2007年02月18日

逃げる命の賢者 追う時の賢者

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:……はっ?なぜか、今週もここに来てしまった。この忙しいのに……。あるじが寝ているうちに……。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:……。おぬし、わざとか?
ハッシュ:わざと?
ボッシュ:……。不覚じゃ。ワシはもう帰る。
ハッシュ:おやおや、なにやら、せわしないなあ。あのデブからリクエストがあるぞ。
ボッシュ:……。なんでこういうときに限ってこんな展開になるんじゃ。
ハッシュ:おぬしがワシたちの会話をボツにして怒ったから、ブログに載せやすいようにお題をだしているようじゃ。
ボッシュ:……。余計なことばかり覚えているのお。もう、忘れてもらってもいいんじゃが。ところで、あのデブのリクエストとはいったいなんじゃ?さっさと済ませて帰るぞ。
ハッシュ:ええとじゃな。そうじゃ、なんでも「じつりょくしゅぎ」、「せいかしゅぎ」が望ましいかどうかだったかな。
ボッシュ:先にお題を聞いておけばよかったな。簡単な話ではないか。要するに、実力主義、成果主義が徹底すれば、あのデブは食えなくなる。言い換えるなら、実力主義や成果主義が徹底していない、ぬるい競争状態だからあのデブは食えるというわけじゃ。したがって、あのデブの立場からすると、徹底して競争に反対するべきじゃな。あのデブが自分の分際をわきまえているなら、競争の促進を目的とした改革には断固として「抵抗勢力」になるべきじゃ。以上で終わり。
ハッシュ:と命の賢者様がお答えになるでしょうから、そこで質問です。なぜ放っておいても、競争が浸透しないのでしょうか。あるいは、政府がよけいなことをせずに放っておけば浸透するのでしょうか。以上があのデブからのメッセージじゃ。
ボッシュ:……。おぬし、あのデブからなにかもらっておらぬだろうな?
ハッシュ:言いにくいが、おぬしが来る前にあのデブの記憶をたどっておったら、なにやらこんなことを考えていたようじゃ。どうせ、命の賢者様はこう答えるでしょ、とな。……言いにくいが、おぬし、あのデブに見切られているようだな。
ボッシュ:……。ショ、ショックじゃ。あのデブごときがワシの思考を先読みするとは。ただでさえ、忙しくてたまらんのに、こんな目にあうとは……。なんだか気が遠くなりそうじゃ。そろそろ……。
ハッシュ:ちょい待ち!さっきの話はどうなるんじゃ?ワシにはさっぱりなんじゃが。
ボッシュ:おぬしまでワシを殺す気か?競争などなるようになるから、どうでもいいわ!ワシ自身が競争の只中におるんじゃ!ワシは帰って寝る!!真面目な話、明日も忙しいんじゃ。はあ。
ハッシュ:おやまあ、気が荒れておるようじゃな。なんだか気の毒じゃが。また、おいで。あのデブにとりあえず伝言するしかないのお。

 ……ありゃま、冗談で考えておりましたが、まさかの展開。私が先読みをしたわけではなく、時の賢者様が上手に私の思考を利用したら、変な話になってしまいました。まいったなあ。ずばり格差の話をしていただいた方がよかったですね。それにしても、こんな話を「伝言」されても……。

 それにしても、こんな記事を書いた本人としては現在まで格差論が引っ張られるとは思いませんでした。もっと困惑するのは、傲慢な表現との非難を覚悟の上で申し上げるならば、格差論は半年では消えませんでしたが、当時書いた内容を修正する必要を感じないことです。当時と比較すると、統計データによる所得格差の拡大など当時のような抽象的な議論よりは前進したように見えますが、けっきょく誰と誰の格差なのかがわからない。しかも出てくる「処方箋」の多くが、市場における競争を無視したものばかりで、絶句します。まあ、命の賢者様のおっしゃるように「競争などなるようにはなる」んでしょうけど。

 「人間の欲望は無限だが、欲望の対象は有限である」というと、中高年は欲しいモノはひとそろいもっているから買いたいものがないとか突っ込まれるのですが、競争が生じる前提が崩れていないのは、競争が存在すること自体でほとんど自明だと思います。別に「市場」や「競争」は経済学者の占有物ではないと思うのですが、なぜか歴史で手を変え品を変え繰り返し問題になってくることが基本的には同じことだということがわからないのか不思議だったりします。切支丹でもないのに、「日の下には新しいものは一つもない」と思わず「寝言」を呟く自分に茫然としますね。 

2007年02月17日

長持ちセーター

 お世辞にもおしゃれとは言えない私が、「このセーター、いいですねえ」などと若い女性にほめられると、ちょっとだけ嬉しかったりします。私本人にはこないのは、なかなか知性が高いとも感心しますが(自爆しすぎか)。ふと気がつくと、このセーターは今年で15周年でいろんなときに重宝しています。今年だと、土日でこのセーターにジャケットで暑いぐらい。白の手編み風のセーター(Paul Smithは好きではないのですが、このセーターだけは別)で当時3万円ぐらいしました。買うときにさすがに躊躇しましたが、気に入ってしまうと、つい財布の紐が緩くなってしまって、買ってしまいました。気がつくと、このセーターに合わせて買ったジャケットやパンツは二代目に入っていますが、このセーターだけは現役。ただ、そろそろ傷みも目立ってきているので大事に着てゆかないと、困った事態になりそうではありますが。

 もうあまり話題にならなくなりましたが、ユニクロがメディアでとり上げられている時期に一度だけ店内を見て回りましたが、どうも買いたいと思うものがない。普段着るものに、気に入りさえすれば、金を惜しまないタイプなのですが、どうも縁がなかった覚えがあります。しみじみ世間とずれていることを実感しました。どうも金銭感覚が変で、モノにもよりますが、頻度が高いものほど高いものを買って、滅多に使わないものにはあまりお金をかけないという使い方で、周囲では信じられんと言われてしまいます。まあ、確かにずれているなあとは思います。ただ、結局、使う機会が多いものほど高いものを買っておくと、平均的には安く済んでいるような実感があって、変わりそうにないですね。例外は家電製品で、余計な機能がついていない安物を長く使う変な趣味があります。

