2007年06月28日

霧ケ峰の「大冒険」

 エアコンの掃除が完了してとても爽やかです。火曜日の晩、閉店間際の家電量販店に駆け込んで空気清浄フィルターを注文と思ったら、なんと在庫があるという嬉しい「誤算」。思わず後で考えると、調子に乗りすぎたかなと思いましたが、2セットほど買いました。ついでに故障している掃除機のホースを注文に出してこちらもスムーズに事が済みました。掃除機のホースまで在庫があったら、このお店は俺の専門店かと思うぐらいですが。さすがに、ホースを在庫で持っているお店はないでしょうか。ちなみにお店はビックカメラ。ついつい「ビッグカメラ」と書いてしまいそうですが、かんべえさんが2006年4月8−9日づけの「不規則発言」でやっちゃって、2chのスレッドで一時期、大繁盛していたことをふと思い出します。

 そんなわけで帰宅したのが夜の9時半ごろ。家のエアコンのスイッチを入れようとすると、あらためて見て汚い。ほこりまみれになっています。こうなると、もうどうにも止まらない。機械のように説明書を読みながら、前面と上部のカバーを取り外して、またまたびっくり。空清フィルターを保護しているエアフィルターもほこりまみれ。この瞬間に「全面戦争」を決意しました。まずは、本体のカバーについているほこりを掃除機でガンガン吸い込む。なんとわが家には掃除機の「予備軍」があるのです。もうすぐ「20歳」になる細身の掃除機。昔は、それこそ強力な吸引力を誇っていましたが、年齢の衰えは隠せず、やむをえず5年ほど前に「現役」の座から降りてもらいました。しかし、ひっそりと狭い家の中に潜んでいたのでした。さっそく取り出して、カバーのほこりを吸い込んでもらうと、途中まで勢いがよかったのですが、突然、咳き込んだように変な音がして慌てて掃除機を止めると、なんと浄水器の金具を吸い込んでいました。掃除機でとれるほこりが済んだら、次は「シャワー」。温まったところで、「かんたんマイペット」でシュッ。みるみる黄ばんでいたのが真っ白になって、感動しました。

 さらにエアフィルター。これは掃除機君の手には負えず、いきなりシャワーです。お風呂場にほこりの塊が散乱して、ちと慌てましたが、やはりかんたんマイペットをシュッ。こちらは頑固そうなので約5分ほどつけたまま、放置。その間に、いよいよ「本丸」の空気清浄フィルターと活性炭フィルターにプラズマユニット。フィルターは汚れているというより、煤けた感じで、もののあはれを感じました。速攻で古いフィルターを取り外して、続いてプラズマユニットなるものをとってしまう。こちらもほこりがついていたので洗ってもよいのかなと思ったら、説明書につけおき洗いをしてくださいとあるので、こちらはお風呂場ゆきとなりました。これだけ作業をしたら、再びお風呂場で外部のカバーに「シャワー」。洗剤のにおいがしなくなったら、水滴をはらって物干し台へ。もちろん、この間、エアコンは動作するどころか電源を抜いていますので、少し汗ばみました。プラズマユニットは陰干ししろと書いてあるので、エアフィルターと並べて洗濯物を干す感覚で物干し台へ。

 説明書の手順と異なるのでちとまずいのかもしれませんが、プラズマユニットの奥にある活性炭フィルターを取り替えて、あたらしい空清フィルターをはめこみました。この作業が終わった頃には11時ちょっと前。1時間ばかりでなんとか掃除が終わりました。他の取り付け作業は目が覚めてからと思いましたが、寝る前にエアコンの掃除をしたら、けっこう体が温まってしまって眠れない。扇風機に助けてもらいながら、午前2時ちょっと前に乾燥したのを見計らって、取り付け作業をすると、びっくりしました。設定温度を25度にしていたのですが、寒いぐらい。温度計を見ると、あっという間に25度を下回る室温に。慌てて28度に設定しなおして、すっかり「クールビズ」仕様とあいなりました。

 あんた、「寝言」にしてもエアコンの掃除ぐらいで長いねえって?まあ、だらだらと長いことだけが特徴の糞ブログですのでお許しを。それにしても、2年近くエアコンの掃除をサボっていたのだと思うと、ちょっと自分でも寒気がします。まあ、それなりの事情はあったのですが。土日はネット・電話の総入れ替えが待っているので、ギリギリのタイミングでした。日記みたいなことは書かないことをポリシーにしてはいるのですが、こうやってエアコンの掃除した日のことを書いておくと、このブログをウェッブ上にのせている限りは、前の掃除がいつだったのかを簡単に確認ができるのですよ。このブログ、想定している読者は、実は自分ただ一人ですので。ちらっと『報道ステーション』を月曜日に見たら、年金にミートホープ。これは萎えます。どうも周囲の話では、この1週間ぐらいこればっかりらしいので、そりゃあ飽きるよなあと思ったしだいです。年金では激萎えで「寝言」すら浮かばないのですが、ミートホープの件ではとある「寝言」が浮かぶのです。ただ、これを書き出すと長くなるので、ちょっとはゆとりのあるときに。

 イラクに「寄り道」したいのですが、どう考えてもインプット不足。国際情勢に限らないのでしょうけれど、観察というのは途切れている部分があると、もうダメです。私は専門家ではないのでそこまでの精度を自分に課してはいないのですが、エアコンの掃除のようにまとめてというのはなかなか大変です。いずれにせよ、目先の「作業」に追われて、「作業効率」を高める基本がどこかにいっていたので、エアコンに限らず、「掃除」に追われる毎日です。ただし、「掃除」をしている期間中は「生産性」が落ちてしまうのが悩ましいところ。散らかっている状態というのは、意外と一番よく使うものがパッとでてくる状態だったりする(他方であまり使わないものを捜すのに異常に時間がかかるのですが)ので、職場や家のレイアウトというささやかな話でも、事前の「設計」の難しさを感じます。事前に考えたとおりに生活も仕事も進むわけではないので(これは私の知的能力の低さに起因するところも大ですが)、一日を終えるときの後片付けの積み重ねがものをいうことを実感します。日頃の心がけが大切だなあと日めくりカレンダーに書いてあるような「格言」の重さを実感する日々が続きます。
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2007年06月25日

さらば NTT

 更新が停滞しております。深い理由はなく、公私ともどもバタバタしておりまして、ネットもメールの送受信程度で済ます日も少なくありません。ほとんどの「戦線」の「補給線」がのびきっていて非常に厳しいです。「増派」は期待できず、自分の睡眠時間を削るしかないのですが、限界があります。能率も落ちますしね。

