2007年09月22日

集団安全保障と自衛権

 総裁選は盛り上がりに欠け、新政権発足後の「テロ対策特別措置法」の延長、あるいは新法の制定など、新政権が政策課題へどのように取り組んでゆくかに、関心が集まっています。雪斎先生にも保守系雑誌から執筆依頼が舞い込んだと言うあたりで、「テロとの戦い」にどのように取り組んでゆくのかということが、今後の新政権と参議院で第1党となった民主党にも問われてゆくこと象徴していると思います。雪斎先生には、「陰険」ではなく、「端麗」ではあっても、やはり「非道」雪斎の名に恥じぬ切れ味を期待しております。

 本題に入る前に、『溜池通信』の「由緒正しい」読み方ですが、金曜日の晩には、「休刊日」以外には、『溜池通信』が更新されます。『溜池通信』トップページでは、「Diary」(「不規則発言」)と「Report」(『溜池通信』本誌)へのリンクが貼られていて、つい、「Report」をクリックしたくなるところですが、一呼吸をおいて、ちょっと下のほうに「口上」や「溜池通信」、「かんべえの不規則発言」などのコーナーへのリンクがあります。「溜池通信」のリンクをクリックすると、「ちょっとした能書き」が『溜池通信』とともに更新されています。神宮で打ちのめされ、「フフン」が優勢で激萎えの心境を味わいましょう。「極悪」ではありますが、ファンの麻生さんをこれまたファンである「阪神」(あるいは勝ってほしい球団)へ、嫌いな(あるいは負けてほしい)福田さんをやはり小憎たらしい「中日」へ喩えるあたり、非常にわかりやすく、感情表現がストレートな方であることをうかがわせます(「「必死だなw」とも申しますが)。麻生ファンでなおかつ中日ファンの方の存在は無視されていて、現実政治をまじめに検討している際にはこのあたりで「極悪」らしい徹底した配慮をされるのですが、今回は、「なりふりかまってられるか!」というところでしょうか。いずれにせよ、「テロ対策特別措置法」あるいは新法に関する検討は、ペナントでかんべえさんが望む結果に終わる、あるいは絶望するまで待つしかないのでしょうか。

 今回の「本題」は、「テロとの戦い」そのものではありません。タイトルの通り、「集団安全保障と自衛権」の問題です。「テロとの戦い」に無関心どころか、強い関心を抱いておりますが、その背景にはこの問題があり、今後の国会論戦の行く末以上に、今後のこの国の外交・安全保障政策を考える上で、メインとなるのかは疑問ですが、補助線の、主要な一つではあると考えております。「テロとの戦い」に関する記事を読みたい方には失望を招くでしょうが、私自身の関心は、直近の現実政治から一歩、離れて、抽象的とはいえ、両者の関係を私なりに整理することにあります。

 結論を言ってしまえば、まず、集団安全保障が理想的に機能するには、その前提があまりに厳しく、例外的な状況でしかありえないでしょう。他方で、国際連合憲章は、戦争を「違法化」し、例外として自衛権の行使を認めています。国連を重視する立場からしても、自衛権の行使は否定することができない「固有の権利」であることは、憲章51条で明確でしょう。まず、国連憲章という枠内でも、集団安全保障体制から「固有の権利」としての自衛権とその行使は排除されていないというのが、この小論の第1の結論です。

 第2の結論は、集団安全保障と自衛権の関係は、代替的でもありうるし、補完的でもありうるということです。米ソ対立、あるいは冷戦の時期には、集団安全保障体制は機能せず、そのことをもって集団安全保障と自衛権、あるいはNATOに代表される地域的集団安全保障や日米安全保障条約に代表される同盟などは集団安全保障とは相容れないという見方が今でも根強いようです。この見方は、真実の一部を反映しているのでしょうが、あまりに一面的でしょう。両者の関係は、単純な二律背反ではなく、状況によって代替的でもありうるし、補完的でもありうるというのが私の考えです。この点は、以下の「退屈な作業」で寄り道をしながら考えてゆきます。

 本来ならば、以上の分析を踏まえて、集団的自衛権に関する政府解釈を変更することが望ましいということが第3の結論ですが、ここは、今回は省きます。この点については、これまで何度も繰り返し論じてきましたが、別のアプローチを模索中で、まだ、明確なプロセスを示す状態には至っておりません。ただし、今回の検討を行っても、これまでの私の主張、あるいは「イデオロギー」を変える必要を感じておりません。

 今回、取り上げるのは、次の二冊の著作です。まず、第一は、ジョゼフ・S. ナイ・ジュニア著/田中明彦・村田晃嗣訳『国際紛争――理論と歴史〔原書第6版〕』(2007年 有斐閣)です。国際政治学、あるいは国際関係論の入門書としてあまりに有名ですが、いきなり専門用語が説明抜きで登場する専門書は、門外漢には「猫に小判」です。素人なら素人らしく、入門書でまず基本を抑えましょうというわけです。以下では、ナイ[2007]と表記いたします。

 もう「一冊」(上巻と下巻に分かれておりますので、物理的には二冊ですが)は、ヘンリー・A・キッシンジャー著/岡崎久彦監訳『外交』(日本経済新聞社 1996年)です。こちらは何度も、「時の最果て」で引用しておりますが、今回のテーマに関しても、鋭い洞察を各所で示しており、上巻・下巻ともに私の粗略な扱いのせいでボロボロになっていますが、内容の鮮度は現在でも落ちていないと思います。以下では本書をキッシンジャー[1996]と表記します。

 両者の違いを、あえて素人が図式的に描けば、ナイがソフトパワー重視であるのに対し、キッシンジャーが古典的なリアリストであるというあたりでしょう。ただし、以下の検討を通して、ハードパワーが中心となる領域では、両者の違いは氷炭相いれずというほど、大きな見解の相違がないことも実感します。イラク戦争の評価は、両者で異なりますが、今回のねらいは、イラク戦争の評価さえも無視して、あえて、両者の共通点を、あまりに「ベタな」著作から読みとってゆこうということです。長いので、「本論」は、お暇な方のみ、クリックなさってください。




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