2007年01月03日

記憶と創造性

 1月2日にもう一本、記事が書けたので更新しちゃいます。元旦の記事では私には理解不能な議論が時の最果てではされていたようですが、「時の最果て」ではもう少しレベルの低い話になります。2日もテレビを見ていたのですが、『新春お好み囲碁対局』のみです。囲碁を打つ人からすると、評判がよろしくないのですが(2chの囲碁・オセロ板で見た程度ですけれど)、ど素人からすると、なるほどと思うところが多くて(意味がわからないことの方が多いのですが)、ためになりました。泥酔状態でも、七手詰めぐらいなら、なんとか解けるのですが、死活問題は絶望的で、というよりも、ほとんど解いたことがないというレベルなので、的外れなことが多いのはお許しのほどを。

 囲碁のど素人からすると、置碁はこうやって始まるんだということから新鮮でありまして、最初からついつい見てしまいました。対局者は喜多川拓郎さん・きたろうさん対稲葉禄子アマ六段。解説が小林覚九段、聞き手が青葉かおり四段。某掲示板では「もっと真剣にやれ」という声が多かったのですが、ど素人には、指導対局のようでむしろありがたいです。きたろうさんがテレビ出演にも囲碁にも慣れていることもあるのでしょうけど稲葉アマ六段からいろんなリアクションを引き出していて、非常に面白い。ただ、どこがどうまずいのかは聞いてもわからないのですが。将棋だと手順さえ示してもらえば、なるほどと思うことが多いのですが、囲碁はさっぱりです。ただ、テレビで対局者の表情が豊かだと、なんとなく引き込まれてしまう。地をとりあうことぐらいはわかるのですが、駆け引きの意味がわからない。テレビを見ると、駆け引きの呼吸(くどいようですが、意味はわかっていません)がなんとなく伝わってきます。

 なにに驚いたかと言えば、勝負が終わって大盤解説に移ると、青葉四段と稲葉アマ六段がすらすらと初手から並べてゆくのでびっくりしてしまう。プロやアマというよりセミプロの方には失礼ではありますが、ど素人には驚異的です。この光景は、将棋だとなんの違和感もないのですが、囲碁はわからないだけにびっくりしてしまう。こんなことに感心するのは、感心される方からすれば迷惑千万でしょうが、やはりすごいとなります。とてもじゃないですが、最初の形など全く覚えることができず、布石にこんなに意味があるというのは本当に驚いてしまいました。プロどうしの対局だったら、ここまで真剣に見なかったかもしれません。

 ふと感じたのは、囲碁の場合、19×19の場所に黒か白かの可能性があるがあるのが打つたびに可能性が狭まってゆく。駆け引きも面白いのですが、この流れがどのようにできてゆくのかが素人にはわからないだけに面白いです。将棋も本質的には同じなのかもしれませんが、可能性をどのように狭めてゆくかに碁の打ち手の妙味がある。黒が打ち白が打ち、また黒が打ち白が打つうちに確実に可能性は現実性になってしまう。もちろん、勝負が問題なのですが、押したり継いだり、はねたりの意味はわからないけれども、可能性を狭めながら、どうやって自分の主張を通してゆくのかが見えて興味深いです。

 もう一つは、囲碁であろうが、将棋であろうが、記憶という基本的にはよほどの才能がない限り嚼蝋とした反復作業と創造性とは相反するものではないということです。古めかしく言えば、記憶は「質料」であり、創造性は「形相」というところでしょうか。思考それ自体を考える場合に記憶、あるいは「真なるもの」を叩き込むことと、創造性を区別することは無意味だとは思いませんが、実際の作業となると、切り離すことはできない。露骨に言えば、このような区別は後知恵だと思えます。私の数学のレベルがあまりに低いからかもしれませんが、高校時代に行列の対角化を散々、練習させられて辟易しましたが、違うレベルで教えていただくと、違う世界が広がる(まあ、実際にはあまりわかっていませんが)。囲碁や将棋の手筋は無数といってよいほどあるのでしょうが、アマチュア、それも私みたいなセンスのない人間が使う手筋など数えるほどでしょう。まず、元々、覚えている手筋が少なすぎる。そして、それらを組み合わせて自分の主張を組み立てる能力に欠ける。私程度の人間ですと、記憶している量で能力のほとんどが決まってしまう。意味がわかるのは覚えてからです。

 凡人の「寝言」として読んで頂きたいのですが、記憶に意味をつけるのは後の話だという簡単なことが現代日本ではどこか置き去りにされているように感じます。覚える前に、意味を説明しろという人が多すぎる。走る前に意味を教えろ、泳ぐ前に泳ぐ意味を教えろという人の声ばかりが多い。さらに、走る前に走り方を教えろ、泳ぐ前に泳ぎ方を教えろという人はもっと多い。これでは、意味を教えて走り方を教えて問答をしているうちに日が暮れて実際に走る人がいなくなってしまう。「寝言」ついでに言ってしまえば、陽明学など文明のある極致でしょう。実際には区別のしようがない考えることと行うことを区別して「知行合一」。文明の本質の一つは、考えることと行うことを峻別することにあるのかもしれません。しかし、東西の古典は、行うことすなわち考えること、考えることすなわち行うことであることを行動と言論の双方で示した例がほとんどです。真の創造とはこのような状況で生まれることを東西の古典は示していると思います。

 「古代に戻れ」と主張しているわけではありません。「行うこと」と「考えること」の分業は、どちらかに力が偏っている方にも才能を発揮する場を与えたという点でも、多くのご利益があるのでしょう。分権的な社会は、両者を分けた上で全体としてある統一された傾向を生みだすという、驚くべき機構です。しかし、「考えること」に特化した側に記憶を創造性から切り離して軽視する傾向が少なからず存在することには危惧を覚えます。無から有は生まれない。この当たり前のことが、あまりに軽視されているように見えます。古代は叡知と行動力を兼ね備えた英雄を生み出しました。現代では、両者ともに特定の個人ではなく社会全体がそれを共有する方向へと変化したある高い段階なのでしょう。私自身は、このような営みに終わりがないという、まあ、証明はおろか、それなりに理屈付けすらできない、ある種の「公理」にもとづいて自然現象のように現代の先進国を見てしまう癖(へき)があります。「考えること」だけに限定しても、考える前に意味を考えずに知りたいという「病理」が生まれる。このような「病理」がある種の「風土病」で終わることを願っております。

 それにしても、囲碁もいいなあと思ったお正月でした。今年は、ピラティスに加えて囲碁の勉強でもしましょうか。

 え゛っ!あんた単に稲葉禄子さんみたいな人に指導してもらえるなら将棋より囲碁の方へ乗り換えたいというだけじゃないのって?どうせ凡人どころかその程度の単細胞でしょって?

 ・・・。訴追の虞はありませんが、黙秘いたします。自分の欲求を正当化するために、よくもまあ、どうでもいい「寝言」を書くものだとつくづく自分の「業」の深さに感動しました。私みたいにできの悪い人間だと動機が不純であっても結果がよければノープロブレムと他人に寛大になれるのですよ(自分でも説得力ゼロ)。
posted by Hache at 02:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言