2008年01月17日

形式の世界 現実の世界

 最近は、作業の生産性が極限まで低下する一方で、年賀状の「やり直し」までやらなければならず、なかなか厳しい状態が続いております。なにしろ、年賀状に「平成元年 元旦」と書いてしまうほど、ひどい状態でして、お詫びの寒中見舞いを準備している状況です。どうも、昨年の12月から今年にかけて見えない疲労がたまっていたのか、この時期のミスの後片付けに終われる日々が続いております。体調もすぐれないことが多く、連休以来、風邪気味でしたが、この数日で少しはマシになったようです。なんとなく、気象の変化が不規則で心身ともに疲れているのかなと思います。

 水曜日もパッとしない状態でしたが、記号の世界に浸っていたら、昨年、読んだときにはまるでチンプンカンプンだったところがなんなく読めてしまうので、少し驚きました。もっと驚いたのは、こんな簡単な話が昨年は理解できなかったのかということでしたが。普通の方なら落ち込むところですが、そんなことが日常茶飯事になっている私は、わかったからいいのかなとあくまですちゃらかな感覚でおります。

 形式の世界というのは役に立たないという批判が少なくありません。私みたいなのが熱中してしまうのだから、そういう批判も当たっているのかもしれないとも感じます。しかし、ごくまれに形式が本質を表すこともあって、不思議な感覚もあります。形式や記号の世界は、生身の現実とは無関係だと考える方が、形式の世界でも実務の世界でも少なくないという印象がありますが、私自身はもっと微妙な感覚を抱いております。これを表現するのは非常に難しいのですが、私も形式と内容を別物と考える思考に囚われている部分があります。形式と内容を区別して内容にふさわしい形式が必要であるとか、形式に内容が従うべきである、云々。このような物事への処し方が間違っているわけではないのでしょうが、違和感があります。他方で、一見、現実と切り離された形式の世界はありがたい面もあって、私のように頭の悪い人間でも、時間をかけて手順を踏めば、すべてではないにしても、ある程度までは理解ができます。逆に言えば、形式の世界は厳しい約束があるのでそれを無視すれば、まるで理解ができなくなる怖さもあります。

 しかし、形式の世界のよいところは、そのような厳しい約束があるからこそ自由なのであって、現実を無視しているからそうなのだという陰口も可能でしょうが、あえて現実には生じないであろう世界すら想定することによって「虚構」でしか描くことができない世界を示すこともあります。論理的な厳密さは自由と同義なのかもしれないとも。「世の中、理屈じゃない」という方の「理屈」はその程度とも言えるわけでして(もちろん、形式化することが難しい知恵を否定するものではありませんが)、形式の世界を発展させてきた西洋人には畏敬の念をもちます。彼らの貢献は、なにより荒涼とした形式の世界を手ぶらであるくフロンティア精神であり、同時に後から来る人に確実な道標を築いてきたことなのでしょう。新しい世界を切り拓くほどの野心はないのですが、老いてからも楽しめるという点では、そう悪くないのかしらんとも思ったりします。形式の世界は現実世界と異なるように思いがちですが、ある方のHPを読みながら、本人が楽しんでいるという点ではあまり大差がないのかもしれないなんて勝手に思ってしまいました。また、本当の意味で楽しめない人たちがつまらないことでくさしてくるという点では、あちらの方がやはり大物かもとも。幸か不幸か、私のような小物は唾をかける物好きな方もおりませんので。
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2008年01月13日

運命は扉を叩く?

 ちょっとだけ「復帰」です。木曜日に飲んだ生ビール2杯が「とどめ」になりました。年末年始に摂取するアルコールが増えすぎて、私の「高性能」の肝臓(若いときには眠くなる時間すらなく、あっという間に覚醒までいっておりました)も処理できない状態だったようです。しかも、お仕事は年始から山積み状態。プライベートでも処理すべきことがあまりに多く、ぐったりしました。新年早々、疲れがとれないので、自然と半ば断食状態に。間違ってもダイエットでもなければ、健康法でもないのですが、疲れているときにはよけいなことをしないのが一番で、既に飲みすぎ、食べ過ぎの状態ですので、胃腸を使う気力がなくなります。ベストは歩くことなのですが、昨年と比較して、妙に生暖かい日が続いたせいか、体も変調気味です。左足は杞憂だったようで、歩いたら、消えてなくなりました。あとはベッドに載せている布団、マット、毛布の位置がよくなかったようなので、直したら、びっくりするほど改善したので、本当に不健康な生活をしていると実感します。左足に負担がかかるような配置になっておりました。

 それにしても、昔は「議論好き」と言われていたのはやはり正しいのかもと若干、自己嫌悪気味に。年を食ってから、周囲には悪い冗談ばかり言っていて、「バカな中年オヤジ」というのがスタンダードなイメージだと思うのですが、そういう周囲の評価は非常に正しく、このブログもタイトルからして「時の最果て」で「寝言」を書くというスタンスです。「言論」という評価を頂くと、ちょっとびっくりします。今の言論界には、例外も無視できない程度にはありますが、あまり興味がもてないのが正直なところですが、あまり「寝言」を「言論」として意識したことはありません。もちろん、私が書き手である以上、私の意見が入っていることは当然ですが、読者へ特定の主張を発信して、その反応を楽しむという感覚はなく、どちらかといえば、あの時期にはこんなことを考えていたのかなという自分のための記録です。もちろん、インターネット上に載せている以上、人様の目に触れることもあり、書くときにも意識はしておりますが、私のための私の意識の記録というところでしょうか。露骨に言えば、他人の利益のためにやっているのではなく、自分のためにやっているということです。

