2007年01月15日

四十にして惑う

 かんべえさんの受け売りですが、1990年代に塩野七生さんが「若き過激派」(エッセイでは「アウグストゥス」がこの中から出てくるのだろうかという好意的な評とともに、「カエサル」はいずこという辛口な評価もされていますが)と評した当時の30代の人たちに残した言葉を引用します。無断引用ですが、かんべえさんにはお許し頂ければ、幸いです。

 年をとることは可能性を失ってゆくこと。可能性がなくなってゆくと、「40にして迷わず」ということになる。50にもなると、可能性はもはやひとつくらいしか残ってはおらず、それでは悲しいからというので「天命を知る」などと称する。

 ふと、このあたりが頭にあって、考え込んでいたのですが、困ったことに、私は成長が遅いようです。「アメーバ人間」と「つまらない人」は誤読されてしまった可能性がありますが、要は本業で意思決定をする際にスタイルが確立していないことに危機感を感じるとともに、これが個性なのかなあと自信のない「寝言」を書いていたわけです。他方で、加齢とともに知力・体力ともに元々、たいした水準ではないのにさらに低下を感じて嫌になります。

 らくちんさんが「40代」という記事の中で30代の特徴を描いていて、世代論には同意しかねるのですが、責任ある地位につくと鬱になる傾向というのは30代に限らないと思うのですが、理解できる部分があります。簡単に言ってしまうと、「信仰」や「空気」の問題というより、物事の軽重判断を避けようとする傾向があるということだと思うのです。実社会での軽重判断というのは、私の頭が悪いだけかもしれませんが、あるところまでくると、「えいやあ」であり、「こんなもんやろ」(なぜかこういうときに関西弁は便利ですね)と開き直るしかないのだろうと思います。これに耐えられない30代というのは「アイデンティティ」がどうとかという高尚な話なのではなくて、単に未熟なのだろうと。さらに開き直ると、ざっくりこれまでの40代の方が「四十にして惑わず」という域にあったとするならば、これから30代から下の世代は「四十にして惑う」人が増えてくることを覚悟する必要があると思います。フリーターから始まってニート経由「ワーキングプア」の問題を考えるときに、迷った末に好ましくない選択肢を選んでしまったという問題を無視しているのはちょっと解せない部分があります。

 まあ、私も年齢とともに、「えいやあ」をやる部分が増えてきて、「こんなもんでしょ?」と迷うことが多くなりました。さらに困ったことに、ただでさえ悪い記憶力がさらに悪くなって迷ったこと自体を忘れてしまいます。これでは学習という基本的なことができていない。困ったことです。「アメーバ人間」というのは、けっして誉められた話ではないのです。さらに困ったことに、この状態がくたばるまで続きかねない危険があります。自己弁護をしておくと、過去の経験則が環境変化でどんどん崩れている印象があります。もちろん、すべてが崩れてしまえば、かえって楽になるのですが、コロコロ変わるものから、変わらないものを峻別するのが困難な時期に入りつつあるように感じます。「アメーバ人間」というのは、精神科の先生からすれば「多重人格」となるのかもしれません。私の場合、多重人格というほど複雑ではなく、単に自分の欲求に素直なだけである気がします。ちょっとだけカッコをつけると、「日の下には新しいものは一つもない」というところから出発すると、「日の下には新しくないものは一つもない」のです。もちろん、それが環境への適切な適応であるのかは、私自身が一生をかけて探求して行くのでしょうが。

 以下は、「寝言」というより単なる与太話です。小泉前総理が郵政解散の前か後かは忘れてしまいましたが、「この程度の改革(郵政民営化)」とおっしゃっていて感心しました。郵政民営化は小泉前総理自身が最も重要な課題として位置づけていたのに、「この程度の改革」と表現されるのは、なかなかできそうでできない。安倍総理はどうでしょうか。教育改革は、率直に言って、よくわからない。ざっくり言えば、公への献身と自由のバランスの問題で、占領期の教育「改革」は明らかに個人の自由に偏重していたと思います。念のためにお断りしますが、民主政体では個人の自由と公は基本的に両立するものです。私利私欲の追求があってこそ、公は高い次元で成立しうる。ただし、個人にはある種の自制が要求されるでしょう。法の支配は、個人の自制の最低ラインを示しているにすぎない。この場合、「自制」とは、個人の私利私欲の追求と公の活性化を重ね合わせる意識的な努力です。教育基本法の改正は、かんべえさんの表現を拝借すると、「祝詞」でしょうが、まず大きなところで両者を意識的に相乗させてゆく方向を打ち出すことは、やはり大切だと最近になって評価が変わりました(当初は、こんな当たり前のことをわざわざ明文化する必要があるのだろうかと懐疑的でした)。

 小泉前総理の高い支持率の理由の一つは、この営みを赤裸々に映し出したことにあると思います。なにより、郵政三事業の改革という「本懐」を「この程度の改革」と丸め込んだあたりは、たいしたものだと思います。

 私は安倍政権に期待することとして、日米同盟の双務性を高めることと憲法改正を挙げました。私自身は、これは郵政三事業の改革よりもはるかに国益の根幹に関わる最も大切なことだと考えております。しかし、これも「私利私欲」にすぎません。重大なことほど、「この程度の改革」とまず自分自身を丸め込むことが肝心なことかもしれません。岡崎久彦先生との共著『この国を守る決意』では、気概をおおいに感じます。しかし、「本懐」をこの程度のことと、問題にのまれるのではなく、のみこんでしまわなくてはならない。安倍総理と小泉前総理とはパーソナリティがおおいに異なりますが、スタイルが異なっても、その大道は同じであろうと。小泉改革がある程度の成果をおさめても、継続してやらなくてはならないことが多いように、「安倍改革」も同様でしょう。安倍総理に「注文」をつけるほど思い上がってはおりませんが、「この程度の改革ができなくて21世紀を生き残れるのか」と提示できるのかどうかを注目しております。

 露骨に言えば、枝葉をバッサリ切って幹を大きくすれば、新しい枝葉がみずみずしく育ってくる。そんなものだと思います。本人の可能性は限られてくるのかもしれませんが、後から来る世代の可能性ははるかに広がるでしょう。この決断の責任はたしかに重い。しかし、それは可能性を開くという意味で楽しいことだと思います。軽重判断では最も簡単なことが難しく、個々のプロセスは複雑ですが、大きなことほど妥当なことは明らかであり、これを実現する機会に恵まれた方は幸運な方だと思います。現時点で、安倍総理に迷いはないと拝察しております。

 「五十にして天命を知る」というのは、私にははるか彼方にしか見えないのですが、まさに五十にして天命を「知る」どころか、「したがう」機会というのはめったにない。私みたいな凡庸な人間にはこない星の巡りでしょう。「外野」の「野次」など放置して「天命にしたがう」機会というのは滅多にない幸運だと考えます。
posted by Hache at 03:49| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言