2008年05月31日

無限への飛翔

 さて、中東情勢を論じるはずが、高坂正尭著作集刊行会『高坂正尭著作集 第五巻 文明が衰亡するとき』(都市出版 1999年)の塩野七生さんの解説を読みながら、相変わらずの「反抗者」ぶりに苦笑しつつ、どこかで甘えているような感覚で、失礼ながら、かわいい女性だなと思いました。年上の方に「かわいい」という表現が不適切なのは承知しておりますが。

 ちゃらんぽらんの極みのようなものですが、そんなこんなでよい気分になって金曜日の晩から志賀浩二『無限への飛翔 集合論の誕生』(「大人のための数学シリーズ第3巻 紀伊国屋書店 2008年)に夢中になってしまいました。夢中になったとはいっても、私にとって集合論は数学で「バカの壁」を意識した最初の難関でありまして、とても理解したなどとはいえない状態です。「バカの壁」の初期の「正しい利用法」は「集合論は私の『バカの壁』につきあたって敗れたのであった」なのであります。


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2008年05月29日

40年前の洞察

 5月は連休が終わってから、「まさか」の連続という感じです。ふだんの生活が自分でも「これでいいんですか?」と苦笑せざるをえないほどいい加減なので、「パンダ外交」→「日中共同声明」→「四川大地震」→「空自の派遣要請」と対中国関係で振り回されています。あまりに恥ずかしいので起きたタイミングではさすがに書けませんでしたが、「中国で大地震って起きるの?」という素朴な疑問で頭が一杯になってしまいました。次は空自を含む空輸要請とくると、不謹慎ですが、中国が反日姿勢でいてくれた方が楽かもしれないなどと考えてしまいます。上海馬券王先生の軽妙な四川大地震の観察にある「まぁ、これを契機に対日感情が好転するのも悪い話ではないんですが、ネットを見るとこの前まで反日で盛り上がってた連中まで好意的なコメントをアップしてるのを見るとなんだかなあ」というのはまったく同感です。

 さて、空自を含む輸送の要請に関しては、素人ですのでついつい政治的意味を深読みしてしまいそうですが、なんとなく、ここは空自でなければできない任務なのかを検討した上で、派遣するにせよ、そうでないにせよ、対内的にも対外的にもけれんみのない説明を発していただければと思います。失礼ながら、なにをやっても批判されてしまう状態ですから、淡々と実務的にこなしていただくことを期待しております。

 しかし、性能の低い「CPU」というのは辛いものです。アメリカのことを考えているところへ中国の話が飛び込んでくると、頭の中が「ブルースクリーン」になってしまいます。さっさとFriedmanの論文について「寝言」を書けばよいのですが、仕事の関係で読みはじめた高坂正堯『世界地図の中で考える』(新潮社 1968年)でいろいろと考え込んでしまいます。あらためて気がついたのですが、この本が書かれたのは私が生まれる前でありながら、まるで現代のことを論じているように響くのが不思議です。もちろん、ベトナム戦争という現代アメリカの苦悩の時期を身をもって経験していないだけかもしれないのですが。

 しかし、私の見るところ「帝国の悩み」に対処するアメリカ人の基本的態度は「判断力、技術、洗練、節度」(アラステア・バカン英国戦略研究所所長(当時):引用者)ではなくて、「生命力」でありつづけるように思われる。なんと言ってもイギリスとアメリカはちがう。そして、ひとつの文明はその成功においても失敗においても、自己の方法による以外にしかたがないのである。イギリス人の「判断力、技術、洗練、節度」は、文明を伝えるものと伝えられるもの、統治者と被統治者の間の距離の前提と、同化しえないという諦念の上に立っていた。すなわち、彼らは問題が本質的に解決しえないものであることを認めていたが故に、技術において優れることができたのであった。これに対してアメリカ人はすべてのものをその文明へと同化しうるという前提の上に立って行動している。少なくともアメリカ合衆国という国家は、その原則の上に立ったが故に作られることができたのであった(前掲書、175頁)。


