2008年01月31日

「とき」と「時間」のあいだ(間)

 書類の山(不謹慎ですが、「お皿」にたとえると、1,152枚をあと10日で洗わなくてはなりません)を目の前にしながら、窓を開けてこれが冬の乾いた風に流されて、飛んでいったら、どんなに清々するだろう。清清しいだろう。そんな「不幸せな日々」(獅子咆哮弾ではすまないぐらい気が重いです)が続いておりますが、ふと闇の中で光を見ました。

 漸く、志賀浩二『変化する世界をとらえる』(紀伊国屋書店 2007年)を読み始めましたが、「第1章 微積分へのプレリュード」を読みながら考え込んでしまいました。次の引用に続いて関数を説明するにあたって、時間と運動の関係がでてくるのですが、数学の本であることを忘れて考え込んでしまいました。

 時間とは何かと聞かれれば,それはたぶんだれも答えられないだろう。時間の流れが数の幾何学的表現である数直線上の点の動きとして表わされるようになったのは,時計の発明以後のことと思われるが,それよりももっと深いところで時間と数とのあいだに何か予定調和のようなものがあったのだと考えたほうがよいのかもしれない(16頁)。


「もっと深いところ」

「もっと、もっと深いところ」

「もっと、もっと、もっと深いところ」

……。

……。

……。

……。

……。


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2008年01月30日

激動の世界 気分しだいの私

 はあ。「最も疲れる二週間」の二日目で既にバテました。私の最大の弱点は、淡々と繰り返すだけの作業に耐えられないことです。さらに、ミスがまったく許されず、「カイゼン」の余地があまりない。カワセミさんのコメントにお答えしたいのですが、これまで書いてきたこととは異なるアプローチが必要なのだろうと思うのですが、安倍政権の崩壊後、頭の片隅でずっと考えてきましたが、なかなか難しいです。ただ、(国際法上有しているはずの)集団的自衛権の行使は憲法の制約によりできないという解釈の下でも補給活動は再開されましたし、1980年代や湾岸戦争と比較すれば、はるかにマシな状態になっているのも事実だと思います。言論の世界はともかく、政治家が古いイデオロギーの対立から自由になるのを待つのも一つの態度だと考えております。

……。疲れている状態ですと、この程度の「寝言」が限界です。カワセミさんには申し訳ありませんが、「再インストール」後に回して、もちっと、軽い話題で疲れた頭を解きほぐしたいところです。

 かんべえさんが年をとったと嘆いていて、初めてお会いしてから、もう8年ちかくたってしまったのだなあと思いました。雪斎先生は、なんと43歳。「極悪」さんと「非道」先生がだいたい5歳差で、「外道」はさらに5歳下になります。意外と私は若いんだなあと不思議な感じです。

……。だから、なんなんだ?

 いえ、まあ、そのお、寝不足で能率が上がらず、年をとったと嘆いていましたが、まだ早いと実感したしだいです。雪斎先生の年齢になった頃に、「一仕事をした」という実感がもてれば、よいのですが。

 「政治ポジション外交編」をやっている方をみかけますが、結果が見えているし、試してもあまり面白くなく、グローバリストでタカ派というまったくもってつまらない結果になりました。というわけで、単なる「政治ポジション」を試したら、ありゃまあという結果に。「リベラルかつ小さな政府を目指すタイプ」になりました。「保守」という意識も希薄ですが、リベラルも縁がなさそうなので、「気分しだい」とか「ちゃらんぽらん」とか「すちゃらか」とかそういうポジションをつくってくれないかなあと。靖国参拝とか価値観そのものの設問がなくなったせいか、「リベラル」だそうです。

 なんだかなあと思って、雪斎先生のところで見かけた「幕末人物診断」をやったら、思わぬ結果に噴出しました。最初の結果はなんと「西郷隆盛」。ありえねえ。というわけで診断結果の文章を添削しましょう。

 情に厚く薄く、自分の得意なことを伸ばしにしか興味がなく、不得意分野は他人に任せる他人に押し付ける、ある意味ストレスを溜めにくく、マイペースな気分しだいの人物です
常に新しい目的欲求を見据えられますが、目先のことばかりに捕らわれて全体の流れや展望を見失いがちです。しかし、あなたはその人を大切に思う気持ちでと刹那的な快楽に溺れる気分が強く大変な人望があるでしょうまったく人望がないでしょう悪い頭で考えてもムダな戦略要素を強化するのが、あなたが飛躍挫折するためのキーです。

 これでだいぶすわりがよくなりました。維新の「三傑」には無縁でしょうからね。それにしても、なんなんでしょう。この結果は。というわけでもう一度、チャレンジしたら、またも唖然。今度は、「大久保利通」でした。これまた添削が必要ですな。

自分の理想欲求を実現させるために何でもやるあなたは、周囲の人を利用しながら着々と理想欲求を形にしていくことでしょう。その非情な気分しだいのやり方には時々非難を浴びることもあるでしょう呆れられるでしょう。しかし完璧なもの快楽を目指すあなたは周囲に対してだけでなく自分自身にも厳しいため甘いため、周囲の人間は次第にあなたを認め諦め協力を得られるようになります許容するしかなくなりますストイックに享楽的になりすぎる性分ですので、自分を甘やかす厳しく律するなど精神的な余裕まじめな人生を送る緊張感が持てるよう自己コントロールをしましょう。