 CATVのメンテナンス時にテレビとセットでネットと固定電話への加入を勧められました。迷いましたが、ざっと見積もって住民税の増加分の7割程度は削減できるので切り替えることにしました。半年ほど前に県内市外・県外・国際のマイラインを日本テレコムからNTTコムに変更したのですが、結果的に通信費が上昇してうんざりしました。日本テレコムが異常に安いというのはありますが。携帯もドコモと縁を切りたいのですが、今回は保留。私の同世代では珍しく、固定の支払額のほうが高いという状態なので、まずは、こちらをなんとかしたいというのが正直なところです。とにかく、実家に連絡するときに料金が高すぎてかなわないというところです。携帯と異なって端末を変える必要もなく、心理的な障壁、あるいは慣性(inertia)さえなければ、ケーブルのネットサービスが30MとADSLの最も伝送速度が速いプランと比べて意外と低い印象ですが、光を使っている人に聞いてみると、意外とたいしたことがない。NTTの市場環境への対応の鈍さには嫌気がさしていたので、おさらばするにはちょうどよいかなというところでしょうか。まあ、会社自体がダッチロール状態のところよりはマシなんでしょうけれど。「さらば」といっても、「利用停止」なので、転居などで状況が変われば、柔軟に対応できることもわかって意外な経験でした。

 日本では、失礼ながら、アメリカと比較すると、CATVはマイナーな存在なので、注目度があまり高くないのですが、地上波デジタル、BSデジタルの大半、CSの一部に対応していて、番組的にもちょうどよい感じ。ほとんどテレビを見ていないのですが、時間があるときには、ディスカバリー・チャンネルとかCNNあたりを見ているので、いずれにしても地上波はほとんど見ません。テレビ自体が本棚の一部を占有している状態なので、比重が異常に低いのですが。HDR付のチューナーで基本料金に800円ほど上乗せ。『サンプロ』をはじめ、リアルタイムでテレビを見ることがほとんどないので、意外と助かります。いまだにVHSを使っていたので、最近は録画するのが苦痛でした。

 それにしても、数年前までNTTグループの方たちからIP電話が110や119などの緊急電話に対応していないからダメだとか、最近ではユニバーサルサービスですか、いろいろ聞かされて、いずれも競争の進展を遅らせようとしているのがあまりにミエミエで辟易しました。ユニバーサル利用料で不採算地域の赤字の何割程度をカバーしているのかはわかりませんが、それ自体は、加入者アクセスチャージに近い部分があり、内部相互補助の一部とはいえ、透明化する意義はあるのでしょう。ただし、基本料の設定は、加入者便益、あるいはネットワーク効果ばかりが強調されて費用面が考慮されていないのは異常な感じがします。通話料は全国一律を建前にしながら、基本料で地域間で再分配(単純化をすれば、加入による便益が高いとみなされる都市部は高く、農村部で低く設定されてきた)というのはどうなんでしょうね。露骨に言えば、足回りの部分で旧電電公社、NTTが事実上、独占であることが前提の料金設定で、今でも光に関しては、少なくとも住宅用ではNTTの独壇場でしょうし、今後も大きな変化はないのでしょうが、音声とデータの境界だけでなく通信と放送の境界もはっきりしなくなってきている現状で、住宅向けサービスでNTTの加入者回線をどのように活用してゆくのか、あるいは代替的な事業者が育つのか(かなり厳しい気もしますが)などゆっくり整理したいところですが、高層マンションのおかげで「日陰」になった私の「わび住まい」にCATVが導入されて皮肉にも利便性が向上しています。例によって先送りですが、この件に関してはまたの機会に。さらに、申し訳ないのですが、イラクに関しても先送りです。

 今日の本題ですが、「寝言」ではなくて事務連絡です。7月1日より、CATVのブロードバンドサービスに移行いたします。CATVへの移行に伴い、メインのメールアドレスも変更になります。メールアドレスが確定いたしまたら、自宅用のアドレスに登録されている方に新アドレスをお知らせします。9月頃まで@niftyとの契約を続ける予定ですが、それ以降は@niftyのアドレスを廃止する予定です。お手数ですが、当方からお知らせのメールが届きましたら、アドレス帳への登録をお願いいたします。もちろん、どうでもいいやという方は、そのままでかまいません。はあ、余計な「仕事」を増やすばかりで疲れます。
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2007年06月20日

「あたふた」後「あたふた」

 書きたいことがたまる一方で、文章、もとい「寝言」を呟くゆとりがなかなかとれません。正確にいえば、体力・気力・知力が極限まで低下して、ルーティンでもミスを連発する始末。とうとう、不思議なことに、致命傷にはいたらないように、思いがけないところからフォローをして頂いて、救われております。それにしても、火曜日は最悪の日でした。

 珍しく朝食を外でとったのがことの始まり。雨がふりそうだな、でも、雲があるけれど、晴れているなと迷いながら傘をもってでかけたら、お店に傘を忘れてしまいました。これぐらいだったら、よくあることですが、勤務先から帰ろうとすると、土砂降りではないのですが、傘がないとつらい状態。幸い、勤務先に何本か傘をストックしてあったので困りませんでしたが、用心したつもりが、この有様。しかたがないなあと思いつつ、帰り際にお店によると、ちゃんと私の傘を通常の傘立てではなく、別途、保管してくれていました。言いにくいのですが、にわか雨に備えて折り畳みではなく、普通の傘をもっていって、お店で飲んでいたら、飲んでいる途中から雨が降って帰り際に傘がなくなっていたなんてこともあって、ちょっとした人間不信。それ以来、傘は他人をとられることを前提にコンビニのビニール傘以外は使わないようになりました。雨が降るのに備えて高い傘をもってでかけて、他人にとられてしまうと、金銭的なコスト以上に心理的なダメージの方が大きいので。傘一つでまずはあたふた。

