2007年09月15日

リーダーの「壊し方」

 本題の前に、辞任直前の安倍総理の精神状態についていろいろ情報が流れているようです。この十年でだいぶ「うつ病」に関する理解も変わってきているようですが、「ストレス耐性」というわかったような何もわからない用語が使われているようでは、あまり変わっていないのかもしれません。政局とは離れて、無理解も少なくないようなので、慎重に専門的な知見を述べられているサイトとしてこちらを紹介しておきます。10年近く前、睡眠が浅く、リズムがどうにも自分では調整できなくて保健所に相談をして病院を紹介していただきました。うつ病の疑いがあるという診断を受けて、「うつ?what?」という状態でしたので、ネットで検索したところ、当時、トップに来たのがこちらでした。数回、林先生とはメールをやり取りさせていただいて、それきりになっているという不義理な私らしい状態ですが、良心的なサイトと思い、過疎地でご紹介しても、意味がないのですが、これだけ「メンタルヘルス」に関する情報があふれるなかで、地に足のついたサイトが見当たらないので、ご紹介いたします。

 余談ついでに、うつ病の診察は他の病気とは異なった意味で慎重なものでして、私がお世話になっている(睡眠導入剤はないと困ることが多いので)先生の場合、簡単なテスト(リンク先とほぼ同じ内容でした)をした上で、初診で一時間近く、勤務状況や生活のパターン、過去や最近の出来事などを自由に話すよう促されました。その上で、まだ診断は確定してませんよという留保つきで、ドグマチールなどの比較的、「弱い薬」の投薬で2週間単位で様子を見て、症状の改善を見極めておられました。私の場合、睡眠がメインだったのですが、「抑うつ」という症状を確認するのに半年ほどかけて、結論的には「うつ病」ではありませんねという診断結果でした。診察を受ける側からすると、うつ病というだけで欝になりそうですが、このあたりも心配りをしていただいて、「私の先生などは躁鬱なんですけれど、欝のときにはこの世の終わりのような顔をしていますが、躁状態のときには本当に創造的な論文を書かれます。うつ病というのは創造性の源でもあるのですよ」というお話を聞かされて、つくづく不謹慎な私は、「やはり、この種の病気と戦う先生方というのは、その種の傾向をおもちでないとなれないのでしょうか?」などとお世話になっている先生に真顔で尋ねて、一瞬、「殺意」を感じましたが、さすがはお医者様。苦笑いをされながら、「やっぱりうつの可能性はゼロですな」というおちに。いずれにせよ、「ストレス耐性」だの、いかにもわかりやすそうな、しかしながら、なにを意味するのかは実は意味不明な、医学的に確立しているかどうか怪しい言葉は避けた方がよろしいかと。

 すでに「時の最果て」モード、すなわち、お約束どおりのとりとめのない展開になっていますが、お世話になっている先生も、最近は大変、忙しいのでなかなか雑談をする暇がありませんでしたが、10年前後前には、金融関係者、とりわけ都銀勤務の方が相談に来ることが多いとのことでした。「困ったことにね、『先生、薬よりお願いです、貸出をなんとか増やせないでしょうか』なんて言われて、私の手に負えないんですよ。なんとかできません?」などとこちらが相談される始末でして、これはこれで世相を現しているなあと感心しました。この数年は教育関係者、とりわけ義務教育に携わる教育者の方々にうつ病が急激に増えていて、「医者もなるもんじゃあありませんけれど、学校の先生はもっと大変ですな」とも。安倍政権支持でしたが、教育再生には不支持だったのは、ちょっとした現状を知る努力をしていれば、方向自体がおかしいと気づくだろうと。もっとも、半年ぐらい前には、そうした傾向すらなくなってきて患者さんが増える一方になり、「世も末かもね」と漏らされるので、「(病院の)商売繁盛がなによりですよね」とからかって私が慰める立場になっております。まあ、良いのか悪いのか、文明が「進歩」すると、神経が過敏になるようですね。

 そんな訳で「創造性」と無縁であるという診断を受けてしまったわけですが(もちろん、創造的である人がすなわちうつ病であるわけではありませんし、うつ病で苦しんでいる方がみな創造的であるというわけではありませんが、診断をまつまでもなく、私自身が創造的ではないのは自明ですね)、私の幼少のみぎりの苦手は、国語。ブログを書くと、つくづく日本人でありながら、日本語が不自由であることに気がつかされますが、作文はおろか、小学校の教科書を読みながら、「ガキ向けの御伽噺を読ませるんじゃないよ」などと不謹慎なことしか頭に浮かばず、理科や算数と比較すると、極度にひどい状態でした。さすがに、自分でもこれは何かしら欠陥なのかもと思い、小学生から中学生あたりに新潮文庫の海外文学の翻訳を片っ端から読み漁った記憶があります。なんの脈絡もなく、まさに(というより単に)「乱読」していたのですが、好き嫌いのない私でも、どうも読めないのが戯曲と対話でした。シェイクスピアと『オイディプス』は読めても、後の作品が読めなくて、「よーし、頑張るぞ」と気合を入れてプラトンへ挑戦して、あっさり挫折。これはかなりショックでした。おかげで暫く、戯曲や対話篇は避けておりました。今、思うと、もったいないことをしたなと思います。