 それにしても、かんべえさんの情報力は驚いてしまう。CSISのHPを見ても、"The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020"は見つかりませんでした。どうやってこんなものを入手できるんだろうと驚いてしまいました(単に私が抜けているだけかもしれませんが)。まだ、ざっくりとしか見ていませんが、前回のINSSレポートと比較すると、分量が多いだけでなく、アジア情勢全般の分析から日米同盟を位置づけていて、じっくり読まなくては。数式ばかり見ていると、やはり数学のセンスに関しても絶望的な私はかなり疲れてしまうので、数学に使う時間を減らしますか。

 それにしても、代わりになるセーターが見当たらないので、大切にしないと。政治的態度はブログから読者の方が受けるほど実は保守的ではないと自分では思っておりますが、生活態度は極めて保守的だなあと思ったりします。三原淳雄さんの「言いたい放題」を拝読しながら、デイトレは無理と再確認しました。

(追記)
 就寝時間の関係で投稿日時を「ロンダリング」しております。この記事は、2007年2月16日23時31分に配信しましたが、投稿日時を2月17日0時2分に変更しております。
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2007年02月16日

先生の受難

 「先生」と呼ばれる方たちの「受難の日々」が続くようです。前に書いた法科大学院。担当している先生を見ていると、数年前より顔が疲れている。失礼ながら、こちらもあちらも年相応に老けてきただけかもしれませんが、「夏休み」に補講を連発して研究している余裕がなくなってきているようです。ただ、間違っても公の場では口にできない。教育が忙しいから、研究ができないとなるとプロ失格なので、言えない訳ですが、一昔前の司法試験予備校以上に「労働環境」が悪い(予備校の悪口を散々言っていたら、自分がやる羽目になりましたと自嘲気味)。なにしろ相手は朝8時から夜10時過ぎまで勉強ばかりして質問をぶつけてくるので、適当にあやすことが難しいようです。私にはわからない部分がありますが、法学の発想を身につけるまでは、頓珍漢な発想をしてしまうようで、くたくたになってしまうようです。まあ、私みたいなのが相手だと過労死するだろうなと思いますね。前にも書きましたが、社会人の方が筋がいいというのはこういってはなんですが、笑えます。別の分野では全く正反対の評価を聞きましたので。

 医療機関も大変。こちらの勤務条件の悪さは法科大学院の比ではないようです(表現は悪いですが、マッチとポンプの関係?)。話を伺っていたら、産科・小児科を維持するのは都市部ではもはや無理かなと思います。ちょっとした事故でもバンバン訴訟が起きてしまう。それにしても、分娩の際に頭を打ってしまうと(このあたりは専門的な知見がゼロなので表現が不適切かもしれませんが)、癲癇や障害が残ったりすると聞いて、ゾッとします。私の頭が悪いのは、分娩の際に・・・などと不届きなことを考えてしまいます。医師の裁量がどんどん制約されて正月もなく、ひたすら「24時間営業」、それも肉体的・精神的に常に充実した状態でいないとダメとなると、「超人」に近い状態ですね。せめてリスクに見合った報酬をとなるのですが、もうそんな話では若い人は志望しない状態になっているようです。患者の側の医療に対する要求水準は上がっていても、それをサポートする体制が数十年にわたって削られてくると、再生など容易ではないようです。さすがに医者の立場からは言えないようですが、患者が自己管理すべきところまで医師へ責任転嫁する風潮になってきて、どうにもなりませんな。

 おまけ扱いで申し訳ないのですが、信用できないのが「議員特権」を廃止しろとおっしゃる「先生方」。こういう意見はごく少数でしょうが、「先生」と呼ばれる方たちから特権を奪ってゆくと、あるレベルで職責がまっとうできなくなってしまう。社会環境の変化で本当に不要になった特権は手放していただいてもかまわないのですが、それで仕事ができるんかいなと思ってしまう。戦前と戦後で最も地位を落としてしまったのが軍人ですが、その結果が今日の有り様と思うと、ゾッとします。分権的社会への信頼は変わらないのですが、変化を適切な速度に落とす分権的社会外の制度がないと分権的社会は崩壊してしまうのではないかという「寝言」が浮かんでしまいま本業では寿命が許せば、もう少し年を食ってから考えたいのですが、このあたりはトクヴィルの『旧体制と大革命』を読んだあたりから、ずっと喉の奥にしまっています。

 それにしても「中庸」というのはつくづく難しい。雪斎先生が引用されている「「お前がこの国に生れた以上は、国家を愛するに決まっている。が、お前の考えるように考えなくても、この国を愛する者が沢山いることだけは認めるようになってくれ」などというのは、とても共感するのですが、このような方が世論の多数を占めるのは本当に難しい。嘆いてもしかたがないのでしょうが、とりあえずは、理科系の大学2年生あたりが行う微分方程式論を基礎から勉強しなおす日々が続きます。 
posted by Hache at 07:17| Comment(2) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2007年02月15日

ディベートの「効用」?

 この連休中は「インフレファイター」を通り越して、読者の方々の「耐性」を試すような記事を連投して申し訳ありませんでした。本業の方でじっくり構える余裕がでると、かえって迷いが生じます。いろいろ迷いましたが、「あぶない」方にゆくことにしました。もうちょっと才能があったら、もっと「ヤバイ」道を選びたいのですが、これはないものねだり。些細なことでも、みんなが「当たり前」と思っている話を「ここをごにょごにょしてこうすると、そうでもないでしょ?」というぐらいでも風当たりがきついので、さすがに迷います。あんまり気が進まないのですが、まあ「保険」もかけておこうかなという感じ。業界も世知辛くなって、「成果」があったことにしないと(間違っても、某番組のような「捏造」ではないのですが。あんまりおもしろくないけれど、一応、こんな結果がでましたという程度)、放り出されてしまうのでやむをえないでしょうか。

