2007年09月17日

「ある敗戦国の幸福な衰退史」再考

 何度も繰り返して読んだつもりでも「ざるの脳」では、抜け落ちていることが多いものです。連休中、信田智人『官邸外交 政治リーダーシップの行方』(朝日新聞社 2004年)を読み返していて、ハッとする記述がありました。

 法案(「テロ対策措置法案」(当時):引用者)が国会に提出されると、野党は批判を開始する。社会民主党は米国の行動は報復であり、自衛隊の海外派兵は軍国化につながると非難した。保守派サイドからは、小沢一郎自由党党首が、自衛隊派遣には湾岸戦争時のように国連決議案による武力行使の承認が必要であるという立場をとり、集団的自衛権と憲法解釈の議論を避けた小泉首相のやり方は「一時しのぎで中途半端」だと批判した。


 小沢氏は、当時からある意味で核心部分を衝いていたようにも読めます。まず、この淡々とした記述では、私が勘違いをしているだけかもしれませんが、「湾岸戦争時のように国連決議案による武力行使の承認が必要である」というあたりは、小沢氏の論考そのものを探して読まないと、意味がわからないのですが、集団安全保障が機能するかのような形でなければ、自衛隊「派遣」(派兵といってはまずいんでしょうね)ができないというところでしょうか。「集団的自衛権と憲法解釈の議論を避けた小泉首相のやり方」という指摘自体は、興味深いです。「時の最果て」ですと、避けずに自衛隊を「派遣」した方がよいということになりますが。この記述だけでは、小沢氏が、集団安全保障と集団的自衛権の関係、集団的自衛権の行使と憲法との関係などをどのようにを整理されているのかはわからないので、小沢氏の評価は保留です。

 他方で、 『国会会議録検索システム』を利用すると、平成13年10月10日衆議院本会議での石破茂氏の質問は、政府・自民党(公明党・保守党との連立時ではありますが、このように表記しておきます)の、この問題に関する立場を知る上で、もっとも明快な質問を小泉首相(当時)に投げかけています。一部のみですが、引用します。

 まず、今回の米国、英国の行動について、総理の御認識を承ります。
 私は、これは個別的・集団的自衛権の行使としてとらえるべきものと考えます。国連憲章においては、すべての戦争を違法といたしておりますが、ただ、国家固有の権利である自衛権の行使は認められておるのであります。相手が国家であるか、集団であるかを問うてはおりません。
 オサマ・ビンラーディンをテロの容疑者として位置づけた従来の国連決議に加え、今回のテロ行為を国際の平和及び安全に対する脅威と認めた国連安保理決議第千三百六十八号によって、この米英の行動は十分に正当づけられるものであり、常任理事国の現在の姿勢から見ても、やがて行われるであろう安保理への報告後にこれが否定されるというようなことは到底考えられないのであります。
 話し合いで解決できるような事態では、もはやありません。軍事行動による危険より報復を恐れ行動に出ない危険の方がはるかに大きいとしたトニー・ブレア英国首相の認識は、まさに正しいと言わなければなりません。
 では、我が国はどのような行動をとるべきか。それは、この脅威が我が国にも向けられたものであることを正確に認識し、個別的自衛権の発動には至らないまでも、脅威撲滅のために主体的に行動すること、そして、長きにわたり、日米安全保障条約のパートナーとして我が国の独立と平和、安全と繁栄を支えてくれた最大の同盟国である米国が攻撃を受け、自衛権を発動しているときに、憲法解釈で許された範囲内、すなわち、集団的自衛権の行使は行わないとしてきた従来の政府解釈の範囲内で、最大限なすべき責務を果たすことであります。
 さらには、アフガン和平に向けた東京会議開催のため努力してきた我が国独自の立場を生かし、この戦いが仮にも文明の衝突というような事態に至らないよう、力を尽くすことであります。これは口で言うほどたやすいことではございません。古来、戦争は始めるのは容易であるが終わらせるのは難しいと言われてまいりました。まして今回、テロの一派に対して決定的打撃を与えたとしても、それが殉教者として称賛され、さらなる連鎖を呼ぶことだけは、どうしても避けなければならないのであります。

 これに対して、小泉首相は次のように答弁しています。こちらも答弁の一部です。

 
まず、審議促進に対する御協力、激励に感謝申し上げます。
 米国及び英国の行動は自衛権の行使ではないかというお尋ねです。
 今回の米国及び英国の行動は、国連憲章第五十一条に基づく個別的及び集団的自衛権の行使として安保理に報告がなされております。我が国としても、今般の米英両国による行動は個別的及び集団的自衛権の行使であると考えております。
 今回のテロに対する我が国の対応についてのお尋ねであります。
 今回のテロ攻撃は、米国のみならず世界人類に対する、自由と平和と民主主義に対する挑戦であり、卑劣な行為だと私ども考えております。この事件に対して我が国が主体的にどう取り組むかというのが問われているのではないかと思います。
 我々としては、憲法の範囲内でできる限りの支援、協力を行い得るよう、今回の法案を提出したものでございます。今後とも、世界の各国と一致協力しながら、このテロとの対応に毅然とした態度で臨みたいと思います。

 以上のやりとりから、「テロ対策特別措置法」の制定時に「六二時間のスピード審議」とはいえ、本質的な論点は出揃っていたように思います(本会議における他の質疑や「国際テロ防止・協力支援活動特別委員会」でも活動の内容や範囲など、現在の「テロ対策特別法」を理解するうえで基礎となる議論が行われておりますが、ここでの趣旨を外れるので、割愛します)。私の関心に基づいて、要点を整理すると、以下のようになります。

(1)2001年9月11日のアメリカにおけるテロに対するアメリカ・イギリスの立場は自衛権の行使であり、国連憲章の定める武力行使の範囲を逸脱するものではない(当時は確定しておりませんが、否定する決議はない)。この点は、湾岸戦争とは明確に異なる。

(2)アメリカ・イギリスの行動に協力するする態様として、(A)個別的自衛権の行使、(B)集団的自衛権の行使、(C)いずれにも該当しないとみなしうる活動、などがありえた。

(3)政府は、「憲法の範囲内」という制約の下で(C)を選択した。

 この順番は実際には逆なんでしょう。「憲法の範囲内」という大前提の下で、集団的自衛権の行使は不可能だから(さすがに個別的自衛権の行使という解釈は無理でしょう)、成立した「テロ特別対策措置法」には、石破氏が指摘した安保理決議1368は盛り込まれていません。『官邸外交』では小泉首相の政治手法の特異さを叙述されていて、あらためて興味深いのですが、寄り道が過ぎるので省きます(ちょっとだけ道草をしますと、自民党の頭越しに民主党と交渉するあたりは、現政権と対照的です。小泉政権の党内基盤が弱いという現実があったとはいえ、超党派のコンセンサスを築くという点ではやはり卓越したものを感じます)。良くも悪くも、すっきりしないのは結局、憲法上、行使できないという集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈が、小泉政権下での選択肢を非常に狭めていたということでしょうか。

 当時の状況から、今日までで大きな変化があったのかといえば、残念ながら、集団的自衛権の行使に関する現行の解釈を変更するというコンセンサスが大きく広がっていない以上、ないといえましょう。「9.11」の衝撃が生々しい時期でさえ、このようなコンセンサスを広げようとする動きは、少なくとも、「テロ対策特別措置法」の審議プロセスでは見られませんでした。強力な政治的リーダーシップとアメリカという同盟国(被害者には日本人も含まれている)の犠牲にもかかわらず。私自身は、集団的自衛権の行使を憲法が否定しているとは思えませんが、あらためて当時の議論を省みると、解釈をまともにすることは、おそらく、今後も、時間がかかる、あるいはほとんど不可能に近いように思えます。自分の立場をさらに悪くすると、現行解釈の不備が、外交や安全保障に平時には関心が薄い方たち(ほとんどの「古典」の筆者は、関心が薄いことを嘆いています)にも明確に意識されるような事象が起きていない。起きてからでは遅いので、準備をしておきましょうというのが、基本的立場なのですが、アメリカがテロ攻撃にあった直後でも、国会の議論を読んでいると、おそらく、今後も解釈がまともになる確率は極めて低いと思います。

 「まとも」という表現自体、非常に強い価値判断を含んでいます。私の「ざるの脳」で現行の内閣法制局の解釈は、「国際法上、集団的自衛権を有しているが、憲法の制約により行使できない」ということになります。岡崎久彦流でゆけば、「もっている権利が使えないのはおかしい」ということになります。私は法理に疎いので、この、あまりにすっきりとした説明は違和感がなさすぎて、なぜ、そのような「まともな」解釈ができないのかという点に関心が向きます。佐瀬昌盛流でゆけば、「じゃあ、内閣法制局に憲法が集団的自衛権そのものを否定しているのかを問えば、おしまい」ということになります(「ざるの脳」による解釈ですので、乱暴ですけれど)。どちらも、私からすると身も蓋もない議論ですが、身も蓋もない議論が、現在でも国会でなぜできないのか(単一の理由から説明するのは困難でしょうが)が問題となるのでしょう。冷戦下では、左右の陣営の対立に起因するところが大だったと思いますが、現状では、私が解釈変更に抵抗する人たちを過小評価している可能性がありますが、畢竟、自衛隊の総合的な戦力(「憲法違反」の表現でしょうが、まどろっこしいので)が高く、日米同盟に目に見える形で支障が生じていないという状況では日本の安全が脅かされる感覚が鈍りがちだという皮肉な「寝言」になってしまいます。もっと身も蓋もない「寝言」をこきますると、日陰扱いしながら自衛隊という立派な軍隊をもち、日米同盟が機能している状態では、島国という地理的な条件もあって、孤立主義的な心情、すなわち自国の安全が他国の安全とは無関係ではない政治的な相互依存関係の深化に鈍感になりがちだということでしょう(このようなことを書いている私も迂闊なことに、finalventさんが指摘されている北朝鮮とシリアとの関係は見落としておりました。実に情けない)。なお、以下、説明することができないのですが、感覚的には集団的自衛権が「憲法の制約」で行使できないという解釈がそのままでは、個別的自衛権の行使も事実上、できないのではないか、そんな感覚をもっています。端的に言えば、他国から侵略を受けた際に、自国の戦力では対応しきれない場合、他国の援助が不可欠になりますが、集団的自衛権が封印されていれば、事実上、自国を守ることが不可能になります。もちろん、日米同盟の下ではこの国を武力で攻撃するという乱暴な国は皆無といってよいでしょうが、個別的自衛と集団的自衛を別物扱いするのは、違和感があります。

