2007年10月13日

政治的相互依存の深化

 例によって、季節の変わり目の風邪をひいてしまいました。昔と異なって、せきや高温はなく、微熱と鼻水、痰程度ですが、年齢のせいか、十分きついので手抜きをするにはかっこうの「口実」。ブログも手抜きです。

 『世界』を読もうと思ったら、近所の本屋に置いていない。大型店ではないのにもかかわらず、論壇誌を一揃いおいている本屋ですが、『世界』だけが置いていない。「立ち読み」をして批評に値するようだったら、職場に入ってからコピーしようかと思いましたが、とりあえずは保留でしょうか。報道されている範囲では、集団安全保障ならよく、集団的自衛権はダメという話のようなので、とりあげずに終わるかも。

 私みたいなド素人は好き放題、書けますので、書いてしまえば、現行の憲法解釈で「ガン」は大きく言って二つある。まず、「(国際法上)集団的自衛権を有しているが、(憲法上の制約により)行使できない」という御伽噺。これでゆくと、国連が理想的に機能しない限り、自衛権は行使できないという話になってしまう。本土攻撃を受ければ、個別的自衛権ですべてクリアーできるとの解釈のようですが、米軍の抑止力が利いている状態では、その可能性は無視できるぐらい小さい。おまけに、個別的自衛権も実際に行使できるかどうか怪しいという情けない状態。日本の領土、了解、領空は自衛隊が守る範囲でしょうが、これすら、事なかれ主義で対応してきたので、実際に攻撃を受けるまでなにもできないというお寒い状態です。露骨に言えば、日米同盟を機能させようとする努力を邪魔する人たちは、この国の安全をますますアメリカの「善意」に依存させる結果になっていて、政府も毅然とした対応ができずに今日に至っているというところでしょう。相手の「善意」に依存した同盟ではあまりに危険だと素人には映ります。

 第2の問題は、「海外での武力行使の禁止」という御伽噺。集団的自衛権が行使できないだけでなく、集団安全保障の要である、戦争が生じた際に、侵略された国家を国連加盟国が防衛するという基本的な責務もやりませんと公言しているようなもの。あけすけに表現すれば、自国の安全についてすら自分はリスクを負わずに、アメリカの「善意」に依存し、世界全体の安全をアメリカを含む他国の「善意」に依存しますよと宣言しているようなもので、みっともないだけならともかく、いざというときにこの国の安全を守ることができるのだろうかと思います。集団安全保障は国際秩序を担保するほど堅牢ではないと思いますが、集団安全保障が機能するための活動に参加するなら、最低限、「海外での武力行使の禁止」という解釈を適切に緩和する必要があるでしょう。

 さらに、他国との共同作戦が生じるのなら、集団安全保障の枠組みという中でも、集団的自衛権の行使の範囲をもっと絞る必要がある。私自身は、両者をあたかも「悪いこと」と見なしているかのような現行解釈そのものをやめてしまった方がすっきりすると思いますが、国連による集団安全保障体制である程度の範囲で活動しようというのなら、「海外での武力行使の禁止」を見直すことが焦点だろうと。さらに自衛隊単独でできることは限られていますから、当然、他国の軍隊との共同行動が必要となる。武器使用基準の緩和は当然として、集団的自衛権についても、あえて憲法解釈で制約を課すのなら、どこまでが憲法で許容される範囲で、どこから許容できないのかを明確にする必要があるでしょう。こちらの記事でない頭をひねって考えておりましたが、教科書を読んでも、集団安全保障と集団的自衛を截然と区別することは難しい部分があります。事前に事態を予測して憲法や解釈に落とし込むことなど、非常に難しい。したがって、これだけはやってはまずいという行為を絞り込んで、残りの部分は時々の政府の判断に任せ(内閣法制局は政府を構成しているわけですが)、立法府がそれをコントロールするというのが、ごく普通の議会制民主主義だろうと。現状では、政府自身が自ら手を縛って(冷戦期の野党対策の産物でしょうけれど)、なんとか手を動かそうとあがいている。そんな滑稽な状態をいつまで続けるのかと思います。小沢論文がそこまで踏み込んでいるのなら、論評に値しそうですが、そうでないのなら失望するだけでしょう(「騒音おばさん」という「非道」先生の「すりこみ」があるので期待できそうにないですが。本当にどうでもよいのですが、知り合いの間では「ひどい」と言いつつ、「いわれてみれば、顔が似ているかも」とかもっと「ひどい」話になっていて、ネタを振った私が頭を抱える事態に)。

