2007年10月20日

気が重い5連勝

 寒いんだか、温かいんだか、はっきりしてくれと叫びそうになった頃に、風邪が治りました。あまり、まともな方にはお勧めできない方法ですが、「姉○設計」とか陰口を叩く方がでるかでないかギリギリのラインを読んで手抜きをして、ひたすら寝るという「療法」。かかりつけの医者に行けば、「風邪は寝て直しなさい」と言われるだけなので、芸のない方法ですが、幸い、なんとかなってしまう。悪いことは人様より早く来て、良いことは、よくて人様より遅れるか、こない場合が多い人間が申し上げるのもなんですが、風邪でお疲れの方はご自愛ください。

 え、あんた、妙に腰が引けてるんじゃないのって?まあ、そのお、恐れていた事態と申しましょうか、中日がストレートで日本シリーズを制して、既に気分は、札幌で打線はダルビッシュ−グリンに抑えられ、川上が血祭りに上げられ、勝ちパターンと思いきや、岩瀬が「ひいひい言わせたる」と打ち込まれる絵が浮かんでしまい、どうにも悲観ムードに勝てないのであります。順当なところで、プロ野球中継すらほとんどみない者が書くのもなんですが、王者北海道日本ハムファイターズ相手に一矢報いれば十分で、阪神・巨人相手に5連勝の反動で4連敗だけはやめてくれと弱気な元ファンの叫び。

 ただ、「元」だけに短期決戦に弱いはずの中日がなぜ、クライマックスシリーズを制したのかはわからず、こちらを拝見して、なるほどと感心したしだいです。落合監督の成長というのは、言われてみれば、納得。中日は、リーグを連覇するほどの地力はないので、そもそも監督が短期決戦を勝ち抜くノウハウを蓄積する余裕がなく、昔に比べれば、贅沢な悩みよのおと思いました。今年度は正確にはリーグ優勝をしたわけではないのですが、なるほど「2位狙い戦略」というのは、昔を考えると、2位で泣いた過去が幾度となくあるだけに、短期決戦を勝ち抜くノウハウを蓄積すれば、制度変更を上手に活用できるのかなというところでしょうか。それにしても、上海馬券王先生が2003年10月12日付で「えー、中日の監督に落合が就任しました。なんと言う無謀な人事でしょう」と書かれていて、恥ずかしながら、落合さんが監督就任ということを知ったぐらい間があいてしまっているので、ひどいものですが。周囲でも、「これで外したら、オレオレ詐欺だなあ」という期待値の低い状態だったので、今の状況はちと驚きです。

 しかしながら、ファイターズの胴上げは、ナゴヤドームではなく、是非とも札幌ドームでお願いしたいです。2004年、2006年のときは大丈夫だったのかもしれませんが、1988年の日本シリーズで一部ファンがさらした醜態を全国で放送されるのは勘弁してほしいなあと。あのときは、確か工藤がマジギレ状態で二度と名古屋には行きたくないと発言していたように思いますが、ごくごく一部とはいえ、暴走すると、怖いのが中日ファン。阪神ファンも目をむく暴走をするので、あれだけは勘弁というところでしょうか。い、いかん、既に負け犬状態になっております。

 しかも、かんべえさんはなんだかんだいって優雅な韓国旅行。10歳近く年上ですから、この程度の「ご褒美」はもちろん、十分見合っているとは思うのですが、「格差社会」を実感します。「世の中の、善と悪とをくらぶれば、恥ずかしながら悪が勝つ。神も仏もねえものか」と呟きたくもなりますが、「女仕事人」に囲まれながら、幸せそうにしておられるご様子で、幸せな「悪代官」あるいはご所属を考えますると、「悪徳商人」というのもありなのかなと(なんのことかわからない方はこちらから2002年2月6日および11日の「不規則発言」を参照ください。そんなことがわかってなんになるんじゃというご質問には同意いたしますが、ついついクリックしてしまう「あんたも好きねえ」と言いたくなる衝動もあえて否定いたしません)。ソウルに行っている間にくさしておきましょう。さすがに、この状態なら、見られないでしょうからね。

 それにしても、風邪が治ったというのに、5連勝なんてするから、かえって気が重い。

はっ!

気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。気が重い……重い気。

  不発(無念)
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2007年10月19日

現代における攘夷の「意匠」

 失礼ながら、共産党の質問時間は短いおかげで、一通り見ましたが、要は、アメリカの艦船への補給はダメと言いたいんでしょということに尽きる印象ですね。それに、思わず、高村外相が煽りに「マジレス」をやりそうになり、石破防衛相が低姿勢ながらねっちり「アメリカ盲信ではない」と釘を刺し、福田首相がでてきて、「お宅とは根本的に価値観が違いますから、反対してくださってけっこうですよ」(もちろん、露骨な表現は避けなければなりませんが)と高度な婉曲表現である「フフン語」で落としたという感じですかね。共産党のおかげで、野党サイドの「テロ対策措置法」の延長反対・代替案というのはテロへの別のアプローチではなく、反米の旗印になった印象です。「平和主義者」だけでなく、「反米保守層」からもご支持を頂くことを願いましょう。

 それはさておき、とりあえず、『世界』(2007年11月号)の小沢一郎「今こそ国際安全保障の原則確立を――川端清隆氏への手紙」を職場で「立ち読み」しましたが、これはどうも『世界』(2007年10月号)の川端清隆氏「テロ特措法と安保理決議――国連からの視点」を読まないと、議論としては不十分だろうなと。川端清隆氏(国連政務官)の議論も「立ち読み」レベルですが、こちらはけれんがなく、国連の見解を代表するものではないという断り書きがあるものの、国連で活躍されている方からの提言としては、ごく自然な感じでした。言いにくいのですが、小沢論文をコピーする経費がちと惜しく、ネタがつきたら、とりあげようかなという程度の扱いです。川端論文は、コピーしましたが。

 ついでと申し上げるのは非礼ではありますが、『Voice』(2007年11月号)も目を通すと、櫻田淳「『保革同居』混成政党の限界」が掲載されていて拝読してみると、櫻田節は健在なるも、やや「テロ特別対策措置法」への対応へ重心が置かれすぎていて、少し惜しいなあ、もう少し、民主党の外交・安全保障政策全般への「アドバイス」がほしいなあというところ。寄り合い所帯という限界はあるものの、寄り合い所帯なりにできることを書けるのは、執筆メンバーでは他に見当たらないので、突っ込んでいただきたいところですが、短時間であれだけの内容をまとめること自体が驚異でしょうか。

 『Voice』のお題は「小沢民主党への不安」ですが、岡崎久彦「小沢外交は失格だ」と身も蓋もない話を読んでしまうと、まあ、そうなんですけど、そうなんですよねという感じ。単なる論客ならともかく、野党第1党の党首が反米パフォーマンスをやっているのは見苦しいという次元を超えて、終わっている、そんな感じでしょうか。余計ですが、岡崎氏のことを匿名の掲示板では「売国奴」などと書いている方を見かけますが、ご本人に尋ねれば、「そうなんだよね。愛国的売国奴ってとこかな。『自主独立』や『自主防衛』で滅ぶなんてばかげているから」で終わっちゃうでしょうね。もちろん、ご本人に尋ねたわけではありませんが、いかれた「外道」の感覚ではそんなところでしょう。

 妄想してみますと、岡崎論文が指摘しているように、ライス&ヒルのコンビで既に米中は政治的にも「融合」まではゆかないにしても、対立を避け、日本の頭越しに関係が深化しています。ヒラリーが大統領になったらという懸念もあるようですが、この傾向は、ヒラリーやライス&ヒル・コンビだけの問題ではないでしょう。アメリカの艦船に給油をすることが、あたかも憲法違反の「悪いこと」となり、給油活動がストップした場合、活動の実態そのものは「テロリスト掃討に関わる国際社会の協調行動」だと思いますが、田岡元帥のように、日米同盟に傷がつくかどうかというよりも、海上阻止活動における補給活動すらできない程度の国よりも、アジアにおける名目上のパートナーとして日米安保はそのままにしておいて、米中が接近する弾み程度にはなるでしょう。私は「極悪」でもなく「非道」でもありませんが、国と国の関係など損得勘定で見ておけば、それほど外れないという、いかれた「外道」ですので、基地問題も未だに解決できず、MDを中心に集団的自衛も「憲法」で鎖国し、さらに控えめな海上阻止活動への参加もできない厄介な「お荷物」と時間を割くのはもったいないですから、中国と宥和的に接する方が「お得」というものです。野党さんが「アメリカの戦争に加担したら、憲法9条が汚れるざます」とか「アメリカに給油したら、憲法9条が汚れるざます」とかノーテンキなことを言っている国とはコミュニケーションをとるのも面倒ですしね。