 「自己不信」に陥ったのが、定期券の紛失。とある駅の自動改札は反応が微妙に遅くて、なおかつ定期を機械が強く抑えているので急いでいるときには獲り忘れてブザーが鳴ってしまうことが多々あります。当然、とり忘れに気がついてなんの問題もないのですが、この日は疲れていたのか、傘を差したまま改札機を通った(自分でも乱暴な話ですが)ので、やはりとり忘れてしまいました。さすがに慌てて定期をとったところまでは覚えているのですが、駅に入ってから傘をたたんで、定期をどうしたのか、記憶がまったくなく、よほどボーっとしていたのでしょう。列車がすぐに来て乗り込んでから、なにか違和感を感じて、ワイシャツのポケットを見ると、定期がない。「ああ、財布にしまったのね」と財布をとりだすと、財布にもない。さすがに焦ります。ズボンのポケットから、カバンの中まで調べたら、頭の中が真っ青。どこにもない。降りた駅の改札で駅員さんに事情を話すと、向こうまで真っ青に。私がパニック状態なのが伝染でもしたのでしょうか。慌てて駅の部屋に飛び込んで、乗車駅と連絡をとってくれましたが、とどいていないとのこと。定期券売り場で紛失届をだすよう丁寧に案内をしてくれたので、慌てて売り場へ。この段階で一瞬で5万円と数千円を失った気分に。

 定期券を紛失した旨を話すと、どちらの売り場(南北二箇所にわかれています)ですかという問い。こちらで買ったから、こちらへ着てるんですけれどと少しイライラしながら答えると、何月何日に買いましたか?もう、この段階で疲れますねえ。実は乗り継ぎで別の定期をもっているのですが、両者で定期券売り場の「営業時間」が異なるので、同じ日に買った保障がなく、正確に思い出すのは、私のザルの脳では不可能。給与とともに交通費が支給されるのですが、あいにくこのときは日曜日が支給日にあたる日付だったので、金曜日に前倒し。しかも、土日も出勤していたはずなので、いつ定期を買う余裕があったのか、定期券そのものを見ないとわかりません。もちろん、向こうとしては、電算記録を調べて万が一、拾得した人が勝手に払い戻さないように手配するのがお仕事で、当然のことをしているだけなのでしょうが、ただでさえ寝不足で疲れきっているのに、細かいことを尋ねられると、嫌気がさします。

 とどめは、定期券の発行ができる自動券売機が二台並んでいるのですが、「どちらの券売機で買いましたか?」疲れているので、最初はまったく意味がわかりませんでしたが、左右のどちらですかと言われてさらに疲れました。そんなことを覚えているぐらい記憶力がよかったら、定期券を落とすなんてバカなことをしないよという一言が喉元まででてきましたが、飲み込んで、必死に思い出すも、無理。電算処理の結果を確かめるために正確なデータがほしいとのことでしたが、まさか生データを人手で全部、確認するのかなと不思議に思いました。まあ、「よけいな仕事」を増やしているので、えらそうなことは言えないのですが。最後に「でてこなかったら電話いたしますが、でてきたら電話しませんからね」。「でてくる」の主語がない。定期券のことなのか、購入データのことなのかまるでわからない。もう諦めて「ああ、そうですか」という感じで御礼を言って帰りました。

 この駅員さん、質問の一文が異様に長いのですね。私の「寝言」も長いとからかわれましたが、話すときは、一文がワード換算で20文字以内というのを心がけています。とくに、込み入った話ほど、一文をシンプルにしないと、相手が何を言われているのかがわからなくなります。主語がないというのは論外。「いつ、どこで、誰がなにをどのようにしたか」を明確に短く言わないと、あまりに当たり前ですが、相手はまず理解してくれません。よけいですが、「どちらの券売機ですか?」ではなく、「右と左のうち、どちらの券売機ですか?」と尋ねられれば、まず質問の意図がわかります。疲れきって、乗り換えました。

 最後に「どんでん返し」がありました。乗車駅から電話があって、定期が見つかったという連絡が夜の9時頃に。ありがたいことに、乗車駅に届けてくれるそうで、一気にイメージアップ。もう「寝言」を書く気力もなくなっていましたが、一気に復活といいますか、とりあえず、ホッとして眠りました。最近は、不眠がひどくてルーティンですら、ミスを連発しているので、「寝言」を書き始めても、途中で苦痛になってやめてしまうことが多いのですが、久々にホッとしたので、凡人らしい「本当にどうでもいい寝言」が浮かびました。あたふたしてあたふたして終わってみれば、平和そのもの。疲れているときはよけいなことをせずに休み、うまくゆかないときには一息入れるに限ります。

 蛇足ですが、年金とか「コムスン」とか「脱力系」の話は疲れるだけなので、そもそも考えないことにしているのですが、イラクの話になると、「あやしうこそものぐるおしけれ」。考えることは一杯あるのですが、どうも「寝言」にしても、考えがまとまらないです。気楽に書ける状態になったら、「戦線復帰」というところでしょうか。細かい書類がたまる一方なので、しばらくこんな状態ですね。コメントは拝読しておりますので、落ち着いたときにリプライということでお許しを。
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2007年06月13日

イラクへの「寄り道」(1)

 はあ。ブログの更新を控えても楽になるわけではないのですが、ついついサボり癖がついてしまいます。カワセミさん記事を拝読しながら、やっぱり分析がちゃんとできて文章が上手な人はなにか違うなと思いつつ、自分のところでなにか書こうかと思ったのですが、うまく文章にならないですねえ。まあ、あんまり「具」を仕込んでいないし、腕の立つ「料理人」というわけでもなく、流行らない「お蕎麦屋さん」が目標という志の低い者ですので、よい文章を読んだらよけいな感想も書く必要がないかなあと。

 塩野七生さんは、エッセーで日本の世論が政治家にカネに過剰なまでに潔癖さを要求することを嘆いていました。そんなに潔癖症だとカエサルあたりも、失格になっちゃいますよと軽妙ながら、なんともいえない諦めと孤独感を感じさせる文章だったように思います。ヨレヨレなのに、季節外れの「大掃除」の準備などという無意味なことをちびちびとやり始めたおかげで、必要なものがでてこなくなって泣きたい気分です。リアリストが、他の人たちにリアリストであることを求めると、リアリストが途端にイデアリストになってしまう。この辺の機微は私には手に負えない部分があることを感じます。

 さて、本題。M.N.生様のコメントを拝読しながら、失礼ながら、私の能力を超えた話だな、岡崎先生に語っていただいた方が話が早いなあと思いつつ、やはり気になってしまいます。戦争の目的と性格は重なる部分もあるのでしょうが、微妙に異なる部分があります。周囲では「なんだかんだいって、ねらいは油でしょ?」という意見が少数ではありますが、やはり根強くあります。アメリカ政府の公式見解を述べても納得しないので半分程度は冗談ですが、次のような話をすることがあります。1バレルは約160リットル。2リットルの大型のペットボトル換算で80本程度です。日本国内で売られているペットボトル入りのお茶がだいたい300円程度。1バレルに直すと、約24,000円です。WTIが70を越えたときには騒ぎになりましたが、1ドル=120円のレートで計算すると、1バレルあたり約8,400円程度。原油を抑えるより、良質の水を抑えてお茶でも作った方がよっぽど儲かりまっせとからかうと二度と口を利いてくれなくなったりします。冗談ぬきで今年は渇水対策が深刻になりそうで、これはこれで大変だなと思いますね。今でも水より油が大切なんて古いんじゃないのと、自分のことは棚に上げて若い人たちをからかってしまいます。「これだから、昭和世代はねえ」なんて。ほとんど自爆ギャグですが。

