2007年01月19日

ペシミスティックな断片

 削除した記事を復元していると、梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社2006年)の第1章「覆水盆に返らず――サンク・コスト」が身に沁みます。あんな「寝言」を書いた人間が申し上げても説得力が薄いのですが、良書だと思います。コアの極限定理を故事成語で読み解くというのはさすがにないものねだりでしょうか。あれほど分権的な社会のおどろくべき作用を示した話はちょっと他に類例がないように思います。経済学的にはホットな話題ではないのかもしれませんが、コアを最初に勉強したときに驚いてしまいました。「学問」なるものの「原点」は、「驚き」にあるなどと気どってみるテスト。

 それにしても、一日(2007年1月18日)で訪問者が442、ページビューが1610の過疎ブログの記事にあっという間に4つも関連がわからないトラックバックがくるというのは理解しがたいです。もっと理解し難いのは、訳のわからないトラックバックを削除するはずなのに、記事を削除してしまう私自身ではあるのですが。気が乗っているときに書いた記事とそうでない記事とで、どちらも「寝言」でしかないのですが、あまり勢いがなくなってしまいます。どうでもよいのですが、「さくらのブログ」の訪問者数にはrdfをダウンロードした分が上乗せされている分、アクセスカウンターより訪問者数が上乗せされる傾向があるようです。そこからブログへアクセスした分は訪問者としてダブルカウントしない仕様のようです。なお、トラックバックに関しては、受付後、管理者が承認した分についてのみ、公開することとします。

 松尾文夫さんの「アメリカ・ウォッチ」を拝読しながら、複雑な気分になります。核廃絶に向けてアメリカ自身にどのようにインセンティブを維持するのか、アメリカの外交スタンスが定まったとして、アメリカ主導での核廃絶に核保有国へ刀狩ならぬ「核狩」を行うインセンティブをどのように与えるのかがわかりませんでした。核不拡散、そこらかさらに核廃絶という議論は賛同するのですが、レイキャビック「精神」を広げるimplementationが見えない。核拡散への脅威の感応度は国によってばらつきがあるでしょう。また、アメリカと他の核保有国との共通の利害が曖昧な印象があります。仮に核不拡散に関して利害の一致を見たとしても、アメリカと他の核保有国で利害の不一致がより重大であれば、コンセンサス形成は困難になります。

 たしかに、テロリストの「核」や新たに「核保有国」たらんとする国には核抑止は機能しないのでしょう。他方で、既存の核保有国でも核不拡散はともかく、核廃絶という大戦略はビジョンとしての価値は高いでしょう。しかしながら、アメリカ一人勝ちの状況で強制力をともない限り、実現可能性という点で疑問が残ります。
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2007年01月18日

「三顧の礼」に敗れた経済学

 トラックバックの削除をしたつもりが、記事をまるまる削除していたようです。途中までテキストエディタで書いていたのですが、リンクが多いので、管理画面に直接入力していたため、復旧中です。なんでこんな過疎ブログにトラバをむやみに送ってくるのか理解しがたいのですが、テキストエディタに残っている部分から、再現中です。欠いていたときの勢いがなくなっているので、うまくゆきますかどうか。作業が終わり次第、記事を再掲します。

 とりあえず、テキストエディタに残っていた記事の断片を元に復元してみました。当初の記事のログがないので、中身が微妙に変わっているかもしれません。忙しいときに、余計なことをするものではないことをしみじみ感じますね。

 梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社 2006年)を読みながら、最後にきて思わず考え込んでしまいました。考え込んでしまった話の前にちょっとだけ寄り道、もとい感想を。本自体は楽しんで読めます。「利益を追求する欲望は悪ではない。しかし、利益を追求する欲望の存在を無視することは悪である」(77頁)。このあたりの冷徹さは、私も非常に共感しますねえ。実は、この本をネタに分権的社会に関して再論する予定でしたが、気分が変わりました(「気分」の問題については、こちらをどうぞ)。年金問題では運用のことについてばっさり無視した議論をされているのは違和感が残りますが。考え込んでしまったのは、最後の二つの章、第27章「三顧の礼」と第28章「泣いて馬謖を斬る」です。27章は、「長期的関係とインセンティブ」を論じていて、この故事を離れて成果主義と「愛社心」のような長期的な信頼関係を論じていて、これだけを考えても面白いでしょう。はたと考え込んでしまったのは前述の問題そのものではなく、冷徹な梶井先生(本の中では引越し屋の困らせ方などなかなか実用的で感心しました)をして次のような文章を書かしむる劉備と諸葛孔明の関係です。

