2008年04月30日

ユーラシア大陸の東側の民主主義国

 4月27日の衆院山口2区の補選や国内の揮発油税の暫定税率をめぐるドタバタは気になりますが、とくに感想めいたこともあまりありません。強いて言えば、ガソリン価格が上がったり下がったりと忙しいと、普通の人たちは朝令暮改というイメージが残るのでしょう。私自身がそう感じているからかもしれませんが、政治がなにかをしてくれることよりも政治がよけいなことをしないことを希望するという意味で、期待値が下がっている感覚があります。

 イラク関連の記事とアフガニスタン関連の記事を読んでいますが、驚くほど状況が悪いように感じます。個々の話はまたの機会ということにしまして、「時の最果て」らしく、ちゃらんぽらんな「寝言」でまいりましょう。

 ユーラシア大陸の中心部は、ロシアと中国という歴史的に専制政治を行ってきた国々が抑えています。ロシアを中心に地図を見ていれば、西の果てに民主政が定着しているEU諸国があり、東の果てに日本やインド、韓国、台湾、東南アジア諸国の一部など歴史の差がありますが民主政が定着しつつある国々が点在しています。アフガニスタンではNATOが存続の危機といってもよい状況ですが、西側の民主主義諸国は自ら「攻撃」にはたえられないのかもしれません。また、旧ソ連のような明白な脅威が存在しない状況では、NATOは目的が曖昧になりつつある冷戦後の状況を反映しているのかもしれません。逆に言えば、ロシアへの警戒心は皆無ではないのでしょうが、冷戦期と比較すれば、はるかに希薄なのでしょう。

 ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて最大の変化が生じています。当然のことながら、中国の台頭であり、キッシンジャーも19世紀後半のドイツの台頭となぞらえています。ただし、キッシンジャーは経済や財政的な米中の結びつきなどが米中衝突の可能性を和らげると指摘しています。米中が衝突するのか、共存するのかという問題は重要な問題ですが、それすらもここでは考えずに地図を眺めてみましょう。聖火リレーに関しては、ネットでも実施の前後で厳しい意見を読みましたが、日本ではチベットを人権問題として捉える雰囲気は欧米より希薄だと思います。別にそのことが悪いという意味ではなく、中国が欧米よりもはるかに身近な脅威、それも安全保障は当然として環境などでも日本に悪影響を与えかねない存在として映っているからなのでしょう。また、朝鮮半島の北側には世界でも悪名高い独裁国家が存在している状態です。現在は、中国のナショナリズム高揚への反発が日本側を刺激している状態だとみておりますが、長期では中国の相対的な国力(曖昧な表現ですが便利ですので利用します)の向上と日本の長期的な停滞に対する恐怖感が日本人にのしかかってくるのでしょう。

 ユーラシア大陸の中央部を占めるロシアと中国の関係を考えると、あらためて日本が危険な位置にあることを感じます。国際法に疎いので誤っているかもしれませんが、日本は中露と正式な講和条約を結んではいません。中国との間には日中平和友好条約が存在するものの、日本がサンフランシスコ講和条約で主権を放棄した台湾に関しては外交上、日本側にフリーハンドの余地が残る表現になっているとはいえ、中国側も自らの領土であると読める主張をしています。ロシアに至っては、領土問題自体がまったくといってよいほど解決しておらず、先日の訪ロではなにが成果だったのかすらわからない状態です。ヨーロッパはロシアとの関係を見ていればよいのに対し、日本はロシアのみならず中国をも同時に敵に回しかねない、潜在的には危険な位置にあるということを忘れてはならないと思います。

 それでは日本はユーラシア大陸の東側に位置する民主主義国とNATOのような地域集団安全保障の枠組みを設けているかといえば、それとはほど遠い状態にあります。韓国とは竹島をめぐって領土問題が存在しますし、台湾も日中の間で向背が定まらないだけではなく、尖閣諸島をめぐっては紛争当事国になりかねないリスクもゼロではありません。もちろん、日本人の立場からすれば、竹島は占領下のどさくさに紛れて火事場泥棒にあっているようなもので、尖閣にいたってはいいがかりのようなものでしょう。敗戦のおかげで旧植民地から手を引くコストが低くなったことは間違いないのですが、主権国家として機能を回復するプロセスで最も基本となる領土の保全という点でさえ、日本はユーラシア大陸の西側と異なって、専制国家と民主主義国家の双方にリスクを抱えている状態です。アジアにも地域集団安全保障をという発想もあるようですが、ソ連という明白な脅威があった西側でさえ、NATO内部で混乱がありましたし、参加する国々によって脅威の捉え方も異なってきます。ユーラシア大陸の東側ではアメリカを中心にアメリカとの同盟によって民主主義国が結びついている状態で、自発的に東側の民主主義国が結束する可能性は低いと評価するのが当然だと思います。さらにいえば、日本の安全保障に最も効果的な外交政策である日米同盟においてすら集団的自衛権を使えない状態では地域集団安全保障には形以上の意味はなく、10年ぐらい前にずいぶん批判されましたが、アジアにおける集団安全保障は、民主主義国がバラバラで、潜在的に脅威となりうる国まで巻き込むとなると、なんの担保もない枠組みにしか現在でもならないでしょう。

