2007年02月10日

「あちらの世界」への「入口」

 ふう。とりあえず、作業が終了しました。「完璧」が要求される作業はつらいです。私の脳みそなど、ざるのごとしなので。まあ、そんなこんなで何年ぶりなのか、思い出せないのですが、自分で処分できる時間をまとまって確保できる状態になりました。贅沢な話ではあるのですが、ちと「浦島太郎」状態になっています。ふだん、何もしていないわけではないのですが、ああでもない、こうでもないと考えているうちに、どうもいい手段が見当たらない。こういうときは、他人の考えを尋ねるのがよいのですが、どうも、「これだ!」と思える話が少ない。二つほどあるのですが、どちらをやっても、控え目に見積もって2年はかかる状態です。そして、やってみて全くの無駄に終わる可能性も高いので、無鉄砲な私でも、年を食ったのか、迷いが生じます。

 ふと、迷ったらお掃除からというわけで本当に部屋の掃除をしていたら、いつか買ったけれど、山積みになっていた本の中から羽生善治『決断力』(角川書店 2005年)がでてきました。ふと読みながら、おもしろいくだりがありました。

 将棋には怖いところがある。かつて対談集『対局する言葉』(毎日コミュニケーションズ刊)でも言ったことがあるが、将棋だけの世界に入っていると、そこは狂気の世界なのだ。ギリギリまで自分を追いつめて、どんどん高い世界に登りつめていけばいくほど、心がついて行かなくて、いわゆる狂気の世界に近づいてしまう。一度そういう世界に行ってしまったらもう戻ってくることはできないと思う。入り口はあるけれど出口はないのだ。私自身、アクセルを踏み込むのを躊躇している部分がある。経験からも、一年なり二年なり、ずっと毎日将棋のことだけを考えていると、だんだん頭がおかしくなってくるのがわかる。入り口は見えるけれど、一応、入らないでおこうと思っている(96−97頁)。

 羽生さんにしては珍しく突っ込まれそうなことを書いていて、ちょっとびっくり。というのは、「入り口」が見えていても入ったことがない「世界」になぜ「出口はないのだ」と言い切れるのだろうという疑問が沸いてしまいます。これは野暮な深読みですが、純粋に彼自身のことを書いているのだったら、「出口はないのだろう」となるでしょうが、おそらく彼は見てしまったのだ。「あちらの世界」に行っちゃった人を。別に将棋でなくても、そんな方は他業種でもいらっしゃるでしょう。「あちらの世界」に「出口」があるのかどうか難しいのですが、あるといえばある。ないといえばない。それじゃあ、訳わからんよと言われてしまいそうですが、まあ、そうです。まあ、この話自体は別の機会にとっておくことにいたします。羽生さんが二の足を踏む「あちらの世界」にもいろいろな「レベル」がありますので。

 それにしても、「入り口」が見えているだけでも、やはり只者ではないことを感じます。あんたに言われたくないとなりそうですが、普通は、入口を入口と知らずにうっかり入って「帰らぬ人」となったり、「あちらの世界」と「こちらの世界」の両方で生きている人もいたりします。この文章だけでは、羽生さん自身が「あちらの世界」に半分、足を踏み込んでいる自覚があるのかどうか、よくわからないのですが。

 「あちらの世界」というのはそれほど遠い世界というわけではなく、まあ表現は悪いのですが、慣れてしまうと、別に「こちらの世界」と区別するほど、特別な世界でもないのですが、才能がある方ほど「帰らぬ人」となってしまう確率は高いので、羽生さんの躊躇は、理解できないでもないのですが。「非日常」なりの「常識」をわきまえておけば、意外と人間というのはしぶといものです。ただ、年をとってくると、「あちらの世界」の「入口」に行くことすら、体力的に厳しくなってしまいますが。40を過ぎてから「あちらの世界」にゆけるというのは、ほとんど限られている気がします。最後は体力勝負ですので。
posted by Hache at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言