2007年10月19日

現代における攘夷の「意匠」

 失礼ながら、共産党の質問時間は短いおかげで、一通り見ましたが、要は、アメリカの艦船への補給はダメと言いたいんでしょということに尽きる印象ですね。それに、思わず、高村外相が煽りに「マジレス」をやりそうになり、石破防衛相が低姿勢ながらねっちり「アメリカ盲信ではない」と釘を刺し、福田首相がでてきて、「お宅とは根本的に価値観が違いますから、反対してくださってけっこうですよ」(もちろん、露骨な表現は避けなければなりませんが)と高度な婉曲表現である「フフン語」で落としたという感じですかね。共産党のおかげで、野党サイドの「テロ対策措置法」の延長反対・代替案というのはテロへの別のアプローチではなく、反米の旗印になった印象です。「平和主義者」だけでなく、「反米保守層」からもご支持を頂くことを願いましょう。

 それはさておき、とりあえず、『世界』(2007年11月号)の小沢一郎「今こそ国際安全保障の原則確立を――川端清隆氏への手紙」を職場で「立ち読み」しましたが、これはどうも『世界』(2007年10月号)の川端清隆氏「テロ特措法と安保理決議――国連からの視点」を読まないと、議論としては不十分だろうなと。川端清隆氏(国連政務官)の議論も「立ち読み」レベルですが、こちらはけれんがなく、国連の見解を代表するものではないという断り書きがあるものの、国連で活躍されている方からの提言としては、ごく自然な感じでした。言いにくいのですが、小沢論文をコピーする経費がちと惜しく、ネタがつきたら、とりあげようかなという程度の扱いです。川端論文は、コピーしましたが。

 ついでと申し上げるのは非礼ではありますが、『Voice』(2007年11月号)も目を通すと、櫻田淳「『保革同居』混成政党の限界」が掲載されていて拝読してみると、櫻田節は健在なるも、やや「テロ特別対策措置法」への対応へ重心が置かれすぎていて、少し惜しいなあ、もう少し、民主党の外交・安全保障政策全般への「アドバイス」がほしいなあというところ。寄り合い所帯という限界はあるものの、寄り合い所帯なりにできることを書けるのは、執筆メンバーでは他に見当たらないので、突っ込んでいただきたいところですが、短時間であれだけの内容をまとめること自体が驚異でしょうか。

 『Voice』のお題は「小沢民主党への不安」ですが、岡崎久彦「小沢外交は失格だ」と身も蓋もない話を読んでしまうと、まあ、そうなんですけど、そうなんですよねという感じ。単なる論客ならともかく、野党第1党の党首が反米パフォーマンスをやっているのは見苦しいという次元を超えて、終わっている、そんな感じでしょうか。余計ですが、岡崎氏のことを匿名の掲示板では「売国奴」などと書いている方を見かけますが、ご本人に尋ねれば、「そうなんだよね。愛国的売国奴ってとこかな。『自主独立』や『自主防衛』で滅ぶなんてばかげているから」で終わっちゃうでしょうね。もちろん、ご本人に尋ねたわけではありませんが、いかれた「外道」の感覚ではそんなところでしょう。

 妄想してみますと、岡崎論文が指摘しているように、ライス&ヒルのコンビで既に米中は政治的にも「融合」まではゆかないにしても、対立を避け、日本の頭越しに関係が深化しています。ヒラリーが大統領になったらという懸念もあるようですが、この傾向は、ヒラリーやライス&ヒル・コンビだけの問題ではないでしょう。アメリカの艦船に給油をすることが、あたかも憲法違反の「悪いこと」となり、給油活動がストップした場合、活動の実態そのものは「テロリスト掃討に関わる国際社会の協調行動」だと思いますが、田岡元帥のように、日米同盟に傷がつくかどうかというよりも、海上阻止活動における補給活動すらできない程度の国よりも、アジアにおける名目上のパートナーとして日米安保はそのままにしておいて、米中が接近する弾み程度にはなるでしょう。私は「極悪」でもなく「非道」でもありませんが、国と国の関係など損得勘定で見ておけば、それほど外れないという、いかれた「外道」ですので、基地問題も未だに解決できず、MDを中心に集団的自衛も「憲法」で鎖国し、さらに控えめな海上阻止活動への参加もできない厄介な「お荷物」と時間を割くのはもったいないですから、中国と宥和的に接する方が「お得」というものです。野党さんが「アメリカの戦争に加担したら、憲法9条が汚れるざます」とか「アメリカに給油したら、憲法9条が汚れるざます」とかノーテンキなことを言っている国とはコミュニケーションをとるのも面倒ですしね。