 アメリカが日本と事実上、手切れをするとすれば、日米安保条約の代わりに地域安全保障の枠組みをつくって日米同盟を代替させればよい。そんなことが現実に起こるかどうかは別として、米軍の抑止力が低下した場合ですら、日米同盟に代替する外交政策はないという当たり前ですが、今後の大統領選挙のプロセスと結果を見る際に忘れずに観察したいと思います。

2008年04月27日

ダメなブログの作り方

 アクセス数の多い方のブログに関するお話を拝読すると、過疎地の住人とはやはり感覚がまるで違うなあと。違うというだけで、どうというわけではないのですが、やはり志の質がまるで違うなあと。それは、ネット以外での実体験の違いが大きいという気もいたします。なんと申しますか、そもそも、他人に理解されたと感じたこと自体がなく、また、他人を理解したと感じた経験も皆無で、そもそも、自分で自分を理解したなどという体験がないので、自分に対しても、他人に対しても、もともと期待値が低いんだなあと感じます。もっとも、これは「時の最果て」が変なだけで、アクセス数が多い日にはコメントがまるでなく、アクセス数が減ってくるとなぜかコメントが増えるという妙なブログを運営しているからかもしれませんが。そうはいっても、ふだんは一日3000程度のアクセス数が4500を超えるとか、その程度の変動でしかないのですが。ちなみに、コメントを催促しているわけではないので、悪しからず。

 てなわけで、注目もされず、過疎地で「寝言」を書いている人ならではの「ダメなブログの作り方」を書いてみましょう。賢者様たちの寝言が最近、長いので、私自身の「寝言」で代用する週が続きます。とりあえずは、「寝言原論」としゃれこみましょう。

【原則1】自分のために書く。間違っても、他人のためになろうとか、親切なことを考えない。

 まあ、基本は自分のためです。あのとき、こんなことを考えていたんだなと自分自身を見ることができるのが、ブログ、あるいはもっと広い意味でのサイトの効用と私自身は感じております。私みたいな可もなく不可もない(いや不可はあるかな、いっぱいかな)人間が他人のためと思ってやることは、たいていの場合、相手のためにならないことがほとんどです。他人がゴミと感じても、自分にとってはかけがいがないものであることもあるでしょう。力む必要もなく、自分のために書いていれば、自然とダメなブログのできあがりというわけです。

【原則2】自分という自分でも他人に理解できないものを他人に理解を求めてはならない。

 上で述べているので、繰り返しませんが、自分で自分のことを6割以上、理解できたら、歴史に名を残す人物じゃないかなと。私などは自分自身のことを1割も理解しているかどうか。その程度の人が他人に理解を求めること自体、おこがましいというより、無理じゃないかなと思うので、正確には、「他人に理解を求めてもムダだ」という感じです。ブログを始める前からそう思ってましたが、この点はブログを書いていても、あまり変わらないです。

【原則3】自分は他人だ。あとで自分の書いたものを読むと、それはもはや自分ではない。

 「寝言」も600を超えましたが、あとで自分の書いたものを読むと、既に過去となっていて、なんであのとき、こんなことを書いたのだろうと首をひねることがあります。これがブログを書いて一番ためになったことで、自分は気分しだいの、ちゃらんぽらんな人間なんだと自覚させられるわけです。

 たとえば、国際情勢を見ていている場合、情勢判断が変わるのはプロ筋なら見えていなかった事実が明白になるとか、読み落としていたり、軽視していた筋が浮上してくるとか、それなりの理由があるのでしょう。素人の場合、ほとんどは読み落としが大きいわけですが、それ以上に気分が大きいことを感じます。そんな人間が「寝言」を書き続けるのは、言ってみれば、生き恥をさらすということにほかならないのでしょう。サイトでなにかを書くということが特別なわけではなく、生きていること自体が恥であり、穢れでもあるのでしょう。