 「お遊び」とはいえ、あまりにかけ離れた結果に思わず苦笑するしかありません。幕末を生きた人物の真剣さに頭が下がるばかりです(とりあえず新撰組関係者がでなくてホッとしました。なんとなく、「武士よりも武士らしく」とか肩に力が入りすぎている人は苦手なんで)。私にふさわしい「幕末の人物」は、なじみの店で女の子を狙いながら、相手にされない冴えない「町人」で、「御一新」とか言われても、「ふーん、それでなんか儲かるの?」というノーテンキな無名の人でしょう。はああ、それにしても、単調な作業の連続は実に不向きで、いつまで持ちますやら。
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2008年01月29日

日本人の「不安」

 市場も大荒れの第2弾という感じのようですが、私事でも、こちらは例年の恒例行事ですが、来週まで「死のロード」が続きます。「寝言」も不定期更新になるかもしれません。カワセミ様から、刺激的なコメントを頂き、あれこれ考えておりますが、こちらが楽しくなって本業での集中力がそがれるのが怖いので、あらためて「寝言」する予定です。マーケットの話は、伊藤洋一さんかんべえさんぐっちーさんにお任せして、どうでもよいことに目が移ってしまいます、というより、私の能力ではいまだに「マグニチュード」がわからないので。利下げと減税のパッケージで済むのなら、それほどでもないかなという感じです。たぶん、本筋ではないのでしょうが、M様がコメントで指摘されていたECBの「ゼロインフレ原理主義者」が気になります。1990年代以降の日本の金融システム不安は国際協調体制そのものに影響をあたえることはなかったとおもいますが、今回の金融システム不安は素人目にはアメリカだけではなく、欧米全般へ既に広がっているので、ECBが金融システム不安よりもインフレ目標を優先させると、一時的な現象に留まるのかもしれませんが、国際協調体制が機能しなくなるリスクがあると思います。当面は、アメリカの資本市場と財市場の動向が大切なのでしょうが、今回の金融危機で国際協調体制が崩れてしまうと、経済的混乱が長引くリスクが高いと思います。

 「続き」が今回の「寝言」です。嵐のときにのんびりしている印象を受ける方が多いのでしょうが、みんなが「危機」を連呼しているときに、別のことに頭が移ってしまうのは「外道」というより、「ずれた人」の悲しさでしょうか。そんな「ずれた人」の感性を笑いたい方は、「続き」をどうぞ。


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2008年01月28日

セキュリティ余談

 日曜日の最大のイベントは、グラフィックボードの「換装」でした。などと書いていると、日記みたいで自分では嫌なのですが、けっこう感動しました。バッファローのGeForce 6200を搭載したグラフィックボードをアマゾンで購入して日曜日に届きました。本当はソフマップで買ってワランティをつけておきたかったのですが、取り寄せ状態になっていたので、届く時期が悪いと、そんなことしてられるかとなりそうだったので、在庫を持っていたアマゾンで注文しました。驚いたことに、PCのパーツまでレビューがついていて、たいていは高い評価なのですが、最新のレビューにBIOSでひっかかるとあったので、注文した後で気がついたのですが、届いて大丈夫だろうかとドキドキしました。素人さんにありがちな話です。

 とりあえず、旧PCから周辺機器をすべて取り外して電源を抜き、マシーンの「蓋」を開けようと背面を覗くと、ほこりだらけ。慌てて、掃除機で取り除きました。長いこと手入れを怠っていたのでひどい状態でした。デルのケースは、古いタイプということもありますが、お世辞にも高級感はないのですが、操作が楽で、ボードを取り替えるために中を開けるのも気軽です。誤解のないように書いておくと、上下のボタンを押さなくてはならないので、まず勝手に開くことはありません。デフォルトのグラフィックボード(グラボ)を抜いて、びっくり。これはPCIじゃなくって誰が見てもAGPです。注文する前に見ておけばよかったとがっくり。確か、AGPだと3000円ぐらい安いはずで、しまったなあと。これも素人さんのやりそうなミスです。大丈夫かなと思いながら、PCIバスに取り付けて、ほいほいとキーボードやマウス、スピーカーなど必要最小限のモノだけ取り付けて、最後に電源ケーブルを挿しこんで、スイッチオン!なんのことはない、普通に起動してドライバをインストール後、再起動してあっという間に終わりました。この間、30分程度。

 ねらい目は、GeForce 7600でしたが、ほとんどがPCI Express対応型だったので、無理かなと思って、6200にしましたが、私には十分すぎるぐらいの性能です。あらぬことに、欲求不満の原因の一つだった『三國志11』を起動すると、完璧に動作して感動しました。画像解像度が1024×768ピクセルでは画面を正常に表示できないのが不思議でしたが、他はほとんど完璧で、強いて言えば、ちょっと重いかなというぐらい。こちらは、CPU(Pen4の2.4GHz)とRAM(512MB)の問題が大きいのでしょう。この程度なら、まだまだ現役という感じでしょうか。ついでといってはなんですが、ウィルスバスターも2008にアップグレード。

 実は、年々、ウィルスバスターも重くなって嫌になっていたので、2007で大変だなあと思っていて2008へのアップグレードを避けておりましたが、トレンドマイクロのサイトではメモリを食わなくなりますよと書いてあったので、早速、試してみました。アップグレードには数十分要することがあるという趣旨のことが記されていたので、ちょっとだけドン引きしましたが、ADSLで約15分程度かかるというファイルのダウンロードが1分たらずで終わって、ありゃまという感じ。インストールも数分で終わって、再起動して最新のパターンファイルを更新。ここまで10分で終わって、念のために検索をかけた状態にして外出しました。さすがにこれは時間がかかりそうなので、パソコンが「お仕事」をしている間に散歩をしましょうという魂胆でした。

