2008年01月04日

民主主義は市場経済である?

 1月3日の新年会で新年の行事は終わりです。明日からは、お仕事ですが、生活のリズムが完全に来るっています。まずいなあ。まあ、今年の新年会も楽しかったので、自分用のメモです。

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 さて、2日は旧友と飲んでへべれけの状態になりまして、ブログが更新されているのですが、あまり記憶がなく、いつ書いたのかという支離滅裂な状態です。二日酔いの状態で新年会に「遅参」しましたところ、老先生のおそばという「特等席」が空いておりまして、みなさまの考えていることや気分は同じなのだなあと思いました。実際には遠慮深い(これは嘘ではありませんよ)私には畏れ多いのですが、とりあえず着席。飲みすぎでボロボロの状態ですので遅刻いたします、申し訳ありませんとの旨のメールを差し上げておりましたので、ぐびぐびビールを飲み干す私を見つめながら、「若いというのはいいなあ」とからかわれて、恐れ入るばかり。世間話が一通り終わったところで、老先生が語りかけてきたので、酔っ払っているせいもあって、「脊髄反射」状態になってしまいました。酔いというのはおそろしいものでして、ふだんはもっと上品な会話になるのですが、「お下劣モード」の私が老先生を困らせるという展開になって私自身が困惑してしまいました。ちなみに老先生は、マルキストではないので、念のため。

子曰く、「マルクスはヘーゲルの逆立ちを直したえらいやっちゃ」。

Hache曰く、「逆ですよ。勝手な逆立ちしたのはマルクスでヘーゲルはまともです」。

子曰く、「それは、どのような理由か?」

Hache曰く、「マルクスの思想から社会主義が隆盛してさらに格が落ちるレーニン、スターリンでさらにややこしくなりましたが、みんな逆立ちという憑き物が降りて、正常化している時代でございます」。

子曰く、「……。マルクスは哲学で留まればよかったのかのお。経済学に手を出したのが失敗だったのかもしれぬ」。

Hache曰く、「哲学自体がおかしいですから、なにをしてもムダでしょう」。

子曰く、「……。フランシス・フクヤマなる人物を知っておるか?彼の御仁は、ヘーゲルを援用して資本主義の勝利が『歴史の終焉』と説いた。これはいかに?」

Hache曰く、「あの御仁はネオコンでも、とるに足らない人物です。ヘーゲルを引用していますが、所詮は思い上がりを正当化するための手段でしょう。それと、彼が主張したのは市民的自由と民主主義の勝利であって、資本主義ではなかったのでは?」

子曰く、「ならば問う。民主主義とは、資本主義ではないのか?」

Hache曰く、「資本主義というのはわかりにくいので、市場経済でもかまいませんか?」

子曰く、「しかり」。


 てな感じで酔っ払っていたので、もっと高尚な会話だったと思いますが、かなり雑な記憶に頼っております。「資本主義」というのは、意図的な「主義」からうまれたのか、それはいかなる経済を表すのかがいまだに得心できないので、市場経済と言い換えておりますが、「民主主義とは市場経済である」というのは乱暴かもしれませんが、ちょっとした思索を誘います。

 この話に入る前に、私がヘーゲルを高く評価しているのは、ある経験があります。20代前半の私の文章を読んだある人が、笑いながら、「これ、もろトリアーデになっている」と指摘されて、言われてから初めて気がつきました。ヘーゲルの弁証法というと、「正−反−合」の「弁証法的統一」なんでしょうが、私の感覚では、Aなるものがあれば非Aがあり、さらに観察すれば、Aなるものと非Aなるものはその本質において同一であり、かつ相反する。「有」、「無」、「成」が最も単純ですが、外的に概念を「弁証法的」に「統一」するのではなく、この同一であり、複雑な交互作用を行っている要素がまさに交互作用しているという点で概念と事物の運動を示しているという感じです。

 ヘーゲルなんて読む前からそんな感じで世界を捉えていたので、ヘーゲルの叙述のまねをするという感覚はまるでありませんでした。傲慢なことを書くと、ヘーゲルを読んだことはありますが、私と同じ体質ですね、絶対精神を認識したヘーゲルは自らが神であり、そこでは主客の二元論など考える、すなわち実践の場では意味をなさない。まったくもって同感というすちゃらかな読み方しかしておりません。

 本題に戻ると、「民主主義は市場経済だ」という老先生の表現は、一見、乱暴ですが、酔っ払いながら、ハッとさせられました。まず、浅いレベルでは、例えば、市場経済の導入とともに高い成長率を誇ると同時に共産党一党独裁の中国は、まだ「移行期」から完全には脱していません。中国の「改革開放」路線が本格化する1990年代の半ば頃に中国は民主化という市場経済の「大前提」と論者がみなすとことを先送りして、市場経済という果実を手に入れようとしているが、これは可能か、ある程度まで実現したとしても、市場経済化が進展した場合、政治体制は維持可能かという議論も周囲ではありました。この手の議論は、今でも見ることがあります。この種の議論は、私にはあまり重要ではないように感じます。というのは、政治体制の民主化はただちに市場経済化とダイレクトに結びついているわけではなく(もちろん、民主化を求める原動力の一つとしてより自由な経済体制への移行を求める人たちの存在があることは否定できませんが)、また、市場経済が民主主義体制の下でのみ機能するのかは疑問の余地があります。もちろん、民主主義という政治体制と市場経済の組み合わせが先進国のほとんどであることも事実です。ただし、両者の関係は、私には自明では内容に映ります。

