2007年02月13日

時の最果てと「時の最果て」

 ブログなるものを始めてから、1年が経過しました。そういえば、アクセスカウンターが9万を超えました。正直なところ、あまり感慨もなく、よく1年も続いたなと思うのですが、これでは過疎ブログとはいえ、読者の方々にあまりに失礼な話であります。ご愛顧いただいている方には、心より感謝の念を申し上げます。

 このブログのメインは、「ある敗戦国の幸福な衰退史」というテーマです。どうも最近は「なまもの」について書きすぎていて、自分らしくないなあと思いますが、戦後のこの国の歩みを「戦後史」そのものについて書くのではなくて、近代以降のフランスやドイツ、ロシアなど、私が大日本帝国の興亡と重なってくる話をしながら、言ってみれば、戦後の歩みそのものを「解剖」するのではなく、外側から石膏で固めてみたら、どんな姿が映しだされるのだろうという関心が出発点です。

 この作業は、同時にある政治的主張も含んでいます。すなわち、集団的自衛権の行使を認めて日米同盟の双務性を高めよということにつきます。もちろん、アメリカ以外の国々とともに武力行使に参加することも考えておく必要があります。ただし、「個別的」であろうが、「集団的」であろうが、自衛権に関していらざる留保をやめることが、この国の安全にとって寄与するだあろうということが、この主張の前提になっています。とるに足らない議論ですが、アメリカへの「引け目」やアメリカの「お先棒」を担ぐという話は、自国の安全にとって集団的自衛権の行使が可能である状態にすることが損なのか得なのかという計算を度外視しているように思います。露骨に言えば、日米同盟の双務性を高めるのは、この国のためであってアメリカのためではないということです。同盟の場合、微妙な利害対立の調整はあるのでしょうが、自国の安全を守るための手段を確実にすることが、パートナーの選択肢を広げ、結果的により自国の安全が高まるというだけの話です。他方で、このような議論は、論壇はよくわかりませんが、最近ではほとんど政治的には無視できる程度の話になってきました。安倍総理は、幹事長時代に集団的自衛権に関する踏み込んだ発言をしましたが、問題発言としてマスメディアで取り上げられることはなかったと記憶しております。

 それでは安倍政権になって集団的自衛権に関する政策的プロセスは前進したのかといえば、現時点では目に見える成果はありません。私自身は、内閣法制局をどのように扱うのかが焦点だと考えております。集団的自衛権に関しては様々な卓見が示されていますが、実際に解釈をまともにするためには、内閣法制局が解釈を変えなくてはなりません。国会や論壇でもすぐれた見識が示されていますが、最後は泥臭い作業をどのように上手に演出するのかが問題でしょう。集団的自衛権の行使に関して「党派的」な意見を書いている割に具体的な話が少ないのは、もはや政治的な巧拙の問題であって、それが決着すれば、あとはこの問題をどのように国民に死活の問題としてプリゼントするかの問題であると考えているからです。麻生外相の「新たな安全保障環境における日本とNATO」演説でも、この点は従来の政府見解を踏襲しています。他方で、麻生外相の演説ではどこかの段階で「オペレーショナルな面においてもどのような協力が可能かを見つけるであろう」と述べられています。これは、安倍政権の「ボトムアップ・アプローチ」――まず、やれることかやりましょう――を代表していると考えます。集団的自衛権に関する議論が深まることは歓迎しますが、その解釈の変更、そして変更した後の運用は、巧拙の問題であって、「国家像」は事前にではなく、そのような営みの結果として生まれてくることは、けっして忘れてはならないことだと考えます。極論すれば、政治というのは、この問題に限らず、その場、その場の臨機応変の対応であって、同時に後からよいものを継続する作業が不可欠なのだと思います。

 このブログを始めた当初、集団的自衛権の行使に関する解釈がまともになれば、この国も安泰だという楽観的な見通しをもっておりました。いまでも、そのような考えに変化はありません。「ある敗戦国の衰退史」にはもう一つの通奏低音があります。それは、「民主主義は失敗する」ということです。仮に集団的自衛権の行使が可能になったとしても、それは主として抑止力として機能するでしょう。最も、楽観的な見通しは、日米同盟が日英同盟なみになって、アメリカ中心の国際秩序を武力でもって転覆しようとする国が出現しないことです。しかし、一寸先は闇です。アメリカは「善意の国」であり、今後、「民主主義の失敗」を経験するかもしれません。アメリカが古典的な帝国であれば、現在のような状況にはなっていなかったでしょう。このことを嘆くのはたやすいことです。問題は、この国の「民主主義の失敗」です。もし、アメリカが「失敗」して実際に自衛権を行使する段階で果たしてこの国が「失敗」しない保証はありません。この国が失敗しても、アメリカは苦しいけれども、滅びることはないでしょう。対照的に、この国は滅びる確率が高いでしょう。戦後の歩みから考えれば、「作為」による失敗よりも、「不作為」による失敗の方が危険だと考えます。他の政体と同じように、民主主義も失敗する。このことを前提にして、この国の民主主義が失敗したときにも、滅びる確率を最小限に食いとどめるにはどうしたらよいのかを考えることが、「ある敗戦国の幸福な衰退史」で考えてみたい伏線になっています。

 このテーマについて考え始めたのは、この国に生まれ、なに不自由のない生活を送っていることに感謝していることが出発点です。他方で、私は「考える」という「狂気」にとりつかれた人間です。この国は、小さな島国にすぎません。そんな島国が生き残りをかけてどのような努力をするのか。それは私自身の生存にも直結する問題ではあるのですが、突き放して「考える」対象としたいという欲求があります。この国の安全を心から望む「時の最果て」の「寝言」と述べることと民主主義の失敗と復元力を他人事のように考える時の最果ての寝言が渾然としているのが、このブログのスタンスです。

 上記の変な文章を読んで理解できる者は、私ぐらいでしょう。こんなものをウェブで公開することには、いくら時の賢者様が「半キチ」と呼ぶ私でも、恥ずかしさがあります。奇特な方に「寝言」とおつきあいしていただければ、幸いです。連休明けにこんな長くてつまらない記事を最後までお読み頂いた方々にお約束を捧げます。

ここは「時の最果て」。すべては「寝言」。

おやすみなさい。
posted by Hache at 06:19| ごあいさつ