2007年02月12日

ハッシュとボッシュとHache(続き)

(@時の最果て)

ボッシュ:ふう、なんとか終わったわい。話しの続きをするか。おい、そろそろ…。
ハッシュ:とっくに起きておるよ。
ボッシュ:…。珍しい…。なにか禍々しいことの前触れでなければよいが。
ハッシュ:おぬしが騒ぐから、あのデブの記憶から暦をたどってみた。正確にはわからないが、どうも西暦1997年じゃな。あのデブが時の最果てにやってきたのは。
ボッシュ:…。ぴったり10年前か?
ハッシュ:2月だったかどうかまではわからぬ。あと、あのデブの脳みそはどうもできが悪いゆえ、記憶があやふやなんじゃ。
ボッシュ:それはやむをえまい。しかし、10年前というのはそんな大事があったようには思えぬのじゃが。ちょっと待てよ。銀行や証券会社が潰れたのがこの時期だったかな。しかし、テロや戦争ですら、関係がないとすると、なんであのデブはここに来たんじゃ?
ハッシュ:ここにやってくる客人は、あのデブを除くと、ほとんどがやむをぬ事情で時空の歪みに吸い寄せられておる。ワシの知りうる限り、あのデブが唯一じゃな。最初から自分でここにやってきたというのは。
ボッシュ:あのデブは時の最果てにきたくてやってきたというのか?
ハッシュ:説明が面倒なんじゃが、おぬし、それでも聞きたいのかね?
ボッシュ:…。よけいなことを口にしてしまったようじゃが、ここまで来れば、「毒を食らわば皿まで」というところじゃな。
ハッシュ:ワシも、あんな変な奴のことを説明したいわけではないんじゃが。まず、あのデブは、この時期、気が狂っていた。
ボッシュ:…。おい、いきなりおっかないじゃないか。まさか、刃物を…。
ハッシュ:おぬしが考えているタイプとはちょっと違うな。なんというのか、もっと大人しい話じゃ。というか、悪い頭を使いすぎると、どうなるかという話なんじゃが。
ボッシュ:…。おぬし、虫の居所でも悪いのか?ずいぶん、きつい表現じゃが?
ハッシュ:そうかなあ。ありのままに言っただけじゃが。まあ、ガッシュと同じ「病」じゃな。ただ、ガッシュの方が話が込み入っていて、あのデブはもっと単純じゃ。
ボッシュ:ガッシュと同じ「病」?
ハッシュ:あのデブは頭が悪いゆえ、その思考をそのままたどってもあまり意味がないゆえ、ワシが整理するとじゃな、要は、「世の中をよくしたい」というのがあのデブの出発点で、ふと、あるとき「世の中をよくしたいと考えるときの「世の中」とは何かを考え出したら、気が狂ったというわけじゃ。
ボッシュ:あのデブは、世の中の心配をするより、自分の体重や預金通帳の残高の心配をした方がよいと思うんじゃが。貯めるべきは貯め、捨てるべきは捨てるものじゃ。
ハッシュ:…。それはそれでごもっともなんじゃが、話がそれるゆえ、別の機会にしよう。「世の中って何?」というだけだったら、まだ、大丈夫なんじゃ。ここが、あのデブの頭の悪いところなんじゃが、ふとこういう問いを発している自分の客観性を保証するものはなんなのかということを考えてしまった。ワシは、世の中のことには疎いゆえ、よくわからないことが多いんじゃが、こんなのはみんなどこかで喉の奥にしまってとぼけておる話なんじゃが、頭が悪いというのは実におそろしい。とぼけているところを真っ向から突撃して帰らぬ人になりかけたというわけじゃ。
ボッシュ:…。ワシにはまったくわからんのじゃが。いや、おぬしの話には難しい言葉がほとんどない。だが、何を言っているのか、ワシにはまるで見当がつかぬ。
ハッシュ:実を言うと、ワシもあまりわかりたくない話じゃな。あのデブの考えなど。ただ、「世の中」について考えている自分が「世の中」について確かなことを考えることができることを保証していることはなんだろうと考えると、気の一つも変になる。利巧な人なら、これはまずいなと思ってそれはそれとして、話の立て方を工夫するものじゃ。バカほど怖いものはない。あのデブは、とぼけておけばよいところを一直線に踏み込んでいって気が狂ったわけじゃ。
