2007年05月31日

更新の休止

 私自身が身内の者を失ったわけでは在りませんが、突然のことでお慰めの言葉もでてまいりません。私が喪に服するということではないのですが、日曜日まで更新を休止いたします。この種のことに疎いので、的外れなことをしているのかもしれませんが。なお、私もまったく偶然に悲報に接しましたので、事情は一切、申し上げません。

 衷心より哀悼の意を捧げます。
posted by Hache at 23:59| ごあいさつ

マニュアルづくり

 迂闊にも5月30日がサーバメンテナンスの日だということを忘れておりました。記事ができていなかったので、助かりましたが。やすゆき様のコメントを拝読しながら、ほとんど同感なのですが、それじゃあなんだか「時の最果て」らしくないな、こんなことも考えられるんじゃないかなとあれこれ考えていたら、コメントを書こうとして自分のブログを開いたら、なんと「メンテナンス中」。自分でも嫌になりますが、BSEでもないのに脳に穴が開いている状態はなんとかならんのかと心中で怒号が鳴り響きます。

 今年度に入ってから疲労がすさまじくて、火曜日などは機械的なミスを連発するので、若い人に「大丈夫ですか?」と呆れられてしまいました。ちょっとずつルーティンの仕事の「マニュアル」(職場限定)を変えているのですが、今年はある分野だけ大幅に改訂する作業をしております。5年以上前に使っていたマニュアルを改善しながら使っていたのですが、さすがに時代の変化のスピードが激しく、どうも「作業」をしていると、不都合なことが目立っておりました。今年度に思い切って改訂作業をしているのですが、実際に使ってみると、予想以上に「バグ」が多くて、私も周囲も疲れてしまいました。元々、粗くてもよいから大筋を書いて実際の作業をしながら改善してゆくつもりでしたが、用語の定義や基本的な用い方などにミスはないものの、実際に作業をしてゆくと、細かい筋が整理できていなかったということが続出しました。その場、その場でフォローしているので、「作業」には致命的な支障はないのですが、必要なマニュアルの「パーツ」が抜けているので、その場しのぎのことが多く、疲れてしまいました。私の周囲という、この国全体からみれば無視できる範囲でしかありませんが、「改革」というのは、特別なケースを除いて、漸進的な改善の積み重ねということを実感します。

 さらに難しいのが「フィードバック」。マニュアルの不具合は使っている最中にわかるのですが、それがどの程度、使っている人の「スキル」向上に繋がっているのかを短期ではなく、長期でつかみたいのですが、本当に難しいです。まあ、これは自分でも欲張りかなと思うのですが。目覚しい「進歩」まではゆかないにしても、マニュアルの存在自体を忘れて発想が身についてくれればと思うのですが、「作業」直後はともかく、追跡調査が困難なので、短期の「試験」で評価するしかないのですが。ひょっとしたら、私と一緒に「作業」した中身など忘れた方がよいのかもしれないという弱気な考えも頭をよぎります。

 それにしても、マニュアルには書けないことが多いことに気がつきます。通常のお仕事の場合、例外が多すぎてかけないというケースが多いのでしょうが、私の場合、あまりにマニュアルに細かいことまで盛り込みすぎると、「作業」をするときに読まなかったり、読んだとしても、読んだだけでわかったつもりになってしまう人がでて、常にマニュアルを活用する人が自分で考える余地を残すようにしております。ただ、考えずに(本当は考えた上で習得してほしいのですが)、とにかくあらすじを説明した上で「理屈はいいから覚えてね」とせざるをえない部分も多いです。このあたりのバランスは難しく、もうあと数年で40代、もはや若手ではなく中堅になってしまうのですが、まだ、このバランス感覚が自分でも劣っている自覚あります。まあ、焦らずに、今の40代の方が30代で習得していたであろうことを40代になってもやらざるをえないのかなという、言い訳じみた「寝言」が浮かんでしまいます。

 もっとも、マニュアルを書き換えながら、自分が習得してきたことを整理し、最近の事例を加えてゆくのは思ったよりも楽しいことでした。私自身は、マニュアルのような型にはまった「作業」はくだらないと思っていましたが、自分がつくる側になると、地味ですが意外と大切な作業だなと思います。もっとも、月曜日は熱中しすぎて夜中まで作業したのはまずかったです。おかげで火曜日は、「作業」でボロボロ。どこからともなく、「相変わらずですね」とからかう声が空耳でしょうが、聞こえてまいります。

【おしらせ】

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posted by Hache at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2007年05月28日

奇妙な「弔辞」

 あたふたと一日が終わって帰ってくると、ふだん見出ししか見ない夕刊に松岡利勝農林水産大臣の自殺が報じられていて珍しく読んでしまいました。よほど気が動転したのか、3週間ぶりぐらいにテレビの電源を入れました。自殺の背景(スキャンダルと党内の圧力)や参院選、そして政権へのダメージをコメンテーターなる方たちが解説するのをボーっと見ていました。メディアが報じない、あるいは誰にもわからない部分もあるのでしょうが、こんなものでしょうなという感じ。ついでに年金の問題も見ましたが、いまだによくわからない。生活に直接かかわるだけに、「被害」にあった方々にとっては切実な問題でしょうが、記録が完全になくなってしまっている場合はともかく、そうではない方も少なくないようなので、社会保険庁の過去の「悪行」も含めて実態を把握してほしいというところでしょうか。ことがことだけに、短期的に話を済ませたくなるところですが、あまりにずさんな話なので、ここで膿をだしつつ、BSE騒動のときのように騒ぎを収拾することだけに追われて、別の「傷」をつくるのはまずいだろうなと思ってしまいます。

 話がそれましたが、松岡大臣の自殺。首相官邸HPを見たら、若林正俊環境大臣が既に「臨時代理」となっていて、不測の事態とはいえ、政権は機能しているんだなあと素人的に思いました。ちょっと気になったのが、副大臣が臨時代理というのはないのかなということです。ちゃんと根拠となる法律を読んでいないので、たぶん無理なんだろうなあとは思うのですが、内閣法10条の規定を読むと、国務大臣の(臨時の)代理は総理または他の国務大臣に限定されるのでしょうか。今回の事件とは性格がおおいに異なりますが、リクルート事件がらみで宮澤喜一大蔵大臣(当時)が辞職した後、竹下登総理大臣(当時)が兼職したことを思い出しました。自分でも本題から逃げていますね。

 正直な感想を書いてしまうと、今回の事件で大臣というのはずいぶん値打ちが下がってしまったなあということです。スキャンダルやその他の事由(今回はスキャンダルのみが焦点のようですが)で閣僚というよりも、総理大臣が交代すること自体は、散々見てきたので、スキャンダル自体に、一時期はうんざりしましたが、なんとなく鈍感になってしまう。ただ、国務大臣が自殺するというのは、ひどい話だと思います。ここまで国務大臣の値打ちが下がったのは初めてでしょう。死者に鞭を打つつもりはないのですが、「責任」のとり方として最悪の方法を選ばれてしまったようにしか見えないです。こんなことで国務大臣が「首」ではなく(それですらどうかと思うのですが)、「命」を捨てるようでは国務大臣の値打ちがゾッとするほど下がってしまったという印象をもちます。私自身が、キリスト教その他の宗教の価値観の影響を受けているわけではなく、自殺を美化しかねない風潮には子供のときから違和感があったので、まして公人が自殺するとなると、もう「評価」する気にもならないぐらい、やるせない気分になってしまいます。例外は、戦時ぐらいで、戦時ですら、自死による「解決」というのは美化できない部分があります。先の大戦のような場合は、選択の余地が少なかったのでしょうが、公人たるもの、死ではなく、生きて責任を全うしていただきたいと思うのです。