 これで、AGP対応のグラボを買って、PCI対応の方を新しいパソコンに回せばとうまくゆくかもというのは素人の浅知恵でしょうか。新しい(とはいっても、買ってから半年が経過しましたが)PCはもちろん、PCI Express(x16)なので、もっとよいのがほしいのですが、ロープロファイル対応でこれというのが見当たらず、言いにくいのですが、ATIはドライバが今一つという感じなので、旧世代のグラボでも、CPUやメモリーの量(ムダに3GBをとっています)でカバーできるかなと。ちょっとだけ不安なのは帯域の問題ですが、たぶん、大丈夫でしょう(本当か?)。グラボの問題が解決したら、旧PCはネットに接続して、新しい方はスタンドアローンで仕事専用にしてしまおうかと。完璧にはほど遠いですが、なんとかわが家の「情報セキュリティ」は確保できそうです。


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2008年01月26日

情報セキュリティとルール(後編)

 PC環境を一世代前の状態に戻してみました。昨年、購入したPCの性能は抜群なのですが、なぜかグラフィック関係が異常に弱く、ロープロファイルなので適当なグラフィックボードが見当たらない状態です。他方、古いPCは5年ほど前に購入しましたが、ウィルスバスターでも重たい状態でこれはちょっとつらいなあと。ただ、グラフィック関係の安定感は異常でして、「GeForce 4 MX420」という「化石」になりつつあるボードですが、不思議なものです。『大航海時代IV』をやったのも、こちらのマシーンでした。データの移転の関係でウィルスバスターをアンインストールした後で再インストールしようとするとエラーが続出して放置していたのですが、トレンドマイクロのサポセンに電話をしてみたら、サイトのFAQに載っている程度のエラーで恥ずかしい思いをしました。アンチウィルスソフトが使えるとなりますと、あとはグラフィックボードを変えてしまえば、古い方がなにかと快適でして、昨年購入した分をデルに見てもらうことが可能に。ただ、バスが古いタイプのPCIですので、なかなか適当なグラフィックボードの入手が難しいのですが。ちなみに、周囲はノートン先生が好きな方が多いのですが、なにせ重くてたまらんという感じ。このあたりは好みの問題でしょうか。

 「道草」が長いのですが、昨日の話の続きです。実は、「ネタ振り」役の方と帰り道が同じだったので歩きながら、会話をしていたのですが、家庭のエンドユーザーでアンチウィルス対策をしている割合が3割程度というアンケート結果があるという話になって、ちょっとびっくりしました。また、脱線ですが、気がつくと、最も使用頻度が高いPCはすべて外国製でして、IBM→ゲートウェイ→デルときて、最近はもう自作するしかないかなと。AMDのデュアルコアの性能のよさにびっくりしましたが、仕事で使う分と遊びの部分のバランスが難しく、仕事でも3Dを使う機会が増えているので、微妙です。もはやPCなしの生活は仕事でもプライベートでも考えることができないので、多少、カネがかかっても、セキュリティの確保は絶対の条件です。盗まれて困るデータはあまりないのですが、使えなくなるのが困ります。そんなわけで、家庭用エンドユーザーの7割程度はアンチウィルス対策をしていないという結果は、ちょっとびっくりでした。もちろん、アンケート調査ですし、サンプルが偏っている可能性があるようなので、この数字を鵜呑みにはできないのですが、思わず耳を疑いました。その方を信用していないわけではないのですが、Windowsだったら、警告が出るんじゃないですかとか、気の利かないツッコミをしてしまったところ、「警告がでないように処理しちゃう人もいるんですよ」と微笑を浮かべながらあっさり返されてしまって、思わず言葉がでなくなりました。

 「ネタ」の段階ではスパムの負の経済効果がメインでしたが、こちらも実感がなくて的外れなことばかり尋ねていたかもしれません。スパムの処理で平均で5分程度余計な時間がとられるということでしたが、なんとなく実感がわかず、ピンとこない。職場でもスパムの処理で苦労している方が少なくないのですが、勤務先のメアドにスパムが紛れ込んだのが2回ほどで、必要なメールが読みとれないほど攻撃されたことがないからでしょう。それでも、スパム対策をしている会社がほとんどではないかと思ったのですが、大手企業でさえ、40台に1台程度はウィルス対策が不十分で、単にスパムに攻撃されるだけでなく、汚染されて他のPCにスパムを発信する「ゾンビ」化したマシーンが存在するとの事で、これもびっくりでした。もちろん、平均ですので、そんなマシーンがないところにはないのでしょうが、アンケートをとるコストが低い大手企業ですらこの状態というのは意外と高い印象です。

 ICTの普及のおかげで、セキュリティの問題は大切だとは感じていましたが、意外と深刻だと気がついたしだいです。ここからあとは、「ひそひそ話」の域を出ませんので、お読みになりたい方は、「続き」をどうぞ。


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2008年01月25日

情報セキュリティとルール(前編)

 まず、「事務連絡」ですが、右サイドバーの「時計」を読み込むのがやたらと遅いので外しました。こんなところで油を売っていてはまずいですよという軽い皮肉と、私自身が時計を確認するためにいれておりましたが、最近、やたらと重いので外しました。その他のツールもいじってシンプルな方向へもってゆく予定です。

 気がついたら、アクセスカウンターが20万を超えていました。こんなブログでも、お読みいただいている方に感謝いたします。アクセス数が減少傾向にあるのですが、さらに激減させることを書きますと、過疎地でも物好きな方はいらっしゃるようで、人様に情報を提供しようという志がない人間が書いているブログでも、「中の人、生きてる?」とか「長いから暇つぶしにはいいか」とか「外道」ならそんな感じで読むブログの一つなのかなと。