 諸葛亮は報酬なしに流浪の武将に尽くす気になったのではない。劉備は、諸葛亮の理想と願望にこたえるだけの大きなビジョンを示し、最高の処遇をもって報いると熱心に語ったのである。そのような長期にわたる成果報酬が約束されてこそ、人は意気に感じて働くのではないだろうか(274頁)。

 諸葛孔明に関しては、こんなひどいことを書いておられる方もいらっしゃいますが(つい共感してしまうこと自体は否定しませんけれど)、彼の美学そのものを否定する方は少ない。敢えて言えば、上で引用した文章は、否定的な意味はないのですが、ごくありふれた評でしょう。梶井先生をからかおうというわけではなく、諸葛孔明という「高士」を描こうとすると、よほどの手練でない限り、ある種の「野暮」が避けられません。岡崎先生の手にかかると、こんな具合で比較すること自体が野暮なのかもしれません。博報堂時代の岡崎研究所には岡崎先生自身の手による「出師の表」が掲げられていて、思わず懐かしくて読み下し文にして音読してしまった覚えがあります。私が好きな一節は「任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(受任於敗軍之際、奉命於危難之間)」です。

 さて第28章は「泣いて馬謖を斬る――疑わしきは罰すべきか」。この結論部分が、見事にかんべえさんと一致していたので、思わず考え込んでしまいました。本書の読み方としては邪道ですが、経済学を離れてある「高士」を描こうとすると、そこに映るのは、書き手自身であることを感じます。

 孔明の死後、蜀はみるみる衰えた。泣いて馬謖を斬ったことで蜀軍の規律は守られたが、兵士はかえって萎縮してしまったのかもしれない(283頁)。

 かんべえさんは、ほとんど同じことを書きながら、「戦略家としては一流ではない。だって結果を残せなかったんだもの。でも彼は忠臣で、男の美学を貫いたわけだ」と結んでいます。諸葛孔明のような「高士」に接して、迷いがあるのがひとかどの人物でしょう。「人物」が「高士」を語るとき、迷いが生じる。「高士」が「高士」を描くときには、水墨画のように「高士」の事績をもって語らせる。経済学から遠く離れてしまいましたが、人間性に拝跪することがすべての出発点であり、終着点なのかもしれません。経済学といい、政治学といい、失礼ながら、すべては「後知恵」でしょうが、人間という動かしがたい何かの前で謙虚になれるのならば、「役に立つ」かどうかは別として、人間というどうにもならないものへの接し方に深みがでるための補助線というのが今日の「寝言」です。およそ人間を対象とする学ならば、自然科学者が自然を愛するように、人間を愛することが原点なのかもしれません。
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2007年01月17日

時の最果てへ

 2006年7月11日に大御所が「返歌」で「テーマソング」を作って下さいました。このブログのスタンスを最も御理解頂いて(「下も見えない」は実に素晴らしいと破顔一笑してしまいました)、感激したことを思い出します。ふと、母上が布施明さんの大のファンだったことを思い出します。あらためて、大御所に心より感謝の念を申し上げます。

 多くを語る必要はないのですが、私にとって時の最果てはいつか還りたいけれども、いつまでたってもたどりつかない懐かしく、「実在」するかどうかさえ怪しい、遠い「なにか」です。

***

長く書かれて しずかに語る
下も見えない 長文でひとり
めばえた恋の ときめきさえも
ブログのネタに あふれる字面
暇にあなたの 名前をググれば
1位驚く Hacheの寝言

Bocheがいれば 楽しいはずの
賢者の会話も わずらう恋に
いつもあなたが 話してくれる
時の最果て Hacheの寝言


(原曲「霧の摩周湖」 作詞:水島哲、作曲:平尾昌晃、唄:布施明)
***
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2007年01月16日

