2007年02月27日

泣く

 本を読んで泣くということがめっきりなくなりました。もっとも、昔から本を読んでなくことが少なかったのですが。このブログを始めてから、「書くこととは恥をさらすことなり」と気がついたのですが、たちの悪い冗談は思いついても、思わず落涙するような文章を書く感性が欠如していることを感じます。

 例によって昔話で恐縮ですが、「読んで一番、泣けた本を言え」と尋ねられて、考え込んでしまいました。漱石、鴎外で落涙した覚えはなく、芥川、谷崎では泣けない。三島由紀夫は美しいけれど、どこか人為的な部分があって陶酔させる部分があることは感じてもなけない。ドストエフスキーやトルストイは深刻だけれども、大真面目すぎて泣けない。スタンダールは、えっちな部分が好きだけども、泣くのとはまた違う。モーパッサンは、頭がよすぎてこれまた泣けない。モームは、ちょっぴり一重まぶたの瞳に涙が浮かぶけれど、泣けない。「まだ?」という声に催促されて、ハッと思い出したのがソフォクレスの『オイディプス』。これは、泣いた。『オイディプス』だけにおいおい泣いて本を閉じたのを思い出します。

 「普通、あれで泣くか?」と真顔で問い詰められて、これは困ってしまう。お互い、酔っ払っていたわけではないのですが、事実、それぐらいしか思いつかない。読書の範囲が貧困なのかもしれませんが、『竜馬がゆく』とか『坂の上の雲』を挙げれば、話が続いたのかもしれませんが、あれでは泣いていない。もちろん、感動はあるのですけれど。ただ、冷静になってみると、文学作品で泣きながら読んだのが『オイディプス』というのは、ちと変ではある(「ちと」という意識しかないことが世間からずれているかもしれませんが)。当時のギリシアの地理や風俗、習慣などわからないことだらけなのに、あれは泣いてしまう。数式とにらめっこしていると、自分の頭の悪さに泣きたい気分にはなるのですが、これでさすがに泣くことはないですし。なんで泣けたのかを説明するとなると難しい。

 他方で、本を読んで泣いてはいかんという人もいて、実に難しい。泣く瞬間が一番、危ないそうで、まあ、これはこれでわからないでもない。小説でも戯曲でのよいのですが、感情移入が激しいというのは理性が弱いということかもしれません。しかし、その程度でダメになる理性など、理性とはいえないとも思います。文学作品を読んで泣くというのは、作品に心を委ねるのかもしれませんが、委ねた心が作家の心と一致しているかなど、誰にもわからない。しかし、なにがしかは共有しているわけで本を読んで泣くというのは貴重な体験だと思います。私がそういうタイプではないから、このように感じるのかもしれませんが、本を読んでたくさん泣いた人はえがたい経験をしていると思います。

 現代の知識人は「わかる」ということからどんどん遠ざかっていっているように思います。「こころ」と「あたま」は別だという風潮になんと染まってしまったことか。心が狭く、薄情な私でも、ある程度は理解できないでのないのです。感動はしてもなんかついてゆけない部分があったり、学校の勉強のようにわかっても感動がなかったり。しかし、「わかる」ということは「こころ」と「あたま」をわけては難しいのであるということが、仮に「わかる」ということがらのプロセスでわけることが不可欠であっても、あまりに軽視されている時代になんとなく距離を感じてしまいます。
posted by Hache at 00:37| Comment(5) | TrackBack(0) | まじめな?寝言