私が読んでいる『孫子』は、金谷治訳注のワイド版岩波文庫です。初版が1991年となっておりますが、読み下し文や解釈が通常の文庫と変化しているのかまでは確認しておりません。地味な作業の合間に『孫子』を読むのが癖になって、もうこれで10回は超えていると思うのですが、いまだに読めていないことに気がつきます。内容が難解だということよりも、私の悪さは「所与」として、やはり大局的なものの見方ができる人とそうではない人には努力では越えられない壁があることを感じる日々です。
さて、今日は、「虚実篇」をとりあげてみます。とはいっても、『孫子』を再解釈しようというほど無謀ではないので、ボーっと「寝言」らしくだらだらと思うがままに書いてみましょう。以前、こちらで古森義久・吉崎達彦『ナイーブな帝国 アメリカの虚実』(ビジネス社 2003年)をとりあげましたが、ここでの「虚実」は虚像と実像というあたりの意味でしょうか。虚構と実態と言い換えても、よいのでしょう。『孫子』で出てくる「虚実」は「虚」はすきのある軍のありよう、「実」は文字通り充実した状態で、「実」をもって「虚」を討つという意味で戦闘において主導権を握ることの大切さが説かれているというのが凡庸な人の解釈です。
『孫子』では戦わずして勝つというのが最善であるというのが基本ではありますが、最善の策が実現しなかった場合、すなわち戦争に至った場合の「兵法」というよりも、心構えを幾重にも説いていて、戦略論の古典であることを実感させられます。現代の戦略論ほど体系化されていないのにもかかわらず、素人には非常に洗練された体系を感じます。「虚実篇」をとっても、いわゆる「虚々実々の駆け引き」という言葉とは対照的に、説くところは、素人目にはなるほどと思わせることが多いです。私が好きな一節は「故に善く戦う者は、人を致して人に致されず」(60頁)という冒頭部分に出現するくだりです。人間関係では「敵か味方か」と峻別できることの方が少ないのでしょうが、戦争という重大な事態ではなくても、人の上に立つ方の能力を評価するときに、最も注目するのは「人を致す」タイプなのか「人に致される」タイプなのかということです。「人を致す」というと響きが悪いかもしれませんが、人の上に立つ方というのはあえて「悪徳」にも身を委ねなくては話にもならないと思います。もちろん、私自身は「致される」というより使われる側で一生を終えるのでしょう。あるいは使う「上」がいれば十分ですね。どこかの島国では2代も続いて「人に致される」タイプがトップで大変なようですが、代わりになる方はもっと頼りなく、考えない方が精神衛生にはずいぶんとよいという悲しい状態のようです。
それはさておき、「虚実篇」に戻りましょう。ちょっと長くなりますが、先に挙げた版から引用いたします。
【引用1】 攻めて必らず取る者は、其の守らざるところを攻むればなり。守りて必らず固き者は、其の攻めざる所を守ればなり。故に善く攻むる者には、敵 其の守る所を知らず。善く守る者には敵 其の攻むる所を知らず。微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に能く敵の司命を為す(前掲書 62頁)。
老荘思想の影響とも解釈できそうですが、冷静に読むと、ごくごく当たり前でありながら、なかなか現実には難しいなあと思います。戦史に詳しいわけではありませんが、たいていの戦闘などどちらかがここで書かれていることの6割も満たせば大勝となるわけで、表現は悪いですが、この世で行われた戦闘の多くは並がやっとでしょう。まあ、権力闘争も『孫子』でも最低限、理解した上でやってくださいなというところでしょうか。プレイヤーにとっては真剣勝負なんでしょうが、凡将どうしが泥沼の戦いをやって迷惑するのは、普通の人ですから。「プロ」と「アマ」の違いは、「アマ」が対象がつまらんと投げることができるのに対し、「プロ」は投げることができないという点にあるのでしょう。まあ、世の中の「闘争」のほとんどは引用の逆だと割り切ってなるようにしかならない現実を見てゆくよりほかないのでしょう。すなわち、「善く攻めざる者には、敵 其の守る所を知る。善く守らざる者には的 其の攻むる所を知る」てな感じ(でたらめな文章なのでまともな文章にできる方にアドバイスをお願いいたします)。ニヒリズムには無縁ですが、15年ぐらいは「解」がないと澄ましこんでおけば、気楽なものです。
【引用2】 故にこれを策りて得失の計を知り、これを作して(おこして:引用者)動静の理を知り、これを形して(あらわして:引用者)死生の地を知り、之に角れて(ふれて)有余不足の処を知る。
故に兵を形すの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず(あたわず:引用者)、智者も謀ること能わず(68−69頁)。