 ブログの管理画面を見たら、ページビューが一日4000を超える日が続いていて、アクセス数の割に変だなあと思うのですが、RSSリーダーで読み込まれた分を含んでいるようなので、ブログ本体にアクセスせずにお読みいただいている方が多いのかな思いました。ちなみに、さくらインターネットに移ってから、昨年1月までのページビューが累積で854,699件、ココログのときを含めると、937,347件で多いのか少ないのか、自分でもよくわからないのです。ちなみに、昨年の12月はかんべえさんの「テロ」で月間のページビューが69,251件と大幅に増えて、泣きたい気分になりました(本当はテロを抑止したいのですが、怒らせると怖そうだなあと。めったに怒らない方だけに、いってはならない一言で無言のプレッシャーを感じ、屈してしまいました)当初は顔見知りの方だけにご連絡を差し上げていたのですが、あまりのコメントの少なさに悲しくなり、「開放路線」へ転換しましたが、いろいろな刺激を頂いて恐縮です。

 さて、ネットで情報を発信しようという心意気はまるでないのですが、昨日の勉強会でふと思ったことがありました。どうも、日本人は情報はタダだと思っているのではないかという「寝言」です。その前振りがありますので、まずはそちらから。「余計なルールをつくると、守られるべきルールが軽んじられる」という話です。


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2008年01月24日

金融システム不安と「世界同時株安」

 久しぶりにテレビのニュースを見ていたら、「サブプライムローン問題に端を発した世界同時株安」という表現が定着しているんだなあと感心しました。あんた、他人事みたいだねえって?「時の最果て」だから、書けますが、もうちょっとみんな狼狽してある会社の株価がもう500−1000円程度、下がったらもう2枚はいけると、邪まな考えで頭が一杯だったので、「デカップリング」というより、世間様からずれているのは相変わらずだなあと。ますます、ど顰蹙を買いそうですが、大御所の替え歌ではなく、こちらの「詩」を拝読して楽しんでおりました。もちろん、「外道」ではありますが、人非人ではないので大変だなあとは思いますが、こういうときはなぜかシニカルではない、ビタネスを含んだユーモアに飢えてしまいます。

 さて、今回の騒動ですが、まだ幕が上がったばかりで(「舞台裏」ではもっと前から「準備」が進んでいたのでしょうが)、いまだに「マグニチュード」がわかりません。アメリカではブッシュ政権の「対策」とFRBの緊急利下げが実施されて、金融システム不安と「世界同時株安」と「実体経済」の減速への対応が一体となっていて、批判する方たちも、あまり区別せずにいるようです。もちろん、現実の経済は両者が一体となっているわけですが、金融市場の混乱が実体経済へ悪影響をおよぼす懸念が高まっている印象があります。また、1990年代の後半から日本経済が経験した不良債権問題と重ね合わせてみる傾向がこの国では強いという印象もあります。このような捉え方は、けっして誤りではないのでしょうが、違和感もあります。とくに、後者、すなわち、日本の不良債権問題は当時、世界経済の懸念材料として海外では捉えられていましたが、その間に世界経済は日本経済の「不調」によって減速することはありませんでした。また、日本の金融システム不安が各国に波及するという現象も、皆無ではなかったのでしょうが、無視できる程度だったと思います。今回の事態は、そのような経験でははかりきれない部分があると思います。

 それは端的に言えば、邦銀の不良債権問題とその克服のプロセスは、国際金融システムや国際通貨体制に影響を与えるものではなかったということです。もちろん、アジア通貨危機では邦銀の行動が無視できませんが、その後の危機と克服のプロセスは、いささか自虐的ではありますが、日本国内の問題であって、海外では懸念材料であっても、直接、国際的な金融システム不安に発展することはありませんでした。言い換えれば、危機の克服の過程は、国際的な金融システムを再編するような影響をもたなかったということです。あくまで私の印象にすぎませんが、国内で議論されている、アメリカの金融システム不安はそれと同列に扱われている部分が大きく、財政的な対応や金融当局の対応の不備を厳しく批判する内容が多いようです。個々の指摘は鋭いのですが、目先の「危機」に追われて、全体像をつかむことが難しいように感じます。もちろん、今回の「危機」が不良債権とたいして変わらないのであれば、アメリカの打つ手が後手に回っても、向こうの調整スピードはこの国の比ではありませんから、おそらくはるかに短期的に金融市場は「復活」する可能性が高いでしょう。もちろん、アメリカといえども「全能」ではありませんから、この国の「轍」を踏まないという保証はありませんが。

 今回の危機は、この国の金融システム不安とは比較にならない影響を及ぼしています。それは、第一義的にはアメリカ国内の信用創造のプロセスの危機ですが、サブプライムだけでなく、CDOのような証券化による金融商品は国内だけでなく、海外でも売買され、とくにEU圏では信用創造の一端を担っています。CDOがなくても、今日の先進国における信用創造が長期的に支障をきたさないのであれば、しばらくは(とはいっても、半年とか急速な調整は困難でしょうが)混乱が生じても、自発的であろうが公的強制であろうが、解決は容易ではないけれども、資本を強化することで乗り切ることができるでしょう。しかし、CDOだけでなく、証券化自体が長期的に機能不全に陥った場合、単なる個々の金融機関への資本注入だけでは問題が解決しないでしょう。現在、起きているのは、「相互不信」によるある種の「ディスオーガニゼーション」でしょうが、それが資本注入によって解決できるレベルなのか、それを超える金融システム不安なのかの見極めができておりません。ただし、後者の場合、市場での「危機」の克服は、より複雑化してはいるものの、より機能的な金融市場へと発展する可能性があるのかもしれません。