軽重判断

 そういえば、日曜日に依田紀基九段と溝上知親八段の対戦を見ていて、あまりにわからないので呆然としながら、最後まで見ました。「半目勝ち」と言われても、なんのことだろうというレベル。王銘琬九段が「依田九段らしい柔らかい手ですね」と解説されても、まったくわからないです。小学生の頃に将棋と囲碁の両方の入門書を読んで、ひたすら覚えたのですが、将棋は指す機会があったのでそれなりに覚えていますが、囲碁は周囲に打つ人がいなかったので、それっきりになってしまいました。本当にどうでもいいんですが、将棋の場合、父上がめちゃくちゃ弱かったので(だって、すぐに王手飛車をねらって無理なことばかりやるから、慣れてくると放っておいても自滅してくれる)、将棋ばかりやっていたような。もっとも、私自身は中盤まで辛抱して辛抱して、相手が隙を見せた瞬間に、大駒、とくに飛車をぶった切って一気に寄せるのが大好きなので、「爆死」することが多いのですが。

 いまさら囲碁という感じもするのですが、まず正座がつらい。血栓性静脈炎なんてかかってしまうと、正座は無理です。もちろん、アマチュアなのでイスでも構わないのですが、囲碁の場合はプロがイスに座っているので気が楽です。てな訳で老後の楽しみとして両方、楽しめたらけっこういいかもという本当に「寝言」ですらない理由で囲碁の勉強をしております。「コミ」とか本当に初歩からわかりやすい囲碁の本がありましたら、ご教示いただけると、幸いです。

 囲碁は、英単語を覚えているレベルなので、プロの棋戦を見ても、いきなり本を一冊、読んでいる気分になるので、ちと厳しいものがあります。「布石」も覚える状態で意味はよくわからない。というわけで将棋の喩えになりますが、だいたい、(1)駒の損得、(2)駒の利き、(3)玉の堅さや攻撃の構えなどの「形」、(4)スピードなどが主な判断材料になります。ここ数年、指していないのですが、私は平凡でありまして、序盤から中盤あたりは無意味な駒損を避けながら、駒をはたらかせて、形を整えてゆき、中盤から終盤はスピードが最優先です。ここ数年、見ているばかりで指していないのですが、こんな感じでしょうか。

 囲碁を打つ人に言わせると、「将棋の方が難しい」となりますが、どちらも弱い人間からすると、あまり変わらないように思います。局面局面ごとになにが大切でなにがどうでもいいのかを見極める力量が大きいように思います。そんなの将棋や囲碁に限らないじゃないかとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。そのとおりです。この「寝言」では、軽重判断を整合的に行う能力があり、行動できる人が大人であるためことにおいて不可欠の条件のひとつだということが結論です。軽重判断を整合的にお超えるようになるには、失敗が不可欠です。これは若い人の特権でしょう。

 それでは軽重判断ができるようになれば、それでよいのか。軽重判断にも個性があります。この点に関しては、明日の記事で触れますが、分権的な社会は、このような多様な軽重判断、あるいは選好を積極的に評価する社会です。整合的であれば、選好には善悪も真偽もない。将棋や囲碁は勝敗という点でよりよい選好という判断は可能なのでしょう。他方で、政治や外交・安全保障、経済などの分野では巧拙が問題なのであって、あるアクターの選択が適切であったのかを判断するのには膨大な時間と労力が必要になります。これらの評価が完全になるのを待って次の選択に移る余裕などないのが現実でしょう。だからこそ、分権的な社会では異なる価値観を共有する「常識」が不可欠になるのでしょう。常識というのは、私たちを正しい判断に導く便利な「マニュアル」ではなく、分権的な社会が個の多様性を保障しながら、社会全体として妥当な選択を行うための半ば自覚的な、半ば無自覚的な営みのプロセスであるというのが、今日の「寝言」です。

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posted by Hache at 01:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2007年01月15日

四十にして惑う

 かんべえさんの受け売りですが、1990年代に塩野七生さんが「若き過激派」(エッセイでは「アウグストゥス」がこの中から出てくるのだろうかという好意的な評とともに、「カエサル」はいずこという辛口な評価もされていますが)と評した当時の30代の人たちに残した言葉を引用します。無断引用ですが、かんべえさんにはお許し頂ければ、幸いです。

 年をとることは可能性を失ってゆくこと。可能性がなくなってゆくと、「40にして迷わず」ということになる。50にもなると、可能性はもはやひとつくらいしか残ってはおらず、それでは悲しいからというので「天命を知る」などと称する。

