2007年12月31日

2007年最後の「寝言」

私は現金だ。

私は人間である。

人間というのは現金なものだ?

 と論理の飛躍(というより支離滅裂)が大きいのですが、伊藤洋一さんの「煽り」に負けて『ザ・経済闘論』を見てしまいました。テーマが「リスク」と来て、番組冒頭のナレーションでは、まるで経済が終わっているかのような雰囲気。ありゃまあという感じで、さくさく流して話を伺っていると、おもねるわけではないですが、伊藤洋一さんが一番まともな感じ。SWFで竹中さんをとっちめたかんべえさんの言っていることがわけがわからない。米中が「融合」しているのに、「デカップリング」とはこれいかに(アブダビも中国もテマセックも本気で「デカップリング」なんて思っていたら、カネを出しますかね。もし、そうだとしたら、大して目利きではないような)。モルガンスタンレーにチャイナマネーが入ったということをあまりに過大視していると、間違えるのでしょう。そんなことより、日米のパイプが弱くなっていることを懸念した方がよさそうです。

 感覚的ですが、アメリカ経済に「死角」がないわけではないけれど、「心配」するほどでもないという伊藤洋一さんの方がおそらくは全体が見えているのだろうと。あえて意訳すれば、アメリカ経済の心配でもするぐらいだったら、日本政治の麻痺の方を心配しなさいなというところでしょうか。アメリカ経済の「底力」というのは、確かにそうだなと思いました。アメリカが特殊だとしたら、典型的な市場経済の国だということなのでしょう。民間部門の調整速度が非常に速い。もちろん、その分、救いようのないように見えるミスもしますが、みんながダメだと言い始めた頃には回復している。伊藤さんに比べれば人生経験がはるかに短いのですが、番組で「私が社会人になってからアメリカ経済はダメだと何度も聞かされてきた」と悲観論を一喝されていて、なるほどねえと思いました。というわけで冒頭の自分の現金さに気がつきますね。

 ルールづくりはアメリカのリーダーシップはEUによって補完されるという絵を示されていて、これも納得。言いにくいのですが、あまりに常識的な考え方なので、自分がなにを考えてきたのだろうと思ってしまいます。来年は「雨のち曇り、一時晴れ」てな感じでしょうか。地球温暖化については、米中が動かないとどうにもならず、両者とも動き出すと速いという点では似ているので、洞爺湖サミットでアメリカが動き出したら、さっさと追随すればよいかなと。まあ、本当は日本がある程度はリーダーシップをとってほしいのですが、現状では無理だろうなあと。経済の面から見ると、多極化が基本だと思いますが、やはりアメリカが抜きん出ている状態は変わらないのでしょう。とにかく大国で市場経済と民主主義という点でこれほど歴史を誇る国はなく、やはり他の追随を許さないのでしょう。

 久々にテレビの電源を入れましたが、ネットでの情報に右往左往してあれこれ訳のわからないことを書いておりましたが、年末にすっきり。「アメリカを侮ることなかれ」が身をもって体験した教訓であることをあらためて実感して、年を越しそうです。


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2007年12月30日

ブット元首相暗殺 補遺

 ふう。相変わらず落ち着かず、いよいよ「越年」が見えてまいりました。たまには「2007年を振り返って」という記事でも書いてみたいものですが、パキスタンのブット元首相暗殺の報が入って、慌てて、記事を書きました。コメント欄でも書いたのですが、「時の最果て」では「なまもの」(時事問題)は苦手分野に分類されます。昨日の記事は、パキスタン情勢をめぐるアメリカ国内の世論を中心に情勢を整理しましたが、いかんせん、私の力不足でよみづらい文章でした。今日は、思いつくままに、昨日の記事の下書きをしてから、カットしたことをとりとめなく書いてみます。なお、コメント欄も下書きをしたのですが、あまりに長かったせいでしょうか、管理者のコメントをはじくという前代未聞の事態に涙しました。分割して投稿しているのは、そのことが理由です。ちと、ヨレヨレですので、簡潔に参ります。

【人情派独裁者ムシャラフ】

 安達正興さんは、ムシャラフ大統領の観察を続けてゆくうちに、日本ではあまり見かけない人物評価をされています。下記の(5)のコラムは、以前にも何度か拝読しましたが、昨日は最初に書いた下書きに手を入れているうちに、ふれる機会がなくなってしまいました。ムシャラフ大統領の人物観察としては、単に彼の意外な側面を浮き彫りにするだけでなく、パキスタンという多民族国家の指導者としての資質を善悪是非をまじえずに、味わい深く描写しています。安達さんは、他にも味わい深い南アジア観察をされておりますが、パキスタン関連のものを勝手ながら、列挙させていただきます。

(1)「攻めに転じたムシャラフ」(2007年7月7日)

(2)「甦えるムシャラフの悪夢(1)」(2007年8月24日)

(3)「甦えるムシャラフの悪夢(2)」(2007年8月25日)

(4)「帰国したベナジル・ブット元首相」(2007年10月19日)

(5)「人情派独裁者ムシャラフ」(2007年11月5日)

(6)「パキスタンの核、ボルトンとアーミテージの見方」(2007年11月12日)

 アフガン戦争に際してアーミテージ国務次官が「この提案を断ったらお前の国は石器時代に戻るぞ、それでもいいか」とムシャラフ大統領に凄んだエピソードが当時の交渉のすさまじさをあらためて実感させます。

(7)「捕鯨船出港、および米パ関係」(2007年11月19日)

(8)「Mrムシャラフ、総選挙への日程」(2007年11月30日)

(9)「ベナジール・ブット暗殺、選挙日程は?」(2007年12月28日)

 やはり、国際情勢は幅広く、かつ継続的に見ておくことが大切であることを実感いたします。コラムがアップされた際に拝見しておりましたが、記事を書く際に参考にさせていただきました。あらためてお礼を申し上げます。

【『アジア2025』】

 コメント欄にも記しましたが、私は、以前から、テロというのは歴史の歩みを少しだけ早めることがあっても(あるいは遅くすることがあっても)、歴史を変えることがないという独特の見方をしております。ブット元首相の自爆テロによる暗殺の報にふれて、亡くなったことを悼むとともに、果たしてパキスタンの民主化だけでなく、今後、パキスタンという国がこの数年はともかく、中・長期的に国としての一体性を保てるのだろうかと懸念いたしました。私は、『アジア2025』の紹介を2001年の8月に『日経ビジネス』で読みました。この時期の記事では主としてアメリカの対中政策の変化が中心でしたが、テロによってこの種の関心が一時的に後退しました。『溜池通信』(121号)は、『アジア2025』から次のような驚くべきシナリオを提示しており、読んだ当時に対中政策とは別の衝撃を受けましたので、今回の暗殺に際してもすぐにこのシナリオが頭をよぎりました。一部ですが、『溜池通信』から抜粋いたします(原文をお読みになりたい方は、「バックナンバー2001年分」から「10月5日号」をクリックしてください。PDFファイルが開きますのでご注意を)。

 2010年のパキスタンは崩壊寸前となる。パンジャブ人による支配に対し、シンド人、バルチ人、パタン人が反乱を起こす2。イスラム原理主義も不安定化をもたらす。アフガンではタリバン政権(パシュトゥン人)は、タジク人やウズベク人などの住む地域までは支配できない。タリバンは南アジアの至るところで、過激なイスラム組織の温床と化す。

・パキスタン政府は2012年までに麻痺状態となる。原理主義者がカシミール地方に潜入し、暴力をエスカレートさせる。インド軍が侵攻すると、パキスタンは核攻撃を加える。全面核戦争を避けるために米軍が介入する。

・パキスタンは無政府状態となり、インド軍が空白を埋める。インド連邦の誕生である。これに伴って中央アジアではアフガンが崩壊し、イランやタジク、ウズベクが侵攻し、アフガンは解体される。

