2008年03月28日

『孫子』虚実篇

 周囲では評判が最悪だったIE7をMicrosoft Updateの際にインストールしました。最初は、ツールバーの変更で面倒でしたが、タブの使い方に慣れてくると、意外と便利です。旧スペックのマシーンにも導入しましたが、重たい感覚はなく、だいぶ改善したのでしょうか。忍者ツールで見ると、この1ヵ月間でアクセスした方のブラウザーの内訳は、IE6が約53.7%、IE7が22.4%となっていて、VISTAよりも普及が進んでいるようです。ちなみにさくらインターネットが提供しているアクセス解析では、おそらくRDFの読み込みを含んでいるので(PVが一日あたり3000を超えておりますが、アクセスカウンターの周り方を見ると信用できないです)、不明が多すぎて、役に立たないのが難ではあります。

 私が読んでいる『孫子』は、金谷治訳注のワイド版岩波文庫です。初版が1991年となっておりますが、読み下し文や解釈が通常の文庫と変化しているのかまでは確認しておりません。地味な作業の合間に『孫子』を読むのが癖になって、もうこれで10回は超えていると思うのですが、いまだに読めていないことに気がつきます。内容が難解だということよりも、私の悪さは「所与」として、やはり大局的なものの見方ができる人とそうではない人には努力では越えられない壁があることを感じる日々です。

 さて、今日は、「虚実篇」をとりあげてみます。とはいっても、『孫子』を再解釈しようというほど無謀ではないので、ボーっと「寝言」らしくだらだらと思うがままに書いてみましょう。以前、こちらで古森義久・吉崎達彦『ナイーブな帝国 アメリカの虚実』(ビジネス社 2003年)をとりあげましたが、ここでの「虚実」は虚像と実像というあたりの意味でしょうか。虚構と実態と言い換えても、よいのでしょう。『孫子』で出てくる「虚実」は「虚」はすきのある軍のありよう、「実」は文字通り充実した状態で、「実」をもって「虚」を討つという意味で戦闘において主導権を握ることの大切さが説かれているというのが凡庸な人の解釈です。

 『孫子』では戦わずして勝つというのが最善であるというのが基本ではありますが、最善の策が実現しなかった場合、すなわち戦争に至った場合の「兵法」というよりも、心構えを幾重にも説いていて、戦略論の古典であることを実感させられます。現代の戦略論ほど体系化されていないのにもかかわらず、素人には非常に洗練された体系を感じます。「虚実篇」をとっても、いわゆる「虚々実々の駆け引き」という言葉とは対照的に、説くところは、素人目にはなるほどと思わせることが多いです。私が好きな一節は「故に善く戦う者は、人を致して人に致されず」(60頁)という冒頭部分に出現するくだりです。人間関係では「敵か味方か」と峻別できることの方が少ないのでしょうが、戦争という重大な事態ではなくても、人の上に立つ方の能力を評価するときに、最も注目するのは「人を致す」タイプなのか「人に致される」タイプなのかということです。「人を致す」というと響きが悪いかもしれませんが、人の上に立つ方というのはあえて「悪徳」にも身を委ねなくては話にもならないと思います。もちろん、私自身は「致される」というより使われる側で一生を終えるのでしょう。あるいは使う「上」がいれば十分ですね。どこかの島国では2代も続いて「人に致される」タイプがトップで大変なようですが、代わりになる方はもっと頼りなく、考えない方が精神衛生にはずいぶんとよいという悲しい状態のようです。

 それはさておき、「虚実篇」に戻りましょう。ちょっと長くなりますが、先に挙げた版から引用いたします。

【引用1】 攻めて必らず取る者は、其の守らざるところを攻むればなり。守りて必らず固き者は、其の攻めざる所を守ればなり。故に善く攻むる者には、敵 其の守る所を知らず。善く守る者には敵 其の攻むる所を知らず。微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に能く敵の司命を為す(前掲書 62頁)。

 老荘思想の影響とも解釈できそうですが、冷静に読むと、ごくごく当たり前でありながら、なかなか現実には難しいなあと思います。戦史に詳しいわけではありませんが、たいていの戦闘などどちらかがここで書かれていることの6割も満たせば大勝となるわけで、表現は悪いですが、この世で行われた戦闘の多くは並がやっとでしょう。まあ、権力闘争も『孫子』でも最低限、理解した上でやってくださいなというところでしょうか。プレイヤーにとっては真剣勝負なんでしょうが、凡将どうしが泥沼の戦いをやって迷惑するのは、普通の人ですから。「プロ」と「アマ」の違いは、「アマ」が対象がつまらんと投げることができるのに対し、「プロ」は投げることができないという点にあるのでしょう。まあ、世の中の「闘争」のほとんどは引用の逆だと割り切ってなるようにしかならない現実を見てゆくよりほかないのでしょう。すなわち、「善く攻めざる者には、敵 其の守る所を知る。善く守らざる者には的 其の攻むる所を知る」てな感じ(でたらめな文章なのでまともな文章にできる方にアドバイスをお願いいたします)。ニヒリズムには無縁ですが、15年ぐらいは「解」がないと澄ましこんでおけば、気楽なものです。

【引用2】 故にこれを策りて得失の計を知り、これを作して(おこして:引用者)動静の理を知り、これを形して(あらわして:引用者)死生の地を知り、之に角れて(ふれて)有余不足の処を知る。
 故に兵を形すの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず(あたわず:引用者)、智者も謀ること能わず(68−69頁)。



 本来は節がわかれておりますが、強引にくっつけてしまいました。どこかの島国のことを忘れて世界を適当に眺めますと、米軍を中心とする、ちょっと古臭い表現ではありますが、「軍事での革命(RMA)」というのも、戦場レベルでまさに軍を「無形」を可能にするすさまじい「革命」だなあと素人目には映ります。【引用1】とあわせると、いわゆる「ピンポイント攻撃」というのは、「無形」の一つかな、とあまりに素人的ですが、感じます。他方で、「戦場レベル」の戦略を離れて、より大きなレベルで考えると、米軍が中東とその周辺に集中しているのは、「無形」の対極でアメリカによからぬ意図と能力をもっている勢力にはわかりやすい構図でもあるのでしょう。ただ、よからぬ意図をもっている勢力も、『孫子』の発祥の地でありながら、「無形」にはほど遠く、これまたいい加減な素人的な観察者には萎える情勢ではあります。

 それにしても、民主制という政体は、軍事的な行動にあまりに代償の大きい制約を課すことを実感します。兵力の整備、配置など透明性を確保することを要求されることは対外的にというよりも、国内への説得として必然ではありますが、軍事上はこれらの代償は大きいと感じます。その点、専制国家は有利なのでしょう。米ソ冷戦の時代のソ連の軍事の透明性などは、本当のことを伝えるということ以上に、そのようなコミュニケーションが行われること自体に意味があったのでしょう。中国の場合には、一方的にこちらの手の内をさらけだすだけで、米国の艦船で平気で写真を撮ってしまう無神経さを考慮すると、とてもじゃないですが、「透明性」の確保のための手段がコミュニケーションではなく、双方の齟齬をきたしかねない印象すらあります。

 ただし、民主制の「無形」というのは、上記で述べた範囲を越えている部分があります。すなわち、いったん生じた事態に世論がどう動くのかということを見極めるのは、民主制の下で暮らしている人間にも困難な部分があります。「間接侵略」の脅威は軽視できないのでしょうが、権力者といえども、世論から見放されれば、動きようがなくなってしまいます。中国による、あからさまな軍事的脅威ではなく、種々の工作は、分権的な社会では効果が限定されてくるのでしょう。米軍の抑止力の低下、中共による民主主義国のエリートへの浸透は軽視すべきではないのでしょうが、民主制そのものを覆さない限り、その影響力は限定されるのでしょう。これを中共自らが過大評価することがむしろ危険ではないか。そんな「寝言」が浮かびます。

【引用3】 形に因りて(よりて:引用者)勝を錯くも(おくも:引用者)、衆は知ること能わず。人皆な我が勝の形を知るも、吾が勝を制する所以の形を知ることば莫し(なし:引用者)。故に其の戦いの勝つや復さずして(くりかえさずして:引用者)、形に無窮に応ず(69頁)。

