があったなあと思い出しまして、見つけたのがこちら。このお話自体が面白いので、暇をもてあましておられる方はこちらから全文を読まれるのがベストかと。本当にとってもいい人である岡本呻也さんへ「ここまでやる?」と思うぐらい突っ込む伊藤洋一さんとかんべえさんはとっても怖い人なのであります。ちなみにこの四酔人なる企画を読者に「公開」したときに参加させていただいて、「へ」に「へ」を重ねた理屈で伊藤洋一さんを沈黙させたときに、思わず漏らしたかんべえさんの笑みが忘れられません。

お前も「同類」じゃないのかって?

 …。いえいえ、とんでもございませぬ。私は「寝言」を書くのが趣味であるだけでありまして、あの「芸域」にはとうてい及ぶものではございませぬ。

 「へ」のつく理屈を考えだすと、とまらない。これが商売になるのなら、私は億万長者になる自信がありますね。ある勉強会である方を招いたところ、政策の微妙な部分になると、途端に御自分の立場を思い出して「柳に風」とばかりにうまく話をそらす方がいました。ついついみんな「王手」をかけたくなるのが人情で、ビシッと質問をすると、逃げてしまう。こういうときに「王手」は禁物でありまして、二手すきぐらいをかけると、途端に「手」が見えなくなって、「答弁不能」になったりします。「へ」のつく理屈をこねていると、意外な効能があったりします。ひねくり曲がったことを考えていると、一番短い距離が見えたりするかもしれません(論証なし)。もっとも、「と」はご勘弁願いたいのですが。

 うーん、「格差是正」という「善意」からたいてい碌でもないことが生まれるという「寝言」を書くはずだったのですが。まあ、私みたいなザルの脳みそには難しいので、「寝言」スタイルでまいりましょう。「古い自民党」あるいは旧田中派は、「利権政治」といわれましたけれど、ある時期までは「格差是正」と「票とカネ」を両立させることに成功させた側面があったのだろうと。「小泉改革」は、瓦解しつつあるシステムに拍車をかけたことは間違いがないのだろうと。他方で、それに変わる新しい再分配のしくみはまだ見えない。「再チャレンジ」というのは、その機軸の一つになりうるけれども、私ごときが申し上げるまでもなく、それがすべてというわけではない。

 『朝日』の「経済成長」か「格差是正」かという設問の立て方は奇妙ではありますが、「へ」のつく理屈をこねるのが好きな人から見ると、一時期の経済危機を脱して景気は回復しつつあるけれども、実感がともなわない方が多いというどうでもいい話になってしまいます。むしろ「格差是正」(45%(なんで『朝日』は小数点をださないんでしょう。細かいので本当にどうでもいいのですが。まあ、わかりやすいからでしょうか))よりも「経済成長」(35%)を重視すると答えた方の中身が知りたいところです。既に景気回復の果実を実感していてさらなる成長を願っている人だけでなく、まだ景気回復を実感していない人も含まれているかもしれません。実感のともなわない景気回復(成長率の分母が巨大なだけに率でみると小さいけれども、増加量で見れば、優に途上国の1年分のGDPあるいはGNIに匹敵する)のプロセスでは景況感でのバラツキが大きくなってしまうのかもしれません。

 ぐっちーさんが指摘されている点は、「成長戦略」の根幹部分だと思います。不良債権処理は入口。出口は、資本市場の整備。ただし、まだ時間がかかります。申し上げにくいのですが、ここは必要な手立てを打ちつつ、安倍総理にもちこたえていただきたいところです。危機の時期は人の心がまとまりやすい部分もあります。そこから脱して、一息つく余裕がでてきてこれまで悲惨だと意識するゆとりがなかった頃にはあまり目につかなかったことが耳目を奪いやすい時期に入りつつあるように思います。このような時期の舵取りは危機の時代よりも難しい部分もあります。このあたりの機微は私ごときでは手に負いかねるのですが、成長という果実は民間部門が自ら勝ち取るものであって、政府の指図で手に入れるものではない。ですから、「成長戦略」というときにそれはあくまで民間部門が後ろ向きにならないようにインセンティブを与えるしかけであってそれ以上のものではないということを政府自身が忘れるとあやういでしょう。人々が欲しているのは「危機」から脱したという「安心」ですが、実は政府が与えるものではない。人々が自らかちとって自信とするべきものです。