 困ったことに安部総理が「任命権者」としての「責任」をあっさりと認めてしまった。おそらくは、松岡大臣をかばいすぎて、結果的に「退路」がなくなってしまったことへの率直な感情の発露ということなのでしょう。世評は私よりもはるかに複雑に安部総理を批判したり評価しているようですが、私自身は、安部総理は「善意」の方だと考えておりました。それとなく懸念をもっていましたが、このような形ででるとは思いませんでした。今回の事件そのものは、安部総理と松岡大臣という個性の組み合わせによるところが大だと思うのですが、「統治」の中枢でこのような事態が生じることは、非常にまずい。メディアでは政権へのダメージばかりが取り上げられるようですが、今回の事件が突発的な、一過性のことで終わるのを心から願っております。職に一命を捧げること自体は美しいのですが、今回の事件は、「善意」をもつ側と受ける側のきわどい部分がもろにでてしまったように感じます。この事件そのものは、安部政権のもつ独特のあやうさがわかりにくい形(というより報道を見聞きしてあらためて解説部分がいらないことを感じます。高いところからものを申すようで気がひけるのですが、深読みばかりしていると、当たり前のことが見えなくなる印象があります)で表出しただけの話だと思いますが、国務大臣の「値打ち」の低下となると、一政権の問題にとどまらないでしょう。深刻に考えすぎているのかもしれませんが、この種の悪しき「前例」は、二度と起こさないことによってしか、根絶することが難しい。今回の事件が、安部政権特有の問題で終わることを願わずにはいられません。神経質すぎるのかもしれませんが、悪しき前例というのは、ことが起きたときにはわからないことが多いような気がいたしますので。
posted by Hache at 23:57| Comment(0) | TrackBack(1) | 不幸せな寝言

2007年05月27日

約1800年前の「兵どもが夢の跡」

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:・・・ここは相変わらずじゃな。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:あのデブのブログが更新されてないゆえ、なにかあったのかと思ったんじゃが、ここは相変わらずじゃな。ということは、この記事が日曜日に掲載されなかったら、あのデブが単にサボっておるということじゃ。
ハッシュ:・・・。あのデブの弁護などしたくもないが、あのデブも忙しいという可能性を排除するのは、ワシですらどうかと思う。
ボッシュ:…。なんだか一人だけよい子のふりをされるのは心外じゃな。おぬしはワシが思っていたよりも薄情ゆえ、どうせあのデブのことなど知らないというところじゃろ。
ハッシュ:…。ワシもおぬしに見切られるようになったか。しかたがない。あのデブの記憶でもたどるとするか。zzz
ボッシュ:なんだか居眠りをする口実を与えた気分じゃ。
ハッシュ:うーむ。
ボッシュ:どうかしたのか?
ハッシュ:ワシには忙しそうに見えるんだが、ふだんとは違う。ワシの見たこともないような画面じゃ。おぬしに念を送るぞ。
ボッシュ:ほお。これは仕事ではないな。なになに。「チュートリアルでは曹操はないのかよ!」「劉備、本当にあんたは中途半端だよ」。…。「関羽、駆けつけるのが遅いんだよ」。…。こ、これは!よもや三国志のゲームではないか?
ハッシュ:ワシにはさっぱりだが、おぬしがそう考えるのだったら、それが正しいんだろうな。ワシにはどうでもよい。
ボッシュ:ところでこれはいつの記憶じゃ?
ハッシュ:木曜から土曜までの晩はほとんど同じことをしていたようじゃな。あのデブはパソコンなるものを四六時中使っておるが、ぶろぐなるものをいじるのは晩が多い。晩の記憶をみれば、十分じゃ。朝とか昼とか見てもつまらないし、夜は独り者に加えてあのデブはまるでもてないゆえ、記憶をたどっても、こちらが赤面するようなことをしていないから、案外、安心なんじゃ。
ボッシュ:…。おぬし、今、涼しい顔をしてさらっと、ひどいことを言わなかったか?しかし、ジパングというのは不思議な国じゃ。他国の歴史に興味をもつのはともかく、ゲームにして楽しんでしまうというのは、珍しいような気がする。このあたりは、よそ者ゆえ、わからぬところがあるが、ジパングの人たちの珍しいところじゃ。うちのシェフなどは、あのデブがやっていたのとそっくりのゲームが好きなようだが、家でやっていると怒られるらしい。そんなゲームをやっている暇があったら、洗濯ぐらいしてくださいなと嫁さんや子供たちに怒られるそうじゃ。あのデブは、ひとり者ゆえ、怒る人もなく、夜中にゲーム三昧というわけだな。
ハッシュ:ところで、あのデブのやっていたゲームは、いったい、何が目標なんじゃ?
ボッシュ:まあまあ。こんなところでボーっとしている御仁にはどうでもよいことじゃ。ゲームばかりしていたら、激怒の一つもしてくれる、奇特な方を見つける方がよほど重要じゃ。あのデブの最大の課題は、ゲームなどで「人材探索」などしていないで、自分の伴侶を探すことじゃな。ふわあ。あのデブの悪口を言ったら、なんだかすっきりして、どうでもよくなって眠たくなってきたわ。そろそろ、お暇じゃ。
ハッシュ:…。ワシ一人が置いてけぼりか。しょうがない。また、おいで。

 言いにくいんですが、最近、賢者様たちが読まれることを意識しているのでは。別に話に「オチ」がなくても、賢者様たちの会話を写すだけの「書記係」としては、「ノープロブレム」(時の賢者様のお気に入り)なんですが。

 それにしても、他人の「私生活」をばらすのはやめてほしいなあ。まるでゲームばかりやっているように聞こえるじゃありませんか。ただ、「納期」の厳しい仕事から解放されているので、気が緩んでいますね。そろそろネジをしめないと。

 上海馬券王先生(2007年の5月27日分は、何をおっしゃりたいかということがよくわかります。かんべえさんとの違いは、「無知は力なり」と無理押しをされないことでしょうか。ある国の経済が「衰退」すると、経済学者やエコノミストへの需要が増えるという「軽口」もあるので、現状のようにぬるい状態はまだまだ大丈夫?)との対話のおかげで、眠っていた「三国志」魂が目覚めてしまいました。董卓の顔が8ビット機時代から変わらないとのことで、『三國志』11の体験版をダウンロードしてみましたが、グラフィックそのものはずいぶんきれいになったなあと感心しました。お目当ての董卓の顔は拝めなかったのですが、グラフィックが、バッファローからラプターにいきなりバージョンアップしたぐらいの感動がありました。

 高校時代は、『三國志』シリーズの初回作では最小で何ターンでクリアーしたかを競っておりました。とんでもない猛者がいて、私の半分以下でクリアーするので、ちとびっくり。私は内政重視派なので早クリにはあまり興味がもてなかったのですが、「ふん、やればできるさ」と思ってやってみたら、非常に難しい。ついつい、遅○の傾向がでて、早くフィニッシュと思っても、できない悲しさを味わったものです(○な話じゃありませんよ)。それにしても、たかがチュートリアルの成都攻略であんなに苦戦するとは…。おかげで、土曜の晩から半分、徹夜状態になりました。金曜は、疲れていたので更新しないつもりでしたが、土曜の晩はひたすら成都攻略。何度もあと一歩までゆくのですが、ダメ。チュートリアルにしては難しすぎるなと思いましたが、日曜の朝にようやくクリアー。感想はといえば、「これは買わないねえ」というところでしょうか。ゲームの途中で火計が成功した瞬間に表示がおかしくなって、ありゃまと思いました。ビデオカードはオンボードの「ウィキペディア」で「三國志11」で検索してなるほど。それにしても、諸葛亮の計略成功率が事実上、100%なのはいかがなものかと。技術進歩が加味されているのは面白いのですが、内政がらみの技術進歩が皆無なのも、不満。ネットで見ると、「クソ○ー」扱いされている様子なので、チュートリアルで済ませてよかったと思います。とにかく開発の要素が『信長の野望』に比べると、時代の違いも大きいのでしょうが、あまりに弱くてつまらないと思いました。

そんなに内政が好きだったら、『三國志』11の悪口をぐだぐだ書かずに、シムシティでもやってろって!?