 さて、疲れているときにはやはり「地金」が露呈してしまうのか、最近は、本業でも物の言い方がきつく、悪い場合には辛辣ですらあり、反省する日々です。「客観的な評価」という言葉自体にツッコミをいれてしまうあたり、自分の「業」を他人に押し付けてはよろしくないなあと。どこの職場でも、仕事ぶりなどを「客観的に」評価することが要求されるのかもしれませんが、これは考えるだけで気が狂いそうになる話でして、「主観的評価」と切り離された「客観的評価」などありえるのかとか、そもそも「客観的評価」の方が「主観的評価」よりもまさる印象を通常の人は受けるけれども本当かとか、いろいろなことが頭をよぎります。誤解のないように書いておきますと、実際に仕事をするときにそういうことは無意識になっていて、意識しているわけではないのですが、どこかで感覚としてはあります。「客観的評価」をするには「基準」がいるという。その通りではあるのですが、そもそも、そのような基準を「主観的」である私たちがつくることができるのかという問題はおいても、運用するのが「主観的」な人たちであり、私自身も他人から見れば「変な人」でしかない以上、事前に余計な基準をつくっても、機能しないのが現実であろうと。あまりに評価する側の恣意性が高いと問題ですが、システムを運用する上での保険は既にかけているので、運用してから問題点を改善する方が早い。「客観的評価」を人間社会でよりよく「近似」(あくまで「主観的評価」から独立した「客観的評価」なるものが存在することが前提ですが)するならば、価値観が異なる人たちで多様な評価を行って一致するのを待つしかない。今回の件で、そこまで人的資源と時間を割くことが適切ですかねえという話をしておりましたが(もっと生々しい表現をしておりますが、それを記録することが目的ではないので)、よく言ってくれたという方もいたものの、ものの言い方が悪いと自分でもと思います。なにより、他人が笑うところではないと思い込んでいるところで笑い話にしてしまうことができず、失敗。みんな疲れているのだから、そんな頓智が必要なのですが、私自身が疲れていたので、自分の発言は絶望的なほどダメ。

 新しいことをやるのには、誰しも不安や反発があるものです。「改革」をやる際には、それが分権的な社会であろうが、集権的な社会であろうが、コンセンサスを自発的に形成するというよりも、不安や反発を押し切って少数者が多数者にコンセンサスを強制するという形になることがほとんどであるという無茶苦茶なことを感じております。それでは「革命」ではないかと思われるかもしれませんが、「改革」が劇的になれば「革命」と感じるだけのことであって、言葉の使い方の問題なのでしょう。最近は、「改革」と「説明」がインフレ気味だなあという感覚もありますが。それはともかく、物事を進める際にどんなに些細なことでも「運命は扉を叩く」のであって、現代人はそれが特別な瞬間であるという思い上がりから逃れることが難しいと感じる日々です。もっといえば、朝食のメニューをちょっと変えてみるというところですら、「運命は扉を叩く」のであって、失礼な表現を用いれば、無名の方で市井で生活を楽しみながら暮らして言論などに手を染めない人ほど人間的な存在はないのだろうという「寝言」が浮かびます。「存在」に無自覚な方ほど自覚的な存在はないものです。なにかを「わかる」瞬間に「わからない」ことをつくってしまう。休んでも休んでも疲労がとれないせいか、支離滅裂さがさらに増しております。あまり深読みされると、迷惑ではないのですが、困惑してしまいます。そうは言っても、「寝言」を載せるたびに、「運命は扉を叩く」と自意識過剰な私は感じてはおりますが。


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2008年01月09日

『算数の発想』ほか

 ヒラリーが逃げ切りました。とくに感想はないのですが、Intradeを覗いたら、今度はオバマが大ピンチ。人間というのは「結果論」の世界で生きていることを痛感します。なんで感想がないかといえば、まず選挙権がないですし、誰がなってもアメリカは、この国にとって、善悪是非はおいて、もっとも影響力のある「外国」です。どうにもならない。なにより、不謹慎そのものですが、こういうシーソーゲームは楽しい。ただ、間違っても「マケイン支持」とは書きません。私が投票権のない候補者を支持して勝ったためしがなく、因果関係が逆なのは百も承知ですが、あまりに怖いです。ちなみに投票権がある選挙は、この10年間ぐらい、すべて「勝ち馬」に入れているという状態で、こちらも気もちが悪いです。

 相変わらず左足の調子が悪くて「蹇々」という状態ではないのですが、再発させると厄介なので、とりあえず、ひたすら歩いております。おかげで夜はぐったり。新年会で「この本はおもしろいよ」と勧められて読み始めたのが、小島寛之『算数の発想』(日本放送出版協会 2006年)です。まだ、途中ですが、確かにおもしろい。ちょっと強引かなと思う部分もありますが、そのあたりは読み流して頭の体操としてだけでも楽しいです。確信はないのですけれど、「考える」ことの意味を考える、別のアプローチもあるのかなという気分になります。痛快だったのは、次の一節。

 読者は学校教育などで、「人のことを考えて行動しなさい。人のためになることをするように心がけなさい」と耳にタコができるほど説教されたことと思う。けれどもこの定理(厚生経済学の第一定理、原著では「ワルラスの定理」:引用者)は、そのようなお説教に対して、逆説的なことを述べている。つまり、こと経済的豊かさに限っていうなら、すべての人が他人のことなど考えず自己の利益だけを考えて利己的に行動すればいい。むしろそのほうが社会を最適にする、と主張しているのだ。この定理では、証明を読めばわかるが、いくつかの数学的前提が暗黙に仮定されている。その前提がこの社会に、どの程度整合性があるものなのかをひとまずおくとすれば、これは私たちの価値観をくつがえすのに十分な主張といっていいだろう。
 実際、筆者はこの定理と証明を知ったとき、溜飲が下がる思いだった。「人のことを考えて行動しなさい。人のためになることをするように心がけなさい」という考えを押しつける人に限って、無償で奉仕してほしい、不利益につながるような面倒を起こさないでほしい、と考えているのが見え見えのように思われたからだ。つまるところ、言っている本人の都合最優先にしか聞こえなかったのである。大人になるにしたがって、この感触がほぼ正しかったことを次々と確認し、(大人とか教師とかに)だまされたという想いが強くなった。そういう筆者にとって、この「ワルラスの定理」は、胸のすくような気分を与えてくれたのである(65−66頁)。