 …。思いっきり、話がそれてしまいました。戦争の目的に関しては、「イラク戦争の『本当の理由』」という記事でフリードマンのコラムを紹介しながら考えたことがあります。あらためてフリードマンの記事を読みながら思うのですが、イラク戦争に限らない問題かもしれませんが、戦争の「理由」というのは単一ではないことが普通なのかもしれないと。目的と手段、結果あるいは効果が一意に対応しているとは限らないわけでありまして、戦争という国家の「大事」ともなりますと、『孫子』に教わるまでもなく、軽々に行える意思決定ではありませんが、『孫子』がいつまでも古くならないのは、残念ながら、目的と手段の対応関係がかならずしも一意ではなく、微妙なズレといいますか、概ね人間の行動を合目的的に説明するのが今日の基本ではあるのですが、意思決定を考える際の目的と手段の対応関係は、情報の問題などからかならずしも適切な結果にならないことが中心に話が進んでいるのですが、それとは少し異なる、本質的に曖昧な部分を含んでいるように思います。

 戦争の性格から話がそれる一方なのですが、イラク戦争への批判でそれなりに聞く価値があると思うのは、戦争以外の手段でイラクの体制転換を迫って(実際は武力による、ある種の「脅迫」が不可欠だと思うのですが)ゆけば、戦争の目的は達成できたであろうというタイプの批判。あるいはイラク・イランを睨みつけながら、パレスチナ和平をすすめてゆけば、中東を安定化することは十分に可能であり、イラク戦争はかえってそのプロセスを困難にしたというタイプもあります。どれも、実現さえすれば、もっともだと思います。私自身も、イラク戦争は「不可避」でしたかと尋ねられれば、迷うでしょう。極論すれば、戦争というのは当事者の一方が不可避だと考えた瞬間に不可避になるのであって、それまではこれまた極端な表現ですが、すべて「可能性」の世界でしょう。

 中東の安定化はイラク戦争の、ある種の「通奏低音」ですが、アメリカの軍事的プレゼンスなしに実現したかどうかは疑問も多く、結局は、武力行使にいたったのかもしれません。その場合、現状よりは多くの国の共感(あるいは諦観)を集め、イラクの民主化がはるかに円滑に進んだのかもしれません。しかしながら、その場合、アメリカのプレッシャーがいつ現実の力の行使にいたるのかという不確実性が敵対する国々だけでなく、アメリカの側にある国々にも重くのしかかったでしょう。武力を使わずに目的を実現するのが私もベストだと思うのですが、イラク戦争を批判する場合に、武力行使をしなかった場合のリスクや不確実性への検討が少ないように思います。

 変な「寄り道」ばかりしていて本題に入らずじまいでしたが、イラク戦争とはどのような性格の戦争だったのか。この疑問は、「寝言」のようにあっちふらふら、こっちふらふらの「ちゃらんぽらんアプローチ」にはうってつけの「お題」かもしれません。しばらく思いつくままに、「寝言」を書いてみます。

2007年06月12日

「視界不良」の向こう3ヶ月の国際情勢

 「死のロード」、あるいは「月月火水木金金」状態でヘロヘロです。平均睡眠時間が4時間では「寝言」も浮かばず、ただ寝たい。それだけです。とりあえず、記憶の範囲内で岡崎所長の情勢判断のポイントをメモしておきます。細かいところは自分で裏をとってから掲載する予定でしたが、いつになるのか自分でもわからないので、簡単に要点のみ。頂いているコメントへのリプライは、睡眠時間を確保してからということでお許しください。なお、既に数日をへておりますし、疲労した状態でしたので、不正確な点が多いと思います。公開しておいて恐縮ですが、基本的に私自身のためのメモということでお許しを。

 まず、情勢判断の大半がイラク情勢というよりも、アメリカ国内の行政府と立法府の関係に集中していたのが印象的でした。議会が期限付き撤退を要求しても大統領には拒否権がありますし、逆に増派を要求するとなると予算が不可欠で議会の承認が必要。イラク情勢を治安の回復という面からコントロールしようとする際に最大の変数は、当然ではありますが、アメリカの動向。イラクの治安情勢そのものも大切でしょうが、これが実に把握が難しい。まったく個人的な感想ですが、ブッシュ後の対イラク政策の成り行きを見る上でも、この1年前後は重要な時期になると感じました。

 もう一つ、珍しく思ったのが、イラク情勢を中心に国際情勢の大半は9月、10月ぐらいまでわからないことが多いし、逆に9月、10月あたりには大筋が見えてくるでしょうというお話でした。「一寸先は闇」の世界ですから、もともと予測自体が私のような素人には難しく感じますが、岡崎先生はいくつか留保をつけながらも、大筋の見通しを立てられるので、私が的確ではない印象を受けただけかもしれませんが、「視界不良」な3ヶ月が待っているという印象をもちました。

 最初の点ですが、議会の言い分はブッシュ大統領の拒否権でブロックされ、下院(?)で民主党から大量の「造反議員」がでて共和党の「造反組」は2人どまり。とりあえず、ブッシュ大統領の言い分が通ったということです。私の理解力では、ブッシュ大統領の指導力が大なのか、超党派でコンセンサスができるプロセスなのか、わからないです。ポスト・ブッシュ政権が期限付き撤退をのむような政権になると、イラクはベトナム以上に悲惨でしょう。期限を明記してしまうと、イラク国内で混乱を望む勢力の「スケジュール」が立てやすくなってしまう。これまでのことのなりゆきを考えると、ある程度、治安が確保されるまでは撤退を言うのは無責任な印象があります。ただ、これがアメリカ議会のコンセンサスとまでなっているのかはわかりません。