…。(強引に)オチがつきましたので、今日はこの辺で。おやすみなさい。

2007年05月24日

いかれた「外道」の同盟「論」

 水曜の晩から「寝言」も浮かばないぐらい眠たくなってしまい、眠りこけてしまいました。夜10時すぎに、薬を使う必要もなく、ヒラリー・ハーンの演奏を聴いたわけでもなく、久々にぐったりして眠ってしまいました。まあ、とにかく寝不足だったことに気がついたしだいです。『三國志』シリーズ最新作で董卓の顔がどうなっているのだろうと、体験版をダウンロードしたところ、チュートリアルだけが試せるというので途中までやってしまい、ハッと気がついたら、全武将の情報を見ることができるウィンドウが現れたので、見ていたら、董卓の名前がなく、茫然。気がついたら、呂布が董卓を屠った後のシナリオらしく、董卓のデータ自体が存在しない状態でした。

 そんなこんなでがっくりきたせいもあって、寝てしまいました。基本的に内政をやりつくしてから出陣するタイプで、なおかつ相手をとことん弱らせて、戦闘は形のみというのが理想です。巧緻な戦法を考えるようなタイプではなく、敵の3−5倍の兵力を準備するか、敵の兵力を自軍の5分の1程度まで削ってから、すり潰すというのが基本。『信長の野望』ですと、鉄砲ぐらいでしょうか、好んで使うのは。ほとんど野戦にならずに攻城戦になるので、槍兵あるいは長槍隊が主力。火力も使いますが、ひどいときには大名だけが一部隊を動員できる状態になってから「戦争」をしかけるので、「戦争」といっても名ばかりだったりします。

 実際は慣れるまで、負け続けることが多く、『天下創世』の合戦シナリオなどは手も足もでずにやられてしまったことが多々あります。とくに、徳川家康の最後が大坂城攻めなのですが、真田幸村が以上に強くて参りました。こういう野蛮人は苦手だわねと捨て台詞だけ吐いて逃げたい気分になります。秀忠が役立たずで、なおかつ規模ばかりでかいので、苦戦の末、「銀」。後は全部、「金」だったので、なんとか「天下人」の称号を手に入れましたが、これより難易度が高いはずの武田信玄ですら、全部、「金」だったので、不覚。織田信長シナリオの最後が「本能寺」でこれはどうかなと。信長、信忠親子が「雨鉄砲」(名前の通り雨でも使える)なので、明智光秀の部隊をひたすら鉄砲で狙って混乱させると、あっという間に全滅してしまう。これはいかがなものかと思いました。

 『信長の野望』シリーズで笑えるのが、「支配」−「従属」。弱小大名の場合、強い大名に「従属」して安全を保障してもらうのが戦略の一つだそうです。私の場合、「支配」しかしたことがないのですが、ここまでやると、もう、相当すごいなと。弱小大名の生き残りは真剣なものがあります。支配すると、従属した大名に「戦争協力」を強要できるのですが、たいてい役に立ちそうにないので、スルー。プレイヤー大名以外の大名をすべて「従属」させてしまうと、「天下統一」とあいなります。

 唐突ですが、佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP新書 2001年)次のような政府解釈が引用されています。 

 「国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」(125頁)。

 この「八一年『答弁書』」がいかにひどい話であるかを佐瀬先生は前半で集団的自衛権という権利が生まれた経緯から、集団安全保障と個別的・集団的自衛権の関係、集団的自衛件の発動の要件などを詰め、論理的に憲法上、集団的自衛権を有しているのか、内閣法制局は明確にせよと法理の核心の部分にいたり、最終的にこのような憲法解釈では日米同盟は維持できないであろうという現実的な利害の核心部分にいたるという構成。この著書が出版された頃には、政府答弁が70年安保を乗り切るために、「七二年『資料』」で政府答弁が曲げられたこと、さらに、「八一年『答弁書』」で法理としてもひどいものになったという指摘がされていて、ずいぶん話題になりました。「八一年『答弁書』」がでたのが鈴木善幸内閣で、正確な時期は忘れましたが、訪米直後に鈴木総理(当時)が、日米安保に軍事的側面はないかのごとき発言をされて、新聞にも載っていたので、とりあえず嫌がる教師に日米安全保障条約の全文の「ありか」を教えさせて、読んでみてびっくりしました。これが軍事同盟でなくてなんなのか。当時は、中学生ぐらいでしょうから、ど素人の目でしたが、「わけのわからないことをいう総理だなあ」という実感だけが残っていました。当時は、日米安保の是非というより、なにが問題なのかがわからなくて興味本位でしたが、ありゃまという感じ。

 それにしても、政府解釈の変更になぜ内閣法制局が「抵抗」するのかがわからないという感じ。個人的にはこの答弁書を「文字通り」読むと、「わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまる」のであれば、個別的自衛権の範囲でなんでもありという可能性もあって、個別的自衛権と集団的自衛権を区別して集団的自衛権はダメというのは、実は自衛隊を個別的自衛権の行使のために極限まで増強せよということかという「寝言」が浮かんでしまいます。まあ、そんな覚悟もなく、国会対策上、論理を弄んでいるうちに、新ガイドライン、周辺事態安全確保法ときて、軍事的にも、素人が見ても、わけのわからない話になってしまったという印象でしょうか。集団的自衛権の行使に関する憲法解釈の「変更」というのは、結局、内閣法制局問題というのが、正直な実感です。有識者懇で内閣法制局に「退路」を与えるのか、「白旗」を掲げさせるのか、「力攻め」にするのかはわかりませんが、佐瀬先生に怒られる(こんな「時の最果て」というより、「最果て」の地を御覧になっているとは思えませんが)のを覚悟で、私なりに「逃げ道」をつくってみると、安倍総理が示した四類型に関しては、集団的自衛権は行使できないという解釈はとりあえずそのままにしておいて、「わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまる」から例外として認めるというぐらいでしょうか。これも、個人的には納得がゆかない部分が多いのですが、これすらできないとなると、「無条件降伏」をどうやって内閣法制局に迫ってゆくのかという話になって、これはこれで大変だなあと思います。

 ゲームのやりすぎでしょうか(とはいっても、最近はプレイをしたわけではないのですが)、バカげた同盟だなあとちょっと突き放してみてしまいます。私が、アメリカ大統領だったら、朝鮮半島有事で真っ先に「攻撃」するのは平壌じゃなくて内閣法制局だったりして。 
posted by Hache at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2007年05月23日

とりとめのない「歴史談義」

 政府レベルの「日中友好」のおかげか、民放が「呪縛」から解放されたように、中国の「ヤバイ話」を報道しているようです。佐藤空将のブログに書いていることあたりが、リアルタイムで耳に入ってくるので、「八・一五」の呪縛が解けたのだなあと思います。周囲で「反中厨」が増えているのですが、「へえ」でスルー。海外で親日家ばかり会っていますし、国内では親日的な中国人、韓国人ばかり相手にしているので、「反中」、「反韓」というのはついてゆけない部分があります。もちろん、国と国との関係は別で、こちらは厳しいことも当然書きますし、本人を目の前にしていうこともあります。それで去る程度なら、その程度の関係と割り切ってつきあわないと、彼らとつきあうのは難しいです。