 小島先生よりも性格がはるかに「複雑骨折」している私は、「善意」の怖さが少なくとも数理レベルでは証明されたと読んでしまいます。社会をよくしようという試みがなぜこうも無残な失敗に終わるのかという疑問符が、私の青年期の始まりでした。中年になっても、「答え」が見つからないのですが。「答え」が書けないので、「寝言」を書いております。

 ついでといってはなんですが、新潮選書のコーナーを久々に覗いたら、装丁が変わっていて、ひょっとしてあの本が絶版になっていないかと不安になりましたが、「ご健在」でホッとしたので、思わず衝動買いをしてしまいました。高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮社 1981年)です。高校時代は、それ以前とは対照的に、日本人の書いたものを濫読しましたが、現代人で記憶に残っている数少ない著書です。20年程度前に読んで、何度、読み返したかはわからないです。読むたびに読めていないことに気がつく、現代人の書いた著作です。思えば、このブログを書き始めるきっかけの一つは、高坂先生の衰亡への感覚だったのかもしれません。この著作で引用されているプラトンの『法律』の一節が少しだけわかる、というより、リアリティをもって感じるようになりました。

 「なぜなら海は邪悪な隣人であり、日々の交際には快適なものであっても、内在的には塩からく、苦いものである、というのは、それは国を貿易商の仕事で、国の住民の心を狡猾とうぬぼれで、政体それ自身をその内外両政に関する不信と不満で満たすからである」(271頁)

 この本の「書評」はいたしません。「ある幸福な敗戦国の衰退史」に終わり(私がくたばれば文字通り終わりますが)があるのか、書いている本人も途方にくれますが、何度読んでも、著者と「問答」をしてしまう、数少ない現代日本人の著作です。微妙に病気気味なので重たい話は避けますが、ヴェネツィアの独身男性のくだりはドキッとしてしまいます。「お前みたいなのが衰退の象徴だ」と詰問されれば、「ごもっともでございます」と答えざるをないのが、ちょっとだけ悔しかったりします(だって、私みたいなのと「合体」もとい「同盟」したいなんて物好きな方はいないんだよなあ。女性は相応に利巧だもの。顔が悪い、頭が悪い、性格が悪い、金がない、地位もない、おまけにデブだ!ぶつぶつ)。


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posted by Hache at 23:53| Comment(3) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2008年01月08日

ヒラリーの涙

 ヒラリーが泣いた。『朝日』の記事を読みながら、いかにも日本のインテリらしい文章だなあ(見出しのセンスは最悪)と溜息がでました。こんなときに嘘泣きするバカがいるか。政治家がやってはならないことをやってしまった瞬間に「論理」で物事を考えるこの国のインテリとはまったく肌があわないことをしみじみ感じます。AFPの記事はまともでこのレベルの記者が揃っていれば、日本の新聞も金をだして購読するに値するのでしょう。新聞記者の問題だけでなく、いわゆるインテリ層にはなにも期待していないのですが、生きている者の「論理」で死者に鞭をふるい、死者の「論理」で生きている者を躓かせる。このような風潮はどうにもならないと感じます。右とか左とか関係なく、どうにもならないなあと。アメリカ大統領選挙という世界で最も過酷な「レース」を、この国の生半なインテリなどに論じることなど無理でしょう。

 この件でstolen carさんの記事を拝読して感服しました。いまさら、私が何を書くことが残っているのだろうと。結びがなんともいえない余韻があります。「『負け方』が問われるというの辛いものである」。オタク、ヲタクと連呼して誠に申し訳ありませんが、アメリカ・オタク魂の真髄を感じてしまう。余計なことを付け加える余地がないのですが、『朝日』の第一報で、素人目にはヒラリーが本当に苦しんだなあと感じました。そして、涙は挽回が難しいであろうことも。また、そんなことはヒラリー自身が理解しているであろうことも。余計な感想が浮かばないぐらい、ヒラリーの涙ぐんだようにも見える表情は雄弁でした。どんな悲喜劇でも表現ができない「劇」を見ている、そんな感覚です。そして、この涙も「オタク」の方々の間では語り継がれても、あっという間に「劇」は進行するのでしょう。

 あえて賢しらぶったことを書けば、かんべえさんの「(その辺の)予測不可能性が米大統領選挙の面白さなのです」(「不規則発言」2008年1月3日)という言葉をあらためて実感します。本当は、M.N.生様のコメントにリプライを書こうと思いましたが(言い訳ではなく、私が最も関心をもっている問題の核心部分です。ただ、頭が整理できていないのが悲しいのですが)、このような出来事があっという間に流れを加速する事態にただ絶句するしかないです。素人というのはこの程度です。あまりに意外なことが起きると、絶句するしかありません。元旦以来、疲れがとれない状態ですので(ここ数日、左足がむくんでいるのがちょっと怖いのですが)、今日はそろそろ寝ます。おやすみなさい。

2008年01月07日

リーダーの選び方 合衆国編

 かんべえさんの米大統領選挙ウォッチングが絶好調のご様子。やはり、好きこそものの上手なれというところでしょうか。政策ありきで賛同する人を集めようというよりも、有権者、とくに特定の政党への「ブランドロイヤリティ」が薄い人たちを巻き込むために政策が変化してゆく、民主主義のプロセスを期せずしてよく描いているなあと感心します。このような傾向を「ポピュリズム」と見ることもできるのしょうが、それ以上に、この国よりもはるかに多様な有権者層を抱えるアメリカの政治家が多様なニーズを反映し、集約してゆくダイナミズムを興味深く見ております。また、政治的リーダーの個人的資質を否応なくさらけだしてゆくプロセスでもあって、このあたりは内政問題(日本人である私にはぴんとこない論点も数多くありますが)でよくでてくる印象があります。アメリカの大統領選挙が各候補者の政治的リーダーシップを試す最善の方法であるかどうかは私の手に余りますが、長い期間をかけて候補者の多様な側面を浮き彫りにしてゆくということを考えると、優れた点が多いように思います。おまけに楽しみながら、「商売道具」にしてしまう人まででてくるわけでして、「雇用」まで生むのかと不謹慎な「寝言」が浮かびます(戦争と選挙を「食い物」にするというのは、やはり人を食った話ですね)。