 もう一つは、欧米系金融機関へのSWFなどによる資本注入です。こちらは、資本注入の対象となった金融機関の脆弱性やSWFの「戦略的行動」によって先進国経済(場合によっては軍事関連企業との関係を重視した安全保障上の懸念)もありますが、SWFの発言権が強くなる可能性とともに、欧米系の金融機関が先進国間だけでなく、圏外の経済主体との相互依存を深化させているということにもなるのでしょう。国際金融の世界では先進国間の協調体制が依然として基礎にあるのでしょうが、異質のプレイヤーを取り込んだルールや制度が確立してゆく過渡期なのかもしれません。そのプロセスでは、様々な摩擦が避けられないでしょうが、欧米の金融機関に途上国のSWFが関与していることは、彼らによって欧米が振り回されること以上に、利害関係者として圏外の経済主体の行動が制約される可能性があるでしょう。ただし、それは今後、アメリカを中心とした国際金融のルールが確立するか否かによります。他方で、こららのSWFの行動は、アメリカ中心の国際金融市場の崩壊をおそれており、それに代わる秩序が形成される可能性がほとんどないことを示しているのかもしれません。

 目の前で「火事」が起きているのに、「火事」が収まった後のことを論じるのは、気が利かないことかもしれません。日本の政治指導者・金融当局のリーダーシップの欠如や欧米の「失策」を論うことが盛んなときに、そのような試行錯誤をへて金融市場が発展してきたことは、この100年近い金融危機への対応を見ると、自明なようにも感じます。「時の最果て」らしく、思いっ切り、ずれた「寝言」を呟いてみました。

2008年01月21日

「カネ」から見る日本の政党の「衰退」

 政治的リーダーについて考えるはずでしたが、議会制民主主義で政党政治の下では政党がその担い手を養成する最も重要な機関であるというあまりに当たり前の結論に私自身が脱力してしまいました。書き始めた頃は深く掘り下げるはずでしたが、準備と分析が甘い私ではこのあたりが妥当なところでしょうか。ただ、戦前の政党政治の衰退は、政党間の党争から説明されている場合が多い印象がありますが、そんなものはほとんどの民主政につきもので、政治的リーダーが「独断」にせよ、「調整」にせよ、リーダーシップを発揮できるかどうかが肝心だと思います。

もちろん、コンセンサス形成に失敗すれば、政治が機能麻痺に陥り、重大な決定ができなかったり、逆に致命的な決定をする危険もあるのでしょう。戦前の場合、「暴支膺懲」という世論を抑えることができず、一歩一歩、英米の覇権に挑戦するという軍部の動きを抑制することができませんでした。それが、党争に明け暮れた政党の衰退として見ること自体は間違ってはいないのでしょうが、問題は党争のプロセスで強力な政治的指導者を生み出すことができなかった政党の「活力」だと思います。現在の国内政治に悲観的な見方をする方が圧倒的に多く、私自身も同様ですが、問題は今後、与野党問わず、強力な政治的リーダーシップを発揮する人物を継続して排出できるかどうかだと思います。民主政は強力なリーダーシップによって補完されなければ持続することができないというのは、古代のアテネから現代のアメリカまで大雑把でも「散策」すれば自明ではあります。肝要な点はこの国の場合、戦前から戦後まで政党が政治的リーダーを養成するメカニズムを欠いていたのではないかという「寝言」です。

 今回は、そのようなリーダーを育成する政党を財政、あるいはより素朴に「カネ」の面からざっと見てみましょう。ただし、いわゆる「政治とカネ」で問題となる政治資金規正法がらみの話は無視して、政党の「活力」を政党の収支から簡単に考えて見ましょうというわけです。下記の表は、総務省の「報道資料」(平成19年9月)の平成19年9月14日付の「平成18年分政治資金収支報告の概要」、「平成18年分政党交付金使途等報告の概要」から作成しました。なお、政党交付金は一般には「政党助成金」と呼ばれています。また、総務省の資料では政党交付金の合計は317億22百万円となっておりますが、下記の表では各政党の政党交付金を単純に合計しているので、百万円ほど多くなっています。平成18年は国政選挙をはじめ、大型の選挙がなかった年であることも付記しておきます。


平成18年の政党の収支と政党交付金

				(単位:百万円 %)
  収 入 支 出 政党交付金 交付金の比率
日本共産党 28,197 27,132  0 0.0%
自由民主党 26,161 20,229 16,847 64.4%
公明党 14,439 13,981 2,859 19.8%
民主党 12,502 7,359 10,479 83.8%
社会民主党 1,955 1,443 1,006 51.5%
国民新党 439 391 267 60.8%
新党日本 176 127 160 90.9%
自由連合 131 131 105 80.2%
計 31,723

(出所)総務省「平成18年分政治資金収支報告の概要」(2007年)
    総務省「平成18年分政党交付金使途等報告の概要」(2007年)

 この表を作成して驚きましたが、共産党を除くと、民主党は8割以上、自民党でさえ収入の3分の2近くを税に依存していることになります。「平成18年分政治資金収支報告の概要」によると、政党別のデータがないのが残念ですが、同年の「寄附収入」が約220億円、「政治資金パーティーの対価に係る収入」が約127億円となっており、合計でかろうじて政党交付金の合計を上回っているのが現状です。ちなみに、「事業収入」は約475億円と最大の項目ですが、共産党の収入が大きく利いている可能性があるので排除しました。なお、政党交付金は支出額から算出しているので、収入との比較は適切ではない可能性があります。また、各政党の収入に政党交付金がどのように繰り入れられているかも不明ですので、あくまで粗いデータであることにご注意ください。

