2008年01月13日

運命は扉を叩く?

 ちょっとだけ「復帰」です。木曜日に飲んだ生ビール2杯が「とどめ」になりました。年末年始に摂取するアルコールが増えすぎて、私の「高性能」の肝臓(若いときには眠くなる時間すらなく、あっという間に覚醒までいっておりました)も処理できない状態だったようです。しかも、お仕事は年始から山積み状態。プライベートでも処理すべきことがあまりに多く、ぐったりしました。新年早々、疲れがとれないので、自然と半ば断食状態に。間違ってもダイエットでもなければ、健康法でもないのですが、疲れているときにはよけいなことをしないのが一番で、既に飲みすぎ、食べ過ぎの状態ですので、胃腸を使う気力がなくなります。ベストは歩くことなのですが、昨年と比較して、妙に生暖かい日が続いたせいか、体も変調気味です。左足は杞憂だったようで、歩いたら、消えてなくなりました。あとはベッドに載せている布団、マット、毛布の位置がよくなかったようなので、直したら、びっくりするほど改善したので、本当に不健康な生活をしていると実感します。左足に負担がかかるような配置になっておりました。

 それにしても、昔は「議論好き」と言われていたのはやはり正しいのかもと若干、自己嫌悪気味に。年を食ってから、周囲には悪い冗談ばかり言っていて、「バカな中年オヤジ」というのがスタンダードなイメージだと思うのですが、そういう周囲の評価は非常に正しく、このブログもタイトルからして「時の最果て」で「寝言」を書くというスタンスです。「言論」という評価を頂くと、ちょっとびっくりします。今の言論界には、例外も無視できない程度にはありますが、あまり興味がもてないのが正直なところですが、あまり「寝言」を「言論」として意識したことはありません。もちろん、私が書き手である以上、私の意見が入っていることは当然ですが、読者へ特定の主張を発信して、その反応を楽しむという感覚はなく、どちらかといえば、あの時期にはこんなことを考えていたのかなという自分のための記録です。もちろん、インターネット上に載せている以上、人様の目に触れることもあり、書くときにも意識はしておりますが、私のための私の意識の記録というところでしょうか。露骨に言えば、他人の利益のためにやっているのではなく、自分のためにやっているということです。

 さて、疲れているときにはやはり「地金」が露呈してしまうのか、最近は、本業でも物の言い方がきつく、悪い場合には辛辣ですらあり、反省する日々です。「客観的な評価」という言葉自体にツッコミをいれてしまうあたり、自分の「業」を他人に押し付けてはよろしくないなあと。どこの職場でも、仕事ぶりなどを「客観的に」評価することが要求されるのかもしれませんが、これは考えるだけで気が狂いそうになる話でして、「主観的評価」と切り離された「客観的評価」などありえるのかとか、そもそも「客観的評価」の方が「主観的評価」よりもまさる印象を通常の人は受けるけれども本当かとか、いろいろなことが頭をよぎります。誤解のないように書いておきますと、実際に仕事をするときにそういうことは無意識になっていて、意識しているわけではないのですが、どこかで感覚としてはあります。「客観的評価」をするには「基準」がいるという。その通りではあるのですが、そもそも、そのような基準を「主観的」である私たちがつくることができるのかという問題はおいても、運用するのが「主観的」な人たちであり、私自身も他人から見れば「変な人」でしかない以上、事前に余計な基準をつくっても、機能しないのが現実であろうと。あまりに評価する側の恣意性が高いと問題ですが、システムを運用する上での保険は既にかけているので、運用してから問題点を改善する方が早い。「客観的評価」を人間社会でよりよく「近似」(あくまで「主観的評価」から独立した「客観的評価」なるものが存在することが前提ですが)するならば、価値観が異なる人たちで多様な評価を行って一致するのを待つしかない。今回の件で、そこまで人的資源と時間を割くことが適切ですかねえという話をしておりましたが(もっと生々しい表現をしておりますが、それを記録することが目的ではないので)、よく言ってくれたという方もいたものの、ものの言い方が悪いと自分でもと思います。なにより、他人が笑うところではないと思い込んでいるところで笑い話にしてしまうことができず、失敗。みんな疲れているのだから、そんな頓智が必要なのですが、私自身が疲れていたので、自分の発言は絶望的なほどダメ。

 新しいことをやるのには、誰しも不安や反発があるものです。「改革」をやる際には、それが分権的な社会であろうが、集権的な社会であろうが、コンセンサスを自発的に形成するというよりも、不安や反発を押し切って少数者が多数者にコンセンサスを強制するという形になることがほとんどであるという無茶苦茶なことを感じております。それでは「革命」ではないかと思われるかもしれませんが、「改革」が劇的になれば「革命」と感じるだけのことであって、言葉の使い方の問題なのでしょう。最近は、「改革」と「説明」がインフレ気味だなあという感覚もありますが。それはともかく、物事を進める際にどんなに些細なことでも「運命は扉を叩く」のであって、現代人はそれが特別な瞬間であるという思い上がりから逃れることが難しいと感じる日々です。もっといえば、朝食のメニューをちょっと変えてみるというところですら、「運命は扉を叩く」のであって、失礼な表現を用いれば、無名の方で市井で生活を楽しみながら暮らして言論などに手を染めない人ほど人間的な存在はないのだろうという「寝言」が浮かびます。「存在」に無自覚な方ほど自覚的な存在はないものです。なにかを「わかる」瞬間に「わからない」ことをつくってしまう。休んでも休んでも疲労がとれないせいか、支離滅裂さがさらに増しております。あまり深読みされると、迷惑ではないのですが、困惑してしまいます。そうは言っても、「寝言」を載せるたびに、「運命は扉を叩く」と自意識過剰な私は感じてはおりますが。


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posted by Hache at 19:56| Comment(2) | TrackBack(1) | 気分しだいの寝言