 かんべえさんの周辺には、アメリカ・ウォッチャー、失礼な表現をすると、アメリカ・オタクの方が少なくなく、2006年の中間選挙後に「みなさん、次の民主党の大統領候補はヒラリーで決まりと思われているでしょうが、実は、同僚議員に最も信頼が厚いのが、オバマです」というところから、はじめてオバマという名前を覚えました。恐ろしいことに、議会で可決した主要法案への賛否などのデータが整備されていて、ありゃまという感じ。この種のアメリカ・「ヲタク」(尊敬の念をこめた愛称です)の方々のお話を伺っていると、アメリカ大統領選挙というのは、政策だけでもいくつもの争点があり、なおかつ政策だけで決まるものではないということでした。あまりに平凡な感想ですが、アメリカ最大の政治の「祭典」は、実に多岐にわたるイベントからなっており、なおかつ勝者は一人という過酷な結末が待っており、私のような素人さんでも、わからないなりに楽しめます。既にハードルが高いので、「食い物」にしようという野心はないのですが(正直なところは「つまみ食い」が精一杯です)。

 さて、こちらでは、かんべえさんが暗躍して、運営者の方から「平時の選挙」という感想も漏れています。『世界の論調批評』「ブッシュ外交安保政策を採点」では、Krauthammerのコラムを紹介した上で、「もっとも中間選挙後のアメリカの世論の主流は、イラク戦争は初めから誤算であり、失敗だったことが民意で確認されたというものであり、成功と認めているのは、わずかにクラウトハマーのような保守派だけです」という嘆きともつかない評価がされています。さらに、「イラク戦の当初から、米国の戦争遂行者の夢は、イラクを米軍の恒久基地を置く同盟国にして、それを中東政策の要とすることでした」という指摘がされていて、イラク戦争とその後の占領統治の戦略が示されています。他方で、安井明彦さんは、『日経CNBCジャーナル』のコラムで「一方で、最近の選挙で圧倒的な存在感を示してきたイラク戦争を巡る議論は、一種の膠着状態にある。不人気な戦争を擁護したくない共和党候補はもちろんのこと、あれだけ反対していたブッシュ政権による『増派』が戦況の安定につながっているだけに、民主党候補でもイラク戦争には触れにくい。ニューヨークタイムス紙のコラムニストであるデビッド・ブルックス氏は、『2008年の選挙は「戦後」の色彩を帯びそうだ』と指摘している」という興味深い評価をされています。

 イラク戦争が大統領選挙の主要な争点になるのかどうかはわかりませんが、「変化」がキーワードとはいえ、イラクからの即時撤兵論が力を失いつつあり、しばらくは膠着状態が続くのでしょう。他方で、イラクのみならず、中東全域でブッシュ政権は外交上の資源を投入し続けており、新政権に移行しても選択の余地が少ないのかもしれません。希望的な観測ですが、「イラクを米軍の恒久基地を置く同盟国」にするという「夢」は異なった形で実現する可能性も消えてはいないと思います。ただし、新政権が「内向き」になった場合には、このような観測は願望にすぎないのでしょうが。

 それにしても、予備選挙の段階からリアルタイムで観察するのが『溜池通信』の「お約束」とはいえ、毎回、新しい「発見」があるのが楽しいです。政策論争がないとか、ブッシュ政権の成果を否定するのはいかがなものかとか、オバマは大丈夫かと「外野」の心配をよそにアメリカでは実に多様な予備選挙が実施されていて、あらためて分権的社会の意思決定の過程を楽しんでしまいます。「宝の山」は無党派層にありというのは、太平洋の東側でも同じようでありまして、ちょっとだけうらやましいのは、どこかの島国よりも「スター予備軍」のヴァラエティが広いということでしょうか。素人目には過酷とさえ映る競争の中からリーダーが生まれてくる。そんな分権的社会の活力をアメリカが失っていないことを痛感します。

2008年01月05日

議論好き?

 旧友に「昔はもっと議論好きだった」と言われると、そんなにむやみに議論をふっかけていたのかなと不安になります。犬も歩けばブログに当たる時代、ちょっとは枯れてきて他人に迷惑をかける機会も減ったのかなと思います。それにしても、自由を大切な価値とみなしている者ではありますが、これが「主義」と結びつくと、「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。重要なのは世界を変えることである」とのたもうた方とあまり変わらないように見えてしまう。主張する側は、「教義」を説かれる側よりも利巧なことが前提になっていて、異を唱えようものなら、罵倒される。これって、古きよき○翼とおなじじゃないのと感じてしまう、今日この頃です。与党はバカだ、野党もバカだ、官僚は最悪だ、黙ってみている国民は最低だ(変形としては「日銀はバカだ」もありますが)とくると、いよいよ懐かしのリフレインという感じです。だんだん慣れてくると、ネットで憂さを晴らしておくのもガス抜きにはちょうどよいのかもという程度でしょうか。

 それにしても、この時期にアメリカ大統領選と競馬に熱中するのはけっして偉大ではないけれど、精神衛生にはよろしいかもと感心してしまいました。これは皮肉ではなく、まじめに経済がどうたらこうたらとか日本政治がどうたらこうたらと考えても、萎えます。他方で、いきなり「べき論」を打たれると、同世代の知人はなぜか白けてしまう。予想をやっている人は、失礼ながら、どこか胡散臭いけれども、結果がはっきりでるぶんだけ、言い訳が上手か「外しまったぜ、ちいっ」で済ませるかで、読者を深みまたは笑いに誘うぶんだけ上等だなあと。どこかで一押しのマケイン候補を私が応援すると……。というわけで沈黙を保ちます。

 というわけで最後の「休み」はひたすら寝るだけです。とにかく眠い。「のだめ」を見るぐらいなら、寝だめをしたいという感じです。景気が悪い、政治が悪い、世相が悪い等々、すべて無視して、ひたすら寝ることに専念する日々です。
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2008年01月04日

民主主義は市場経済である?