・2020年までに地域超大国のインド連邦が出現し、中央アジアも安定化する。パイプラインの敷設が可能になる。インド連邦はイランやペルシャ湾岸諸国との連携を強化。

・ロシアは新興のイラン・インド同盟に接近する。ロシアの分裂は加速。中国はインドが勢力を増したことを受け、北部や南部で影響力を強める。


 かんべえさんも指摘しているように、このシナリオではパキスタンが崩壊することを予測しているのではなくて、パキスタンが崩壊寸前となったら、南アジアでどのような秩序(あるいは混沌)が生じるのかをシミュレーションしております。ここで大切な点は、パキスタンとアフガニスタンの脆弱性という点を織り込んでいることです。万が一、今回の暗殺をきっかけにパキスタン情勢がアメリカの後押しがありながらも不安定化すると、この脆弱性が露呈したということになるのかもしれません。

 ちょっとだけ脱線いたしますと、南アジアで伝統的に地域内の秩序を形成してきたのはインドとイランでしょう。この両者が台頭してくれば、アメリカはこの両者をどのように扱うのでしょうか。このシナリオでは、米軍がインドとイランという「予期せぬパートナー」をえるというシミュレーション結果になっています。このシナリオを絶対視するわけではありませんが、パキスタンにとっての幸福は、アメリカとイランが現状では冷えていることであり、将来、起こりうる不幸は、両者の関係がインドと同様に改善することなのかもしれません。

 なお、『アジア2025』は、国防総省長官官房付属・相対評価室(Office of Net Assessment)の室長アンドリュー・マーシャル(Andrew Marshall) 氏の下で行われた思考実験の成果をまとめたものです。全体を知りたい方は、引用元をお読みください。「欧州とアジアの軍事的資産の配分はほぼ均等だが、人員は欧州に偏っており、アジアの言語を学ぶ将校は少ない。北東アジアに執心するあまり、東南アジア、南アジア、中央アジアへの関心がそれてしまいがちである」など現在でも、前提条件が異なりますが、鋭い指摘が目に付きます。

【アメリカの「善意」あるいは「ナイーブさ」】

 「『善意』の怖さ」という軽い話をにわけて書きましたが、アメリカの「善意」ははるかにおそろしく、それが純粋であるがゆえに、世界を振り回します。昨日は、ニューヨーク・タイムスの記事を中心にアメリカの民主化という「善意」の怖さをあえて批判的に描写いたしました。現時点では、ブッシュ政権はそのような「ナイーブさ」をまぬがれていると思います。9.11以来、アメリカが古典的な「帝国」として振舞っていたならば、どれほど今日の世界は安定しているだろうと思うことがあります。他方で、そのような「善意」をもたないアメリカの魅力ははるかに落ちるのでしょうが。

 今回の事件は、第一義的にはパキスタンの人たちの運命に関わる問題です。さらに、パキスタンが核保有国であろうとなかろうと、不安定化はテロリストの温床となりかねない重大な問題です。この問題でアメリカの外交当局は現実的な対応をするだろうとみております。アメリカ議会がどのように行動するかという点では懸念材料がありますが。

 しかしながら、アメリカのメディアが発信する情報を見ておりますと、やはり私たちはアメリカの「善意」あるいは「ナイーブさ」と今後も長期にわたって付き合ってゆかざるをえないだろうと実感いたします。外交にモラリズムを持ち込むことは拙劣でしょう。アメリカ外交の「ナイーブさ」を批判することはたやすいことです。しかしながら、この国もアメリカなしでは生存の確保も困難な状況では、アメリカの「善意」に振り回されることを覚悟しなくてはなりません。安達正興さんが指摘するムシャラフの人情味と優柔不断さはけっして他人事ではないと思います。もちろん、アメリカといえども、理想主義的な発想で外交政策や交渉を行っているわけではありません。その背後には、『アジア2025』のような遠大な思考実験だけでなく、様々な利害計算があります。今後の世界を考えてゆく上で、アメリカの「善意」は不確定要素であると同時に、自由や民主主義、人権、法の支配など古典的な帝国にはなかった支配−従属とは異なる秩序を生み出す可能性もあるのでしょう。

 日本人はアメリカの「善意」に振り回されることを嘆くのではなく、明確な戦略をもってアメリカと接すると同時に、彼の国の価値観を尊重し、最終的には外交において共有する段階へと進んでゆくのでしょう。それは、日本のアメリカ化としてではなく、日本人自身が自らの伝統や規範を明確にし、戦略という点でも、価値観という点でも自らの立脚点を明確にするプロセスと相互に補完してゆくのではないかという「寝言」が浮かびました。それは、単純な「対米追従」でもない「自立」でもない、成熟した日米関係を築くには日本人自身がこれまでの来歴で築いてきた自信を肩に力を入れることなく確固としたものにするいうプロセスそのものに他ならないと思います。そのような立場にいたって、はじめてアメリカ外交の最良の部分に敬意を払い、国益の追求を行う同盟者としての地位を確実なものにすると感じております。

2007年12月29日

ベナジル・ブット元首相暗殺の衝撃

ムシャラフ=ブット体制がおじゃんになっただけではすまない。
替わりの構想が白紙どころか紙がない。

『安達正興のハード@コラム』COLOUMN LEADより


 テレビも見ず、新聞も読まず、「残務処理」を続ける日々です。私の足りないおんぼろの「CPU」をフル稼働させている状態が年末年始も続きます。記事をアップしても、頂いたコメントへのリプライが遅れるかもしれません。ご容赦ください。ふと、安達正興さんのHPを覗いたら、ベナジール・ブット元パキスタン首相暗殺に関するコラムがアップされていて、読みながら、事態が今ひとつ呑みこめず、トップに戻ると、冒頭で引用したテロップが流れていて、わかったというより、愕然としました。慌てて、自宅用のメールを開くと、WPやNYTのいずれもがBenazir Bhuttoの暗殺に関する記事を掲載しておりました。ふだんはまず読まない社説(Editorials)を読むと、"Assassination in Pakistan"(Washington Post)や"After Benazir Bhutto"(New York Times)のいずれも「脳死」状態に見えてしまいます(生意気なことを言えば、社説が「終わっている」のは日本の新聞に限らないでしょう)。今、ムシャラフ大統領の力を弱めてどうするという感じ。世界がアナーキーに近づいているとしたら、アメリカの影響力が、ハードパワー、ソフトパワー問わず、低下し、国内的には「衆愚政治」に近い状態に陥りかねないことでしょう。こういうときには、アメリカ発の情報もあてにならなくなってしまいます。こういう状態のときに、アメリカの民主主義の最悪の側面を覗いた気分になります。「民主化」自体はけっこうな話ですが、パキスタンがこのまま不安定化したらどうするんだと目が点になります。所詮はアメリカはアメリカ。世界「最古」のデモクラシーを誇るがゆえに、その尺度から自由になるのは難しいものです。

 もちろん、ブット元首相に関する報道は冷静なものも混じっていますし、パキスタンの民主化という点ではアメリカ人らしい人間味を感じる映像コラムも多く、それらを全否定するつもりはありません。ただし、全体の論調は、「続き」の「関連資料」で年表式でまとめたムシャラフ政権の「非民主性」への批判があまりに強い印象があります。また、ムシャラフ政権への経済・軍事援助や暗殺直前までのムシャラフ=ブットの提携への後押しなどブッシュ政権の対パキスタン政策への批判も目立ちます。ありていにいえば、そのようなことに手を染めずにパキスタンが民主国家として自立し、テロとの戦いに加わることが望ましいのは当たり前でしょう。それができない制約を無視した「正論」は、いかれた「外道」には空理空論のように響きます。

 暗殺されたブット元首相を追悼するのが本来ですが、いかれた「外道」はこの衝撃的な事件の影響にすぐに目移りしてしまいます。今回の暗殺の「マグニチュード」を測ることは素人には難しく感じます。日本の新聞を読むと、主としてパキスタンでの自爆テロと暗殺に関して(1)核保有国での政治テロという点と(2)対テロ戦争への影響という視点から見ているようにも感じます。もう少し突っ込んだ報道がほしい気もいたしますが、案外、妥当な線かもと。すっきりはしないので、『世界の論調批評』から「中央・南アジア」のカテゴリーを読んでいると、アメリカによるムシャラフ政権批判はかなり根強いことがわかります。この点を考えるために、(1)パキスタンの政治体制の安定化とアメリカの関与、(2)核の問題という2点から大雑把ですが、考えてみます。