 ふと、このあたりが頭にあって、考え込んでいたのですが、困ったことに、私は成長が遅いようです。「アメーバ人間」と「つまらない人」は誤読されてしまった可能性がありますが、要は本業で意思決定をする際にスタイルが確立していないことに危機感を感じるとともに、これが個性なのかなあと自信のない「寝言」を書いていたわけです。他方で、加齢とともに知力・体力ともに元々、たいした水準ではないのにさらに低下を感じて嫌になります。

 らくちんさんが「40代」という記事の中で30代の特徴を描いていて、世代論には同意しかねるのですが、責任ある地位につくと鬱になる傾向というのは30代に限らないと思うのですが、理解できる部分があります。簡単に言ってしまうと、「信仰」や「空気」の問題というより、物事の軽重判断を避けようとする傾向があるということだと思うのです。実社会での軽重判断というのは、私の頭が悪いだけかもしれませんが、あるところまでくると、「えいやあ」であり、「こんなもんやろ」(なぜかこういうときに関西弁は便利ですね)と開き直るしかないのだろうと思います。これに耐えられない30代というのは「アイデンティティ」がどうとかという高尚な話なのではなくて、単に未熟なのだろうと。さらに開き直ると、ざっくりこれまでの40代の方が「四十にして惑わず」という域にあったとするならば、これから30代から下の世代は「四十にして惑う」人が増えてくることを覚悟する必要があると思います。フリーターから始まってニート経由「ワーキングプア」の問題を考えるときに、迷った末に好ましくない選択肢を選んでしまったという問題を無視しているのはちょっと解せない部分があります。

 まあ、私も年齢とともに、「えいやあ」をやる部分が増えてきて、「こんなもんでしょ?」と迷うことが多くなりました。さらに困ったことに、ただでさえ悪い記憶力がさらに悪くなって迷ったこと自体を忘れてしまいます。これでは学習という基本的なことができていない。困ったことです。「アメーバ人間」というのは、けっして誉められた話ではないのです。さらに困ったことに、この状態がくたばるまで続きかねない危険があります。自己弁護をしておくと、過去の経験則が環境変化でどんどん崩れている印象があります。もちろん、すべてが崩れてしまえば、かえって楽になるのですが、コロコロ変わるものから、変わらないものを峻別するのが困難な時期に入りつつあるように感じます。「アメーバ人間」というのは、精神科の先生からすれば「多重人格」となるのかもしれません。私の場合、多重人格というほど複雑ではなく、単に自分の欲求に素直なだけである気がします。ちょっとだけカッコをつけると、「日の下には新しいものは一つもない」というところから出発すると、「日の下には新しくないものは一つもない」のです。もちろん、それが環境への適切な適応であるのかは、私自身が一生をかけて探求して行くのでしょうが。

 以下は、「寝言」というより単なる与太話です。小泉前総理が郵政解散の前か後かは忘れてしまいましたが、「この程度の改革(郵政民営化)」とおっしゃっていて感心しました。郵政民営化は小泉前総理自身が最も重要な課題として位置づけていたのに、「この程度の改革」と表現されるのは、なかなかできそうでできない。安倍総理はどうでしょうか。教育改革は、率直に言って、よくわからない。ざっくり言えば、公への献身と自由のバランスの問題で、占領期の教育「改革」は明らかに個人の自由に偏重していたと思います。念のためにお断りしますが、民主政体では個人の自由と公は基本的に両立するものです。私利私欲の追求があってこそ、公は高い次元で成立しうる。ただし、個人にはある種の自制が要求されるでしょう。法の支配は、個人の自制の最低ラインを示しているにすぎない。この場合、「自制」とは、個人の私利私欲の追求と公の活性化を重ね合わせる意識的な努力です。教育基本法の改正は、かんべえさんの表現を拝借すると、「祝詞」でしょうが、まず大きなところで両者を意識的に相乗させてゆく方向を打ち出すことは、やはり大切だと最近になって評価が変わりました(当初は、こんな当たり前のことをわざわざ明文化する必要があるのだろうかと懐疑的でした)。

 小泉前総理の高い支持率の理由の一つは、この営みを赤裸々に映し出したことにあると思います。なにより、郵政三事業の改革という「本懐」を「この程度の改革」と丸め込んだあたりは、たいしたものだと思います。