 蛇足扱いになってしまいましたが、今回、読み返しながら思わず考え込んだのが上記の引用です。【引用3】は【引用2】の続きなのですが、ふと、塩野七生さんがカエサルの戦争が戦史家たちを悩ましているというのはこういうことなのかもしれないと。彼は『ガリア戦記』というあまりに巨大な作品を残しましたが、この面での後継者は生まれなかったと思います。もちろん、カエサルはオクタヴィアヌスという偉大な後継者に恵まれましたが。軍事に限らず、成功は「復さず」なのでしょう。なぜなら、「衆は知ること能わず」だから。友人でもなく、やむをえず業務上、お付き合いした人が「失敗からはなにも学べない。成功からしか学べない」と主張していましたが、「成功」に学ぶことははるかに難しいのでしょう。もっといえば、「成功」にせよ、「失敗」にせよ、どれも個性的なのであって「復さず」という類の、扱いにくい話なのかもしれません。最近は、過去の事例から自然科学のような法則性を導くことはほとんど不可能ではないかとすら感じますが、それでも、なにも分析しないよりはよいのでしょう。成功にせよ、失敗にせよ「復さず」ということがわかるだけでも価値があるという「寝言」が浮かびます。

 蛇足ですが、日露戦争の戦史も、失敗を覆い隠す「改竄」があったという指摘も散見しますが、むしろ、その種の「改竄」よりも、成功を伝えることが当の戦争を担った方たちですら難しいことを示しているのだと思います。勝ち戦を語り継ぐということはけっして容易ではないのでしょう。さらにいえば、国家の栄枯盛衰など「マニュアル」にすることは、おそらくは不可能なのでしょう。『孫子』が紛れのない兵法書であり、戦略論の古典であることは素人にもわかりますが、いかれた「外道」の目には兵法や戦略を知悉した上で後は自分で考えなさいと突き放しているようにも読めます。『孫子』の成立には諸説があり、曹操による注(魏武注)などがあるものの、テクストはいくつもあるそうです。このような経緯は、「其の戦いの勝つや復さず其の戦いや復さずして、形に無窮に応ず」という、戦争や戦闘という人間の生命を賭けた行為が「無窮」であると同時に、それを意識化する営みそのものが「無窮」であることをはからずして示していると感じました。
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2008年03月26日

再・偽善の効用

 本業でミスが発覚しました。今回は、「納期」なんて楽勝だねと思っていた矢先の「事故」で、もう「この世の終わり」のような気分です。全部、一から洗い直しが必要なので軽めの話題に興味がゆきます。チベットがひどいとか台湾海峡がどうたらこうたらとか、アメリカ経済のリセッションとか、なるようになるでしょという気分なので、軽くぬるめのことを考えたくなります。

 なんとなく「プラザ合意」のことが気になったので、吉崎達彦『1985年』(新潮社 2005年)を読み始めました。というのは跡付けの理屈でありまして、ベッドのそばに本が積んであるのですが、ふとんやマットの虫干しでもと裏返したら、出てこなくなった本が出てきて「あらあ、懐かしい」という感じで読みはじみて、あらためて「プラザ合意」と「バブル景気」の評価の低さに、「動乱の15年」という「寝言」に自信喪失気味です。1985年は父上の転勤のおかげで浜松市から静岡市に3月末にっ引っ越した時期で環境の変化に適応するのが精一杯でした。この本のおかげでこんな年だったんだという感じでしょうか。御巣鷹山の事故さえ、記憶がおぼろで、こんな悲惨な事故だったのだとあらためて驚きました。

 1985年で印象に残っているのは、やはり「円高不況」です。当時、父上が珍しく暗い顔(体型的にも『らんま1/2』の早乙女玄馬にそっくりですが、性格もそっくりで、異なるのはパンダに変身するとか芸がないことぐらい)をして「俺は何度も不景気を見てきたが、これは本当にヤバイかもしれん」と話していたので、初めて新聞の経済欄を読むようになりました。為替や株価、成長率などに興味をもつようになったのが、この時期だったのかもしれません。所詮は子供ですし、お小遣いも減らなかったので、今ひとつ「円高不況」が実感できませんでしたが。

 最近は見なくなりましたが、テレビのニュースでも為替の話題が大きく扱われていたことが記憶に残っております。『1985年』では「バブル景気」の評価は総じてネガティブですが、私自身の当時の実感はちょっと違うなと。あれだけの「危機」を克服したのだから、ここからの景気のよさは長く続くだろうなあと高校生程度ですからまったく根拠がありませんが、そんな感覚で見ておりました。「バブル景気」というのは、「円高不況」を克服したという自信の結果ではないかと今でも感じることがあります。自信過剰を戒めることはたやすいのですが、そういう方が実際に自分のことで自制された例を見たことがなく、やりすぎた後の始末の上手、下手が「運命」をわけるのかもと思ったりします。

 ちなみに、この本を周囲で宣伝したおかげでかんべえさんファンが周囲で一気に増えましたが、本を買う前に「○タク系エコノミスト」の新作という「キャッチフレーズ」で売り込みました。結果、まことに、著者には失礼ですが、著者近影で「やっぱり視線がヤバイ」とか「この人、かなりヲ○ク度高そう」と中身に関係のないところで盛り上がる始末。あたしゃ、投げたね。さすがに、『サンプロ』での出演で「生かんべえ」さんが拝めると、周囲で日曜朝の討論番組なんて見ない人までが毎週見て、「かんべえさん、でてないじゃん」とか「苦情」まで言われる始末。見た人は、「やっぱり視線がヤバすぎる」とのことで、ますます、「弟子」を僭称することが憚られる状態になりました。え、もうとっくに見放されてる?

 『1985年』に話を戻すと、一番、印象に残っているのが、「その反面、25歳で体験したつくば博のことは、あまり印象がない。おそらく一緒に行った女性(現在の配偶者)の機嫌ばかり気にしていて、パビリオンなど上の空であったのだろう」(99−100頁)というあたりですね。最初に読んだときに、「著書で家庭円満を図るとはかんべえ、おそるべし」と思ったしだいです。この細やかさが「極悪」の「極悪」たるゆえんであります。

 さて、知り合いに「偽善者度診断」なるものがおもしろいと教えてもらったので、お遊びとしてはいいかなと試してみたところ、結果が出なくてありゃまあ。代わりに、 「あなたの偽善者度チェック」なるものを試してみました。結果は、以下の通り。

あなたの偽善者度はこんな感じ!

腹の黒さ  34%
知的偽善度  66%
勇気ある行動  74%
天使の光 100%

あなたの偽善者度は97%ぐらいで【春の偽善運動級】です。
あなたはすでに腹黒く、偽善者の仮面を被り続けて生活しているようです。
日常的な所作に偽善を絡ませるので、意識しなくても、ごくなめらかに偽善活動を営んでいるのでしょう。
この過酷な現代日本で生き残るためには、他人を蹴落としてでも、自分が突出しなくてはなりません。
それをニコニコと笑顔でやれば、一見、悪い人に思われないので、あなたはかなりの世渡り上手ともいえるでしょう。

あなたの偽善度アップアイテム

早朝の元気でさわやかな挨拶


 最初は「本当の善人級」という結果でしたが、なんかいやだなあと思って、ある設問だけ変えたら、「春の偽善運動級」に「昇格」しました。設問自体は今ひとつですが、お手軽なのでお遊びとしてはまあまあという評価でしょうか。しかし、「あなたの偽善度アップアイテム」が「早朝の元気でさわやかな挨拶」とは朝が弱い私には致命的ですな。ちなみに、結果が変わった設問は「質問【6】 大切なものを賭けた勝負!! 」で、実際にあったシチュエーションでは「正攻法でがんばる」なんですが、当然、「相手の弱点をつく」のも併用するのでこちらを選んだら、「知的偽善度」が上昇しました。設問自体があまりおもしろくないのですが、「白か黒か、といえば…?」って『らんま』ファンとしては、そりゃあパンダ以外ありえないと思ったら選択肢にあったので大満足。実際によくあるシチュエーションは質問【5】と質問【7】で、前者は聞かなかったことにして知らん顔をしてますし、後者は表面的にはニコニコしながら、内心は面倒だなあというのがほとんどです。ま、ごく普通の人ですね。