 そう気づいたからといって、人生が変わるわけではないのですが、志をたてようとしていたのが、そういうものではないということがなんとなく実感できます。だんだんと人生というものが、地球上で上に投げた物体が下に落ちてくるがごとく、自分自身の意思ではコントロールしきれるものではないことに気がつく。他人との相互依存という、ある種の制約もありますが、他者の目なるもの自体が、自分自身が「他者の目」として了解したものにすぎない。他人との関係の中で自分がわかるなどというもっともらしい思想をらっきょうの皮を剥くように、取り除いていって、自分自身を見たところで、理解できるのはごくわずか。そのごくわずかさえ、自分が自分で理解したと思い込んでいるのにすぎないのかもしれません。

 「寝言」を書いていてびっくりしたのは、こんなになにもわかっちゃいないのに、なぜか生きているという現実があって、わからなくても生きているということに驚いてしまいました。もちろん、本人が生きていると思っているだけで、実際には死んでいるのかもしれません。自分の書いた「寝言」を自分で読むと、まるで自分の死骸を見ている気分になります。なんとなく、この感覚は生きているということと同等だと感じます。この「寝言」も書いてしまえば、死骸になってしまう。死骸でさえも、解剖しようが、分析しようが、わけがわからない。理由も意味もわからないまま、ただ生きている。そんな事態に茫然としながら、つべこべ言わずに生きているというのが、ダメなブログの作り方の「秘訣」でしょうか。


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posted by Hache at 01:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2008年04月26日

母上の憂鬱

 「最近、とっても憂鬱なの」。

 まさか、とうとう恐れていたときがやってきたのだろうかと受話器をもちながら、身震いをする。人間、出会いがあれば別れがあるのがならいとはいえ、ついに、あのときがきたのだろうか。


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posted by Hache at 00:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 不幸せな寝言

2008年04月24日

「寝言」は「寝言」

 昨年、愛読していたブログが2箇所、停止になりました。このときはいろんな人が事情を含めて語っておりましたが、私は沈黙しておりました。自分でも、こういうときに気の利かないことを書いてしまうことがあるという自覚がありましたので。今回も同様です。

 ふと思うのは岡崎久彦さんが20年前後前の著作で日本人には情報にカネを払うという感覚が希薄だと嘆かれていたことです。20年たった今、情報は氾濫するぐらいありますが、志の高い方はいらっしゃるものの、ネットで「市場」が成立するには参加者の厚みが足りないような気がいたします。私は論外ですけれども。

 さて、なんでブログなるものを続けているのかと問われれば、とくに理由もなく、あることがらについて掘り下げて情報を発信しようとか、政治に限らず、なにか主張したいこともなく、どちらかといえば、私怨・私憤の類を本業で巻き散らかさないよう、私怨・私憤の類を「寝言」、あるいは悪い冗談としてネットで吐き出しているという感じでしょうか。失礼な話ですが、この方とちょっとだけ共通する部分があるのかもしれません(「きょうの人間力」の履歴を残していただけるとありがたいのですが。とくに、塩野七生さんの話しあたり)。まあ、20代にそれなりに辛酸をなめて30代になってちょっとは安定してきたかなという感じで、最近は堕落する一方です。

 というわけで、書き続ける理由はなく、明日、やめてもいいなと思っております。他方、やめるべき理由も見当たらず、なんか書きたいなと思ったら、適当に書き散らしている、そんな感じです。気がつくと、なんと7日間も連続で更新していますが、これも目標があってそうなったのではなくて、なんとなく書きたいからというのが正直なところ。次の週あたりに更新がなかったら、「寝言」が浮かばないか、単に体調が悪いか、普通の人からすれば簡単なことでしょうが私にとっては「激務」に追われているか、もっと簡単に面倒なだけでしょう。出発点がもともと低いと、そんなものだ。

 ただ、そんな私でも自分の「心が折れる瞬間」を想像することはできます。ブログのアクセス解析でPVが10,000万の大台を超えるとか、忍者ツールのアクセス解析で訪問者数が1,000の大台を超えるというのが目安です。たとえば、この「寝言」などは、読んだ途端に読者の方の心が折れてアクセス数が減るだろうという下心があったりします。遺憾ながらバカ丸出しの「寝言」を書いたら、こいつは次はどんなバカなことを書くんだろうという、心温かい読者の方が多数だという簡単なことを見落としておりましたが。

 finalventさんのところなどは私とは感性がまるで異なるがゆえに刺激がありますが、コメント欄を見ると、アクセス数が大きいところは大変だなと(後進組にははてなのシステム自体が「?」なのでよけいにわけがわからないのですが)。私だったら、コミュニケーションがとれない方のお相手をすること自体が苦痛になります。たぶん、そうなれば、ブログ自体面倒になるでしょう。先ほど、「感性がまるで異なるがゆえに刺激があります」などと偉そうなことを書きましたが、一回読んで、まるで受け付けないところの方が大多数ですね。基本的に私は心が狭く、意図していない形で引用されると(そうならないように本人は配慮していると思い込んでいるわけですが)、他者から見れば嫌になるぐらいしつこく「そんなことを書いた覚えはねえんだよ」ということを遠まわしに書いたりします。