 ムシャラフがアフガン戦争の遂行、アルカイダ幹部シェイク・ムハンマドの逮捕、そして最近ではイギリスのテロの未然防止に貢献したことを考えれば、彼が日和見主義者でイスラム勢力と組んでいるかどうかよりも、必要な協力をしてくれているかどうかの方が、重要ではないかと思われます。つまりパキスタンの内政はパキスタン人にまかせ、国際政治上の配慮からムシャラフ政権との関係を維持していくのが賢明ではないかと思われます。なおハリソンは民主選挙を強く推していますが、選挙で世俗政党が勝つとは限らないのは、最近のパレスチナやレバノンの例からも明らかです(「パキスタンのムシャラフ政権批判」(2006年9月5日))。

 上記の記事では、やんわりとですが、性急な民主化を求めるアメリカ国内の風潮に釘を刺しています。また、「ムシャラフのタリバン政策を批判」(2006年11月6日)では、パキスタン軍が親タリバンであること、ムシャラフという抑制を失うことの損失の大きさが指摘されています。核の問題を除くと、ほぼ基本的な視点が提供されていると思います。もっと露骨に言えば、(1)アメリカと諸条件が異なる国に民主主義を求めても幻想にすぎないこと、(2)急進的な「民主化」は親米的な政権を退けてタリバンに対して宥和的というよりも類似の政治ポジションの反米的な政権を生みかねないこと、(3)軍を抑制できる人物が権力を握っていないとパキスタンがさらに不安定化しかねないことなど、言いにくいのですが常識にもとづいた分析でしょう。

 その後を追ってゆくと、アメリカの「世論」の怖さを実感します。「対ムシャラフ強硬論」(2007年10月9日)ではNYTの社説"Gen. Musharraf Cynical Win" が紹介されています。(1)ムシャラフは対テロ戦争での貢献が小さい、(2)ムシャラフとブットはいかがわしい取引(General Musharraf's back-room deal with Benazir Bhutto)をしておりブッシュ政権はその取引を奨励している、(3)パキスタンを民主的な文民支配の体制へ移行させるべきであるなどのことが主要な内容のです。これに対し、過激派が核兵器を保有する権力を掌握する虞を指摘した上で、「『最善を求めて、最悪をもたすことになる』のを避けるよう、常に注意する必要があります」という厳しい批判がされています。NYTの社説は、パキスタンの政治や社会情勢を無視したアメリカ国内のナイーブな民主化論の典型を示しているのでしょう。

 この社説からブッシュ政権の政策を読みとることは危険ですが、(1)ムシャラフ大統領による軍の掌握を認めたうえで、(2)過激派の台頭を抑えるべくムシャラフとブットの連携を後押しし、(3)不完全ながらも漸進的に民主化と文民への権限委譲を進めるというあたりが基本なのでしょう。民主的な選挙をムシャラフとブットの連携なしに行った場合、まさに民意の反映として親タリバン勢力が、単独で権力を掌握することは現状では困難でしょうが、政権運営に無視できない力をもちかねないでしょう。もちろん、ムシャラフとブットの連携は親米路線を維持するという利他的な動機からではなく双方の打算による部分が大きいと思いますが、アメリカの関与の下ではパキスタン国内の情勢を安定化する効果を持ったのでしょう。NYTの社説は、アメリカの選択肢が限定されていることを無視するという点ではあまりに楽観的かつ理想主義的であり(露骨に言えば現実軽視)、"civilian democratic rule"を無条件に軍事政権による支配よりも望ましいと考えるという点では傲慢とすら映ります。ブット暗殺による最大の懸念は、ムシャラフ政権が維持できるかどうかであり、さらに維持できたとしても、現状のように反米勢力を抑える重石たりうるのかという点だと考えます。ブットを「民主化の旗手」と見るのはあまりにナイーブです。暗殺の効果の第一は、パキスタンが過激派によって左右され、単に対テロ戦争から離脱するだけでなく、最悪の場合、パキスタンが反米勢力の温床となりかねないという点に尽きてくると思います。

 次の問題は、パキスタンの核です。『世界の論調批評』では「パキスタンの核の行方」(2007年11月18日)でNYTの記事"Pakistan Collapse, Our Problem"(Frederick W. Kagan&Michael O’Hanlon)を紹介しています。 この記事では、パキスタン政府の支配が完全に崩壊して極端なイスラム主義者がとって代わり、中央の統治が行き渡らなくなった地方が部族的に分裂しタリバンやアルカイダとシンパシーを抱く少数勢力がパキスタンをテロ支援国家へと導くという最悪の事態を想定しています。先ほどに見た「民主化」の最悪の帰結はここまで恐るべき事態ではないかもしれませんが、全く切り離して考えることはできません。パキスタンの人口は約1億6千万人でイラクの約5倍以上だと指摘した上で、パキスタンが「破綻国家」となった場合、安定化する任務には百万単位の部隊の派遣が必要だと指摘しています。そうなる前に穏健な勢力との協力関係が必要だというごく常識的な指摘をしています。さらに、核兵器や関連物資などに関する情報があてにならなくては、これを破壊することは不可能であると明確に指摘しています。ここで想定されていることは、軍事的に最悪の状態を想定するという極端といえば極端なことですが、パキスタンの核問題を論じる際にも、パキスタンの政治体制の安定化とアメリカの関与が不可欠であることが、イデオロギーや政治的思惑を排した軍事的現実を論じているために、かえって明確になっていると思います(なお、「またイラクの増派作戦はフレデリック・ケーガンの論をベースにしており、彼の軍事合理主義は増派作戦の成功によって既に実績をあげています」というこの記事の最後の指摘も本題とは直接関係しませんが、押さえておくべき点だと思いました)。

 以上は、『世界の論調批評』を手がかりにごく一部ですが、アメリカの論調を見てまいりました。ここでは、リベラルな見解を批判的にみてきましたが、現実的な立場から見れば、ブット暗殺以前の方策は、「パキスタンに関しては、ムシャラフ以外に適当な指導者が見当たらなければ、非常事態宣言後の今でも、ムシャラフ・ブット共同政権の樹立を出来る範囲で後押しするのが最も適切と思われます」(「パキスタンへの過度の干渉を批判」(2007年11月7日))ということに尽きていたのだろうと思います。ブット暗殺の「マグニチュード」は、まさに限られた選択肢の中で最も望ましい(リベラルには手続きや倫理的な点から批判が多いとはいえ)選択肢が消えてしまったということなのでしょう。この事件がただちにパキスタンの不安定化をもたらすわけではないかもしれませんが、ムシャラフ政権に代わる選択肢が存在しない以上、アメリカはこれを支援し続けるしかないのでしょう。この記事では、今後のパキスタン情勢がどうなるかということを示そうとしたのではなく、現状を大雑把に確認したにすぎません。安達さんのコラムや『世界の論調批評』のスタンスは、アメリカ中心の見方ではないかという疑問もあるでしょう。しかし、アメリカの関与がなくなったときに起こりうる事態を想定すれば、パキスタンへの関与は、第一義的にはアメリカの国益にもとづいているのは当然としても、その関与によってパキスタンが安定化し、反米政権ができないことがパキスタンがテロ支援国家にならないという点で他の先進諸国の利益ともつながっている点を忘れてはならないと思います。


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2007年12月28日

カビの生えるパン カビの生えないパン

 安達正興さんからコメントを頂いて、緊張しました。いつもコラムを拝読しているのですが、刺激がとてもあって、はっと目からうろこが落ちたり、ずばっと核心の部分を衝かれてさすがと思うことが多いです。そんな憧れの方にコメントを頂くと、嬉しい反面、緊張したりします(かんべえさんとメールを頻繁にやりとりしていたときにはもっと初々しい気分だったのですが、今では……)。かんべえさんとのお付き合いは古いご様子で、あらためてかんべえさんの人と人とのつながりの広さに感服いたしました(ちなみに、昨日の不規則発言中の「○○」は頭髪だったでしょうが、あえて上品なかんべえさんを貶めるべく深読みをしております。まあ、「ま○」あるいは「○ら」というのが世間相場ですが、かんべえ師匠はもっと上品だという確信の下にやや上品な表現にしておきました)。少しだけ含羞がありますが、師匠と仰いだのはよかったなあと実感いたします。おそらく、私は「借金」ばかりで申し訳ないのですが。

