2007年04月03日

様々なる意匠:考える、すなわち自由

 
私は、今日日本文壇の様々な意匠の、少なくとも重要とみえるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を輕蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない爲に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。
(「様々なる意匠」(初出「改造」昭和四年九月) 『小林秀雄全集第一卷 様々なる意匠・ランボオ』平成一三年 新潮社 133−151頁)

 最初に読んだときに、なんと「ええかっこしい」なんだろうと思いました。三島由紀夫はあまりに耽美的で投げ出してしまいましたが、小林秀雄はなんとか読める。そして、鼻につく。しかし、小林秀雄には失礼ですが、どこかウマが合う。芥川龍之介の評論と並んで、高校時代、出題されると、満点に近い得点だったので、なぜ、そんな点数が出るのか自分でもわからずじまいで、不思議な感覚だけが残りました。「現国」のおかげで小林秀雄を嫌う人が多いのも理解できなくはないです。自分でも点数がでた理由がわからないので、点数が今一つでない人には嫌われて当然だろうと。芥川は好きでしたが、『河童』を読んでからダメになってしまいました。早くもお約束どおり、とりとめがなくなってきましたが、「敗北の文学」をよんで、逆でしょうと考えた時期がありました。文学に命を捧げた芥川が、創造できなくなれば、死ぬしかない。……。これでは評論にならないので、文芸評論は無理だということを深く自覚した覚えがあります。

 芥川と比較するのは無理がありますが、小林秀雄の対照的なまでのふてぶてしさと女々しさがなんともいえず、恥ずかしいことを告白してしまうと、小林秀雄が好きです。うっかり小林秀雄が好きだなどともらしてしまうと、意地の悪い人たちに囲まれて、小林が自分の文章を読まされて、「誰だ、こんな難しい話を書いたのは!」などというまことしやかな話まで小林嫌いからは聞かされる始末。さらに、政治色の強い方ですと、戦時中に戦争を「美化」した文章を読めとか言われて、素直に読んで、「戦時中だったら別に普通でしょ」と思ってしまう自分が怖い。悔し紛れに、「利巧な奴はたんと反省するがいい。俺は馬鹿だから反省しない」みたいなことを言ってしまうあたりが、お茶目な感じです。まともな小林秀雄ファンを釣る意図はないのですが、ちょっと口の悪い日本人に特異な表現能力があったら、こんな感じかなと思ってしまう。ここまで書いたら、啖呵を切るのに躊躇うこともないでしょう。「寝言」のモデルは小林秀雄なのである。

 というのはさすがに悪い冗談でありまして、ただ、悔しいことに(本当は別に悔しくもないのですが)、私がない頭をひねってうんうん呻いているときに、ぽーんとあっさり言いたいことを表現されてしまう。冒頭で引用した「様々なる意匠」の最後の部分などは、小林が27歳のときに「改造」に掲載されたというのが、ちょっとだけひいてしまいます。この年(当時の小林よりも約10歳年上)になって、あれが単なる「ええかっこしい」ではないことを実感してきます。みんながああでもないこうでもない、私自身も、こうかなああかなとあれこれ考えているうちに、あの文章が浮かんできます。『寝言@時の最果て』など今日、明日にでもすぐに「店じまい」ができますが、本業ではそうはいかぬ。まあ、本業も「寝言」みたいなものなので、本質はいっしょかな。「たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない爲に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」というのは、「誠心誠意、嘘をつく」とは異なる、真剣にやるふりなのでしょう。ある「体質」をもってしまうと、こういう形でしか、自己表現ができないことに気がついてしまう。

 文芸評論や政治評論などは門外漢なので、私の「ホームグラウンド」での話ですが、嫌悪感をもたざるをえない極論ですら、真実を含んでいることを認めざるをえない。それに反発したところで、なにかが示せるわけではない。他方で、「たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない爲に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」という姿勢は、新しいものを生む源にはならないでしょう。ただ、見ている世界が同じなのにもかかわらず、少しだけ違う景色が見えてくる。あるいは違う景色が見える出発点にすぎない。そして、戻ってくる目的地も同じだったりする。私の頭が悪いのか、「神様」の悪戯なのか、ふざけた世界でからかわれている気分になることもありますが、考えるということはこんなに自由なことなのかと小林秀雄のなんともいえない悲壮感とはかけ離れて、考えることの楽しさを満喫してしまいます。
posted by Hache at 00:58| Comment(4) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言