 簡単な分析ですが、民主党が収入の約8割強を政党交付金に依存していることは、同党が現状では支持者を中心とする自発的な献金によって政治活動を行うことができない状態であることを示していると思います。いくら政治活動にカネがかかるとはいえ、それに見あう収入を自ら獲得できないという状態では、政治的リーダーを輩出するのは困難なように見えます。もちろん、カネを多く集めることがリーダーシップのすべてではありませんが、有権者に対して魅力的な提案を行い、活動に見あう収入を確保する能力がないという点では、リーダーシップの発揮を期待するのは困難だと思います。この状態が改善されなければ、政権を担ったことがないという点を割り引いても、将来的に政治的リーダーを育成することを期待することは無理があると思います。

 民主党以上に深刻だと感じるのは、自民党の収入の3分の2近くが政党交付金に相当するという結果です。現下の自民党は、私などが言うまでもなく、「結党以来の危機」なのでしょうが、政党の財政という点から見ると、政権与党ですら、有権者から活動にふさわしい資金を集めることができないという惨状を示していると思います。本来なら時系列でこの比率を調べたいのですが、自民党の収入の約6割程度は政党交付金に依存しているという状態は、この数年で変化がないようです。政党交付金が導入されたときの論点の一つは、有権者が政党への寄附を行うことが少ないということだったと記憶しておりますが、政党交付金が定着することは政党に自発的に寄附その他の形で有権者から活動に必要な資金を供給するよう説得するインセンティブを殺いでいるのではないかという危惧を抱きます。

 日本人のボランティア精神、あるいは公への奉仕という精神が弱いという指摘はある程度まで正しいのでしょう。しかしながら、この国の憲法で明確に定められた唯一といってもよい「エリート」である国会議員・地方議員が活動に必要な資金すら自前で確保できないという現状は、単に日本人の意識が低いという問題ではなく、それをリードする側の力のひ弱さを感じさせます。現状では、政治的リーダーを育成する機関として政党しかないのにもかかわらず、期待ができないのは、収支の面から見ても、「マネジメント」とリーダーシップの発揮をまったくといってよいほど感じないからです。

 アメリカ大統領選挙は「金権選挙」といってもよいほど、莫大な金額が支出されます。その善悪是非はおいて、この国の政党が政治的リーダーの養成機関となる主要な前提は、政治活動に必要な資金の大半を自ら賄うことだと思います。政党助成金が憲法違反かどうかとか廃止すしべきかどうかというのは、いかれた「外道」にはとるに足らない問題だと映ります。問題は、法律にいくら公共心や公の精神を書き込んだところで、その精神を喚起するはずの「エリート」の集まりである政党自身がまるで貢献できていないという現状だと考えます。
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2008年01月19日

民主政と政治的リーダー

 ようやく冬本番という感じで最初は寒さが身に沁みましたが、慣れてくると、本当に楽です。「燃焼」させなくてはならない、余分な「成分」を体中に身に着けているおかげで、歩くとまるで寒くなく、汗もほどほどでして(汗かきなので夏場は本当につらいです)、ようやく自分の季節がきたという感じでしょうか。ただ、なぜか冬は眠くなりやすいです。暖房を抑えても、なぜか眠い。まるで冬眠するような状態になるのがちょっとだけもったいない感じです。

 しかし、同世代はつくづく贅沢だなあと。わさび談義で盛り上がっている人たちの話題についてゆけず、生わさびは鮫皮でおろすとか、醤油には溶かさないとか、練りわさびでもさっさと食べてしまうとか実に細かい。まるでおじさんのようにわさびは辛くなきゃといっているので、思わず、そういうのが好みじゃない人もいるでしょとツッコミを入れたいところを何事もなく、生ビールをのんびりのんでいました。ただ、なぜか辛味ばかりの話なので、高校時代を過ごした静岡市で生のわさびを食べておいしいと思った私にはわからずじまい。確かに鼻にツンとくるのですが、なんともいえない甘みがあるはずなんだけどなと思いながら、あまり自分の舌に自信がないので、まあ、どうでもいいかという感じ(まあ、刺身を食べるときの話でしょうから、わさびそれ自体の旨みがスルーされてしまうのはしょうがないかなと)。グルメではないので、基本的に薄味だったらたいていは大丈夫という「縁なき衆生は度し難し」というところでしょう。どうも食い物の味にこだわる人との相性はあまりよくないようです。能書きが細かいわりに、お茶漬けでもどうかと思いますが、雑炊にわさびをいれるというのは私には難しすぎるように感じました。

 本題はリーダーシップ論なんですが、さらによけいな「寝言」を重ねると、再生紙の「偽装」というのはもはや私にはついてゆけないです。各紙に目を通してみましたが、私の疑問にはなにも答えてくれないので、どうもなあと。まず、そもそも再生紙の環境負荷は本当に(バージンパルプを加工した)通常の紙よりも小さいのかどうか。次に品質の問題で政府調達では古紙配合率100%を要求していたようですが、そんなことは技術的に可能なのかなあと(いっそ、新聞のチラシの裏(けっこう上等な紙を使っていることもありますし)でも使えばよいのにと「寝言」よりもひどいことが頭をよぎりましたが)。「偽装」が明るみにでたおかげで、政府は紙の調達に困るかもとくると、ほとんどバカげているなあと。もちろん、法令遵守は当然ですが、なんとなくマヌケな感覚が抜けず、こういうバカげたルールをまともにしてゆくのが、リーダーシップの一つ(もちろん、細かいことを総理にやってくださいねという意味ではなく、余計なルールを減らしてゆくインセンティブを与えることがトップのリーダーシップですが。困ったことに「消費者庁」が「日本版NSC」に重なって見えてしまいます)ではないかと、こちらは「寝言」というより愚痴ですな。

