2008年04月23日

一人ではなにもできない社会(教育編)

 まだ不良債権問題が解決していない頃、知人で中国からやってきた若い人に「私は日本から市場経済を学びたい」という抱負に対して「この国は社会主義だから、アメリカに行きなさい」とアドバイスした人がいます。日本が社会主義だというのは言いすぎだと思いますが、否定できない部分もありますね。笑ってはいけないのでしょうが、お医者さんが投信を買って元本の6割まで下がって、「こんなのありえますかね?」とぼやき節。「投信なんて所詮『プロ』を自称するだけのサラリーマンが運用するんですから。同じように損をしてもご自身で運用した方が納得がゆきますよ」とひどい「アドバイス」をすると、「たしかに、その方がいいですね」。お金に関しては規制がゆきすぎて社会主義とたいして変わらないマインドに金融機関だけでなく、利用者までがそうなっている感じです。本当に笑っちゃダメなんでしょうが、コンプライアンスだの御題目は盛んなようですが、萎える話ばかりですね。この国に来ると、中国人まで小遣い程度の不正しかできなくなるのかとため息が。もっとも、ノーリスク・ハイリターンを求めるのは人間の性か。

 とはいえ、まだ金融はかわいいもの。日本の「社会主義」は、私のあてにならない嗅覚では医療や教育に集中しています。広い意味での福祉もそうなんでしょうが、こちらは元々、市場を補完するものなので今回は除外しましょう。それでも医療や教育というだけでおそろしいほど幅が広いので、「寝言」で適当に参ります。なお、「社会主義」と表現すると、今日ではネガティブな意味になりますが、ここでは市場メカニズムが機能しない状態という軽い感覚でお読みいただければと思います。市場での自発的な取引で買い手がそこそこ満足し、売り手はそれ相応の利益をえることができるという基本が成立しないということです。

 教育に関しては、上海馬券王先生の秀逸なエッセイ(2008年4月13日 ちなみにうちがリンクしやすいようにブログ形式にしていただけるとありがたいのですが)があって気が引けますが(最近「不規則発言」よりはるかにおもしろいのはなぜでしょう?)、「モンスターペアレント」は大学にも及んでいて、「高齢化」が進んでいるようです。そのうち、企業にも「うちの子にこんな仕事をさせるとはどういうことだ!」とか「お前の会社の経営はなっとらん!」とか言い出したりして。それはさておき、世田谷区の学校と塾の連携の試みは、地方の教育関係者でも話題になっていた様子です。浜松の知り合いが、「あの問題、どう思う?」と尋ねてきたので、「いいんじゃない」とあっさり答えると、意外な顔をしていました。そういや、塾なんていったことないなあと。まず、母上の口癖は、「うちはとっても貧しいの」でありまして、塾なんて金持ちが行くところだと思っていたので中学時代にそもそも関心がありませんでした。あとは、塾に通っている生徒から質問を一杯受けて、この程度のことも塾の先生というのはわからんのかと思ったので、塾に行ったら頭が悪くなると思い込んでおりました。そんなわけで、知人からすると、塾に通っていなかった私があっさり無問題と答えるので意外だった様子。「買い手」にはならなかったわけですが、「売り手」の経験はあったので、学校ではできない部分は塾に委託するというのはありだろうという程度なのですが。

 義務教育段階に限定しますが、塾や家庭教師というのは、学校という「社会主義」の場からはみ出した存在なのでしょう。もちろん、塾や家庭教師とはいえ、所詮は学校教育を補完するわけですから、「社会主義」の害悪によって制約されてしまいますが。余計なお世話ですが、私が学生時代には第1志望、第2志望の官庁を蹴られてやむなく○○省で内々定というパターンが多くて、なんとなくアレな人が集まるところかなという偏見もあって、アレな人のお目にかかって審議してつくる「学習指導要領」なんて現場でスルー(現場でもっと生徒の学力や意欲を引き出すカリキュラムに直す)すりゃいいのにと思いますが、高校入試との関係もあってなかなか難しいか。