 「寝言」は「寝言」。「時の最果て」は「時の最果て」。私は私。そんな地点からまるで進歩がない私というのは相変わらずだなあという「寝言」が浮かびました。


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posted by Hache at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ごあいさつ

2008年04月23日

一人ではなにもできない社会(教育編)

 まだ不良債権問題が解決していない頃、知人で中国からやってきた若い人に「私は日本から市場経済を学びたい」という抱負に対して「この国は社会主義だから、アメリカに行きなさい」とアドバイスした人がいます。日本が社会主義だというのは言いすぎだと思いますが、否定できない部分もありますね。笑ってはいけないのでしょうが、お医者さんが投信を買って元本の6割まで下がって、「こんなのありえますかね?」とぼやき節。「投信なんて所詮『プロ』を自称するだけのサラリーマンが運用するんですから。同じように損をしてもご自身で運用した方が納得がゆきますよ」とひどい「アドバイス」をすると、「たしかに、その方がいいですね」。お金に関しては規制がゆきすぎて社会主義とたいして変わらないマインドに金融機関だけでなく、利用者までがそうなっている感じです。本当に笑っちゃダメなんでしょうが、コンプライアンスだの御題目は盛んなようですが、萎える話ばかりですね。この国に来ると、中国人まで小遣い程度の不正しかできなくなるのかとため息が。もっとも、ノーリスク・ハイリターンを求めるのは人間の性か。

 とはいえ、まだ金融はかわいいもの。日本の「社会主義」は、私のあてにならない嗅覚では医療や教育に集中しています。広い意味での福祉もそうなんでしょうが、こちらは元々、市場を補完するものなので今回は除外しましょう。それでも医療や教育というだけでおそろしいほど幅が広いので、「寝言」で適当に参ります。なお、「社会主義」と表現すると、今日ではネガティブな意味になりますが、ここでは市場メカニズムが機能しない状態という軽い感覚でお読みいただければと思います。市場での自発的な取引で買い手がそこそこ満足し、売り手はそれ相応の利益をえることができるという基本が成立しないということです。

 教育に関しては、上海馬券王先生の秀逸なエッセイ(2008年4月13日 ちなみにうちがリンクしやすいようにブログ形式にしていただけるとありがたいのですが)があって気が引けますが(最近「不規則発言」よりはるかにおもしろいのはなぜでしょう?)、「モンスターペアレント」は大学にも及んでいて、「高齢化」が進んでいるようです。そのうち、企業にも「うちの子にこんな仕事をさせるとはどういうことだ!」とか「お前の会社の経営はなっとらん!」とか言い出したりして。それはさておき、世田谷区の学校と塾の連携の試みは、地方の教育関係者でも話題になっていた様子です。浜松の知り合いが、「あの問題、どう思う?」と尋ねてきたので、「いいんじゃない」とあっさり答えると、意外な顔をしていました。そういや、塾なんていったことないなあと。まず、母上の口癖は、「うちはとっても貧しいの」でありまして、塾なんて金持ちが行くところだと思っていたので中学時代にそもそも関心がありませんでした。あとは、塾に通っている生徒から質問を一杯受けて、この程度のことも塾の先生というのはわからんのかと思ったので、塾に行ったら頭が悪くなると思い込んでおりました。そんなわけで、知人からすると、塾に通っていなかった私があっさり無問題と答えるので意外だった様子。「買い手」にはならなかったわけですが、「売り手」の経験はあったので、学校ではできない部分は塾に委託するというのはありだろうという程度なのですが。

 義務教育段階に限定しますが、塾や家庭教師というのは、学校という「社会主義」の場からはみ出した存在なのでしょう。もちろん、塾や家庭教師とはいえ、所詮は学校教育を補完するわけですから、「社会主義」の害悪によって制約されてしまいますが。余計なお世話ですが、私が学生時代には第1志望、第2志望の官庁を蹴られてやむなく○○省で内々定というパターンが多くて、なんとなくアレな人が集まるところかなという偏見もあって、アレな人のお目にかかって審議してつくる「学習指導要領」なんて現場でスルー(現場でもっと生徒の学力や意欲を引き出すカリキュラムに直す)すりゃいいのにと思いますが、高校入試との関係もあってなかなか難しいか。

 学校サイドで塾だけが「よいところどり」をするという警戒心があるようですが、現実には塾で要求されるノウハウはターゲットが絞れられている層にたいしてのスキルなので、公立学校の先生のように上から下まで目を配るという、ある意味プロらしいスキルとは異なるように思います。当然ではありますが、塾には生徒を選ぶ権利があるので、これだけ数が減ってくると本当に厳しいようですが、入塾前にある程度、生徒を絞れますし、生徒が辞めるのも自由。義務教育という縛りがかかると、これは無理でしょう。