 興味深いキーパーソンは、Petraeus司令官。アメリカ国内で評価が高く、議会でもブッシュの言うことは嫌でもPetraeusならOKみたいな雰囲気のようです。印象に残っているのが、ラムズフェルド前国防長官のもとで遠ざけられたインテクチュアルズを抜擢していて、これが高く評価されているということでした。ラムズフェルドに責任をすべて負わせるのは酷だと思いますが、国内世論、もっといえば議会を説得してイラクの治安回復に米軍が関与し続けるにはラムズフェルド色を消さざるをないでしょう。もちろん、実力を評価しての人事でしょうが、政治的にも賢明だと思います。

 さらに、岡崎先生が「数字を見るのが怖いのですが」と率直に語られていましたが、ここ最近で米兵の死者が増えているようです。バグダードでも治安状況の変化がめまぐるしいようですが、これまで米軍が踏み込めなかった危険な地域で作戦を展開しているという読み筋が成り立つようです。Petraeus司令官が有能ならば、「背後」から銃を浴びせられることがないよう、用心深く議会の信頼をえながら、治安確保のために血の犠牲を払う作戦を行っているのでしょう。大統領の信頼は当然として、治安回復のためには一時的に犠牲が増加することを覚悟せざるをえないのですが、議会を敵に回しては予算でゆきづまってしまう。ただし、この読み筋が的確だとしても、犠牲は短期で数字で出るのに対し、効果は長期でしか確認ができない。表現が悪いのですが、必要性が高いけれども、同時にギャンブル性が高い作戦を行うというのは、かなり胆の据わった司令官なのかもしれません。

 肝心なことは、ブッシュ政権のプライオリティに関していえば、イラクの安定化が最も高く、そのための作戦が進んでいるということでしょう。同時にそれは議会を誘導し、ときに拒否権行使など強硬な態度にでるなど複雑なプロセスとなるでしょう。

 イラクの安定化に資源の多くを割くということは、他の対外政策のプライオリティの低下を意味します。端的にそのことが露呈しているのが、朝鮮半島情勢。岡崎先生は、「あれは醜態ですね」と表現されていました。恥ずかしながら、2500万ドルを北朝鮮の偽札で返したらどうだという声がでているという話をはじめて知りました。3月頃に、北朝鮮とヒル国務次官補との間で「密約」(凍結した資金を「返還」して北朝鮮がある範囲で「譲歩」したふりをする)があるとの推測を耳にいたしましたが、そのような「補助線」をひかないと理解不能な話が多すぎるので「裏」がとれておりませんが、そのような目で見ておりましたが、それにしても、確かに「醜態」としかいいようがないです。資金の凍結自体は、核開発への制裁ではなく、BDAが北朝鮮の違法な金融活動に関与していたことが問題になったのであって、金を返すから、もう事実上、使えなくなった寧辺あたりを「閉鎖」するとかで「譲歩」したことにして、北朝鮮が一方的に荒稼ぎをしている状態になりそうです。イラク安定化を重視する代償と割り切りたいのですが、やはり割り切りきれない部分があります。

 中国は日本に低姿勢でゆくしかないようです。李登輝さんの訪日、靖国参拝も日本国内が一部例外はどうしてもありますが、冷静ですし、中国政府自体、ことを荒立てると、薮蛇。こちらは、日中関係というより、国内の反権力志向の方たちと中国と波風を立てないのが「日中友好」というレベルの政治家の問題だということがはっきりしてきているように思います。

 ずいぶん雑ですが、私の印象に残った大筋は以上です。はあ、また寝る時間を削ってしまいました。もう限界なので、正真正銘の寝言をいうモードに移行いたします。

2007年06月08日

お墓参り

 ゴールデンウィークが明けて、気が早い気もいたしますが、もうすぐお盆。記事でとりあげたこと意外にも弔事がありましたが、実は喪服をもっておりません。迷信深いところがあって、喪服を準備すること自体、なにか不吉な感じがしてしまいます。そうはいっても、弔事は避けようがないので、今年に入ってから、マナー違反ではないかという気もしており、折を見て準備をしておかざるをえないというところでしょうか。

 お盆休みは、この数年、浜松の旧友のところに遊びに行くのが恒例になりました。今年も、早速、お盆のあたりにおいでよと声をかけてくれました。今年も旅行らしい旅行といえば、浜松への旅ということになりそうです。恥ずかしいぐらい、国内ですら、出張を除くと、旅した都道府県が少ないので、折をみて各地を周りたいのですが、当面は厳しいかなという実感があります。

 このところ、祖父・祖母の供養を怠っているので、お盆に参ろうと予定をしております。墓前で報告すべきことが特別あるわけではないのですが、祖母が私に託したささやかな夢も実現しておりませんので、決意を新たにすべくお盆に参ろうと考えております、いつも父上が車でつれていってくれるので、自分一人ではゆけそうにありません。本人の前であからさまに尋ねるのは、さすがに躊躇われるのですが、万が一のときに少しでも混乱が少ないようにそれとなく引き継ぐこともそろそろ考える必要があるように思います。

 あと数年で40代。結婚願望そのものはないのですが、長男ですので、家を継いでゆくことも段々と意識するようになりました。ごくありふれた家ではありますが、やはり私の代で断絶となると、ちょっと不安です。古めかしいようですが、家が消えるのは簡単ですが、私のような市井の人となると、まず「再興」ということはないのでしょう。弔事が相次いだせいなのか、年齢のせいなのかわかりませんが、自分のやりたい事を他のすべてに優先してきたこと自体は悔いはないのですが、そろそろ自分の一回限りの人生というだけでなく、いろいろ後回しにしてきたことに目を向ける必要があることを実感いたします。
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2007年06月07日

イシバ系

 カワセミさんが、ご尊父のことを書かれていて、思うことがいくつかあります。落ち着いたところであちらのコメント欄に書かせて頂きます(「お手玉」をいくつも同時に投げている状態だと考えが浮かんでも言葉にするのには慎重になってしまいます)。かんべえさんはお元気そうでした。というより、ふだんと変わらずぐびぐびワインを飲む姿を拝見していると、「喪中のチカラ」とはこういうことなのかと感心してしまいました。おまけに、ワイングラスを片手に、部下の美しい女性をつかまえて、「この人、人使いが荒いんだよ」などとのたまう始末。思わず「こんな美しいのにかんべえ師匠のオタク視線に毎日接して正常でいられるというのは立派な方ですよ」と「寝言」が浮かびましたが、さすがに面と向かって申し上げる勇気がなく、残念。