 この場合、どちらがよいのかという問いを発しても、余り意味がない。アメリカはイギリスのまねをするわけにはいかないからである。イギリスは文明を伝えることの困難さを認識し、同化を不可能と考えていた。そこに知恵が生まれた。それに対し、アメリカ人は世界を作り変えることに関して、より楽観的である。彼らは知恵よりも、生命力によって特徴づけられているのである。だから、彼らはより多くの成功をおさめると共に、より多くの失敗を犯すことになるであろう。それはアメリカの宿命と言えるかも知れない(176頁)。

 あらためてアメリカのことを勉強しなおさなくてはと思うのですが、プロが素人でも読めるように書いた文章に高校時代は反発を覚えたことを思い出します。アメリカという国はなんと傲慢なんだろうと。今、年をくってから読み返すと、「アメリカ的価値」という日本人には(単にわたしだけかもしれませんが)わかりにくいの一面を抉った文章だなあと感じ入ってしまいました。高坂先生の描写もアメリカの一面を浮かび上がらせているのにすぎないのかもしれませんが、専門家らしく、同時に専門家らしくなく焦点を一面に絞ることによって、アメリカが「帝国」でなくなるとしたら、この「生命力」が衰えるところから始まるのだろうと思いました。

 この後に続く、「そう考えてくると、巨大な帝国をかかえることになったアメリカに対するもうひとつの忠告が、私の頭には浮かんでくる」という一文に続いてポール・ミュスのカルカッタの郊外におけるアメリカ兵士の行動の「ナイーブ」さと人間らしさを見事に描いた文章を引用した上で、次のような文章が印象的です。

 恐らくポール・ミュスは、アメリカ人がアジア人の心を理解することができないことは知っていたであろう。しかし、それは忠告しても直る欠陥ではないのである。その代わり、アメリカ人を楽観主義と、楽観主義に支えられた粘り強さがある。だから失敗をくり返しながら、アメリカ人はその文明を広めようとするだろう。そしてそれは完全に成功するものではなく、結局は失敗に終わるかも知れない。しかし、楽観主義に支えられた粘り強さによって文明を広めようとすることはアメリカの宿命だし、それは世界にとってやはり悪いことではないのだと、ポール・ミュスは考えていたように思われるのである。彼の忠告は、ベトナム戦争中に私が聞いた忠告のなかで、もっとも洞察力に富み、そしてもっともあたたかいものであった(178頁)。

 素人としては、「ベトナム」を「イラク」や「アフガニスタン」に置き換えたくなるところですが、野暮というものでしょう。今、進んでいる中東情勢を論じるときに「アメリカとは?」という問いを発するのは素人の浅知恵ですが、このようなアメリカ観は中東情勢を考える際にも、「答え」ではなく、ある種の気づきを与えてくれるように思いました。


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2008年05月28日

重苦しい中東情勢 浅薄な観察

 4月に「イラクの『内戦』」題した「寝言」(こちらこちら)を書きましたが、フォローができずにいました。アフガンやパキスタンも抑えなければなりませんが、率直に言えば、読んでいると抑鬱状態に陥ります。いつものことですが、『世界の論調批評』の「中東情勢」(2008年5月15日)でとりあげられていたThomas Friedman, "The New Cold War"(International Herald Tribune, May 14, 2008)を読みました。対イランとの「冷戦」を論じたコラムですが、Friedmanの現状認識はリアルでかつ厳しいです。 Aaron David Millerの著書から引用して、ブッシュチームがアメリカを中東において"not liked, not feared and not respected,"という状況においたと指摘しているあたりは、本当に厳しい印象をもちました。

 ちょっと今日は疲れておりますので、検討は疲労が回復してからですが、対イランを中心に中東情勢を見ると、あまりにも厳しい印象をもちます。"Alas, the right question for the next president isn't whether we talk or don't talk. It's whether we have leverage or don't have leverage."という指摘は的確だと思いますが、影響力をどのように確保するのかが思い浮かびませんでした。

 David Ignatiusのアフガニスタン情勢とイラク情勢の共通点を論じた"Two Fronts, Same Worries"(Washington Post, April 27, 2008)を読むと、アフガニスタンにおけるDan K. McNeillによる増派による効果を評価しつつも、依然、厳しい状況にあることが描写されています。4月にアフガニスタン情勢を論じようと思って読んだのですが、私の読解力の不足が大きいかもしれませんが、Ignatiusの観察を読んでいると、事態の重苦しさに苛まれます。

 まとまりがなくなりましたが、気力が回復しましたら、対イランという視点から中東政策を論じたFriedmanのコラムを検討する予定でおります。それぞれの現実的な観察を表面的に眺めているのにすぎないので、性急に政策そのものを論じるというよりも、現状を確認することに努めたいと思います。

2008年05月27日

いまが一番、幸せ?