 実は、この記事がブログなるものを書き始めてから、500本目の「寝言」になります。あまり、自分でも進歩がないなあと。同じことばかり書いていて、どうかなと思います。近代以降(ふとゲームのおかげで大航海時代直後のイギリスの海上覇権の確立からその端緒なのかなと思いますが)の、大国間戦争での敗者は、ほとんどの場合、英米の覇権に再度、自ら挑戦して、敗れて後、漸く、「英米本位の平和主義」を容認するようになります。そのような国々の歴史と比較すれば、戦後のこの国の歩みは、「反米」という名の「左」、「右」の対立はあったとはいえ、戦後60年、積極的に英米の覇権に挑戦するという姿勢を見せなかったという点では、非常に穏健であったと思います。また、「平和ボケ」という表現は事態の一面をついていると思いますが、歴代の自民党政権、あるいは連立政権が自衛隊の強化を図り、日米同盟の強化を図り、反発も決して無視はできませんが、概ね、国民の理解には至らなくても、コンセンサスとなってきました。「ある敗戦国の幸福な衰退史」という刺激的なタイトルの「カテゴリー」を設けておりますが、戦後のこの国の歩みが、衰退する一方であったとは考えておりません。戦後の経済成長のおかげで、戦前をはるかに超える生活水準を実現しました。また、冷戦期には、日米同盟を中心として先進国として国際協調という点でも、少なからぬ貢献を果たしております。さらに、表層的には「軽武装・経済重視」の「保守本流」とされた宮澤喜一元総理が国際協力平和法制定で、いわゆる「人的貢献」への道を開きカンボジアでは犠牲を払ったとはいえ、情勢を見ながら、毅然とした態度を貫きました。現在では、自衛隊が、先述のような制約下とはいえ、日米同盟という根幹だけでなく、国際協調で貢献しています。上記で述べたこと以外にも、経済面での繁栄だけではなく、外交・安全保障という点でも、単純に「衰退」の道を歩んできたわけではありません。

 しかしながら、そこには、自国の存続と繁栄という、いわば、この国の「利己的動機」にもとづく問題から、集団的自衛権の行使に関する「迷走」に象徴される問題が、「利己的な」問題と切り離されて、「利他的な」問題として扱われる傾向が根強くあったと思います。スペインやオランダ、フランス、ドイツ、ロシアの「衰退史」は、過度なまでに「利己的動機」で英米の覇権に挑戦したことにあるのでしょう(オランダはイギリスに一方的にやられたという方が実態に近いのでしょうが)。幸い、この国の「衰退史」では、帝国として挑戦をして敗れた後、過度の「利己心」の発露による惨害を免れています。国際政治の場では、「利己的動機」にもとづく行動が結果として国際協調、あるいは安定した秩序をもたらすという保障はないのでしょう。極論すれば、バランス・オブ・パワーは、国家の「利己心」が調和をもたらすという、「利己心」を基礎にしています。他方で、集団安全保障体制は、国家の「利己的動機」を抑制し、「利他的的動機」を国家を超越した国際機関が各国に要請するという秩序です。別の機会に、この点を検討しますが、この国における外交・安全保障のあり方は、左右のイデオロギー以上に、政治的指導者が、自国の生存という「利己的動機」を一見、「利他的動機」にもとづくかのように見える「国際協調」と合致させるために前進し、後退し、再び前進するというプロセスを歩んできたように思います。他方で、「国際貢献」という表現は、「利己的動機」と「利他的動機」を両立させるために、ある程度まで日本人を説得するために役立ってきましたが、同時に、一見、「利他的」に見える行動が「利己的動機」を満たし、実現するための不可欠の手段であることを曖昧にしてしまったようにも見えます。

 既に、この国の戦後の歩みを考えるにしては、あまりに抽象的な「寝言」になっておりますが、集団的自衛権の行使に象徴される、日米同盟というこの国の自国の生存に関わる根幹の問題が、「対米貢献」といった自国の生存の根幹に関わるから離れたかのように語られることに強い違和感を覚えます。「利己的動機」の手段と「利他的動機」の手段が切り離されている間は、今日の経済のみならず、政治的相互依存が深まる状況に立ち向かってゆくことは困難でしょう。もちろん、自衛隊の派遣を含む、国際協力は、自国の生存を直接、脅かす問題でない限り、直接的には協力の対象となる国や地域への貢献でしょう。しかし、それが、結果的にとはいえ、国際的な信用、信義、いわゆる「ハードパワー」と「ソフトパワー」の両面からの影響力の増大など、この国の生存と繁栄に寄与することを忘れてはならないと思います。日米同盟という、集団安全保障の枠組みを補完する、しかし、この国の存続に直結する関係ですら、この国の利益とアメリカの利益がただちに合致するわけではありません。しかしながら、「対米貢献」や「対米追従」という表現に示されている、「利己的動機」にもとづく関係を「利他的動機」にもとづくかのようなレトリックから自由にならなければ、過度の「利己的動機」から英米の覇権に挑戦し、敗れた国々と、形こそ異なれ、やはり自国の生存を確実にするという冷徹な判断を欠いているという認識を欠いているという点では、常に「衰退」への確率が無視できないほどに存在することを忘れてはならないと思います。日米同盟は、双方の「利己的動機」にもとづいているという、ナイーブすぎる話ですが、この点が曖昧なままでは、同盟の強化も、自国の利害からその費用対効果を冷静に判断することもできず、さらに言えば、日米の総合的なパワーを考えれば、「利己的動機」にもとづかずに、「対米貢献」といったところで、アメリカは信用も信頼もできないでしょう。集団的自衛権の行使に至らなくても、せめてこの点は整理しておいていただきたいと思います。もちろん、現実政治では複雑なレトリックが用いられるのは当然だと思いますが、アメリカが好きで同盟を結んでいるのではなく、この国の生存から結んでいるという基本を明確にすることです。現状の同盟は互恵的であり、現実にはそのような認識の下で政治レベルでは政策が実行されているとは思いますが、当たり前のことが広くコンセンサスになっているような、なっていないような状態では、予期せぬ事態に直面したときに、国内的な説得が困難になりかねません。

 とまあ、われながら、集団的自衛権の行使という実際的な問題で、こんな抽象論を長々と書くとは恥ずかしいです。連休の終わりに、こんな下までスクロールしていただいた方に、久々に、お約束を捧げます。

ここは「時の最果て」、すべては「寝言」。
おやすみなさい。

2007年09月16日

リーダーの「育て方」(前編)

(@時の最果て)

ハッシュ:おーい。
ボッシュ:…どういうことじゃ?おぬしが起きているとは?
ハッシュ:あのデブから連絡があってな、命の賢者様にお願いがあるそうじゃ。
ボッシュ:どうせ、ジパングの首相がやめてどうたらこうたらについてじゃろ?
ハッシュ:わしにはよくわからないのだが、ジールのときのりーだーの育て方について語ってほしいそうじゃ。
ボッシュ:……。あのデブめ、ワシを釣るのが上手になったのお。ブログなるものを書き始めて、異国の年寄りをいじめることだけが上達するとは、あのデブらしい…。
ハッシュ:……。おぬしを釣る?
ボッシュ:まあ、いい。ところで、ジールのときの話をしろと言うんだったら、おぬし一人でもいいんじゃないのか?
ハッシュ:なんでも、時の賢者と命の賢者の対話でないと、ダメだということらしい。
ボッシュ:要するに、ネタがないわけだな。まあ、付き合うとするか。
ハッシュ:まず、あのデブはとんでもない勘違いをしておるようじゃ。
ボッシュ:ほお。いきなり、それは?
ハッシュ:ワシたちがジール王国の指導者だと思い込んでおるようじゃ。
ボッシュ:……。まあ、ワシたちが女王に進言できる数少ない立場にあったのは事実じゃが。
ハッシュ:困ったことに指導力があると思い込んでおるんじゃ。
ボッシュ:うーむ。ワシたちにとっては女王は、あのデブでもわかるように表現するとじゃな、パトロンみたいなものだ。ワシたちの、趣味みたいなものじゃな、研究を女王が援助し、その結果を女王に話す。頼まれない限り、あれこれ、ジールの運営にワシたちが口をだすことはまずない。あのデブにはわからないだろうが、ワシの知る限り、あのデブの時代より前はほとんどが独裁国家のようなもんじゃ。
ハッシュ:どくさい?
ボッシュ:ちと、乱暴じゃが、ジールでもよい、王様なりがいて、ある領域を支配する。王様が周囲に気の知れた人を集めて、その人たちに言うことを聞くこともあれば、聞かないこともある。どの道、決定するのは、王様じゃ。ただ、支配する領域が増え、いろいろな人がいる状態になると、王の命令に従うとは限らない。よって、みんなの話を聞いたことにする。能率は悪いが、ある程度の規模の領域になると、みなを従わせるのは難しくなるからのお。さらに、別の王様と話し合いもせねばならぬ。ジールの時代には、ジール以外の国が存在しなかったゆえ、ワシらの感覚ではわからぬことが多いんじゃが。けんかをすることもあるが、基本的にはワシの感覚では取引じゃな。力関係が格段に差がある場合は別として、お互いに取引をして、しないよりは双方がマシな状態になるというのが基本じゃ。ただ、取引自体は、独特の要素があるゆえ、王に代わってやるものがでてくる。あのデブの時代なら外交官というところじゃ。
ハッシュ:……。すまないが、ワシにはサッパリじゃ。なにか、付け加えたいのじゃが?
ボッシュ:まあ、おぬしはワシらの中でも政治向きではないタイプだからなあ。ワシとて興味がない話じゃ。
ハッシュ:せいじ?
ボッシュ:……。そこから話を始めると、なんじゃ、リーダーの育て方から話がそれてしまうのお。ジパング全体に関わることから、家族という基本単位まで含めて他人がいて、異なる考えを持っている以上、どのようにお付き合いをするかは考えておかねばならぬ。一番単純な説明は、人間というのは欲で動いているという話じゃな。お互い欲得づくで付き合うなら、取引がなんらかの形で成立する。ただ、場合によっては、どうしても利害があわないことが生ずる。おぬしなら、どうする?
ハッシュ:そうじゃな。ワシにはチンプンカンプンじゃが、とりあえず、譲れるところは譲って、ほしいものを頂くしかないのお。
ボッシュ:おぬしのような物分りのよい人物ばかりだったら、政治もいらんのじゃ。要は、人を動かすときに、利益で誘導するか、相手の感情に訴えるか、論理で説得するか、力で強制するかという選択肢が生じる。もちろん、これらを組み合わせてもよい。ワシからすると、政治というのはいかに自分の思惑とできうる限り合致するように、他人を動かす術じゃ。おおかた、あのデブのいうリーダーというのは、政治に携わる人たち、狭く言えば、今のジパングの国であったり地方自治体のことじゃろう。ワシみたいな政治とは無縁の者からすると、よき指導者とは他人を上手に動かす者であり、悪しき指導者とは他人を動かすことができない、あるいは、最悪の場合、指導者に反発することが名誉となるような状態にしてしまう者じゃな。この場合、もはや指導者の地位にいるのは難しい。
ハッシュ:しかし、他人を動かすといっても、相手も人間じゃ。自分の思ったとおりにゆかないのが普通じゃないのか?おぬしがうまいと思っても、ワシはまずいと思うかも知れぬ。あるいは、建物を建てたとして、ワシが便利になっても、おぬしの家が日陰になったりして不満かもしれぬ。みんなが全体のためになるなら、自分が損をしてもよいというほどお人よしならじゃな、まとめる人がいなくてもまとまるんじゃろうが、そうじゃないのを無理にまとめても、どの道、バラバラになるだけじゃないのかね?
ボッシュ:問題はそこじゃ。バラバラになっても、不都合がなければ、なにもまとめる必要はない。ワシらの商売でも、なにからなにまで自分でやっておる人もいる。頭が下がるばかりじゃ。しかし、ワシより料理が上手な者もいれば、勘定を上手にやる者もいる。お客さんに受ける者もいる。バラバラでやっているよりも、ワシの下でまとまった方が、結果的にじゃが、それぞれの特技が生きてきて、お客さんは喜ぶし、店も儲かるんじゃ。いわゆる分業の利益というやつじゃ。
ハッシュ:しかし、それは、おぬしの店の話だろうに。ジパングにはもっといろんな人がいるはずじゃ。たとえば、あのデブなど、おぬしの店では役に立たぬだろうに。
ボッシュ:……あのデブはお断りじゃな。あのデブにカネを払うぐらいなら、そうでなくてもやっておるが、寄付でもするところじゃ。話がそれるから元に戻すと、それと、おぬしの言うとおり、わしの店の場合なら、まだ目的が限定されておる。実際は、そう単純でもないんじゃが、お客さんが喜んでカネを払い、ワシたちが儲かるという点がぬけてしまえば、ワシの店もあのデブログ(「あのデブのブログ」が正しいようで、命の賢者様がかんでしまったようです:書記係)と変わらぬ状態になって終わりじゃ。おぬしが言いたいのは、ワシたちがジールの立場だったらという話じゃろ?
ハッシュ:まあ、そうだな。ただし、ワシたちには向いているとは思えないんじゃが。
ボッシュ:うーむ、あのデブが重い話題を振るからのお。どうしたものやら。