 さて、昨年の今頃はどうしていたのだろうと「寝言」を読み返すと、イラク問題が喉元にひっかかっていたのだなあと思います。あとはピラティスでしょうか。思うと、昨年はブログを書き始めた最初の年一年目ということもあってずいぶん力んでいたなあと。もっとも、実生活でも強烈な負荷を強制されたり、自分に課していたこともあって、テンションが高かったように思います。今年は、安逸に流れましたので、来年は等身大に戻っていろんなことをこまめに整理してゆく年になりそうだなと思っております。

 徐々に「充電」してゆく予定ですので、今日は身辺雑記です。今、両親は名古屋市内ではなく、そのやや東に隣接している市に住んでおりますが、今年も帰省はしない予定です。縁が薄いと響きそうですが、両親も「公式の理由」は寒いので、将来のある私に風邪をひかせないという親心で「帰省しなくても大丈夫」と言ってくれます。「本当の理由」は、夫婦二人で3LDKの分譲マンションに住んでおりますが、実は、私が帰ってくると部屋が足りません。この準備が実に面倒でして、とくに母上に負担をかけてしまいます。実家ではベッドを使わないこともあって、ベッドに慣れている私にはやや眠りが浅くなります。このあたりは双方の思惑が一致しております。

 実は、さらに深い理由があって、私の家族では朝はパン食が定着していて、一人暮らしになってからも、この習慣は変わっておりません。一人で食べるパンは、オーソドックスな食パンでして、近所のパン屋さんでその日に入荷した一斤のパンを4枚や5枚、6枚などにスライスして販売しています。私がよく食べるのは4枚入り(220円)と6枚入り(270円)です。管理が大変なのは夏場でして、翌朝食べるパンを買ってくるのですが、翌朝、一枚を食べてから残りをただちに冷凍しないと、その日のうちにカビが生えてしまいます。冬場は、室内温度を抑えているのと乾燥していることなどから、まずカビが生えることはありません。このパンに出会ってから、風味もなんともいえないナチュラルな香りがよいのですが、カビもつかないパンを食べる気がなくなりました。しかるに、実家では、メーカーの名前を出すのは控えますが、腐りにくいパンを食べております。これが非常に抵抗が強く、両親には内緒ですが、朝食を際に食欲がないからと逃げております。カビも生えないパンというのは、なんとなく食べる気がしなかったりします。

 最近は、堕落のきわみですが、自炊が減って近くのお惣菜屋さんでたいていのものをそろえてしまいます。このお店を信用していなかったわけではありませんが、買い始めた頃はわざと食べ残して、翌日にどの程度、食べることができるかを試しておりました。さすがに、お惣菜屋さんで保存料や防腐剤を多用しているところは少ないのでしょうが、私が自炊したときと同じように痛んでゆくものを選んで買っております。だいたい、晩御飯で700円から1000円程度を使いますので、けっこうな出費ではありますが、一人暮らしですと、翌日も同じ副食でも意外と高くつくことが多いですし、バラエティが多いので、利用頻度が上がりました。このお惣菜屋さんは、街の商店街にあるのですが、品物によってはやや濃い味付けだったりすることを除くと、なかなか品揃えがあります。

 今年は食品偽装問題が話題になりましたが、私が口にしないものばかりであったせいか、あまり関心がありませんでした。消費者の側からすれば、品質や原材料に関する情報を完全に入手することができない以上、不安になるのはやむをえないのでしょう。供給側が情報を的確に提供するのが望ましいのですが、売り手が営利がなくてはやってゆけない以上、難しい部分も残ります。あまり利巧な「自主防衛」ではありませんが、「カビの生えないパン」、「日持ちのよすぎる惣菜」は買わないというアバウトな基準で選択しております。あまりお勧めできる「自主防衛」ではありませんが、手軽に判別できるという点では、ちゃらんぽらんな私には妥当かなと。

 食べ物とは関係がありませんが、意中の異性に「虫」もつかないなんてちょっと寂しいじゃありませんか。私の判断基準は、まず同性受けがよくて、次に「虫」が適度によってくること。でも、私自体が「蚊」程度のことが多く、相手を追いかけても追いつけないという「残酷な現実」があります。最低の基準すら、女性が相手となると非常に冷酷な現実を思い出して気が沈みましたので、今日はこの辺で失礼いたします。
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2007年12月27日

冬休みの「宿題」

 思わず昨日の記事を自分で読んでいたら、タイトルの脱字も痛いのですが、気が重くなってしまいました。この状態が、善悪是非はともかく、解散総選挙で政権が維持されると、短くても2010年まで、その時点で変化がなければ、いつまで続くかわからない状態。読売新聞(YOMIURI ONLINE)の記事によると、福田総理が「来年は大いに期待してますよ。変わるんじゃないかな。そう期待して一生懸命やります」との記者団に話したそうで、茨の道がしばらくは続くのでしょう。「短気は損気」とか気の利かない「寝言」ばかりが浮かんでしまいます。周囲も沈黙してしまう話題はよしにして(こういう無責任さがわが「真骨頂」)、別のお題を考えたいところですが、どれも中途半端な状態です。ざっと考えていることだけ、並べてみましょう。

(1)スウィフト『奴婢訓』(深町弘三訳、岩波書店、1997年(復刻版))

 谷島宣之さんの『さよなら技術馬鹿』というシリーズの中で、「究極の正義漢が書いた究極の提案書」(2006年7月10日)というエッセイがありました。その中で、『奴婢訓』に収められている「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」というパンフレットが収録されているとのことです。谷島さんのエッセイでは、岩波文庫の解説に「スウィフトは常に冷然としている。そして、恐ろしく生眞面目で、本氣である。(中略)極めて論理的である。そして、そこに感情が少しも伴わない。heartless logicである。スウィフトの風刺の本質は、理知と合理性にある。だが、合理性も論理の極端にまで行くと狂氣になることは、フランス革命などの證明する所である。rational madnessがスウィフトの晩年の作に見られる所以である」という記述があるそうです。ごく一部、引用でしか読んでいないのですが、こういう判然とはしないけれども、私の考えていることの中心に関連しそうだなと思いました。まだ、品切れになっている原著を入手していないので、この訳書の成立時期など詳細は不明なのですが、谷島さんの解釈とは異なった印象を受けたので、"heartless logic"と"rational madness"の関係について解説を読んでみたいと思いつつ、そのままになっております。入手したら、粗いながらも考えてみたいところです。「ある敗戦国の幸福な衰退史」に直結する話ではありませんが、時代の雰囲気を反映した近代合理主義なるものをいろいろな側面から捉えてゆきたいというのがねらいでしょうか。

(2)デカルト『方法序説』(落合太郎訳、岩波書店、1953年)

 『省察』とあわせて読みたいのですが、『省察』が行方不明になっていたので、なんとか単独で読みきりたいものです。いきなり西洋哲学史を勉強するのはつらいのですが、日本人の哲学書はなんとなく図式的すぎますし、哲学史自体を勉強したいわけではありませんので、無謀ですが、14年ぶりぐらいに原典を読んでみようかと。深い意味はないのですが、子供のときに読んで、まるでわかっていなかったと思いますが、デカルト的な発想は原典を離れて、私の価値観のコアな部分とかさねって来るところがあります(ちょっと大風呂敷がすぎる気もしますが)。「近代合理主義」の原点として『方法序説』は、近年では批判の対象にもなっているそうですが、そういう面倒なことを忘れて「私の計画は人人がその理性を正しく導くために従わなければならぬ方法を教えようとするものではない。ただ単にどんなふうに私の理性を私は導こうと努めたかを示したいだけである」(14頁)というデカルトの言をありのままに受けてとめて、「革命と硝煙の時代」であった19世紀に至る道筋を無視して、楽しんでみたいというところでしょうか。

(3)高橋留美子『めぞん一刻』(小学館)

 ここまでスクロールしていただいた方は、ただ脱力するだけかもしれません(脱力する方がまともなのであって、展開が読めてたよんなどと思った方は既に「寝言脳」になっている可能性があります。残念ながら現時点で「治療法」はありませんのお気の毒です。まあ、私みたいな脳みそというのは同病相憐れむというところでしょうか)。麻生閣下の趣味を真似るわけではありませんが、漫画は当時の世相を現す部分があるわけでして、1980年代の描写として最近になって意外な面白さがあるなあと。『らんま1/2』が途中で挫折したので、コーナーを作るつもりはありませんが。最近、小説を読めなくなったせいか、このような、ありがちといっては失礼ですが、ラブコメで描かれている背景の方に目がいってしまいます。ちなみに、私が学生時代に最初に下宿したところは、めぞん一刻とは場所もまるで違いますが、共用トイレに電話は呼び出しと似たような状態で懐かしさもあります。