 自分でも躁鬱の傾向があるんだろうなあと思うのですが、ふとした瞬間に今が一番、幸せかもしれないとぼんやりと感じることがあります。30を過ぎてから、なぜかこういう瞬間が増えてきた感じです。なんだろうと思うと、目先の事に追われて、じっくり物事を考えるゆとりがなく、昔に比べると、「こんなものでしょ?」ということで済ましておかないと、とてもじゃありませんが、身がもたないからだと気がつきました。あくまで「済ましている」、あるいは「そういうことにしている」のであって、本当の問題はここにあり、ここにないという支離滅裂な表現でしか感覚として示せないのですが。

 本当の問題というと大袈裟ですが、簡単に言えば、「次の瞬間に死んだらどうする?」という感覚でしょうか。子どもの頃は体が弱かったこともあって死というものが片時も自分から離れることがない感覚がありました。死そのものが怖いというより、そのときまでになにができるのだろうか、さらに進んでいま生きていると思っているが、その感覚はなんなんだろうとか、ぶっちゃけった話、考えなくてもよいことばかり気になっていました。実は、今でも同じ感覚があるのですが、年をとるといかんせん体力が落ちてきます。これは30代前半まで気がつきませんでしたが、体力があるときには一瞬、一瞬、生と死の境目を歩いているという感覚と日常が合致しているのですが、体力が落ちてくると、とてもではないのですが、とりあえず生きていることにしないとどうにもこうにもきつい。とくに、眠りが浅いので、集中力を残しておくことが最大の課題で、ムダなところで力を入れないことに、無意識に力を使っているようです。

 死ということがあるから生があるというのが若いときの感覚でしたが、今では生きているからそれでよいということにしておかないと、本当に死がやってきたときに備えられないという感じでしょうか。もっと言えば、いつも死のことばかり考えてきたけれども、それ自体がどうにもならないことで、いつ、くたばっても意味を問うこと自体が無意味だというどうにもならない現実に突き当たってしまって、芸のない人間にありがちな目先のことに専念するという安逸な生活を送っております。ちょっと耄碌したなと思うのは、若い人が四苦八苦するのを見ながら、「生きるというのはみんな初めてだから、生まれてから死ぬまでそんなもんだよ」と優しくなってしまったことでしょうか。外的な刺激に頼ることなく、一瞬、一瞬を迷いながら「こんなものでしょ?」と疑問符を残しながら、なんとかやりすごしてゆく。いつまで、こんなことをしているのだろうと思う反面、こんなところに幸せがあるのかもしれないと感じたりします。
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2008年05月26日

痴的生産の技術

 最近、日曜の朝が楽しいです。朝に弱いので7時ぐらいに目が覚めて、ダラダラしながら報道番組を音楽代わりに流していると、10時すぎぐらいに気もちよく二度寝してしまいます。小一時間ほど寝ていると、すべてきれいさっぱり忘れて、とても快適です。こういうときはクラシックなどはご法度で、うっかり聴きこんでしまうと目が覚めてしまうので後期高齢者医療制度がどうたらこうたらとかやっているのを聞きながら、「馬の耳に念仏」状態になると、ほとんど「極楽」状態です。寝すぎて夜眠れないのがちとまずいのですが。

 こちらを拝読しながら、そういえば「知的生産」という言葉が入っている本って読んだことがないなと気がつきました。なぜかと考えると知恵熱が出そうですが、「知的」という言葉に憧れたことがないだけかもしれません。リンク先にあった「知的生産」と「知的消費」の違いがまるでわからず、「書くこと」=「知的生産」、「読むこと」=「知的消費」となると、さすがにこれは。もっとも、「寝言を書くこと」=「痴的生産かつ痴的消費」という感覚なので、高水準の話についてゆけないだけかもしれません。さすがにネットでは書けないことが多くて、本業ではもっと「話すこと」、「聞くこと」の比重が高く、加齢のせいか、人の話が聞けなくなってまずいなあとちょっとだけ焦っています。講演でも10分が限界で、こんな雰囲気の会合だったら、眠たくはならないかも。