 仲のよくない人にはよく「偽善者」と陰口を叩かれますが、私自身は最高ではないですが、なかなか嬉しい評価です。「偽善の効用」についてこんな「寝言」を書いたことがありますが(実はやたらと「寝言」を書きすぎて、自分でもgooleで検索しないとわからなくなっています。冷静になると、サイト内検索を使えば一発だと気がついて、さらに欝)、どうも日本人の大多数の感性は、「偽善」という言葉から上司にゴマをするサラリーマンとか、配偶者に尽くしているフリをしながら不倫を楽しむ既婚者とか、そんな感覚ではないかと。偽善をともなわない、「善意」にもとづく「善行」は「独善」(あるいはひとりエ○チ)にすぎないという、いかれた「外道」の感性は、この国ではいつの時代もマイノリティなんだなあと「寝言」というよりも、「独り言」を呟きたくなります。
posted by Hache at 12:28| Comment(4) | TrackBack(0) | ふまじめな寝言

2008年03月25日

医者の不養生

 先週の金曜日にかかりつけのお医者さんが復活したとのことでしたので、早速、来院しました。案の定、混み合っていて、大変。ふだんは1ヶ月に1回、診察していただいて、あとはお薬を頂くだけなのですが、これからは毎回、診察されるとのことで病み上がりなのに大丈夫かなと思いました。言いにくいのですが、案の定、3月17日に「復活」されたものの、翌日から再び、休診でこういう外れてほしい「予想」はよくあたります。さすがに待っている患者の数が多いせいか、診察も一人あたり10分程度で終わって私の番になりました。

 とくに、睡眠障害の症状が改善するわけではなく、悪くもならないのでそのまま申し上げました。ふだんなら、これで診察自体は終わりなので、先生に向かって「お大事になさってください」と申し上げるのも気が引けますし、まだ待っている人もいるので、そろそろかなと思ったときに、伺いにくいご自身の病気のことを説明されました。慢性的なストレスから来るご病気のようで、「ふだん、気楽に生きるのが一番ですわと言っていた本人がこれでは説得力がなくなります」と苦笑いを浮かべながら、おっしゃるので、ちょっとしんみりしてしまいました。詳しい病気の内容は匿名とはいえ、他人のプライバシーに関わりますので控えます。こういうときはあえて面と向かってまともな人が口にしないことをだすのが、いかれた「外道」の本領。ずばり、「医者の不養生ですね」。もちろん、意地悪な意図はなく、濃淡の差も大きいのでしょうが、医師という仕事は大変だなと思います。

「産科崩壊」とか「救急外来崩壊」とかマスコミが騒ぎやすい話は注目を浴びますが、開業医でもすさまじい状態です。現行の医療保険制度はあまりに問題が多いように感じます。「診察」から離れて、ついつい話し込んでしまいましたが、私があくまで暴論ですがと前置きした上で、「医療サービスには国民のニーズがあるのだから医療費に歯止めをかけるとかけち臭いことを言わないか、皆保険という建前を捨てて負担力に応じて良質のサービスを維持するか、どちらかしかないと思います」と不躾なことを申し上げました。意外でしたが、あっさり同意されてしまって、「○○さん、早く有名人になってテレビにでも出て本音をバンバン言ってくれませんか?」などと煽られたので、「この顔が全国に流れたら、ご老人がショック死するか抗議の電話が殺到しますね」と返していつもの穏やかなムードで診察が終わりました。とある街角にある病院の一光景です。

 なぜ、こんな「寝言」を書いているのかといえば、どうも最近、メディアでもネットでも違和感を感じることが多いからなのでしょう。たとえば日銀総裁人事でも、民主党の愚行は目に余りますが、政府の対応にも萎えます。それを統帥権干犯問題にたとえられても、まあ、戦前の政党の政争の拙劣さが滅亡の一因だとは思いますが、なんだか大袈裟だなあという感じ。政争にもルールづくりが必要だと両方の政党が本気になるまで「犠牲」が続くでしょうし、まだ「ねじれ国会」から一年。気が早すぎる感じです。

 あるいは、finalventさんが「暴論」と評価した『毎日』の社説を読むと、論説委員さんの「閉塞感」からくる発作みたいなもので、道路財源の一般化には慎重ですが、これはこれでいいんじゃないのと。昔は「民生の安定」という学術的ではありませんが、学者が定義できない部分を上手に表現する言葉がありましたからね。

 言いにくいのですが、世代論は信用しないのですが、1960年以前に生まれた方たちよりも1980年頃に生まれた人たちとの方が話があうことが多くなりました。簡単に言えば、彼らは1990年代後半から2000年代前半の不況でも、「これで不況なんですかね」とあっけらかんとしたものです。既に生活水準は豊かなので、変なインセンティブを与えている制度をこまめに見直してゆくという地味な話だと盛り上がるので、親近感を覚えます。ちなみに、公共事業の見直しは、理想論からいえば費用便益分析を丁寧に行って優先順位を明確にすることが肝要でしょうが、残念ながら便益計算も費用計算もザルの状態では、「暴論」がでてくるのもしょうがないかなと。「上げ潮」とか「リフレ」に拒絶感があるのは、理屈だけでなく(説得的なモデル(それでも仮説にすぎないが)すら示せないのではそもそも議論の対象にならないわけですが)感覚の違いだなと思いました。

 簡単に言えば、既に豊かな社会なのだから、「カンフル剤」のような「大技」(ないものねだり)よりも既存の資源をいかに有効に利用するのかということに関心が向くというところでしょうか。それは、個別の問題で残すべきインセンティブとなくすべきディスインセンティブを洗い出し、地道ながら強力なリーダーシップが要求される作業です。もっといえば、演出をどのようにするかは別として、政治が手続き的には民主主義的でも内実は専制以上に長期間にわたるリーダーシップを要するリストラクチャリング(再構築)なのでしょう。問題は、そのようなリーダーシップの担い手が出現するかですが、どうもこの国は分が悪いのかもしれません。それでも、失礼ではありますが、コンセンサスが確固としていれば、指導者が「並」程度でもなんとかなるのが民主主義の強みなのでしょう。ただし、コンセンサス形成は、英米を見ても、誰もが「痛い」と感じるまで固まらないのが民主主義のならいかもしれません。気長に楽しく暮らしてゆくのが、市井の人にはベストですね。

 その意味で最も世代の差を感じるのは、最近のかんべえさんでしょうか。台湾総統選挙に関しては、らくちんさんの2008年1月15日の記事がもっともわかりやすいように思います。事後の評価でこの記事を上回るものがないのは寂しいかぎり。「スモールポリティクスの時代」が最近の傾向というのはちょっと違うんじゃないですかと思います。自民党が安保闘争を克服して高度成長、そして1980年代の「安定成長」を演出したのは、まさに「スモールポリティクス」で様々なインセンティブを多様な階層・地域に与えながら国民の統合を図ったからだろうと。多様な政策を、乱暴ですが「大」、「中」、「小」にわけますと、このような「中」、「小」レベルの問題で上手に演出しながら、「大」レベル(主として外交・安全保障政策)での異論をコントロールしてきたのが自民党の統治能力の根源だったと思います。ただし、「大」レベルでは当時の国会対策上(より根源は1960年代から90年代までの世論の問題ですが)、やむをえないとはいえ、今日まで混乱を残してきているとも思いますが。

 現在では、その大部分は残すべきインセンティブであるのかどうか問われてはいますが、「スモールポリティクス」での対応は実際には場当たり的だったのでしょうし、失敗も多いのでしょうが、やはり政権を担当し続けただけに侮れないものがあったと思います。民進党の失敗は、スモールポリティクスで有権者の信頼を確立するという国民党の一党独裁体制を打破した後にやるべきことを怠ったことに尽きると思います。

 情報不足なので台湾の話は深入りしませんが、民主政の政治家に要求されるのは、「小」の問題、場合によっては「中」の問題で民意をつかみながら、「大」の問題で抵抗する人たちを屈服させることに尽きるのでしょう。最近は、専制政治でも同じかもしれないとすら感じます。「スモールポリティクス」はけち臭い発想なのではなく、民主政では「大」の問題で言い分を通すための、避けては通れない「洗礼」なのだと思います。安倍前総理は「洗礼」すら避けてしまい、前任者よりは政治的手腕が上だと見ていた福田総理も疑問符がつく状態では、自民党の統治能力も1990年代の政権交代時よりも低下しているように感じます。