 私は安倍政権に期待することとして、日米同盟の双務性を高めることと憲法改正を挙げました。私自身は、これは郵政三事業の改革よりもはるかに国益の根幹に関わる最も大切なことだと考えております。しかし、これも「私利私欲」にすぎません。重大なことほど、「この程度の改革」とまず自分自身を丸め込むことが肝心なことかもしれません。岡崎久彦先生との共著『この国を守る決意』では、気概をおおいに感じます。しかし、「本懐」をこの程度のことと、問題にのまれるのではなく、のみこんでしまわなくてはならない。安倍総理と小泉前総理とはパーソナリティがおおいに異なりますが、スタイルが異なっても、その大道は同じであろうと。小泉改革がある程度の成果をおさめても、継続してやらなくてはならないことが多いように、「安倍改革」も同様でしょう。安倍総理に「注文」をつけるほど思い上がってはおりませんが、「この程度の改革ができなくて21世紀を生き残れるのか」と提示できるのかどうかを注目しております。

 露骨に言えば、枝葉をバッサリ切って幹を大きくすれば、新しい枝葉がみずみずしく育ってくる。そんなものだと思います。本人の可能性は限られてくるのかもしれませんが、後から来る世代の可能性ははるかに広がるでしょう。この決断の責任はたしかに重い。しかし、それは可能性を開くという意味で楽しいことだと思います。軽重判断では最も簡単なことが難しく、個々のプロセスは複雑ですが、大きなことほど妥当なことは明らかであり、これを実現する機会に恵まれた方は幸運な方だと思います。現時点で、安倍総理に迷いはないと拝察しております。

 「五十にして天命を知る」というのは、私にははるか彼方にしか見えないのですが、まさに五十にして天命を「知る」どころか、「したがう」機会というのはめったにない。私みたいな凡庸な人間にはこない星の巡りでしょう。「外野」の「野次」など放置して「天命にしたがう」機会というのは滅多にない幸運だと考えます。
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2007年01月14日

とき

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:…。先週や大晦日のような目にあってはかなわぬゆえ、挨拶だけで帰ろうかのお。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:…。なんだか気が抜けるわ。
ハッシュ:おぬし、なんだか早く帰りたいようじゃが、何か用でもあるのか?
ボッシュ:…。おぬし、ワシの記憶をたどっておるな?
ハッシュ:ご明察。
ボッシュ:これで秘密が解けたぞ。ワシが考えても、何を答えるのかを先に読んでおるゆえ、ワシをやりこめることができたのだろう。煎じ詰めて言えば、囲碁や将棋で相手が指す手を読んでゲームをしているようなものじゃな。ある種のイカサマじゃ。
ハッシュ:直に話しているときに相手の心を読む必要はあるまい?聞けば済む話じゃ。
ボッシュ:…。
ハッシュ:それとも、なんじゃ。おぬし、言っていることと考えていることが別かね?
ボッシュ:…。
ハッシュ:なんで黙っておるんじゃ?
ボッシュ:…不覚じゃ。おぬしのペースにはまっておる。
ハッシュ:…。ワシはおぬしをはめた覚えはないぞ?
ボッシュ:なんでこうなるんじゃ!…すべてはあのデブのせいに違いない。
ハッシュ:まあまあ、お互い年ゆえ、カリカリせぬことじゃ。
ボッシュ:…。なんというのか、こんな鄙びたところにおる御仁は、神経が抜けているようじゃ。ワシなど、三日ももつまい。
ハッシュ:…。反論ではないんだが、おぬしのような生活をしていたら、ワシは気が狂いそうじゃ。あんんなに客人と接しておったら、どうかなる。
ボッシュ:まあ、お互いふさわしい生活をしておるのかもしれぬ。ところで、ここはどこじゃ?
ハッシュ:…。おぬし、実はワシみたいな生活がしたくなったのかね?
ボッシュ:そうではなくて、時の最果てとはどこなんじゃ?ときに終わりがあるとして、その終わりなのか、それともぐるぐる回る時の出発点でもあり、終わりでもあるようなトコなのか?
ハッシュ:…。難しいところじゃ。以前にも言ったと思うが、だいたい、時が連続しているかどうかすら、怪しい。
ボッシュ:…。ワシにはついてゆけぬのじゃが。
ハッシュ:時間というときに、普通、まず1時間や2時間といった単位を思い浮かべる。もちろん、分や秒でもかまわん。これが混乱の元じゃ。あるいは、時刻でもよい。何時何分何秒という奴じゃな。
ボッシュ:おぬしが考えているときとは、いったいなんじゃ?ワシにはわけがわらかぬが。
ハッシュ:あのデブの好みに合わせれば、物体の運動を記述するための概念じゃ。あるいは、「時間が経つ」というときの時間そのものじゃ。もちろん、単位で計ることもできるが、それ以前の問題じゃ。
ボッシュ:…。この前とは違う意味でついてゆけぬのお。そんなことを考えて、なにかいいことがあるのか?
ハッシュ:言いにくいんじゃが、まさに時間の無駄かもしれぬ。
ボッシュ:…。よくぞ、こちらからは言いにくいことを言ってくれた。ワシは、その一言で感動したぞ。そろそろ帰ろうかのお。
ハッシュ:また、おいで。