(@時の最果て)

ハッシュ:おや、またお客さんだ。
:客人って。あの、ここは?
ハッシュ:ここは、『時の最果て』……。 時間のまよい子が、行き着く所だ。お前さん、どっから来なすった?
:西暦1578年のリスボンからです。
ボッシュ:おい、これはいったい?
:Hacheさんはいますか?
ハッシュ:……。ハッシュならワシじゃが。
:……数日でここまで老けられてしまうとは。しかも、ずいぶんお痩せになったようで。
ハッシュ:よもや、あのデブのことかね。
ボッシュ:……。
:別人でしたか。失礼しました。私はラファエルと申します。
ハッシュ・ボッシュ:ラファエル?
ラファエル:はじめまして。私は商会の総帥をしております。
ハッシュ:ほお。ということはボッシュのことは知っておるかね。ここのご老人じゃ。
ラファエル:……すみません。初めてです。
ボッシュ:ううむ。どうして、こんなトコに着ちゃったのかな?
ラファエル:Hacheさんを泊めた部屋に不思議な青い光があって、近づいたら、吸い込まれまして、こちらへ。
ハッシュ:ちょっと、お待ち。1、2、……本当だ。増えておる。
ラファエル:ところで、お二人は、Hacheさんのことはご存知ですか?
ボッシュ:あのデブとはずいぶん違うのお。見るからに総帥という感じじゃ。しっかりしておる。
ハッシュ:商会というのは何をしておるのかね?
ラファエル:基本的には船乗りと思っていただければ。例えば日本でとれた真珠をロンドンで売りさばく。あとは、王様やギルドで依頼されて海賊を退治することもあります。もう、僕は引退しましたが。今では、探検がメインになりまして、世界地図の完成まであと一歩です。ついでといってはなんですが、世界中の文書を集めて仲間に研究してもらっております。
ハッシュ:……。想像を絶するのお。それで、あなたは、あのデブをどうして知っておるかな?
ラファエル:私どもの商会、カストール商会と申しますが、今では七つの海を自由に航行しております。このような規模になったのは、Hacheさんのおかげです。
ボッシュ:……信じられん。あのデブが坊やと一緒に船に乗って世界中を旅したということかね?
ラファエル:……。坊やはやめてください。
ボッシュ:……。これは失礼。
ラファエル:Hacheさんは僕の時代よりも400年以上の方のようですが、わが商会が世界を旅することができるようになったのは、あの方のおかげですよ。
ハッシュ:そういえば、日本と言っておったが、ジパングのことかね?
ラファエル:昔は、そのように呼んでいたようですね。
ボッシュ:なにしろ、「日の本の国」じゃからのお。
ラファエル:ま、まさか、あなたはクルシマの親分の?
ボッシュ:……。ワシはボッシュじゃ。信じてもらえないかもしれないが、あのデブの時代から約1万2千年以上前の時代から、あのデブの国にとばされたんじゃ。こちらの御仁も昔はワシとともにジールという古代文明で生活しておった。
ラファエル:……。びっくりしますが、それでは今では日本の方ですか?
ボッシュ:まあ、住んでいるところはそうじゃな。ところで、どういう展開なのか、後であのデブに説明してもらうとして、まずは、ラファエル総帥の歓迎会じゃな。
ハッシュ:まさか、あのデブめ。わざとじゃな?

 あちゃあ。私も想定していない展開で「リーダーの育て方」はどうなるんでしょ?だいたいですな、スクエアのキャラとコーエーのキャラが語り合うなんて、普通じゃないですね。時の最果てでは「時の最果て」以上になんでもありですか。そうですか。

 なんだか、この展開ではまとまりそうにないですが、「テロ特措法」に限定しても、小泉政権での「官邸主導」と安倍政権のリーダーシップは異なって当然かと。テロの衝撃の大きさは、当時と今ではあまりに受け止めが違います。リーダーシップのあり方を考えるのには好材料ですが、「官邸主導」という「器」を当時の状況から切り離して、それを使いこなせない安倍総理を批判しても、あまり生産的ではないでしょう。もう少し、論点を整理しないと、「小泉時代はよかった」としかならないでしょう。まずは、大雑把に、「内閣官房」と「自民党」+「公明党」の関係、「内閣官房」と「官僚機構」の関係ぐらいは区別しないと。もちろん、両者が一体になって「官邸主導」が成立しているわけですが、国民の大多数が自民党の「統治能力」が地に落ちたと感じた時点での小泉政権への期待値とある程度、「路線」が見えていて「統治能力」への信頼度が回復した時点での「期待値」は異なりますし、自民党内での権力基盤が弱かった小泉政権と比較的、安定していた安倍政権(このあたりも、かえって安倍政権のリーダーシップにはマイナスだったのかもしれませんが)でもリーダーシップのあり方は異なって当然だと思います。また、戦前の総理の権限が弱かったのは、大日本帝国憲法の規定が大きいわけですから、戦後憲法でこの点は改善しています。

 それにしても、「改革を後退させるな」とか「福田さんでもうダメポ」とか、気が短いと申しましょうか、こらえ性がないと申しましょうか、「日経ネットPLUS+」で拝見した「識者」の方々には本当についてゆけないなと(かんべえさんの文章が、失礼ながら、他の方よりも際立って卓見のように映ります)。松尾文夫さんのHPで「拉致敗戦」を拝読すると、「レジームチェンジ」はなかったというあたりはやはり意外性がないのですが、アメリカの交渉者の根気強さを読み落としていたことに気がつきます。向こうは5年や10年のスパンで外交政策を考えているのに、この国はその日暮。彼我「兵力」の差を感じますね。あえていえば、この国の指導者の質が低いならば、それは彼らを評価する準指導者層の質の低さの反映でもあるとすら思います。島国の強み(忘れやすい)でもあり、弱み(事後的に百年単位どころか十年単位ですら実際的な歴史の評価ができない)というありきたりな「寝言」しか浮かばない状況は、ただ萎えるばかり。

 安倍総理の辞意表明のおかげで何年かぶりに「報道ステーション」を見ましたが、麻生候補に「拉致問題で譲るわけにはゆきませんよね」とどこまで本気かわからないのですが古館さんが迫っていて、こういう「世論」が為政者の選択肢を狭めるんだよなあとも。麻生候補の答えも萎えましたが。「失言禁物」の状態だけにしょうがないのでしょうが、米朝接近で拉致問題で強硬姿勢のみをとるのは愚策ですが、言い換えれば、北朝鮮が日本との対話を欲していることもはっきりしていて、小泉訪朝直後ほどではないでしょうが、日朝の「対話」の値打ちが上がっていることも自明。本格的な国内向けの説得のためのロジックは練る必要があるのでしょうが、金正日が中露よりも日米韓との関係に信をおいているというのは、油断できない部分もあるのでしょうが、六ヶ国協議とは切り離して、拉致問題の解決に関して日朝交渉を行うには日本側にとっても、悪くない環境でしょう。ことがことだけに、日本人の情から入って理で説得するという「定石」だけでは非常に困難だとは思いますが、「戦略的広報外交」の一部は国内世論をいかに適切な方向に導いてゆくのかという点が抜けてしまうと、実現可能性は乏しいように思います。

 ラファエル総帥が登場したのでふと思いましたが、嵐のときには港へ危険を避けるというのは、嵐の中を進むとは違った勇気がいります。あえて申せば、この種のリーダーがいないことが、昭和期以降のリーダーの欠陥でしょうか。


 続きを読む

2007年09月15日

リーダーの「壊し方」

 本題の前に、辞任直前の安倍総理の精神状態についていろいろ情報が流れているようです。この十年でだいぶ「うつ病」に関する理解も変わってきているようですが、「ストレス耐性」というわかったような何もわからない用語が使われているようでは、あまり変わっていないのかもしれません。政局とは離れて、無理解も少なくないようなので、慎重に専門的な知見を述べられているサイトとしてこちらを紹介しておきます。10年近く前、睡眠が浅く、リズムがどうにも自分では調整できなくて保健所に相談をして病院を紹介していただきました。うつ病の疑いがあるという診断を受けて、「うつ?what?」という状態でしたので、ネットで検索したところ、当時、トップに来たのがこちらでした。数回、林先生とはメールをやり取りさせていただいて、それきりになっているという不義理な私らしい状態ですが、良心的なサイトと思い、過疎地でご紹介しても、意味がないのですが、これだけ「メンタルヘルス」に関する情報があふれるなかで、地に足のついたサイトが見当たらないので、ご紹介いたします。