 『三原淳雄の言いたい放題』は、ときどきハッとさせられることがあって刺激的なのですが、「ディベートの効用」は、つい考え込んでしまいます。ディベート教育の必要性を主張する方も少なくないですし、私自身も共感する部分があります。ただ、大学でそのような教育を受けた学生がかならずしも、そのような教育を受けていない学生に比べて論理的思考でまさっているのかといえば、これはあくまで私の印象にすぎませんが、あまりそのように思えないです。むしろ、ディベート以前の教育が不足しているため、現状でディベート教育に力を入れてしまうと、逆効果になる部分が大きいと懸念しております。三原淳雄さんの論旨自体は共感するのですが。

 コラムの批判をしたいわけではないのですが、「日本人は学ぶことに関しては多分世界一だろう」という部分には若干の違和感があります。「学ぶこと」をどう捉えるかなのですが、与えられたタスクをこなすということに関しては、「学力低下」が進んでいるとはいえ、たしかに日本人の「学力」は捨てたものではないのかもしれません。しかし、自らテーマを設定し、そのテーマを論じるにはどのような論点について考える必要があるのか、論じるための材料が十分にあるのかなど、自ら学びとるという意味での「学力」は、私自身がそのような教育を受けていないのではありますが、非常に危機的な状況にあります。もともと、このような教育が行われていないので、今の若い世代が特別ひどいというわけでもないと思います。これは論拠が薄弱なのですが、会社勤務に要求される知的水準が上昇するのに比べると、自ら問題を提起する能力とのギャップが拡大している印象があります。さらに、憶測を重ねると、20年前ぐらいまでは社内教育で大学を含む学校教育ではまるで手がついていなかった部分を新卒者に施す余裕があったのではないかと思います。今では、そのような余裕のある会社が激減し、新卒者の離職率がなかなか低下しないように思います。

 今、手元にないので出典がわからないのですが、塩野七生さんがエッセイの中でイタリアの大学入試の問題を紹介されていて、水準の高さに驚きました。歴史は地理などの教養はもちろん、論理的思考全般を問う問題ばかりで採点する側もこれは大変だろうなあと思いました。塩野さんに限らず、海外在住の日本人の方々はどうしても祖国に辛くなりがちなのですが、これには彼我の差を感じました。ディベートの効用を否定するわけではないのですが、基礎的な学力が未熟なまま、議論だけを覚えると、ネットの一部のような状態になります。

 「習うより慣れろ」とはいえ、このような基礎学力は一朝一夕で身につくものではありません。私は「詰め込み教育」そのものは有益な部分があると思いますが、国語その他で考えること、それを表現する基本がしっかり教育されないと、いつまでも同じことを繰り返すだけだと思います。コミュニーケーションのベースには、自分の意見を的確に述べる能力が不可欠であり、そのためには事実を正確に認識した上で適切な軽重判断を行う能力が前提になるでしょう。このような教育は国語教育では極端に疎かにされてきたと思います。さらに、自分でえた結論が、どの点で論拠が弱いのかなど客観的に評価する能力も大切です。従来の国語教育では、あまりに「情操教育」が偏重されてきたのではないでしょうか。

 実は、今日は「寝言」というより、「繰言」でありまして、私が小学生低学年時代に遠足の感想文を書くといつも「事実ばかり書いてあって君の想いが伝わってこない」と言われた「ルサンチマン」をくどくどとぶちまけております。どこそこから何mほど歩くと、これこれという花が咲いていてこれは何科の植物でもう少し後になると花を咲かせるとかそんなことばかり書いていたからしかたがないのでしょうが。「『想い』を書け」というので、つまらん「お遊戯」みたいなことはガキ臭いからやめてくれとの趣旨のことを書いたら、ど叱られました。まあ、そんなこんなで現在の「教育改革」でよくなるとは思えないのですが、免許更新などくだらない仕事がさらに上積みされて学校の先生が困る姿が目に浮かんで(以下略)。
posted by Hache at 01:30| Comment(3) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2007年02月14日

ルサンチマン

 昔、「君のルサンチマンは何?」と尋ねられて、理解ができませんでした。こういうことを尋ねてくる方とはどうもウマが合わなくて、ご自身の怨恨感情で行動しているから、お前もそうだろといわれても、どこか白けてしまいます。このタイプの方は妙に上昇志向が強くて、しかも他人を幸せにすることがほとんどなく、関わりたくないなあと思ったりします。奇妙な「明るさ」とセットだったりするので、なおさらテンションについてゆけない。見たことはないのですが、どうせ心の中は闇なんだろうなあと思います。仕事でやむなくお付き合いをするときには、バカなところだけあわせて心の中では「人生いろいろ」と思ったりします。率直にいってルサンチマンはわからないです。露骨に言ってしまうと、あなたが人生を棒に振るのは勝手だけれど、私を巻き込まないでねというところでしょうか。

 もっと困惑したのが、「コンプレックスがないでしょ?」というお尋ね。ないわけじゃないですよ。頭が悪い、性格が悪い、もてない、デブである、などなど。「でも、真剣に悩んでいないでしょ?」と言われてしまうと、否定できない悲しさがあります。悩みの一つぐらいもたなくては、人生に重みがでてきません。体重は、重力を感じる程度には重いのですが。ちょっとは「不幸」がないと、この年齢では軽く見られるので、バレンタインデーで本命がもらえそうにないことで落ち込むことにいたしますか。

 そんな私でも底意地が悪いところがあって、「頭じゃわかるけど、行動となると…」などとおっしゃっている方を見ると、微苦笑を禁じえません。それってわかっていないってことですけどとは間違っても漏らさないのですが。変に書物が増え、考えることと行動することが分離してしまって、「わかる」ということを「わかる」体験をした人がどんどん減っている、そんな「寝言」がつい浮かびます。 
posted by Hache at 02:46| Comment(7) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2007年02月13日

時の最果てと「時の最果て」

 ブログなるものを始めてから、1年が経過しました。そういえば、アクセスカウンターが9万を超えました。正直なところ、あまり感慨もなく、よく1年も続いたなと思うのですが、これでは過疎ブログとはいえ、読者の方々にあまりに失礼な話であります。ご愛顧いただいている方には、心より感謝の念を申し上げます。