ボッシュ:…。二度、説明を聞いてもワシにはさっぱりわからぬ。要するに、あのデブは「世の中」のことを思いつめすぎて、気が狂ったということか?
ハッシュ:まあ、そんなところじゃ。
ボッシュ:しかし、狂気にしては、ブログで書いていることは、まあ、本当につまらんことばかりじゃが、狂っているようには見えぬ。まあ、何を言っているのかようわからんことも多いし、論理的に詰めが甘いのお。ただ、狂気には見えぬのじゃが。
ハッシュ:そこなんだなあ。あのデブの限界は。頭がいいと、あの世界に入ってしまうと、帰ってこれないのじゃが、あのデブは頭が悪いゆえ、帰ってくることができた。事情はもう少し複雑なようじゃが、狂気の世界から、「お前は才能がない!」と言われて追放されたような話じゃ。
ボッシュ:…。ワシの想像を絶するが、「狂気の世界」とやらにも、「才能」があるのか?
ハッシュ:ここからはワシにもわからぬことだらけなんじゃが、今、話をしている「狂気」というのは、誰かを殺そうとか、自殺したいとか、そういう話と全く関係がないわけでもないんじゃが、ちと違う。ある普遍的な問題を考えてゆくうちに、自分が自分でなくなって対象そのものになってしまうという話じゃ。あのデブは、根本を考えようとした。これは、あのデブにしては、できすぎじゃ。しかし、ある一線を越えると、あやういんじゃ。あのデブは、とろいがゆえに、越えてしまった。しかし、所詮、才能がないゆえに、狂気の世界に留まることができなかった。その狂気の絶頂のときにワシのところに現れたんじゃ。
ボッシュ:…。言いにくいんじゃが、時の最果てとは狂ったものだけが来ることができるのか?そうすると、ワシも…。
ハッシュ:フフ。安心せい。あのデブぐらいじゃ。気が変になってやってきたのは。あのデブの記憶によると、数学者や哲学者、文学者なども、その才能ゆえに自ら追いつめすぎてしまうことがあるようじゃ。しかし、ワシのところには現れぬ。おそらくじゃが、彼らは才能ゆえに、対象と自我の区別がなくなってしまって、ここに来ることなどありえないのだろう。しかるに、あのデブは、才能がないゆえに、狂気の世界に入っても、自信がなかったんじゃ。狂気の世界に迷いはない。なぜなら、自我と他者の区別すらなくなってしまう。あのデブは煩悩の塊ゆえ、狂気の世界でやってゆけるほどの才能がなかったんじゃろ。
ボッシュ:…。ワシにはわけがわからぬが。とりあえず、あのデブは正気に戻ったというわけじゃな?
ハッシュ:これが、中途半端な者の悩みじゃ。そうとも言えぬ。このあたりは、あのデブ自身に語ってもらった方がよさそうじゃが。
ボッシュ:しかし、ただのデブかと思っていたが、つくづく変なデブじゃな。あんなのに名乗りを許しておいてよいのか?
ハッシュ:時の最果てとは無関係ゆえ、ノープロブレムじゃ。それに、もうあのデブもここにやってくる体力はなかろう。
ボッシュ:…。なぜ、ワシは自由に行き来できるんじゃ?
ハッシュ:おぬしは、別に気が狂ってきたわけではないし、狂ったからといって、ここにくるわけでもない。ただ、あのデブには釘を刺しておいた。二度とここに来てはならぬとな。そのかわり、物狂いになりそうになったら、ワシの名を使って別の自分になってもよいと言っておいた。名乗りを許したゆえ、もう少し上等なことを考えてもらいたいものじゃが、もともと期待しておらぬゆえ、まあ、こんなところじゃろ。
ボッシュ:おぬしも、心が広いというか、アバウトというか、よくわからないが。なんだか、ぐったりしたのお。そろそろお暇じゃ。
ハッシュ:そうじゃな。ワシもつまらない話をしたので疲れた。また、おいで。