 そうすると、段々、核抑止を肩代わりするのも面倒ですねえ。他国をマジギレさせるのが御家芸お得意の下院あたりに、なぜ合衆国が日本の核抑止を代替しなければならないのかということについて、過去の非協力的な対応を列挙して(掃海艇派遣とかはスルーしてもよし、注をつけてもよし)、合衆国が二次的に核による報復を受けるリスクを冒してまで日本への核抑止を肩代わりすることに疑義をだす決議でも準備してもらいましょうか。法的拘束力はありませんし、行政府の行動を縛るものでもありません。そこで国務省の高官あたりがお荷物になった日本へ「悪いんだけど、下院を説得するのが大変でね」と言えば、日米同盟の中核である日米安全保障条約を破棄するという乱暴なことをするまでもなく、死文化できるでしょうね。「核武装」で脅したところで、プルトニウム爆弾が関の山。米・露・中の核の前には水鉄砲。そうなれば、ロシアや韓国、中国あたりはほしい領土が一杯あるでしょうし、イギリスやオーストラリア、インド、ヨーロッパ諸国も、かわいそうだけどしかたないよねと日本と深入りするのは避けようという雰囲気になるでしょう。こんな露骨なことをやる確率はもちろん低いわけですが、アメリカも限られた選択肢の中でベストのものを選ぶしかないわけで、その選択肢が日本よりも広いことを忘れると、存亡に関わるのでしょう。

 いまのテロ対策に関する野党の反応を見ていて、野党に所属する議員のすべてではないでしょうが、小沢路線に追従している方を見ていると、古臭い話ですが、第2次伊藤博文内閣における条約励行運動を思い浮かべてしまいます。要は、「内地雑居反対」という感情論ですが、現在では「国連決議」と「憲法違反」という浮世離れした「意匠」を「アメリカの戦争への反対」という「意匠」の上にかぶせただけであろうと。昔は、大功をなした方も「今は陸奥守殿の大切の御役目だ」などと傍観者的なことをのたまわっていましたが、立憲政治や議会政治、帝国の時代への理解が欠けていたにしても、陸奥宗光の死後には挽歌を読むあたりは、やはり尋常の方ではないだろうと。外野が憲法違反だの国連決議があればなんでもありだの騒ぐのはどうでもよいのですが、現実政治に携わる批判派に最低限、そのような感覚の持ち主がまるでいないようで、悲しいものがありますが。

 それにしても、世の中というのは変わったようで変わらないものです。岡崎久彦『陸奥宗光』の一節は、今回のドタバタ騒ぎだけでなく、今後も政治を考える上で、示唆に富んでいるとあらためて思います。

 また、それまで日本にはなかった立憲政治とはどういうものであろうかということに想いをめぐらしていた模様であり、井上(井上毅:引用者)あての手紙には次のように言っている。

 「私がひそかに考えているところによれば、そもそも政治というのは、術であって学ではない」

 陸奥が生涯かたわらから離さなかった荻生徂徠の『弁道』『弁明』の中にある、「尭・舜などの先王の道といっても、それは畢竟は政治の術である」という思想と全く同趣旨である。また、イデオロギーを排した、アングロサクソン的現実主義でもある。

 「したがって、政治を行う人には、巧いか下手かの差がある。巧みに政治を行ない、巧みに人心を収攬するのは、実用の学と実用の才能があって、広く世の中の事に熟達している人ができるのであって、抽象論を言う書生ではない。また、立憲政治は専制政治のように簡単ではないので、政治家に必要とされる巧みさ、熟練度も、より必要である。
 また、政治熱に浮かされる人民は、あたかも、恋思いにかかった若者のようになってしまって、夢がいったん覚めるときまでは、まるで自覚を失った状態となってしまう。そして、この政治熱は、わが国にも、将来、流行することとなるであろう。
 これを治癒する方法は何かといえば、ただ人民の欲するところに訴え、人民の欲するところを制限するにある。決して、新奇なる(実は陳腐なる)抽象論によって理解し得べきものではない。このあたりの真味、ただ智者と談ずべく、愚者に語らずべからず」

 (中略)陸奥のいう愚者とは、ここでは、衆愚、すなわち大衆を指しているのではない。一見わかったようなことを言って、政治の本質がわかっていない人々のことを言っているのである。

 私自身は、智者ではありませんが、時間があるときに、ワイドショーで「劇場型政治」を眺めている方たちの言から、「アングロサクソン的現実主義」というほど大袈裟ではありませんが、ちゃんとそろばん勘定をしている感覚を感じることがあります。他方で、現在の野党は、「人民の欲するところに訴え、人民の欲するところを制限するにある」という立場とは正反対の感覚を感じます。

 最も困ったことに「政治というのは、術であって学ではない」(蛇足でしょうが、政治学が否定されるわけではない)という言は、維新後のバカ騒ぎを経た後で陸奥宗光が体得したものであって、現在ではこのようなバカ騒ぎをやる余裕もなく、「術」の意味がある程度、理解できる政治家が与党に偏っているようにも見えます。私自身は、見巧者でもなく、「寝言」を書いているだけですが、信頼できる言論人はいても、ここまで透徹した為政者となるとどうでしょう。「小粒」、「俗物」と揶揄されても、政治という現実に泥まみれになりながら、政治の「巧拙」を見極め、「術」を「術」として冷徹に実行できる方が権力を握っていれば、内外情勢が揺れるのは常ですから、あまり心配することではない。そうではなくなったとき、どんな危機がやってくるのかは、自明でもあり、予測不可能でもある。そんな「寝言」がふと浮かびます。

2007年10月18日

フフンの逆襲

 ふう。なんとか鼻をかんでも、正常な状態(汚い話で恐縮ですが、黄色から透明へ)に戻りまして、まだけだるさが残っているものの、概ね、回復というところでしょうか。今週末も、休みがないので、無理をせず、「匍匐前進」というところです。

 「非道」先生が紹介されている『毎日』の記事を読みながら、ああ、これはちょっと違うなあという感じ。話の展開からすると、「逆ギレ」というより、「逆襲」でありまして、かわいそうに予算委員会でも20分ちょっとしか質問時間をもらえない共産党が、しつこく福田総理を引っ張りだそうとするも、最初の3分ちょっとで軽くご挨拶程度に答弁をして、あとはできの悪い小学生を諭すように高村外務大臣(終わりの方は、あんたのところはアメリカ不信というかアメリカをならず者国家と思ってんでしょみたいな答弁をされて、これこそ「逆ギレ」ではないかと)と石破防衛大臣(感情が抑制されて最後までねっとり、もとい丁寧な答弁)が繰り返し登場。小池晃共産党政策委員長(のび太君に失礼かもしれませんが、なんとなくちょっと小太りしたのび太君みたい)がしつこく総理を責めようとするも、政府に散々スルーされてじらしにじらされた挙句、残り3分で石破長官もとい、石破大臣が登場し、もういい加減にしてよ、ああ、じれったい、本番はいつなのという状態で残り2分で福田総理が登場して、「フフン語」で委員会を脱力させたという展開ですな(鳩山法務大臣が右耳のあたりからあごの周辺までなでた後にその指を鼻の周辺に持ってくるのはちといかがなものかと。耳をほじった指を鼻の周辺に持ってくるのも、いかがなものかと。いや、いかがなものではない、はっきり言って臭いをかいでいるようにしか見えないのですが。くだらないことばかり気になってしまうのですが、あれは……)。参院のインターネット中継を見れば、記事の見出しは、「福田首相:『賛成とは言わないんでしょ、結局』 野党質問に『フフン語』発動――脱力する参院予算委」みたいな感じだと思いますけどね。「時の最果て」ですと、簡潔に「フフンの逆襲」ですけれど。

