2007年04月11日

なにかを選ぶ なにかを捨てる

 小林秀雄を読んでいると、いろいろ考えさせられます。とはいうものの、1日に1時間程度しか読む時間をとらないようにしております。同じ料理でも、なぜかつまみ食いの方がおいしいもので、ついついそちらに時間を割いて、本業がおざなりということになりかねません。それにしても、小林秀雄だからでしょうか、文学者というのは言語道断なところがあって、人間をありのままに見るという特権にめぐまれているようです。その特権をどのように活用するのかは、その人しだいという気もしまが。「ヒットラアの『我が『闘争』」を体制批判と読むのは、間違いではないのでしょうが、あまりおもしろくない。「舞台裏」を書くと、火曜日に掲載した文章が全文ですが、彼が愛そうとしても愛せない対象に出くわしてしまったときの反応がおもしろくて読んでいたということになります。

 文学者に限らず、学者さんというのは、対象に愛情をもって接するのものだと思います。私は、「時の最果て」でよく量子力学、それもハイゼンベルグの文章を持ち出しますが、他の物理学者だって、対象を愛していたし、現在でもそうでしょう。別に、対象を愛するのは学者さんだけの特権ではないでしょう。私の父もそうですが、それぞれの仕事で仕事に愛着をもっている方は、そうでない方よりもはるかに多いと想像しております。ここで私はなにか、職業に卑賤なしとか、そういうことを論じたいわけではありません。昨日は、激しい勢いで書きましたが、戦争を美化したか批判したか、職業の卑賤とか、そういうものの見方は、人間の思考のあり方の一つだけれども、そのような思考のあり方を離れると、私を見れば一目瞭然ですが利巧にはならないけれども、ちょっと違った景色が見えてきますよということです。せっかくの人生、楽しんで生きなくては、おもしろくもなんともないじゃないですか。

 たとえば、小林秀雄の評論家人生の最初は、プロレタリア文学の批評に多くを割いています。マルキシズムの批判というのはいろいろあります。私の能力が乏しいために、ごく一部しか読んでおりません。一例として、「唯物史観というのはキリスト教的世界観の亜流だ」という趣旨の批判のしかたがあります。実は、これはなにかを言っているようでなにも言っていない話だと思います。たとえば、西欧文明を理解するときにキリスト教を信仰はしなくても、少しぐらいは理解しておく必要があるでしょう(宗教については幼少時の経験でどこかで嫌悪感をもっていることを率直に記しておきます)。西欧文明におけるキリスト教の影響は、日本人の想像を絶するものがあるでしょう。それでは、そのような文明の中で近代において「キリスト教的世界観の亜流」であるマルキシズムというイデオロギーがなぜ他のイデオロギーよりも強い影響力をもったのかという問題をたてることもできます。あるいは、20世紀の前半においても西欧の科学者たちがキリスト教から多くの影響を受けていたようです。そこを踏まえて、キリスト教的世界観がなぜ2000年近くも西欧において受容され続けてきたのかという問いを立てることもできるでしょう。もちろん、キリスト教的世界観の「普遍性」に目を向けるのか、「特殊性」に目を向けるのかでも問題は変わるでしょう。学業を本業とされている方が、このようなナイーブな問題の立て方をするとは思いません。ただ、考えるということの始原というのは、案外、こんなところじゃないのかなと思ったりします。

 お約束のようにとりとめがなくなりましたが、対象を愛し続けるのにも情熱が必要です。小林秀雄は亡くなるまで「業」が深かったようで亡くなるまで考え続けていたようです。他方で、すべてを愛することは誰しもできない。「ヒットラアの『我が闘争』」から完全に離れてしまいますが、ある水準を超えると、なにを拒絶するのかが難しくなってきます。それ以前の問題として、一個の人間がなすことは有限であり、それと比すれば、やれることは無限に等しいといってよいほどあるということです。前者の問題は、私のような凡夫には縁が薄いのですが、後者の問題は非常に悩ましい。あれもやりたいな、これもやりたいなと考えることは簡単なのですが(実はそうでもないのですが、今回はそういうことにしておきます)、やれることは限られている。そうすると、上手に対象を「捨てる」しかなくなります。実は、対象を愛し続けることと、少なくとも同じ程度に、上手に「捨てる」ことは難しい。「捨てた」話の中に本筋が入っていたなどというのは、私みたいな凡夫にはよくあることで、泣きたい気分になることはよくあります。

 若い人たちを見ていると、「可能性の世界」というのは大変だなと思います。捨てざるをえないものが多すぎる。そこでたじろぐ人、深く考えずに上手に捨ててしまう人、考えすぎて捨ててはいけないものを捨ててしまう人、本当に多種多様です。私もいつまで生きられるのかわかりませんが、若い人たちから学ぶことが増えてきていることを感じます。もういい歳なので若い人にお説教を垂れるぐらいのことはしてあげなくてはならないのですが、彼らから教えてもらうことが多くて、いつまでたっても子供なんだなあと幸せなのか、不幸せなのか、自分でもわかりませんが、そんな「寝言」が浮かんでしまいます。 
posted by Hache at 13:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言