 このブログのメインは、「ある敗戦国の幸福な衰退史」というテーマです。どうも最近は「なまもの」について書きすぎていて、自分らしくないなあと思いますが、戦後のこの国の歩みを「戦後史」そのものについて書くのではなくて、近代以降のフランスやドイツ、ロシアなど、私が大日本帝国の興亡と重なってくる話をしながら、言ってみれば、戦後の歩みそのものを「解剖」するのではなく、外側から石膏で固めてみたら、どんな姿が映しだされるのだろうという関心が出発点です。

 この作業は、同時にある政治的主張も含んでいます。すなわち、集団的自衛権の行使を認めて日米同盟の双務性を高めよということにつきます。もちろん、アメリカ以外の国々とともに武力行使に参加することも考えておく必要があります。ただし、「個別的」であろうが、「集団的」であろうが、自衛権に関していらざる留保をやめることが、この国の安全にとって寄与するだあろうということが、この主張の前提になっています。とるに足らない議論ですが、アメリカへの「引け目」やアメリカの「お先棒」を担ぐという話は、自国の安全にとって集団的自衛権の行使が可能である状態にすることが損なのか得なのかという計算を度外視しているように思います。露骨に言えば、日米同盟の双務性を高めるのは、この国のためであってアメリカのためではないということです。同盟の場合、微妙な利害対立の調整はあるのでしょうが、自国の安全を守るための手段を確実にすることが、パートナーの選択肢を広げ、結果的により自国の安全が高まるというだけの話です。他方で、このような議論は、論壇はよくわかりませんが、最近ではほとんど政治的には無視できる程度の話になってきました。安倍総理は、幹事長時代に集団的自衛権に関する踏み込んだ発言をしましたが、問題発言としてマスメディアで取り上げられることはなかったと記憶しております。

 それでは安倍政権になって集団的自衛権に関する政策的プロセスは前進したのかといえば、現時点では目に見える成果はありません。私自身は、内閣法制局をどのように扱うのかが焦点だと考えております。集団的自衛権に関しては様々な卓見が示されていますが、実際に解釈をまともにするためには、内閣法制局が解釈を変えなくてはなりません。国会や論壇でもすぐれた見識が示されていますが、最後は泥臭い作業をどのように上手に演出するのかが問題でしょう。集団的自衛権の行使に関して「党派的」な意見を書いている割に具体的な話が少ないのは、もはや政治的な巧拙の問題であって、それが決着すれば、あとはこの問題をどのように国民に死活の問題としてプリゼントするかの問題であると考えているからです。麻生外相の「新たな安全保障環境における日本とNATO」演説でも、この点は従来の政府見解を踏襲しています。他方で、麻生外相の演説ではどこかの段階で「オペレーショナルな面においてもどのような協力が可能かを見つけるであろう」と述べられています。これは、安倍政権の「ボトムアップ・アプローチ」――まず、やれることかやりましょう――を代表していると考えます。集団的自衛権に関する議論が深まることは歓迎しますが、その解釈の変更、そして変更した後の運用は、巧拙の問題であって、「国家像」は事前にではなく、そのような営みの結果として生まれてくることは、けっして忘れてはならないことだと考えます。極論すれば、政治というのは、この問題に限らず、その場、その場の臨機応変の対応であって、同時に後からよいものを継続する作業が不可欠なのだと思います。

 このブログを始めた当初、集団的自衛権の行使に関する解釈がまともになれば、この国も安泰だという楽観的な見通しをもっておりました。いまでも、そのような考えに変化はありません。「ある敗戦国の衰退史」にはもう一つの通奏低音があります。それは、「民主主義は失敗する」ということです。仮に集団的自衛権の行使が可能になったとしても、それは主として抑止力として機能するでしょう。最も、楽観的な見通しは、日米同盟が日英同盟なみになって、アメリカ中心の国際秩序を武力でもって転覆しようとする国が出現しないことです。しかし、一寸先は闇です。アメリカは「善意の国」であり、今後、「民主主義の失敗」を経験するかもしれません。アメリカが古典的な帝国であれば、現在のような状況にはなっていなかったでしょう。このことを嘆くのはたやすいことです。問題は、この国の「民主主義の失敗」です。もし、アメリカが「失敗」して実際に自衛権を行使する段階で果たしてこの国が「失敗」しない保証はありません。この国が失敗しても、アメリカは苦しいけれども、滅びることはないでしょう。対照的に、この国は滅びる確率が高いでしょう。戦後の歩みから考えれば、「作為」による失敗よりも、「不作為」による失敗の方が危険だと考えます。他の政体と同じように、民主主義も失敗する。このことを前提にして、この国の民主主義が失敗したときにも、滅びる確率を最小限に食いとどめるにはどうしたらよいのかを考えることが、「ある敗戦国の幸福な衰退史」で考えてみたい伏線になっています。

 このテーマについて考え始めたのは、この国に生まれ、なに不自由のない生活を送っていることに感謝していることが出発点です。他方で、私は「考える」という「狂気」にとりつかれた人間です。この国は、小さな島国にすぎません。そんな島国が生き残りをかけてどのような努力をするのか。それは私自身の生存にも直結する問題ではあるのですが、突き放して「考える」対象としたいという欲求があります。この国の安全を心から望む「時の最果て」の「寝言」と述べることと民主主義の失敗と復元力を他人事のように考える時の最果ての寝言が渾然としているのが、このブログのスタンスです。

 上記の変な文章を読んで理解できる者は、私ぐらいでしょう。こんなものをウェブで公開することには、いくら時の賢者様が「半キチ」と呼ぶ私でも、恥ずかしさがあります。奇特な方に「寝言」とおつきあいしていただければ、幸いです。連休明けにこんな長くてつまらない記事を最後までお読み頂いた方々にお約束を捧げます。

ここは「時の最果て」。すべては「寝言」。

おやすみなさい。
posted by Hache at 06:19| ごあいさつ

2007年02月12日

ハッシュとボッシュとHache(続き)

(@時の最果て)

