2007年01月07日

意識の最果て

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:…ここには、大晦日も正月もないなあ。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:・・・。年末から新年早々、すさまじい体験をしてしまった。あれ以来、再起不能になりかけたわ。この世とあの世の区別がつかなくなりそうになった。
ハッシュ:ちと刺激が強すぎたかの?
ボッシュ:刺激というより、幻覚でも見たようじゃ。ワシがきつく言ったせいか、あのデブめ、バカ正直にそのまま載せてさすがに気の毒じゃな。
ハッシュ:あのデブは喜んでおったぞ。なんでも、こんな記事を読まされれば、うんざりするからアクセス数が減るだろうとな。
ボッシュ:…。信じられぬセンスじゃな。アクセス数を増やそうと努力するのがまともだぞ。さらにワシが現実が現実として信じられなくなるような体験をして、それをアクセス数減らしに利用されるとは…。もう、言葉がない。
ハッシュ:見えたことが即現実とは限らないことぐらいおぬしも承知しておるだろうに。あと、あの件は早く忘れることじゃな。まあ、ワシもやりすぎたのかもしれぬ。
ボッシュ:忘れたいのはやまやまじゃ。しかし、あまりに強烈すぎたな。一気に老け込んだ気分じゃ。
ハッシュ:まあ、思い込みすぎないことじゃ。
ボッシュ:それにしても、ガッシュの時代はワシたちの時代の先なのか?
ハッシュ:…。実は、時が連続していないとすると、断言はできない。ワシ自身がそうじゃ。ジールの頃と時の最果てにきてからの自分が同一であるという保証は、どこにもないんじゃ。
ボッシュ:…。ということは、ワシもジールの頃と同一人物であるという保証はないのか?
ハッシュ:…。そういうことになる。
ボッシュ:しかし、ワシの記憶は連続しておるぞ。ジールの頃からガルディア、ジパングと記憶がとんでおらぬ。これでワシがワシでなかったら、訳がわからぬ。
ハッシュ:それでよいのじゃ。普通に生きてゆく分にはな。ただ、おぬしがボッシュであることを保証するのはなんじゃ?
ボッシュ:…。なんだか、嫌な展開じゃな。先週の問答を思い出すわい。ワシは独り者だし、仮に連れ添いがおったとしても、一人の時間がある。だから、ワシがワシであることを保証するのは、ワシの記憶以外にはありえぬ。
ハッシュ:まあ、ここまでは当然じゃな。そこでじゃ。誰か、あるいは何かがおぬしにそう思い込ませるようにしているとしたら、どうなる?
ボッシュ:…。ワシがあのデブである可能性があるとでも言うのか?これは、断言させてもらうが、ワシは、あのデブのように、ピザをむしゃむしゃと食べた覚えはない。
ハッシュ:そうじゃな。さて、その記憶自体が正しいことを保証するのはなんじゃろ?
ボッシュ:…。まるで先週のようじゃ。ワシがワシであってはならんのか?
ハッシュ:ここにいると、それすらあやうく感じるのじゃ。もちろん、おぬしの体験を夢で見ていると、おぬしはボッシュであってハッシュではない。おぬしが、客人と会話をしているときに、ワシはその会話に干渉することはできぬ。あくまで仮定の話じゃが、ワシが心の中でおぬしに会話の中身をこうせよと念じたところで、おぬしはおぬしの話をしている。したがって、感覚の上ではおぬしはボッシュであってハッシュではない。
ボッシュ:…。わかりきったことを、よくもまあ、こねくり回せるのお。ワシはワシじゃ。以上じゃ。
ハッシュ:しかし、それはあくまで感覚の上の話じゃ。その感覚が真であるという保証はどこにもない。
ボッシュ:…。なんだか、頭の中に虫でもいるようじゃ。なんというのか、ワシの感覚と脳みそのはたらきを自分で見ているような変な感覚じゃな。
ハッシュ:問題はそこじゃ。おぬしの感覚と感覚を処理するプロセスを見ている「自分」とは何者じゃ?
ボッシュ:…。なんだか、これ以上話をしていると、ワシがどうかなりそうなんじゃが。
ハッシュ:よい答えじゃ。そのおかしくなりそうな自分はなんじゃ?
ボッシュ:…。これは正直に言おう。自分でもよくわからぬ。
ハッシュ:あのデブの国では「客観」という言葉が安直に使われているようじゃ。ある主張が真であるかどうかを判断するのは、その人の話そのものではなく、他人の判断に依存する。これ自体は、決しておかしな話ではない。しかし、それ以前に自分で自分を客観として見ることができなくては、他人の話を判断することはできぬ。
ボッシュ:…。なんだか当たり前のようじゃが、考えたこともないな。しかし、おぬしの話を考えてみると、客人に料理をだすときに味見をするのお。まずは、自分がうまいと思えない料理は話にならぬ。そして、次に客人の好みに合っているかどうかじゃな。おぬしの話と同じではないだろうが、料理一つをとってみても、そんなものかもしれぬ。
ハッシュ:今回は、この辺で話を止めるが、要は、私は私であって私ではない。その状態を一瞬一瞬、立ち止まることなく紡いでゆくことが、生きるということじゃ。普通は、当たり前すぎて意識しないだけなんじゃが。
ボッシュ:ふと思うのじゃが、そんなことを考えて、いったいなにの役に立つんじゃ?
ハッシュ:まあ、時の最果てにいると、そんな寝言の一つも思い浮かぶんじゃ。役に立つかどうかは別として。
ボッシュ:ワシは、おぬしの寝言の聞き手というわけか。先週みたいな経験は御免被りたいが、そう悪い話でもないのかもしれぬ。そろそろ店の片づけを見にゆかなくてはならぬ。そろそろ、お暇じゃな。
ハッシュ:おぬしも忙しいのお。また、おいで。

 またまたコメント不能な話が時の最果てから届きました。時の賢者様の寝言につきあわなくてはならない命の賢者様がちょっと気の毒な気がいたします。私にはさっぱりわからない話ですが、強引に解釈すると、自我というのは「内なる自然」ということでしょうか。

 あんたの「寝言」はどうなのかって?まあ、「寝言」ですから。答えがあるのかどうかも怪しい話をぶつぶつ綴っているだけです。正直なところ、年を越えてブログを続けているとは思いませんでした。時の賢者様の言葉は寝言、私の文章は「寝言」ということで、ご理解を頂いているとは思うのですが、念のため、書いておきます。

 日曜日はとある集まりで、苦難を乗り越えて生きていらっしゃる方は美しいと思いました。時の賢者様の寝言を強引に「寝言」にすると、一度きりの人生である以上、やめることは続けるよりもたやすく、歩けば、そこに道があるということでしょうか。ありきたりですが、いろんな方に接すると、恥ずべき人生も愛すべきものであり、他人の人生を尊重するというのは、自分の人生をダメな人間なりに必死に努力することがなくてはありえないことを感じます。