 気がついたら、年賀状はまったく手付かず。年末は「寝言」も手抜きモードでしょうか。それにしても、「宿題」を「採点」するこわーい先生もおりませんので、とりあえず、食べては寝るという正月を過ごしそうなダメ人間への「抑止力」になれば……。たいていは挫折しちゃうんですよね(弱気)。


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2007年12月26日

サイレント・マイノリティのため息

 まずは「事務連絡」です。コメントスパムがこの5日間程度、まったくこなくなりました。他方で、コメントを頂戴しておりますので、コメントおよびトラックバックに関しては、受付後、私の承諾なしで反映されます。なお、過去の記事でスパムが集中した記事に関しては、今回よりもかなり前にスパム対策をしている記事があるかもしれません。自分でもどの記事であるのかは覚えておりません。どの記事が該当するのか確認するには一つ一つの記事ページをチェックしなければならないので、あまりに手間の多い作業です。ご了解ください。

 最近は、経済や金融、産業などに関する記事が増えております。それぞれの記事に関して有益なコメントを賜った方々にお礼を申し上げます。また、アラメイン伯様には刺激的なコメントを賜りました。最近、ネットでは「出不精」になっておりますので、あらためて落ち着いたところで、こちらからも参らせていただきます。

 さて、今日のお題は、財政と金融です。とは言うものの、実際には、安達正興さんかんべえさんに便乗しようという軽い話です(気がつくと、お二人とも実は岡崎研究所つながりでサイトを知ったという、偶然があります)。安達正興さんは「サブプライム基金、爽快に頓挫」という記事で、懐かしの吉牛コピペなら「ウォール街ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ」というノリで非常に爽快でした。まずは、アメリカ国内でちゃんと対策を打つことが先決でしょうね。各国の対応が確立していない状態で無理に「国際協調」という美名を掲げても、所詮、無理なものは無理。なにしろ、損失の総額すら見えない状態で(『日経』は世界全体で10兆円という金額をだしておりますが)、慌てる必要はなく、中央銀行レベルの資金供給という点では協調体制はありうるのでしょうが。

 かんべえさんは、「不規則発言」(2007年12月25日)「埋蔵金伝説」のフォローでこれまたよくまとまっているなと。ただちに長期金利が上昇するリスクを織り込むのは早いとは思いますが、余剰金の趣旨などがちゃんと説明されれば、「埋蔵金」と騒ぐほどのことでもないと思います。かんべえさんが財政融資資金特別会計に関する財務省の対応を肯定的に評価していて、政党・役所・マスコミを叩くばかりのネットの風潮には辟易しているので、安心感があります。マクロレベルのISバランスのみから財政の維持可能性を議論するのは無理でして、日本の国債市場の特殊性のほうが大きいのでしょう。枠組み自体が粗っぽい会計程度の話ですし、貯蓄超過を吸収するのは政府部門だけとは限りません。そうなっているのは、金融機関のビヘイビアが大きいわけで、これが変わってくると、貯蓄超過の状態でも、財政は更にタイトになる可能性があります。当面は、変化の可能性が低いでしょうが、財政再建は「マラソンレース」ですから、現状で貯蓄超過が政府部門に回っている状態を長期間にわたって持続すると考えるのは、危険だと思います。

 経済の面から見ると、来年は厳しい一年になりそうですが、この国全体を見ると、政権交代「リスク」が最大の不安定要因にも見えます。韓国大統領選が終わったあとの忘年会で韓国も政権交代したし、オーストラリアも同様で、次は日本かなと話題を振ると、重苦しい雰囲気に。30代が中心だったので年金などは話題になりませんでしたが、「補給活動を認めない民主党が政権をとったら、日米関係は大丈夫ですか」という疑問をもっている人は少なくないようです。アメリカとの関係をマネージできない政党が政権を担うのは無理だろうというのが、私自身もそうですが、周囲の同世代では非常に多い印象があります。逆に言えば、外交や安全保障でコンセンサスが形成されれば、政権交代への抵抗感は意外と少ないのかもしれません。

 「大連立」や問責決議案の提出、解散・総選挙のタイミングなどテクニカルなことにはあまり興味がないのですが、外交や安全保障など国の安全に関わる致命的な問題でコンセンサスのないまま、政権交代というのは私ぐらいの世代では、私の知り合いの範囲にすぎませんが、望まない意見が多数です。年金記録問題や薬害肝炎への対応で政権与党への信認は下落する一方ですが、与野党問わず、より根幹にある安全に注意を払っている30代の「サイレント・マイノリティ」もいるということを忘れないでいただきたいと思います。

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posted by Hache at 02:32| Comment(3) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2007年12月24日

無限に広がる合理性 そして反発

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:久しぶりだが、相変わらずだなあ。それにしても、よく寝ておる。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:いつ来ても、変わらぬ景色、変わらぬセリフ。感動するぞ。
ハッシュ:……なぜ感動するんじゃ?
ボッシュ:……皮肉の通じない御仁じゃ。何度、来てもだな、おぬしが寝ていて、ワシがしゃべると、目を覚まして、「なんじゃ。また、おぬしか」で始まる。これだけ同じ状態を見てしまうと、おぬしがふだんと違うことをしゃべる方が怖いぐらいじゃ。久しぶりだがな。
ハッシュ:久しぶり?
ボッシュ:10月だったかな。それ以来のはずじゃ。
ハッシュ:よくわからぬが、間が空いていたということかね?
ボッシュ:あのデブは間が抜けておるが、こちらは間が空いたというわけじゃ。
ハッシュ:そういえば、この前は海外に行くとか言っておったではないか?
ボッシュ:もう店はワシがいなくても回るし、ワシができることといえば、ガルディアのワインの確保ぐらいじゃな。ココにとばされる前には見ておらなかったところも見てきたし、満足じゃな。今日は、クリスマス・イブとやらで店も貸切なんだが、ワシも飲まされるので、逃げてきたというところじゃ。それにしても、年をとると、酒がこたえる。ところで、あのデブはどうじゃ?
ハッシュ:まあ、相変わらずというところかな。ない頭をひねってはああでもない、こうでもないとまるで進歩がない。考えても、あのデブの頭で考えることなど「寝言」にすぎんのだから、やめてしまえばよいのにとも思うが、執念だけはあるようじゃ。
ボッシュ:たいてい無意味なだけだと思うが。それにしても、なにをそう思いつめておるんじゃ?なぜ痩せないのかとかなぜもてないとか考えてもムダだな。それはそれ、運命と思うに限る。
ハッシュ:それが言いにくいんじゃが、そういう自分のためのことを考えればよいのに、どうもそうではないから変なデブじゃ。この前も、少しだけ記憶をたどったら、経済がどうたらこうたらで頭が一杯だったな。
ボッシュ:……。あのデブはじゃな。人様のお金の心配をする前に、自分の預金通帳の残高の寂しさを心配するのが先というものじゃ。あるいは、あのデブが息をするたびに二酸化炭素を吐き出す。環境破壊そのものじゃ。それに見合うぐらいの仕事をしておれば、まあ、生き続けてもよい。
ハッシュ:これは笑ってはかわいそうだが、自分の考えが正しいということを保証するのはなんだろうと考えが進まないらしい。だいたい、あのデブが生きているということ自体、なにかの間違いだということまで考えが至らないようじゃな。
ボッシュ:……。ワシもひどいことを言っておるが、そこまでは言っておらぬぞ。
ハッシュ:今年の始まりにもあのデブに考えさせようとしたんだが、どうもダメだな。あのデブが生きておること自体が悪い冗談じゃ。あのデブがくしゃくしゃとピザを平らげている間にも、飢えで死んでゆく者がおる。時の最果てにおるワシですら、簡単に気づくことにまるで鈍感じゃ。
ボッシュ:今日は、ワシの役をおぬしがしておるような気がするな。それにしても、自分の考えが正しいかどうかを考えること自体が事実であることを保証するものなど何もあるまいに。あのデブの脳内で起きていることが事実であることを保証するものなど誰もおらぬ。
ハッシュ:……。言いにくいんじゃが、ワシは追体験とはいえ、あのデブの考えを見ることができる。もっといえば、あのデブだけではなく、おぬしの考えも含めて、ココに来たことのある客人全てのな。
ボッシュ:ということは、おぬしはワシたちの神ということか?この手の話を神抜きで進めようとすると、気が狂うか、話をごまかすか、逃げるか、居直るか、どれでもよいが、なかなかに難しい。
ハッシュ:いや、ワシが客人の考えを追体験できると思い込んでいるだけで、疑い出せばキリがない。こういう問いの答えなど人の数だけ合ってよいのだが、そうもゆかぬというところが悩ましい。
ボッシュ:ワシには訳がわからんのじゃが。人の数だけあるというのではダメかね?
ハッシュ:人の数だけあるということを保証するのは何じゃという問題があって、あまり問い詰めない方がよいのじゃが。特にあのデブはな。あのデブは「個人主義」と呼んでおるだが、実に底の浅いことしか考えておらぬ。まあ、ないなりに頭を使うこと自体は金もかからぬし、趣味としては安上がりじゃ。
ボッシュ:ワシにはようわからんのじゃが、あのデブに考えてもらうとするか。はあ、そろそろ戻って、残り物を少しだけ頂くことにしようかのお。それでは、お暇じゃ。
ハッシュ:また、おいで。