 以前、こちらでフェデリコ・フェリーニに塩野七生さんがインタビューした際のエピソードが紹介されていて感心してしまいました。フェリーニの作品に熱中したわけではないのでピンとこない部分もありましたが、インタビュー嫌いのフェリーニに塩野さんは余計なことを言わずにひたすら聞き役に回ったとのこと。これが大成功で、フェリーニの肉声を引き出すことができたというのは、さすがだなあと。「人間力」というより、あえて「虚」になった塩野さんが、フェリーニの「実」を引き出す。「虚」に徹すること自体は「知的生産」ではないのかもしれませんし、インタビューという特殊なシチュエーションですが、「聞く」という受動的な作業が情報を生み出すといってよいのでしょう。

 話がどんどんずれてゆきますが、活字の場合でも「読む」ということは「知的生産」といってよいのでしょう。読まれない文章は消えてゆくという消極的な形ですが、「消費」とは明らかに異なると思います。ぶっちゃけた話、夕食でどこの店に行こうかというのも十分、知的活動に値するわけで、アウトプットが共有される範囲が文章と異なるだけでしょう。ここまで書いたら、啖呵をきるのに躊躇う必要もないでしょう。人間の活動と「知的活動」を切り離すことは不可能でしょう。また、アウトプットである文章を書くことは、少なくとも書いている当人からすれば生産と消費の区別などないでしょう。このような区別をせざるをえないのは、文章を書かなければ生活が成り立たない、ごく少数の人たちでしょう。

 さらにひどいことを書いてしまえば、まとまった文章を書いたことがあれば、誰しも書けることは一部で書かずにおわることがはるかに多いでしょう。特別な事情によることあるでしょうし、単に知識不足のこともあるでしょう。より根源的なのは文章によって表現できるのは考えであり、考え以前の「考え」が無意識にせよ、意識的にせよ、はるかに広がっているわけでして、「考え」を考えとして文章にしてしまうとなにかが失われてしまう。あえて、「知的生産」と「知的消費」という言葉を使うなら、同時に行われているのが知的活動そのものだと思います。以上が「痴的生産の技術」に関する「寝言」です。


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2008年05月24日

ダメな頭の使い方

 深い理由もなく、PCで名人戦の棋譜やらビデオを見ていたら、森内名人と羽生二冠がとても若く見えました。ぶっちゃけ、棋譜など見ても「猫に小判」でありまして、渡辺竜王が「難解」を連発するぐらいですから(まさか「南海ホークス」なんてオヤジギャグがでるとは。そんなに年を食っていたっけという感じ。それぐらい難解なんだと素人なりに納得)、将棋の内容はさっぱりです。ただ、終局後、見た目にも羽生二冠がけだるそうにしながら紅潮した表情で、今回はカメラの角度がよかったのか森内名人も頭部のあたりが熱くなっていたのが印象的でした。肝心の将棋の中身はまるでわかりませんが、なんだかこちらまで若返りそうな集中力を感じました。もちろん、自分の持ち時間が9時間、相手も含めて18時間で2日間将棋以外のことはご法度なんて生活は死んでも無理ですが。

 次は、久々にサッカー。どちらを応援するというのではなく、ただプレーをひたすら熱心に見ているだけ。こちらも薀蓄を語れるような知識がないので、余計なことを考えずに済みます。ただただ、選手の動作だけを見て感想とか余計なことを考えない。サッカーにせよ、将棋にせよ、下手の考え休むに似たりですから。

 無為に過ごして横になると、近くに書物がありますが、邪険に追い払いました。紙であろうが、ネットであろうが、活字は頭にとって毒です。邪険に、ときに敬して遠ざけましょう。音楽もなくてよし。雨が自然とメロディを奏でてくれているのですから。そんな状態で大の字になって寝ていると、もうまったく余計なことを考えず、ただ気もちいい。ただ、頭の中がどんどん空っぽになってゆきます。もともと空っぽじゃないかと自分でもツッコミを入れたいところですが、どうして余計なもので一杯です。しかし、この状態では何も残らず、ただ心地よいだけ。自分の呼吸と鼓動だけを意識していると、心と体などという問い自体が無意味に感じます。
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2008年05月23日

「消極的外交」のすすめ?