本来は節がわかれておりますが、強引にくっつけてしまいました。どこかの島国のことを忘れて世界を適当に眺めますと、米軍を中心とする、ちょっと古臭い表現ではありますが、「軍事での革命(RMA)」というのも、戦場レベルでまさに軍を「無形」を可能にするすさまじい「革命」だなあと素人目には映ります。【引用1】とあわせると、いわゆる「ピンポイント攻撃」というのは、「無形」の一つかな、とあまりに素人的ですが、感じます。他方で、「戦場レベル」の戦略を離れて、より大きなレベルで考えると、米軍が中東とその周辺に集中しているのは、「無形」の対極でアメリカによからぬ意図と能力をもっている勢力にはわかりやすい構図でもあるのでしょう。ただ、よからぬ意図をもっている勢力も、『孫子』の発祥の地でありながら、「無形」にはほど遠く、これまたいい加減な素人的な観察者には萎える情勢ではあります。
それにしても、民主制という政体は、軍事的な行動にあまりに代償の大きい制約を課すことを実感します。兵力の整備、配置など透明性を確保することを要求されることは対外的にというよりも、国内への説得として必然ではありますが、軍事上はこれらの代償は大きいと感じます。その点、専制国家は有利なのでしょう。米ソ冷戦の時代のソ連の軍事の透明性などは、本当のことを伝えるということ以上に、そのようなコミュニケーションが行われること自体に意味があったのでしょう。中国の場合には、一方的にこちらの手の内をさらけだすだけで、米国の艦船で平気で写真を撮ってしまう無神経さを考慮すると、とてもじゃないですが、「透明性」の確保のための手段がコミュニケーションではなく、双方の齟齬をきたしかねない印象すらあります。
ただし、民主制の「無形」というのは、上記で述べた範囲を越えている部分があります。すなわち、いったん生じた事態に世論がどう動くのかということを見極めるのは、民主制の下で暮らしている人間にも困難な部分があります。「間接侵略」の脅威は軽視できないのでしょうが、権力者といえども、世論から見放されれば、動きようがなくなってしまいます。中国による、あからさまな軍事的脅威ではなく、種々の工作は、分権的な社会では効果が限定されてくるのでしょう。米軍の抑止力の低下、中共による民主主義国のエリートへの浸透は軽視すべきではないのでしょうが、民主制そのものを覆さない限り、その影響力は限定されるのでしょう。これを中共自らが過大評価することがむしろ危険ではないか。そんな「寝言」が浮かびます。
【引用3】 形に因りて(よりて:引用者)勝を錯くも(おくも:引用者)、衆は知ること能わず。人皆な我が勝の形を知るも、吾が勝を制する所以の形を知ることば莫し(なし:引用者)。故に其の戦いの勝つや復さずして(くりかえさずして:引用者)、形に無窮に応ず(69頁)。
蛇足扱いになってしまいましたが、今回、読み返しながら思わず考え込んだのが上記の引用です。【引用3】は【引用2】の続きなのですが、ふと、塩野七生さんがカエサルの戦争が戦史家たちを悩ましているというのはこういうことなのかもしれないと。彼は『ガリア戦記』というあまりに巨大な作品を残しましたが、この面での後継者は生まれなかったと思います。もちろん、カエサルはオクタヴィアヌスという偉大な後継者に恵まれましたが。軍事に限らず、成功は「復さず」なのでしょう。なぜなら、「衆は知ること能わず」だから。友人でもなく、やむをえず業務上、お付き合いした人が「失敗からはなにも学べない。成功からしか学べない」と主張していましたが、「成功」に学ぶことははるかに難しいのでしょう。もっといえば、「成功」にせよ、「失敗」にせよ、どれも個性的なのであって「復さず」という類の、扱いにくい話なのかもしれません。最近は、過去の事例から自然科学のような法則性を導くことはほとんど不可能ではないかとすら感じますが、それでも、なにも分析しないよりはよいのでしょう。成功にせよ、失敗にせよ「復さず」ということがわかるだけでも価値があるという「寝言」が浮かびます。
蛇足ですが、日露戦争の戦史も、失敗を覆い隠す「改竄」があったという指摘も散見しますが、むしろ、その種の「改竄」よりも、成功を伝えることが当の戦争を担った方たちですら難しいことを示しているのだと思います。勝ち戦を語り継ぐということはけっして容易ではないのでしょう。さらにいえば、国家の栄枯盛衰など「マニュアル」にすることは、おそらくは不可能なのでしょう。『孫子』が紛れのない兵法書であり、戦略論の古典であることは素人にもわかりますが、いかれた「外道」の目には兵法や戦略を知悉した上で後は自分で考えなさいと突き放しているようにも読めます。『孫子』の成立には諸説があり、曹操による注(魏武注)などがあるものの、テクストはいくつもあるそうです。このような経緯は、「其の戦いの勝つや復さず其の戦いや復さずして、形に無窮に応ず」という、戦争や戦闘という人間の生命を賭けた行為が「無窮」であると同時に、それを意識化する営みそのものが「無窮」であることをはからずして示していると感じました。