2007年09月17日

「ある敗戦国の幸福な衰退史」再考

 何度も繰り返して読んだつもりでも「ざるの脳」では、抜け落ちていることが多いものです。連休中、信田智人『官邸外交 政治リーダーシップの行方』(朝日新聞社 2004年)を読み返していて、ハッとする記述がありました。

 法案(「テロ対策措置法案」(当時):引用者)が国会に提出されると、野党は批判を開始する。社会民主党は米国の行動は報復であり、自衛隊の海外派兵は軍国化につながると非難した。保守派サイドからは、小沢一郎自由党党首が、自衛隊派遣には湾岸戦争時のように国連決議案による武力行使の承認が必要であるという立場をとり、集団的自衛権と憲法解釈の議論を避けた小泉首相のやり方は「一時しのぎで中途半端」だと批判した。


 小沢氏は、当時からある意味で核心部分を衝いていたようにも読めます。まず、この淡々とした記述では、私が勘違いをしているだけかもしれませんが、「湾岸戦争時のように国連決議案による武力行使の承認が必要である」というあたりは、小沢氏の論考そのものを探して読まないと、意味がわからないのですが、集団安全保障が機能するかのような形でなければ、自衛隊「派遣」(派兵といってはまずいんでしょうね)ができないというところでしょうか。「集団的自衛権と憲法解釈の議論を避けた小泉首相のやり方」という指摘自体は、興味深いです。「時の最果て」ですと、避けずに自衛隊を「派遣」した方がよいということになりますが。この記述だけでは、小沢氏が、集団安全保障と集団的自衛権の関係、集団的自衛権の行使と憲法との関係などをどのようにを整理されているのかはわからないので、小沢氏の評価は保留です。

 他方で、 『国会会議録検索システム』を利用すると、平成13年10月10日衆議院本会議での石破茂氏の質問は、政府・自民党(公明党・保守党との連立時ではありますが、このように表記しておきます)の、この問題に関する立場を知る上で、もっとも明快な質問を小泉首相(当時)に投げかけています。一部のみですが、引用します。

 まず、今回の米国、英国の行動について、総理の御認識を承ります。
 私は、これは個別的・集団的自衛権の行使としてとらえるべきものと考えます。国連憲章においては、すべての戦争を違法といたしておりますが、ただ、国家固有の権利である自衛権の行使は認められておるのであります。相手が国家であるか、集団であるかを問うてはおりません。
 オサマ・ビンラーディンをテロの容疑者として位置づけた従来の国連決議に加え、今回のテロ行為を国際の平和及び安全に対する脅威と認めた国連安保理決議第千三百六十八号によって、この米英の行動は十分に正当づけられるものであり、常任理事国の現在の姿勢から見ても、やがて行われるであろう安保理への報告後にこれが否定されるというようなことは到底考えられないのであります。
 話し合いで解決できるような事態では、もはやありません。軍事行動による危険より報復を恐れ行動に出ない危険の方がはるかに大きいとしたトニー・ブレア英国首相の認識は、まさに正しいと言わなければなりません。
 では、我が国はどのような行動をとるべきか。それは、この脅威が我が国にも向けられたものであることを正確に認識し、個別的自衛権の発動には至らないまでも、脅威撲滅のために主体的に行動すること、そして、長きにわたり、日米安全保障条約のパートナーとして我が国の独立と平和、安全と繁栄を支えてくれた最大の同盟国である米国が攻撃を受け、自衛権を発動しているときに、憲法解釈で許された範囲内、すなわち、集団的自衛権の行使は行わないとしてきた従来の政府解釈の範囲内で、最大限なすべき責務を果たすことであります。
 さらには、アフガン和平に向けた東京会議開催のため努力してきた我が国独自の立場を生かし、この戦いが仮にも文明の衝突というような事態に至らないよう、力を尽くすことであります。これは口で言うほどたやすいことではございません。古来、戦争は始めるのは容易であるが終わらせるのは難しいと言われてまいりました。まして今回、テロの一派に対して決定的打撃を与えたとしても、それが殉教者として称賛され、さらなる連鎖を呼ぶことだけは、どうしても避けなければならないのであります。