 そういえば、公正取引委員会のHPが更新される前には、独占禁止法の基本に関する記述が掲載されていました。一部ですが引用いたします。

 私たちは,消費者として生活に必要な商品やサービスを購入しています.また働くことにより生産活動に加わり,いろいろな商品やサービスを作り出しています.私たちは,この生産と消費を効率的に結ぶ経済の仕組みを考えなければなりません.生産が私たちの必要とするものを作り出すことである以上,限られた資源を用いて,私たちの望むものができるだけ良質で安価に多く生産されるのが,最も効率的な経済ということになります.
 そのために,私たちの経済社会では,政府が何をどれだけ生産するかを決めて命令するというようなことはなく,多数の企業がそれぞれ独自に判断して生産を行います.そして,企業はその商品が消費者に購入されることを目指して競争し,消費者は品質が良く価格も安いものを選ぶように努めます.こうして,多数の企業と多数の消費者がそれぞれ自主的な判断で活動しながら,競争というシステムを通じて,生産と消費が効率的に結びつくことができます.


 ここでの効率には幾重にも意味がありそうです。第1に、有限の資源(ヒト・モノ・カネ)をムダなく利用するという意味での効率。第2に、市場取引から消費者がえる満足、生産者がえる利潤が競争が不十分な状態と比べて高くなるという意味での効率。第3に、取引に参加する人たちが森羅万象について知らなくても、自分が有する情報によって取引が成立するという意味での効率。教育サービスを供給する側は、私立学校の場合、単独で採算を無視することができないという意味では微妙な点が残りますが、まさに第3の意味での効率、堅苦しい表現を用いれば、情報効率性ですが、この点で市場とは対極にあります。象徴は、いわゆる「全国学力・学習状況調査」ですね。こんな情報を集めないと、教育サービスは提供できないようで(なくても供給できるのなら即刻廃止すべきでしょう)、だからダメだというわけではありませんが、競争とはほど遠い世界にあるように思います。

 教育の場合には、サービスの特性上、市場取引になじまない特性も多く、現にそのような暗黙の前提で制度が作られていると思います。他方で、教育、とりわけ、憲法上、「三大義務」の一つとされている義務教育ですら、市場から逃れることはできないわけです。「市場原理主義」とか「市場万能主義」というのはなにを意味するのかまるでわかりませんが、市場に関する学は、市場で解決できない場合、どのような制度が必要となるのかを分析しています。そのような知見を応用するためには、他の自然科学でも同様だと思いますが、個別的なことがらを無視するわけにはゆきません。この「寝言」では教育制度そのものについて述べませんでしたが、学校教育の基本は指導−被指導の関係にあるわけでして、元々、市場にはなじまない原理が多いのでしょう。「モンスターペアレント」のような極端な事例がマスメディア(古い揶揄ですが「犬が人を噛んでも新聞には載らないが、人が犬をかむと載る」)でもネットでも注目されがちですが、より広い意味での教育の場で、家庭などが代表ですが、指導−被指導の関係が「前近代的」、あるいは「前時代的」と多くの人が感じる状態では、現状の「教育改革」を見ていると、「朝令暮改」で現場が振り回されるだけだろうなという「寝言」が浮かびます。


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2008年04月22日

一人ではなにもできない社会(水道編)

 当初は、穏やかな話のつもりでしたが、書き出したら、例によってとりとめがなくなりました。その上、お食事中の方が不快に感じる話が大半を占める始末。どんな話でもご不快にならないという自信のある方のみ、「続きを読む」をクリックしてください。


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2008年04月21日

国際金融と国内政治の不安

 「寝言」を書く意欲がわいてきたというわけではないのですが、なんとも脱力する話が多く、まったくの私的なメモです。

 まずは、大御所替え歌で恥ずかしながらはじめて知りましたが、LIBOR(London Inter-Bank Offered Rate:ロンドン銀行間貸出金利)の信頼性に疑問がもたれているとのことです。BBA(British Bankers' Association:英国銀行協会)のHPでは虚偽報告と算定方式の見直しに関するお知らせがでています。素人なのでアバウトな話になりますが、まっとうな報告ができないほど資金繰りに苦しいのかという印象を与えるという点で、欧州の金融市場が逼迫していることを感じます。それ以上に怖いのが、LIBORが信用できないとなると、債券をはじめ価格が機能しない状態になりかねない状態です。ぐっちーさんが素人にもわかるように、こちらの記事で価格が機能しないメカニズムを描いています。