 1月3日の新年会で新年の行事は終わりです。明日からは、お仕事ですが、生活のリズムが完全に来るっています。まずいなあ。まあ、今年の新年会も楽しかったので、自分用のメモです。

 本題の前に「事務連絡」ですが、コメント欄の入力に認証コードを導入しております。一時的に収まったコメントスパムが再度やってくる状態でして、当面、この方法で運営いたします。基本的に半角英数のみのコメントは受け付けない状態になっておりますが、それをすり抜ける方法を学習しているようでして、承認制を一度は導入しましたが、スパムとそうではないコメントが混ざると、うっかりスパムではないコメントを削除してしまう可能性があります。コメントを頂くのに認証コードを要求するのは無粋ではありますが、やむえをぬ措置としてご理解頂ければ、幸いです。なお、他のプロバイダーのブログと異なって、URLの入力の有無などにかかわらず、すべてのコメントに対して認証コードの入力が必須です。情けないことに私自身も入力しなければならず、バカバカしいのですが、こんな過疎地にもスパムがくる時代ですので、泣きたい気分ではありますが、事情をお察しください。

 さて、2日は旧友と飲んでへべれけの状態になりまして、ブログが更新されているのですが、あまり記憶がなく、いつ書いたのかという支離滅裂な状態です。二日酔いの状態で新年会に「遅参」しましたところ、老先生のおそばという「特等席」が空いておりまして、みなさまの考えていることや気分は同じなのだなあと思いました。実際には遠慮深い(これは嘘ではありませんよ)私には畏れ多いのですが、とりあえず着席。飲みすぎでボロボロの状態ですので遅刻いたします、申し訳ありませんとの旨のメールを差し上げておりましたので、ぐびぐびビールを飲み干す私を見つめながら、「若いというのはいいなあ」とからかわれて、恐れ入るばかり。世間話が一通り終わったところで、老先生が語りかけてきたので、酔っ払っているせいもあって、「脊髄反射」状態になってしまいました。酔いというのはおそろしいものでして、ふだんはもっと上品な会話になるのですが、「お下劣モード」の私が老先生を困らせるという展開になって私自身が困惑してしまいました。ちなみに老先生は、マルキストではないので、念のため。

子曰く、「マルクスはヘーゲルの逆立ちを直したえらいやっちゃ」。

Hache曰く、「逆ですよ。勝手な逆立ちしたのはマルクスでヘーゲルはまともです」。

子曰く、「それは、どのような理由か?」

Hache曰く、「マルクスの思想から社会主義が隆盛してさらに格が落ちるレーニン、スターリンでさらにややこしくなりましたが、みんな逆立ちという憑き物が降りて、正常化している時代でございます」。

子曰く、「……。マルクスは哲学で留まればよかったのかのお。経済学に手を出したのが失敗だったのかもしれぬ」。

Hache曰く、「哲学自体がおかしいですから、なにをしてもムダでしょう」。

子曰く、「……。フランシス・フクヤマなる人物を知っておるか?彼の御仁は、ヘーゲルを援用して資本主義の勝利が『歴史の終焉』と説いた。これはいかに?」

Hache曰く、「あの御仁はネオコンでも、とるに足らない人物です。ヘーゲルを引用していますが、所詮は思い上がりを正当化するための手段でしょう。それと、彼が主張したのは市民的自由と民主主義の勝利であって、資本主義ではなかったのでは?」

子曰く、「ならば問う。民主主義とは、資本主義ではないのか?」

Hache曰く、「資本主義というのはわかりにくいので、市場経済でもかまいませんか?」

子曰く、「しかり」。


 てな感じで酔っ払っていたので、もっと高尚な会話だったと思いますが、かなり雑な記憶に頼っております。「資本主義」というのは、意図的な「主義」からうまれたのか、それはいかなる経済を表すのかがいまだに得心できないので、市場経済と言い換えておりますが、「民主主義とは市場経済である」というのは乱暴かもしれませんが、ちょっとした思索を誘います。

 この話に入る前に、私がヘーゲルを高く評価しているのは、ある経験があります。20代前半の私の文章を読んだある人が、笑いながら、「これ、もろトリアーデになっている」と指摘されて、言われてから初めて気がつきました。ヘーゲルの弁証法というと、「正−反−合」の「弁証法的統一」なんでしょうが、私の感覚では、Aなるものがあれば非Aがあり、さらに観察すれば、Aなるものと非Aなるものはその本質において同一であり、かつ相反する。「有」、「無」、「成」が最も単純ですが、外的に概念を「弁証法的」に「統一」するのではなく、この同一であり、複雑な交互作用を行っている要素がまさに交互作用しているという点で概念と事物の運動を示しているという感じです。

 ヘーゲルなんて読む前からそんな感じで世界を捉えていたので、ヘーゲルの叙述のまねをするという感覚はまるでありませんでした。傲慢なことを書くと、ヘーゲルを読んだことはありますが、私と同じ体質ですね、絶対精神を認識したヘーゲルは自らが神であり、そこでは主客の二元論など考える、すなわち実践の場では意味をなさない。まったくもって同感というすちゃらかな読み方しかしておりません。

 本題に戻ると、「民主主義は市場経済だ」という老先生の表現は、一見、乱暴ですが、酔っ払いながら、ハッとさせられました。まず、浅いレベルでは、例えば、市場経済の導入とともに高い成長率を誇ると同時に共産党一党独裁の中国は、まだ「移行期」から完全には脱していません。中国の「改革開放」路線が本格化する1990年代の半ば頃に中国は民主化という市場経済の「大前提」と論者がみなすとことを先送りして、市場経済という果実を手に入れようとしているが、これは可能か、ある程度まで実現したとしても、市場経済化が進展した場合、政治体制は維持可能かという議論も周囲ではありました。この手の議論は、今でも見ることがあります。この種の議論は、私にはあまり重要ではないように感じます。というのは、政治体制の民主化はただちに市場経済化とダイレクトに結びついているわけではなく(もちろん、民主化を求める原動力の一つとしてより自由な経済体制への移行を求める人たちの存在があることは否定できませんが)、また、市場経済が民主主義体制の下でのみ機能するのかは疑問の余地があります。もちろん、民主主義という政治体制と市場経済の組み合わせが先進国のほとんどであることも事実です。ただし、両者の関係は、私には自明では内容に映ります。