 珍しく月刊誌なるものを見ようとしたついでに『文藝春秋』を手にとると、赤坂太郎「安倍晋三 最後の三日間の真実」と麻生太郎前自民党幹事長の文章を読みふけってしまう。前者は、ネットでもこちらから読めます。福田政権誕生の舞台裏が、一面でしょうが、読めて、あらためて政治家というのは政治闘争が仕事であり、善悪を別として、武器を使わない戦争のようなものだと思いました(それにしても、真偽の確かめようがありませんが、安倍前総理が福田総理のお見舞いさえ拒絶していたというのは強烈な印象)。役者が「小粒」になっているという批評もありますが、民主主義国では政治家のありようは、国民のありようをダイレクトではないにしても、反映しているのでしょう。こんな話は言い出せば、大西郷と比較して大久保や木戸はとか、大久保と比較して伊藤(博文)はとかキリがない。「小粒」と外野から揶揄されようが、最低限、この国の安全を守ることに関しては、きちんとやってもらわなくては困る。コンセンサス形成が肝心なのでしょうが、どうもこれさえも、闘争の結果として生まれてくるものであって、「選良」たちが自覚して政争の具にせずに形成しましょうというのは、あまりに牧歌的な話なんだなとあらためて実感しました。

 それにしても、大雑把に大国間戦争に敗れた国の歩みを見ておりますと、この国のありようはあまりに異様な印象を受けます。現状では、この国の安全はアメリカの「善意」に依存していると私には見えますが、それが民主主義が機能した結果の「失敗」なのか、民主主義が機能していないからなのかさえ区別がつかず、両者の区別ができるのかすら、怪しい部分があります。「時の最果て」では両者が区別でき、前者、すなわち民主主義が機能しても「失敗」することがあるという立場に立ってああでもない、こうでもないと考えておりますが、アメリカの「善意」に依存しきっている現状は、実際には自国の安全をリスクやコストが非常に低く、楽に守れるという点でこの国にとっては非常に居心地がよい部分があることも否定できません。他方で、氷河が数ミリ単位で動いているとも揶揄したくなる部分もありますが、湾岸戦争後、居心地のよい状態が安定的ではないというある種の「了解」にもとづいて、タカ・ハト、保守・リベラルを問わず、時々の政権が努力してきたことも否定できないでしょう。極論すれば、小泉・安倍政権は、2001年のテロ以降、この動きを加速させたに過ぎないともいえるのでしょう。

 民主政がとりうる選択肢の中で最も望ましいものを選択するという保証はないと私は考えております。最悪の場合、「自殺」もありうる。短期で見れば、絶望的な選択をすることもあるのでしょう。ありふれた表現ではありますが、短期では悲観的に、長期では楽観的にこの国のありようをみております。もちろん、時々の問題では絶望的な気分になることもありますが、長期で本当にこの国がもたないのなら、他国へさっさと移る準備をするのでしょう。ただ、前半で述べた二つは、党派を超えて解決してもらわないと困る。アメリカによる占領を経たせいなのか、この国の歩みは通常の「衰退史」とは異なるようですが、この問題に関して「解」をだせないとなると、本当に「衰退史」となりかねないでしょう。現代は、経済的な相互依存が深化しているだけでなく、政治的な相互依存もかつてなく深化している。その是非を問うことは、地球上では物体が上から下へと落下するのが良いのか悪いのかを議論するぐらい、愚かだと思います。国際貢献という美名でもよいし、自国の安全という身も蓋もない話でもよい。この二つの問題に解を与えることが肝心だと思います。ただし、戦後民主主義が安定してきた条件であると私が勝手に思い込んでいる日米同盟(実際には同盟と呼べるのかは微妙な部分がありますが)が、おかしくなれば、この国が将来、存続できるかどうかはあやうい。

 アメリカですら、単独で生き残れるかどうか、微妙な時代に入っているというあまりに粗雑ですが、そのような感覚があります。冷戦期ですら、単純な米ソ対立ではなく、両者が政治的にも相互依存を深めていったプロセスのように映ります。もちろん、アメリカが「勝者」となったわけですが、古典的な国家間の闘争とは異なり、ソ連は社会体制が変化しただけで(どこまで本質的に変化したのかは怪しい部分もありますが、話が広がりすぎるのでとりあえず抑制しておきます)、ロシアとして生き延びています。冷戦後は、明確な対立というのは限定的であり、政治的相互依存が支配的になってゆくのかもしれません。この、あまりに粗雑な感覚が正しいのなら、アメリカといえども、選択肢がさほど多くないのかもしれません。この国の選択肢は、はるかに限られているでしょう。魅力的に映る選択肢が他にいくつあっても、現実にとりうる選択肢は限られていることを忘れてしまうと、この国がどうなるかはわからないのでしょう。