 …。気がついたら「まじめな?寝言」になりかけました。まあ、どうでもいいか。「へ」のつく理屈が好きな人の「寝言」ということで読み流して頂ければ、幸甚です。ちなみにタイトルの話を忘れておりましたが、「いっぺん死んで来い!」は『らんま1/2』第1巻143頁の天道あかねのセリフです。初出は久能帯刀の突きをよけた乱馬があかねのスカートの中身を見てもらした感想にあかねが乱馬に蹴りを入れる際のセリフが初出だと思うのですが、誤りでしたら、御指摘ください。有名なセリフの割には、ここ以外のところが思い浮かばないので、ここにもあるよみたいなコメントがいただけると幸いです。ときどき、一人で自分に「いっぺん死んで来い!」とツッコミを入れる寂しい人生であります。誰か、こんなツッコミを入れてくれないかしら(女性限定)。

 ふう。なんとか「ふまじめな寝言」になりました。つーか、最近のようにバタバタしておりますと、まじめなことを考えるのには脳の容積が足りませぬ。いや、最近だけじゃなかったような気が。物心がついて以来、ずーっとかもしれませぬ。これぞ「構造不況」。

 …。強引にオチがつきましたので、おやすみなさい。


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posted by Hache at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2007年01月22日

いいんですか?

 なぜか、いろんな人に「いいんですか?」と尋ねられて困ってしまいました。「それは宮崎の人に聞け」と言いたくなる衝動を抑えて、とってつけたような説明。談合の連鎖には参ります。安倍政権にとっての最初の「試練」というところでしょうか。「政治とカネ」とか萎える話で興味がわかないですね。こんなのあるレベルへゆけば、小泉前総理とか麻生外相ぐらいしか議員適格者がいなくなってしまう。ただより高いものはないという「寝言」の一つも言いたくなります。

 さらに驚いたのは、「いつアメリカはイランをや○んですか?」という質問。これはもう…。軍事的オプションを排除しないことと実際にやるかどうか(イランに関して軍事的オプションを排除しないという明言があったかどうかも正確にはわからないのですが)は全く次元の違う問題だと思うのですが、いろんな「観測」が流れていて、「攻撃前夜」のように感じる人もいるようです。イラク戦争でも紆余曲折があったことを忘れている。私もえらそうなことは言えないのですが、もう少し戦争に関する学をちゃんと教えないと、まずい気がします。イランの地域情勢もですが。

 そんなこんなでバタバタして一日が終わってしまう。「こんなことでいいんですか?」と自問自答する一日でした。
posted by Hache at 23:42| Comment(0) | TrackBack(3) | 不幸せな寝言

2007年01月21日

読者に恵まれる幸せ

 1月18日の記事は、私がトラックバックを削除するつもりで記事そのものを削除してしまいました。現在、掲載されている記事は、テキストエディタに残っていた部分を元に書き継いだものです。

 読者の方が、RSSリーダーで配信された最初の記事をメールで送って下さいました。恐縮するとともに、幸せな気分になりました。記事が拙いなりにも、読者の方々に恵まれていることをあらためて実感いたしました。感謝の念を申し上げます。

 このブログは、ココログで立ち上げた際には、事実上、非公開(公開はしていましたが、ごく一部の方だけにお知らせしていて広く公開するつもりはありませんでした)でしたが、途中であまりのコメントの少なさに(かんべえさんとか「薄情」な方にしか連絡しなかったことも大きいのですが)トラックバックなどで公開しました。「隠遁」に憧れる傾向が強いので、公開するかどうかは、相当迷いがありましたが、コメントを賜るうちに、勉強になることが多く、現在では公開して本当によかったと思います。さらに、あまりに情けない操作ミスで削除した記事まで「復刻」できるよう、お気遣いをいただくとなると、感激いたします。「寝言」スタンスは変わりませぬが、今後も、読者の方々に御指導・御鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。

【「三顧の礼」に敗れた経済学(「初版」?)】

 梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社 2006年)を読みながら、最後にきて思わず考え込んでしまいました。考え込んでしまった話の前にちょっとだけ寄り道、もとい感想を。本自体は楽しんで読めます。「利益を追求する欲望は悪ではない。しかし、利益を追求する欲望の存在を無視することは悪である」(77頁)。このあたりの冷徹さは、ちょっとぞくっとします。実は、この本をネタに分権的社会に関して再論する予定でしたが、気分が変わりました(「気分」の問題については、こちらをどうぞ。ただし、暇をもてあましている方に限定ですよ)。年金の問題では運用のことについてばっさり無視した議論をされているのは違和感が残りますが。考え込んでしまったのは、最後の二つの章、第27章「三顧の礼」と第28章「泣いて馬謖を斬る」です。27章は、「長期的関係とインセンティブ」を論じていて、この故事を離れて成果主義と「愛社心」のような長期的な信頼関係を論じていて、これだけを考えても面白いでしょう。はたと考え込んでしまったのは前述の問題そのものではなく、冷徹な梶井先生(本の中では引越し屋の困らせ方などなかなか実用的で感心しました)をして次のような文章を書かしむる劉備と諸葛孔明の関係です。