 より本質的な問題は、民主制という政治体制も、市場経済という経済のありようも、どちらも分権的社会の構成要素なのであろうと。市場経済を支える市民的諸自由は人々がモノやサービス、カネなどを取引する最低限の前提であり、生産や消費、交換といったプロセスが自発的に行われるための前提であると同時に、これらのプロセスが効率的に結び付けられる情報のやり取りという点でも、前提になっています。市民的自由は、その他に職業選択の自由など重要な点を含んでいますが、それらは自生的な側面と同時に政治的に認知されることで円滑に機能することが可能です。

 他方で、民主制は政治的意思決定のプロセスをより多くの諸個人・組織に委ねることによって、分権的な制度の中で、他の政治体制以上により強いコンセンサスの下で集権的な意思決定を可能にするメカニズムをもたらす可能性を秘めています。同時に、コンセンサスの形成がなければ、民主制もその驚くべき機能を十分に果たすことはできません。同様のことは、市場経済でも生じます。市場の機能不全の原因として不完全競争や外部性・公共財の存在などが挙げられますが、ここではとくに、公共財に関するコンセンサス形成が行われない、言い換えるならば、価格という市場が分権的であると同時に参加者に課す共通の情報が機能しない場合、市場は混乱をきたしてしまいます。

 以前、「『権力のコントロール』へのコメント」という駄文を書きましたが、コメント欄でmitsuさんややじゅんさんからコメントを頂きましたが、まだ消化不良の問題が多いです。

 「国家権力を、コントロール可能な公共財とみなすか、利益を見ずにコントロール不可能な市民に対立する存在とみなすか、という2つの議論があるとします。この2つの考え方は対立するものでもなくかといってどちらも正しいというものでもなく、実は後者は前者の特殊なケースのように私には思えます」というご指摘は鋭く、この点を整理するのは今でも難しく感じます。「公共財」のもっとも本質的な要素は、経済学の文脈では非排除性、すなわち対価を支払うことなくただ乗りができるという性質として扱われます。このことから、公共財に関する分析では「等量消費」、すなわち、私的財では価格に応じて各個人が消費量を決定するのに対し、消費量がまずあってそれに応じて各個人の支払意思額が決まるものの、それを的確に把握し、徴収し、供給を決定するメカニズムの問題になります。公共財で問題になるのは、個人の私的インセンティブと社会的に見て妥当な公共財の水準が実現できるのかという対立が生じます。国家権力への「不信」以前に、公共財をコントロール可能かどうかという点で、まず、そのような私的インセンティブと社会的インセンティブが両立するメカニズムが存在するのかどうかが問題になります。また、仮にそのようなメカニズムが存在するとしても、遂行(implementation)できるのかという問題があって、すべての人を満足させることはなかなか難しいものです。

 やじゅんさんは、さらに難しい問題を投げかけてこられました。「最後に目指すべき大目標として『個人の尊厳』の確保があって、民主主義も自由主義もその確保のためのツールに過ぎない、もちろんその重要さゆえに限りなく至上の原理に近いツールではありますが、目標達成のために、これらの原則の中身をどう決めるのかは、先に述べた通り、現実に存在する諸前提によって色々変わるわけですから」。

 これは、法や国家権力と個人の根本に関わる問題で、ややお手上げではあるのですが、金銭的インセンティブに限定しても、難しい上に、金銭的インセンティブのみでは説明のできない問題です。もっといえば、金銭的インセンティブの問題よりもはるかに深刻ではありますが、平たく言ってしまえば、「原理の中身をどう決めるのか」という点に関しては、分権的社会ではコンセンサスが形成できるかどうかにかかってきます。民主制といえども、コンセンサスにもとづいた、ある種の強制が不可欠なわけでして、やじゅんさんが問題にしているのは、「原則の中身」ですが、その中身が妥当かどうかは最終的には国家権力以前のコンセンサスが形成されるのかどうかと表裏一体になってきます。ここで、民主制と市場経済の端的な相違が出てきます。すなわち、民主制といえども、国家権力という人格的な機構がなければ成り立たないのに対し、市場経済はそれ自体が非人格的な機構でもあるという点です。両者とも分権的メカニズムではあるとはいえ、民主主義的な意思決定が場合によっては市場経済を制限することも、極端な条件の下ではありうるということになります。他方で、市場メカニズムということに限定しても、権力の設定したルールを乗り越えてしまう場合(旧共産圏での「地下経済」が端的な例ですが)もあるわけです。これを国家権力とより広い活動である個人の生活全般に拡張するのは危険ですが、適切な「原理」の設定というのは、最終的に諸個人の行動がそれに従うことによって、私的利益と両立するのかという問題になってくると考えております。

 ずいぶん長くなってしまいましたが、「民主主義とは市場経済である」という老先生の言葉を考えているうちにムダな考えが長くなってしまいました。国家権力、あるいは政治と経済の関係は、私のように過度に抽象化して考えてしまう性癖がある者からしてもかならずしも明確にある原則から導くことは困難なように見えます。他方で、現代の民主主義や市場経済に関して様々な「病理」が指摘されてはいるものの、概ねなんとかなっているという現状を説明することが課題なのでしょう。「政治と経済の関係あるいは無関係」というカテゴリーは、岡崎久彦さんの「政治と経済の間」という論考が出発点でしたが、考えるほど難しいというのが頭の悪い者の実感です。