ボッシュ:ふう、なんとか終わったわい。話しの続きをするか。おい、そろそろ…。
ハッシュ:とっくに起きておるよ。
ボッシュ:…。珍しい…。なにか禍々しいことの前触れでなければよいが。
ハッシュ:おぬしが騒ぐから、あのデブの記憶から暦をたどってみた。正確にはわからないが、どうも西暦1997年じゃな。あのデブが時の最果てにやってきたのは。
ボッシュ:…。ぴったり10年前か?
ハッシュ:2月だったかどうかまではわからぬ。あと、あのデブの脳みそはどうもできが悪いゆえ、記憶があやふやなんじゃ。
ボッシュ:それはやむをえまい。しかし、10年前というのはそんな大事があったようには思えぬのじゃが。ちょっと待てよ。銀行や証券会社が潰れたのがこの時期だったかな。しかし、テロや戦争ですら、関係がないとすると、なんであのデブはここに来たんじゃ?
ハッシュ:ここにやってくる客人は、あのデブを除くと、ほとんどがやむをぬ事情で時空の歪みに吸い寄せられておる。ワシの知りうる限り、あのデブが唯一じゃな。最初から自分でここにやってきたというのは。
ボッシュ:あのデブは時の最果てにきたくてやってきたというのか?
ハッシュ:説明が面倒なんじゃが、おぬし、それでも聞きたいのかね?
ボッシュ:…。よけいなことを口にしてしまったようじゃが、ここまで来れば、「毒を食らわば皿まで」というところじゃな。
ハッシュ:ワシも、あんな変な奴のことを説明したいわけではないんじゃが。まず、あのデブは、この時期、気が狂っていた。
ボッシュ:…。おい、いきなりおっかないじゃないか。まさか、刃物を…。
ハッシュ:おぬしが考えているタイプとはちょっと違うな。なんというのか、もっと大人しい話じゃ。というか、悪い頭を使いすぎると、どうなるかという話なんじゃが。
ボッシュ:…。おぬし、虫の居所でも悪いのか?ずいぶん、きつい表現じゃが?
ハッシュ:そうかなあ。ありのままに言っただけじゃが。まあ、ガッシュと同じ「病」じゃな。ただ、ガッシュの方が話が込み入っていて、あのデブはもっと単純じゃ。
ボッシュ:ガッシュと同じ「病」?
ハッシュ:あのデブは頭が悪いゆえ、その思考をそのままたどってもあまり意味がないゆえ、ワシが整理するとじゃな、要は、「世の中をよくしたい」というのがあのデブの出発点で、ふと、あるとき「世の中をよくしたいと考えるときの「世の中」とは何かを考え出したら、気が狂ったというわけじゃ。
ボッシュ:あのデブは、世の中の心配をするより、自分の体重や預金通帳の残高の心配をした方がよいと思うんじゃが。貯めるべきは貯め、捨てるべきは捨てるものじゃ。
ハッシュ:…。それはそれでごもっともなんじゃが、話がそれるゆえ、別の機会にしよう。「世の中って何?」というだけだったら、まだ、大丈夫なんじゃ。ここが、あのデブの頭の悪いところなんじゃが、ふとこういう問いを発している自分の客観性を保証するものはなんなのかということを考えてしまった。ワシは、世の中のことには疎いゆえ、よくわからないことが多いんじゃが、こんなのはみんなどこかで喉の奥にしまってとぼけておる話なんじゃが、頭が悪いというのは実におそろしい。とぼけているところを真っ向から突撃して帰らぬ人になりかけたというわけじゃ。
ボッシュ:…。ワシにはまったくわからんのじゃが。いや、おぬしの話には難しい言葉がほとんどない。だが、何を言っているのか、ワシにはまるで見当がつかぬ。
ハッシュ:実を言うと、ワシもあまりわかりたくない話じゃな。あのデブの考えなど。ただ、「世の中」について考えている自分が「世の中」について確かなことを考えることができることを保証していることはなんだろうと考えると、気の一つも変になる。利巧な人なら、これはまずいなと思ってそれはそれとして、話の立て方を工夫するものじゃ。バカほど怖いものはない。あのデブは、とぼけておけばよいところを一直線に踏み込んでいって気が狂ったわけじゃ。
ボッシュ:…。二度、説明を聞いてもワシにはさっぱりわからぬ。要するに、あのデブは「世の中」のことを思いつめすぎて、気が狂ったということか?
ハッシュ:まあ、そんなところじゃ。
ボッシュ:しかし、狂気にしては、ブログで書いていることは、まあ、本当につまらんことばかりじゃが、狂っているようには見えぬ。まあ、何を言っているのかようわからんことも多いし、論理的に詰めが甘いのお。ただ、狂気には見えぬのじゃが。
ハッシュ:そこなんだなあ。あのデブの限界は。頭がいいと、あの世界に入ってしまうと、帰ってこれないのじゃが、あのデブは頭が悪いゆえ、帰ってくることができた。事情はもう少し複雑なようじゃが、狂気の世界から、「お前は才能がない!」と言われて追放されたような話じゃ。
ボッシュ:…。ワシの想像を絶するが、「狂気の世界」とやらにも、「才能」があるのか?
ハッシュ:ここからはワシにもわからぬことだらけなんじゃが、今、話をしている「狂気」というのは、誰かを殺そうとか、自殺したいとか、そういう話と全く関係がないわけでもないんじゃが、ちと違う。ある普遍的な問題を考えてゆくうちに、自分が自分でなくなって対象そのものになってしまうという話じゃ。あのデブは、根本を考えようとした。これは、あのデブにしては、できすぎじゃ。しかし、ある一線を越えると、あやういんじゃ。あのデブは、とろいがゆえに、越えてしまった。しかし、所詮、才能がないゆえに、狂気の世界に留まることができなかった。その狂気の絶頂のときにワシのところに現れたんじゃ。
ボッシュ:…。言いにくいんじゃが、時の最果てとは狂ったものだけが来ることができるのか?そうすると、ワシも…。
ハッシュ:フフ。安心せい。あのデブぐらいじゃ。気が変になってやってきたのは。あのデブの記憶によると、数学者や哲学者、文学者なども、その才能ゆえに自ら追いつめすぎてしまうことがあるようじゃ。しかし、ワシのところには現れぬ。おそらくじゃが、彼らは才能ゆえに、対象と自我の区別がなくなってしまって、ここに来ることなどありえないのだろう。しかるに、あのデブは、才能がないゆえに、狂気の世界に入っても、自信がなかったんじゃ。狂気の世界に迷いはない。なぜなら、自我と他者の区別すらなくなってしまう。あのデブは煩悩の塊ゆえ、狂気の世界でやってゆけるほどの才能がなかったんじゃろ。
ボッシュ:…。ワシにはわけがわからぬが。とりあえず、あのデブは正気に戻ったというわけじゃな?
ハッシュ:これが、中途半端な者の悩みじゃ。そうとも言えぬ。このあたりは、あのデブ自身に語ってもらった方がよさそうじゃが。
ボッシュ:しかし、ただのデブかと思っていたが、つくづく変なデブじゃな。あんなのに名乗りを許しておいてよいのか?
ハッシュ:時の最果てとは無関係ゆえ、ノープロブレムじゃ。それに、もうあのデブもここにやってくる体力はなかろう。
ボッシュ:…。なぜ、ワシは自由に行き来できるんじゃ?
ハッシュ:おぬしは、別に気が狂ってきたわけではないし、狂ったからといって、ここにくるわけでもない。ただ、あのデブには釘を刺しておいた。二度とここに来てはならぬとな。そのかわり、物狂いになりそうになったら、ワシの名を使って別の自分になってもよいと言っておいた。名乗りを許したゆえ、もう少し上等なことを考えてもらいたいものじゃが、もともと期待しておらぬゆえ、まあ、こんなところじゃろ。
ボッシュ:おぬしも、心が広いというか、アバウトというか、よくわからないが。なんだか、ぐったりしたのお。そろそろお暇じゃ。
ハッシュ:そうじゃな。ワシもつまらない話をしたので疲れた。また、おいで。