 そうはいっても、政治ぬきで語り合うのは楽しいもので、10年ぐらい前でしょうか、四川省出身の女子留学生の家にみんなでお呼ばれして鍋をつついたときは、楽しかったです。「気分しだいの『らんま1/2』」カテゴリーがなぜか三国志ネタで盛り上がっておりますが、「四川省なら諸葛孔明でしょ?」とばかりに話をしたら、「孔明を日本の人が知っているんですか?」ととても嬉しそうにしていたので、こちらがびっくりしてしまいました。「出師の表」の冒頭部分をそらで読み上げると、今度は彼女が目が点になって、「どこで読んだんですか?」と尋ねられて、小説や正史の日本語訳を教えてあげると、びっくりしていた様子でした。中国といっても、滅茶苦茶広いので一括りにするのは無理がありますが、やはり三国志の時代は『演義』が主流になっているようで、正史を日本人が知っていること自体が驚きだったようです。さすがに「董卓プレイ」(別名「鬼○プレイ」の話はしませんが。

 私が困ったのが、関西の方に名古屋出身だということを言った途端に「なぜ、織田信長や豊臣秀吉は名古屋を首都にしなかったんだ?」と聞かれて今度はこちらが目が点に。まともに当時は京都が政治・文化の中心で、堺は商業都市じゃないですかとついつい「ネタにマジレス」をしたら、そういう問題じゃないとのこと。司馬遼太郎さんの影響のおかげで当時の尾張が先進的だったというイメージが過度に広がっている印象がありました。ただ、信長が本能寺でやられなかったら、統治の中心をどこにおいたのかを想像するのは、楽しいことに気がつきました。いずれにせよ、清洲や岐阜はないとは思うのですが。

 一番、閉口したのは学生時代に韓国人留学生に「日本が近代化に成功して李氏朝鮮は失敗したのはなぜでしょう?」という問い。これは話が大きすぎるなあと思いつつ、苦し紛れに江戸時代の幕藩体制下の武士と両班の違いと李氏朝鮮がいったんは「攘夷」に成功したのに対し、幕府は開港を強制されたことなどを挙げると、考え込んでいました。今でも、この問いに答える力はないのですが、旧支配層に柔軟性がないと体制移行がそもそも進まないですし、進んだとしても混乱して急進化しやすいことがひとつ。西洋文明の受容は、東洋思想で凝り固まっているところでは難しく、日本の場合、黒船のおかげで、開港を余儀なくされ、そのことが政治的な反発や物価騰貴など経済的混乱を招いた側面もありますが、西洋文明の強力さを知ってその先進性に学ぶ人たちを生むきっかけになった側面もあるのだろうと。もちろん、素人的な話で本気でそれで説明がつくとは思わないのですし、暇を見つけてはいろんな角度で考えてみたい問題です。

 最近は、昔よりも中国や韓国の留学生と接する機会が以前よりも少なくなったので、古臭い感覚でしょうが、彼らは日本が好きで留学しているのですが、当然のごとく、そのほとんどが同時に愛国者でした。塩野七生さんは、海外で日本の悪口を言う日本人の「識者」に嫌悪感を書いていたことがありますが、私が接した中国人や韓国人はまったく対照的でした。とくに、中国人のナショナリズム(ただし、からなずしも排外主義的ではない)はやはり日本人の比ではない。ただし、共産党の一党独裁には天安門事件後は表立って批判する人は皆無といってよい状態になりましたが。中国人が中国を愛することは当然であって、それ自体は批判するのは筋違いというもの。また、「民主化」に過度に幻想をもつのは危険だと思います。ヨーロッパや日本を見れば、失敗を経ない限り、排外主義的なナショナリズムと民主主義はかならずしも共存不可能ではないように見えます。もちろん、中国は私が考えているより進歩しているのかもしれません。しかし、中国が経済的に成長し、その果実を軍事に注いでいる現状を考えると、ナショナリズムがもつ排外主義的な傾向を抑止すると同時に緩和する用心深い対応が不可欠だと思います。中国の「後進性」を嘲笑するのはたやすいことですが、肝心なことは中国のナショナリズムを日米が緩和し、排外主義的な側面が前面にでないよう誘導し、抑制し、最悪の場合には抵抗する手段を確保する細心の注意と具体的な措置を講じることをおさおさ怠りなく実行することだと考えます。
posted by Hache at 02:10| Comment(4) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2007年05月20日

命の賢者様の「ご不満」

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:こんなところに来ると、立てこもり事件など夢のようじゃ。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:もう聞き飽きたが、そのセリフまで心地よい。ジパングという国は実に物騒じゃ。
ハッシュ:ほお。あのデブは平和そうだったぞ。おぬしも平和そうじゃなかったかね。
ボッシュ:しかしだな、立てこもりだけでなく、首をちょんぎったりとか、赤ちゃんの死体を捨てたとか、物騒な話が多すぎるんじゃ。しかるに、あのデブたるや、まあ、あちらの方が物騒ではあるが、台湾海峡だの、北朝鮮だの、しかも、なにを言っているのかワシにはよくわからぬことばかり書いていて実にけしからん。ジパングに来て一年が過ぎたが、変な国じゃ。だいたい、場合によっては犯人を射殺することもありうる隊員が狙撃されて反撃もできんのか?新聞やテレビでは痛ましいだの、お悔やみ申し上げますだの、あのデブの「寝言」程度の御託を並べておるが、毅然とした対応ができなくては、あたら命を失うばかりじゃ。
ハッシュ:おぬしは、「武器はな……。生命をうばうための物ではないぞ。生かすための物であるべきじゃ」と言っておったではないか。考えが変わったのか?
ボッシュ:…。おぬし、そのセリフは、ジパングのゲーム(『クロノ・トリガー:書記係)そのままではないか。まあ、ワシの考えとそう異なるわけではない。ただ、実際に武器を振り回すとんでもない者がいる。これを取り押さえるのには、丸腰では危うい。場合によっては相手を殺すことも考えておかねばならぬ。あのデブは、自分の国のことすら知らない阿呆ゆえ、ワシが代わりに言っておくとだな、ジパングに260年もの安定した体制をつくった徳川家康なる人物がおる。この人物に関する逸話は嘘も多いようじゃが、素手で乱暴者を取り押さえた家来を阿呆者として叱責したという逸話が残っておる。素手で刃物を獲る馬鹿という奴じゃ。刀を振り回している乱暴者に丸腰で対応するとは何事だというわけじゃ。もちろん、いろいろと含蓄のある逸話じゃが、刃物や銃を振り回している乱暴者に丸腰での対応は無理じゃ。ワシが、武器を使う勇気よりも使わずに済ませる臆病の方が勝るというのは現実にはこのような話じゃ。今回の場合、犯人に射殺された警察官は、特殊部隊の一員ではないか。このような部隊が反撃できぬようでは、けしからぬ者どもを取り締まることなどできぬ。安全保障も結構じゃが、治安を守れないようでは話にならぬぞ。こんな重大な問題にまったく触れぬとは、あのデブは、よほどの阿呆ではないのか?
ハッシュ:…。ワシにはさっぱりじゃが、最後の一言だけはわかる。確かにあのデブは阿呆じゃ。
ボッシュ:…。そうじゃなくって。はあ。ワシの話がまずかったかのお。疲れてしまった。ところで、あのデブが書いておったが、成仏してほしい戦前生まれの政治家とは誰じゃ?
ハッシュ:…。ワシにはついてゆけない話の流れじゃが。あのデブの記憶でもたどるとするか。zzz
ボッシュ:…。
ハッシュ:あのデブは、そんなことを考えたこともないようじゃな。かんべえさんとやらが書いておって、思いっきりひいてしまったようじゃ。意外と気が小さいのお。
ボッシュ:おお、そのかんべえさんとやらが成仏を願っている政治家の名前じゃ。ワシの店に来る年配のお客さんが知りたがっておる。あのデブなら、名前がわかるじゃろ?
ハッシュ:なんでも、そのネタはやめてほしいとあのデブが念を送ってきた。「テロ」が怖いそうじゃ。だんだん「過疎地」ともいえない状態になって困惑しておるようじゃな。そこへ「テロ」が生じると、目も当てられないようじゃ。
ボッシュ:あのデブは、つくづく気が小さいのお。あのデブのブログが炎上したところで、なんの影響もないと思うが。だいたい、他人に読まれるのが怖いのなら、ブログなどやめてしまえばよいのじゃ。そもそもじゃな、「寝言」など他人に聞かれた恥ずかしいに決まっておる。つくづく阿呆なデブじゃ。
ハッシュ:まあ、そうなんじゃが。あのデブの人生自体が「寝言」みたいなものじゃ。その辺は、大目に見てやってくだされ。
ボッシュ:…。珍しく、おぬしが優しいのお。立てこもり事件よりも不気味じゃ。なにか禍々しいことの前触れでなければよいが…。背筋が寒くなったゆえ、そろそろ帰るね。
ハッシュ:…?さっぱりわからぬが、また、おいで。