 より本質的な問題は、民主制という政治体制も、市場経済という経済のありようも、どちらも分権的社会の構成要素なのであろうと。市場経済を支える市民的諸自由は人々がモノやサービス、カネなどを取引する最低限の前提であり、生産や消費、交換といったプロセスが自発的に行われるための前提であると同時に、これらのプロセスが効率的に結び付けられる情報のやり取りという点でも、前提になっています。市民的自由は、その他に職業選択の自由など重要な点を含んでいますが、それらは自生的な側面と同時に政治的に認知されることで円滑に機能することが可能です。

 他方で、民主制は政治的意思決定のプロセスをより多くの諸個人・組織に委ねることによって、分権的な制度の中で、他の政治体制以上により強いコンセンサスの下で集権的な意思決定を可能にするメカニズムをもたらす可能性を秘めています。同時に、コンセンサスの形成がなければ、民主制もその驚くべき機能を十分に果たすことはできません。同様のことは、市場経済でも生じます。市場の機能不全の原因として不完全競争や外部性・公共財の存在などが挙げられますが、ここではとくに、公共財に関するコンセンサス形成が行われない、言い換えるならば、価格という市場が分権的であると同時に参加者に課す共通の情報が機能しない場合、市場は混乱をきたしてしまいます。

 以前、「『権力のコントロール』へのコメント」という駄文を書きましたが、コメント欄でmitsuさんややじゅんさんからコメントを頂きましたが、まだ消化不良の問題が多いです。

 「国家権力を、コントロール可能な公共財とみなすか、利益を見ずにコントロール不可能な市民に対立する存在とみなすか、という2つの議論があるとします。この2つの考え方は対立するものでもなくかといってどちらも正しいというものでもなく、実は後者は前者の特殊なケースのように私には思えます」というご指摘は鋭く、この点を整理するのは今でも難しく感じます。「公共財」のもっとも本質的な要素は、経済学の文脈では非排除性、すなわち対価を支払うことなくただ乗りができるという性質として扱われます。このことから、公共財に関する分析では「等量消費」、すなわち、私的財では価格に応じて各個人が消費量を決定するのに対し、消費量がまずあってそれに応じて各個人の支払意思額が決まるものの、それを的確に把握し、徴収し、供給を決定するメカニズムの問題になります。公共財で問題になるのは、個人の私的インセンティブと社会的に見て妥当な公共財の水準が実現できるのかという対立が生じます。国家権力への「不信」以前に、公共財をコントロール可能かどうかという点で、まず、そのような私的インセンティブと社会的インセンティブが両立するメカニズムが存在するのかどうかが問題になります。また、仮にそのようなメカニズムが存在するとしても、遂行(implementation)できるのかという問題があって、すべての人を満足させることはなかなか難しいものです。

 やじゅんさんは、さらに難しい問題を投げかけてこられました。「最後に目指すべき大目標として『個人の尊厳』の確保があって、民主主義も自由主義もその確保のためのツールに過ぎない、もちろんその重要さゆえに限りなく至上の原理に近いツールではありますが、目標達成のために、これらの原則の中身をどう決めるのかは、先に述べた通り、現実に存在する諸前提によって色々変わるわけですから」。

 これは、法や国家権力と個人の根本に関わる問題で、ややお手上げではあるのですが、金銭的インセンティブに限定しても、難しい上に、金銭的インセンティブのみでは説明のできない問題です。もっといえば、金銭的インセンティブの問題よりもはるかに深刻ではありますが、平たく言ってしまえば、「原理の中身をどう決めるのか」という点に関しては、分権的社会ではコンセンサスが形成できるかどうかにかかってきます。民主制といえども、コンセンサスにもとづいた、ある種の強制が不可欠なわけでして、やじゅんさんが問題にしているのは、「原則の中身」ですが、その中身が妥当かどうかは最終的には国家権力以前のコンセンサスが形成されるのかどうかと表裏一体になってきます。ここで、民主制と市場経済の端的な相違が出てきます。すなわち、民主制といえども、国家権力という人格的な機構がなければ成り立たないのに対し、市場経済はそれ自体が非人格的な機構でもあるという点です。両者とも分権的メカニズムではあるとはいえ、民主主義的な意思決定が場合によっては市場経済を制限することも、極端な条件の下ではありうるということになります。他方で、市場メカニズムということに限定しても、権力の設定したルールを乗り越えてしまう場合(旧共産圏での「地下経済」が端的な例ですが)もあるわけです。これを国家権力とより広い活動である個人の生活全般に拡張するのは危険ですが、適切な「原理」の設定というのは、最終的に諸個人の行動がそれに従うことによって、私的利益と両立するのかという問題になってくると考えております。

 ずいぶん長くなってしまいましたが、「民主主義とは市場経済である」という老先生の言葉を考えているうちにムダな考えが長くなってしまいました。国家権力、あるいは政治と経済の関係は、私のように過度に抽象化して考えてしまう性癖がある者からしてもかならずしも明確にある原則から導くことは困難なように見えます。他方で、現代の民主主義や市場経済に関して様々な「病理」が指摘されてはいるものの、概ねなんとかなっているという現状を説明することが課題なのでしょう。「政治と経済の関係あるいは無関係」というカテゴリーは、岡崎久彦さんの「政治と経済の間」という論考が出発点でしたが、考えるほど難しいというのが頭の悪い者の実感です。


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