 あれが10年前ですか。少しだけ懐かしいです。実は、私自身がいつ時の最果てに行ったのかは、まったく覚えていないのですが。なんだか、頭がもぞもぞすると思っていたら、時の賢者様のせいでしょうか。

 昔から考えること自体が好きでした。対照的に学校の勉強は嫌いではありませんでしたが、あまり好きではありませんでした。「答え」がありそうでなさそうなことを考えるのが楽しくて、「答え」があるとわかっている問題を考えるのは、ちょっと興ざめでした。歴史なんて、「答え」がありそうでなさそうな「問題」の宝庫です。学校の教科書には書いていないことを考えてゆくうちに、あるとき全体が見えた気がして自分の考えをまとめようとしてゆくと、ふとした瞬間に瓦解する。一からやり直しです。バカバカしいと感じた方は正常でありまして、母上などは私の性癖を生理的に嫌っていました。

 20代半ばでしょうか、瓦解した断片を拾ってゆくうちに、一つのアイディアが生まれてまとまったことがあります。とことん欲張りな私は、もう一回、それを自分でぶち壊して再構成をしようとしました。何事もほどほどと思うのですが、これがきっかけで幻覚を見、幻聴を聞くようになりました。幻覚や幻聴といっても、誤解のないように申し上げておきますが、目を開いているときにはいつもの光景が見えてきます。仕事も普通にこなしている。ただ、日常が日常としての生き生きさを失い、目を閉じて物思いにふけっているときの不思議な世界が日常よりもはるかに「現実的」であるかのような感覚でした。繰り返しになりますが、仕事や生活はふだんと変わらないので、「半キチ」というところでしょうか。

 目を閉じて考えに耽っているときに、ふと黒い何かが語りかけ、気がつくと青白く光る森の只中にいました。どこまで歩いても、出口が見えない。あるレベルを超えて考えようとすると、この世界に行ってしまう。そんな状態が半年近く続いてようやくあるときにやはり青白く光る、質素ながらも立派な椅子が目に浮かびました。ある声が「それはお前が座るべき椅子だ。しかし、既に座るものが決まっている。決して嫉妬してはならない」と語りかけてきました。実を言えば、これを書いている本人がいまだにその意味がわからないです。これ以上書くと、「危ない人」と思われるのでやめますが(え゛っ手遅れ!?)、ある日、扉から放り出されて、二度と扉が開くことはなくなりました。

 さすがにこの話を友人にするのはある種の偏見をもたれそうなので、ありのままに語ったことはありません。この記事で時の賢者様が触れられていることも、私自身が書いていることも、ごく一部にすぎません。よだんですが、この話をある人にほんの少しだけ話したら、新興宗教の「教祖」になれるとからかわれました。話がそれますが、「精神世界」ほど私が生理的に、嫌悪感はないのですが、受け付けないものはなく、「あんなの『物質世界』そのものでしょ」とつぶやいたら、それは言わない方がよいと助言されたことがあります。私の「信仰」を告白すれば、私自身に関することについて私以外の神を認めることができないということでしょうか。だから、私にとっての「神」は完全である必要はなく、不完全さそのものであり、私が死ねば、地上からきれいさっぱり消えてしまいます。誰も覚えてはいないでしょう。「悟り」を開いた訳ではありませんが、考えるだけ考えてあとはお迎えを待つまでという気分がどこかにあります。

 ありがたいことに、私にとっての「神」は不完全なので、いつまでも考えに終わりが来ることはありません。「人は死すべき存在である」というのは科学的に「証明」されたわけではないのでしょうが、おそらくは私も生命としての寿命があるのでしょう。死を「苦痛」と捉えるのか、「解放」と捉えるのかは人の数だけあってよい話だと思いますので、私にとって死は日常であり、日々、死んでいます。あの体験以来、生きていること、すなわち死ぬることという感覚なしに生きることができない日々を送っております。もちろん、普通の意味での「死」もあるわけですが、まあ私にしてみれば、考えることが終わるということでして、特別な意味はないです。ふだんから経験していることですから。「死」に意味がないとなると、あなたの「生」も無意味ではないかということになるわけですが、まあ、そうです。意味なんて後から人が勝手に付け加えるだけの話でして、私の知ったことじゃありません。あえて欲をいえば、死ぬ瞬間に誰かに「これで考えの終わり」と囁くことができれば、上出来じゃないかなと思ったりします。