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2008年01月03日

西洋かぶれ

 ふわあ。いやな予感に元旦の朝こそかられましたが、ニューイヤーコンサートを酒を飲み、鍋をつつきながら、無事アンコールまでゆきました。それにしても、さすがに世界で最も親しまれいているコンサートだけあって芸が細かいなあとどうでもよいところで感心してしまいます。中国やインドはクラシック音楽にとってもやはり巨大な「市場」であって、プロモートするのは当然かなと。これらの新興国でクラシック音楽が受け入れられるかは、一ファンとしても死活問題でして、日本では若い人に敬遠されがちなクラシックがはるかに成長が見込める地域で受け入れられるかは、歳をとってからもクラシックを楽しめるかどうかの分け目と見ております。まあ、そんな感想は後付けでして、実際はいい気分で聞いていただけでした。『美しく青きドナウ』、『ラデツキー行進曲』が無事終わって(ブット暗殺はスマトラ沖地震ほどの影響がなく不謹慎ではありますがホッとしました)、新しい年が始まったんだなあという実感がようやく沸いてきました。せっかく上機嫌でいたら、放映時間が余ったとのことで『椿姫』の前奏曲なんかNHKが流すものですから、思わず涙しそうになって、これだったら高橋美鈴さんと黒柳徹子さんの掛け合いでも流しておいてくれればよいのにと思いながら、ふと、ベームの来日公演の放送を思い出しました。

 だいぶ前ですが(十年以上前ではないと思いますが)、記憶が間違っていなければ、年末か年始に(かなりいい加減な記憶ですが)ベームとウィーン・フィルが来日した際にブラームスの第1番をNHKが放映していて、思わず、なにかが心に来たようで泣きながら聴いていたような記憶があります。なんで泣いたのかと問われると、言葉にしようがなく、ただ余計なことを考えさせてくれずに感動したとしかいいようがない。あんまり考えても意味がないと思うのですが、間違いがないのは胡椒をぶっかけられて涙が出るのとは違うことぐらいで、そのプロセスを疑いだすとキリがなく、ベームだからという先入観があるからだとか、ウィーン・フィルだからという先入観があるからだという話もありえるわけですが、そういうことではなさそうだということは実感としてはいえます。ただ、説明ができない。

 ついでといってはなんですが、夜が明けてから、アーノンクールの『レクイエム』(モーツァルト)を聴いてみると、昨年とは違って耳がなじんできているのか(とはいってもまる一年あいているのですが)、「涙の日(Lacrimosa)」から後が素直に耳に入ってきて、またしても泣かされてしまう。これは冷静に考えると不思議なことでして、同じCDを室内で聞いているわけですから、ライブで聴くよりもはるかに条件が変わらないはずなのに、不思議な感覚です。最初に聴いたときは妙に生々しい『レクイエム』だなあという感覚が強すぎて素直に耳に入らなかったのですが、二回目は不思議なことに生々しさは残っているのですが、スッと耳に入ってくるけれども、これも説明が難しい。あまり考えても詮のないことで感覚だけが残るのですが。

 まったく話が変わるのですが、デカルトを読んでいると、10年後に読み返せるだろうかとふと思います。日本人の翻訳者というのは優秀なもので、なんの哲学の知識がない者が読んでも、デカルトの思索の跡を追っている気分にしてくれるものです。これが実に体力と新鮮な感性を要求するので、年初から読みながらフラフラになりました。これは生半可な覚悟では読み通せないなあと。40代を迎える前でこの有様ですから、10年後に体力と感性が残っているかどうか、怪しいものです。

 あまりデカルトに深入りする話でもないのですが、デカルトの哲学からフランス革命が一直線だったかのような言説を読むと、大いに違和感があります。少なくともデカルトはこのような模倣者を想定しなかったでしょう。このような説明はあまりに「合理的」すぎてデカルトの明晰な理性は、畏れをしらない議論だと知らぬ顔をして無視するだけではないかと思います。懐疑ということにも上手と下手とがあることを感じます。もっとも、考えるにはあまりに材料が多すぎるのが、現代人の不幸なのかもしれませんが。「市場原理主義」的な発想をいたしますと、知識人と称する人たちを食わせるのにあまりにお金がかかりすぎるというところでしょうか。

 話をさらに紛れさせましょう。ちゃらんぽらんさをあえてさらせば、教科書的には大陸の合理論にイギリス経験論が対立するという図式になって、最初にその内容を教わったときに演繹と帰納の対立だという。頭の悪い私にはまるでわからなくて、哲学の本は読まないことにしました。だって両者のどちらかだけで知的な営為ができるわけがない。もっと、ちゃらんぽらんなことを書いてしまうと、哲学好きなる人に(かなり雑な単純化をしておりますが)「大陸流の合理論かイギリス流の経験論か?」みたいな質問をされて、「右足だけで立てるか左足だけで立てるかということですか?」と思わず聞き返してひどく嫌われたことがあります。『方法序説』の原文は最初の1頁で挫折したというフランス語の語学力の貧困が原因かもしれませんが、彼が疑いぬいてこれだけは勘弁してくださいということを理性と名づけたことぐらいは翻訳でも伝わってくる気分でしたから。もちろん、そんな「舞台裏」はどこにも書いていないのですが、普通に読めばわかることだろうと。『省察』の方がより生々しく、手が込んでいるとはいえ、デカルトの気分、すなわち一切合財を疑う、あるいは手放して残りうるものはなんであろうかという真摯さが伝わってきます。現代の哲学書を読まないせいか、このような懐疑に出くわしたことがなく、単に勉強不足なのでしょうが、巷で出回っている哲学書のほとんどは読もうという気にならないのは、デカルトに限らず、他の西洋哲学でも似たような感覚がありますが、人生を棒に振りかねないことに命をかけてしまう心意気を感じないからでしょう。ネットでも一端を見ることができますが、要は、俺はよく勉強したし、考えた。わからない奴が悪いというわけでして、たいていはこんなものだろうと。まあ、デカルトは文章が上手すぎて、『オイディプス』でも読んでいるような劇的な感覚がありますが。人生を棒に振る覚悟がなくして考えることなどしてはダメだとデカルトが書いているわけではないですが、棒に振っちゃった人(やたら「正統」にたてつく。こういうのはたいていは偽者ですな)がこの国では大きい顔をして、棒に振ろうとして振りようがなく、しみじみ生きている人が無言で死をじっと待っているのがこの国の「知性」というのは、「寝言」がすぎますか。単に生理的にこの国の「ポストモダニズム」とか「ニューアカデミズム」が高校生当時から生理的に嫌悪の対象でしかないというだけかもしれません。いまだに、そういうあからさまな表現はないものの、同じ程度の発想の方がもてはやされているのを見ると、異国のように感じてしまいます。