 うーむ、どこから手をつけましょうか。まず、愛知県の立てこもり事件ですが、この種の事件での警察の指揮・命令のあり方に疎いので、コメントが難しいです。最初に打たれた警官を救おうとする際に、射殺が可能かどうか、救出する部隊にどこまで指示が出ていたのか、現場の裁量がどこまで許されるのか、わからないことが多すぎるので、歯切れが悪いのですが、コメントが難しいです。いわゆる「瀬戸内シージャック事件」(1970年)で犯人を狙撃した大阪府警の巡査部長が殺人罪で告訴されそうになったことが警察の対応を慎重にしているという指摘もあるようですが、地検、地裁ともに、「門前払い」(ウィキペディアやboroさんの『無限回廊』などを参考にしました)。その後も、1970年代には、長崎バスジャック事件(1977年)や三菱銀行人質事件(1979年)など犯人を射殺して「解決」した事件がありますが、1970年代に集中しています。他方で、1970年代はあさま山荘事件(1972年)、クアラルンプール事件(1975年)、ダッカ事件(1977年)などがあり、後者二つは「超法規的措置」なるもので、「ぬるい対応」が目立った時期でもあります。調べないとわかりませんが、警察側の対応が同じ時期でもバラバラで素人目にはよくわからないなあ。警察庁の統計を見ると、一時期に比べればマシになったとはいえ、まだ高水準。治安の回復には時間がかかるでしょう。実際は、どんどん鈍感になっている私が怖いのですが。

 「成仏」はお許しを。具体的な人名など、聞いたこともないし、伺う気もありませんので。それにしても、「集団的自衛権」(2007年5月18−19日)はかんべえ節(別名、「極悪」(クエスチョンマークをつけてはいけない。エクスクラメーションマークはOKです(例:「ご、極悪!!」)全開で、体調が悪いときでも、さすがだなあと感心してしまいます。ちょっとだけ悔しいのですが、こういう記事が載るから、『溜池通信』をつい毎日見てしまうのですよ。実に見事に安倍総理の「戦略」を整理されて、なおかつ「反対派」に攻め口を示唆しているように見えるでしょ?それは甘いです。騙されてはいけません。あの記事を読むと、関心はあるけれど、よくわからないなあという方にしょうがないなという気分にさせるのが「極悪」の真髄(刺された人が刺されたと気がつかないうちに息絶える)でありまして、確信犯的に「馬は馬、鹿は鹿」とおっしゃる「非道」先生との「コンビ」は、市井でのほほんとしている私みたいな者には、本当に怖い。ちなみに、なぜか私も風邪気味です。熱しては冷やされ、冷やされては「加熱」され、たまらないです(「成仏」発言は、まさかと思いますが、悪性の風邪を「おたかさん」にうつしますよという「犯行予告」?)。

 bewaadさんのおかげで内閣法制局が辞職も辞さない態度だということで、なぜ歴代内閣、というより、小泉政権ですら、集団的自衛権の行使に関する憲法解釈に手をつけなかったが、理解できます。bewaadさんには申し訳ありませんが、憲法学者はどうでもよく(こんな「血なまぐさい」話は学者さんには酷でしょう。国際法なんて実務家はともかく、純粋なアカデミズムは見事にスルーされてますし)、内閣法制局の動向の方が大切で、露骨に言えば、ベストは彼らに「退路」を与える議論がベストですが、どうにもならない場合、安倍総理がどのようなリーダーシップ(要は返り血を浴びる可能性を覚悟で「寄り切る」しかないのですが)を発揮されるのかが注目点です。法解釈というのは迂闊に素人が手を出すと、頭が混乱するだけですので、深入りはいたしません。

 有識者懇のメンバー構成については、既に書いたので繰り返す必要はないと思いますが、要は安倍総理は本気だということでしょう。この問題が党派的になっていること自体は不幸なことだと思いますが、ことがことだけにやむをないという気もいたします。実際には、二枚腰、三枚腰の対応をされるものと拝察いたしますが、最後はど真ん中にストレートをブーイングも覚悟して放るしかない。内閣法制局にとっての「統治の継続性」が総理の政治的リーダーシップを超越している事態はやはり異常だと素人には映ります。個別の案件については、官邸よりも各省庁、あるいは省庁間の連携の方がよりよい解をだす場合があることも否定はしませんし、「統治の継続性」を担保することも否定できない部分があると思いますが、集団的自衛権の行使に関する解釈(形式上、法理上、憲法の解釈・運用の問題ですが、内閣法制局が純粋に法理を詰めた上なのか、政治的な「配慮」なのかわからない点も多いです)の変更への内閣法制局の抵抗は、そのような省庁による官邸では処理できない「統治の継続性」という点でもまともだとは思えないです。まだ、未整理の点が多いので、記事、もとい「寝言」にできるようになったら、メモ程度でしょうが、あらためて整理したいと思います。

 「続き」は事務連絡です。継続的に本ブログを御覧になっている方は、目を通していただければ、幸いです。


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2007年05月19日

対外政策と国内コンセンサスに関する雑感

 ふと、行政府の意思決定というものの複雑さに驚いてしまいました。「縦割り行政」の弊害が盛んに報道された時期がありましたが、たとえば外圧がくると、省庁横断で「国士」の「有志連合」ができたりする。また、官邸にあげてしまうと、デリケートな問題の場合には、役所の若手・中堅で官邸にあげないように微妙な調整が行われている。現在では、そのような時代ではないのかもしれませんが、少なくとも小泉政権以前は、行政府といっても、「官邸主導」という意味でトップダウンで決まるものではなく、個々の案件については各省庁の裁量の余地が大きかったという印象を受けました。

 1990年代のクリントン政権時代における日米構造協議は、ある特定の世代に「爪痕」を残してしまったようです。当時のUSTRの要求があまりにも理不尽だったことによって、アメリカに対して「筋」を通すことが、「国士」として扱われる風潮を残したようです。個々の案件では、交渉を担当した方々の主張に共感する部分もあり、ご尽力されたことには頭が下がります。他方で、この時期を担当された方々のお話を伺っていると、アメリカに「物申す」ときにも、実にアメリカ人の機微を上手に理解して利用して説得し、誘導していたことがわかります。現地でありとあらゆるルートから情報を入手し、省庁間の垣根を越えて様々なネットワークがつくられていたようです。