 あのお、先ほどらいから聞いておりましてね。なんで、そのお、理解をするような努力をしてくださんないのかあと(高村外務大臣、苦笑から爆笑。鳩山法務大臣は退屈そうに耳をなでる。質問者側から野次)。見解の相違じゃないですか?これはいくら議論をしたってね。あのお、賛成とは言わないんでしょ?(質問者側も爆笑)結局。そうなんでしょ?まあ、私から申し上げればですね、米軍のね、アフガン空爆を加担しているというわけではありません。これはね。そして、テロリスト掃討に関わる国際社会の協調行動を支援しているんだということで、これはもう、あのお、外務大臣、防衛大臣が答弁していることでございます。


 小池委員の質問よりも、失礼ながら小道具であるフリップの写真はなかなかよくとれていて、強襲揚陸艦や空母の写真(小さな親切大きなお世話でしょうが、フリップでは「イオウジマ」と表記されておりましたが、「イオー・ジマ(Iwo Jima)」の方が一般的なようです)が欲しいなあと。こちらはネットでも採集できるのかもしれませんが、なかなかいい絵でした。あのフリップは欲しいなあと。質問の最初の方で「クラスター爆弾」の話がでてきて、中谷元防衛庁長官も、すでにわが国もヨルダンのアンマン空港にて「クラスター爆弾」による海外での初めての「(憲法で禁じられている)武力行使」もとい、「テロ」、もとい、「爆殺」、もうなんと表現したらよいのかわからないことをやらかしてしまった五味記者あたりを指摘しておけばよかったのにとか余計なことばかりが頭に浮かんでしまいます(「関連資料」は、「続き」をどうぞ。暇をもてあましている方のみ限定)。おまけに「フフン語」で締めくくられてしまって、質問者側も爆笑してしまう状態では……。「無様ね」という感じでしょうか。

 余計なお世話でしょうが、野党共闘を目指して共産党さんも頑張っているのかもしれませんが、民主党さんも組むとダメージが大きい感じ。国民神道との統一会派はお目でたい限りですが、郵政民営化の修整も厳しそう。野党共闘を進めようとするほど、ウィングをあちらこちらに広げざるをえず、参院の第1党という立場も意外とつらいなあという感じ。世論調査の結果を無視しても、無理に論点を広げずにテロ対策関連は譲歩しちゃった方が、お得な気がしますが。素人の浅慮なので、まあ、こんなものなのかもしれませんが。

 小沢論文の検討を多くの方がされているご様子で、読んだ方がいいのかなと思いつつ、しかし、「テロ対策特別措置法」がらみで対立するのは、損だろうという損得勘定の方が先にきてしまい、体調もあって箸が進まない感じです。まあ、この辺の感覚はプロが上なんでしょうが、年金(こちらは短期間での解決が難しく、なおかつ高齢者の財布に直結している)に絞って舛添厚生労働大臣を落とす方がよいだろうと。失礼ながら、敵の「陣地」で崩れやすそうなところへ「戦力」を集中させた方が、落ちなかったとしても、ダメージが大きいでしょうし、落ちれば、政権交代をしたときに、アメリカをはじめ諸外国との関係も保ちやすい。他方で、テロ対策全般を見直すとなると、日本から相当の自衛隊だけではない人的貢献を行わないと、主導権は握れないわけでして、現実的な感じがまるでしない。率直に書けば、検討にすら値しない。私の感覚が変なのかもしれませんが、福田政権は野党の拙劣さに助けられているところが大という印象です。

 それにしても、自宅用のアドレスにも勤務先のアドレスにも外務省広報課なる「差出人」(外務省広報室念のため伏字にしております)より、「外務省改革『行動計画』(密)」(思い切り自爆いたしますると、こんな内容のメールが「寝言」を書いているうちにくるわけないだろうと。バカかアホかと)なる正体不明のメールが届いていて、ウィルス感染のリスクもあるので、添付ファイルを開いていないのですが、誰がばらまいてるんですかね、こんな、誰が見ても怪しい下手くそなメール。勤務先に迷惑メールが届いたことがないので、自宅と勤務先の両方のメアドをわかる方が送ったとしか思えないのですが。不特定多数にばら撒いているとも思えず、奇特な方がいらっしゃるようで、周囲に見せたら、「いいな、暇な人は。こんな糞メールをつくる暇があって」となって、私の手抜き振りが「隠蔽」されまして助かってはいるのですが。この種のメールは、おそらくは処理に手馴れているであろうかんべえ師匠あたりだけにまとめて送信していただきたいのお。


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2007年10月17日

鏡の国のリリス

 適当にネットの記事を見ていて、中央線での痴漢行為の検挙数が埼京線を上回ったとの記事があって、「へえ」と思っておりました。確認しようとしたら、どの新聞社のサイトを見ても、そのような記事がなく、どこだったんだろうと思いましたが、「はてなブックマーク」で『朝日』のサイトだったことがわかりました。残念ながら、『朝日』のサイトでは当該記事を読むことができないのですが、女性専用車両の導入の効果にも触れていたと記憶しております。女性専用車両の導入には賛否両論がありますが、私自身、導入当初、やや懐疑的でした。1車両程度では、被害にあった経験の多い女性が十分に収容されるのかどうか疑問がありましたし、男性サイドとしては駆け込み乗車は危険ですし、他の乗客にも影響が出かねないなど好ましくないとはいうものの、急いでいるときにはやむをない場合も多く、女性専用車両が最も近い車両の時にはどうするんだろうとか、下らないことではありますが、痴漢被害の軽減と他の面での乗客の利便性の比較考量ができているのだろうか、やや疑問でした。

 現段階で女性専用車両が痴漢行為そのものをどの程度、軽減しているのかは疑問な点もあります。ただ、ないよりはマシだろうというぐらいには評価しております。今回はこの点には触れずに、どこか、痴漢行為に関して鈍感な感覚がまだまだ根強いという点についてのみ、触れます。

 ただ、痴漢行為そのものには、私自身の性格と、後で述べる経験から、ずいぶん日本社会というのは寛容だなあという感覚がありました。極端な例かもしれませんが、主として義務教育に携わる方たちに極めて高いモラルを求めている方が、知人となると途端に甘くなるという傾向などを見聞きいたしますると、相手によって破廉恥行為の重みが全く変わってしまうという点では、痴漢行為その他の破廉恥行為そのものに関する認識そのものが実は甘いのではないか、そんな疑念をもったりします。私は、他人から体を触れられることと嫌悪感を覚える神経質なところがありまして、こどもの頃から向こうは親しいと思っているのか、頭をなでたり、肩を叩かれたりすると、相手が気がつかないように避けていました。頭を触るというのは、両親ですら許したことがなく、「おばあちゃん子」だったせいか、祖母に「よくできたね」と頭を優しくなでてくれる以外、許したことがありません(「加齢」とともに例外も増えてゆくのは致し方ないか)。もちろん、頭以外の部位に関しても、他人からなれなれしく触れられるのは嫌でして、若い人が記念に肩を組んで写真をとってくださいと言わない限り、肩を組まないぐらい、他人の肉体に触れること自体が苦痛ですらあります。もちろん、若い人が望む場合には苦痛ではなく、らしくない体育会系のノリでがっちり肩を組むのではありますが。

 この手の、新聞でいえば「社会面」あたりで記事が載る話題は、「時の最果て」の苦手なのですが、やはりこのような記事を読むたびに、自分の「被害」が時々、記憶として蘇る部分があります。幸い、一度きりでしたので、当時、大変なショックを受けただけで、現在ではそのような感覚も薄れておりますので、簡潔に自分の経験を書いておきます。