 珍しく静かな話ですな。書記係としてはもう少し短くしていただけると、助かるのですが。クリスマスというのは、一人暮らしをするようになってから特別な日ではなくなりました。年齢を考えると、プレゼントに悩んでいなくてはならないのですが。

 そんなわけで、今日はデカルトの『方法序説』とハイエクの『隷属への道』をボーっと読んでおりました。ハイエクの方は、西山千明氏による訳(春秋社 1992年)ですが、悩ましい文章があります。

 誰も、すべてを包括する価値尺度を持つことができない、つまり、入手可能な資源を競って求めようとしている、人々の無限なまでに多様なニーズを、完全に把握し、それぞれに価値づけを与えることは、どんな人間にもできない、と指摘するだけでは不十分であろう。また、今問題にしていることに関するかぎり、その個人が実現しようとしている目的が満たすのは、自分だけのニーズなのか、身近な人々のニーズなのか、あるいはもっと一般的な人々のニーズなのか、ということ――も、さして重要なことではない。
 きわめて重要なことは、どんな人間であろうが、限られた分野以上のことを調査することや、ある一定の数以上のニーズがどれだけの緊急性を持っているかを考慮することは、不可能であるという、基本的な事実である。自分の物質的な必要にしか関心のない人であれ、すべての人間の福祉に熱い関心をもっている人であれ、考慮できる目的の数は、全人類のニーズ全体に比べれば、きわめて微小な一部にすぎないのである。
 まさにこのことこそ、個人主義の全哲学がよって立つところの、基本的な事実である。個人主義哲学は、通常言われているように、「人間は利己的でありまたそうあらねばならぬ」ということを前提としているのではなく、一つの議論の余地のない事実から出発するのである。それは、人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分にすぎないということである。また、厳密に言えば、価値尺度は各個人の心の中にしか存在しないから、常に部分的なものであり、それぞれの尺度は、決して同じではありえず、しばしば衝突しあうものとなる、ということである。だからこそ個人主義者は、ある範囲内で個人は、他者のではなく自分自身の価値観や好みに従うことが許されるべきであり、その範囲内では、自身の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図の対象ともされるべきでない、と結論するのである。個人主義者の立場の本質を形成しているものは、このように各個人こそが自分の目的に対する究極的審判者であるとする認識であり、各個人はできるかぎり自身の考えによって自身の行動を左右していくべきだという信念である(前掲書 73−74頁)。


 おごり高ぶっているように響くかもしれませんが、最初に読んだときにあまり目新しく感じませんでした。あまり深い意味はないのですが、デカルトを読みながら、あらためて自分がちゃらんぽらんな人間であることを深く自覚します。「私は考える、それ故に私は有る」(落合太郎訳、岩波文庫、46頁)という背後に広がっている世界のなんと広いこと。そして、無限を志向する合理主義と合理主義の「傲慢」への反発としてのハイエク流の個人主義が私の中で雑然と存在していることを感じます。

 この「雑居」が好ましいとは思えないのですが、少しだけ自分の時間をとることができるようになりましたので、ちょっとだけ寄り道をしてとても一生かかっても、どれほどの「世界」を見ることができるのか。私にとってはデカルトが「旧友」であり、ハイエクは、あくまで『隷属への道』程度ですが、大人になってからの「お友だち」ですが、両者の折り合いは、私にはあまりに難しく感じます。本当は私なりの「流儀」を確立したいものですが、「雑居」のまま終わるのかもしれないと「世界」の広さに呆然とした一日でした。

2007年12月23日

外航海運に関するメモ

 年末であちらをフラフラ、こちらをブラブラしております。欠けているのは「ラブ」でしょうか。おかげで今年もクリスマス・イブに余計なお金を使わずにすみそうです(涙)。そんな「不都合な真実」というよりも、あまりにも残酷で冷たい「悲惨な現実」から目をそらして、情報や知識に関しては「入超」という「厳しい現実」に直面しましょう。いろいろ刺激を各所で頂いておりますが、これは恥ずかしながら知らなかったという話です。

 スライドを目で追いながら、外航海運が独占禁止法の適用除外であることを知らず、恥ずかしい思いをしました。ありゃまという感じでしょうか。公取は適用除外を解除しようというので、目が点に。海運には土地勘がまるでないので、適用除外ということは、カルテル、あるいはそれに類似する協定を容認していることかなと思いながら、事情を聴いていると、考え込んでしまいました。米国では1984年海運法で二重運賃が廃止され、最近になって反トラスト法の適用除外の撤廃が検討されているとのこと。また、EUでは適用除外が検討され、解除が決定している。他方で、EUなどでは外航海運の寡占化が進んでいるという指摘がありました。この状況下で日本が独禁法の適用除外を解除すると、次のような事態が予想されるとのことでした。

(1)当初は、競争の激化によって運賃が低下する。

(2)他方で、外航海運では自然独占性が存在する可能性がある。

(3)このため、主として国際的に見て規模が小さい邦船社が撤退する、あるいは外航船社の支配下に入る可能性がある。

(4)結果として、適用除外の解除によって独占または寡占価格が設定され、運賃が結果的に上昇してしまう可能性がある。

 問題は(2)の自然独占性の有無でして、これが存在しなければ、競争が非効率であるとはいえないでしょう。逆に自然独占性が存在する場合には、競争が結果的に非効率となる可能性があります。土曜日の勉強会で伺った範囲では、自然独占性の有無に関しては明確な結果がえられていないとのこと。これは、思ったより面白そうです。ただし、これらは船主協会と国土交通省の立場からの説明です。公取の立場がよくわからないので、帰宅してから、公正取引委員会のHPを見てみました。

 サーチャージや安定供給など私の知識では危ういので、2006年の報道発表から12月6日「外航海運に関する独占禁止法適用除外制度について」と付随文書である「規制研報告書」と「参考資料集」を読みました。これを読むと、海運同盟の歴史から最近の主要航路に関するデータが揃っていて、読み耽ってしまいます。まず、欧州航路・北米航路・日中航路のいずれでもHHI(ハーフィンダール・ハーシュマン指数)が低下し、上位5社累積集中度(CR5)も低下していることが読みとれます。欧州航路ではPIL(シンガポール)とWang Hai(台湾)が共同で新規参入し、ANL Container Line(オーストラリア)が新規参入したことがHHIやCR5の低下につなっがと分析されています。他方、Maersk Sealand(デンマーク)とP&O Nedlloyd(オランダ)の合併によって欧州航路・北米航路で20%のシェアを占めることになることも触れられています。新規参入が進む一方で既存キャリアの再編が進みつつあることが読みとれます。新規参入が進んで市場が競争的になり、既存キャリアは合併などを通して生産性や費用効率を高めているのかもしれません。ただし、残念ながら、外航海運の自然独占性の分析は見当たりませんでした。