 リーダーシップ論の多くは、その担い手をいかに育てるのかということに多くが割かれている印象があります。代表的なアプローチの一つはエリート教育の必要性を説く立場であり、それを批判するならば、あえて「特権階級」をつくらなくても、競争があれば十分だという主張も成り立つのでしょう。もっとも、エリート教育の必要性を説く方も競争を否定しているわけではなく、競争の場をつくることが必要だという立場であって、エリートに要請される資質は、通常の教育における競争では育成できないという価値観が根底にあるのでしょう。誰が見てもエリートではない私がエリート教育の必要性を説くというのは含羞がありますが、エリートたるもの学校の勉強などできて当たり前、教養もあって当たり前、なによりも公への献身が大切だというのはなんとなくはわかります。

 教育制度を整備することで、ある程度はエリート層と呼べる人材を輩出する確率を高めることはできるでしょうが、「戦後」民主主義批判という文脈で語るのは別にした方が良いのかもしれないと感じます。分権的社会は、徐々にですが確実に「特権」を排除する作用をもっていると思います。トクヴィルの『旧体制と大革命』は、以下は私の印象の一つにすぎませんが、大革命のもたらした封建特権の廃止と普遍的な権利への希求がそれを進めた当事者の意識とは異なった結果をもたらしたというすぐれた洞察を含んでいたと思います。極論ですが、分権的社会ですら、あるいはとくにその民主的な側面があるがゆえに、富の再分配という点である種の「特権階級」を生むことすらありえるのでしょう。他方で、結果として万人が平等とは決してならないのでしょうが、分権的社会は確実に「特権」を排除してしまうのかもしれません。あえて否定的なニュアンスを含ませているのは、エリートを意識的に育成するためには、民主的な側面を制限しなければならず、そのような社会的合意が可能かどうかについてはこの国の「戦後民主主義」だけの問題なのかどうか疑問だということです。もちろん、異常な側面があること自体は否定できないのですが。

 司馬遼太郎の『翔ぶが如く』のどこかで(うろ覚えですので誤りがあるかもしれません)、文化庁かどこかの役所の人に現在の政府は明治の太政官政府のままだと言われて、司馬氏が強い印象を受けたという記述があったと記憶しております。現在でもこのような評価が正しいのかは疑問がありますが、ある一面を衝いているのでしょう。明治維新がある一面においては江戸幕府よりも集権的な体制をつくりだしたのでしょう。他方で、西南戦争を頂点とする内乱を経て在野の国会開設運動がより分権的な体制への移行を求める運動に変化し、政府もそれを紆余曲折がありながらも立憲体制と議会開設によって自ら体制を変革しました。明治国家が現代と比較すればはるかに集権的であったというのは、当時の国際情勢を考慮すれば、必然だったようにも思えます。他方で、「官」が政治的リーダーの有力な養成機関であったことも、近代的な意味での分権的社会が未成熟な段階では他に供給源がなかったという消極的な理由でやはりある程度の必然性があったのでしょう。司馬氏の意図から離れますが、この国も分権的社会としての積み重ねが堆積してくると、「官」が政治的リーダーを排出する機関としての役割は低下してくると思います。

 おそらくは、宮澤喜一政権を最後に官僚出身と呼べる宰相がいないことは、「官」の役割が政党によって担われる時代に入っていることを象徴していると思います。霞ヶ関でも若手が他分野に飛び出してしまう時代です。動機は人それぞれなのでしょうが、やはり成績が良いというだけではない、なにか自分の手で確実なものをつかみたいという欲求の発露であることが少なくないのでしょう。もちろん、霞ヶ関に残る方たちの「士気」が高いことを望みますが。話がそれましたが、戦前と戦後で最も異なる点の一つは、軍事的エリートが事実上、政治的エリートになる機会が非常に少ないということだと考えております。政党が政治的リーダーを生み出す機能を果たせなくなったときに代わりになるのが軍事的エリートしかなかったというのが戦前の実情ではないのかと感じております。「妄言」の域に入りますが、もし、戦前の陸・海の二軍が軍事だけでなく政治的リーダーを輩出するように、軍略は政略にしたがうという点を外さずに意識的に教育がなされていれば、あのような失敗は避けられたのかもしれないと感じます。これはないものねだりにすぎませんが。

 昨日は、戦前も戦後も政治的リーダーを継続的に生み出すメカニズムが存在しないのではないかという「寝言」を書きましたが、潜在的な可能性なら無視できない程度に人材の供給源は多様化しているように思います。「官」は以前ほどではなくてもやはりそのような場でしょうし、分権的な社会の成熟と生活水準の向上によって「民」も今後、有力な供給源(少なくとも潜在的には)となると思います。「学」は竹中平蔵氏の登場で期待する向きも多いようですが、どうかなという感じ。いずれにせよ、政治的リーダーの資質をもった方たちを発掘し、育てるのは政党の要の役割だということです。古典的な意味での「エリート」は死滅する傾向にあるのでしょう。他方で、希望的観測を多々、含みますが、現代の日本では政治的リーダーの供給源は分散化しているように思います。問題は、その人材を組織し、競争させ、育てる政党の機能であろうと。