 「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」を台湾海峡問題という点から評価する「寝言」を書きましたが、どうも視点がずれているのかもしれません。胡錦濤訪日自体の評価が低いようですし、評価する人でも台湾海峡問題にふれる人は皆無でして、やはり「時の最果て」というところの感覚は思い切り世の中とはずれているようです。あまり気にせずに、日台関係でこんな記事(『産経』のHP記事では「日台関係思わぬ『つまづき』」となっていますが)を読むと、つい、ため息がでます。

 まず、外務省HPで基本中の基本を確認すると、「日台関係は1972年の日中共同声明に従い、非政府間の実務関係として維持されている」とあります。日台関係全般を論じることが目的ではなく、またそのような力量もないので、省きます。ちなみに国交がない日朝関係では「外交関係なし」と簡潔かつ正確にふれた後、この数年の関係を叙述しています。日台関係は地味ではありますが、そもそも国交がない日朝関係と比較すれば、はるかに民間レベルの交流も盛んであって、議員による外交は「非政府間の実務関係」の主要な要素なのでしょう。

 冒頭の記事ですが、馬英九総統の「反日」姿勢に日華議員懇談会会長が就任演説に日本について言及されていないことに注文をつけられたそうで。失礼ながら、会長にはお似合いの、尻の穴の小さい話で、なんとも萎えます。露骨に言えば、「非政府間の実務関係」では「民間外交」までもが政治色が濃厚な場面では必要以上に国民党と民進党の党派争いに積極的に加担してきた「末路」でしょう。国民党政権の下では中台統一の確率が高まるということと必然であるというのはずいぶん濃淡の差があるはずですが、普通なら考えるであろうことすら、なぜか中国がからむと忘れられてしまうようです。もっとも、このような愚行さえ、実力以上に日本の役割へ期待していた台湾の人たちの期待値を下げるという点では、プラスに考えた方がよいのかも。

 それにしても、「外交の基礎はすぐれた商売の基礎と同じである」(ニコルソン)という発想は、極東の島国でも一般受けしないようです。ぶっちゃけた話、この国がアジアに限定してもpowerたりえないのは、庶民レベルというより、「選良」レベルで外交感覚が乏しいからであろうと。もちろん、帝国が帝国たりえなかった結果にすぎないとも見ることができますが。表現が悪いのですが、他国とつきあうというのはお互いに面倒なのであって、面倒ななりに上手にやってゆくほかなく、「寝言」をあれこれと書き連ねてゆくうちに、外交なんてトラブルシューティングみたいなものだという消極的なことを抑えたほうが間違えないんじゃないかなんて、ひどい「寝言」が浮かびます。
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2008年05月21日

「日米防衛協力のための指針」に関する「寝言」

 恥ずかしながら、JSFさんのブログで、田岡元帥がゲストの「ビデオニュース・ドットコム」に関する記事を知りました。いわゆる「思いやり予算」、あるいは"host nation Support"に関する討論の内容ですが、これまた恥ずかしいことに、この記事のおかげで4月25日に参議院で「在日米軍駐留経費負担に係る特別協定」を3年間延長することが否決されたことを知りました。いやはや、あまりに出来事が多すぎて、ついてゆけないことが多いことを実感いたします。JSFさんのところでは"primary responsibility"の内容について検討されていました。1997年の「日米防衛協力のための指針」(日本語正文はこちら、英語正文はこちら)における「日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等」に関する第2項の「日本に対する武力攻撃がなされた場合」で英語正文では"primary responsibility"という表現が日本語では「日本は、日本に対する武力攻撃に即応して主体的に行動し、極力早期にこれを排除する」となっていることに関して田岡元帥が"primary responsibility"を「一義的責任」と訳して外務省を攻撃して、挙句の果てに日本有事の際に「米軍は日本を守らないというのが97年の防衛協力の指針だ」となって正文を読むと、どうしてそう読めるのかが不思議ではあります。