 規制緩和あるいは自由化の効果を評価する際に、(1)効率的な事業者による参入、(2)競争による既存事業者の生産性向上や費用削減、(3)新規サービスの創出、(4)価格の低下による消費者の厚生の増大などが主要な指標となります。これらのすべてを満たさなければ、規制緩和の効果が薄いというわけではありませんが、当該市場で自然独占性が強い場合、新規サービスの創出以外の効果はあまり見込めないでしょう。まず、自然独占性の強い市場では新規参入自体が非効率となってしまいます。したがって、競争によって既存事業者の生産性の向上や費用効率を高めるインセンティブを与えることは困難になります。社会的に見ても、新規参入は非効率になってしまいます。また、価格規制を外してしまうと、既存事業者の市場支配力が強化されてしまうため、価格は、新規参入者を排除する期間には低下するでしょうが、排除してしまうと価格が上昇するでしょう。

 外航海運において自然独占性が存在するのかは、私の貧しい知識ではわかりません。ただ、他の分野の専門家に尋ねると、自然独占性が存在する可能性が十分にあるとのことでした。今は、他にも仕事がありますのですぐには手が回りそうにないのですが、年末最後の勉強会で面白いネタを入手できたのは収穫でした。

 それにしても、まだまだ自由化の流れは続くようです。先に示した自由化の成果の評価は、ごく一部にすぎません。1980年代のように民営化も同時に進んだ分野では、補助金の削減など多様な側面から評価する必要もあります。海運に関しては、勉強会で話を伺った際にはドメスティックな部分に偏っていたような気がいたします。これは、変化というものに留保をつけがちな私の性癖かもしれませんが、1980年代の自由化よりも今日の自由化は市場がグローバル化した現実を後追いしている側面が強いように思います。地球的規模である産業が自然独占性をもつということは考えにくく、旧来の慣行が強く残っている分野ではグローバル化へ対応すべくルールを見直してゆかざるをえないのかもしれません。他方で、国際市場といえども、ローカルな市場の組み合わせという側面もあるのでしょう。各地域の独自性が再び強く作用する場合には、自由化の内容も変化してくる、そんな感覚があります。

 そんなわけで、年明けもいろんな分野をブラブラしそうです。たぶんですけど、欠けているのは「ラブ」という状態は変わっていないのでしょうね(号泣)。

2007年12月21日

「グランドデザイン」のない国際経済

 まあ、「パニック?」というより、「パニック一歩手前」という状態でしょうか。モルガン・スタンレーが9−11月期の決算で96億ドルの損失を公表したという話を最初に見たのがこちら。「ニューヨークの金融業界のメルトダウンのような事態」というおっかない表現を見て、ちとびっくり。ただし、記事そのものは冷静で先進国間の協調体制にSWFをのけ者にするのは難しいという論調が基本だなと思いました。

 あとは、予想が外れてご本人がパニックの状態になっているので読むのが苦痛だったりします。エコノミスト、エコノミストの批判をする人たち、どちらも事態を冷静に捉えることができない人がほとんどではないかという印象をもってしまいます。予想が外れて混乱している人たちが多数派になっている状態をパニックと定義するなら、ネットの一部は既にパニックなんでしょう。伊藤洋一さんを除くと、冷静な観察が少ない印象があって、中国のマネーがアメリカの投資銀行に入ることによる効果もまるでわからない。「米中融合」へ過度に重点をおくと、事態がわかりにくい印象があります。

 他方で、伊藤洋一さんは金融市場の混乱による米国債の値上がりという日本側の利益を認めながら、それ以上に事態が進んだ場合、日本も政府系ファンドの活用を考えるべきだという主張をされていますが、かんべえさんの記事を読むと、かなり厳しい印象。CICがMSに出資した金額が50億ドルですから、今から政府系ファンドを立ち上げても間に合わないかもしれません。資金が仮にあっても、それを活用する人材がいないのでしょうから。それにしても、MSの次はどこと不謹慎なことを考えていたら、あっさり「次」が出てくる始末。

 伊藤洋一さんの2007年12月21日の記事によると、メリルリンチも50億ドルのテマセックから資本注入を受ける可能性があるとウォール・ストリート・ジャーナル紙が報道したとのことです。こうなってくると、危機が収まったときに起こりうるであろうことよりも、危機の「マグニチュード」(最近ではガルですか)がまるでわからなくなります。確実なことは、資本注入など欧米の圏外の政府系ファンド(SWF)を頼らざるをえないということで、欧米諸国の中央銀行の協調だけでは解決しそうにないということでしょうか。おそらくは、「震源地」であるアメリカがもっとも失うであろう資産が大きく、EU圏が次というぐらいで、まるで規模がわからない。大手金融機関が「招かざる客」を投資家に加えたことには各国内の投資家の反発が強まりそうで、どうなりますやら。素人の目に映るのは、経済的依存のレベルでは先進国だけで「新しい中世」とはならないかもしれないということでしょうか。

 SWFの実態は素人にはよくわかりません。ノルウェーの「国家石油ファンド」の場合には、安達正興さんによると、非常に厳しい制約が課されているようです。素人的にはアジアやアラブ圏の、SWFの強みの一つは、欧米流のルールに従う必要がないことだと考えております。彼らが欧米の金融機関への資本注入に手を上げるということは、欧米圏内に(中央銀行や政府を除くと)資金の出し手がいない状態でしょう。単純にカネが不足しているというだけでなく、さまざまな制約もあってとてもじゃないがよその面倒を見る余裕がない。さらに、MSでも追加損失が出る状態ではリスクも読み切れないでしょう。「ナイトの不確実性」で説明することも可能でしょうが、期待効用関数に関しては、加法性以外にも修正が進んでおり、将来を予想する理論自体がまだ粗いことを示しています。いずれにせよ、欧米圏内の金融機関には資金の出し手がなく、少なくともアメリカでは日本とは異なって政府が資本注入を行うわけにはゆかない。いきおい、欧米圏外でリスクをとれるだけの資金をもち、政府による余計な制約から自由で、かつリスクをとって利益を上げようとする意思があるファンドに頼らざるをないということでしょう。UAEやシンガポール、中国などにはそのような条件を満たすSWFがあったということで、もし彼らの存在がなければ、欧米諸国はルールを変更するか、ずるずると「パニック」に引きずりこまれるかという選択に迫られていたのかもしれません。もちろん、一連の資本注入にもかかわらず、「パニック」を避けることができるという保障はどこにもありませんが。

 厄介なことに、CDOが、金融機関だけでなく事業会社も含むカネの面での相互依存関係を集約して象徴する商品であることでしょうか。様々なリスクをヘッジするために作られた商品が、サブプライムローンを発端に悲観を市場が覆う状態になってしまうと、リスク計算そのものが困難になってしまい、悲観が悲観を呼ぶという淵源になってしまいます。この状況では一点で起きた「事故」が、他の経済主体にも拡大して波及してしまう。元々、市場自体がそのような相互依存そのものではありますが、資本市場は実体経済と比較すればはるかに調整速度が速く、同時にレバレッジなどで波及効果が拡大する性質が強く出ます。資本市場の「パニック」は、人々に適切な将来の予想(あるいは期待)を形成することを困難にしてしまいます。現状では「パニック一歩手前」と見ておりますが、資本市場が機能不全に陥った場合、少なくとも期待形成という点で、実体経済に影響がでるのは避けられないでしょう。もちろん、CDOに組み込まれている債券やローンなどだけでも十分に影響が既にでているわけですが。資本市場の振幅自体がわからない以上、実体経済への影響を考えることは無理がありますが、資本市場という現在の経済と将来の経済を結ぶ最も太いラインが機能しなくなった場合、アメリカやEU圏が相当の混乱を起こすことを考えておく必要があるのでしょう。

 再び、アラブ圏やアジア圏のSWFに話を戻すと、政治色などからこれらを敵視とまではゆかなくても、「無法者」扱いする傾向がG7でもありました。欧米流の資本市場のルールでは規制できないという点では、そのような扱いはやむをえないことも多いのでしょう。他方で、経済的相互依存の主体になる金融機関は「無法者」に資本を頼らざるをませんでした。センセーショナルな書き方をすれば、「欧米がアジア・アラブに頭を下げる時代の到来」となるのでしょう。「時の最果て」の中の人はボーっとした人なので、もっとどうでもいいことを考えてしまいます。