 これに対して、小泉首相は次のように答弁しています。こちらも答弁の一部です。

 
まず、審議促進に対する御協力、激励に感謝申し上げます。
 米国及び英国の行動は自衛権の行使ではないかというお尋ねです。
 今回の米国及び英国の行動は、国連憲章第五十一条に基づく個別的及び集団的自衛権の行使として安保理に報告がなされております。我が国としても、今般の米英両国による行動は個別的及び集団的自衛権の行使であると考えております。
 今回のテロに対する我が国の対応についてのお尋ねであります。
 今回のテロ攻撃は、米国のみならず世界人類に対する、自由と平和と民主主義に対する挑戦であり、卑劣な行為だと私ども考えております。この事件に対して我が国が主体的にどう取り組むかというのが問われているのではないかと思います。
 我々としては、憲法の範囲内でできる限りの支援、協力を行い得るよう、今回の法案を提出したものでございます。今後とも、世界の各国と一致協力しながら、このテロとの対応に毅然とした態度で臨みたいと思います。

 以上のやりとりから、「テロ対策特別措置法」の制定時に「六二時間のスピード審議」とはいえ、本質的な論点は出揃っていたように思います(本会議における他の質疑や「国際テロ防止・協力支援活動特別委員会」でも活動の内容や範囲など、現在の「テロ対策特別法」を理解するうえで基礎となる議論が行われておりますが、ここでの趣旨を外れるので、割愛します)。私の関心に基づいて、要点を整理すると、以下のようになります。

(1)2001年9月11日のアメリカにおけるテロに対するアメリカ・イギリスの立場は自衛権の行使であり、国連憲章の定める武力行使の範囲を逸脱するものではない(当時は確定しておりませんが、否定する決議はない)。この点は、湾岸戦争とは明確に異なる。

(2)アメリカ・イギリスの行動に協力するする態様として、(A)個別的自衛権の行使、(B)集団的自衛権の行使、(C)いずれにも該当しないとみなしうる活動、などがありえた。

(3)政府は、「憲法の範囲内」という制約の下で(C)を選択した。

 この順番は実際には逆なんでしょう。「憲法の範囲内」という大前提の下で、集団的自衛権の行使は不可能だから(さすがに個別的自衛権の行使という解釈は無理でしょう)、成立した「テロ特別対策措置法」には、石破氏が指摘した安保理決議1368は盛り込まれていません。『官邸外交』では小泉首相の政治手法の特異さを叙述されていて、あらためて興味深いのですが、寄り道が過ぎるので省きます(ちょっとだけ道草をしますと、自民党の頭越しに民主党と交渉するあたりは、現政権と対照的です。小泉政権の党内基盤が弱いという現実があったとはいえ、超党派のコンセンサスを築くという点ではやはり卓越したものを感じます)。良くも悪くも、すっきりしないのは結局、憲法上、行使できないという集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈が、小泉政権下での選択肢を非常に狭めていたということでしょうか。

 当時の状況から、今日までで大きな変化があったのかといえば、残念ながら、集団的自衛権の行使に関する現行の解釈を変更するというコンセンサスが大きく広がっていない以上、ないといえましょう。「9.11」の衝撃が生々しい時期でさえ、このようなコンセンサスを広げようとする動きは、少なくとも、「テロ対策特別措置法」の審議プロセスでは見られませんでした。強力な政治的リーダーシップとアメリカという同盟国(被害者には日本人も含まれている)の犠牲にもかかわらず。私自身は、集団的自衛権の行使を憲法が否定しているとは思えませんが、あらためて当時の議論を省みると、解釈をまともにすることは、おそらく、今後も、時間がかかる、あるいはほとんど不可能に近いように思えます。自分の立場をさらに悪くすると、現行解釈の不備が、外交や安全保障に平時には関心が薄い方たち(ほとんどの「古典」の筆者は、関心が薄いことを嘆いています)にも明確に意識されるような事象が起きていない。起きてからでは遅いので、準備をしておきましょうというのが、基本的立場なのですが、アメリカがテロ攻撃にあった直後でも、国会の議論を読んでいると、おそらく、今後も解釈がまともになる確率は極めて低いと思います。