 明日、私が死んだとして「考え」に結論がでるわけではありません。100年後にくたばったとしても、同じでしょう。学校教育が整いすぎて、「答え」や「結論」のある「問題」に現代人は慣れすぎてしまったように思います。もちろん、そんな「問題」を考えなくても、なにも日常生活や仕事で困ることはまるでありません。ただ、そんなことを考えることがあると、ちょっとだけ物の見方が変わるかもしれません。それが、望ましい方向への変化かそうでないのかは、私の手にあまるのですが。

2007年02月11日

ハッシュとボッシュとHache

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:うーむ。
ハッシュ:zzz
ボッシュ:どうもひっかかる。
ハッシュ:(パチン)ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:おぬし、なにかワシに隠し事をしておらぬか?
ハッシュ:ほお?
ボッシュ:あのデブは、いつ、ここに来たんじゃ?
ハッシュ:「いつ?」と言われてもなあ…。ワシは何年何月何日という記録をとっているわけではないしのお。
ボッシュ:最近、忙しいから、あのデブのブログなど碌に目を通している暇はないんじゃが、入院をしていたときか?
ハッシュ:うーむ、その前じゃなかったかなあ。
ボッシュ:…。ワシよりも古いつきあいなのか?
ハッシュ:…。おぬし、妬いているのか?
ボッシュ:…。言いにくいんじゃが、おぬしの人生はおぬしのものであって、ワシの人生ではない。誰と付き合おうと知ったことではないんじゃが、どうも気になる。
ハッシュ:なぜかな?
ボッシュ:ここを通る者は、なにか特別な目にあっているものばかりではないか。ワシがここに来ておぬしによってジパングにとばされたときはなぜここに来たのかわからぬが。さらに、あのデブがここに来たきっかけが、あの程度の病気だとすれば、おぬしの客人など驚くべき数になるはずじゃ。
ハッシュ:いっぺんにいろいろ言われると困るなあ…。まず、おぬしの場合じゃが、事実上ワシが呼んだ様なものじゃな。ただ、普通の人ではありえぬ。おぬしは覚えておらぬじゃろうが、ジール最後の日に、おぬしはここを通っているゆえ、本人の意思か、ワシが望めば、ここに来ることができる。
ボッシュ:…。まさかとは思っていたが、おぬしのしわざか?
ハッシュ:今まで断る必要もなかったゆえ、伏せておいたが、まあ、そんなところじゃ。
ボッシュ:…。おかげでワシは店でてんてこ舞いじゃ。まあ、楽しくないといえば嘘じゃが。今では感謝しておるよ。ガルディアも悪くなかったが、ジパングも思った以上に楽しいゆえ。
ハッシュ:言いにくいが、おぬしなら、ジパングでもやっていけるだろうと思っていたからなあ。
ボッシュ:しかし、あのデブはどうなんじゃ?まさか、おぬしが呼んだわけではあるまい?
ハッシュ:あのデブか…。懐かしいのお。あの日以来、ここに来たことはないのじゃが。
ボッシュ:まあ、あのデブは薄情ゆえ、わからんではない。しかし、なぜ、あのデブが時の最果てに来るんじゃ?ここに来るのは、よほどのことがない限り、なさそうではないではないか。そういえば、ジパングでは1995年に大地震とテロがあったはずじゃ。まさか、あのデブが巻き込まれたのか?
ハッシュ:うーむ、それとは無関係のようじゃ。ちなみに、その事件でワシのところに客人が来ることはない。
ボッシュ:それではいよいよわからぬ。まさかと思うが、2001年のテロのときに、あのデブも巻き込まれたのか?それともイラク戦争か?
ハッシュ:それもないなあ。だいたい、あのデブはアメリカ(賢者様たちはアッシレマと呼んでいましたが、右から左に読んでしまったようで、アメリカに直しております:書記係)にもイラクにも行ったことがないんじゃないかな。ちなみに、おぬしの時代の人たちはテロだのイラクだので右往左往しているようじゃが、あの程度ではワシのところに来るものはおらぬ。
ボッシュ:ますますわからぬ。なぜ、あのデブは、時の最果てにやってきたのかね?
ハッシュ:それを語りだすと、長くなりそうじゃなあ。おぬしは忙しいようじゃが、いいのかね?
ボッシュ:…。うーむ、乗りかかった船じゃ。最後まで聞くこととしよう。ただ、今日も、客人の予定が一杯ゆえ、続きは明日にさせてもらえるかのお。連休ゆえ、2日目は、少しだけ手が空きそうじゃ。いったん、お暇する。
ハッシュ:あまりおもしろい話ではないんじゃが。また、おいで。

 実は、私自身が時の最果てにいつ来たのだろうと思います。さはさりながら、時の賢者ハッシュの名前をお借りしているのも事実。とりあえずは、時の賢者様と命の賢者様のお話を伺うことにいたしましょうか。

2007年02月10日

「あちらの世界」への「入口」

 ふう。とりあえず、作業が終了しました。「完璧」が要求される作業はつらいです。私の脳みそなど、ざるのごとしなので。まあ、そんなこんなで何年ぶりなのか、思い出せないのですが、自分で処分できる時間をまとまって確保できる状態になりました。贅沢な話ではあるのですが、ちと「浦島太郎」状態になっています。ふだん、何もしていないわけではないのですが、ああでもない、こうでもないと考えているうちに、どうもいい手段が見当たらない。こういうときは、他人の考えを尋ねるのがよいのですが、どうも、「これだ!」と思える話が少ない。二つほどあるのですが、どちらをやっても、控え目に見積もって2年はかかる状態です。そして、やってみて全くの無駄に終わる可能性も高いので、無鉄砲な私でも、年を食ったのか、迷いが生じます。