 当面の国際的な金融システム不安のマグニチュードは、市場で価格が機能しないというあたりだということが見えてきました。これは最悪の状態です。金融市場で需給のバランスが崩れている場合の方がはるかに劇的に財市場にも影響が出ますが、価格そのものが機能しない状態というのは財市場への影響は目立たないかもしれませんが、収拾するのが大変だろうと。当面は、金融政策では日本の金融システム不安の最終局面で出現した「ゼロ金利政策」やさらに進んで「量的緩和」に近い政策と公的資金による資本強化のミックスという対応が必要なのでしょう。ただし、「証券化商品」に関するルールづくりは時間がかかると思います。財市場への影響は緩慢かもしれませんが、短期的な対応も不十分な状態では、信用不安が収まるにはかなり厳しいと思います。また、証券化商品に関するルールが整備されないと、金融市場において価格が機能する状態にならないでしょう。「ルール」といっても、金融市場における価格形成は古くは金に頼っていたわけで、現代ではそのような時代に戻ることもできず、為替の面ではドルが機能不全の状態が続くと思います。

 もう一つは、日銀総裁に関する「検証」です。出所は『毎日』の記事です。同意人事の日程はある程度わかっていたはずなので、政府が民主党とあらかじめ「取引」をしなかったのか不思議でしたが、あまりのお粗末さに唖然としました。民主党に自制を求めるのは正論だと思いますが、これでは政争になるのも当然だなあと思いました。記事では携帯電話によるコミュニケーションの危うさに力点が置かれていますが、やはり福田総理の見通しの甘さ、「官邸主導」ならぬ「総理主導」の危うさが目立ちます。小沢氏が財務省を敵に回すことのリスクを認識していたものの、政府側、正確には総理の粗雑さによって逃げ道がなくなってしまったという叙述は、鵜呑みにはできませんが、説得力を感じます。

 直接は関係のない二つの話題をとりあげましたが、国際的にも国内政治でもまだまだ混乱が続きそうです。分析できるほどの力量はないので、自分用のメモとして「寝言」にしました。

2008年04月20日

投資は投機?

 そういえば、外為投資をされている方には「米ドルは円に対してさらに弱くなりますか?」と尋ねられて困りました。外為投資をされている方でこれまで利益が出ていた方にも損失が発生しているようです。昨年の暮れ頃には十分に利益がでていたのに、今では大幅な損失という状態で損切りをするタイミングをはかりかねているご様子。

 まず、プロではないので知らないだけかもしれませんが、為替レートの変動を的確に予測する理論というのは現状ではないのだろうと。じゃあ、まったく訳がわからないのかといえば、微妙な部分はあります。仮説に過ぎないとはいえ、為替レートに関するモデルはあるわけで、ただ、実際には理論と呼べるレベルではないから、取引をしている方たちが様々な要因を織り込んで、いわば「モデル」をつくって行動しているというのが現状なんだろうと。表現が悪いかもしれませんが、結果的によりよく為替の実際に適合した「モデル」を構築できた方が生き残っているのが相場の世界ではないかという「寝言」が浮かびます。ただし、現在の国際的な金融システム不安では「モデル」自体をもっていることが不利に働く可能性すらあって、素人には正直に「わかりません」としか答えようがないのが現状です。

 損切りのタイミングとなると、私の仕事の範囲を超えるのですが、あえてお答えしました。「それがあなたにとってすってもよいお金、表現は悪いですが競馬やパチンコで負けてもよいお金なら選択の余地が広いでしょう。そうでなければ、損失を確定させたいのなら早いに限ります」。とても「模範解答」にはほど遠い、ひどい「答え」です。教科書的には「投資」と「投機」が区別されているものの、実際に「投資」する側に自分が立ったとき、そんな感覚ですね。株式取得なら10年間は持っている値打ちがありそうな会社にしか手を出しませんが、それでも、その見通しが間違っていた場合、最悪だと紙切れになるわけですから、不適切かもしれませんがギャンブルですってもよい範囲という感覚になります。「時の最果て」だから書けますが、バフェット本を読んだときに思ったのは、自分には才覚がないという絶望感ですね。とくだん、奇異な印象のない常識を説かれていますが、とてもじゃない、「まともなことをまともにやる」ことほど難しいことはないと感じている常識のない人間なので、いくら自分に言い聞かせても間違えるだろうと。私みたいな碌でもないのが、「投資」と思い込んでいても、他人からすれば「投機」となっている可能性が大なわけでして、このあたりは常識のない人間なりの「投資法」です。あまり他人にお勧めできない、芸のない発想ですが。