 現在の日本政治はまるでウォッチする気力が起きないのですが、政治的リーダーを育てるのは学校ではなく、政党だというのが今日の「寝言」です。あまりに長くなったので割愛しましたが、地方自治が果たす役割も見逃せない点だと思います。今回に限らず、アメリカ大統領選挙を見ていると、上院議員と並んで州知事の経験者が多く、対照的にこの国では利巧な人が国会議員から地方へ転進するようです。このあたりはわからないことが多いので割愛しますが、韓国、台湾、アメリカと他の民主主義国の選挙を横目で眺めながら、「なにを」してくれるか以上に、「誰が」ということをまず選ぶのが民主政の特質ではないかと感じたことがきっかけです。乱暴に言えば、衆人環視の下で権力闘争(永田町のゴタゴタではなく)を行うのが民主政の特質の一つであろうと。さらに、それは気分しだいの有権者の「審判」をへる。素人の浅知恵ですが、そのことを劇的に示しているのが、アメリカ大統領選挙だと感じます。
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2008年01月18日

戦後民主主義の「教訓」

 駅の出口で『朝日』の夕刊をもらいました。号外ではなく、勧誘のご様子。丁寧に透明なビニール袋に夕刊とティッシュが入っていて、ちょっと得した気分になりました。もちろん、夕刊はあっさりゴミ箱に入れられてティッシュだけが生き残るという不幸せな運命をたどったのですが。ソフトバンクがモデムを無料配布しているときには活気を感じましたが、『朝日』が夕刊を無料配布していると、読者が増えなくて大変なんだろうな、かわいそうだなとは思うのですが、なんとなく昔はやったお店がうらぶれて廃れてゆくようなあはれを感じます。昔、坂戸市の喫茶店で本を読んでいたら、地元の主婦と思しき方が、「分厚い本なんて重くて重くて」とか「もう新聞なんて捨てるのが面倒でしょうがない」とか話しているのが聞こえてきて、恥ずかしくなってお店から退散したことを思い出します。最近は、私も紙ゴミの処理に終われる毎日です。

 さて、『朝日』といえば、戦後民主主義の「旗手」であったという感覚がありますが、最近は凋落が著しいようです。さりとて、戦前の「軍国主義」が復活するという気配もなく、憲法を意識するかしないかにかかわらず、平和主義は概ね「国是」として定着してきたといってよいのでしょう。「補給支援活動」に参加するのにすら、武力行使と一体化するかどうかとか、「寝言」を書いている人間が書くのも憚れますが、まさに寝言のような議論がまともに国会で議論されているのを見ると、本来の寝言すら浮かばないぐらい熟睡できそうな光景です。あえて「寝言」にいたしますると、平和主義の象徴は国会での禅問答とメディアの条件反射のような論調というところでしょうか。

 「保守論壇」がもてはやされた時期には戦後民主主義への批判が盛んだったような印象があります。もっとも、言論の世界の対極、すなわち「寝言」、あるいは悪い冗談ばかり思い浮かぶ私は、少数の論考を除いてタイトルしか見ておりませんのであくまで印象論にすぎませんが。以下で述べることは、ひょっとしたら、とっくに論壇の世界では指摘されているのかもしれませんが、戦後民主主義は偉大な教訓を示していると思います。「平和愛好国」として戦争の放棄は当然として、再軍備をアメリカに拝み倒される形でしぶしぶ行い、「専守防衛」のもとで自衛の範囲内で最小限の軍備に抑えてきました。驚くべきことに、防衛費が極めて抑制的であったにもかかわらず、財政赤字は膨大な金額に上っているのが現状です。財政の問題に関しては、維持可能性の問題について多くの論議があるようですが、いかれた「外道」には軍備と戦争という近代国家の財政の困難を相対的にまぬがれてきた国が、これほどまでに財政赤字を膨らませたことに驚きを禁じえないです。戦後民主主義の終着点は、このような巨額の財政赤字を発生させたということであるならば、結局は政治的リーダーシップの欠如ということになるのではないかと感じております。

 太平洋戦争にいたる過程に関しては今でも様々な考察があるようですが、「空気」という言葉を見た瞬間にため息がでます。戦前も戦後も政治的リーダーシップが欠如しているという点では、大差がないように思います。財政という面から見れば、戦後の方がはるかに緩やかな制約の下であったにもかかわらず(もちろん、財政が悪化したのは表面的にはこの20年程度の現象ではありますが)、このありさまです。財政が破綻に至らなくても、国債費や社会保障関係費、地方交付税交付金などは減少する気配もなく、おそらくさらに10年程度、他の費目が圧迫されるのでしょう。さらに、「寝言」を重ねれば、今後10年間でそのような傾向を逆転するリーダーが連続して輩出する可能性はほとんど無視できそうです。「空気」の実体たるや、実は政治的リーダーを養成するメカニズムの欠如ではないかという「寝言」が浮かびます。世論の気分任せの政治というのは、裏を返せば、「人民の欲するところに訴え、人民の欲するところを制限するにある」(岡崎久彦『陸奥宗光』)というリーダーシップの要諦を欠いた政治だということです。それでも、国際情勢が安定していれば、リーダーシップの欠如すら、致命的ではないのでしょう。そうでなければ、戦前とは異なった「破局」すらありうるように映ります。「内憂外患」とはよくいったもので、社会の混乱というのは内的要因と外的要因の双方から起きることがしばしばではないかと。

 極論すれば、経済活動というのはいかに富を生み運用するかであり、政治活動というのはいかに富を浪費するかということであろうと。「浪費」という表現は既にネガティブなニュアンスを含んでいますが、浪費にも上等なやり方とそうでないやり方があるようです。どうも、この国はこの100年程度、上手に浪費するリーダーを継続的に生み出すメカニズムをいまだに確立していないように見えます。もちろん、そのようなメカニズムを確立できた国の方が少数であって、大抵は大をなすものですが、そうでない国は生存するのがやっとであり、運任せかもしれないと感じます。
posted by Hache at 08:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言