 余談ついでに、うつ病の診察は他の病気とは異なった意味で慎重なものでして、私がお世話になっている(睡眠導入剤はないと困ることが多いので)先生の場合、簡単なテスト(リンク先とほぼ同じ内容でした)をした上で、初診で一時間近く、勤務状況や生活のパターン、過去や最近の出来事などを自由に話すよう促されました。その上で、まだ診断は確定してませんよという留保つきで、ドグマチールなどの比較的、「弱い薬」の投薬で2週間単位で様子を見て、症状の改善を見極めておられました。私の場合、睡眠がメインだったのですが、「抑うつ」という症状を確認するのに半年ほどかけて、結論的には「うつ病」ではありませんねという診断結果でした。診察を受ける側からすると、うつ病というだけで欝になりそうですが、このあたりも心配りをしていただいて、「私の先生などは躁鬱なんですけれど、欝のときにはこの世の終わりのような顔をしていますが、躁状態のときには本当に創造的な論文を書かれます。うつ病というのは創造性の源でもあるのですよ」というお話を聞かされて、つくづく不謹慎な私は、「やはり、この種の病気と戦う先生方というのは、その種の傾向をおもちでないとなれないのでしょうか?」などとお世話になっている先生に真顔で尋ねて、一瞬、「殺意」を感じましたが、さすがはお医者様。苦笑いをされながら、「やっぱりうつの可能性はゼロですな」というおちに。いずれにせよ、「ストレス耐性」だの、いかにもわかりやすそうな、しかしながら、なにを意味するのかは実は意味不明な、医学的に確立しているかどうか怪しい言葉は避けた方がよろしいかと。

 すでに「時の最果て」モード、すなわち、お約束どおりのとりとめのない展開になっていますが、お世話になっている先生も、最近は大変、忙しいのでなかなか雑談をする暇がありませんでしたが、10年前後前には、金融関係者、とりわけ都銀勤務の方が相談に来ることが多いとのことでした。「困ったことにね、『先生、薬よりお願いです、貸出をなんとか増やせないでしょうか』なんて言われて、私の手に負えないんですよ。なんとかできません?」などとこちらが相談される始末でして、これはこれで世相を現しているなあと感心しました。この数年は教育関係者、とりわけ義務教育に携わる教育者の方々にうつ病が急激に増えていて、「医者もなるもんじゃあありませんけれど、学校の先生はもっと大変ですな」とも。安倍政権支持でしたが、教育再生には不支持だったのは、ちょっとした現状を知る努力をしていれば、方向自体がおかしいと気づくだろうと。もっとも、半年ぐらい前には、そうした傾向すらなくなってきて患者さんが増える一方になり、「世も末かもね」と漏らされるので、「(病院の)商売繁盛がなによりですよね」とからかって私が慰める立場になっております。まあ、良いのか悪いのか、文明が「進歩」すると、神経が過敏になるようですね。

 そんな訳で「創造性」と無縁であるという診断を受けてしまったわけですが(もちろん、創造的である人がすなわちうつ病であるわけではありませんし、うつ病で苦しんでいる方がみな創造的であるというわけではありませんが、診断をまつまでもなく、私自身が創造的ではないのは自明ですね)、私の幼少のみぎりの苦手は、国語。ブログを書くと、つくづく日本人でありながら、日本語が不自由であることに気がつかされますが、作文はおろか、小学校の教科書を読みながら、「ガキ向けの御伽噺を読ませるんじゃないよ」などと不謹慎なことしか頭に浮かばず、理科や算数と比較すると、極度にひどい状態でした。さすがに、自分でもこれは何かしら欠陥なのかもと思い、小学生から中学生あたりに新潮文庫の海外文学の翻訳を片っ端から読み漁った記憶があります。なんの脈絡もなく、まさに(というより単に)「乱読」していたのですが、好き嫌いのない私でも、どうも読めないのが戯曲と対話でした。シェイクスピアと『オイディプス』は読めても、後の作品が読めなくて、「よーし、頑張るぞ」と気合を入れてプラトンへ挑戦して、あっさり挫折。これはかなりショックでした。おかげで暫く、戯曲や対話篇は避けておりました。今、思うと、もったいないことをしたなと思います。

 大学時代に『アンチ・オイディプス』だったかな、そんなタイトルの本を読めと言われて、「ほお」と書店で手にとって、最初を読んだら、バカバカしくて買うのをよしました。アリストテレスの『詩学』でも読んだ方がためになりそうという程度で、単なる食わず嫌いでしょうが、「現代哲学」はつまらんという結論に。分析哲学は、まだ手が回らないのですが、なんとなく、あの「逝っちゃってる」感がたまらなく(まじめに研究されている方には失礼ですが)、「現代哲学」と一括りにしましたが、別格ですね。まあ、学生時代はひどいものでして、教養課程の教科書がシェイクスピアに関する薄い本でしたが、教科書を買わずに試験だけ受けて、優だったので、本当にバカバカしいなと。こんなところで4年間も過ごしたら、バカになると思いました。

 それはさておき、なぜか再び25歳前後から「乱読」の時代に入るのですが、不思議なことに、すっとプラトンの書が読めてしまう。読んだだけで、わかったわけではない。ただ、プラトンの描くソクラテスが、ソフィスト顔負けの「屁理屈」で相手を困らせて、最後に、常識で落とすというリズムに慣れてきて、理解しようとするより、読んで楽しいな、漫画みたいだな、でも、頭が良くなるわけではないけれど、少しは考え深くなるのかな、というちゃらんぽらんな読みですね。そんなわけで、まともに哲学を「お勉強」したことはありません。哲学をバカにしているわけではなく、まあ、私がちゃらんぽらんだということですね。ちょっとだけ訳知り顔で申し上げますと、プラトンを読むと、「常識」は「非常識」という鏡を通してしか、本来の意味での常識として体得できないということがわかった。なんちゃってですけれど。本当に「非常識」の世界を体験すると、頭が壊れるので、哲学書あたりで経験すると、凡人でも、私ぐらいに俗人となりますと、「縁なき衆生は度し難し」で終わりですが、気を狂わずに体感ぐらいはできる。そんな感じでしょうか。

 リーダーの育成法で頭を悩ませいている「憂国の士」もいらっしゃるようですが、古今東西、この問題に答えがでたことがあるのかどうか、私の貧しい知識ではわかりません。傑出した人物がでてくるというのは教育できる話ではないので、いかに優れた人物が育つ確率を高める程度が限界でしょうか。相反するようですが、優れた人物を育てるためには、文字通り、「非常識」の世界を体験して頂き、常識に帰って頂くしかないのかもと。具体的な「システム」が難しいのなら、戦前・戦後を問わず、小粒になってきている以上、その人たちの背の丈にあう統治機構でゆくしかないだろうと。トクヴィルは、『旧体制と大革命』で、革命にもかかわらず、官僚機構が肥大化したことを否定的な文脈で指摘していますが、政治的リーダーシップが確立するまでは、優れた人物が一人でこなす作業を、お役人には失礼ですが、「小人」たちの分業に委ねることも選択肢としてはありうるだろうと。「官邸主導」、「内閣主導」というお題目はけっこうなのですが、「霞ヶ関」が排除の対象となっている状態が続く限り、絵に描いた餅でしょうね。霞ヶ関の復権を主張するのではなく、現実の執行機関との権限争い(というより役所へのバッシング)というレベルでは「官邸主導」はほど遠く、意思決定の最高機関である閣議と省庁との関係が代替的なのか補完的なのかという点への切込みがなければ、「官邸主導」は「東大法学部卒」への反発と言う次元で終わり、お題目として消えていただいた方が、統治は円滑に進むでしょう。信田智人『官邸外交』(朝日新聞社 2004年)では、「官邸外交」と職業外交官のフリクションの側面が強調されていますが、職業外交官とフリクションが続くようでは、外交は進まないでしょう。現状で、「官邸主導」を、失礼ながら、戦前生まれ・戦後生まれを問わず、小粒な政治家の方たちに強要すれば、今度は自殺者かな。まあ、それも、「官邸主導」を実現するための一里塚と断言できるほど、「胆力」がおありでしたら、何も申しませんけれど。
posted by Hache at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2007年09月14日

中日優勝!? かんべえさんの「大予言」

 「時の最果て」にしては、重たい、軽くても自分でもスクロールするのが面倒になるぐらい長い(「大航海時代(完結編(長い、長すぎる))」を読まれた方にあれはひどいんじゃないのといわれてワードにコピーしたら、なんと40文字36行の標準書式で26頁)を越えておりました)話が多かったので、今日は軽めに。あの、「ダメ虎」時代からの筋金入りの阪神ファンであるかんべえ師匠が、信じられないことに中日のリーグ優勝を予言されました(以下、「不規則発言」(2007年9月13日より引用))。そこはかとない、ちょっとした嫌味とかんべえ師匠への「異常な愛情」を感じていただければ、幸いです。

〇目下のレース状況はこんな感じでしょうか。

麻生:阪神(目下首位。熱狂的ファンを有するが、疲れも見える)
谷垣:巨人(準備万端で先行するも、抑え投手に死角ありか)
福田:中日(地力は一番。まだ本気を出していない)
額賀:横浜(まずは参加することに意義がある)

〇現実のプロ野球以上の名勝負となれば、党再生への足がかりも見えてくるかもしれません。さて、9月23日の総裁選では、誰が笑うのでしょうか。

 実は、野球中継なるものを見る根性も気力もない元中日ドラゴンズファン(名古屋や浜松に帰るときに「非国民」扱いされぬよう、「空気を読んで」現役のふりをするべく、必死にスポーツ紙の過去記事を読んでゆくというわれながら涙ぐるしい努力をしております。うう)なので、正直どうでもよいのですが、この順番でゆくと、横浜はプレーオフさえ参加できない(ゲーム差からすると、プレーオフは阪神、中日、巨人でしょうか)というのが決まったようです。他方で、危うし阪神。個人的には今年ぐらい巨人優勝でいいじゃない、阪神と中日の寡占状態というのもなあという感じ。しかるにかんべえ師匠の「予言」によると、これは中日で決まりでしょうか。シーズンでは阪神が制し、プレーオフで中日がまさかの2連勝(3連勝でもいいんですけれど)。歴史的に見て「短期決戦」にお世辞にも強いとは思えない(忘れもしない1994年の「10月8日決戦」もありますし)中日が、プレーオフで阪神に勝てるとは思えないのですが、かんべえ師匠の予測の的中率はおそろしいので、中日がリーグを制することが濃厚に?もちろん、「地力は一番」という、山本(昌)を昨年まで骨の髄まで憎んではいたものの、今年の凋落もあり、やはり敵ながらできるという、にわかではない、筋金入りの阪神ファンらしい奥ゆかしい評価なんでしょうか。