 本題に戻ると、冒頭の先生は、「平凡な街医者で人生を終えるのも大変なもんですなあ」と漏らしておりました。そのような感覚を侮ることは、民主政では「愚行」以外の何物でもないと思います。
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2008年03月24日

技術進歩と諸制度の「進化」

 周囲のできる人には「PCぐらい自作しないか?」と言われてもう10年近くなります。所詮、と言ってはなんですが、IBMはともかく、ゲートウェイ、デルと渡り歩いたので、段々とトラブル処理にも慣れてきて、グラボの選定・換装がきっかけでちょっとは詳しくなりました。最近、大したタスクもしていないのに、ちょくちょく、ブルースクリーンになるので、参ります。どうもBTOのPCなので電源が弱いかもと素人判断。そろそろ、自作も検討しようかなと思います。

 日曜日にコンタクトの調子が悪いので交換をするためにでかけました。ついでに、家電量販店を覗くと、最近はソフマップやツクモでなくても、意外とPCパーツが揃っているんだなあと時代錯誤の感想をもちました。古いデルのPC内部を見ると、電源部分がなんとも貧弱です。よさそうなパーツを見ると、電源でも意外と根がはるのでびっくりしました。素人目にはENERMAXがよさそうと思いましたが、PCI-Expressは古いPCには「猫に小判」なので、衝動買いを抑えました。キーボードを見ると、アルミボディのタッチがよい感じのもでていて、こちらも1万円前後するので断念。あと2年ぐらい、64bit環境に耐えられるスペックの台と2003年ごろの台で我慢です。ただ、今ひとつ安定性がないので、自分でも作ってみるのも一興かなと。

 書店に寄ってど素人向けの自作パソコン雑誌や書籍を立ち読みしましたが、「オススメ」の構成がけっこう分かれるので、難しいなあと。ある雑誌ではクアッドコアで5年は使えそうなスペックを推奨していて、別の書籍ではメインストリームのデュアルコアを推奨していてなかなか見極めるには時間がかかるなあと。忍者ツールによる解析では、「寝言@時の最果て」にアクセスして頂いてる方の約75%はWindows XPでVistaは8%です。まだ、Vistaを使う気にはなれませんが、あと数年で変わってくるのでしょうか。XPでもデュアルコアはもったいない気もしますが、将来的に拡張性を考えると、デュアルコアが最低限になるのでしょうか。

 それにしても、情報通信技術の進歩は目覚しいですが、高性能のPCを自分でも組み立てられる時代が来るというのは驚きです。国内外で政治も経済も大荒れですが、生活を振り返ると、豊かなものだと感心します。素人の目には制度というのは失敗を重ねながらゆっくりとよきものを残す作業の積み重ねであろうと。技術の世界も似たようなものでしょう。ただ、情報通信技術に限らず、技術進歩は驚くばかりです。科学技術万能の20世紀後半の感覚は過去のものになった印象がありますが、やはり技術進歩は制度に先んじるのでしょう。問題は、技術進歩の成果を確実にする制度を地道に構築する人材の育成が肝心という、ありきたりな「寝言」が浮かびました。
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2008年03月22日

高見沢将林防衛政策局長の「議」

 まあ、くだらない割にいろいろ面倒なことが多いので忘れがちですが、3月13日の自民党安全保障調査会における高見沢将林防衛局長の発言は注目しておりました。防衛省の高官が、台湾海峡で中国が乱暴なことをすれば、日本の安全保障に影響することを明言されたのは、私のいい加減な記憶では初めてです。まずは、『産経』の記事(2008年3月14日)から、発言の要旨を引用いたします。 

 中国の軍事費増は台湾をあきらめさせる意図がある。日本は中台で事が起これば与那国島など近くは影響を受けるし、日本の主権が侵されない形での戦闘になるということもある。警戒態勢を高めるし、周辺事態的要素もあるので、そういう前提で対応していく。
 周辺事態の話だが、私どもの考え方では仮に中台で何か起きれば、それはわが国にとって大変な事態なので、周辺事態とするかどうかの前に、自衛隊の態勢としては当然、警戒監視を高めて、それなりの対応をしないといけない。中国から「周辺事態(認定)はどうするのか」と聞かれれば、「日本は当然する」(と答える)。「これはわれわれ自身の安全保障の問題なんだ。だから中台で事を起こさないでくれ、絶対やめてくれ」と言う。これは日米安保の問題ではなく、日本の安全保障の問題だ。そういう姿勢を示すことが大事ではないか。

 出遅れてしまったので、関連する記事を十分に集めることができませんでしたが、主としてこの発言に対する自民党内の批判は周辺事態の認定(地理的概念ではないという中国向けの誤解を招きかねないメッセージではありますが)に関する政府解釈を変更することにつながると言う点にあったようです。露骨に言えば、「馬は馬」と言ったのが、山崎拓氏や加藤鉱一氏の神経を刺激したのでしょう。その後、高見沢氏も舌足らずであったという趣旨の釈明を行い、石破防衛相も従来の政府解釈を変えるものではないとの見解を示しています。13日の発言から議論が深まらなかったのは残念ですが、「時の最果て」で「寝言」にしてしまいましょう。

 まず、高見沢氏の発言は、中国の軍事費の増加が台湾海峡に向けられている点を明確に指摘していることが大切でしょう。これ自体は自明ではありますが、自民党の調査会とはいえ、このような見解が明確に指摘されることは大切だと思います。その上で、台湾「有事」(起きうる事態は具体的ではありませんが)、台湾海峡問題が日本の安全に直結しているという事実を与那国島への影響と警戒態勢を高めるという対応に触れたという点では確信をもって踏み込んだ発言だと思います。台湾海峡問題では、シーレーンの問題については指摘があったものの、日本の安全に影響する問題であると言うことが防衛省の高官から明確に指摘されたことを私は評価します。

 次に、周辺事態の認定の問題ですが、まず、周辺事態法を適用するか否か以前に、日本の安全に影響するという指摘は大切だと思います。ここで述べられているのは、直接、台湾海峡に自衛隊がかかわるのではなく、日本の領域保全に関わる問題に限定されています。まず、台湾海峡問題が日本の安全保障の問題であることを確認した上で、周辺事態の認定の話をされたと読めます。あとで確認しますが、先ほど引用した『毎日』の記事での高見沢発言への批判は的外れでしょう。台湾海峡有事が日本の安全保障上の問題であることと、日米間の協力が補完的であることは、自明だと思います。まず、日本自身が台湾海峡「有事」(くどいようですが、中国が台湾を武力で攻撃するという事態は極端なので、もっと隠微な形をとる確率が高いと思いますが)へ自国の安全を守るという立場を明確にした上で、周辺事態の認定を行うというのはごく自然に感じます。

 ここで、周辺事態法の目的を確認しておく必要があります。「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」一条は次のように法律の目的を定めています。

 この法律は、そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態(以下「周辺事態」という。)に対応して我が国が実施する措置、その実施の手続その他の必要な事項を定め、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(以下「日米安保条約」という。)の効果的な運用に寄与し、我が国の平和及び安全の確保に資することを目的とする。


 高見沢発言を要約すれば、「中台で何か起きれば」、「日米安保の問題ではなく、日本の安全保障の問題だ」となりますが、周辺事態法の適用は「当然」とも発言されており、日米間の協力を度外視したものではないことは自明だと思います。周辺事態法自体が、日本有事に限定されている日米安保体制をより強固にするための法律であることは、目的と具体的な活動の定義を見れば自明でしょう。端的に言えば、台湾海峡で紛争が生じれば、日本単独で解決することがほとんど不可能であることは自明であって、実際には日米の共同対処によることになるのえでしょう。その際、その活動が、アメリカに言われたからやるのではなく、日本の国益に沿ったものとして位置づけようという趣旨の発言であったと、やや好意的すぎるかもしれませんが、そのように受け止めております。

 素人目には、日本の防衛力と日米同盟は補完的な関係であって、旧安保体制のように日本の「再軍備」を前提としない場合は別として、どちらも日本からすれば、安全を守るための不可欠の要素です。「日本独自の判断ではなく、日米一体の判断になる」という発言が山崎氏の発言を正確に伝えているとすれば、それは台湾海峡における紛争に対して日本自身はどのように判断するのかという肚がすわっていないことを示しているだけでしょう。日本自身が自国の安全を守るという、どの国家も基本とする部分が曖昧では「日米一体」など絵に描いた餅だと思います。「アメリカ頼み」、「対米従属」以前の問題です。地理的概念云々は「外交的配慮」でしょうから、割愛します。

 高見沢氏の発言は、残念ながら、議論を深めるには至らなかったようです。もちろん、台湾海峡問題への対応ということは、現下の最大の問題ではありますが、もっと根源的な問題があるのでしょう。なんのための日米安全保障体制なのか。さらに、そこからなんのための日米同盟なのか。さらに、集団的自衛権の行使を認めることの意義は何か。すべては、日本の安全の確保が目的なのであって、この点が据わらない議論は空論にすぎないと思います。インド洋での補給支援活動も、シーレーンの問題だけでなく、より広い意味で日本の安全を確実にする手段であるという議論が十分になされなかったことは、まだまだ、日本の安全保障政策が統治のレベルで不要な制約を自ら課していることを感じます。このような制約を取り除き、過度に他国に攻撃的になることもなく、日本の安全を確実にするための議論が深めてゆく上で、高見沢氏の発言は評価できる点が多いと感じます。

 例によって散漫な「寝言」ですが、こんな話もありますよとお気づきの方がいらっしゃったら、ご指摘を賜れれば、幸いです。

2008年03月19日

米軍の抑止力が低下したら?