 学生時代(まだ未成年の頃でした)に家庭教師のアルバイトが終わって、日によっては訪問先をでて駅で電車に乗る頃には10時前後になることもありました。アルバイトが終わって最初に電車に乗ったときには満員でびっくりすることもありましたが(田舎からでてきたので電車で定期的に通うという習慣もなく、こんな遅い時間でも混むのかと、ちょっとカルチャーショックでした)、段々と慣れてきました。2年目の秋でしょうか、正確な時期は覚えておりませんが、いつも通り、電車に乗ると、やはりかなり混んでおりまして、帰りの電車の乗車時間は20分程度でしたので、自分の勉強の本を、これまたいつも通り準備して読み始めました。乗車してから2分後程度でしょうか、お尻のあたりに違和感があり、ふだんは荷物があたる程度ならしばしば経験しておりましたが、段々と人間の手であることに気がつき、背筋が凍りました。当時は、ジーパンとチノの両方を使っていましたが、そのときはジーパンだったと思います。まったく身動きが取れない状態というわけではなく、冷静に考えれば、素知らぬ顔をして移動すればよいのですが、ジーパンの上からお尻を触られるという経験自体が非現実的で、冷静な対応ができませんでした。これは私の至らぬところかもしれません。

 もう一つは、田舎では「変質者」というのは女子生徒から聞かされてやっぱりいるんだというぐらいの感覚で、電車で通学している知り合いがいなかったせいか、痴漢による被害という話は聞いたことがなく、なんとなくリアリティがありませんでした。それもあって、こちらが自意識過剰なのかなと放置していたら、お尻から股間にかけて手が撫で回してきて、気もち悪さと嫌悪感と恐怖感が高まり、さすがに耐えがたく、おそるおそる手の主らしき人をたどってゆくと、見た目は当時としてはそれほど派手ではない、ごく普通の20代半ばの女性で、余計に気もちが悪く、次の駅で逃げるように下車しました。目的の駅ではないのですが、あの適切な形容が思いつかないバカにされたような、なんとも心底から屈辱を感じる状況から逃げたいという一心でした。

 今となっては、私が狙われた理由がわかりませんが、当時は、まだ高校を卒業して1年程度でしたから、長距離をやっていた頃に、ヒップが締まっていたようで、女性の友だちとは、「お尻の形はいい線してるよね」とからかわれるので、「お尻だけかよ!」と言うと、ハイハイという感じで「顔もいいわよ」と「トドメ」をさしてくださる状態でした。ただ、そんな冗談が通じる相手でも、突然、お尻を触られたら、お断りですし、まして知らない人となると論外。あの嫌な経験をした後も、何事もなく読書をしたり、講義に出たりしておりましたが、アルバイトはしばらくしてやめました。電車に乗るのが苦痛になってしまったからです。私がひ弱なのかもしれませんが、しばらく電車を見るのも嫌になりました。もっとも、今ではお尻もたるんで触ろうという奇特な方はいないので、平気で満員電車に乗ってつり革につかまりながら、うつらうつらしていることが多いのですが。

 「痴漢冤罪」も深刻な問題でらくちんさんの記事を拝読したときは、怖いなあと思いました。普通の男性にとっては、こちらが「脅威」なのでしょう。痴漢自体に興味がそれほどないので、どの程度の比率で男性が痴漢行為をしたことがあるのか、まったく検討もつかないのですが、冤罪の問題はあるとはいえ、これだけ検挙数があるということは、女性の被害があること自体を否定することはありえないでしょう。さすがに、職場では聞きづらいのですが、やはり、なかにはひどい経験をしたという相談もあるので、データではでてこない深刻な部分があるのを感じます。通勤・通学でそのようなストレスを感じていては、個人差があるとはいえ、やはり大変だと思います。

 痴漢行為に関する分析を読んだことはありませんが、やや厳しい表現をすれば、満員電車などで行動が制約されている中で他人の身体の自由を侵す行為だと認識しております。もちろん、破廉恥行為ではありますが、他人の身体の自由を直接に侵すという点では日常生活の中で最悪のものであろうと。私の場合、自分がそのような目に遭うのが嫌だから、他人にもしないという低いレベルで考えてしまうのですが、自分を律することができない方がいらっしゃる以上、そのような方から被害を受けやすい方を自分を守る選択肢を増やすこと自体は好ましいことだと考えます。もちろん、女性専用車両がそのような方策のすべてではないのでしょうが、効果を評価してゆきながら、対応してゆくことが肝心だろうと。人権問題の多くは、極端な事例が多く、私にはわからないことが多いのですが、ごく日常生活で起きている他人の身体の自由を侵す行為を律することもできなくては、より深刻な人権問題に触れること自体、空々しさを感じてしまいます。また、より深刻な性犯罪では再犯率が高いことが指摘されており、自分で自分を律することもできない人たちの監視に租税が使われること自体、腹立たしい側面もありますが、やはり、やむをえないのでしょう。「二度あることは三度ある」、「三度目の正直」とも言いますし。

 それ以上に、痴漢行為に無意識に寛容な部分が男性サイドにもあるように思うことがあります。私自身が肉体的に受けた苦痛自体以上に、精神的な苦痛は相当でした。他方で、精神的苦痛が大きいにしても、その根源は身体の自由を侵す行為です。痴漢行為にも程度の差があるのでしょうが、どこか身体の自由に関して鈍感な方々も無視できない程度にはいらっしゃるようです。「冤罪」の問題は深刻な側面もありますが、過去の履歴などからある程度、推測できる部分もあり、そのような予断をもつこと自体、危険なこともあるのでしょうが、繊維などを利用した捜査などにより「冤罪」が生じる確率は技術的に低下してゆく可能性があります。問題は、日常生活における自由というのは、どこかで自制が必要であり、その自制できない行為を繰り返す方というのは、やはり社会人として失格なのではないかと。懲罰がゆきすぎないバランスも必要でしょうが、ダメなものはダメと強制する以外ないのでしょう。

 以上のことが偽善的と感じる方はご勝手にという感じ(抑制していること自体は否定しませんが)。それにしても、自制することが難しい時代に生きているんだなとしみじみ感じますね。それにしても、加害した者の心を映しだす鏡があったら、そこになにが映るのだろうかと。悪魔なるものは、心の中にある闇を具象化したにすぎないのかもしれません。 
posted by Hache at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2007年10月16日

天籟

 若い人がナゴヤドームから帰ってきて、阪神−中日戦の話を聞きました。あんまり興味がないクライマックスシリーズですが、阪神ファンの若人が首をうなだれながら、「完敗です」とつぶやくのが印象的でした。名古屋まで行ってお疲れのところ、話を聞いていると、「福留抜きであそこまでやられるとは」とか「先発、高園は考えられない」などなど。シーズン当初、阪神戦を2、3試合見て、かんべえさんの激怒を招いた昨年の山本(昌)の「禊」をしようとすると、なぜか阪神が負けてしまう。あまりの「ネガティブ・キャンペーン」ぶりにあきれて、放置しておりましたが、正直なところ、関心がなく、うっちゃっておりました。「そんなに差があるの?」と素で聞いてしまいましたが、「監督の采配の差ですよ」と言われて、そうなのかなあと。なんとなくピンとこないのですが、そんなものかなと。今ひとつわからないので、「上海馬券王のページ」を紹介すると、クライマックスシリーズの話を離れて、バカ受けされました。

 はああ、「諦めの果てに灯ったマジックがかき消され蹂躙されるのを見るのはやはり大変大変悲しいものだ。」ですか。。。でもねえ、セリーグ公認安全パイの森野とか微妙外人の李とか、味方が点を取ったら必ず取り返される人間失格の川上とか、四球連発恐怖の暴投王中田とか、チャンスじゃめったに打たないくせにチームの守備力だけはきっちり崩壊させた中村ノリとか、好投しても打線の援護が全然もらえないインケツの小笠原とか、ラストイニングを3人でぴしりと締めたことが殆どないカタルシス欠落クローザーの岩瀬とか、とにかくそういう凄惨なメンバーであそこまでやったんだからよしとしなくちゃ。それに今年は敗者復活のCLシリーズってのがあるわけだし、とにかく気を取り直して明日のレースの検討始めましょうよ。明日はG2とは言え今年のG1を占うのに欠かせないステップレースの2本立てですぜ(「上海馬券王のページ」2007年10月7日)。