 ちょっとだけまじめな話(?)を書くと、私が入院している時期に年金「未納」問題でバカ騒ぎをしておりました。点滴を24時間体制でやっていたので、動きようもなく、珍しく昼間からテレビを見ておりました。あのときの印象は、菅民主党代表(当時)が「お前、包○だろ?」と因縁をつけて、「お前が○茎じゃないの?あんたに言われたくはないね」と突っぱねて、よくわからない展開ですが、「じゃあ、一斉にズボンを降ろすぜ」という話になって、小泉総理(当時)は一皮も二皮も剥けた状態だったけれども、菅代表も福田官房長官(当時)も「○○」だというのがばれて、見ていて勃○しない、もとい萎える、あんたたちの「パンツ」の中なんて興味ないよと叫びたい状態のときに、福田長官がさっくり辞任されたのを思い出します。余談ついでに、福田長官が去った後、官邸は大丈夫だろうかと思いましたが、なんとか危機を凌いだという感じで、あの時期には小泉総理も任期を全うされるのかなと思いました。

 ポスト安倍にはあまり興味がないと言いますか、やることはとりあえず、混乱の収拾と小沢民主党と上手にお付き合いできる方というところなので、お名前が挙がっている方の中で誰が望ましいのかはわかりません。全員、未知数と言ってよいぐらい。福田さんには「数の論理」という批判もあるようですが、今、自民党がバラバラになるのもちょっとおっかない感じ。政治的ポジションを懸念する方も少なくないでしょうが、現状では日米同盟という基本をおかしくしなければよいわけで、福田さんがそこまであれかなあと。いずれにせよ、突然の総理辞任を受けて事態を上手に収拾できるかが決め手で、その能力に関して福田さんが一番なら、それでよいというのが、ありきたりな感想でしょうか。

 「続き」で記しておりますが、失礼ながら、存じ上げないサイトから20件以上のトラックバックが来ており、すべてを確認するのが面倒なので、一括削除もありうることを記しておきます。コメントを賜ったことのある方やご面識を頂いている方からのTBを最優先で承認しておりますが、わからないサイトに関しては保留の状態のまま、場合によっては一括削除いたします。


続きを読む

2007年09月13日

迷走する「敗戦国」

 ふわあ。昨晩は地上波なるものを何週間かぶりに見ました。一番、安倍総理にきつそうな『報道ステーション』をメインに見ましたが、なんかつまんないなあ。「無責任」、「辞めるなら参院選直後」という決まり文句の合間に、「辞任の背景」、「自民党内の反応」、「野党党首のコメント」、「ポスト安倍」、「テロ特の行方」が「定食」のように並んでいて、眠たくなりました。それでも、30分も見た自分を誉めてあげたい感じ。ワーキングプアだの騒ぐ割に、報道する側の賃金について触れないのもなんだかなあ、メディアっていいご身分だなあなどと思っておりますので、この「テンプレ状態」を見ると、キャスターの年収なんて、300万円未満とは申しませんが、1000万円をちょっときる程度でいいんじゃないかと。規制業種のわりに、年収が高すぎる気がしますね。とひどいことを書いておいて、ゲル長官もとい石破茂元防衛庁長官がちょっとだけインタビューに答えていて、萌えてしまいました。このあたりはさすがにありがたいですね。もう寝ようかなというときだったので、正確な発言を覚えていないのですが、文民統制上問題がないと総理には申し上げたというあたりしか記憶にないのですが、かなり濃い話だったので、案外、難しすぎる話を総理が聞かされすぎて、ダウンしたんじゃないの、「刺したの石破さんでしょ?」などと不謹慎な「寝言」が浮かんでしまいます。真相は、こちらを読まれて辞任を決意されたんでしょうけどね(もちろん、悪い冗談ですよ)。

 職場でも、さすがにこの話題がでて、みなさん、いろいろ意見をおっしゃっていて、それぞれなるほどと思いながら、何も口にしない私をみんなが怪訝そうに見ていて、話をふられてしまいましたので、やむなく口にしたのがこれ。「こうしてみると、がたいだけじゃなくて森さんは大物でしたなあ。加藤の乱、直後の野中発言、なにがあっても降りなかった。次は森元総理には失礼ですが、神経が一本どころか二、三本抜けている方がいいんじゃないですか」。みなさん、「お仕事、お仕事!」となりまして、平穏無事な一日です。本当は、「だったら、お前あたりが向いてるんじゃないの?」というツッコミを期待していたのですが。もちろん、私の神経が抜けている、間が抜けているという皮肉ですけれど。あの当時の政権支持率ときたら…。今の小・中学校では人数が少ないからダメでしょうけれど、私たちの頃ですと、ぎりぎり50人を切る程度でしたから、クラスで「森さんが好きな人、手を挙げて!」なんてやろうものなら、5人ぐらいが目を伏せてちょっと手を挙げるかどうかぐらい。昔にさかのぼらなくても、今回は、一夜明けると楽な作業だなと思います。ただ、安倍総理が職を賭するとのご趣旨の発言をされたときに、パッと頭に浮かんだのが吉川経家の逸話(実話かどうかはわかりませんが)だったというのは、なんとも不吉でしたが。「落城」まで粘らない方がひょっとしてよかったのかもと思ったりして、安倍総理を責める論調を腐るほど読んだせいか、ちょっと「判官贔屓」に。

 これから、それなりにポスト安倍で盛り上がるんでしょうけれど、その手のお話はお好きな方たちにお任せ。「時の最果て」ではもっとどうでもいいことを考えます。参議院では、民主党が第1党で、解散ができないだけに、国民神道を抱き込んで云々という話もあるんでしょうけれど、民主党の安全保障政策はお寒い限り。期待値がマイナス(ちょっと乱暴すぎますが)ですから、独断と偏見の塊ですが、「テロ特措法」への反対の理由を煎じ詰めると、「国連決議のない、アメリカの戦争だから」と聴こえてしまいます。国際法の入門書を学生時代に読みましたが、正直なところ、頭の悪い私には、とくに戦時国際法はまったくわからなかったので、ひたすら暗記して試験が終わったら忘れてしまう劣等生(民法は別の意味で絶望的でしたけれど。養老先生の表現を拝借すると、民法は私のバカの壁に敗れたのであった)だったので、国際法にはまるで自信がありません。そんな状態であまりに乱暴ですが、そんな私が次の国連憲章51条を読むと、民主党が何をしたいのかがまったくわかりません。

国連憲章

第51条

 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP研究所 2001年)では個別的自衛権と集団的自衛権の区別、憲法との関係など集団的自衛権をめぐる諸論点を、露骨に言えば、現行の政府解釈(簡単に言えば、「国際法上、わが国は集団的自衛権を有するが、憲法上の制約により、行使はできない」)を批判し、なおかつ解釈変更を迫る立場から整理されていますが、てぶらで憲章を読んでみましょう。私の「無謀、愚劣、不遜(+無知)」をさらすのにも好都合ですし。「バルデス軍」が来ませんように(本当は異論を聞きたいんですけれどね。勉強になることが多いので)。

 さて、てぶらですと、第3文はどのような解釈ができるのかがわかりません。…いきなりダメじゃん。というわけで、『大航海時代IV』ですと、「Game Over」ですが、素人なりに強引に解釈しますと、「自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置」に国連安全保障理事会が制約されないと読めます。でたらめな解釈ですが、第一文で「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」という表現で、消極的に自衛権を認めた上で、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という制約を課しています。強引ですけれど、安保理が直ちに対応するという意味での集団安全保障が機能することがベストだけれども、手続きの問題などから困難な場合など、加盟国の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」にもとづく「措置」を否定していないと読めます。学生時代には田畑茂二郎先生の本が教科書で、手元にないので不確かな記憶しかありませんが、51条は米ソの関係が悪化する中で盛り込まれた条項だとご自身が講義で力説されていた記憶があります。佐瀬先生はこの見解に否定的ですが、私の「イデオロギー」を主張するには寄り道になるので省略します。第2文は、素人的には平明ですが、こういう文章の方が法律の世界では怖いのでちょっとおっかなびっくりですが、最低限、自衛権の行使するプロセスでとった措置を安保理に報告しなさいよというところでしょうか。以上のことを踏まえて第3文では、安保理が自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置と安保理がとる行動は異なることがありえますよと解釈します。ド素人ですから、乱暴な表現をすれば、自衛権の範囲を逸脱すると安保理が判断した場合、それに対する警告や制裁、場合によっては軍事的措置まで明記していないので、事後的な形ではあれ、自衛権の行使に当って加盟国がとった措置を場合によっては覆すこともありますよと読めます。素人的に全体を解釈すると、国連の基本は集団安全保障ですよ、ただし、自衛権は否定しませんが、集団安全保障の枠内でのみ容認しますよということでしょう。

 いかれた「外道」の解釈からすると、アフガニスタンでの「有志連合」の活動を批判するならば、それがまず、集団安全保障の枠を超えた、国連憲章上でも消極的とはいえ容認されている、自衛権の行使を逸脱しているか否かがまず問題でしょう(あんまりつまらないことを書きたくないのですが、安保理や国連総会でアフガンでの「有志連合」の活動が自衛権の行使だけでなく、他の諸活動も含めて明確に集団安全保障の枠を越えるという決議がない以上、憲章の範囲内の活動であることは自明だと思うのですが)。さらに、「テロ特措法」では安保理決議1267、1269、1333が挙げられていますが、安保理決議1368では「安全保障理事会は、国際連合憲章の原則及び目的を再確認し、テロ活動によって引き起こされた国際の平和及び安全に対する脅威に対してあらゆる手段を用いて闘うことを決意し、憲章に従って、個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識し」とあって、安保理がアフガニスタンでの活動は、自衛権の行使として容認していることを明確に示しています。これが「テロ特措法」に盛り込まれていないのは、邪推ですが、集団的自衛権の行使に関する政府(ぶっちゃけ内閣法制局)の解釈を変更する準備がなかったからでしょう。野党もうっとおしいしね。要は、「テロ特措法」というのは、国連安保理が認めた自衛権の行使という肝要な点を避けた、その時期の事情を鑑みるとやむをえないとはいえ、自衛権の行使を行使じゃないとするための法律でしょう。

 それじゃあ、民主党の主張が正論で、あんたの方がおかしいじゃないかと思われるかもしれませんが、頭の悪い私には民主党の主張が理解できません。もし、「テロ特措法」を非難するならば、法律には盛り込まれていないとはいえ、安保理決議1368ではアフガニスタンでのアメリカを中心とする「有志連合」の軍事活動が自衛権の行使であり、現行の政府解釈からして、海自がそのような地域で活動を行うこと自体が憲法違反であるという点に絞られてくると思います。これを「アメリカの戦争」と呼ぶのはまったくの間違いではないでしょうが(「戦争」という用語もややこしいので微妙ですが)、国連決議がないのが問題というのは無意味でしょう。集団的自衛権に関する現行の政府解釈を容認するか、変更すべきかを捨象しても、海自のアフガニスタンでの活動は国連安保理決議の枠内での要請に応える範囲内のものであれば、現行の活動は、国際法上、自衛権の行使で、国内的には憲法違反すれすれというグレーゾーンであることが問題だと思います。もちろん、将来の見直しを考慮してこの点を問題にしないというのは「大人」なのかもしれませんが、今後、国際協力に関する新法を制定する際に、この点を整理しなければ、かえって変な制約が加わるという点では逃げてはダメだと思います。言いにくいですが、「小沢原理主義」の間は難しいでしょうけれど。

