2008年01月03日

西洋かぶれ

 ふわあ。いやな予感に元旦の朝こそかられましたが、ニューイヤーコンサートを酒を飲み、鍋をつつきながら、無事アンコールまでゆきました。それにしても、さすがに世界で最も親しまれいているコンサートだけあって芸が細かいなあとどうでもよいところで感心してしまいます。中国やインドはクラシック音楽にとってもやはり巨大な「市場」であって、プロモートするのは当然かなと。これらの新興国でクラシック音楽が受け入れられるかは、一ファンとしても死活問題でして、日本では若い人に敬遠されがちなクラシックがはるかに成長が見込める地域で受け入れられるかは、歳をとってからもクラシックを楽しめるかどうかの分け目と見ております。まあ、そんな感想は後付けでして、実際はいい気分で聞いていただけでした。『美しく青きドナウ』、『ラデツキー行進曲』が無事終わって(ブット暗殺はスマトラ沖地震ほどの影響がなく不謹慎ではありますがホッとしました)、新しい年が始まったんだなあという実感がようやく沸いてきました。せっかく上機嫌でいたら、放映時間が余ったとのことで『椿姫』の前奏曲なんかNHKが流すものですから、思わず涙しそうになって、これだったら高橋美鈴さんと黒柳徹子さんの掛け合いでも流しておいてくれればよいのにと思いながら、ふと、ベームの来日公演の放送を思い出しました。

 だいぶ前ですが(十年以上前ではないと思いますが)、記憶が間違っていなければ、年末か年始に(かなりいい加減な記憶ですが)ベームとウィーン・フィルが来日した際にブラームスの第1番をNHKが放映していて、思わず、なにかが心に来たようで泣きながら聴いていたような記憶があります。なんで泣いたのかと問われると、言葉にしようがなく、ただ余計なことを考えさせてくれずに感動したとしかいいようがない。あんまり考えても意味がないと思うのですが、間違いがないのは胡椒をぶっかけられて涙が出るのとは違うことぐらいで、そのプロセスを疑いだすとキリがなく、ベームだからという先入観があるからだとか、ウィーン・フィルだからという先入観があるからだという話もありえるわけですが、そういうことではなさそうだということは実感としてはいえます。ただ、説明ができない。

 ついでといってはなんですが、夜が明けてから、アーノンクールの『レクイエム』(モーツァルト)を聴いてみると、昨年とは違って耳がなじんできているのか(とはいってもまる一年あいているのですが)、「涙の日(Lacrimosa)」から後が素直に耳に入ってきて、またしても泣かされてしまう。これは冷静に考えると不思議なことでして、同じCDを室内で聞いているわけですから、ライブで聴くよりもはるかに条件が変わらないはずなのに、不思議な感覚です。最初に聴いたときは妙に生々しい『レクイエム』だなあという感覚が強すぎて素直に耳に入らなかったのですが、二回目は不思議なことに生々しさは残っているのですが、スッと耳に入ってくるけれども、これも説明が難しい。あまり考えても詮のないことで感覚だけが残るのですが。

 まったく話が変わるのですが、デカルトを読んでいると、10年後に読み返せるだろうかとふと思います。日本人の翻訳者というのは優秀なもので、なんの哲学の知識がない者が読んでも、デカルトの思索の跡を追っている気分にしてくれるものです。これが実に体力と新鮮な感性を要求するので、年初から読みながらフラフラになりました。これは生半可な覚悟では読み通せないなあと。40代を迎える前でこの有様ですから、10年後に体力と感性が残っているかどうか、怪しいものです。

 あまりデカルトに深入りする話でもないのですが、デカルトの哲学からフランス革命が一直線だったかのような言説を読むと、大いに違和感があります。少なくともデカルトはこのような模倣者を想定しなかったでしょう。このような説明はあまりに「合理的」すぎてデカルトの明晰な理性は、畏れをしらない議論だと知らぬ顔をして無視するだけではないかと思います。懐疑ということにも上手と下手とがあることを感じます。もっとも、考えるにはあまりに材料が多すぎるのが、現代人の不幸なのかもしれませんが。「市場原理主義」的な発想をいたしますと、知識人と称する人たちを食わせるのにあまりにお金がかかりすぎるというところでしょうか。