 若い人曰く、「阪神ファンでも書けない自虐ネタ」を読ませて読者をさらに増やそうという「陰謀」をチマチマと図ってしまう。「そうはいっても中日恐るべし」とのことでやはり生で見るのとやはり迫力が違うのでしょうか。上海馬券王先生曰くは、中日の日本シリーズ進出可能性は意外とありますぞとのことですが、「現役中」に2度のリーグ優勝を見たにもかかわらず、2度ともあえなく敗退した結果しか知らない「元ファン」からすると、仮に日本シリーズに進出しても期待できず、順当にシーズン成績どおりでいいんじゃないかと。けだるい状態でスポーツ紙の試合結果を見ていて、ちと驚いたのは、観客数で札幌ドームがナゴヤドームを上回っていること。球場の定員数の差もあるのでしょうが、日曜に中日−阪神戦、月曜に日本ハム−ロッテ戦という差を考慮すると、熱気の差を感じますね。札幌ドームで日本ハムの相手は、巨人と中日、どちらでも、勝てそうな感じがしない。予想というより、単なる感じですが。野球自体はよくわからないのですが。

 今、読み返している『氷川清話』は、江藤淳・松浦玲編の講談社学術文庫版ですが、序文では吉本襄による「改竄」を批判して、勝部真長編(角川文庫版)の方は名指ししておりませんが、読めば、まあ、こちらも批判しているのでしょう。他方で、この序文ほど厳しい表現はありませんが、司馬遼太郎あたりは西南戦争時の勝海舟の態度には淡々と描写して暗に批判をしていたと記憶しております。吉本による「リライト」を経ていないとされている勝海舟の談話を読むと、かえって微妙だなあと。薩摩への思い入れとか長州嫌いといった好みというより、日清韓の同盟に勝海舟が何の意味を見出していたのかが、まるでわからない。強いて言えば、日清戦争をやらなければ、多少は清朝の寿命が延びていたかもしれないというぐらいでしょうが、このあたりの損得勘定はわからないなあという感じ。「隣国交兵日 其軍更無名」あたりに、陸奥宗光が「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と返したら、どうなるんだろうとか、「寝言」というより、妄想をしてしまいます。編者の意図を離れて人間くさい勝海舟という感じでしょうか。善悪はともかく、陸奥の方がなにをしたかったのかは、はっきりしていて、やはり勝海舟の方が大物なのかなという「寝言」。

 それにしても、気になるのは、313頁の「匹夫匹婦の言も、虚心平気でこれを聞けばみな天籟(てんらい)だ」との発言。勝部編を読んだときもほぼ同様の表現があったと思うのですが、学問をバカにしてたはずの勝海舟にしては『荘子』を読んだのか、その頃の常識だったのか、ちょっと不思議な言い回しだなあとあらためて思いました。ここには注がなく、改竄の可能性はないのかなと。実際には、そんなこと自体はどうでもいいことで、勝海舟の肉声とより近いとされる「断片」を読みながら、「近代的自我」なるものの胡散臭さを感じてしまいます。

 漢籍に強いわけでもなく、てぶらで『荘子』を読んで、哲学めいたことを考えたわけでもなく、ただ楽しかった、読み手の感性がダメだとどんな本でもダメだなあと思いつつ、マンガのように読んでしまった「外道」ですので、あまり深い意味はありません。まともな東洋思想の研究者の顰蹙をかいそうですが、「天籟」を「耳順」としても、別にかまわんというのが、「外道」の「寝言」というだけです。
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2007年10月15日

風邪 軽い憂鬱

 風邪といえば、昔は、39度近くまで熱が出たのに、現在では37.5度どまり。これが一週間近くだらだら続いて、ひたすら手を抜き、睡眠時間を確保してなんとか立ち直るというのがお決まりのパターンになりつつあります。前にも書いたような気がしますが、高熱でフラフラしながら、昔は6時間、「客人」相手に話していても、平気でしたが、最近は、高々、平熱より1度ほど高いだけできつい。老化は避けられないとはいえ、軽く欝になります。風呂に入るのもきついので、シャワーを浴びるだけという、不衛生な状態です。

 そんなわけで、三原御大に「喝」を入れていただくべく、『三原淳雄の言いたい放題』を読んでしまう。うーむ、「時の最果て」と逝っちゃったネーミングをした割には控えめのことを書いてしまっていて、よくないことに気がつきます。「アジアで一番の資産家が26歳の中国女性」というのはなるほどという感じ。腰を抜かすほどではないのですが、まあ、そうだろうなというところでしょうか。問題は、「ねたみ癖」。これは、かならずしも、日本人だけの問題ではなく、アメリカでも1980年代には似たような現象があったという本(例によって自宅内の「樹海」で行方不明。不覚)もあり、"envy-free"などという話が経済学で大真面目に取り上げられたことも考えれば、人間の性なのかもしれないとも年寄りくさい「寝言」が浮かんでしまいます。まあ、それにしても、「一円」からの領収書は萎えますね。そんなことより、さっさと「憲法解釈」でも変えておくんなましという感じ。乱暴なことを書いてしまえば、この程度のことでガタガタする方が変でして、不都合があれば、さっさと変えるのが普通でしょう。解釈を変えた上で、軽々しく自衛隊を派兵するわけにはゆかないわけですから、そこから議論が始まる。現状では、訳のわからない制約があるために、そのような議論さえできず、「密教」としか形容のしようがない状態で、三原御大が危惧する「金持ちいじめ」よりも、生命に直結する問題に目を塞いでいる状態のほうがどうかしていると思います。

 「日本の近代化 中国の近代化」で書き落としましたが、この20年ぐらいの研究で、江戸幕府の創設以来、大雑把に言えば、17世紀は人口の増加、18世紀は人口の停滞、再び19世紀は人口増となっているようです。プロの話は細かいので、私みたいなちゃらんぽらんが「寝言」に直すと、18世紀の人口の停滞の原因は、所得の増加による「晩婚化」で、現代と背景も異なるでしょうから、乱暴な比較はできませんが、「産業革命」による人口動態の非連続性が小学生頃の事典か何かにも出ていたと思いますが、ペースが極端なだけで、案外、同じことを繰り返しているのかもしれません。他方で、19世紀の人口増は衛生の改善による「高齢化」で出生率そのものはそれほど上昇したわけではなく、乳幼児の死亡率の変化などはわからない部分があるようですが、寿命が全体として長くなったとのこと。「人口減少社会」というと、悲観的なイメージですが、元禄文化と化政文化の間は「改革」の時代でして、時代の「閉塞感」というのは「改革」という名の幻を負わせるらしい。政治の混迷というのは、「改革」が濫発されることに象徴されるのかもしれません。

 他方で、17世紀から19世紀までかなり粗い推計のようですが、日本の一人あたりGDPは500ドル台から600ドル台へと上昇し、維新の直前には清を抜いているという、こちらの方で腰を抜かしそうになりました。原資料を見ていないので、どのような推計に基づいているのかは理解していないのですが、当時の税収の記録などに基づいて推計しているようです。19世紀の清朝は、アヘン戦争やアロー戦争で疲弊したイメージがありましたが、むしろ、内政面で都市部・農村部の富裕層を上手に活用することができた幕藩体制とこのような層を政治体制に組み込めなかった清朝の差も重視されているようです。ただし、富裕層といっても、小農経営などであって、冒頭の2兆円もの資産をもつ層ではないようですが。

 風邪で憂鬱なので、これまた「喝」を入れていただくべく、『氷川清話』を読み返していますが、幕末の物価騰貴に関して勝海舟がどんな認識をもっていたのかという些細なことに興味がいってしまいます。高校時代の教科書では、日本では金と銀の交換比率が約1:5であったのに対し、当時の欧米諸国では1:15で交換比率の差を利用して、海外へ金が流出し、結果的に幕府が金貨における金の含有量を低下させ、通貨価値が下がったというお話だったように思います。今では、古臭い話なのかもしれませんが、大学時代に酔っ払った状態で、大学の先生に「幕末にインフレが起きるんだけど、説明できる奴なんておらんだろうね」とのたまうので、さくさく教科書のまま答えたら、「それ、割と新しい研究成果に属するけれど、何で知っているの?」と言われて、一瞬、こちらが絶句。それって教科書レベルの話ですとお答えしたら、今度は先生がリアクションの状態になっておられたので、その後、新たな説が登場しなければ、大筋こんなところでしょう。