 どこかの島国の「なまもの」は精神衛生に悪いのでスルーしたいところです。ま、軽く「寝言」をば。

 民主党の「財金分離論」だけでなく、金融政策自体が終わっているようです(冗談のつもりでしたが、利上げを考えているらしい。まとまりのない党なので統一された政策があるのかは疑問ですが)。武藤氏を蹴ったのは、ばかげていると思います。前にも書いたように、参議院で過半数を支配してる力を見せつけるための、愚行でしょう。

 ただ、福田総理の対応にも萎えるのが正直なところです。メディアに毒されているのかもしれませんが、財務省OB以外に適任者はいないのかと思います。政争になれば、民主党を世論から浮かせて妥協を迫るしかないと思いますが、官邸も「正論」路線でゆかれているようで。「煽りにマジレス」が前任者だけでなく、自民党の「芸風」になりつつあるのなら、悲しいことではありますが、民主主義的な意思決定は、日銀総裁の同意人事以外にも麻痺するでしょう。表現は悪いかもしれませんが、バカな駄々っ子に正論を説くのは政治的には拙劣だと思います。

 さて本題です。『チャンネル桜』の『闘論!倒論!討論!2008』で十分に議論されなかったのが残念ですが、佐藤空将が冷戦後の軍縮の結果として米軍の抑止力の低下(とりわけ陸軍の質・量の低下)が生じているという指摘は至るところでされてはおりますが、イラク戦争と占領統治に目を奪われているとついうっかりしてしまう話です。なぜ、イラク戦争直後や占領統治の初期に兵力を集中して投入しなかったのかは、財政的制約に起因する陸軍の動員力の低下だけでなく、行政府内の意思決定の不統一や戦後の見通しの甘さなど様々な錯誤の結果なのでしょう。また、RMAの進展は兵士の質の低下を補って余りあるのかもしれません。他方で、あまりに遅かったとはいえ、ペトレイアスによる増派は一定の成果を収め、反発していたアメリカのマスコミの一部も認めざるをえなくなっています。相変わらずイラクにこだわりすぎていると自分でも感じますが、イラクでの不首尾は冷戦後の軍縮、とくに装備だけでなく「人件費」にカネがかかる陸軍の力の低下だけでは説明できないでしょうが、巨視的には利いていそうな要因です。このあたりは素人談義あるいは「寝言」にすぎないので、的外れかもしれませんが。

 「アメリカの影響力」と私が表現するときに、その内容は多様で曖昧です。核戦力に代表される剥き出しのパワーを指すこともあれば、経済的な影響力も含みますし、さらにはアメリカのライフスタイルへの憧れ(フランスあたりでは反発も強いのかもしれませんが)なども含みます。前回は経済とごちゃごちゃにしたので、自分でも混乱させてしまいましたが、アメリカの影響力のコアは軍事力、あるいは非常に狭い意味での「ハードパワー」であるというのが「時の最果て」のスタンスです。くどいようですが、アメリカのような超大国の影響力は、ある特定の要素からなるのではなく、それらが複合し互いに影響しながら他国との相互作用で利いてくる複雑なものですが、最も決定的なのは軍事力であるというのが、「時の最果て」の「イデオロギー」です。表現が悪いかもしれませんが、いざというときにカネをくれそうな国よりも喧嘩になったら負けそうだという方が利害が対立したときに言い分を通しやすいというあまりにナイーブな感覚です。さらに露悪的なことを書いてしまえば、いざとなったらカネを出してくれそうな日本は私の目からすれば、日本人であるということを離れて、御しやすい国だと映ります。一発ぐらい殴っても反撃するかどうかもわからない訳ですから。もちろん、後ろにアメリカが控えている以上、そのような乱暴をはらたく国は皆無といってよいのでしょう。

 それでは、そのアメリカの影響力、とりわけコアになる軍事的抑止力が低下したらどうなるのか。ここでは、そのような蓋然性がどの程度あるのか、あるいはそのような事態が生じるプロセスはあえて無視しましょう。ただでさえ長い「寝言」ですし、ある種の「頭の体操」にすぎないので、ここでは思考上の仮定にすぎません。このような仮定を想定しても、実は日本のとりうる戦略はあまり変わらないのではないかというのが、結論です。それじゃあ考える意味がないじゃないかと言われそうですが、地上波の討論番組をたまに見て、安全保障の問題を議論しているのを見ると、この国のとりうる選択肢がいくつもあるかのような話がでてきてうんざりします。「国際貢献」もけっこうでしょう。上手にやれば、自国の安全を確保するという安全保障の基本的な目的を補完するものですから。しかし、リソースが限られている以上、直接・間接的な脅威から自国を守るという部分が据わっていなければ、代替的になってしまいます。表現をぼかしました。ヒト・モノ・カネの無駄遣いですね。

 アメリカの影響力、より絞って米軍の抑止力が低下したときに日本の選択肢はあまり変わらないというのは2つの点があります。第1に、自国の防衛はこの国自身が責任をもつということです。書いていてなんだかバカバカしくもあり、気恥ずかしい気もいたしますが、日米安保の枠組みが崩壊しないかぎり、米軍のプレゼンスの強弱に関わらず、日本の安全は日本人自身が守るのが当然だということです。北方領土や竹島など領土紛争を抱えている国が無防備だというでは話にならないでしょう。

 第2に、自らの国を守る意思と能力を明確にした上で、アメリカと同盟関係を双務的にするということです。これも米軍のプレゼンスの強弱に関わらず、自国を守る意思と能力をもたない国との同盟などアメリカから見たら無価値でしょう。また、尖閣諸島に関してモンデール駐日大使(当時)が日米安保の範囲外との趣旨の発言をして波紋を呼びましたが、アメリカが頼りになるかどうかという以前に、日本自身が守る意思と能力、そして実際の行動がなければ、意味がないでしょう。後で日米安保の範囲内と訂正されたようですが、まずアメリカの関与がなくても自国の領土を守るという基本が曖昧ではお話になりません。もっとも、ブッシュ大統領の「庭」程度の「島」のとりっこというのは人間って進歩しないねという感覚があることは否定しませんが。

 もちろん、米軍の抑止力の低下は台湾海峡をはじめ、日本の安全保障環境に大きな影響を与えます。おそらくは、イラクも関連するかもしれませんが、冷戦後の国際秩序が混乱したまま、引きこもる可能性も否定できないでしょう。今回は取り上げることができませんでしたが、高見沢防衛政策局長の自民党安全保障調査会での発言は、どこがまずいのかよくわかりませんが、発言要旨を読むかぎり、強いて言えば、台湾海峡問題は日本の安全保障の問題であり、問題の性格上、利害を共にする日米安保の問題であるということであれば、なにが問題なのだろうと。安全保障上は日本とアメリカは補完的な関係にあるわけで、中国の軍事的脅威が増大すれば、日本が補完する必要のある役割が増えるのは当然だと思います。アメリカが苦しいときには日本が役割を強めることが望ましいのですが、これには限界があるのでしょう。法的制約などは状況に応じて変えるのが当たり前ではないかと思いますが、遺憾ながら、あまりにカネがかかる。

 岡崎久彦さんが紹介している西園寺公望の言葉は今でも変わらない気がいたします。連盟脱退のときの「日本は英米と一緒に采配の柄を握っているのがよい」、「長いものには巻かれろ」などなど。西園寺は政治家としては物足りない印象が強いですが、戦前の日本は英米と「采配の柄」を握るだけの選択肢があったのにもかかわらず、別の選択肢を選んで滅びました。生き延びたこの国の状況はさびしいものがありますが、それでも選択肢はあるわけで、「長いもの」に巻かれる側にも戦略は欠かせないという「寝言」です。国際秩序をつくりだすだけの能力のある国が「リーダー」となるのは必然であり、そのアメリカに追随する「フォロワー」にも戦略が要る。そこに卑屈さや悲憤慷慨が入るから話が不透明になるだけだと感じます。


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posted by Hache at 23:57| Comment(2) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2008年03月18日

「動乱の15年」?

