2007年10月24日

命をカネで代替できるのか?

 この方がけれんのない文章を載せるときは、拝聴しておけばよく、特別、感想も浮かばないです。まあ、「寝言」を書くのは蛇足というものですが、「時の最果て」らしく、よけいなことをしておきましょう。私の備忘録以外の何者でもなく、なにかを主張しようという面倒な欲もないのですが。

 冒頭の話題からかけ離れて恐縮ですが、故佐藤誠三郎氏との対談を岡崎久彦氏がまとめた『日本の失敗と教訓 近代160年の教訓』(扶桑社 2000年)という本があります。ずいぶん、昔に伺った話ですが、佐藤氏が岡崎氏の日米同盟論を厳しく問い質すというやりとりがあったそうです。どのようなやりとりであったのかは詳しくは知らないのですが、岡崎久彦『日本は希望の新世紀を迎えられるか』(廣済堂出版 2000年)には5人の方たちが論考を寄せていて、佐藤誠三郎氏は「現代世界における平和と文化」という論考を寄せていて、単行本で8頁強ほどですが、視野が広く、普通はその分、内容が薄くなるものですが、個々の論点について簡潔ながら、深い洞察を示されていて、驚いた覚えがあります。このような議論に私が関与するにはほど遠いのでしょう。

 これは、5年以上前のことですが、私よりも一つ上の方が、この問題にどのように答えますかと尋ねられて、困ってしまいました。正確に言えば、困ったわけではないのですが、こういう一瞬はある意味で怖いものでして、私自身の姿が鏡に映ってしまう。正確に言えば、このやりとりがあってから、あらためて佐藤氏が岡崎氏に投げかけた問いを読み返したのですが。このときは、十分に議論のバックグラウンドを理解していない状態でした。実際に考えたのは1、2秒でしょうが、「考えに考え抜いて、疑いに疑いぬいてこれだけは理屈ぬきで前提とせざるをえないものは公理として話が始まりません。それがなければ、考えること自体をやめることがありません」とお答えした記憶があります。喫茶店での気軽な会話の後で非常にリラックスしておりましたが、このときはポーンと公案を投げ出された若造のような気分でした。

 「日米同盟は日本の安全にとって自明の公理である」と私自身が断言できるほど、考え抜いたわけではありません。しかしながら、「虚構」を置かなければ、見えない現実というものもある。もっと言えば、「虚構」なしで現実を見ることができないように、人間の認識というものはできているらしいと感じることがあります。始原を「無」におくなど、作為的な「虚構」の最たるものでしょう。「仮想現実」という言葉を聞くと、どことなく違和感があります。テクノロジーが発達する前から、人間は仮想現実であがき、もがいている。そんなありように等しく敬意を払いたいと思う一方、私も「私」である以上、濃淡が生じてしまうことを感じます。

 冒頭の話に戻りますと、あまり付け加えることがありませんが、日英同盟が切れた後、先の大戦で敵味方に分かれたとはいえ、イギリスという旧同盟国というのは、よくものが見えていて、現在の日本政治の混迷に手厳しいながらも、ありがたいものだと思います。こちらを見ると、日本を肯定的に見ているイギリス人が多いのだろうと思います。いわゆる「好感度」調査に過ぎないでしょうし、だからイギリスのインテリの話をきけということでもなく、彼の国には野蛮さと同時にあらためて高貴さを感じます。他方で、この国では命の問題をカネで代替できるかのような発想の方が少なくないご様子で、彼我の違いを感じてしまいます。冒頭で引用させて頂いた記事で救われた気分になりました。救いようがないように見える状況下で、カネで代替しようと言われると、絶望的な気分になりますが、人間味に触れると、厳しいながらも現実を見てゆこうという気分になります。