 ここで話が急展開するのですが、集団的自衛権の問題に踏み込まないという点では、自民・民主の新法はどの道、出来が悪いという点では程度の差でしかないでしょうから、騒ぐだけバカバカしい。いっそ、民主党案を丸呑みして、自民党と民主党が事実上、連立する準備をした方がよいというのが、今日の「寝言」です。もう、うんざりするぐらい書いていますが、自民党が民主党と「統治能力」をわかちあって、「民意」がどう転んでも、外交・安全保障政策が揺るぐことのない体制を築かないと、冗談抜きでこの国の存続に関わる危機に対応できないでしょう。とにかく、現在の外交・安全保障に関する議論の大半は目先の問題への対処に追われている印象があります。他方で、安全保障という、言ってみれば、消火活動と似た分野ではそういった問題への、「場当たり的な」対応の積み重ねが、イギリスの「バランス・オブ・パワー」のような事後的に戦略性をもった政策になることも、また否定できないでしょう。また、民主主義国家では公開された討論の場で外交・安全保障政策が決定されてゆきます。この国も例外ではありません。ただし、意味のない「タブー」があってはまともな議論はできないでしょう。「タブー」を破ることがそんなに難しいのなら、与野党で腹蔵なく国会で議論していただくことを望むばかりです。

 最後に「寝言」ならぬ「感情論」ですが、安倍総理の辞意表明を受けて、戦後生まれのひ弱さを指摘する方が多いです。ならば、戦前生まれの政治家たちが解決できなかった問題を戦後生まれの政治家が解決してやろうというぐらいの気概をもって頂きたい。その際、一時的に戦前生まれの政治家の知恵と力をお借りするのも、当然でしょう。敗戦以来、「自分の国は自分で守る」、「自国の能力を越える危機には他国との協力をえて守る」という当たり前のことができずに現在に至っています。自国の運命を自らの手で握るという自由で独立した国の基本を取り戻す。そんな「寝言」を綴る日々がまだまだ続くのでしょうか。

2007年09月12日

「善意」の総理 辞任表明

 まるで糸がぷっつりと切れたように、安倍総理が辞任を表明しました。あれこれ裏舞台は読むことは、私の得手ではありませんので、何も考えずに、安倍総理の記者会見の言葉を追ってゆきましょう(時事通信では代表質問が行われる直前に「健康上の理由」で代表質問にでることができないと自民党幹部から民主党幹部へ伝達されたことが報道されていますが)。『毎日』が記者会見での「発言」全文「一問一答」の全文を配信しているので、こちらを読んだ上での感想です。当然ではありますが、「首相官邸ホームページ」にもまだ掲載されていないので、素直に一番、読みたい記事を配信した毎日新聞社はありがとうございますというところでしょうか。

 まず、「発言」と「一問一答」の全文を読むと、「美しい国」という表現は姿を消し、「戦後レジームからの脱却」は2回ほどでてきます。これと9月10日の「所信表明演説」を比較してみましょう。「新しい国創り」という表現が冒頭部分で用いられていて、「一問一答」でも用いられています。今更ではありますが、政権の看板の難しさを感じます。「美しい」という表現は、人々の主観に依存する部分が大きく、このフレーズを耳にするたびにどうかと思いましたが、所信表明演説の段階で安倍総理が路線の修正を図ろうとしていたのかはわからないのですが、最後の方で「美しい国」という表現がでてくるものの、「国民一人一人が、日々の生活において、真の豊かさ、潤いを実感できるようにすること。すなわち、『美しい国』創りを進めていこうとするものであります」とあり、抽象的ではありますが、いわゆる「安倍カラー」の薄い内容になっています。「戦後レジームからの脱却」は所信表明演説の冒頭部分ででてきますが、こちらは従来からの内容と大差がないように読めます。この所信表明演説全文を「第166回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説」(2007年1月26日)と比較すると、骨格は年金などを除くとあまり変化がないのですが、個々の方針の具体策へ言及が少ないことが目立ちます。また、冒頭部分は参院選での敗北に関する「反省」と「覚悟」に多くがさかれていて、なおかつ改革の続行とその軌道修正について触れられています。全体として今国会での所信表明演説は、「受身」と「淡白さ」が目立ちます。後付ではありますが、9月10日の「所信表明演説」の段階で、既に、安倍総理はいつ辞任してもおかしくない状態だったのかもしれません。

 問題の記者会見での安倍総理の発言ですが、いわゆる「テロ特措法」が内閣の主要課題であり、全力を尽くそうとされたことを、使われている言葉は総理の発言としてはやはり「力み」を感じますが、述べられています。そして、唐突に小沢党首との首脳会談が断られたことが唐突にでてきます。続いて「局面打開」が強調され、「政治の空白」を生まないように党五役に伝えたことが述べられています。辞任を正式に表明された安倍総理には失礼ですが、この発言を読んでも、なぜ、このタイミングで辞任をするのかがまったくわからないというのが率直な感想です。まず、「テロ特措法」の延長についてですが、安倍総理が政権を去っても、「局面を打開する」どころか、困難な状況が変わるとは思えず、むしろ、新総裁を選出する空白期間が生じることを考えれば、事実上、延長は不可能に近い状態になったと思います。さらに、新総裁・新総理が選出されるまでは安倍総理は総理に留まるわけですが、この間は国政が停滞することになるわけで、事実上、「政治の空白」を自らつくってしまったと思います。この発言を表面的に読むと、安倍政権は閣僚だけでなく、内閣総理大臣という地位の価値を大きく減じてしまったように思います。

 辞任の直接の契機が、小沢党首との会談が困難になったというのも理解できないです。小沢党首自身が報道に誤りがあるという発言をしており、私自身が永田町の「礼儀」に疎いのでよくわかりませんが、「ご挨拶に参ります」という話が国対を通してやりとりされ、「挨拶ならけっこうです」という返事がきたとて、話し合いが不可能なのかどうか。もちろん、このやりとりを字句どおりに受け取るのはあまりにナイーブでしょうが、辞を低くして会談を申し込んだのにもかかわらず、断られたと総理が感じたのでしょうか。いずれにせよ、辞任の契機が党首会談の見通しが立たないことというのは、理解不能です。

 言い換えれば、既に、安倍総理は政権運営を行う意思を失っていたようにも思えます。参院選の惨敗後も総理を続投するのは非常に困難な決断で、私はこの決断を今でも評価しておりますが、内閣改造直後に農水相の辞任があり、安倍総理自身の士気が低下していたことは、自明なのでしょう。9月9日のAPECでの発言後、9月10日の所信表明演説、12日の辞任の表明という流れからすると、安倍総理の意志がいつ途切れるのかという状態だったのかもしれません。

 ここで少しだけ深読みをしますと、テロ特措法の延長が本線として、(1)民主党を含め、日本国の事実上の総意として延長を決定する、(2)民主党の説得を諦め、衆院での圧倒的多数で延長を決定する、(3)延長を断念して新法で望む、などの選択肢が存在することがいろいろなところで指摘されています。党首会談に関しては、小沢党首が相手ですから、仮に会談が成立しても説得できるかどうかわからないでしょう。ただ、あまりに淡白な「終わり」を見てしまうと、自信はありませんが、米駐日大使も手を焼いた小沢党首を説得してなんとか(1)を実現したいというのが安倍総理の考えだったと想像します。さらに妄想をふくらませると、頑固な民主党をなんとかできないかというやりとりがAPECでの会談であったのではとも。仮にそのようなやりとりがあったとしても、安倍総理がブッシュ大統領の言葉をどのように受け止めたのかが、はるかに問題だとは思いますが。妄想はともかく、いずれにせよ、海自の活動を継続するという実だけでなく、民主党の意向も踏まえて政策論争の余地はあるにせよ、政争の具にせずに、「テロ特措法」の延長する「名」も実現したいというのが、総理の意向だったのではと思います。

 さらに妄想を膨らませると、私も(1)がベストであるとは思いますが、次善の策である(2)、場合によっては現行の法律よりも望ましい恒久法を制定するという(3)などを選択する余地はあったわけで、そこまで粘る意欲がなかったということは、(1)以外の選択肢を総理が好まず、あるいは実現が不可能だと見て(1)を選択し、なおかつ、党首会談が不成立だったことで、(1)の実現可能性がなくなったという判断をされたのでしょう。そこには既に続投意欲が低下していたことも作用していたのでしょう。露骨に言えば、進退発言で自らテロ特措法が政争の焦点になる状態をつくってしまい、打つ手がなくなって(あるいは総理がそのように認識して)、あっけなく政権を放り出してしまったように見えます。以上が、表面的な観察と妄想にもとづく安倍政権の「終わり」です。

 安倍政権支持を掲げながら平気でこんなことを書いてしまうので、本当にいかれた「外道」だと思います。この時期には安倍総理はご自身の「善意」を抑えつつも、つい発露したというかんじでしょうか。それでも、今年の3月に入ってから、安倍総理の「誠意」あるいは「善意」が悩ましく、「空気読めない(KY)」と揶揄されるのを見ながら、読んじゃいけない場合もあるからなあと思っていましたが、「善意」の「空回り」をおそれておりました。政界をウォッチしているわけではない、ド素人の「寝言」ですが、「善意」の総理は、「善意の人」であるがゆえに、自ら政権を投げ出す結果となったと考えております。あまりに意外な「結末」ですが、もって冥すべしと自分自身に思い込ませるしかないのでしょう。さすがに獅子咆哮弾もでないほど、気が沈んでしまいました。

 それにしても、安倍総理に期待した日米同盟の強化は、どこへゆくのでしょう。シャボン玉を追っているような気分になります。美しくなくても、日々、私のような、明日くたばっても、誰一人として困らない、オヤジがのおのおと生きている国を維持していただければ、十分なのですが。


続きを読む

2007年09月11日

大航海時代(完結編(長い、長すぎる!))