 それにしても、金曜は「モーニングサテライト」、日曜日は「サンデープロジェクト」とはむ、むごい。東京というか千葉というか、要は富山から首都圏に戻っても、ご多忙なご様子。ある区域ではかんべえさんの「弟子」とご認識頂いているようですが、あくまで勝手に弟子にしてくださいとおしかけたのであって、とても「師匠」の八面六臂の活躍にはおよびませぬ。同じ職場だったら楽しいだろうなあと思う反面、カバーする分野が広いのでかんべえさんの下で働くのは大変だろうなあと思ってしまいます。Kさんにおかれましては、かんべえさんの活躍を「生かさぬように、殺さぬように」の伝で上手に制御してあげてくださいませ。

 そんなこんなで、神妙な心境だったのが、一気に俗世界に戻ってしまいました。その種の話題に関して言えば、かんべえさんのお家は浄土真宗、それも親鸞上人(別のお上人だったかもしれませんが)を助けたというぐらい古い家柄です。ふとその話題を振ると、周囲でほとんどが浄土真宗とのことで、私だけが母方の実家が曹洞宗。「典型的な農家なんだよなあ」とため息をつかれる方もいらっしゃいましたが、母方の実家も農家そのもので維新後に姓を名乗るようになったはずですが、なぜか曹洞宗。職業もさることながら、地域性も大きいのでしょうか。

 既にとりとめがなくなっていますが、今日はさくらさんのおかげで以前から書きたくても書けないことが書きやすくなりました。「石破元防衛庁長官とかんべえさんの共通点はなにか?」というのが「お題」になるのですが、お題の時点で、ご両人を知っている方にはあまりにべたなことをよく書くなあという話になりそうです。すべて伏字でもわかるでしょう。「○○○」(カタカナ三文字)あるいは「○宅」(「原語」。ピンとこない方へのサービスです)。強いて言えば、石破長官(「元」をつけるのが本来でしょうが、防衛庁長官という肩書きがこれほどまでに似合う方はちと記憶にないです)の視線の方がオタク度が高く、さらに情熱的ですらありますが。日米台対話のときに、石破長官が策源地攻撃能力について語っている姿を見ながら、セッションのテーマとずれているんですが、思わず聞きほれてしまいました。もちろん、岡崎所長がそれとなく「空気を読んでね」というシグナルを送って、石破長官が思わず頭をかくのを見て、とてもチャーミングな方だなあと思いました。

 タイトルの「イシバ系」というのは、もちろん半分は冗談ですが、半分ぐらいは尊称であります。外交や安全保障の論説もどきのことを書いておりますが、所詮は素人の浅知恵。かんべえさんとお話しても、十分、刺激が強いのですが、石破長官の情熱には到底およばないでしょう。オタクを誤解している人も少なく、偏見も強いのですが、彼らの「宿命」は単なる知識ではなく、対象への愛情であり、なおかつそれが人生にわたって続くという驚くべき能力によっているのでしょう。さくらさんに「○○さんもその気が」とからかわれましたが、これはさすがに。対象を愛し続けること自体が才能であり、そのような素質は「才能」と呼ぶしかありません。「石破ゼミ」のお話をもう少し伺っておけばよかったと思うのですが、この種の情熱に触れることは、それが直接、活きるのかどうかは別として貴重な経験だと思います。

 こうしてみると、岡崎所長も「オタク体質」そのものではありますが、「イシバ系」ではないというのが私の印象です。個人的な経験からすると、イギリスのインテリ層に近い感覚でしょうか。気さくな部分はあるけれど、どこか対象を突き放して見る。他方で、対象への愛情では「イシバ系」に劣らない、あるいはそれを上回る。なによりも、常識人である。あなたが美化しているのですよという揶揄があっても、「そうだろうなあ」と思います。岡崎所長やイシバ系の方たちが異なるわけではなく、特定の対象だけでなく、普通の人たちがもっている人間への愛情という点ではごく普通の方たちだと感じます。肝心なのは、愛という「時の最果て」らしくない結論で今日はおしまい。
posted by Hache at 23:51| Comment(3) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2007年06月06日

「政治とカネ」 勘定と感情

 いろいろな出来事が重なって、書けずにいたことがありました。躊躇う最大の事件は、松岡利勝氏の自殺でした。政治家の「スキャンダル」が世間で問題になる場合、倫理的な問題が大半を占めます。このことから私自身が自由ではないでしょう。「政治とカネ」の問題は、程度にもよりますが、政権交代を招くほどの事態にいたることも少なくありません。私自身は、昔ならば、贈収賄などの汚職、最近では「官製談合」など自体は、形式的かもしれませんが、法に則って適切に処理されることが望ましいと思います。他方で、この種のスキャンダルには「政治責任」の問題が避けられない場合がほとんどでしょう。「政治責任」が問題となる場合、ほとんどは倫理的な問題です。先ほども述べたように、私も倫理的な問題から自由ではありません。率直に言えば、嫌悪感を覚えます。他方で、「政治とカネ」の問題が過度に政治の中で重視されることには違和感を覚えます。政治家特有の職権を利用すること自体は、非難に値するでしょうが、ゆきすぎれば、職権の濫用の結果に比して、「罰」があまりに大きくなることも少なくないと感じるからです。

 テレビを見ないので活字メディアだけで、それも最近は十分に目を通しておりませんが、松岡利勝氏の自殺はさすがに周囲でも話題になりました。私も含めてこの事件で同情的な意見は皆無でした。他方で、農政に詳しい方の中には松岡氏の農政の「構造改革」を高く評価し、惜しむ意見も目にしました。そのなかでとりわけ明快に松岡氏の農政の「構造改革」を評価した上で、雪斎先生はこの記事で、次のように書かれています。「『有能で黒い政治家』と『無能で白い政治家』どちらかを選べといわれれば、雪斎は、躊躇なく前者を選ぶべきであろうと思うのだが…」。私自身も、「有能で黒い政治家」を選ぶ方がはるかによいと思うのですが、この選択は、倫理という点を抜きにしても、非常に難しい問題をはらんでいるように見えます。以下、松岡氏の問題を離れて、この問題について考えてみます。

 「有能で黒い政治家」というのは、カネ以外の要素も含んでいるのでしょうが、「有能」というのは政策立案能力と政策遂行能力を指し、「黒い」という形容詞が指す内容は、カネにまつわる問題が大半を占めるのでしょう。政治から遠い位置にいる者としては、「有能で白い政治家」が望ましいわけですが、残念ながら、麻生太郎外相のように有数の資産家ではない限り、現実には難しいのでしょう。他方で、「無能で白い政治家」というのは、事実上、政策立案はともかく、政策遂行という、素人目には最もお金がかかる分野(分野によっておおいに濃淡があるのでしょうが)でも「無能」なわけですから、どんなに優れた政策立案能力があっても、実際の政治では結果を残すことは難しいでしょう。「無能で白い政治家」よりも「有能で黒い政治家」が望ましいということは、倫理上の問題を捨象すれば、ある程度、納得がゆく話ではあります。