 大学時代に『アンチ・オイディプス』だったかな、そんなタイトルの本を読めと言われて、「ほお」と書店で手にとって、最初を読んだら、バカバカしくて買うのをよしました。アリストテレスの『詩学』でも読んだ方がためになりそうという程度で、単なる食わず嫌いでしょうが、「現代哲学」はつまらんという結論に。分析哲学は、まだ手が回らないのですが、なんとなく、あの「逝っちゃってる」感がたまらなく(まじめに研究されている方には失礼ですが)、「現代哲学」と一括りにしましたが、別格ですね。まあ、学生時代はひどいものでして、教養課程の教科書がシェイクスピアに関する薄い本でしたが、教科書を買わずに試験だけ受けて、優だったので、本当にバカバカしいなと。こんなところで4年間も過ごしたら、バカになると思いました。

 それはさておき、なぜか再び25歳前後から「乱読」の時代に入るのですが、不思議なことに、すっとプラトンの書が読めてしまう。読んだだけで、わかったわけではない。ただ、プラトンの描くソクラテスが、ソフィスト顔負けの「屁理屈」で相手を困らせて、最後に、常識で落とすというリズムに慣れてきて、理解しようとするより、読んで楽しいな、漫画みたいだな、でも、頭が良くなるわけではないけれど、少しは考え深くなるのかな、というちゃらんぽらんな読みですね。そんなわけで、まともに哲学を「お勉強」したことはありません。哲学をバカにしているわけではなく、まあ、私がちゃらんぽらんだということですね。ちょっとだけ訳知り顔で申し上げますと、プラトンを読むと、「常識」は「非常識」という鏡を通してしか、本来の意味での常識として体得できないということがわかった。なんちゃってですけれど。本当に「非常識」の世界を体験すると、頭が壊れるので、哲学書あたりで経験すると、凡人でも、私ぐらいに俗人となりますと、「縁なき衆生は度し難し」で終わりですが、気を狂わずに体感ぐらいはできる。そんな感じでしょうか。

 リーダーの育成法で頭を悩ませいている「憂国の士」もいらっしゃるようですが、古今東西、この問題に答えがでたことがあるのかどうか、私の貧しい知識ではわかりません。傑出した人物がでてくるというのは教育できる話ではないので、いかに優れた人物が育つ確率を高める程度が限界でしょうか。相反するようですが、優れた人物を育てるためには、文字通り、「非常識」の世界を体験して頂き、常識に帰って頂くしかないのかもと。具体的な「システム」が難しいのなら、戦前・戦後を問わず、小粒になってきている以上、その人たちの背の丈にあう統治機構でゆくしかないだろうと。トクヴィルは、『旧体制と大革命』で、革命にもかかわらず、官僚機構が肥大化したことを否定的な文脈で指摘していますが、政治的リーダーシップが確立するまでは、優れた人物が一人でこなす作業を、お役人には失礼ですが、「小人」たちの分業に委ねることも選択肢としてはありうるだろうと。「官邸主導」、「内閣主導」というお題目はけっこうなのですが、「霞ヶ関」が排除の対象となっている状態が続く限り、絵に描いた餅でしょうね。霞ヶ関の復権を主張するのではなく、現実の執行機関との権限争い(というより役所へのバッシング)というレベルでは「官邸主導」はほど遠く、意思決定の最高機関である閣議と省庁との関係が代替的なのか補完的なのかという点への切込みがなければ、「官邸主導」は「東大法学部卒」への反発と言う次元で終わり、お題目として消えていただいた方が、統治は円滑に進むでしょう。信田智人『官邸外交』(朝日新聞社 2004年)では、「官邸外交」と職業外交官のフリクションの側面が強調されていますが、職業外交官とフリクションが続くようでは、外交は進まないでしょう。現状で、「官邸主導」を、失礼ながら、戦前生まれ・戦後生まれを問わず、小粒な政治家の方たちに強要すれば、今度は自殺者かな。まあ、それも、「官邸主導」を実現するための一里塚と断言できるほど、「胆力」がおありでしたら、何も申しませんけれど。
posted by Hache at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言