 そうすると、段々、核抑止を肩代わりするのも面倒ですねえ。他国をマジギレさせるのが御家芸お得意の下院あたりに、なぜ合衆国が日本の核抑止を代替しなければならないのかということについて、過去の非協力的な対応を列挙して(掃海艇派遣とかはスルーしてもよし、注をつけてもよし)、合衆国が二次的に核による報復を受けるリスクを冒してまで日本への核抑止を肩代わりすることに疑義をだす決議でも準備してもらいましょうか。法的拘束力はありませんし、行政府の行動を縛るものでもありません。そこで国務省の高官あたりがお荷物になった日本へ「悪いんだけど、下院を説得するのが大変でね」と言えば、日米同盟の中核である日米安全保障条約を破棄するという乱暴なことをするまでもなく、死文化できるでしょうね。「核武装」で脅したところで、プルトニウム爆弾が関の山。米・露・中の核の前には水鉄砲。そうなれば、ロシアや韓国、中国あたりはほしい領土が一杯あるでしょうし、イギリスやオーストラリア、インド、ヨーロッパ諸国も、かわいそうだけどしかたないよねと日本と深入りするのは避けようという雰囲気になるでしょう。こんな露骨なことをやる確率はもちろん低いわけですが、アメリカも限られた選択肢の中でベストのものを選ぶしかないわけで、その選択肢が日本よりも広いことを忘れると、存亡に関わるのでしょう。

 いまのテロ対策に関する野党の反応を見ていて、野党に所属する議員のすべてではないでしょうが、小沢路線に追従している方を見ていると、古臭い話ですが、第2次伊藤博文内閣における条約励行運動を思い浮かべてしまいます。要は、「内地雑居反対」という感情論ですが、現在では「国連決議」と「憲法違反」という浮世離れした「意匠」を「アメリカの戦争への反対」という「意匠」の上にかぶせただけであろうと。昔は、大功をなした方も「今は陸奥守殿の大切の御役目だ」などと傍観者的なことをのたまわっていましたが、立憲政治や議会政治、帝国の時代への理解が欠けていたにしても、陸奥宗光の死後には挽歌を読むあたりは、やはり尋常の方ではないだろうと。外野が憲法違反だの国連決議があればなんでもありだの騒ぐのはどうでもよいのですが、現実政治に携わる批判派に最低限、そのような感覚の持ち主がまるでいないようで、悲しいものがありますが。

 それにしても、世の中というのは変わったようで変わらないものです。岡崎久彦『陸奥宗光』の一節は、今回のドタバタ騒ぎだけでなく、今後も政治を考える上で、示唆に富んでいるとあらためて思います。

 また、それまで日本にはなかった立憲政治とはどういうものであろうかということに想いをめぐらしていた模様であり、井上(井上毅:引用者)あての手紙には次のように言っている。

 「私がひそかに考えているところによれば、そもそも政治というのは、術であって学ではない」

 陸奥が生涯かたわらから離さなかった荻生徂徠の『弁道』『弁明』の中にある、「尭・舜などの先王の道といっても、それは畢竟は政治の術である」という思想と全く同趣旨である。また、イデオロギーを排した、アングロサクソン的現実主義でもある。

 「したがって、政治を行う人には、巧いか下手かの差がある。巧みに政治を行ない、巧みに人心を収攬するのは、実用の学と実用の才能があって、広く世の中の事に熟達している人ができるのであって、抽象論を言う書生ではない。また、立憲政治は専制政治のように簡単ではないので、政治家に必要とされる巧みさ、熟練度も、より必要である。
 また、政治熱に浮かされる人民は、あたかも、恋思いにかかった若者のようになってしまって、夢がいったん覚めるときまでは、まるで自覚を失った状態となってしまう。そして、この政治熱は、わが国にも、将来、流行することとなるであろう。
 これを治癒する方法は何かといえば、ただ人民の欲するところに訴え、人民の欲するところを制限するにある。決して、新奇なる(実は陳腐なる)抽象論によって理解し得べきものではない。このあたりの真味、ただ智者と談ずべく、愚者に語らずべからず」

 (中略)陸奥のいう愚者とは、ここでは、衆愚、すなわち大衆を指しているのではない。一見わかったようなことを言って、政治の本質がわかっていない人々のことを言っているのである。

 私自身は、智者ではありませんが、時間があるときに、ワイドショーで「劇場型政治」を眺めている方たちの言から、「アングロサクソン的現実主義」というほど大袈裟ではありませんが、ちゃんとそろばん勘定をしている感覚を感じることがあります。他方で、現在の野党は、「人民の欲するところに訴え、人民の欲するところを制限するにある」という立場とは正反対の感覚を感じます。

 最も困ったことに「政治というのは、術であって学ではない」(蛇足でしょうが、政治学が否定されるわけではない)という言は、維新後のバカ騒ぎを経た後で陸奥宗光が体得したものであって、現在ではこのようなバカ騒ぎをやる余裕もなく、「術」の意味がある程度、理解できる政治家が与党に偏っているようにも見えます。私自身は、見巧者でもなく、「寝言」を書いているだけですが、信頼できる言論人はいても、ここまで透徹した為政者となるとどうでしょう。「小粒」、「俗物」と揶揄されても、政治という現実に泥まみれになりながら、政治の「巧拙」を見極め、「術」を「術」として冷徹に実行できる方が権力を握っていれば、内外情勢が揺れるのは常ですから、あまり心配することではない。そうではなくなったとき、どんな危機がやってくるのかは、自明でもあり、予測不可能でもある。そんな「寝言」がふと浮かびます。