 問題は、「有能」であるということと「黒い」ということが両立するのか否かという点です。政策遂行にあたっては、基本は説得と国務大臣であれば大臣の権限によって利害関係者を政策を実現する方向に誘導するのが基本なのでしょう。しかし、説得にも限界があり、時間を要することもあって、現実には利益誘導によって政策を実現することもやむをえないのかもしれません。具体的な事実にもとづいてこの記事を書いているので、想像に過ぎませんが、「利益誘導」という言葉は、どうしてもネガティブに捉えられがちですが、「利益誘導」を受ける側の利害と政策遂行にあたって必要な措置が一致すれば、言葉による説得以上に効果的な側面があるのではないかと考えております。これも、事例にもとづいた検討ではありませんので、空理空論なのかもしれません。

 この他にも、「利益誘導」が有効な説得の手段となるための条件がありそうですが、私があまりに知識不足なまま書いておりますので、割愛いたします。問題は、「利益誘導」を受ける側の利害によって「利益誘導」を行うことによって実現する政策が本来の趣旨から外れてしまうことです。この場合、「有能」なはずの「黒い」政治家は、政策を実現できないばかりか、政治的資源をムダにしてしまうことになります。多くの場合、「利益誘導」から政治家が私利をえることに非難が集まりますが、それ以上に政治的資源が有効に活用されないことは「無能」となんら変わらない、場合によってはそれよりも悪い事態を招く可能性すらあります。

 私自身は、「政治とカネ」の問題で国会での議論が空費されたり、世論が感情論に流されてしまうことに危惧を覚えます。私自身も、この種の問題では情緒的になることが少なくありません。ただ、「『有能で黒い政治家』と『無能で白い政治家』」という表現を用いるには、「黒い政治家」による政策遂行が、政治的資源のムダを上回る効果を生むことが最低限の前提だと考えます。このような判断に必要な情報が、私自身もそうですが、政策遂行の実務に携わっていない大多数の国民に伝達されない以上、世論が「政治とカネ」の問題で過度に反応すること自体は、ある種の自然現象のようなものではないかと思います。このような世論はしばしばゆきすぎますが、政治的資源の浪費を抑制する側面もあるのでしょう。感情論は感情論であるがゆえに、かえって政策遂行をより効率的に行う圧力となる側面があると思います。もし、これが冷徹な利害計算にもとづかなければならないとすると、大多数の国民に膨大な情報が伝達されなければなりません。仮にこれが実現することが望ましいとしても、膨大な費用と国民の側のやはり膨大な労力が必要になります。もちろん、感情論はゆきすぎるのが常で、必要以上に政治家の行動を制約してしまう危険があります。

 しかしながら、国民の代表として統治にあたる方たちには、「政治資金規正法」改正以上に、世論の感情論をいかに統治の効率を高める「圧力」として活用することを期待したいのです。失礼な話ですが、感情論を宥めるために倫理を厳しくすればするほど、以前に比べれば些細なことがバカバカしいほど騒ぎになる印象がありますので。

2007年06月05日

残酷な現実 続・忘れるということ

 時事通信社のHPに「頭の中身も整理が必要?=大事な記憶のために物忘れ−脳科学実験で判明・米大学」と題する記事があって、読んでみて興味深く感じました。記事の元になった原著論文の要旨(Abstact)はこちらにあります。フルペーパーを読むためには30ドルが必要なので、落ち着いて読む時間ができた際に読んでみようかなという感じ。日本語の記事は、フルペーパーを元に書かれているようですが、要旨を読むと、論文のねらいとはニュアンスが異なっているように感じます。「時の最果て」の中の人のように、脳みそがざるのようなしくみの人はともかく、神経科学が「忘れること」の効能を安直に説くはずがないだろうという気がいたします。

 専門用語がわからないなりに要旨を読めば、目標となる記憶と関連する競合する複数の記憶からどの記憶を選択するのかという問題に、繰り返し選択された記憶と比較してそうではない記憶は忘れられることによって、神経処理上の効能をえていることを実験で示したという、「禁欲的」な話です。日本語の記事でゆけば、"Attic"に関連する記憶のうち、"Dust"を繰り返し選択すると、両者の記憶の関連性が強くなるだけでなく、他の記憶の体系である"Movie"とそれに関連する記憶と比較しても、"Attic"に関連する記憶のうち、"Dust"以外の単語は忘れられてしまうということです。フルペーパーを読んでいないので危険ではありますが、日本語の記事にある「意外なこと」が大切だと思います。つまり、原著論文の要旨にも書かれているように、「忘れる」ことの意外な「効能」が実験で示されたということ自体は間違いではないのでしょうが、繰り返し刺激を与えなかった記憶群との比較との解釈は、フルペーパーを読まないとわかりません。この実験で示されているのは、(1)ある記憶と関連する記憶が繰り返し関係付けられたときに、他の競合する記憶が弱くなるということが定義され実験的に確認されたということ、(2)ある記憶と関連する記憶が忘れられるということは、"cost"(厳密な定義は不明)とみなされがちだけれども"benefits"をえているという点で神経処理上の適応性があるということでしょう。ざっと見た印象では「忘却」のプロセスの一部を示してはいるものの、それ以上ではないだろうということと同時に「忘却」のプロセスの基本を示しているように思いました。

 無神経な私には神経科学など「縁なき衆生」でありまして、「忘れるということ」とか「『忘却』の効能」などといった「寝言」をなんの裏付けもなく書いております。なにかを選択するということは他の選択肢を捨てることである、あるいは、なにかを覚えるということはなにかを忘れるというちょっとしたペシミズムがあります。そんな私に30ドルもする論文は「猫に小判」でしょうが、神経科学の世界でも、"competition"という用語がでてくるのには驚きます。「競争」ではなく、「競合性」と訳しましたが、冗談、もとい「寝言」半分で「年をとると、どんどん図々しくなって、記憶も一種の『市場』で、記憶に残ったものが『勝者』なんだろうと」などと口走ってしまいましたが、素人にありがちな基本である"competition"の要素への洞察がまったくかけていることに気がつかされました。