 三原御大の『言いたい放題』に話を戻すと、確かに日本人は市場との付き合い方が成熟しているとは言えないのですが、悲観するほどでもないだろうと。「グローバル化」に段階を設定するのは難しい部分がありますが、1970年代のブレトン=ウッズ体制の崩壊の前後で英米も右往左往したのが実態で、イギリスはポンド危機、アメリカは金の海外への流出、先進国全体ではインフレという「危機」を迎えました。半分ぐらいは冗談でしょうが、変動為替相場制への移行期には、日銀内部で「円高っていうが、どういう話なんだ?」という話があった(酒の場ですので本当なのか冗談なのかわかりませんが)とまことしやかに聞かされているので、日本もあまり上手に対応したというわけではないのでしょう。ただ、1980年代の成長率は先進国でも比較的、高かったために、資本移動の本格化への対応が遅れてしまった側面があったと思います。逆に言えば、使っていない筋肉がまだまだあるわけでして、いきなり「筋肉痛」が生じるような「トレーニング」をしている段階では、そう無理をする必要もないだろうと。話があちこちに飛びますが、アメリカではATT分割以前の1960年代あたりでは、孫に「マー・ベル」の株を譲って運用を覚えさせるのが中流から上のお爺ちゃんの役割だった国のようなレベルにいきなりなれるはずもない。もう少し資本市場の「国内開放」を進めてゆく必要があるのでしょうが、30代前半の人たちと話をしていると、定期の利率の低さにうんざりして株で運用している人が増えていて、このような流れが定着するかどうかが鍵という感じでしょうか。

 彼らからすると、私みたいに三河のとある会社ばかり買っているのは「保守的」とバカにされるのでこの手の話題は今回限りですが。恥ずかしながら、名古屋駅前に本社ビルが移るとの話を父上から聞いて、狼狽してしまいました。F1よりも、あの会社は三河の会社なので信用しているのですが、ローカルな動きの方が気になってしまう。銀座に本社がある会社はどこかちゃらちゃらした印象があって、田舎者の偏見でしょうが、ちょっと手を出しにくい感じ。尾張出身者が、尾張にビルを建てるというだけで狼狽するのも、なんですが。それにしても、1枚30万円だったころは楽だったなあと最後は「寝言」ならぬ「ぼやき」で、気分はやっぱり欝ですね。
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2007年10月13日

政治的相互依存の深化

 例によって、季節の変わり目の風邪をひいてしまいました。昔と異なって、せきや高温はなく、微熱と鼻水、痰程度ですが、年齢のせいか、十分きついので手抜きをするにはかっこうの「口実」。ブログも手抜きです。

 『世界』を読もうと思ったら、近所の本屋に置いていない。大型店ではないのにもかかわらず、論壇誌を一揃いおいている本屋ですが、『世界』だけが置いていない。「立ち読み」をして批評に値するようだったら、職場に入ってからコピーしようかと思いましたが、とりあえずは保留でしょうか。報道されている範囲では、集団安全保障ならよく、集団的自衛権はダメという話のようなので、とりあげずに終わるかも。

 私みたいなド素人は好き放題、書けますので、書いてしまえば、現行の憲法解釈で「ガン」は大きく言って二つある。まず、「(国際法上)集団的自衛権を有しているが、(憲法上の制約により)行使できない」という御伽噺。これでゆくと、国連が理想的に機能しない限り、自衛権は行使できないという話になってしまう。本土攻撃を受ければ、個別的自衛権ですべてクリアーできるとの解釈のようですが、米軍の抑止力が利いている状態では、その可能性は無視できるぐらい小さい。おまけに、個別的自衛権も実際に行使できるかどうか怪しいという情けない状態。日本の領土、了解、領空は自衛隊が守る範囲でしょうが、これすら、事なかれ主義で対応してきたので、実際に攻撃を受けるまでなにもできないというお寒い状態です。露骨に言えば、日米同盟を機能させようとする努力を邪魔する人たちは、この国の安全をますますアメリカの「善意」に依存させる結果になっていて、政府も毅然とした対応ができずに今日に至っているというところでしょう。相手の「善意」に依存した同盟ではあまりに危険だと素人には映ります。

 第2の問題は、「海外での武力行使の禁止」という御伽噺。集団的自衛権が行使できないだけでなく、集団安全保障の要である、戦争が生じた際に、侵略された国家を国連加盟国が防衛するという基本的な責務もやりませんと公言しているようなもの。あけすけに表現すれば、自国の安全についてすら自分はリスクを負わずに、アメリカの「善意」に依存し、世界全体の安全をアメリカを含む他国の「善意」に依存しますよと宣言しているようなもので、みっともないだけならともかく、いざというときにこの国の安全を守ることができるのだろうかと思います。集団安全保障は国際秩序を担保するほど堅牢ではないと思いますが、集団安全保障が機能するための活動に参加するなら、最低限、「海外での武力行使の禁止」という解釈を適切に緩和する必要があるでしょう。

 さらに、他国との共同作戦が生じるのなら、集団安全保障の枠組みという中でも、集団的自衛権の行使の範囲をもっと絞る必要がある。私自身は、両者をあたかも「悪いこと」と見なしているかのような現行解釈そのものをやめてしまった方がすっきりすると思いますが、国連による集団安全保障体制である程度の範囲で活動しようというのなら、「海外での武力行使の禁止」を見直すことが焦点だろうと。さらに自衛隊単独でできることは限られていますから、当然、他国の軍隊との共同行動が必要となる。武器使用基準の緩和は当然として、集団的自衛権についても、あえて憲法解釈で制約を課すのなら、どこまでが憲法で許容される範囲で、どこから許容できないのかを明確にする必要があるでしょう。こちらの記事でない頭をひねって考えておりましたが、教科書を読んでも、集団安全保障と集団的自衛を截然と区別することは難しい部分があります。事前に事態を予測して憲法や解釈に落とし込むことなど、非常に難しい。したがって、これだけはやってはまずいという行為を絞り込んで、残りの部分は時々の政府の判断に任せ(内閣法制局は政府を構成しているわけですが)、立法府がそれをコントロールするというのが、ごく普通の議会制民主主義だろうと。現状では、政府自身が自ら手を縛って(冷戦期の野党対策の産物でしょうけれど)、なんとか手を動かそうとあがいている。そんな滑稽な状態をいつまで続けるのかと思います。小沢論文がそこまで踏み込んでいるのなら、論評に値しそうですが、そうでないのなら失望するだけでしょう(「騒音おばさん」という「非道」先生の「すりこみ」があるので期待できそうにないですが。本当にどうでもよいのですが、知り合いの間では「ひどい」と言いつつ、「いわれてみれば、顔が似ているかも」とかもっと「ひどい」話になっていて、ネタを振った私が頭を抱える事態に)。

 珍しく月刊誌なるものを見ようとしたついでに『文藝春秋』を手にとると、赤坂太郎「安倍晋三 最後の三日間の真実」と麻生太郎前自民党幹事長の文章を読みふけってしまう。前者は、ネットでもこちらから読めます。福田政権誕生の舞台裏が、一面でしょうが、読めて、あらためて政治家というのは政治闘争が仕事であり、善悪を別として、武器を使わない戦争のようなものだと思いました(それにしても、真偽の確かめようがありませんが、安倍前総理が福田総理のお見舞いさえ拒絶していたというのは強烈な印象)。役者が「小粒」になっているという批評もありますが、民主主義国では政治家のありようは、国民のありようをダイレクトではないにしても、反映しているのでしょう。こんな話は言い出せば、大西郷と比較して大久保や木戸はとか、大久保と比較して伊藤(博文)はとかキリがない。「小粒」と外野から揶揄されようが、最低限、この国の安全を守ることに関しては、きちんとやってもらわなくては困る。コンセンサス形成が肝心なのでしょうが、どうもこれさえも、闘争の結果として生まれてくるものであって、「選良」たちが自覚して政争の具にせずに形成しましょうというのは、あまりに牧歌的な話なんだなとあらためて実感しました。