 「まとも」という表現自体、非常に強い価値判断を含んでいます。私の「ざるの脳」で現行の内閣法制局の解釈は、「国際法上、集団的自衛権を有しているが、憲法の制約により行使できない」ということになります。岡崎久彦流でゆけば、「もっている権利が使えないのはおかしい」ということになります。私は法理に疎いので、この、あまりにすっきりとした説明は違和感がなさすぎて、なぜ、そのような「まともな」解釈ができないのかという点に関心が向きます。佐瀬昌盛流でゆけば、「じゃあ、内閣法制局に憲法が集団的自衛権そのものを否定しているのかを問えば、おしまい」ということになります(「ざるの脳」による解釈ですので、乱暴ですけれど)。どちらも、私からすると身も蓋もない議論ですが、身も蓋もない議論が、現在でも国会でなぜできないのか(単一の理由から説明するのは困難でしょうが)が問題となるのでしょう。冷戦下では、左右の陣営の対立に起因するところが大だったと思いますが、現状では、私が解釈変更に抵抗する人たちを過小評価している可能性がありますが、畢竟、自衛隊の総合的な戦力(「憲法違反」の表現でしょうが、まどろっこしいので)が高く、日米同盟に目に見える形で支障が生じていないという状況では日本の安全が脅かされる感覚が鈍りがちだという皮肉な「寝言」になってしまいます。もっと身も蓋もない「寝言」をこきますると、日陰扱いしながら自衛隊という立派な軍隊をもち、日米同盟が機能している状態では、島国という地理的な条件もあって、孤立主義的な心情、すなわち自国の安全が他国の安全とは無関係ではない政治的な相互依存関係の深化に鈍感になりがちだということでしょう(このようなことを書いている私も迂闊なことに、finalventさんが指摘されている北朝鮮とシリアとの関係は見落としておりました。実に情けない)。なお、以下、説明することができないのですが、感覚的には集団的自衛権が「憲法の制約」で行使できないという解釈がそのままでは、個別的自衛権の行使も事実上、できないのではないか、そんな感覚をもっています。端的に言えば、他国から侵略を受けた際に、自国の戦力では対応しきれない場合、他国の援助が不可欠になりますが、集団的自衛権が封印されていれば、事実上、自国を守ることが不可能になります。もちろん、日米同盟の下ではこの国を武力で攻撃するという乱暴な国は皆無といってよいでしょうが、個別的自衛と集団的自衛を別物扱いするのは、違和感があります。

 実は、この記事がブログなるものを書き始めてから、500本目の「寝言」になります。あまり、自分でも進歩がないなあと。同じことばかり書いていて、どうかなと思います。近代以降(ふとゲームのおかげで大航海時代直後のイギリスの海上覇権の確立からその端緒なのかなと思いますが)の、大国間戦争での敗者は、ほとんどの場合、英米の覇権に再度、自ら挑戦して、敗れて後、漸く、「英米本位の平和主義」を容認するようになります。そのような国々の歴史と比較すれば、戦後のこの国の歩みは、「反米」という名の「左」、「右」の対立はあったとはいえ、戦後60年、積極的に英米の覇権に挑戦するという姿勢を見せなかったという点では、非常に穏健であったと思います。また、「平和ボケ」という表現は事態の一面をついていると思いますが、歴代の自民党政権、あるいは連立政権が自衛隊の強化を図り、日米同盟の強化を図り、反発も決して無視はできませんが、概ね、国民の理解には至らなくても、コンセンサスとなってきました。「ある敗戦国の幸福な衰退史」という刺激的なタイトルの「カテゴリー」を設けておりますが、戦後のこの国の歩みが、衰退する一方であったとは考えておりません。戦後の経済成長のおかげで、戦前をはるかに超える生活水準を実現しました。また、冷戦期には、日米同盟を中心として先進国として国際協調という点でも、少なからぬ貢献を果たしております。さらに、表層的には「軽武装・経済重視」の「保守本流」とされた宮澤喜一元総理が国際協力平和法制定で、いわゆる「人的貢献」への道を開きカンボジアでは犠牲を払ったとはいえ、情勢を見ながら、毅然とした態度を貫きました。現在では、自衛隊が、先述のような制約下とはいえ、日米同盟という根幹だけでなく、国際協調で貢献しています。上記で述べたこと以外にも、経済面での繁栄だけではなく、外交・安全保障という点でも、単純に「衰退」の道を歩んできたわけではありません。