 「寝言」も書かないと、それ相応にぼけますね。"real world"に関心が薄いほど解脱はしておりませんが、ちょっと手に負えなくなりつつあります。さすがにチベットへの弾圧はおっかないです。直接的には、チベット仏教との関係を理解しておりませんが、新疆ウィグル地区がどうなっているんだろうと気になります。多民族国家の維持というのは、『ローマ人の物語』シリーズを読むと、稀有なことだと痛感します。このシリーズは経済の側面が弱い印象もありますが、古代ローマ帝国の偉大さをあらためて実感させられます。「中華帝国」は滅んでも「再興」されましたが、ローマ帝国が築いた遺産は現代に残ってはいるものの、「ローマ世界」は二度と蘇ることはありませんでした。話がそれるので元に戻しますが、多民族国家を維持する並のやり方は専制なのでしょう。「中華帝国」が滅んでは蘇るのは、並の方法で統治しているからではないのかという「寝言」が浮かびました。それにしても、この国の統治に携わっている方から、せめて道義的にメッセージがあってもよさそうですが、なにもないのは寂しいものです。「時の最果て」は、いかれた「外道」のいるところなので、没道義的ではありますが。

 間接的な「おっかなさ」は、もちろん、台湾海峡問題です。『産経』あたりで人民解放軍が米軍に太平洋の東西での共同統治を提案したことをそのまま扱っておりましたが、あれは台湾海峡で中国がなんらかのアクションを起こしたときに、米軍の介入を排除したいという願望のあらわれととっております。ひどいことを書いてしまえば、根拠はありませんが、西の「反乱」は鎮圧されるでしょう。どんな手段をとるかは別として。その上で中国が内政に専念すれば、一世紀は続く「帝国」が可能かもしれません。他方で、中国の専制は新たな犠牲を欲するらしい。やはり台湾の「再服」がその象徴になりそうな感じです。冷戦のようにイデオロギーが前面にでて本質が覆い隠されていた時期と異なって、古典的な治乱興亡の理でみていれば、なんとなくではありますが、台湾に中国はでてこざるをえないのかもしれません。「理」といっても、体系付けられた仮説ではなく、まして実証された理論ではないのですが。専制を経験していない日本人としては肌ではわからない部分もあります。

 「嘘つき」と思われる方が少なくないかもしれませんが、米中衝突ほどこの国にとっておっかないものはないです。あけすけに言えば、中国が台湾によけいなことをしてくれない方が、ありがたいです。心配性の私は、起きてほしくないことを考えてしまう癖があるのでしょう。台湾海峡問題では、総統選挙に目がゆきますが、ちょっとだけ変な感覚もあります。もちろん、台湾の応対しだいで中国が事を起こしやすい環境ができかねないことは理解できるのですが、うっかりすると、関心が薄い人には台湾海峡問題でトラブルの元になっているのはどちらなのかということが曖昧に映ってしまう可能性があります。中国にとっては、それが「秩序」づくりであっても、利害が異なる国からすれば、「現状打破」になってしまう。台湾海峡で積極的に現状を変えたいのは中国であるという最も基本的な視点はかならずしも共有されていないだろうと思います。台湾とチベットは中国にとって東西の「辺境」にあたります。台湾の場合、中国の沿岸部から見れば近すぎるぐらいではありますが。台湾併合にどのような戦略的意義があるのかはもう論じてきたので、専制国家の常として彼らが克服すべき「敵」とみなした地域を征服し続けなければ、専制は維持できないという程度にとどめましょう。もちろん、内治がうまくゆけば、外征に失敗しても長続きすることもありますが。

 がらっと話が変わりますが、今回の金融危機の焦点は私みたいなど素人には米国債であろうと。ベア・スターンズのドタバタ劇で既に世界恐慌を超える「マグニチュード」という評価もありますが、これでは収まらない感じです。もちろん、デリバティブがとべば、それ自体、素人にもぞっとする話ではありますが。「ドルの信認」というのはいろいろな側面があるのでしょうが、大きな要素は米国債の信用ではないかと感じております。現在の為替の大変動がただちに米国債への信認と結びついているとは思わないですが、ことが米国債の金利上昇につながれば危険なシグナルだろうと。「寝言」なので真に受けていただく必要はないのですが、米国債への信用がとべば、国際的な信用秩序、決済システムは崩壊してしまいます。次の「秩序」があるのかすらわからない。米中間の経済関係を「MAD」と呼ぶ向きもあるようですが、核軍拡は意図のないのところに生まれないのに対し、この種の相互依存は意図せざる結果でしょう。中国が仮に米国債を売るという意味での「逸脱」をしたところで非合理と決めつけれられるかどうか。このような状況では客観的に合理性を定義すること自体、困難に感じます。

 社会の土台が経済であるという発想には違和感を感じますが、経済的混乱が社会の活用できるリソースを限定してしまうことは否定できないのでしょう。経済の混乱がただちに政治の混乱を招くとは思わないのですが、アメリカが活用できるリソースが縮小しているのは間違いないのでしょう。その意味で『チャンネル桜』の『闘論!倒論!討論!2008』で議論されていた内容は、アメリカの影響力の低下(番組の内容はシナリオがなく、なんとなくアメリカの影響力の低下という戦略的環境の最大の変化に現状では日本が対応できないという点が議論されていた印象をもちましたが)という点から興味深く感じました。番組の最後で佐藤空将が冷戦後のアメリカの軍縮が招いた惨状を指摘されていて、なるほどと思いました。かなり以前にこちらでも指摘されているのですが、最初に拝読したときには今ひとつピンときませんでした。愚者は目に見えるようになるのが遅い者ということでしょうか。経済ではアメリカが混乱の源とみなされていて、一時的なのか衰退の始まりなのかはまだ見極めはできませんが、少なくともアメリカのリソースは15年ぐらい狭まるだろうと。それでも、軍事上のプレゼンスが保てれば、「動乱」にはならないと思っておりましたが、甘いと感じたしだいです。たぶん外れるでしょうが、経済だけでなく軍事でもアメリカのプレゼンスが低下すれば、動乱の時期がやってくるのでしょう。

 戦前の帝国が「頓死」したのは、軍部の暴走というよりも政党政治の機能麻痺が大きいという変な視点で見ております。日英同盟廃棄でも文官のエースだった幣原喜重郎の判断ミスがあまりに大きい印象があります。戦前の失敗を「軍部大臣現役武官制」に求めるのが通説ですが、このブログを始めてから実は逆ではないのかと感じるようになりました。明治国家は国家としての完成度からすれば未熟だったものの、初期の担い手はシビリアンでありかつミリタリーでもある武士であって、両者が分離することはありませんでした。国家が完成度を高めてゆくうちに、シビリアンとミリタリーが分離してゆくプロセスが急激に進んでしまって、意思決定で統合できる担い手がいなくなったことが戦前の帝国の滅亡をもたらしたのではないか。そんな感覚をもっております。徴兵制の存在もこの問題には解を与えることはできなかったのでしょう。

 『ローマ人の物語』シリーズの「誤読」でしょうが、シビリアンとミリタリーの分離は、社会の衰退の原因なのか象徴なのかはわからないのですが、意思決定で不利な結果をもたらす確率を高めるように思います。戦前と戦後の連続性という点では統制経済による官僚機構の肥大化よりも、シビリアンとミリタリーの分離が問題だと思います(官僚機構の肥大化自体も、問題だとしたらですが、シビリアンが「コントロール」するべき問題でしょう)。むしろ、戦後はミリタリーを考えないシビリアン、あるいは政治家があまりに多く、よく滅ぶことなく生きながらえたものだと皮肉ではなく、幸運さを感じるぐらいです。『日経』の社説(2008年3月18日)を読みながら、社説の論旨から離れて、「動乱の15年」を乗り切れる確率は分が悪いと感じました。願望をまじえてはいないつもりですが、「妄想」の域に入りつつある「寝言」が浮かびます。