 …。このシリーズ、いつまで続くのでしょう。書き写す方も面倒なのですが。おまけに、ご本人が「時間の無駄」とこられては…。「時の賢者」なのか「時の愚者」なのか、難しい問題であります。まあ、何とかと天才は紙一重とか、何とかとハサミは使いようとも申しますので。

 物体の運動を記述する意味での時間は、私には手に負いかねます。変に「哲学的」な考察をしたところで、下手の考え休むに似たり。因果律をあれほど嫌ったボーアがなぜそれよりもはるかに強い相関を認めたのかはずっと疑問ではあるのですが。「鶏が先か、卵が先か」という話について言えば、「正しい」捉え方はわかりませんが、鶏が先の場合と卵が先の場合で結論が異ならなければ、どちらから始めてもよろしいという、すちゃらかな考えで接しています。ただ、量子力学が描き出す「物質」は、直感からあまりに遠ざかっていて、気味の悪い反面、案外そのようなものかもしれないとも思ったりします。

 …。何を書いているのか、自分でもよくわからなくなってしまいました。ったく、時の最果てから変なものが送られてくると、こんなありさまです。「時は金なり」。ときどき、しみじみ感じ入ることがあります。

2007年01月13日

つまらない人

 自分でも自分のことをつまらない人間だなあと思うことがよくあります。人がAかBかで争っているときに、つい「そんなの程度の問題でしょ」と身も蓋もないことをAに熱心な人からも、Bに熱心な人からも呆れられてしまう。もちろん、"yes or no"の場合もあるのですが、世の中のことなどたいていは程度の問題で二択の問題になることなど少ないように思います。選択肢が二つに絞れる状態だと、たいていは答えが決まっていたりすることが多いでしょう。もちろん、これも例外がありますが。

 なにか具体的なことを論じるために書いているわけではなく、自分のふだんの生活のように身近なところから政治や経済など社会全体に関することで程度問題が二択になってしまうことが多いように感じます。「程度の問題だ」といったところで、問題が解決するわけではなく、どのあたりが概ね妥当であるとみなせるのかを見極めるのはなまなかな人には難しい。この「寝言」を書いている本人があまり自信がないまま、「このあたりでしょ」とやっていることが多く、後悔することも多いものです。

 高校時代の「政治経済」という科目で需要と供給の勉強をしたとき、当たり前じゃないかと思ったことを思い出します。あとになって考えると、価格が均衡よりも高くても低くても、交換の利益が減少してしまう。理論的にも「ほどほど」のあたりがあるのかどうかがちゃんと確認するだけで大変なようですが、実際にどのあたりが「ほどほど」なのかを見極めるのは難しい。バタバタしながら一週間が終わってしまいましたが、「ほどほど」をパッと見極めるようになるには面倒な作業と時間が必要なことを痛感します。こんな「寝言」を書いていて、しみじみ自分の凡庸さに恥じ入るばかりです。
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2007年01月12日

安倍政権への期待

 デザインを一新してみました。テンプレートの名前は、「月」。月と川のイメージとのことです。夜型の私にはちょうどよいかもと思って、新作のテンプレートを速攻で適用してみました。CSSの管理方法がよくわからないまま、テンプレートをいじっているので、ちょっと変な表示になることがあるかもしれません。このあたりは微調整が続くと思いますので、御理解ください。