 あれが10年前ですか。少しだけ懐かしいです。実は、私自身がいつ時の最果てに行ったのかは、まったく覚えていないのですが。なんだか、頭がもぞもぞすると思っていたら、時の賢者様のせいでしょうか。

 昔から考えること自体が好きでした。対照的に学校の勉強は嫌いではありませんでしたが、あまり好きではありませんでした。「答え」がありそうでなさそうなことを考えるのが楽しくて、「答え」があるとわかっている問題を考えるのは、ちょっと興ざめでした。歴史なんて、「答え」がありそうでなさそうな「問題」の宝庫です。学校の教科書には書いていないことを考えてゆくうちに、あるとき全体が見えた気がして自分の考えをまとめようとしてゆくと、ふとした瞬間に瓦解する。一からやり直しです。バカバカしいと感じた方は正常でありまして、母上などは私の性癖を生理的に嫌っていました。

 20代半ばでしょうか、瓦解した断片を拾ってゆくうちに、一つのアイディアが生まれてまとまったことがあります。とことん欲張りな私は、もう一回、それを自分でぶち壊して再構成をしようとしました。何事もほどほどと思うのですが、これがきっかけで幻覚を見、幻聴を聞くようになりました。幻覚や幻聴といっても、誤解のないように申し上げておきますが、目を開いているときにはいつもの光景が見えてきます。仕事も普通にこなしている。ただ、日常が日常としての生き生きさを失い、目を閉じて物思いにふけっているときの不思議な世界が日常よりもはるかに「現実的」であるかのような感覚でした。繰り返しになりますが、仕事や生活はふだんと変わらないので、「半キチ」というところでしょうか。

 目を閉じて考えに耽っているときに、ふと黒い何かが語りかけ、気がつくと青白く光る森の只中にいました。どこまで歩いても、出口が見えない。あるレベルを超えて考えようとすると、この世界に行ってしまう。そんな状態が半年近く続いてようやくあるときにやはり青白く光る、質素ながらも立派な椅子が目に浮かびました。ある声が「それはお前が座るべき椅子だ。しかし、既に座るものが決まっている。決して嫉妬してはならない」と語りかけてきました。実を言えば、これを書いている本人がいまだにその意味がわからないです。これ以上書くと、「危ない人」と思われるのでやめますが(え゛っ手遅れ!?)、ある日、扉から放り出されて、二度と扉が開くことはなくなりました。

 さすがにこの話を友人にするのはある種の偏見をもたれそうなので、ありのままに語ったことはありません。この記事で時の賢者様が触れられていることも、私自身が書いていることも、ごく一部にすぎません。よだんですが、この話をある人にほんの少しだけ話したら、新興宗教の「教祖」になれるとからかわれました。話がそれますが、「精神世界」ほど私が生理的に、嫌悪感はないのですが、受け付けないものはなく、「あんなの『物質世界』そのものでしょ」とつぶやいたら、それは言わない方がよいと助言されたことがあります。私の「信仰」を告白すれば、私自身に関することについて私以外の神を認めることができないということでしょうか。だから、私にとっての「神」は完全である必要はなく、不完全さそのものであり、私が死ねば、地上からきれいさっぱり消えてしまいます。誰も覚えてはいないでしょう。「悟り」を開いた訳ではありませんが、考えるだけ考えてあとはお迎えを待つまでという気分がどこかにあります。

 ありがたいことに、私にとっての「神」は不完全なので、いつまでも考えに終わりが来ることはありません。「人は死すべき存在である」というのは科学的に「証明」されたわけではないのでしょうが、おそらくは私も生命としての寿命があるのでしょう。死を「苦痛」と捉えるのか、「解放」と捉えるのかは人の数だけあってよい話だと思いますので、私にとって死は日常であり、日々、死んでいます。あの体験以来、生きていること、すなわち死ぬることという感覚なしに生きることができない日々を送っております。もちろん、普通の意味での「死」もあるわけですが、まあ私にしてみれば、考えることが終わるということでして、特別な意味はないです。ふだんから経験していることですから。「死」に意味がないとなると、あなたの「生」も無意味ではないかということになるわけですが、まあ、そうです。意味なんて後から人が勝手に付け加えるだけの話でして、私の知ったことじゃありません。あえて欲をいえば、死ぬ瞬間に誰かに「これで考えの終わり」と囁くことができれば、上出来じゃないかなと思ったりします。

 明日、私が死んだとして「考え」に結論がでるわけではありません。100年後にくたばったとしても、同じでしょう。学校教育が整いすぎて、「答え」や「結論」のある「問題」に現代人は慣れすぎてしまったように思います。もちろん、そんな「問題」を考えなくても、なにも日常生活や仕事で困ることはまるでありません。ただ、そんなことを考えることがあると、ちょっとだけ物の見方が変わるかもしれません。それが、望ましい方向への変化かそうでないのかは、私の手にあまるのですが。