 少し気になったのは、論壇の一部に残っている「反米」とは異なる、実際の経験からくる「反米意識」をもっている方々でした。私がタフな交渉などしたこともなく、海外経験が少ないがゆえに、不愉快な思いをしたことがほとんどない、あるいは嫌なことはわりと早く忘れてしまうという性癖のせいか、違和感を覚えました。私の場合、イギリスがほとんどなので、向こうで日本の歴史や伝統について尋ねられ、ドギマギしてしまったことは覚えているのですが、不快感を覚えることはありませんでした。オックスフォードの教授に、「日本の教育水準が高いことは知っています。その歴史的なバックグラウンドを教えてもらえませんか?」と尋ねられたときは、正直なところ、緊張してしまいました。たぶん、下手くそな英語で必死に江戸時代からの寺子屋と藩校の歴史から明治期の教育制度を高校程度の日本史の教科書レベルで説明した覚えがありますが、向こうが私の拙い語学力にもかかわらず、話の腰を折ることもなく、説明に耳を傾けていただいた後で、「あなたの国では300年以上も前から私たちイギリス人が大学と呼んでいるのと同じような存在があったと考えてよいのですか」というような、こちらがハッとするような質問をされて、私の方が勉強になってしまいました。私自身の経験が浅い(あるいは「修羅場」をくぐっていない)せいでしょうか、英米の違いでしょうか、ギャップが感じることも多かったです。もちろん、イギリス人やアメリカ人と一括りにしても、個性が当然ありますし、アメリカ人相手の交渉でも、結論を明確に述べてから、3つ程度理由を挙げてゆくというのは、交渉で相手を説得する際には得策ではないようです。

 お約束どおり、「寝言」らしくとりとめがなくなってきましたが、対外関係のプロは、実に交渉のノウハウを実務から蓄積されていることを実感しました。ただ、私が「世論の反応は、外交交渉の、それも特定の部分に偏りがちで、外交政策については関心が低いように思います。このままでは、的確な外交政策に基づいて対外関係を展開しても国内的に理解をえることが難しくなることも多いのではないでしょうか?」と尋ねてみましたが、あまり明確なお答えはいただけませんでした。私の質問のしかたが下手だったからかもしれませんが、「英仏のODAが増加傾向にあると御説明いただきましたが、同じ民主主義国である英仏が財政事情の違いもあるのでしょうが、ODAに関する政策の国内コンセンサス形成に成功しているのに対して、日本ではうまくいっていないのはなぜでしょう?」と尋ねてみました。「そりゃあ、英仏は旧植民地を中心にうまくやれるからですよ」というお答えを頂いたのですが、話がかみあわなかったようです。

 今週は、「東アジアの『冷戦』と日米同盟」というテーマを考えてみましたが、なにか外交政策や安全保障政策について「啓蒙」しようとか、「物申す」という気概などまるでなく、メモの感覚でかいております。少し気になるのは、このような「時の最果て」でのメモなどなにひとつ影響力がないでしょうが、これらの政策に関して実務や様々なレベルで社会的影響力をもつ方々が、外交政策や安全保障政策へ関心が相対的に低い国民へ、おそらくほとんどの民主主義国では同じ状況だと思うのですが、説得的な議論ができているのだろうかと思います。あるいは、相対的に関心が薄い層に訴えるよりも、高い層でコンセンサスができればよいということなのかもしれません。対外政策に関して広く理解をえることは国内的にも難しいことです。

 他方で、個別の案件で交渉で「得をしたか損をしたか?」という点から、「損をした」ように見える結果について報道の関心は集まりやすい印象があります。もっとも、コンセンサスというのは、ある政策を主張したときに、反対だという人の声が小さく、中間的な態度をとっている人たちが反対だといわなければ、それはもはやコンセンサスだといってよいという解釈もあるそうです。同盟強化と憲法改正が安倍総理にとっての、小泉総理の「郵政民営化」にあたる、あるいはそれ以上の価値を見出されている政策であると思いますが、「それで大丈夫かなあ?」と思って見ていたら、いつの間にか国民投票法が成立していました。まだ、安倍総理の政治的リーダーシップのあり方が理解できていない部分がありますが、事前の評価の通り、ブレずに、事を進めてゆくというあたりまではわかりました。小泉政権から政治的リーダーシップのあり方が変わってきましたが、安倍政権はその変化を安倍流に受け継いでいる、そんな印象です。
posted by Hache at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2007年05月17日

東アジアの「冷戦」と日米同盟(2)

(@「時の最果て」)

○あなた、かんべえさんが師匠でしょう?

→か、かんべえさん?ど、どなたでしょうねえ。私こと、Hacheは、時の賢者様の名代として「時の最果て」で夜な夜な「寝言」を綴っている、「生まれも悪いが育ちも悪い」いかれた「外道」でこざいます。

成仏してほしい戦前生まれの政治家って誰でしょう?

→…。し、知りません。わ、私は、政治家に限らず、ご、ご年配の方々に置かれましては、長生きしていただくことを心より願っております。

○あんたが「極道」なんて書くから、ここまで書いたらどうせ気が小さいからついてこれねえだろうとカマをかけたんじゃないの?

→あ、あのー、「さくらのブログ」管理画面ではどなたが見たかを確認することはできません。こ、このようなですね、「過疎地」がそのような影響力をもつとはとても、とても…。

それにしても、こえー。越中は怖いよお(上海馬券王先生は、ティー・オー・ケー・ユー・ビー・イー・ティー・ユー(TOKUBETU)と・く・べ・つ(はあと)。カワセミプリンセスとの「玉砕」、お見事でございます)。太平洋岸でのほほんと生きてきた者としては、「成仏」などというおっかないことは頭もよぎらないのであります。やっぱり、「党○○論」がトリガー?あんなもの逃げておけばよいのに。安倍総理相手に勝ち目がないのはミエミエですね。「成仏」しなくても、終わってますがな。なにも「強制終了」しなくても…。

…。失礼しました。取り乱してしまいましたが、「平常心」(やっぱり、こちらが「本命」?)でまいります。本題に戻りますが、長島昭久さんの『翔ぶが如く』「訪米報告 その1」(2007年5月7日)を「寝言」風味で読んだだけですので、こちらを読まれた方が理解しやすいと思います。なにしろ、「ABLってAirborne Laserの略でよかったっけ?」というレベルなので、いたるところで勘違いをしている可能性が高く、私が無断で勝手に「感想」を書いているだけですので、間違いはすべて私の責任です。

 まず、北朝鮮が核を手放すことはないという情勢判断は、それ自体は意外性はないのですが、北朝鮮の対米外交のみならず、対中外交にも影響するというのは、素人的にはうっかりするところ。邪推ですが、やはりミサイル発射は「狙い撃ち」というところでしょうか。

 驚いたのは、それを踏まえたマイケル・グリーンの「対策」です。何が驚くかというと、これが実現してしまうと、書くべきではない気もいたしますが、対北朝鮮だけでなく、対中国についても日米同盟の軍事面での抑止力はこれ以上ないほど高くなってしまうことです。BMDで発射前のミサイルだけでなく、発射後のミサイルをABLで「迎撃」するというのは、北朝鮮が核のコンパクト化にも成功することを視野に入れたものでしょうけれども(すでにできているという「有力な情報」というのは本当に驚きですが、北朝鮮が独力でできるはなしなのかどうかに、いかれた「外道」の関心はいってしまいます)、場合によっては南西の防御にも使えるでしょう。よけいな話ですが、嘉手納に配備されているF22は「期間限定」できており、暗黙の北朝鮮へのプレッシャーとして解釈されているようですが、北西に飛べる戦闘機が能力的に南西に飛べないということはないんじゃないかな。まあ、軍事音痴なので、「寝言」以外のなにものでもありませんが。

