2007年01月16日

軽重判断

 そういえば、日曜日に依田紀基九段と溝上知親八段の対戦を見ていて、あまりにわからないので呆然としながら、最後まで見ました。「半目勝ち」と言われても、なんのことだろうというレベル。王銘琬九段が「依田九段らしい柔らかい手ですね」と解説されても、まったくわからないです。小学生の頃に将棋と囲碁の両方の入門書を読んで、ひたすら覚えたのですが、将棋は指す機会があったのでそれなりに覚えていますが、囲碁は周囲に打つ人がいなかったので、それっきりになってしまいました。本当にどうでもいいんですが、将棋の場合、父上がめちゃくちゃ弱かったので(だって、すぐに王手飛車をねらって無理なことばかりやるから、慣れてくると放っておいても自滅してくれる)、将棋ばかりやっていたような。もっとも、私自身は中盤まで辛抱して辛抱して、相手が隙を見せた瞬間に、大駒、とくに飛車をぶった切って一気に寄せるのが大好きなので、「爆死」することが多いのですが。

 いまさら囲碁という感じもするのですが、まず正座がつらい。血栓性静脈炎なんてかかってしまうと、正座は無理です。もちろん、アマチュアなのでイスでも構わないのですが、囲碁の場合はプロがイスに座っているので気が楽です。てな訳で老後の楽しみとして両方、楽しめたらけっこういいかもという本当に「寝言」ですらない理由で囲碁の勉強をしております。「コミ」とか本当に初歩からわかりやすい囲碁の本がありましたら、ご教示いただけると、幸いです。

 囲碁は、英単語を覚えているレベルなので、プロの棋戦を見ても、いきなり本を一冊、読んでいる気分になるので、ちと厳しいものがあります。「布石」も覚える状態で意味はよくわからない。というわけで将棋の喩えになりますが、だいたい、(1)駒の損得、(2)駒の利き、(3)玉の堅さや攻撃の構えなどの「形」、(4)スピードなどが主な判断材料になります。ここ数年、指していないのですが、私は平凡でありまして、序盤から中盤あたりは無意味な駒損を避けながら、駒をはたらかせて、形を整えてゆき、中盤から終盤はスピードが最優先です。ここ数年、見ているばかりで指していないのですが、こんな感じでしょうか。

 囲碁を打つ人に言わせると、「将棋の方が難しい」となりますが、どちらも弱い人間からすると、あまり変わらないように思います。局面局面ごとになにが大切でなにがどうでもいいのかを見極める力量が大きいように思います。そんなの将棋や囲碁に限らないじゃないかとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。そのとおりです。この「寝言」では、軽重判断を整合的に行う能力があり、行動できる人が大人であるためことにおいて不可欠の条件のひとつだということが結論です。軽重判断を整合的にお超えるようになるには、失敗が不可欠です。これは若い人の特権でしょう。

 それでは軽重判断ができるようになれば、それでよいのか。軽重判断にも個性があります。この点に関しては、明日の記事で触れますが、分権的な社会は、このような多様な軽重判断、あるいは選好を積極的に評価する社会です。整合的であれば、選好には善悪も真偽もない。将棋や囲碁は勝敗という点でよりよい選好という判断は可能なのでしょう。他方で、政治や外交・安全保障、経済などの分野では巧拙が問題なのであって、あるアクターの選択が適切であったのかを判断するのには膨大な時間と労力が必要になります。これらの評価が完全になるのを待って次の選択に移る余裕などないのが現実でしょう。だからこそ、分権的な社会では異なる価値観を共有する「常識」が不可欠になるのでしょう。常識というのは、私たちを正しい判断に導く便利な「マニュアル」ではなく、分権的な社会が個の多様性を保障しながら、社会全体として妥当な選択を行うための半ば自覚的な、半ば無自覚的な営みのプロセスであるというのが、今日の「寝言」です。

続きを読む
posted by Hache at 01:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言