 ネットでも、メディアでも評判が悪い安倍政権ですが、なんだか、みんな、せっかちだなあと思います。小泉政権の「ご祝儀相場」がなかなか崩れなかったのは、「加藤の乱」をへて森内閣が事実上、退任に追い込まれてしまったことや、経済への危機感、さらに9.11という、まあ、何度見ても信じられない異常事態など条件が揃っていたことも大きいのだろうと思います。もちろん、そのような様々な試練をへながら事態を一つ一つ乗り切っていった小泉総理の手腕は素晴らしいと思います。いろいろ「御託」を書いておりますが、ネットの現状を見ていると、安倍政権を支持すると言い切るのには「隠れキリシタン」の勇気が必要なわけでして、たぶん「安倍内閣メールマガジン」を創刊号から読んでいると言うと、「変人」扱いで済めばよいなあと思う今日この頃だったりします。新年のメールマガジンを読むと、なかなかおもしろいです。安部総理の部分のみを引用いたします(『安倍内閣メールマガジン第12号(2007/1/11))。

 明けましておめでとうございます。安倍晋三です。
 みなさんはどのようなお正月を過ごされたでしょうか?そろそろお正月気分も抜けて、仕事や勉強に励んでおられることと思います。
 私にとっては元旦に東京から見えた富士山が印象的で、すがすがしさを感じる新年のスタートとなりました。 
 さて私は今、欧州歴訪の真っ最中で、新年第一号となるこのメルマガの原稿をロンドンからベルリンへと移動する政府専用機の中で執筆しています。
 専用機には結構大きな執務机やパソコンがあり、地上とも連絡が取れるようになっていて、仕事ができる環境が整っています。北朝鮮による核実験が私の北京からソウルへの移動中に行われた前例もあり、飛行機の中だからといって気を緩めることはできません。
 安倍家の正月は、例年地元下関の神社にお参りするのが慣例ですが、今年の年末年始は地元に帰りたい気持ちをぐっと抑えて、家族とともに都内のホテルにこもりました。その間も海外の動きをはじめとする諸情報が刻一刻と入ってきて、総理大臣として対応を指示しなくてはならない案件も多くありました。
 また欧州歴訪や東アジアサミットなどへ向けての勉強や、通常国会での施政方針演説の構想を練るなどの仕事もあり、息抜きはホテルを抜け出して観た映画2本のみ。総理大臣には心安らぐお正月は縁遠そうです。
 逆に一国の舵取りを任されているということの責任の重さを改めて痛感した年末年始でした。 
 今年も総理大臣として国民の生命、財産を守るため、一瞬たりとも気を抜くことなく、全力投球で仕事に取り組みます。(晋)


 失礼な表現ですが、良くも悪くも生真面目な雰囲気が伝わってきます。私ごときが申し上げることではないのでしょうが、ちょっとテーブルにお皿を乗せすぎてしまった感じはありますが。私が安倍政権に期待しているのは、(1)集団的自衛権の行使の解釈をまともにすること、(2)最低限9条2項の戦力不保持を削除して憲法改正を実現する目途をつけることです。目先の問題として北朝鮮があり、さらにあっという間に2008年の「危機」を迎える可能性が高いので、(1)が終わっていないと、この頃には失望感を覚えているかもしれません。

 ざっくり見ると、支持率は下落しているようですが、仕事は進んでいます。久々の長期政権の後だけに、後片付けも大変でしょう。他方で、「あんたの首を狙っているよ」と言っているような方を外相にして「自由と繁栄の弧」という「大風呂敷」の乗っかる芸当もやってのけてしまう。露悪的に言ってしまえば、これも集団的自衛権の行使を認めないことがいかに異常なことであるのかを示すための布石ともいえるでしょう。口はあまり動かないが、体を動かし手を働かせるのが安倍流だと感じます。私みたいな碌でもない者に支持されると、はた迷惑な可能性がありますが、気にせず、安倍内閣支持です。 

2007年01月11日

アメーバ人間

 しみじみ最近感じるのは、「例外のない法則はない」ということです。この手の格言は、例外があることが少なくないのですが、人間相手のこととなると、「法則」なるものの例外の多さに頭が痛くなることが多いです。私が無節操であるという「法則」は、例外が少なく、つくづく「アメーバ人間」と自ら形容しただけのことはあるなあと思ったりします。

