2008年04月08日

専制とオリンピック

 久々に『報道ステーション』なる番組をちらっとだけ見ました。聖火リレーがなんともものものしい。現下の情勢を考えると当然とはいえ、「平和の祭典」にはほど遠い雰囲気で、寒々しい光景でした。「そこまでするのがわからない」というキャスターのコメントが抗議する側に向けられているのはもっと寒くなりましたが。チベット情勢を論じるには不勉強すぎるので『世界の論調批評』のこの記事が大枠を抑えられていると思います。

 ふと思うと、この国は専制政治の経験がほとんどないのではないかと思います。「ある敗戦国の幸福な衰退史」などというどうでもよい「寝言」を考えているうちに、日本史を本格的に勉強しなおさなくてはと思うのですが、西洋的な意味でも東洋的な意味でも専制政治の時代というのがパッと浮かんでこないです。専制政治といっても、政治学上の正確な定義をよく理解していないからかもしれませんが、中国大陸のような王朝は日本史上、存在しなかったような印象があります。古代の王朝は素朴な意味では専制なのでしょうが、早くから朝廷は権威としての存在に変化していった印象があります。鎌倉幕府以来の武家政権は、統治者が武士に限定されてゆくプロセスではありますが、素人目には形式上、将軍職があったとはいえ、意思決定プロセスは合議が主で、江戸時代などは現代よりもはるかに中央と地方の関係が分権的であったように映ります。

 先ほどの記事では「帝国主義的特性」という表現が使われておりますが、中国やロシアなどは専制政治の時代が長いというあまりに素人的な話に関心が向きます。「帝国主義」という言葉は、中学か高校の歴史で出てきた記憶がありますが、理解ができませんでした。なぜ、19世紀以降の欧米列強の対外的な拡張政策のみが帝国主義でそれ以前と区別できるのかがわからないという、あまりにナイーブな感覚が強くて感覚的に受け付けることができませんでした。「遅れた民族の善導という文化的優越心は帝国主義の心理的支柱」というのは貴重な指摘だと思うのですが、近現代に限らず、対外的に帝国、すなわちある範囲内で自らが秩序になろうとするパワーのほとんどがそうであろうと。古代のアテナイ、ローマなどはその典型でしょう。現代的な感覚では「民主的な帝国」というのは形容矛盾となりそうですが、歴史は逆であるとすら感じます。国内体制と対外政策はかならずしも固定的な関係にはないという感覚があります。

 中共がチベットで行っている蛮行は、私の浅い中国史では、中共独特ではない部分が基本になっているように思います。中央政権が「蛮族」と見なせば、容赦なく弱者の文化を奪う専制というよりも圧制に近い感覚です。強いて以前の王朝との差異を考えれば、中共独裁の下では日本人も後代まで影響を受けそうな優れた文化が生まれそうにもないということでしょうか。経済的に成長し、軍事的に強大になっても、脅威とは感じるものの、畏敬の念がまるで起きません。死んでも直りそうにない、人格的な欠陥を抱えた私には北京でオリンピックを開くべきか否かという喧々諤々の議論にはまるで興味がなく、ただただ既存の資源を浪費する現在の中国は「平和の祭典」であり、「諸国家、諸民族の祭典」でもあるオリンピックの歴史に汚点を残すだけであろうと。島国の凡庸な頭には一時的に専制が勝利を収めるように映ることがあっても、長続きしないだろうという「寝言」が浮かびます。


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