 しかしながら、そこには、自国の存続と繁栄という、いわば、この国の「利己的動機」にもとづく問題から、集団的自衛権の行使に関する「迷走」に象徴される問題が、「利己的な」問題と切り離されて、「利他的な」問題として扱われる傾向が根強くあったと思います。スペインやオランダ、フランス、ドイツ、ロシアの「衰退史」は、過度なまでに「利己的動機」で英米の覇権に挑戦したことにあるのでしょう(オランダはイギリスに一方的にやられたという方が実態に近いのでしょうが)。幸い、この国の「衰退史」では、帝国として挑戦をして敗れた後、過度の「利己心」の発露による惨害を免れています。国際政治の場では、「利己的動機」にもとづく行動が結果として国際協調、あるいは安定した秩序をもたらすという保障はないのでしょう。極論すれば、バランス・オブ・パワーは、国家の「利己心」が調和をもたらすという、「利己心」を基礎にしています。他方で、集団安全保障体制は、国家の「利己的動機」を抑制し、「利他的的動機」を国家を超越した国際機関が各国に要請するという秩序です。別の機会に、この点を検討しますが、この国における外交・安全保障のあり方は、左右のイデオロギー以上に、政治的指導者が、自国の生存という「利己的動機」を一見、「利他的動機」にもとづくかのように見える「国際協調」と合致させるために前進し、後退し、再び前進するというプロセスを歩んできたように思います。他方で、「国際貢献」という表現は、「利己的動機」と「利他的動機」を両立させるために、ある程度まで日本人を説得するために役立ってきましたが、同時に、一見、「利他的」に見える行動が「利己的動機」を満たし、実現するための不可欠の手段であることを曖昧にしてしまったようにも見えます。

 既に、この国の戦後の歩みを考えるにしては、あまりに抽象的な「寝言」になっておりますが、集団的自衛権の行使に象徴される、日米同盟というこの国の自国の生存に関わる根幹の問題が、「対米貢献」といった自国の生存の根幹に関わるから離れたかのように語られることに強い違和感を覚えます。「利己的動機」の手段と「利他的動機」の手段が切り離されている間は、今日の経済のみならず、政治的相互依存が深まる状況に立ち向かってゆくことは困難でしょう。もちろん、自衛隊の派遣を含む、国際協力は、自国の生存を直接、脅かす問題でない限り、直接的には協力の対象となる国や地域への貢献でしょう。しかし、それが、結果的にとはいえ、国際的な信用、信義、いわゆる「ハードパワー」と「ソフトパワー」の両面からの影響力の増大など、この国の生存と繁栄に寄与することを忘れてはならないと思います。日米同盟という、集団安全保障の枠組みを補完する、しかし、この国の存続に直結する関係ですら、この国の利益とアメリカの利益がただちに合致するわけではありません。しかしながら、「対米貢献」や「対米追従」という表現に示されている、「利己的動機」にもとづく関係を「利他的動機」にもとづくかのようなレトリックから自由にならなければ、過度の「利己的動機」から英米の覇権に挑戦し、敗れた国々と、形こそ異なれ、やはり自国の生存を確実にするという冷徹な判断を欠いているという認識を欠いているという点では、常に「衰退」への確率が無視できないほどに存在することを忘れてはならないと思います。日米同盟は、双方の「利己的動機」にもとづいているという、ナイーブすぎる話ですが、この点が曖昧なままでは、同盟の強化も、自国の利害からその費用対効果を冷静に判断することもできず、さらに言えば、日米の総合的なパワーを考えれば、「利己的動機」にもとづかずに、「対米貢献」といったところで、アメリカは信用も信頼もできないでしょう。集団的自衛権の行使に至らなくても、せめてこの点は整理しておいていただきたいと思います。もちろん、現実政治では複雑なレトリックが用いられるのは当然だと思いますが、アメリカが好きで同盟を結んでいるのではなく、この国の生存から結んでいるという基本を明確にすることです。現状の同盟は互恵的であり、現実にはそのような認識の下で政治レベルでは政策が実行されているとは思いますが、当たり前のことが広くコンセンサスになっているような、なっていないような状態では、予期せぬ事態に直面したときに、国内的な説得が困難になりかねません。

 とまあ、われながら、集団的自衛権の行使という実際的な問題で、こんな抽象論を長々と書くとは恥ずかしいです。連休の終わりに、こんな下までスクロールしていただいた方に、久々に、お約束を捧げます。

ここは「時の最果て」、すべては「寝言」。
おやすみなさい。