 さらに驚くのは、戦術核の「復活」。北東アジアや西太平洋への配備となると、事実上の「冷戦」といってよい状態でしょう。もちろん、マイケル・グリーンの私見であって、直接、アメリカ政府がこのような政策をとるわけではないでしょうが、このような見解があること自体、驚きです。日米共同管理となると、日米同盟の双務性どころの話じゃないですね。策源地攻撃能力を日米で共有となると、もうこれは完全に本来の同盟そのもので、事実上、安全保障に限定しても、「戦後」は名実ともに死語となります。これらのことが完全に実現したとしても、日本の安全が完全に守られるというわけではないでしょうが、望みうる選択肢の中で最も望ましいものであると思います。もちろん、以上のことは、あくまで北朝鮮の核武装を受けての話であり、通常の同盟では「名指し」しない仮想敵国が北朝鮮であることは明白ですが、事態の推移によっては、中国も日米同盟の抑止の対象となりうるほど、強力な関係になると、いかれた「外道」の目には映ります。誤読をしていただかないよう、念を押しますが、以上のことは、長島先生の記事を「寝言」風味に私が勝手に解釈したものであって、無断で引用させていただいているものであって、端的に言えば私の「深読み」にすぎません。インドの評価など他にも興味深いことが多いのですが、本題からそれますので、省かせていただきます。

 寄り道ですが、前回の記事が、岡崎久彦「台湾の戦略的価値」で論じられている対象をシーレーンに限定したかのような印象を与えたならば、責任はすべて私にあります。あるコメントを拝見して、趣旨はそこではないと断られながら、シーレーンのことばかり問題にされるので誤解を生んでいるのではないかという懸念をもっております。全文を英語でお読み頂ければ、原文の趣旨は、シーレーンの問題を説明した上で、中国による台湾併合は英米の覇権への挑戦となる意義をもつことだと岡崎先生が主張されていることが理解できると思います。当該記事その他を再検討して、私の国語力や英語力のなさによって誤解を生む可能性があると私自身が判断した場合、該当する記事および訳文、その他関連する記事すべてを、一切の予告なく、全て削除いたします。

 本題に戻ります。もちろん、日米同盟の強化にもリスクがあります。北朝鮮と事実上の「冷戦」に入ること自体はやむをえないとしても、中国が日米同盟への「敵視」を強める可能性があるでしょう。同盟そのものは当事者どうしが「共通の利益」というやむをえない事情があることが前提ですが、他方で、それ以外の国との関係を硬直化させてしまうリスクもともないます。北朝鮮の核開発とミサイル発射を受けての話でしょうが、中国、場合によってはロシアにとっても脅威でしょう。だから、よろしくないということではありません。結局、中国とロシアにとって「脅威」となるのは、半ばよりも多くは彼らの行動にかかっているからです。

 それにしても、この記事を拝読して感じたことは、北朝鮮という「虫歯」に対応するにしても、日本が自分の国は自分で守るという延長線上に日米同盟の強化という戦略を明確に位置づけることが、最も筋がよいということです。率直なところ、上記のことはあまりに日本にとって有利なので本当に実現可能なんだろうかと思う部分があるぐらいです。そして、あらためて複雑な気分になるのは、日米同盟の現状はあまりにアメリカの「善意」に依存しているということです。基地を「提供」していること自体は、もちろん、双務性の重要な要素でしょう。また、日米同盟によって日本外交の選択肢も狭まる部分があるのでしょう。同盟の運用しだいでは、最悪の場合、極東、あるいは東アジアで新たな「冷戦」に生むこともあるのでしょう。

 厳密な意味での日米同盟の「費用対効果」は、素人の私には手に余ります。ただ、この国を守ることを基本に考えた場合、この国独自でできることには限界があることは、もっといえば限界があまりに多いことは自明だと思います。それをこの国単独で限界がありつつも、選択肢を拡大するのが望ましいのか、日米同盟を本来の同盟として機能させるのかが望ましいのかという問いに厳密な意味で「解」を与えることは私の能力を超えます。日米同盟の強化は、日本の選択肢を狭める側面があり、同盟の強化を図るならば、現在以上に国際協調を図ることによって、日米同盟によってこの国がえる利益と他国の利益を調整してゆく、用心深い、不断の努力が要求されます。しかし、このことは、この国がアメリカとの同盟なしでも同じことであり、なおかつアメリカとの同盟がない以上、アメリカが敵となる事態も想定しなければなりません。日米同盟によってこの国が選択肢が狭まることによって、アメリカの選択肢も、アメリカの広い意味での「パワー」によってこの国よりもはるかに広いでしょうが、ある範囲内に限定されてくるでしょう。

 繰り返しになりますが、日米同盟の強化を脅威と感じる国は北朝鮮だけでなく、けっして少なくないでしょう。日米同盟の双務性を高めることは、安保改定時に論点がぼやけてしまった(あるいは反対派が論点をぼかしてしまった)印象もありますが、アメリカのためにするものではなく、この国の安全と繁栄を守ることが基本でしょう。そのような利己的な目的から発した同盟がアジア、あるいは極東に限定しても、安定をもたらす保障はどこにもありません。同盟の強化と近隣諸国との積極的な外交は、矛盾するものではなく、むしろ、同盟を強化しようとするならば、近隣諸国との外交を活発にする必要があるでしょう。これは、現政権が既に着手し、実行していることの後追いにすぎないのかもしれませんが。

 日米同盟が極東の平和と安全の礎になるか否かは運用しだいです。しかし、素人にもほとんど自明のことと映ることがあります。自国の安全を守れない国が、地域の平和と安定の礎などなることなどありえないということです。このようなナイーブなことは、専門家ならば、恥ずかしくて書けないでしょう。この国を守るために、日米同盟をさらに双務的にし、自国の平和と安全を確実にすることが、地域を極東に限定しても、国際的に貢献を行う、不可欠の基礎であると考えます。

2007年05月16日

「極道」への誘惑

 寝不足でヨレヨレになってしまいました。とにかく寝たい。「東アジアの『冷戦』と日米同盟」を書き始めて、いろいろ考えてゆくと、勉強不足だということを痛感いたします(寝不足だというのにキッシンジャーやナイの本を読み返してしまう私は「病気」以外の何物でもないですな)。慌てて記事にすることもないので、いろいろ「補助線」を引きながら、「寝言」風かつ素人的に考えてまいりたいところです。それにしても、すべてを放り出してとにかく熟睡したいというのが正直なところ。月・火は寝不足状態でなんとか乗り切って、水曜日に「充電」して木曜日にすべて「放電」し、金曜日は廃人状態ながらも、なんとか「本体業務」をこなすというのが基本的な「リズム」なのですが、年々、「顧客」の水準が低下してこちらの負担が増える一方でなかなか厳しいものがあります。

 中年の愚痴はこれぐらいにして、今日も引用からですが、「本丸」へ行く途中の「寄り道」です。「テロ」への恐怖はあるのですが、『溜池通信』の「不規則発言」(2007年3月20日)からです。

<3月20日>(火)

〇東京財団の若手安保研、とうとう今宵が最終回である。思えば2003年夏、坂本正弘先生の呼びかけで第1回の会合を開き、座長を押し付けられてしまってから幾星霜。2004年春から東京財団の研究プロジェクトに昇格して予算がつき、丸3年にわたって毎月第3火曜日の夜には研究会を開催してきた。参加者はじょじょに増え、講師ものべ30人を数え、提言も2本まとめた。ホント、よく続いたものだと思います。