 「マーケット」と表現しても、大多数の「参加者」には可視化されていない、とらえどころがない世界だと思います。先の質問をされたご婦人はずいぶん感心されていましたが、素人なりにマーケットと付き合おうと思ったらという前提の話であって、もっとまともな方の話の方がためになるだろうなあと無責任な感覚です。外為投資の商品に詳しくないのでレバレッジが利いていると、これでは対応できない気がしましたが。


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2008年04月19日

経済から見る日中関係あれこれ

 なんだか珍しい体験をしました。メールの後で電話があって「君だったらなんとかなるだろう」と言われて、「はあ」。「中国経済について話してもらいたいんだけど」。「え!私、ど素人ですよ」。「いいんだよ、話のネタふりさえしてくれればいいんだから」。「でも、全然わからないですよ」。「若い人の話が聴きたいっていう人が多いから、多少、粗くても大丈夫」。てなわけで、とある小さな集まりでしゃべる機会に恵まれたと申しますか、「災難」にあったと申すべきか。

 ちゃらんぽらんなので、旬のネタは伊藤洋一さん記事がメインでした。最初は1時間ほど話せとのことでしたが、こちらからお願いして30分程度に圧縮して頂いて、質疑応答の時間を長めに。あとは、世銀データでちょっと強引なぐらい引っ張ってゆこうと。会議室を開けてびっくり。全体で20人たらずでしたが、50代から60代ぐらいのご婦人が半分ぐらいいらっしゃっていて、地は神経質で内向的な私は緊張しちゃいました。あとでわかったのですが、みなさん、株や外為投資をされているとのことでこちらが教わる側かなと。主宰者の方が冗談を交えて紹介してくださったので、こちらも少しだけ硬さがほぐれました。

 資料は時間がないので、基本的なデータにとどめて、まず、ナイーブな中国脅威論は意味がないですよというあたりから入りました。控えめにみても、中国の経済規模は日本の2分の1を超えてはいるけれども(2006年の日本のGDP:4兆3,684億35百万ドル 中国のGDP2兆6,446億81百万ドル)、一人当たりのGDPでは日本は落ちたものの世界で19位(38,630ドル 2006年)に対して中国は130位(2,000ドル)で中国の生活水準は大雑把に言えば日本の約20分の1程度で経済成長の水準自体がまるで異なるというあまりに素朴な話です。日本に格差がないわけではないが、一人当たりで2,000ドルの国で東京のど真ん中で裕福な生活をしている人と同程度の生活水準がいるということは、粗い話ですが、かの国の格差のすさまじさを示しているだろうと。こんな話はあまりに素朴すぎてどうかなと思いましたが、意外と反応がよいのでびっくりしました。

 そんな状態で物価上昇率が8%を超えると、農村部にまで市場経済が浸透している現状では都市部のバブルも大きいけれど、金融を引き締めざるをえませんね。為替レートも切り上げざるをえない。憶測にすぎないけれども、為替レートに関してはアメリカと相談しているでしょう。コミュニケーションをとっていなかったら、あまりにもまずいですが。他方で、金融政策と通貨政策で金融引締めと人民元の切上げをしているようでは、中国は先進国の経済レベルの国際協調体制には入ることができない。世間ではチベット問題で反中機運が高まっているようですが、経済の視点から見ると、中国が日本のように高度成長の結果、先進国の仲間入りをするという絵を描くのは難しいでしょう。それが日本にとって好ましいのかそうでないのかは判断が分かれるところですが。そんな粗い話をして質疑応答をしました。若い人たちと異なる点は「狂乱物価」という表現をリアルタイムで経験した世代の方たちだったので、非常に楽でした。そうはいっても、私自身はインフレを実感をもって体験していたわけではないのですが。

 意外だったのは中国の一人当たりGDPの低さに驚く方が多くて、こちらが驚きました。念のため、日中の差がはるかに小さく描写されるであろう購買力平価で評価した値(日本:32,840ドル 中国:4,660ドル)も示しましたが、それでも約7分の1という数字は意外と知らない方が多かったようです。年配のご婦人が多いので韓国と比較しても約5分の1程度ですよと申し上げると、さらにびっくりされたご様子。中国の「バブル崩壊」に関しては質疑応答にとっておきましたが、こちらは知っている方が多くて、ちょっと残念。やはり相場を見ていれば、こういう話はどこかで耳に入るようです。中国経済が不況になったら日本は大丈夫でしょうかという、素朴ではありますが厳しい質問もあって、実は対中貿易では日本は出超ですよと申し上げると、これまた驚く方が大半で、「難問」はちょっと腰がひけました。もちろん、影響がないわけがないのですが、どの程度かというところまでは計算する準備ができなかったので、問い詰められれば、わからないとお答えするしかないのですが。