 ふと、迷ったらお掃除からというわけで本当に部屋の掃除をしていたら、いつか買ったけれど、山積みになっていた本の中から羽生善治『決断力』(角川書店 2005年)がでてきました。ふと読みながら、おもしろいくだりがありました。

 将棋には怖いところがある。かつて対談集『対局する言葉』(毎日コミュニケーションズ刊)でも言ったことがあるが、将棋だけの世界に入っていると、そこは狂気の世界なのだ。ギリギリまで自分を追いつめて、どんどん高い世界に登りつめていけばいくほど、心がついて行かなくて、いわゆる狂気の世界に近づいてしまう。一度そういう世界に行ってしまったらもう戻ってくることはできないと思う。入り口はあるけれど出口はないのだ。私自身、アクセルを踏み込むのを躊躇している部分がある。経験からも、一年なり二年なり、ずっと毎日将棋のことだけを考えていると、だんだん頭がおかしくなってくるのがわかる。入り口は見えるけれど、一応、入らないでおこうと思っている(96−97頁)。

 羽生さんにしては珍しく突っ込まれそうなことを書いていて、ちょっとびっくり。というのは、「入り口」が見えていても入ったことがない「世界」になぜ「出口はないのだ」と言い切れるのだろうという疑問が沸いてしまいます。これは野暮な深読みですが、純粋に彼自身のことを書いているのだったら、「出口はないのだろう」となるでしょうが、おそらく彼は見てしまったのだ。「あちらの世界」に行っちゃった人を。別に将棋でなくても、そんな方は他業種でもいらっしゃるでしょう。「あちらの世界」に「出口」があるのかどうか難しいのですが、あるといえばある。ないといえばない。それじゃあ、訳わからんよと言われてしまいそうですが、まあ、そうです。まあ、この話自体は別の機会にとっておくことにいたします。羽生さんが二の足を踏む「あちらの世界」にもいろいろな「レベル」がありますので。

 それにしても、「入り口」が見えているだけでも、やはり只者ではないことを感じます。あんたに言われたくないとなりそうですが、普通は、入口を入口と知らずにうっかり入って「帰らぬ人」となったり、「あちらの世界」と「こちらの世界」の両方で生きている人もいたりします。この文章だけでは、羽生さん自身が「あちらの世界」に半分、足を踏み込んでいる自覚があるのかどうか、よくわからないのですが。

 「あちらの世界」というのはそれほど遠い世界というわけではなく、まあ表現は悪いのですが、慣れてしまうと、別に「こちらの世界」と区別するほど、特別な世界でもないのですが、才能がある方ほど「帰らぬ人」となってしまう確率は高いので、羽生さんの躊躇は、理解できないでもないのですが。「非日常」なりの「常識」をわきまえておけば、意外と人間というのはしぶといものです。ただ、年をとってくると、「あちらの世界」の「入口」に行くことすら、体力的に厳しくなってしまいますが。40を過ぎてから「あちらの世界」にゆけるというのは、ほとんど限られている気がします。最後は体力勝負ですので。
posted by Hache at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2007年02月09日

ワーカーズ・ハイ

 mitsu様のコメントを拝見して「ワーカーズ・ハイ」かもと思いました。なにしろ、不眠不休まではゆきませんが、睡眠時間が3−4時間程度で明日で「納期」にギリギリセーフ。こういうときは論旨が整理できないので「寝言」も長くなります。まあ、なんとかなったので手短に。

 夜中に机の前で寝てしまったのですが、これがすさまじい。書類を目の前にペンをもったまま、ひたすら眠りこけていました。機械にスイッチが入るように(周囲にどうでもいいことで因縁をつけてくる変な「野党」がいなくてよかったとしみじみ思います)目が覚めると、そのまま仕事続行。昔だと眠ってしまうのが怖くて思考が途切れてしまうのですが、目が覚めた途端に何事もなかったように作業が続行できてしまう。人間というのは最悪の環境でも慣れてしまえば、こんなものだなと思います。余計な「芸」を自分に仕込んでしまった感がありますが。

 野党の攻撃は、周囲の20代から30代の女性には評判が最悪ですな。「産む機械」発言にしても、「差別」というほどの感覚はなく、さっさと仕事をしてほしいという意見がほとんどです。中川秀直幹事長の「トゥデイズアイ」から柳澤厚労相の記者会見部分をプリントアウトして、若い女性に「これを誰が言ったか、あてて御覧?」と尋ねると、「これってまともでしょ。誰が言ったかしならないけれど、こういう議論を深めてほしい」というのが、ほとんどの反応で、「柳澤大臣の発言ですよ」というと、野党はなにをやっているんだとなります。

 なかには小沢さんと福島さんが並ぶと、福島さんの人相がいっそう悪く見えるなどという声も。これは「不規則発言」かもしれませんが、今の30代あたりから下は、男女を問わず、「女性蔑視」という感覚自体が乏しくて、柳澤厚労相の発言に「差別」や「偏見」を嗅ぎとる感性自体が欠如している印象があります。閣僚の発言の揚げ足取りは、ポスト小泉時代では、単なる「サボり」にしか若い世代には映っていない印象があります。ただし、これが安倍内閣や自民党への支持へただちに傾くわけではないですが。

 「政治不信」というと、一昔前はカネに汚いことであったり、その他のスキャンダルであったりしたようですが、周囲の若い世代は仕事をちゃんとしているのか、イレギュラーな事態に上手に対処できるのかということが判断のポイントとなるようです(まあカネの話はあるところにはやっぱりあるんだという程度には反応がありますが)。要は、元々、政治に期待をしておらず、仕事ができると実感させる方が総理のときには岩盤になるという変わった行動をとるようです。おそらくは高齢化社会で、なおかつ20−30代の投票率が低いのでこのような見方は政党、とくに野党(とりわけ小沢民主党)から切り捨てられるのでしょう。もっとも、年配の方でも「花(イデオロギーや価値観)より団子(実績)」という方が少なくない印象があるので、切り捨てられる若い世代の声が反映されるといいなあと思います。
posted by Hache at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言