〇今日の講師は伊藤貫さん。「日本は核武装せよ」という論者である。ワシントン在住の人なれど、たまたま日本に出張中のところを来ていただきました。この会が始まった当初には、まさか日本の核武装論議を真面目にする日が来るとは思わなかったけれども、それだけでもこの間の安全保障環境の変化が大きかったことが良く分かる。で、伊藤さんの議論は概ねこういう経路をたどる。

(1)日本人はリアリスト外交を知らない。親米保守派は真のリアリストにあらず。

(2)今後アメリカの国力は低下し、世界は多極化に向かう。

(3)核の傘に頼れない日本は自主防衛するしかない。ちなみに核武装のコストはGDPの0.1〜0.2%で良い。

〇たくさんの論点があるところですが、かんべえ(世間的な評価では親米保守派になるのでしょう)が妙に納得したのは、伊藤氏が「日本が自前の核戦力を開発するまでには10年程度かかる。それまではNuclear Sharingでいくしかない」と言ったところです。前にも書いたと思いますが、日本が自前の核を持つことは容易ではありません。NPT脱退なんて論外ですし、そもそも黒鉛炉を作るところから始めなければなりません。そんなもん、日本国内で立地できるわけありませんわな。その辺のことを知らずに、勇ましく「日本よ核を持て!」と主張する論者は、観念的リアリストと呼んでさしあげるべきでしょう。

〇ところが今後、中国の軍事力が今の調子で拡大を続けた場合、アメリカが日本に対して「核を持っていいぞ」と言い出す可能性はけっして低くはなく、それでNuclear Sharingができるのであればとりあえずは安心である。伊藤氏の場合、その間に自主防衛の努力をして、自前の核を持ってはじめて日本は一人前になる、という議論になる。ただし、アメリカの核を借りて、アメリカの目を盗んで自前の核を持つというのは、限りなく不可能に近いですわな。というか、日本の場合はNuclear Sharingができた時点で安心してしまい、その先には進まなくなるでしょう。

〇かんべえのように没道義的(極悪?)な人間としては、「それでいいじゃん」と思ってしまうのですが、自主防衛論者としてはそういう無定見なところが許せない、だから親米保守派はケシカラン、ということになるのでありましょう。結局、リアリストだ、アイデアリストだ、何とか主義だといった無数の流派は、最後は個々人の人生観とか好き嫌いに帰着するものなのであろうなあ、というのが今宵の生暖かい結論であります。

〇会合が終わったあとは、アメリカ大使館前の「キングズアーム」へ。ここでポテトとナッツをつまみにビールを飲むのが吉例の二次会となっておりまして、今まで何十回来たかわからない。ホントはお洒落な料理と一緒に各種ウイスキーを楽しむべき店なのですが、なぜかそういうストイックな路線になっている。しかも今宵などは、ウーロン茶とジンジャエールが多数派を形成しておりましたぞ。通算4年の月日の結果、もう「若手」ではなくなったメンバーが増えたのかもしれません。

〇何はともあれ、終わってホッとした。来たる3月29日(木)午後6時半から、この会合の最終報告会を開きます。Open to Public、無料の会合でありますので、ご関心のある方は下記URLから参加登録をどうぞ。不肖かんべえも報告をいたします。ついでに立食パーティーもついておりますので、安全保障関係のネットワーキングにも最適ですぞ。


 まず、引用文中、明らかな事実誤認がありますので指摘しておきます。「極悪?」という表現がでてきますが、クエスチョンマークは不要です。おそらくはツッコミをいれろという御指示ではないかと憶測いたしますが、「非道」先生と「グル」ですと、「極悪非道」、略すと「極道」です(あ、ネタにマジレスしちゃった)。読者の皆様、このあたりの煙の巻き方は、かんべえ師匠もといかんべえさんの得意技ですので、お間違いのなきよう。

 ちなみに最終報告会への参加希望を出しましたが、「ドタキャン」してしまいました。かんべえさんのテロにはある法則性があって、(1)その日に出会った人がブログを所有していると「テロ」への誘惑に駆られる。(2)なかには奇特な方もいらっしゃって、「テロ」をして下さいといわんばかりに、自分のブログを教えてしまう。(3)「不規則発言」のネタが不足しているときに、やや「ぬるめ」だけれど、かんべえさんから見るとおもしろいネタが書いてあるブログを見つけると、「テロ」をしたくなる。(4)やじゅんさんのように親切に知人のブログを紹介して「テロ」でブログに勢いをつける。当然、「ドタキャン」した理由は、(1)を回避するためでありまして、「テロ」攻撃を受けるという確信があったわけではありませんが、いかれた「外道」とはいえ、「君子あやうきに近寄らず」が原則であります。

 …。いきなり本題からそれてしまいました。"nuclear sharing"自体は、「極悪」でもなんでもなく、自前の「核武装」よりもはるかに現実的だと感じる方が普通でしょう(と素で感じる私も「あれ」な人なのかもしれませんが)。あまりに素人的な発想で恥ずかしいのですが、自前の核でも、いわゆるアメリカの「核の傘」のどちらでもよいのですが、私の関心は、日本に対して核攻撃も辞さない態度を示している国に核を含めた軍事的オプションを準備することで、潜在的な敵国の軍事行動を抑止できるかどうかということです。この「計算」をきっちりやるのは私の手に余ります。他方で、自前の核というと、威勢はよいのですが、米軍基地でも揉めるのに、国内で地下核実験をやるとなったときに、「候補地」の選定で揉めるとなると、目も当てられない話ではあります(北朝鮮の核開発を受けた核武装論議のときには「外交上、どうかな?」という疑問があって批判的なことも書きましたが、現実問題としてはもっとお寒い話になりそうな気がして、あのときには書かずにおきました)。「核武装」や「核の共有」それ自体は手段であって、核抑止という目標が達成できるかどうかが、素人が知りたいところということです。ちなみに、この「不規則発言」を拝読したときには日米で核を「共有」するという話自体は魅力的だけれども、アメリカがそこまで言うのかなという疑問はありました。

 寄り道ついでに、素人的にはやはり自前の核武装自体に疑問があります。国際的な制約は全て無視したとしても、現代の核兵器といえば、弾道ミサイルに搭載された水爆(?)が基本でしょうが、日本が核武装をしたところで、プルトニウム爆弾がいいところでしょう。仮に、水爆レベルまで開発するとしても、実験データを確保するとなると、途方もない積み重ねが必要になりますが、どうやって実験場を確保するのかがわからない。さらに、第二撃能力は潜水艦から発射するミサイルでしょうけれど、そんな技術を自前で開発できるのかなど疑問だらけになります。まあ、自分でもナイーブすぎる疑問なので専門家に尋ねたり、しっかりと調べたわけではないのですが、どうも現実味がない。

 他方で、核抑止は中長期では対中露で考えておく必要があると思います。とくに、ロシアは、一時的とはいえ、核戦力に関してはアメリカとほぼ対等な立場までいった実績があり、ソ連崩壊で核拡散の方に関心が向かいましたが、ロシアと中国が手を結ぶのは非常に危険だと素人目には映ります。両者の事実上の同盟は核にとどまらず、通常兵器でも日米に対抗しうる、対応を誤れば凌駕しかねない危険すら感じます。

 というわけで、首領様には申し訳ないのですが、北朝鮮自体は「撃つわ」などスルーに近い状態だったのですが、まさか核開発が核のシェアのきっかけになる可能性があるとは思いもしませんでした。とにかく眠たいのですが、書かずにはいられない衝動があります。

 男は顔じゃないというものの、安倍総理におかれましては比べること自体、非礼かとは存じますが、安倍総理と首領様のご尊顔を並べると、勝負は(以下略)。   
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