 諸葛亮は報酬なしに流浪の武将に尽くす気になったのではない。劉備は、諸葛亮の理想と願望にこたえるだけの大きなビジョンを示し、最高の処遇をもって報いると熱心に語ったのである。そのような長期にわたる成果報酬が約束されてこそ、人は意気に感じて働くのではないだろうか(274頁)。

 諸葛孔明に関しては、こんなひどいことを書いておられる方もいらっしゃいますが(つい共感してしまうこと自体は否定しませんけれど)、彼の美学そのものを否定する方は少ない。敢えて言えば、上で引用した文章は、否定的な意味はないのですが、ごくありふれた評でしょう。梶井先生をからかおうというわけではなく、諸葛孔明という「高士」を描こうとすると、この種のリスクが避けられないのでしょう。ちなみにかんべえさんの「参謀論編」ででてくる岡崎先生の「出師の表」は、博報堂時代に拝見しました。岡崎先生は、「三顧の礼」に関しては、簡潔に触れているだけで、このあたりはさすがだと思います。下手に「加工」すると、「高士」に飲み込まれてしまうものです。私自身は、次のくだりが好きです。「任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(受任於敗軍之際 奉命於危難之間」

 第28章は、「泣いて馬謖を斬る――疑わしきは罰すべきか」というタイトルです。最後も、ありきたりといえばそうですが、経済学の話から離れていて、考え込んでしまいました。

 孔明の死後、職はみるみる衰えた。泣いて馬謖を斬ったことで蜀軍の規律は守られたが、兵士はかえって萎縮してしまったのかもしれない(283頁)。

 かんべえさんの評価と同工異曲というところでしょうか。人材育成に関するかんべえさんの「美学」の一貫性は2007年1月17日の「不規則発言」(現在は1月のライブラリーに入っておりませんが)でも示されていて、この点に関する限り、まったく異論がないですね。ただ、諸葛孔明の評価にブレがないのがちょっと不満だったりします。引用した梶井先生の諸葛孔明の評価には迷いがある。「人物」が「高士」を評価すると、迷いが生じる。「高士」が「高士」を評すると、言葉で説明することが難しいことを「勢い」で語る。このあたりは、「人物」でも「高士」でもない、「ずれた人」には興味深く感じます。

 人間性の前に惑う経済学者というのも、悪くないと思ったりします。経済学だろうが、政治学だろうが、煎じ詰めれば、人間に奉仕するものでしょう。人間性に惑い、跪くことは、「役には立たない」かもしれませんが、少しだけ人間というものを見る目に深みが増す。これが今日の「寝言」。
posted by Hache at 02:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言

2007年01月20日

凶騒曲 ラプソディ

 素人には難しすぎる「金融政策」です。なんと申しましょうか、選択肢がほとんどないような。ありゃま、それだったら素人にも簡単だって!?

 …。暇ではないのですが、「核廃絶」などという壮大なテーマは、「時の最果て」でも手に負いかねますので、かんべえさんが「投げちゃった」金融政策決定会合を素人的にお骨を拾ってみます歌っちゃいましょ。それにしても、単なる現状維持なのに、なんであんなに荒れちゃうんでしょ。教えて!にちぎん!!

***

♪凶騒曲 ラプソディ♪

市(いち)は夜ごとの 凶騒曲(ラプソディ)
金利の鏡に映すまがまがしさなら いつものように

底を這えば いつも
あげそこねた想いで だけど総裁は繰り返す

低いじゃない O/N-O/N
低いじゃない O/N-O/N
今度も O/N-O/N
上がることのない 甘いレート

マーケットは 気ままで切れやすいから
やるせなさが音を立てて 頭痛が痛い

会合はもう すれ違い 知らぬが仏
昼過ぎの 電車道

物価の波は 曖昧(ファジー)
誤差にまぎれてからまれて データのとても粗いところ

隠された見送りの合図 何処かで信認がなくなっている
戻ることができない 高金利の時代

低いじゃない O/N-O/N
低いじゃない O/N-O/N
いまでも O/N-O/N
締めることのない 緩い誘導

マーケットは 気ままでブレやすいから
やるせなさが音を立てて 頭痛が痛い

抑えた金利はもう 上がることもなく
そして次の 会合を持つ

言葉の行き違いは おだやかに おだやかに
幹事長のプランよりも たおやかに たおやかに

ちょっとふてくされて はぐらかして 気長に
O/N IJI IJI IJI IJI

マーケットは 気ままで切れやすいから
やるせなさが音を立てて 頭痛が痛い

抑えた金利はもう 上がることもなく
そして次の 会合を持つ

(原曲「狂想曲 ラプソディ」 作詞・作曲:飛鳥涼、唄:CHAGE & ASUKA)

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posted by Hache at 04:05| Comment(2) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言