2007年01月18日

「三顧の礼」に敗れた経済学

 トラックバックの削除をしたつもりが、記事をまるまる削除していたようです。途中までテキストエディタで書いていたのですが、リンクが多いので、管理画面に直接入力していたため、復旧中です。なんでこんな過疎ブログにトラバをむやみに送ってくるのか理解しがたいのですが、テキストエディタに残っている部分から、再現中です。欠いていたときの勢いがなくなっているので、うまくゆきますかどうか。作業が終わり次第、記事を再掲します。

 とりあえず、テキストエディタに残っていた記事の断片を元に復元してみました。当初の記事のログがないので、中身が微妙に変わっているかもしれません。忙しいときに、余計なことをするものではないことをしみじみ感じますね。

 梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社 2006年)を読みながら、最後にきて思わず考え込んでしまいました。考え込んでしまった話の前にちょっとだけ寄り道、もとい感想を。本自体は楽しんで読めます。「利益を追求する欲望は悪ではない。しかし、利益を追求する欲望の存在を無視することは悪である」(77頁)。このあたりの冷徹さは、私も非常に共感しますねえ。実は、この本をネタに分権的社会に関して再論する予定でしたが、気分が変わりました(「気分」の問題については、こちらをどうぞ)。年金問題では運用のことについてばっさり無視した議論をされているのは違和感が残りますが。考え込んでしまったのは、最後の二つの章、第27章「三顧の礼」と第28章「泣いて馬謖を斬る」です。27章は、「長期的関係とインセンティブ」を論じていて、この故事を離れて成果主義と「愛社心」のような長期的な信頼関係を論じていて、これだけを考えても面白いでしょう。はたと考え込んでしまったのは前述の問題そのものではなく、冷徹な梶井先生(本の中では引越し屋の困らせ方などなかなか実用的で感心しました)をして次のような文章を書かしむる劉備と諸葛孔明の関係です。

 諸葛亮は報酬なしに流浪の武将に尽くす気になったのではない。劉備は、諸葛亮の理想と願望にこたえるだけの大きなビジョンを示し、最高の処遇をもって報いると熱心に語ったのである。そのような長期にわたる成果報酬が約束されてこそ、人は意気に感じて働くのではないだろうか(274頁)。

 諸葛孔明に関しては、こんなひどいことを書いておられる方もいらっしゃいますが(つい共感してしまうこと自体は否定しませんけれど)、彼の美学そのものを否定する方は少ない。敢えて言えば、上で引用した文章は、否定的な意味はないのですが、ごくありふれた評でしょう。梶井先生をからかおうというわけではなく、諸葛孔明という「高士」を描こうとすると、よほどの手練でない限り、ある種の「野暮」が避けられません。岡崎先生の手にかかると、こんな具合で比較すること自体が野暮なのかもしれません。博報堂時代の岡崎研究所には岡崎先生自身の手による「出師の表」が掲げられていて、思わず懐かしくて読み下し文にして音読してしまった覚えがあります。私が好きな一節は「任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(受任於敗軍之際、奉命於危難之間)」です。

 さて第28章は「泣いて馬謖を斬る――疑わしきは罰すべきか」。この結論部分が、見事にかんべえさんと一致していたので、思わず考え込んでしまいました。本書の読み方としては邪道ですが、経済学を離れてある「高士」を描こうとすると、そこに映るのは、書き手自身であることを感じます。

 孔明の死後、蜀はみるみる衰えた。泣いて馬謖を斬ったことで蜀軍の規律は守られたが、兵士はかえって萎縮してしまったのかもしれない(283頁)。

 かんべえさんは、ほとんど同じことを書きながら、「戦略家としては一流ではない。だって結果を残せなかったんだもの。でも彼は忠臣で、男の美学を貫いたわけだ」と結んでいます。諸葛孔明のような「高士」に接して、迷いがあるのがひとかどの人物でしょう。「人物」が「高士」を語るとき、迷いが生じる。「高士」が「高士」を描くときには、水墨画のように「高士」の事績をもって語らせる。経済学から遠く離れてしまいましたが、人間性に拝跪することがすべての出発点であり、終着点なのかもしれません。経済学といい、政治学といい、失礼ながら、すべては「後知恵」でしょうが、人間という動かしがたい何かの前で謙虚になれるのならば、「役に立つ」かどうかは別として、人間というどうにもならないものへの接し方に深みがでるための補助線というのが今日の「寝言」です。およそ人間を対象とする学ならば、自然科学者が自然を愛するように、人間を愛することが原点なのかもしれません。
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posted by Hache at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言