2008年03月14日

萎える「凡戦」

 はあ。なんとか吐き気が収まりつつあります。ようやく、記号とにらめっこの生活です。これが一番ストレスがたまらない生活ですね。あるいは「寝言」の極み、別名、「妄想」で一日が終わります。

 なまものを見ておりますと、さすがに円高も1ドル100円という大台がでてくるとさすがに。今の混乱が動乱のはじまりではないのかとこちらも「妄想」をもちながら眺めておりますが、「強い円」と歓迎できる事態ではなく、通貨政策という言葉はあまりこの国ではでてきませんが、なかなか大変だなあと他人事のように懸念しております。次の「絵」が見えないので、単なる一過性の「大混乱」(これでもしゃれにならないですが)で終わるのかどうかだけに興味をもっております。うまく表現できませんが、今回の信用不安はこの国の90年代末からのそれとは様相を異にしているのではと思います。欧米の中央銀行は協調というか、共同で試練のときを迎えていますが、90年代後半の通貨危機とはやはり「マグニチュード」と「余震」への対応で、国際的な信用のありように対応した制度がどのぐらいの期間でできるのかは、今の段階ではわかりません。

 そういえば、どっかの島国では、中央銀行のトップすら決められないそうで。もともと、お世辞にも国際的な期待が低いとはいえ、この体たらくでは、「ババ抜き」状態になっちゃったりしたら、「あいつのせい」となる可能性があるわけでして、バカなことをしてるなあと。まあ、「剛腕」さんに「宇宙人」さんがメディアとネットでこれだけ批判されると、ちょっとだけマイノリティに同情する傾向があるので、とある政党のHPから「ニュース」の項目に「【次の内閣】 日銀総裁人事 金融政策の観点から判断 鳩山幹事長」とあって言い分を聞こうじゃないかと思ったら、「金融政策の観点」なるものは日銀の独立性と通貨価値の安定だそうで、読まなきゃよかったという感じです。前者は財務省OBの総裁では日銀の独立性が保てないほど日銀というのはダメな組織だといっているように聞こえてしまいました。まあ、病み上がりですから、「空耳」でしょうな。話がそれますが、財政と金融があさっての向きに動くのが「財金分離論」だとすると、日銀の「独立性」というのは単にマクロ経済政策で財政と金融が離反するだけのような。ドン引きしたのは「通貨価値の安定」で、あまりに一般的な表現なので、武藤さんでは通貨価値の安定が保てず、白川さんなら大丈夫な理由が知りたいのですが、書いてないので、深読みしましょう。ただし、人事そのものの話からはそれてしまいますが。

 通貨価値の安定という場合、1970年代以降はインフレーションを抑制することが実際上の中身でしょう。単純化してしまえば、物価水準が上昇するということはすなわち通貨価値が下落することであり、いろいろ説明が発展しましたが、結局は中央銀行による利上げで対処したというのが実態でしょう。他方で現時点での消費者物価指数は、善悪是非は別として安定しています。以前、こんな「寝言」を書きましたが、金融システムの安定化と物価上昇への対応のどちらがプライオリティが高いかといえば、文句なく金融システムの安定化でしょう。物価はインフレには程遠い状態ですから、やってはいけないのは利上げ。ど素人でも一目見て、次は「頭金」の詰めよがかかっているのに手抜きするぐらい、利上げは無理筋。これをやると、先進国間の協調体制をぶち壊しにするぞと言っているようなもの。もちろん、勝手に利上げして国際協調から「アウトサイダー」になるという選択肢も抽象的にはありえますが。まさかと思いますが、民主党が利上げを主張しているということはないと思うのですが、不安にさせる「金融政策」論です。

 この国の存在感は国際的には薄れる一方ですが、「インフレ退治」をしなくてはならないという状況にはなく、金融政策の効果そのものは限定的でしょうが、利上げさえしなければ、合格点にはならないでしょうが、失政にはいたらないでしょう。邪推ですが、10年ぐらい前に日曜の朝の討論番組で共産党の人が金利が低いから、高齢者が楽しみにしていた海外旅行もできないと主張していてドン引きしました。資産で暮らす人がもっと上手に資産運用をやれば済む話で、市中銀行の預金金利が低いせいで高齢者が苦しんでいるというのは筋違いもよいところ。だから、利上げしろって言っても、景気がさらに悪化したら、財政もたまらないですから、年金どころじゃありません。さすがに、このレベルではないだろうと民主党の金融政策を見ておりますが。

 肝心の人事ですが、これ自体は予算案を通された意趣返しで参院で過半数を握っている威力を見せつけて、政権奪取の「得点」にしたいだけでしょう。石破さんの首はとれそうでとれそうにないですし。年金も徐々にトーンが下がっている。道路特定財源の話は一般の関心をいま一つとれそうにない。というわけで日銀総裁の「椅子」が標的になっちゃったという感じ。身も蓋もないことをいってしまえば、武藤さんになろうが、白川さんになろうが、国際協調を優先せざるをえないわけでして、どちらになっても環境や選択肢が変わるわけではないでしょう。解決策そのものは簡単で、自民党が民主党の人事を丸呑みすればよく、ただし理由はもうちょっと少なくとも、悧巧そうに響くものにはしていただきたいものです。もともと期待していないので、「バ○は○カ」(あるいは「真実」)としか響かない理由だけは勘弁してくださいってとこでしょう。とにもかくにも、日銀総裁「候補」の知名度を上げることには貢献してますね。

 それにしても、今のところ、石破防衛相の「首」を守っている福田総理は評価しておりますが、ご自身の持ち味を発揮するというか、理解されていないご様子。「攻め」はだめでも「守り」が堅いというのが福田総理の強みではあり、しかし、それでは嫌なんでしょうか。失礼ですが、「愚将」ではないが「凡将」未満という評価になります。対する小沢党首も「撹乱」が得意技も、味方の統率にはやはり弱みがあって、こちらもやはり「愚将」とは思わないですが「凡将」未満。

 この国のおかれている環境や能力からすると、「英雄」レベルが出なくても、「凡将」以上のリーダーが続かないと、存続は難しいでしょう。戦前の歴史は、この国が「帝国」、すなわち国際秩序を自らつくる国にはなれないことを教えてくれますが、「小国」すなわち「帝国」の気まぐれで変化する国際秩序に適応するには凡将よりも上でなくては厳しいです。今世紀半ばまで、「日本」という国が「小国」とはいえ、存続できるかといえば、なかなか厳しいなあという「寝言」が浮かんでしまいました。自治や独立を勝ち取るには血を流さなくてはならず、それを維持するためにはやはり血を流す覚悟がなくては無理なのでしょうが、維持するためのさらなる条件は、自治や独立を維持するに値するか否かの試練を乗越える能力の有無なのでしょう。

2008年03月09日

塩野七生『ローマ世界の終焉』と公共心

 相変わらず、体調がすぐれない状態です。吐き気は収まりつつありますが、時々、ぶり返します。「寝言」も途中まで書いて破棄したこともありました。集中力を持続するのが厳しい状態です。なんとなく、いまの「経済危機」が一過性のものか国際経済体制の変化に及ぶものなのかを感が足りもしました。あまりまとまらず、根拠はまるでないのですが、1929年の世界恐慌から1944年のブレトンウッズ協定の成立までが約15年、1971年の「ニクソンショック」(金ドル交換停止)から1985年の「プラザ合意」の成立までが約14年と体制の再編といっても意識的な設計者がいるわけではないのでしょうが、長引くものだなと。その間がまったくの停滞の時期ではないのですが、因果関係は明確ではありませんが、国際経済の混乱と国際政治の混乱は手に手をとって進むことが少なくありません。国際経済体制の再編が避けられないとすると、意外と混乱が長引くことも覚悟しておいた方が気が楽かもなどといい加減なことを考えておりました。アメリカの実質金利がマイナスになっているという推計を鵜呑みにはできないのでしょうが、他にも推計がでてきて確認がとれれば、今回の「危機」の度合いを象徴しているのでしょう。乱暴に言えば、「ゼロ成長」時代の前触れの可能性もあるでしょう。