 それにしても、大雑把に大国間戦争に敗れた国の歩みを見ておりますと、この国のありようはあまりに異様な印象を受けます。現状では、この国の安全はアメリカの「善意」に依存していると私には見えますが、それが民主主義が機能した結果の「失敗」なのか、民主主義が機能していないからなのかさえ区別がつかず、両者の区別ができるのかすら、怪しい部分があります。「時の最果て」では両者が区別でき、前者、すなわち民主主義が機能しても「失敗」することがあるという立場に立ってああでもない、こうでもないと考えておりますが、アメリカの「善意」に依存しきっている現状は、実際には自国の安全をリスクやコストが非常に低く、楽に守れるという点でこの国にとっては非常に居心地がよい部分があることも否定できません。他方で、氷河が数ミリ単位で動いているとも揶揄したくなる部分もありますが、湾岸戦争後、居心地のよい状態が安定的ではないというある種の「了解」にもとづいて、タカ・ハト、保守・リベラルを問わず、時々の政権が努力してきたことも否定できないでしょう。極論すれば、小泉・安倍政権は、2001年のテロ以降、この動きを加速させたに過ぎないともいえるのでしょう。

 民主政がとりうる選択肢の中で最も望ましいものを選択するという保証はないと私は考えております。最悪の場合、「自殺」もありうる。短期で見れば、絶望的な選択をすることもあるのでしょう。ありふれた表現ではありますが、短期では悲観的に、長期では楽観的にこの国のありようをみております。もちろん、時々の問題では絶望的な気分になることもありますが、長期で本当にこの国がもたないのなら、他国へさっさと移る準備をするのでしょう。ただ、前半で述べた二つは、党派を超えて解決してもらわないと困る。アメリカによる占領を経たせいなのか、この国の歩みは通常の「衰退史」とは異なるようですが、この問題に関して「解」をだせないとなると、本当に「衰退史」となりかねないでしょう。現代は、経済的な相互依存が深化しているだけでなく、政治的な相互依存もかつてなく深化している。その是非を問うことは、地球上では物体が上から下へと落下するのが良いのか悪いのかを議論するぐらい、愚かだと思います。国際貢献という美名でもよいし、自国の安全という身も蓋もない話でもよい。この二つの問題に解を与えることが肝心だと思います。ただし、戦後民主主義が安定してきた条件であると私が勝手に思い込んでいる日米同盟(実際には同盟と呼べるのかは微妙な部分がありますが)が、おかしくなれば、この国が将来、存続できるかどうかはあやうい。

 アメリカですら、単独で生き残れるかどうか、微妙な時代に入っているというあまりに粗雑ですが、そのような感覚があります。冷戦期ですら、単純な米ソ対立ではなく、両者が政治的にも相互依存を深めていったプロセスのように映ります。もちろん、アメリカが「勝者」となったわけですが、古典的な国家間の闘争とは異なり、ソ連は社会体制が変化しただけで(どこまで本質的に変化したのかは怪しい部分もありますが、話が広がりすぎるのでとりあえず抑制しておきます)、ロシアとして生き延びています。冷戦後は、明確な対立というのは限定的であり、政治的相互依存が支配的になってゆくのかもしれません。この、あまりに粗雑な感覚が正しいのなら、アメリカといえども、選択肢がさほど多くないのかもしれません。この国の選択肢は、はるかに限られているでしょう。魅力的に映る選択肢が他にいくつあっても、現実にとりうる選択肢は限られていることを忘れてしまうと、この国がどうなるかはわからないのでしょう。

2007年10月11日

「極悪」師匠と「非道」先生:「オタク」と気概ある学者の関係に関する一考察、あるいは「寝言」

 雪斎先生のおかげでネットで『読売』の記事が読めてしまう。ありがたい反面、世の中、便利になりすぎて、ものぐさになっている自分に気がつきます。テーマ自体は重たい話ではありますが、記事は軽妙で、読んでいて楽しい。お目の高い記者さんの手にかかると、かんべえさんがとてもかっこよく映るのがすごいなあなどと例によってそこはかとない嫌味を書いておきましょうか。「福田政権、名軍師はいるか」という本題を離れて、「極悪」師匠と「非道」先生の違いがでていて、自分でもまずいのではないかと思うぐらい、くだらないことを考えてしまいます。

 まず、雪斎先生の描写として「単なる評論ではなく、政策提言にまで踏み込んだ文章が売り物」とあって、わかっているようでわかっていなかったことを自覚しますね。もちろん、「単なる評論」と「政策提言」が截然と切り離すことができるのかは疑問がありますが、雪斎先生の場合、政策への提言を行うために、単なる事実関係の整理が生きてくる、そんな印象があります。『読売』の記事がズバッと切り込むあたりは面白いところ。学問上の知見と現実の問題を切り離さないという次元だけでなく、「知識人はより良い政治のため自らの知恵を生かす使命がある。そのためには生々しい政治にかかわることもいとわない」というのはなるほどという感じ。私が知識人(たぶん、そんな立場では「痴職人」になるでしょうが)だったら、もっとのほほんと自分の好きなことだけやろうという感じになりそうで、このあたりが人間としての迫力の違いだなあと思います。なんとなく、自分の考えたことを現実の問題に活かそうというより、使いたかったら自己責任でお願いしますと無責任な態度になりそうです。雪斎先生の気迫が、タイプが違うにもかかわらず、尊敬する理由だとわかりあました。

 他方で、かんべえさんですが、「私は情報を上げるスペシャリストよりそれを生かすジェネラリストのほうが偉いと思っている。官兵衛の生き方が好きなだけで、社会を動かそうなんて気持ちもないし」という発言に「クール」とあって、背が高くやせぎすで眼鏡をかけてとっても渋いオジサマをイメージさせるさりげない描写(地上波じゃわからないでしょうが、直にお会いすれば、オタク視線は強烈なものがあります)。かんべえさんを理解するには『溜池通信』にある「口上」から、こちらを読むのがお手軽ですね。

 戦国時代というのは個性豊かな人々が活躍した時代である。官兵衛の役どころは名脇役といったところだろう。参謀タイプではあったが、諸葛孔明的な人物ではない。失敗もするし、忠誠心もそれほど高くない。それでも天下の情勢を語らせれば、いつでも周囲が「うーん」と唸るような鋭い分析を聞かせてくれただろう。彼が書き残した文書が少ないのは残念なことである。

官兵衛という男は、少し目立ちたがりなところを我慢すれば、つきあって楽しそうな人物である。戦国時代には魅力的な人物が多いが、だれか一人といったら官兵衛がいちばんだろうと、「かんべえ」は思っている。


 かんべえさんの場合、「少し目立ちたがりなところを我慢すれば」というあたりは、それほどでもないかなと。かんべえさんの場合、ジェネラリストを高く評価するというのは、天下の情勢を語らせれば、周囲が注目するというあたりと絡んできますね。ひどいことを書きますると、「オタク」という名の「ジェネラリスト」たる「極悪」の極意と見つけたり。

 「極悪」師匠の文章を勝手に書き換えると、「かんべえという男は、少し目立ちたがりなところを我慢すれば、つきあって楽しそうな人物である」となります。雪斎先生の場合、政策提言を行うためなら、スーツを脱いで泥まみれになるかっこよさがあり、提言が受け入れないからといって、為政者をバカ扱いする方とは明らかに異なる。かんべえさんの場合、あえていひどいことを書いてしまえば、読みが正しいかどうかは別として、読みがおもしろいかどうかに重点があるような感覚でしょうか。どちらが優れているというより、それぞれ個性が明確で、なおかつ共通の問題意識の上に補完関係にあるというのが、なるほどというところです。