 ゲームのことばかり書いていると、こいつは暇人だなあ、俺と代わってくれよと言われそうで、ちょっと怖いのですが。この時代のことについてもっと勉強してから記事にする予定でしたが、なかなか時間がとれないので(だったら土日にゲームをやめろというツッコミを自分でも入れたくなりますが)、「奥行き」がないまま、記事にしちゃいましょ。なお、前回の記事でうっかり東南アジアで覇を競っているのがポルトガルとスペインと書いてしまいましたが、ポルトガルとオランダというのが正しく、ゲームでもその点は反映されています。訂正する代わりに、ここに記しておきます。

 『大航海時代IV』は、開発元がコーエーで元々、単体で販売され、その後、パワーアップキット(以下、PUK)なるものが販売されました。PUKによる変化は、(1)追加シナリオ(このゲームの場合、主人公のバラエティが増える)、(2)主人公別街(ラファエル以外の主人公で深入りしたことがないので他の主人公の場合は異なるかもしれませんが、事実上、港しかない状態から街が発展してゆきます)、(3)戦闘や交易品の追加など遊びの要素の増加、などのようです。ちなみにPS版では、シナリオは単体の通り、ラファエル(本拠地:リスボン)、ホドラム(本拠地:ストックホルム)、リル(本拠地:アムステルダム)の3人に、どれか一つの主人公でクリアすると、マリア(本拠地:杭州)を主人公として選択できるようになっています。また、仲間になる航海士が増えていることは家庭用ゲーム機に移植した際に追加したのでしょうか。交易品などは概ねPUKに準じているようです。単にある海域での勢力値(契約している街の数と発展度でだいたい決まるようです)を挙げるだけなら、シミュレーションゲーム(SLG)に近いのですが、七つの海ごとに存在する「覇者の証」なるものを手に入れないとシナリオが進まない、加えて仲間キャラ(航海士)がシナリオの進行とともにイベントとして発生するという点ではロールプレイングゲーム(RPG)に近い感覚でしょうか。ちなみに、私はPUKではない、ソースネクストが販売している廉価版でPCではプレイしましたので、PUK版はネットで見た叙述を参考にしています。

 ただ、コーエーのゲームに共通する難点は、中盤以降、同じ「作業」が増えて飽きてくるということでしょうか。交易にせよ、戦闘にせよ、慣れてくると、「作業」に近い感覚で退屈になってきます。アイテムコンプリートというRPG的な要素はあるのですが、なくても航海士のレベルが高いと、おまけみたいなもの。レベルは最高で200、体力や精神などの基本パラメータは最高が100です。統率力や剣闘術などの役割分担にかかわるパラメータは最高が500ですが、レベルが200の状態でどの航海士も(主人公を含む)すべてのパラメータが400になるので個性がまるでなくなってしまいます。アイテムを装備すると、特定のパラメータが上昇しますが、その上限値が500という訳でして、RPGとしての要素が台無しになります。よく言えば、自由度が高いということになりますが、みんな有能になってしまうので、ちょっとなあという感じ。ちなみにPC版の場合、七つの海域すべてに地方艦隊を派遣して委任してしまうと、1ヵ月に平均して金貨で70万−80万程度の収益がえられて(勢力値が各海域で9000以上)、1年で1000万近く収益がでます。困ったことに、投資も終わっている状態ですと、使い道がなくなるので教皇や国王に寄付をするとかなにか使い道をつけてほしいなあと思いました。

 そんなに文句たらたらだったら、PCだけでPSなんかでやる必要はないじゃないかと思われるでしょう。まあ、そうなんですが、なぜかPCでやるとですね、スペインのバルデス軍と中盤に入ったぐらいに宣戦布告されちゃって、ほとんど壊滅状態に追い込むまで停戦に応じないので勢いでスペインを「征服」することになってしまうんですね。この場合、シナリオで想定されている重要なイベントが発生しないので、PS版をプレイしたら、ノーマルに進行したので、ネットで見ると、きついとされているイベントが発生します。これは確かに厳しいなあと思いましたが、意図せざる「準備」によって「ぬるい」イベントになってしまいましたが。こちらは後述ということで。

 前回の記事で時代背景については触れましたので、今回はラファエル総帥との「対話」の続きです。収録日時は1578年、場所はリスボンということでご理解を賜りますよう。既に、ネタバレを書いていますが、以下は数多く含むので「続き」にしております。国内外の情勢に萎えていて、なおかつ暇な方はクリックしてください。そうじゃない方は、退場をお願いいたします。


続きを読む
posted by Hache at 20:00| Comment(4) | TrackBack(1) | 気分しだいの寝言

2007年09月10日

元がとれない!

 まとまった休みがないと、ゲームはきついです。PCで悪戦苦闘(マウスで戦闘をやるのは本当につらい)して『大航海時代IV』(ソースネクストが販売している廉価版)をなんとかクリアしたものの、もう一度やろうという気力が起きず、PS2でやり始めましたが、こちらは読み込み・書き込みのスピードが遅くてイライラしました。しかも、平日は無理なので土日に集中するのですが、一週間が過ぎると、次に何をしようとしていたのか、忘れてしまいます。普通のRPGよりは自由度が高いので、かえってそのことがあだになっている感じ。他方で、SLGほど気分しだいで進めることも難しいので面倒になることもしばしばです。それにしても、『クロノ・トリガー』といい、PS向けに開発されたソフトはPS2では、とくに読み込みですが、異様なまでに遅くて疲れます。、

 それでも、日曜日にPS版をクリアーしてホッとしました。『大航海時代』シリーズの初回作が販売されたのが1990年とのことですので、当時はまだ学生でした。大学時には全くPC・家庭用ゲーム機を問わず、ゲームを一切やらなかったので、この時期に販売されたゲームにはまったく縁がなく、『大航海時代』シリーズもご縁がありませんでした。20代後半ぐらいに知り合いにゲーム狂がいて、それにあてられて『ときめきメモリアル』なるゲームをやって、あまりの下らなさについついはまってしまいました。話がそれてしまいますが、お気に入りは紐緒結奈。名前からしてある性的嗜好を示唆しているようにも思えますが、マッドサイエンティストという設定がたまらなく、たとえばデートでショッピングにでかけて、行き先が確か(1)ブティック、(2)アクセサリーショップ、(3)ジャンク屋となっていて、普通の女のことであれば、(1)と(2)がメインでしょうが、迷わずジャンク屋。主人公が科学部所属ですと、たしか「カゼナオール」だったかな、しょうもない薬で高校生でありながらノーベル賞受賞という信じがたいイベントが生じます。当時はよく風邪をひいたので、この薬ほしいと思いましたが。知り合いに拉致されて無理やり知り合いの家でクリアーさせられましたが、終盤、対決があることまで予想して体力を貯め、クリアーした後に『ときめきカルトクイズ』(?)でいきなり不正解なしの一発クリアー。ありゃま、「時の最果て」とはいえ、お約束のとりとめのない展開になりました。

 『クロノ・トリガー』やFFVIも勧められてやってみましたが、FFは今ひとつ、『クロノ・トリガー』は個人的には「大当たり」でした。この時期にSFCの『提督の決断II』をやりましたが、こちらもバカにしていた割りにやり込みました。「非国民」ですので、アメリカ海軍にすっかり惚れ込んでしまって、日本側でクリアーした後は、アメリカをもって最小の犠牲でどうやったら日本を屈服させるかだけを考えておりました。という話をうっかり漏らしたら、反米の人たち(「右」・「左」を問わず)から「やっぱりお前は英米系だと思っていた」(顔は誰が見ても東洋人(東洋人の中でもとりわけ不細工な部類ではありますが)だと思うんですけど)とか「この非国民!」(これ「左」の人が使うのはどうかと思うんですが)と言われて、インテリと呼ばれる人たちにはついてゆけぬ、まあ、インテリじゃないからいいかという程度の反応。たかがゲームに大人気ないなあと思いつつも、好みが出るんですかね。それにしても、ゲームでアメリカ海軍を好んだら、「親米」というのも解せぬ話。「右」だの「左」だのの騒ぎはその程度とこの程度のことで勝手に思い込んでいます。妄想癖が強いことぐらいは自覚がありますので。

 最近、文章で書くのが難しいことが多いです。簡単に言うと、とりとめがないのが「時の最果て」のお約束ではあるのですが、言葉として表現するのが面倒だなと。簡単に言ってしまうと、年金問題だけなら時間をかけて解決すれば済む話ですが、加えて閣僚の不祥事が連続すると、もたないなあと。集団的自衛権の問題どころではなくなって、政権への期待値がどんどん低下しました。ふだんの話を聞いていると、自民党でも民主党でどちらでもよさそうな、要は無党派な人たちに最近の話を聞いてみると、驚くことに私の知り合いが偏っているのでしょうか、ほとんどが安倍政権を支持していました。あまりに意外だったので理由を聞いてみると、安倍政権は小泉路線の継承と映っているようで、閣僚の「不祥事」や「失言」(「とどめ」の方は私にはなぜ辞めなければならないのかが納得できないのですが)の程度からしてこんなことを繰り返していたら、閣僚のなり手もいなくなるという「危機感」があるようです。都市部、30代がほとんでですが、コアな安倍政権支持層からすると、「訳のわからない人たち」というところでしょうか。要は、安倍政権に小泉路線の継承を期待した人たちで(急進的な部分の修正も含む)、なおかつ、日米同盟の強化には私ほど積極的ではないけれど(だから私とは期待値が異なる。当然、発足当初は私の方がはるかに高い)それ自体は安全の確保で代替する手段がないと考える人たちで、強いてイデオロギー的なポジションを挙げれば、自由主義、あるいは古典的なリベラリストで世界中(とはいうものの、アフリカやアラブ世界、中南米は少ない)を旅しているという意味ではコスモポリタン的な人たちというところでしょうか。戦後日本社会が安定している理由の一つとして「一億総中流」と揶揄するぐらい中流層が分厚く堆積したことが挙げられることが多いですが、同世代の知り合いは、その延長線上に来る人たちなのかなと思ったりします。このような人たちがどの程度の「厚み」で存在するのかは私にはわかりませんが、全体として「べき論」を嫌う傾向があり、彼らもブレはあるんでしょうが、ぶれても幅が小さい印象があります。ただ、残念なことに多数派ではない印象もありますが。そんな変わった安倍支持層に、「官邸が終わってますから」ととどめを刺す私は自分でもなんなのよ。『官邸崩壊』でも読めっていうところでしょうか。

 安倍総理がいよいよ進退をかけてテロ特措法の延長に乗り出して複雑な気分です。パッと思いつくのは、鳥取城に籠城するにあたって自分の首を入れる桶を準備した吉川経家の話でしょうか(安倍総理の敵が羽柴秀吉クラスではないのがもの悲しいですけれど)。この巧拙の評価は非常に難しい。正直なところ、私の能力を超えます。まず、この発言で安倍総理は自分の思い込みのために日米同盟を犠牲にするような輩とは格が違うことが明確になったというところでしょうか。自民党内にもこのような人がいらっしゃるようでゾッとしますな。しかし、そんな人たちと一線を画してもあまり意味がなく、安倍総理もそのような意識はないでしょう。次に、法案成立という点から見ると、あまり得策ではない。民主党に致される形で「本丸」のありかを示したわけで、民主党も政権をとる可能性がでてきて自制が働くのではと観測する向きもありますが、ここは勢いで廃案にするためにありとあらゆる手を使ってくるでしょうし、参院の過半数に加えて議事進行を抑えているというのはかなり険悪な感じです。戦術的には拙い印象です。