 そんなとりとめのない思考をしていたので、少し疲れて本棚を見たら、塩野七生『ローマ人の物語XV ローマ世界の終焉』(新潮社 2006年)が目に入りました。気がつくと、この本を出版当初に入手しましたが、読まずに「積読」しておりました。これでこのシリーズも終わりなんだなあと思うと、「物語」の終わりを読むのが惜しく、そのままになっておりました。こういうパターンは非常に珍しく、たいてい買ってきた本はもったいないので元をとるべく速攻でざっと出も目を通すのですが、私には、「お別れ」にたえられない珍しいシリーズです。この本を読み始めたのが、土曜日の晩でそのまま、朝まで止められなくなって一晩中かけて読み終えました。

 目次すら目を通していなかったのですが、読む前にローマ帝国の終わりというより、「ローマ世界の終焉」をどこに置かれたのだろうということが気になっておりました。ローマ帝国の分裂後、476年に西ローマ帝国が滅んだという中学校でも習う通説のとおりには塩野さんは描かないだろうなあと。読み終えて、よい意味で読者を裏切る方だなあと。この「終わり」が正しいのかどうかは歴史学者にお任せで、素人の私にはローマ人を見送る気分になって、胸が一杯になりました。「『なぜ』よりも、『どのように』衰亡していったのか」を描くことは一流の方でも難しいと思うのですが、それを最後まで貫いた塩野さんには脱帽です。ローマ人の「終わり」、ローマ帝国の「終わり」、そしてローマ世界の「終焉」が重層的に描かれていて、シリーズの「終わり」が悲しくてしょうがないという小心者も、惜別のつらさはありながらも、余韻が残る「終わり」でした。

 批評めいたことがまるで浮かばないのですが、印象に残ったことをちょっとだけメモしておきます。いくつも引用しては考えたいところばかりですが、きりがなくなりそうなので、一箇所だけです。私の仕事の根底にかかわる部分で、思わず、唸らされました。

 「共同体」(res publica)と「個人」(privatus)の利害が一致しなくなることも、末期症状の一つであろうかと思ったりしている。そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか、と(前掲書 73頁)。

 こんな「寝言」でぐだぐだと書いてあるところを、本質だけ射抜いてばっさりと100字程度でまとめられてしまうと、つくづく「格差社会」を実感してしまいます。もちろん、頭の中身の「格差」ですが。個人の利害と共同体の利害が一致する「メカニズム」をどこかで求めてしまいますが、膨大なことを歴史は教えはしないが、無言で考える以前のなにかを語りかけてくる。そんな感覚をもちました。「なにか」について語るのは野暮ですが、なにかとりとめもなく「寝言」になるようでしたら、またの機会に。

2008年03月05日

中国への「関与」と「強制」

 困ったことに、先週が「土砂降り」だったとすると、今週は「曇り一時雨」という感じです。汚い話で恐縮ですが、吐き気がするものの、くだってはいないので、かえって嫌な感じです。おまけに、かかりつけの先生まで倒れてしまった様子で、迂闊な医者に診てもらうのは失礼ながら怖いので、病院にもゆけず、困っております。内科の先生というのはありがたいもので、私がお世話になっている先生は、「あたしゃ藪だけど、友だちは優秀なんで」と紹介していただけるので助かるのですが。

 吐き気ごときなんのそのとゆきたいのですが、さすがにきついです。午後はどうしようもなかったのですが、幸い、夕方には回復しました。仕事やそれ以前の作業はなんとかやれるのですが、「寝言」が浮かばず、手抜き状態です。ふと夕食の準備にスーパーによってふだんはほとんど立ち寄らない冷凍食品のコーナーを見ていたら、冷凍餃子が味の素一社のものしか置いてませんでした。以前の状態がわからないので、中国の殺人毒ギョーザの影響なのかなんなのかはわからないのですが。

 これまでも、何度か中国の経済成長と「中国脅威論」との関係を「交通整理」しようとしてきましたが、思ったより難しいようです。これは私が学生時代の話(1980年代後半)ですが、中国が経済成長をして10数億人が車を乗り回すようになったら、環境汚染がどうたらこうたらと主張している人がいました。こういう主張の背後にあるのは、中国の経済成長に脅威を感じ周囲を説得したいけれども、それを適切に表現する術がなく、言いたいことはわからないでもないけれど、ちょっとなあという感じです。ただ、この時点で中国の脅威を感じていた感性は侮れないのではありますが。

 「中国脅威論」や「チャイナ・リスク」、逆の中国への期待感など中国論は巷であふれるほどあるので、もう私もお手上げ。体調も今一つですので、ちょっとした「寝言」をば。安全保障の面では、私自身は「タカ派」的な見方をしておりますが、戦後国際経済体制の維持という点から見れば、秋田浩之さんの『暗流 米中日外交三国志』の第2章「立ちはだかるキッシンジャーの『王国』」で描写されているアメリカの「関与政策」は不可欠であろうと。話がそれますが、『暗流』では人物の描写が興味深く、キッシンジャーの対日警戒心などは冴えた描写かなと。ただ、彼が親中であるのは、ビジネスという側面も無視はできないのでしょうが、やはり彼の戦略的発想(同時に東アジア情勢への認識不足)が大きいのではと素人目には映ります。「経済大国」にまで成長を遂げたのにもかかわらず、日本は本格的な再武装に踏み切らないのは、アメリカのパシフィズムに辟易しているとはいえ、キッシンジャーには理解不能なのではないかと。こちらは本題からそれるので深入りせずに、戦後国際経済体制の維持にはアメリカの対中関与が不可欠だと私自身は考えていることに留めます。

 戦後国際経済体制というのは非常に曖昧な言葉です。私のような、いかれた「外道」が定義するのは憚られますが、あえて「定義」いたしますと、主としてモノ・カネの面で自由化を進める拘束力のある合意が先進国間に存在する状態という、「定義」になっていない悲惨な内容になってしまいます。ただ、モノやカネの自由化を進めるという大雑把ではありますが、戦後国際経済体制の大きな方向はこんなあたりでしょうか。

 もう一つ肝心な点は、「拘束力のある合意」の存在です。戦後国際経済体制の出発点はブレトンウッズ体制ですが、最も「拘束力のある合意」の存在が明確だった体制であったといえるでしょう。以前、こちらでも書いたように、極論すれば、まずアメリカが戦勝国に軍事・政治・経済の優越を基盤に連合国に合意を強制し、その後、「冷戦」下で自由陣営の国々に拡大していった体制でした。「ニクソンショック」とその後の変動為替相場制への移行によってブレトンウッズ体制は崩壊しますが、「拘束力のある合意」はより緩やかになったとはいえ、その後も先進国の協調体制として機能してきたと思います。ちなみに、今の金融危機は、そのような協調体制を崩壊させるほどのインパクトがあるのかという点に注目しております。

 さて、中国の問題に話題、というより「寝言」のお題を戻しますと、現在のアメリカの対中関与政策はそのような点から見てかならずしも好ましくないように思います。外交の実務で安全保障の問題と経済上の問題を截然と分けることは不可能なのでしょう。ただし、対中関与の主目的は、国際経済体制へ中国を包摂してゆくことにあると考えております。今でも話題になっている中国製品の安全性などは、もちろん対中貿易の相手国からすれば国民の安全にかかわることですから、関与といっても、単純に互恵的な関係を政治的に顕在化させるだけの甘い話ではないでしょう。ここで戦後国際経済体制に中国を包摂する手段として関与が望ましいという場合、それは事実上、アメリカを中心に中国に「拘束力のある合意」を強制することだというのが今日の「寝言」です。

 これは、「寝言」の域を超えますが、各国の自発的な意思(あるいは拘束のない下での自国の国益計算に裏打ちされた自発的な協力)によってのみ、国際的な経済秩序を維持することはできないのではと考えております。やや、話が大きすぎるかもしれませんが、国際的なレベルで見た場合、経済的相互依存と政治的相互依存にはおおいに関係があるけれども、経済的相互依存の深化の前提は政治的相互依存、露骨に言えば、アメリカを中心とする先進諸国が「拘束力のある合意」を強制する意思と力をもっていることだということです。