 雪斎先生の「反」の思考はなにも生まないという説は、私は生理的に好みますが、これすら例外があります。以前、ハイエクの工学的な発想に違和感を唱えられていて、これは全く同感なのですが、彼の「集産主義」批判は、情報効率性という視野を開くのに大いに貢献したことも否定できず、なんとも歯切れが悪いのですが、考えるほど難しい。実際には、「旨ければ食べてしまう」という無節操な人間なので、「毒」にあたらぬよう、気をつけながら頂いてしまう。「タカ」、「ハト」、「フクロウ」に「分類不能」というカテゴリーがほしいなあと「寝言」をこいてしまいます。お世辞にも、「フクロウ」ほどの知恵はないのですが、「欲」だけは強いですから。

 まあ、「アメーバ」も運が悪いと、ノロ・ウィルスなんてものをもらってしまう可能性もあるのですが、幸い、「時の最果て」のアメーバはしぶといようです。単に「流行」に鈍いという「寝言」が頭をよぎったりしますが。「なまもの」は苦手というより、どこか感性か神経が抜けていることを感じます。

 かんべえさんがイラクからの「撤退」が遠のいて嘆息している。言いにくいけれど、人間40年も人生を送れば、そうそう考えが変わるなんて難しいです。露骨に言えば、年をとるほど可能性が減ってゆく。このあたりは「時の最果て」よりも、「本家」時の最果ての領分だと思いますが、ブッシュ大統領が、善悪を抜きにして、ぶれる可能性は無視したほうがよいのだろうと思います。2年弱でアメリカの世論がどのようにスウィングするのかはわかりませんが。なるようにしかならないけれども、なるようにしかならない現実を見続ける情熱だけは忘れなければ、ひどい目にあわないのだろうと思いますね。
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2007年01月10日

自壊する教育制度

 火・水と20人近くの相談に乗ってくたくたになりました。○○○子先生のように、「鑑定料」が入るわけでもなく、ただ疲労するだけですが、ちゃっちゃと済ませておかないと、仕事がさらに増えてしまうので、各4時間計8時間を費やしました。もう、「寝言」も頭に浮かばないぐらい、ふらふらに。新聞その他に目を通すと、なんだかきな臭い感じですが、偉い方がなんとかするでしょと投げやりになってしまいます。うまく表現できないのですが、できものがあるレベルまで膿んでしまうと、自然とはじけて、その瞬間は痛いけれども(大きいと一週間ぐらいは痛みますが)、数日もすれば、きれいさっぱりするするようなものじゃないのと思ったりします(無責任)。

 ふとわが身を振り返ると、バタバタしているせいもありますが、相談事をされたときにまるで一貫性がないことに気がつきます。よく言えば臨機応変、悪く言うと無原則。もともと、すちゃらかな性格(だということに気がつくまでに30年以上もかかってしまいましたが)なので原理原則など無縁でありまして、まさに「縁なき衆生は度し難し」。だいたい、人の数だけ個性があるのに、同じ方法が通用すると考えること自体が理解できなかったりします。基本的に「受注生産」なので、世代論とかまるで信じることができないです。同じ世代、同じような環境でも、タイプや能力はバラバラ。こと対人関係になると、個人単位でしか見ることができない癖(へき)のせいか、どうも世代論は説得力を感じないです。若い世代の「悪口」を言うのは老いた世代の特権じゃないのと冷やかしたくなったりします。

 ただ、最近、気にかかるのが、いわゆるエリート大学とみなされてきた大学の質の低下です。よく日本人の特徴として、「兵隊」は優秀だけれども、「将官」が弱いと自己卑下する傾向があるようです。もし、本当に「将官」がダメなら、優秀な「兵隊」も育たないわけでして、それなりに怜悧な方が「将官」であったのが実情だと思います。「兵隊」が優秀なほど、「将官」への要求水準も高くなるわけで、この種の自己卑下はある程度まではしかたがないのかなと思います。ただ、「将官」が本当にやばいと国が滅ぶ可能性もあるわけで、これはしゃれにならないです。露骨に言ってしまうと、今の大学の序列が学力差だけを反映するようになって(言いにくいのですが、偏差値の高い大学の先生ほど大変らしい。トップ校の「学力低下」ほど教える側からすると、つらいものはないでしょう)、戦後教育の「終着点」がここかなと思うようになりつつあります。

 「制度」というものは、完成すると自壊するという性質をもっているらしいというのが、今日の「寝言」です。もうちょっと考えを整理したいのですが、時間がきつきつなので、ここまでです。おやすみなさい。
posted by Hache at 23:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言