 「神」でもよいですし、「普遍」でもよいですが、西洋風のものに触れると、後戻りすることは難しくなります。クラシック音楽を聴いて涙するものがいれば、ふーんとなるだけとは異なりますが、そこには国境もなく、優れて属人的な事柄がありとあらゆる懐疑にかけられ「普遍」へと昇華され、そのプロセスすら懐疑の対象になってしまう。それは優れて科学的であると同時に宗教的ですらありうるわけでして、あえて言ってしまえば、モーツァルトの耳で鳴っていたであろう『レクイエム』の「呪われた者(Confutatis)」を再現するという、どうでもよいといってしまえばどうでもよいことにも命がけの情熱を賭けてしまう業とも同一でなんら異なるところはないだろうと。「西洋かぶれ」というのは、そのようなどうにもならない宿命すら一手に引き受ける覚悟なしではできないわけでして、やっかいな病気なのです。「時の最果て」は、そこまでの覚悟なしで「見てるだけ」(ちと古いか)という感じでしょうか。眺めるのにも、それなりの情熱がないとできませんので、このあたりがちょうどよい湯加減かと。

 年明け早々、ぬけぬけと「嘘」を書いてしまいました。全部ではなく、ごく一部ですが。
posted by Hache at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2008年01月01日

あけましておめでとうございます(2008年 元旦)

 正月にお越しいただいた方々に、謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も、(お暇でしたら)よろしくお願い申し上げます。

 今年は大変な年になりそうです。元旦に午前7時すぎに目が覚めました。はっきりいってありえない(今年も「自爆」から始まるのは「お約束」ではありますが)。自分でもびっくりしました。ただ、ふだんよりは眠く(というより低血圧の症状でしょうか)、年賀状をとってきたのはよいのですが、冷や汗ものです。今年は一通も出さずに、届いた方々にお出ししようというよこしまな考えでおりましたが、例年より元旦に多く届いて、慌ててパソコンで印刷しようとしたら、『筆まめ』のインストールを昨年に買ったPCにしていないことに気がついて、さらに慌てました。インストールしようとすると、今度はシリアルナンバーを要求されて、もう忘れたという状態。一世代前のPCでなんとか印刷は終わりましたが、ちょっと疲れて、印刷で終わり。何通かメールで賀状を頂きましたが、ご年配の方以外はなんとかメールで済ましたいというますますよこしまなことで頭が一杯になりました。

 それにしても、新年早々、早起きというのはわれながら気もち悪いです。なにかよからぬことの前触れでなければよいのですが。大晦日は紅白を見ながらすき焼き(今年は豪勢に日本酒をがんがんお肉に注ぎましたが)を食べ、今年はワインではなく日本酒に。ある方に雑誌でランキングで上位に入っていたと教えていただいたので銘柄は伏せておりましたが、あるルートで確実に入手できるので、命の賢者様がいないうちにばらしてしまうと、「飛露喜」生酒です。日本酒を飲むのは正月ぐらいでして、そもそもふだんは一人では酒をのまないので、事実上、正月ぐらいでしょうか。日本酒は飲みすぎると後に残りやすいので、できるだけ正月とかで終わりです。飛露喜は2001年頃に正月に知り合いと飲みに行って「かすみ生酒」を二人で一升をあける勢いで飲んで以来、癖になりました。辛口好きの正統派でも好きだという方は少なく、白ワインのような芳醇さがたまらないです。ただ、冷蔵しても、開封して3日ぐらいで空けてしまわないと、発酵してしまうのが難でしょうか。さらに秘密をばらしてしまうと、一本3,000円程度(配送料(含クール便・代引手数料)込)やで手に入ってしまうというのがありがたいかぎり。

 元旦は二日酔いもなく始まりましたが、年賀状で疲れて、頭を休めようと本を読み出したら、悪い頭には『省察』があまりに平明で難しく、「近代合理主義」というのは神話ではないかとすら思えてきます。私の悪い頭では、どう「神」を理解するかで文脈がまるで変わってしまいます。これが実に悩ましい。なにしろ、『省察』は厄介で今回は逆の順番で読んでおりますが、「神」を前提におくと、デカルトの考察は実に平明ですが、このあたりがどうも臭う。デカルトがもし人が悪いとすると、確信犯的に神をもちだしながら「無神論」を説いていたようにも読めるわけでして、頭が悪いというのはどうでもよいことを考えてしまいます。このあたりの失敗作の典型はレーニンの、題名を忘れてしまいましたが、唯物論なんていって「観念論」を排除してしまうと、哲学の名にも値しない話になってしまいます。

 デカルトが誠実な人だとすると、実によく考えたものだと思います。「合理」の外側には「非合理」が驚くぐらい広がっていて、そこをあえて触れずに「神」。おかげで人間は「合理」の世界に徹することができるようになったわけでして、近代合理主義というのは「合理」の世界しか想定していないというのは、後の人が間違えたんでしょうね、きっと。擁護する人も批判する人もですが。たいてい、世の中は「進歩」などせず、デカルトも「近代合理主義」の祖としておくのが後から来る人には便利だったのでしょう。デカルトが語らずして語ったことは忘れ去られてしまったようです。後から来る人には先の人よりもモノが見えると主張できる幸福があり、先の人たちが見ていて語らなかったことを知ることはできない不幸があるのでしょう。

 とまあ、新年早々、訳のわからない「寝言」にお付き合いしていただくのも恐縮ですが、幸い、ニューイヤーコンサートが始まる時間が近づいてまいりましたので、新年早々の「寝言」もここまでです。2008年の始まりに熟睡した上に早起きときますと、そらおそろしいのですが、あまり深入りせずに、新年の贅沢を楽しもうと思います。 
posted by Hache at 18:11| Comment(2) | TrackBack(1) | 健康な?寝言