 コーヒーを頂きながら、あとは雑談でした。今度はこちらが驚く番に。おそらく、同世代では福田総理の評判は前任者の辞め方がひどかっただけに安定感を求めて失望している方が周囲では大半なんですが、女性は厳しいですね。「もう、一日でも早くお辞めいただきたい」。「時の最果て」で散々こき下ろしておいてリアルの世界では弁護に回りましたが、日銀総裁のゴタゴタもどっちもどっちと映っているようで、こちらが「撤退」せざるをえませんでした。男性陣がニヤニヤしながら見てましたね。どうも、きれさせた要因は物価上昇に「しょうがない」の一言だったようで、そういえば、若い世代でも女性の反応はシビアだったなあと。そうはいっても市場経済の国で物価を中央銀行が完全にコントロールするのは無理ですよと無駄な抵抗をしてみたものの、「そんなことはわかってるわよ。だけど、『しょうがない』じゃあまりに無責任」と一蹴されてしまいました。ふと思えば、消費税の導入の際に敏感に反応したのは女性でありまして、有権者の約半数は女性であることを考えると、これは怖いなと。「お茶会」では圧倒されるばかりでしたが、最後は今日の話は勉強になったわと言って頂いたので、無事、スピーカーの役目を終えました。意地悪な主催者の方が「次もどう?」とか底意地の悪そうな笑顔で尋ねてこられるので、素で絶句してしまって、「今日は助かったよ。ドタキャンされて慌てていたところだったから」と一礼されて、こちらもお辞儀をしてあとにしました。討論ではあまり話題にならなかったのですが、先進国間の国際協調体制の蚊帳の外に中国が置かれるとしたら、彼らがどう振る舞い、この国はどのように対応するのだろうととりとめのないことが浮かびました。


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2008年04月18日

気分しだいの恋愛

 若い人と話をしていると、脱力はするものの、なるほど、こんな時期もあったなあと思うことがあります。「今日は恋愛について自由に語れ!」なんてお題が出ると、俺は巨○がいい、いや美○こそ王道だなどと「盗み聞き」していると、なんともほのぼのした感覚で、Kimberley Kagan "The Second Iran-Iraq War"(WSJ April 3, 2008)のような殺伐とした世界を忘れてしまいます。

 若かりし頃は私めもえらそうなことは申せません。「そういえば、○○さんの好みがわかりませんね」と幾度となく言われたことか。「あの子は丸顔だし、この子は卵顔だし。顔じゃないな。性格もバラバラ」と言われて、そういわれればそうだなあと。なんでだろうとふと思索に耽りそうになったところで、「あっ!わかった!!乳だ!!!」と叫ばれて、一瞬、頭の中がぽかーんとしましたが、なるほど、言われてみればそれ以外に共通点がない。「真実」とはなんとシンプルで残酷なんだろうと痛感しました。「気分しだいの恋愛」にもそれなりの一貫性があるとは、まさに「ユーレカ!」でありました。

 今の若い人にはわからないでしょうが、当時は「乳フ○チ」と「脚フ○チ」を両立させることは難しく、まさに大半の場合、「トレードオフ」の関係にありました。こういう場で書くことが憚られることではありますが、善悪是非は別にして、私の場合には脚へのこだわりを犠牲にして乳へのこだわりが優先するという好みが、若くして確立したようです。自覚はまるでなかったのですが。しかしながら、肉体への局部へのこだわりから脱するのは意外に速く、表現が悪いですが、やりたいことをやってしまうと、本当に飽きも速いものです。たまにやるのがよいことを集中してやってしまうと、往々にしてそういう事態になってしまうものです。「パ○○リ」を繰り返しやるのはド素人さん、「ぱふぱふ」あたりで止めておくのが「通」てな感じなのでしょう。もちろん、私はド素人さんですが。「○イズ○」は、一時的な幸福感こそ「ぱふぱふ」をはるかに凌駕しますが、愛情表現としては「ぱふぱふ」の持続性が勝るようです。

 プーチンがカバエワと再婚の噂が流れているそうで、ゴシップネタには疎い私ですが、へぇてな感じで関連記事を読むと、「好き者」イスラエル大統領を「うらやましい」ともらしたとか、妙に人間臭いな、でも意外と正直だよなと思ったりします。これもプーチンの「威圧感」を和らげるKGB流の陰謀かなどという深読みは無粋ですね。それにしても、男というのは悲しい生き物だとも思ったりします。「古い草鞋」を捨てて「新しい草鞋」に履き替えることが幸せか否か。ネットの画像を見ると、カバエワはけっこうきつい顔で好みではないなと思った瞬間にこのネタは終了でした。ま、縁がないものにはとことん興味がない、すなわち負け犬は逃げ足が速いというところでしょうか。


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posted by Hache at 01:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言