 記事のタイトルは、「福田政権、名軍師はいるか」ですが、安倍政権時のことにも触れられています。ここでは「極悪」師匠と「非道」先生のコメントを離れて、考えてみましょう。『日経』の記事(2007年10月9日)、「検証366日 突然の辞任」では「安倍政権で成立した主な法律と置き去りになった政策」が表になっていますが、あらためて眺めていると、ふと、頭に浮かぶのが「手順前後」。年金がらみの法律を除くと、「タカ派」と見られている政権が長期政権となって「総理といえば安倍」という状態になったときに、じっくりコンセンサスを固めて実現を図ってゆくタイプの法律が並んでいて、支持率の低下と直接的な関係はないのでしょうが、あらためて、政策の優先順位が整理できなかったことを実感します。

 それにしても、雪斎先生のこちらの記事にある八木秀次先生の「首相のブレーンの一人だった高崎経済大の八木秀次教授は『保守はしばらく冬の時代を迎える』と話す。『安倍首相は保守のシンボルだった。首相がだめだから保守派もだめだとレッテルを張られるのは困る』」というのは、非礼ではありますが、笑えます。左翼の人たちが冷戦終結後、「ソ連型社会主義は崩壊したが、社会主義・共産主義の理念は正しい」とおっしゃっていて、思わず、それだったら、「ヒトラーの『第三帝国』はおかしかったが、ナチズムの理念は正しいとも言えますよね?」(われながら、屁理屈すら超越した、相手を怒らせるための妄言ですな)と尋ねたら、一気に「知人」が減りました。「右」とか「左」に限らず、似たようなものだなと。雪斎先生のような気概がないのなら、かんべえ師匠のように、「借金取り」に苦しみながらも、楽しんだ方が「極悪」とはいえ、実りが多いのかもしれないと思ったりします。そのうち、「不惑」を迎えますが、40代と一括りにしても、「人生いろいろ」という「寝言」が頭をよぎります。
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2007年10月10日

「迷い」と「不惑」

 「不規則発言」を拝読しながら、10月8日が「極悪」師匠生誕記念日であることをすっかり忘れていた不届きな「(自称)弟子」であることに気がつきました。私がうっかりしているだけかもしれませんが、「地球を読む」シリーズを見かけなくなってから、『読売』を紙媒体で見る機会が激減してしまいました。「極悪」、「非道」コンビに目をつける記者の方がいらっしゃるということは、全く気がつかず、迂闊そのもの。過疎地なので書けますが、『読売』のイメージは学生時代にしつこい勧誘員のおかげで全国紙でも最低ランクでした。当時は『朝日』をとっておりましたが、「そんな新聞を読んでいると左巻きになる」とか、「まともな新聞を読め」とか言われましたねえ。地方出身者ですから、名古屋−浜松のときには『中日新聞』、静岡市のときには『静岡新聞』でして、地方紙ばかり。とりあえず、入試のために読めといわれていた「天声人語」(こちらの方が書くのが躊躇われますが、毎日読むと、こんなものかなと思ってじきに飽きてしまいました)を読もうと思って『朝日』を選んだだけなのに、「右」、「左」の話をされてもピンとこないまま、「巨人の新聞だけはごめん真っ平です」と言ったら、「ネタにマジレス」の逆と勘違いされたのか、しつこくて、しつこくて。ひどいときには一週間に2、3回、お説教を食らわされて、だんだん面倒になって、「おっしゃるとおりですね。でも、巨人だけはイヤ」で蹴散らしました。

 もっと、イメージの悪い新聞があるのですが、実名をだすのは控えます。こちらのしつこさはこの比ではなく、ほとんど毎日、勧誘を受けて(新聞社名とは無関係ですよ)、数十回ぐらい(さすがに100回は超えていないと思いますが)勧誘されて最後にそれまで一度も受け取らなかった「見本」を受け取って、ニヤニヤしながらビリビリに破いてから、「後始末、お願いしまーす」とだけ言ってさっさと去って以来、勧誘がかからなくなりました。

 それにしても、あと2年で「不惑」のはずなんですが、あっちにふらふら、こっちにふらふらで、火曜日の晩も帰り際に若手と出会って夜中の1時まで立ち話を商店街のど真ん中でやってしまう始末。酒は面倒なのでせめて喫茶店にでも「連れ込む」ぐらいするべきところを軽い立ち話のつもりが、延々4時間を越えてしまうという、いい年をして気の利かない奴だなあと自分でも呆れてしまいました。どこかに誘おうと思って時計を見たら、夜中の1時を大幅に回っていたという無茶苦茶な話で、いつになったら大人になるのやらと思ったりします。

 最初は、話がかみ合わず、だんだん、相手に「迷い」があるのに気がついて、「今のうちに散々、迷った方がいいですよ。あとでなにが役に立つかなんて予想もできないですから」などとアドバイスにもならないような話ばかり。ちょっと感心したのは、「迷う」というのは「ムダ」そのもので到底カネにならないけれど、その間にもカネがいるから、疎かにしていると怖いですよと言ったら、既に準備をしている様子で、あとは運かなという感じですね。「本体業務」の話になると、元々、薄情なせいもありますが、アドバイスをしようとか、面倒な気もおきず、「時の最果て」で書いていることよりも、「寝言」そのものになります。

 ふと思い出すと、大学をでてから朝から晩まで同じことばかり考えていた時期がありました。なにか「答え」を求めているというよりも、パーツが揃って組み立てたものの、なにかが違う。「全体」と思っていたものが「部分」にすぎないことに気がついて、再度、やり直し。いつまでたっても、「全体」と思っていたものが「部分」にすぎないことに気がつくという繰り返し。「不惑」というのは、聖人君子、あるいは「特権階級」に属する方にのみ訪れる。常なるものなどなにもないとなると、無常すらない。若い人と話をしていて、非日常を日常としている自分に気がつく。実は、「非日常」と「日常」の区別すら、年とともにわからなくなってしまう。あまり、お勧めできない「処生術」ですので、これは言葉をのみました。 
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2007年10月09日

飛ブガ如ク

 インテルからAMDへ乗り換えてから、パソコンが驚くほど静かになりました。古い方はPen4の2.6Gですが、たまに起こすとうるさい。以前はファンの音を気にすることは余りありませんでしたが、乗り換えてしまうと、異常にうるさい。アンチウィルスソフトがやや重たいことを除くと、Windowsやアプリケーションの起動時にストレスがほとんどなく、3Dのネット対戦ゲームでもやらない限り、インテルはイランのおという感じ。あとはノートの買い替えですが、欲しいと思えるほどの機種がなく、インテルばかりでやたらと高い印象。

 ふと最近の世の中を見ていると、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』の一節を思い出します。萩の乱、神風連の乱のあたりで前原一誠が日記に「――全身震動、頭浮クガ如ク、飛ブガ如ク、マタ閉ヅルガ如シ。且、顔色甚ダ赤シ」と記しているあたり。太政官「政府」から明治政府への移行期のすさまじさと現代を比較するのは明治の人々に申し訳ありませんが、なんだか地に足の着かない議論を聞いていると、まさに「飛ぶが如く」だなと。小説の読み方としては「外道」そのものですが、倒幕で使い道がなくなった西郷隆盛という巨人が崩壊してゆく様を描いたというのが、昔読んだときの印象でしたが、ちょこちょこと読み返しても、印象はあんまり変わらないです。

 現在の日本を見れば、昔もそうかもしれませんが、日々を平穏に暮らして葉っぱが落ちるようにして一生を終える人がほとんど。私もそうですし、「終わり」もそうなんでしょう。特別の感慨もなく、日常に埋没して一生が終わる。他方で、西郷のように本人が望んだのかどうかは別として英雄もいなければ、大久保のような大俗人もいない。たいした人はいないのだから、「翔ぶが如く」など目指さず、静かにやってくれないと、「飛ブガ如ク」で終わり、鬱陶しいだけだなあと。大真面目にやってらっしゃる方には大変失礼ですが、大して期待していないので静かに、そこそこ上手にこなして頂ければ、それでいい。巧拙が大切なのであって、政治に限らず、動かせる変数などたいていは大して多くはないのですから。
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