 それでは最も大切だと私が考える日米同盟、あるいは日米関係への影響はというと、悩ましい。これで延長できれば、少なくとも安倍総理がご自身の「首」をかけて同盟が機能していることを日米両国に印象付けられるかもしれません。問題は米側の識者がどれだけこの問題に関心を抱いているかどうかですが。他方で、波乱はあったものの、政治・安全保障レベルの「日米融合」が不可逆であるという話になります。問題は、延長できなかった場合ですが、ここで安倍総理が政権に居座る可能性は無視できそうなので、総辞職で新政権発足という話になって、これはさすがに日米に衝撃を与えるでしょう。テロ特措法は、正式名称の長さもさることながら、法律として出来がよいかは疑問もあります。他方で、2001年11月2日公布に至ったスピードはすさまじいものを感じます。9.11の衝撃のすさまじさをあらためて思い起こしますし、それから6年という歳月の儚さも。政権が交代しても、新法でフォローするというのはさらに難しく、小泉政権・ブッシュ政権の「日米の夏」から一気に「日米の冬」となるのは必定。「油」がイラクへ行っている(ある範囲内では常識ではないかと思いましたが。「今更、なに?」というのが正直なところ)とかけち臭いことを問題にする人が我が物顔で歩くようでは大変だなあと。法案の延長が、単なる失敗であれば、その負の効果はじわじわとでてくるのでしょうが、内閣総辞職・新政権発足(この場合、麻生政権でしょう)となった場合、否応なく日米関係が冷え込むことは避けようがなさそうです。さらに言えば、アメリカへの「発言力」を欲してテロ特措法延長に反対する方が少なくないようですが、逆でしょうね。どうも40代後半から50代前半で日米構造協議の「最前線」で活躍された方には、この種の経験の「呪縛」から逃れられない人が多い印象があります。言論の世界の「反米」は無視しても何の問題もないと思いますが、統治の中枢にこの手の方が無視できない程度にいらっしゃるということを考えると、テロ特措法の延長に失敗した場合、同盟強化、あるいは日米同盟の双務性を高めるどころか、同盟を維持するのがやっとという橋本・小渕政権以前の状態まで戻る不確実性まで生じるでしょう。冬に鍛えられた木の年輪は薄いけれどもしっかりしていますが、自ら望んでわざわざ冬の時代に戻ることもなかろうと。ただ、ペシミスティックな私は、ついつい敗戦国というのは生き延びることがやっとになってしまうという思い込みから自由になれない部分があります。テロ特措法の廃止を願う人たちが、自国の生存に楽観的であるという意味での「タカ派」に見えてしまう今日この頃です。

 大航海時代から遠く離れてしまいますが、かんべえ師匠の表現を拝借すると、「米中融合」は経済的相互依存という点に絞れば、さらに、プレイヤーの一方が中国という戦略性の高い国であることを考慮しても、ある程度までは自然現象のようなものでしょう。平たくいえば、市場経済がもたらす交易の利益の存在によって、米中に限らず、今後も経済的相互依存関係は世界中で深化してゆくでしょう。大胆なことを書いてしまえば、これから国際的な信用収縮が仮に本格化しても、国際的な協調体制が崩壊しない限り、「春の雪」でしょう。微妙な点は中国が第2次世界大戦後の国際協調体制の責任ある一員になるのか、アウトサイダーとして国際的なアナーキーを生み出す源になるのかということしょう。この点に関して私はなんの知見もないのですが、中国、あるいは中国共産党の戦略性が高いとしても、仮にアウトサイダーとして振舞う方がそうでない場合よりも利得が高い、あるいはそのようにプレイヤーが認識すれば、合理的な選択の結果としてアウトサイダーとして行動するしかありません。経済的な相互依存がただちに政治的相互依存に結びつくわけではなく、どちらが先かというのも「神学論争」だと思いますが、「米中融合」から中国が国際秩序を支える一員になること自体は、この国のプレゼンスの低下を懸念される方もいらっしゃるでしょうが、それ自体は望ましいことだと思います。政治と経済は関連もするし、しないこともある。政治と経済が関連しても、それが補完的か代替的かというのは状況に依存するのであって、決定論的な思考で説明することはできないでしょうというのが「時の最果て」のスタンスです。不確かな記憶ですが、1990年代後半に中国のGDPが日本のGDPを超えたという論文が、どの雑誌だったかすら忘れてしまいましたが、発表されて中国脅威論が周囲でも(左翼の人も含めて)盛り上がった時期がありますが、私自身は冷たい性格ですので、「アメリカが中国を市場経済に上手に包摂できるかどうかが政治的な問題でGDPの金額自体はあまり問題ではない」とふれまわって白けられたことがあります。善悪はわからないのですが、当時から10年程度経過して、あまり自分のスタンスに変化がないのが自分でもちょっと不思議です。ただし、「責任ある一員」の見返りが「台湾海峡」となりますと、アメリカの「統治能力」には疑問符がつきますが。

 まったくとりとめがなくなっていますが、「ナイ報告書」が出た頃に岡崎久彦さんの『繁栄と衰退と』を拝読して、オランダの歴史が自国の歴史に重なって見えてしまい、勝手に先生と仰いでしまいました。大航海時代、その後のイギリスの覇権が確立する時代には政治的相互依存の大半は王室の関係で現在と比較するのは乱暴ではありますが、緩やかな意味で歴史は繰り返すのかもしれないとぼんやりと考えていた頃に非常に刺激を受けた覚えがあります。歴史が繰り返すのかそうでないのかは、答えがあるのかもわからない、問うこと自体に意味があるのかもわからない、しかし、いったん、この問題を考え出すと、生と死と同じ程度に「病気」になってしまうやっかいな性癖です。お盆休みに『大航海時代IV』などやらずに、読書でもしていればよかったのですが(本や文献は読んでいたものの、犠牲にした時間が今となってはもったいない)、なんとか元をとろうとしてあれこれ考えたものの、サンクコストはあきらめた方がよいという、なんとも平凡な結論にしかならない自分が悲しいです。ブログの記事のネタぐらいにしかならないなあ。長くなったので、「大航海時代(完結編)」はまたの機会に。

 自分でもラティーナ船一隻で遠洋航海しているような気分になりました。最後までお付き合いいただいた方には感謝いたします。 
posted by Hache at 07:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 不幸せな寝言

2007年09月01日

いい加減に財政を考える

 気がついたら、9月です。残暑が厳しいのが恒例ですが、今年はどうなりますやら。気象庁のHPをほとんど欠かさず見るくせに、今夏は冷夏という予想をまったく知らなかったので、気象庁の予測が外れたと怒っている人たちを見て、世間の話題への疎さに恥じ入るばかりです。露骨に言ってしまうと、予測など外れることの方が普通なのだから、冷夏でも猛暑でもどちらでもよいように準備(上着が多少変わる程度ですが)をしておくというちゃらんぽらんな人間なので、予測など見ない方が対応という点でも精神衛生という点でもよいというのが、後付けの理由ですね。理由になっていないか。

 気象庁には失礼な話ですが、天気予報よりもあてにならないのが、経済予測。経済成長率が代表ですが、株価や金利、物価など数値で表現できるものになると、まず外れて当然という感じでしょうか。岡崎久彦さんなどは手厳しく、経済関係の人たちは何度も丸坊主にならなきゃいけないようなミスをしてあらためる雰囲気がないと1990年代の論説では書かれています。なにしろ数値や指標で予測をすると、「鬼が笑う」というのが普通でして、丸坊主程度で済むなら、私もやってみようかなと思いますが、予測の前提になっているパラメータや諸条件でどこが狂ったのかを突っ込んで示していれば、外れた予測にも意味があるのかなと。多少、マシになるという程度でしょうが。そうじゃないとあんまり変わらないでしょうね。

 えー、まったく脈絡がなくて恐縮ですが、予測は苦手なんですが、長期的なトレンドで変化しない確率が高い事象を見るのは大切でして、私自身は、経済のなかで「財政の硬直化」というのは変わらない可能性が高い事象だと考えております。あれこれと迷いながら書いていたら長くなってしまいましたので、要旨のみを記し、「寝言」にお付き合いしていただける方は「続き」をクリックしてくだされば、幸いです。なお、「論拠」は薄弱ですので、突っ込みたい方はご自由に。

【要旨】

(1)わが国の財政が既に「大きな政府」というべき状態にあるという指摘がある。これには疑義がある。国レベルに限定すると、予算規模(2007年度)が粗生産(2005年)に占める割合は約4分の1程度であり、付加価値ベースでは約22.4%(2006年)である。比較の手法としては乱暴な点を含むが、概ね、わが国の経済は民間部門が主役であって、公的部門ではない。なお、これは民間部門に対する公的部門の権限を捨象した検討にすぎない。

(2)財政そのものの問題に絞ると、国レベルで一般会計全体における国債費の増加による「財政の硬直化」が進んでいる。さらに、一般会計内の一般歳出を見ると、社会保障費の割合が極めて大きく、費目ごとに見ると、年金・医療・介護など今後の社会構成の変化を考慮すると、削減が困難な分野が予算全体でも大きな割合を占めている。このことは、いわゆる「財政の三機能」のうち、(A)資源配分の効率、(B)所得再分配、(C)景気安定化のうち、(A)や(C)の機能を発揮することは困難になりつつあり、所得再分配を重視する方向に進んでいることを示すと考える。

(3)上記の検討ではあまりに乱暴な点も多いが、消費税率の引上げに関しては、実体経済をはじめとする景気への影響を無視しても、慎重な考慮を要する。消費税率の引上げによってある程度、「財政の硬直化」を緩和することができるだろうが、他方でそれらを社会保障関係費などに目的税化しようとしまいと、社会保障関係費が漸増する現状を追認するだけで、財政の自由度を高めることに貢献することは困難であろう。

(4)「大きな政府」、「小さな政府」という議論は、財政規模だけでなく政府の民間部門への権限も含んでいるため、財政規模だけで判断することは一面的であろう。さらに、財政規模に限定しても、適切な財政規模がある範囲内で特定化できなければ、意義が少ない。ただし、現下の財政状況を考えると、「大きな政府」を指向する立場は、概ね財政改革に否定的であるか、「現状維持」を基調としつつ、さらに予算措置を含む積極的な政策を主張する立場と考える。他方で、「小さな政府」を志向する立場は、財政が拡張する傾向への「抵抗勢力」であると考える。「小さな政府」を主張する立場からは国債費だけでなく、今後の社会保障関係費の増大を抑制する方策がなければ、現実的な政策提言は困難であろう。他方で、この立場は財政の基本的な機能のうち、所得再分配による非効率と非効率を抑制することを重視する立場である。


続きを読む