 欧米の資本市場の混乱が示しているのは、田中明彦先生の『新しい中世』の第一圏域も、第二圏域から超然としていることはできず、両者が経済的相互依存という点では、対立と協調という問題だけでなく、第一圏域内のみならず、第一圏域と第二圏域の相互依存が深化してゆくという意味での「多極化」が避けられないということでしょう。そのような実態に対応して国際協調体制も、少なくとも経済のレベルでは、第一圏域のみにとどまることはできなくなる可能性があります。その善悪是非にかかわらず、です。いずれにせよ、先進国中心の経済レベルにおける国際協調体制も、実際には体制外の存在によって補完される可能性が高いのでしょう。

 他方で、アメリカの政治的リーダーシップが弱くなれば、協調体制そのものを維持することが困難になるかもしれません。政治レベルでは協調体制から排除されている政治上の主体の統治下にある国の経済主体が、経済のレベルでは徐々に国際的な市場でプレゼンスを高めているわけですから、これらを排除した協調体制が維持できるのかどうか疑問でしょう。そして、かれらのプレゼンスを高めているのが、アメリカの金融機関との相互依存である以上、アメリカがこれらの国々を排除して政治的リーダーシップを発揮することは難しくなるでしょう。

 目の前にある「危機」から遠く離れてしまいますが、ブレトンウッズ体制はアメリカの政治・経済・軍事の総合的な国力をもとに西側諸国を経済のレベルで協調するよう強制する強力な力をもっていました。それは、あえてアメリカを偽悪的に描けば、アメリカ国内の管理通貨制度に西側諸国を組み込む効果をもったとも考えます。他方で、この体制は頑健ではありませんでした。ブレトンウッズ体制の下でアメリカ以外の西側諸国は経済的にも復興し、固定為替相場に象徴される国際的な政府による資本市場の規制の枠組みを資本市場自身が乗り越えてしまい、ドル危機が生じてしまいます。最近は、このような表現を好まなくなりましたが、ブレトンウッズ体制は成功したがゆえに破綻したというところでしょうか。アメリカの強制があったとはいえ、別の側面から見れば互恵的であるがゆえに成立し、少なくとも30年間は存続することができました。

 ブレトンウッズ体制の崩壊後は、資本市場への規制は、BISによるものをはじめ、分散化、あるいは分権化する傾向を示しています。見方を変えれば、アメリカによる強制という側面は後退して、各国の自発性のウェートが高まったとも言えます。他方で、協調体制が各国の自発性のみで成立するか否かは自明ではないのでしょう。少なくとも現在までは、アメリカの政治的リーダーシップと各国の自発性は、完全ではないにしても、基本的に補完関係にあるのでしょう。現時点からさらにアメリカのリーダーシップが低下した場合、国際協調が存続しうるのかはわかりません。憶測に憶測を重ねると、国際協調がない場合に資本市場が機能するか否かもまったくわかりません。資本市場が完全に自らを律することができるのかといえば、現状を見れば悲観的にならざるをえません。もちろん、国際的なルールがかえって資本市場を不安定にする側面も無視できませんが、資本市場の自発性のみで適切なルールができると考えるのは私には楽観的すぎるように感じます。

 今回の資本市場の混乱が示している側面の一つは、相互依存と分権化が地球的規模で拡大している市場レベルの問題と資本市場を律する国際的な枠組みが合致していないということだと考えております。もともと、両者が完全に合致することなどないのかもしれません。ただ、世界経済に関する国際協調体制は、アメリカの「覇権」をEU(遺憾ではありますが、日本は「圏外」)が代替するという古典的な発想ではなく、相互依存を後追い的にカバーしてゆく緩やかなものにしてゆく、より拘束力の弱い発想にもとづかざるをえないだろうと。もっと露骨に言えば、まず国際協調体制を築く政治的リーダーシップをアメリカにとって代わるほどの国はなく、アメリカのリーダーシップも他の国に超越する形ではなく、"one of them"としてものに変化してゆくのであろうと。

 市場の立場から見れば、ブレトンウッズ体制は、アメリカの強制によるものではありつつも、国際的な財や資本の市場の「設計図」を示したものでした。おそらくは、今後、そのような「設計図」にもとづいて市場が機能するという幸福な時代はしばらくはこないのであろうと。まず、取引という相互依存があり、そこから様々な慣行や習慣が発生し、それを事後的に律するという形に国際協調の重点が、既に変化しつつありますが、さらにそのような方向へと変化してゆくと考えます。

 ただし、このような国際協調体制は、実はより強いリーダーシップによって補完しなければ、機能しないのではないかと危惧しております。市場に関するルールづくりで肝要な点は守られるべきルールを明確にするために余計なルールを作らないことだと思いますが、多様な経済主体が存在する下で余計なルールを作らないこと自体、非常に強いリーダーシップが必要でしょう。さらに、国際協調では各国の政治的思惑を排除することは困難でしょう。国際協調体制に参加する国の数が増えるほど、適切なルールづくりは困難になることも多いでしょう。確実なことは、事前に「グランドデザイン」を描いてそこへ各経済主体を落とし込んでゆくというタイプの規制は難しくなっているということです。これまでルールづくりではアメリカとEU、場合によっては日本も加わる、先進国内の「覇権」争いに比喩されることが少なくありませんでしたが、そのような時代もすでに過渡期として見る時期に来ていると思います。

2007年12月20日

地方の空気は自由?

 予定が立て込んでいるときに入った日帰り出張でした。日程がタイトだっただけに、最初は気が重かったのですが、地方で育ったせいか、緑が多いところに行くと、不思議なもので心が落ち着きます。前日の世俗の垢にまみれた方たち(失礼!)と接するときとは異なって、ちょっとだけフレッシュな気分に。ここ数年、浜松に帰っておりますが、大都市圏よりも地方都市の方が人を育てるという点ではまだうまくいっているような感覚があります。地方に出張してちょっと驚くのは女子学生のスカートの丈が短いことですが、人間自身は案外、変わらなかったりするものです。「白蓮青松いずこにありや」という感覚もあるのかもしれませんが、目に見えないところで人と人のつながりが残っていて、見た目だけではわからないところがあったりします。

 こちらではあまり仕事の話を書かないようにしております。一つは、書いても本人が楽しくないということもありますし、面倒です。余計な詮索をされるのが鬱陶しいということもありますが。しょっちゅうではありませんが、「お題」を与えられて話してくださいという仕事もあって、こちらは「寝言」風味になるかと。まあ、ふだんの仕事も「寝言」のようなものですが、建前上、「寝言」と言い切ってしまうほど大物ではないので、おとなしくしております。

 今日は、前日のようにすれた方たち(しつこい!)ではなく、将来のある若い人が相手だったので、ひたすら明るい話題に徹しておきました。それも、「超」とつけたくなるほど強気。多少は込み入った話もほぐしながらしましたが、日本の生活水準がどれだけ高いかということから入って、最後は、個人の欲求の発露が社会全体の利益につながる自由な国であることへと落とし込んでゆくという流れです。もちろん、適切なルールづくりがあっての話であり、難しい部分もあるので、全体のトーンが暗くならないようにちょいと工夫が必要ですが。どのみち、10年もすれば、変な部分に気がつくでしょうから、まずは若い人たちを自由な気分にさせることだけ考えております(大都市にでると、こんな「悪い人」もいるとか生臭い話はひたすら避けました。こっそり「布教」(地方も光が入っている時代ですので)してたりするわけですが。若い人も読んでおりますので、いきのいい話をこれからもお願いします)。「革命家」ではないので、あれもダメ、これもダメという話は、私自身がもともとあまり受け付けないだけかもしれませんが。

 最後は、"incentive compatibility"を用語を一切使わずに、「ひらがな」だけで説明して終わり。思ったより、反応がよくてホッとしました。空気はおいしいし、飯もおいしく、帰りはひたすら寝ました。とってもよい気分だったので、余計な「寝言」も浮かばずに家に帰って一通り終わらせたら、ぐっすりと眠ってしまいました。年末の最もタイトな日程が終わったので、ちょっと安堵。あとは、自分の仕事に徹するのみです。
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