 学校サイドで塾だけが「よいところどり」をするという警戒心があるようですが、現実には塾で要求されるノウハウはターゲットが絞れられている層にたいしてのスキルなので、公立学校の先生のように上から下まで目を配るという、ある意味プロらしいスキルとは異なるように思います。当然ではありますが、塾には生徒を選ぶ権利があるので、これだけ数が減ってくると本当に厳しいようですが、入塾前にある程度、生徒を絞れますし、生徒が辞めるのも自由。義務教育という縛りがかかると、これは無理でしょう。

 そういえば、公正取引委員会のHPが更新される前には、独占禁止法の基本に関する記述が掲載されていました。一部ですが引用いたします。

 私たちは,消費者として生活に必要な商品やサービスを購入しています.また働くことにより生産活動に加わり,いろいろな商品やサービスを作り出しています.私たちは,この生産と消費を効率的に結ぶ経済の仕組みを考えなければなりません.生産が私たちの必要とするものを作り出すことである以上,限られた資源を用いて,私たちの望むものができるだけ良質で安価に多く生産されるのが,最も効率的な経済ということになります.
 そのために,私たちの経済社会では,政府が何をどれだけ生産するかを決めて命令するというようなことはなく,多数の企業がそれぞれ独自に判断して生産を行います.そして,企業はその商品が消費者に購入されることを目指して競争し,消費者は品質が良く価格も安いものを選ぶように努めます.こうして,多数の企業と多数の消費者がそれぞれ自主的な判断で活動しながら,競争というシステムを通じて,生産と消費が効率的に結びつくことができます.


 ここでの効率には幾重にも意味がありそうです。第1に、有限の資源(ヒト・モノ・カネ)をムダなく利用するという意味での効率。第2に、市場取引から消費者がえる満足、生産者がえる利潤が競争が不十分な状態と比べて高くなるという意味での効率。第3に、取引に参加する人たちが森羅万象について知らなくても、自分が有する情報によって取引が成立するという意味での効率。教育サービスを供給する側は、私立学校の場合、単独で採算を無視することができないという意味では微妙な点が残りますが、まさに第3の意味での効率、堅苦しい表現を用いれば、情報効率性ですが、この点で市場とは対極にあります。象徴は、いわゆる「全国学力・学習状況調査」ですね。こんな情報を集めないと、教育サービスは提供できないようで(なくても供給できるのなら即刻廃止すべきでしょう)、だからダメだというわけではありませんが、競争とはほど遠い世界にあるように思います。

 教育の場合には、サービスの特性上、市場取引になじまない特性も多く、現にそのような暗黙の前提で制度が作られていると思います。他方で、教育、とりわけ、憲法上、「三大義務」の一つとされている義務教育ですら、市場から逃れることはできないわけです。「市場原理主義」とか「市場万能主義」というのはなにを意味するのかまるでわかりませんが、市場に関する学は、市場で解決できない場合、どのような制度が必要となるのかを分析しています。そのような知見を応用するためには、他の自然科学でも同様だと思いますが、個別的なことがらを無視するわけにはゆきません。この「寝言」では教育制度そのものについて述べませんでしたが、学校教育の基本は指導−被指導の関係にあるわけでして、元々、市場にはなじまない原理が多いのでしょう。「モンスターペアレント」のような極端な事例がマスメディア(古い揶揄ですが「犬が人を噛んでも新聞には載らないが、人が犬をかむと載る」)でもネットでも注目されがちですが、より広い意味での教育の場で、家庭などが代表ですが、指導−被指導の関係が「前近代的」、あるいは「前時代的」と多くの人が感じる状態では、現状の「教育改革」を見ていると、「朝令暮改」で現場が振り回されるだけだろうなという「寝言」が浮かびます。


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posted by Hache at 08:43| Comment(0) | TrackBack(1) | 気分しだいの寝言