 話をさらに紛れさせましょう。ちゃらんぽらんさをあえてさらせば、教科書的には大陸の合理論にイギリス経験論が対立するという図式になって、最初にその内容を教わったときに演繹と帰納の対立だという。頭の悪い私にはまるでわからなくて、哲学の本は読まないことにしました。だって両者のどちらかだけで知的な営為ができるわけがない。もっと、ちゃらんぽらんなことを書いてしまうと、哲学好きなる人に(かなり雑な単純化をしておりますが)「大陸流の合理論かイギリス流の経験論か?」みたいな質問をされて、「右足だけで立てるか左足だけで立てるかということですか?」と思わず聞き返してひどく嫌われたことがあります。『方法序説』の原文は最初の1頁で挫折したというフランス語の語学力の貧困が原因かもしれませんが、彼が疑いぬいてこれだけは勘弁してくださいということを理性と名づけたことぐらいは翻訳でも伝わってくる気分でしたから。もちろん、そんな「舞台裏」はどこにも書いていないのですが、普通に読めばわかることだろうと。『省察』の方がより生々しく、手が込んでいるとはいえ、デカルトの気分、すなわち一切合財を疑う、あるいは手放して残りうるものはなんであろうかという真摯さが伝わってきます。現代の哲学書を読まないせいか、このような懐疑に出くわしたことがなく、単に勉強不足なのでしょうが、巷で出回っている哲学書のほとんどは読もうという気にならないのは、デカルトに限らず、他の西洋哲学でも似たような感覚がありますが、人生を棒に振りかねないことに命をかけてしまう心意気を感じないからでしょう。ネットでも一端を見ることができますが、要は、俺はよく勉強したし、考えた。わからない奴が悪いというわけでして、たいていはこんなものだろうと。まあ、デカルトは文章が上手すぎて、『オイディプス』でも読んでいるような劇的な感覚がありますが。人生を棒に振る覚悟がなくして考えることなどしてはダメだとデカルトが書いているわけではないですが、棒に振っちゃった人(やたら「正統」にたてつく。こういうのはたいていは偽者ですな)がこの国では大きい顔をして、棒に振ろうとして振りようがなく、しみじみ生きている人が無言で死をじっと待っているのがこの国の「知性」というのは、「寝言」がすぎますか。単に生理的にこの国の「ポストモダニズム」とか「ニューアカデミズム」が高校生当時から生理的に嫌悪の対象でしかないというだけかもしれません。いまだに、そういうあからさまな表現はないものの、同じ程度の発想の方がもてはやされているのを見ると、異国のように感じてしまいます。

 「神」でもよいですし、「普遍」でもよいですが、西洋風のものに触れると、後戻りすることは難しくなります。クラシック音楽を聴いて涙するものがいれば、ふーんとなるだけとは異なりますが、そこには国境もなく、優れて属人的な事柄がありとあらゆる懐疑にかけられ「普遍」へと昇華され、そのプロセスすら懐疑の対象になってしまう。それは優れて科学的であると同時に宗教的ですらありうるわけでして、あえて言ってしまえば、モーツァルトの耳で鳴っていたであろう『レクイエム』の「呪われた者(Confutatis)」を再現するという、どうでもよいといってしまえばどうでもよいことにも命がけの情熱を賭けてしまう業とも同一でなんら異なるところはないだろうと。「西洋かぶれ」というのは、そのようなどうにもならない宿命すら一手に引き受ける覚悟なしではできないわけでして、やっかいな病気なのです。「時の最果て」は、そこまでの覚悟なしで「見てるだけ」(ちと古いか)という感じでしょうか。眺めるのにも、それなりの情熱がないとできませんので、このあたりがちょうどよい湯加減かと。

 年明け早々、ぬけぬけと「嘘」を書いてしまいました。全部ではなく、ごく一部ですが。
posted by Hache at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言