 この実験では、日本語の記事を読む限りは、操作すべき記憶は外生的に与えられているようです。素人の目からすると、脳における情報処理のプロセスを確認するためには、操作の対象となる記憶とそうでない記憶を峻別するためには必要な前提なのだろうと映ります。利用可能な「資源」が有限であり、その「資源」を利用する選択肢が複数、存在し、すべての選択肢を実現するためには、「資源」が不足している場合には「競争」ないし「競合」が生じるのは、ある種の「自然現象」のようなものでしょう。私たちが日常生活で行っている様々でかつ総合的な意思決定と神経科学で対象としている神経伝達や処理のプロセスは、ある一面において共通しているように映ります。ふと、それはヒトの個体としての特性から生じるのか、社会的な営みから生じるのか、それとも、認識の形式に由来するのだろうかという「寝言」が生じます。乱暴な表現をすれば、「個」に似せて「全体」が形成されるのか、「全体」に似せて「個」が形成されるのか、そもそもそのような共通性は対象によるのではなく主観の認識の形式によるのかということです。私自身は、上記の立場は背反するものではなく、補完的なものだろうと思いますが、確信はありません。いずれにせよ、利用可能な「資源」が増せば、選択肢は広がるでしょう。しかし、再び、「有限性」の問題が表れるのだろうと思います。

 古い知識なので最新のneuroscienceでは別の解釈がされているのかもしれませんが、アインシュタインですら脳のごく一部を使っていたにすぎないということを子供時代に読んだ記憶があります。もし、人類が進化して脳の「使える」範囲がさらに増せば、どんな世界が見えてくるのだろうと思いを馳せた時期もあります。「使える」範囲が増せば、それに対応する強靭な肉体が必要になるのかもしれないとも。

 しかるに、夢多き少年は、歳月とともに、クロック数の高いCPUが発する熱に手をかざしながら、少年時代に考えたことから、脳の「使える」範囲が増えたならば、もっと痩せているだろうにと「寝言」をつぶやいてしまうのであります。いや、「時の最果て」でよけいな抑制など不必要でしょう。使える範囲ですら、ベストをつくしていれば、こんなにぶくぶく太るはずがないのであります(有機フッ素のせいにしたいところではありますが、そのような「逃げの一手」すら打てないのが悲しい)。嗚呼、これぞ、「血も涙も、そして夢もない」現実そのものであります。この現実はあまりに残酷で、Abstractとしか読んでいないとはいえ、この論文はデブであるということは「効率的に」脳をしようしているのだと慰めるしかない「残酷な現実」を思い知らしてくれたのでした。
posted by Hache at 02:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 不幸せな寝言

2007年06月04日

湿っぽい「寝言」

 かんべえさんが「ご報告」(「不規則発言」)で書かれたので、簡単に「事情」を書きます。とはいっても、大げさな話ではないのですが。

 雪斎先生がかんべえさんのオフィスを訪問されたということを知って、私も冷やかしてみようかと、不謹慎な動機でメールを差し上げたところ、ご母堂が亡くなったとのお返事。いつも飄々とされていて(なぜか『サンデー毎日』や『週刊朝日』が大学合格ランキングを載せているのは「志」を疑うという話題になると、熱くなるのですが、私などは「まあまあ、人様の商売にケチをつけても」とちゃらんぽらん)、メールでも淡々とこういう事情ですからと書かれておりました。全く偶然、悲報に接したというわけです。

 念のため、お断りしておきますと、かんべえさんと家族ぐるみのお付き合いというわけではなく、年齢もかんべえさんのほうが約10年ほど年長ですので、更新を休止するという形で弔意をしめさせていただきました。休止したことは、結果的には、ケーブルテレビのメンテナンスや諸行事で週末がうまってしまったので、率直なところ、助かった面もあります。あと、最近の記事を読み返しますと、「なまもの」が多くて、ブログをはじめた趣旨から離れている感覚もあります。言い訳をいたしますと、最近の出来事を取り上げてみると、掘り下げて書くほどの力量はないのですが、人間というのは過去から自由になれない一方、みんなが「新しい」と言っていることがどこかで見たことがあるような、既視感とも異なる感覚もあります。

 悲報に接して、ふと10年もすると、私も40代後半になり、両親を失うのかもしれないと思ったりします。幸か不幸か、間違っても新聞の訃報欄に載る家ではありませんし、地縁の薄いところでマンションを買って二人で暮らしているので、万が一のときにも、良くも悪くも、あまり面倒なことにはならなさそうではあります。ぶっちゃけった話、私の方が先立つかもしれないのですが(不摂生をしているので自分ではかなり確率が高そうだと睨んでおります)、通常の順番になった場合、悲しいというよりも、心にぽっかりと穴が開くのだろうか、そんなことをぼんやりと考えたりします。早くして亡くなってしまう方もいらっしゃいますが、やはり人は生まれ、成長し、自己の生存のために汗水を流し、子孫を残し、やがて老い、死を迎えるという、平凡なことがらの重さを感じさせられます。

 このような平凡な「循環」が悲喜こもごもを伴いながらも、そこで生きてゆく人たちがほどほどに満足し、ほどほどに不満を残しながら「舞台」から去ってゆく。もちろん、私も、「いつ」はわかりませんが、「舞台」から去ってゆくのでしょう。考えるということは、このような「循環」の一部にすぎないと私はいつからなのかは明確に覚えておりませんが、考えるようになりました。自分でも変な人だと思うのですが、「循環」のはじまりは考えることであるとどこかで考えている自分がおります。他方で、それが「循環」に奉仕するものであるということを完全には納得はしておりませんが、認める程度には「俗世」になじんでまいりました。聖人君子ではありませんが、基本的には「ずれた人」なので、考えることを「役に立つかどうか」という点からのみ、評価することにためらいがあります。「じゃあ、なんで考えるのよ」ということになるのですが、身も蓋もないことを言ってしまえば、考えたいから考えるのであって、それは食欲や性欲と変わらないものだという、とってもずれた話になってしまいます。しかし、それが結局は利己的な欲求であっても、結果的によりよいものを次にやってくる人たちに伝えることができるのなら、そんなに悪い話ではないと思ったりします。

 お約束どおりとりとめがなくなりましたが、死も生き様なのだと感じたりします。私自身の「死」に立ち返れば、こんな変な「寝言」ばかりつぶやく者など、「一代限り」でよい。良くも悪くも、自分自身の「生」自体が寝言みたいなものだなあとしみじみ思います。
posted by Hache at 00:58| Comment(0) | TrackBack(1) | まじめな?寝言