 まずは細かいところからゆきますと、"primary responsibility"をどう訳すのかという点ですが、通常ならば「責務」というところでしょうか。外務省の日本語正文がそこを逃げているわけではなく、「日本は、日本に対する武力攻撃に即応して主体的に行動し、極力早期にこれを排除する」(Japan will have primary responsibility immediately to take action and to repel an armed attack against Japan as soon as possible.) というのはほぼ同等の意味ではないかと思います。日本有事の際に"primary responsibility"が日本にないというのは、有事の際にアメリカ頼みというよりも、日本に国家主権がないことを意味しますので、日本に"primary responsibility"があるというのは当然でしょう。なお、1978年の「日米防衛協力のための指針」(日本語正文はこちら、英語正文はこちら)では「日本は、原則として、限定的かつ小規模な侵略を独力で排除する。侵略の規模、態様等により独力で排除することが困難な場合には、米国の協力をまつて、これを排除する」(In principle, Japan by itself will repel limited, small-scale aggression. When it is difficult to repel aggression alone due to the scale, type and other factors of aggression, Japan will repel it with the cooperation of the United States. )とあり、"primary responsibility"という表現は出てきませんが、新旧ガイドラインのニュアンスの差を乱暴ですが無視すれば、日本有事にはまず日本が侵略の排除に努め、それを米軍が支援するという当たり前のことが書かれています。日本有事の際の自衛隊と米軍の役割が逆だったら、訳がわかりません。自衛隊だけで対処できればそれでよし。そうでない場合には米軍が支援するわけで、「米軍は日本を守らないというのが97年の防衛協力の指針だ」という解釈は、脳みそが単純にできている私には難しすぎる印象です。

 こんな与太話だけであれば「寝言」も浮かばなかったのでしょうが、あらためて1997年の「日米防衛協力のための指針」を読んでいると、日本独自の防衛力整備と日米同盟が補完的であるということは1978年のいわゆる「旧ガイドライン」から自明なのであって、「時の最果て」で力む必要がないんだなあと思いました。いわゆる「新ガイドライン」に至るプロセスでは、日米同盟と他の集団的取り決めと代替的な関係であるのではなく、日米同盟と補完的な関係にあるということがキモなんだろうと思いますが、日本の防衛力と米軍のプレゼンスが補完関係にあるということが明確になっていて、要はガイドラインを具体的に落とし込んでゆくのが1990年代後半から今日に至るまでの核心部分なんだなと思いました。1997年の「日米防衛協力のための指針」では周辺事態における後方支援などその後の「周辺事態法」の問題に直結するイッシューなどがありますが、今回は割愛いたします。

 それにしても「宇宙基本法」のスピード審議を見ていると、与党と民主党の協議が非常に有効であることを実感します。「在日米軍駐留経費負担に係る特別協定」に関しては民主党の指摘がすべておかしいというわけではなく、いわゆる「思いやり予算」を日米同盟を円滑にマネージするために有効に活用する協議が行われていればなあと思います。宇宙開発がどうでもいいとは思いませんが、同盟戦略を与党と民主党で共有してゆくことが、政権交代も含む政治的リスクを大きく軽減するでしょう。外交・安全保障政策に関して、自民党中心の政権であろうが、民主党中心の政権であろうが、コンセンサスの上で進むとなれば、その時々の政策課題によって自民党がダメなら民主党に入れるという選択肢が広がることは個人的には歓迎です。言いにくいのですが、「ポスト福田」でお名前が挙がる方が、女性問題でどうもなあという方や現役の総理大臣が総選挙で落選しかねない状況では民主党が受け皿になりうる政党へと成長することは、私自身にとっては精神衛生にはたいそうよい話です。現実には厳しい感じもいたしますが、外交・安全保障に関して主要政党間でコンセンサスが築かれることを願っております。

 なお、下記はスパムまみれのかんべえさんのところにメールを送るのが気の毒ですので、私信です。暇な方はどうぞ、ご覧頂いても結構ですが、たぶん、送った相手が読んでもつまらないと思いますので、スルーしてやってください。


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2008年05月19日

告白

 あまりネットの将来がどうとか、ブログがどうとか興味がなく、つくづく自分の知的怠惰さに感心します。一応、人様の目に映ることを意識はしておりますが、基本的に想定している読者は一人です。もちろん、私自身。「お前、このときにはこんなバカなことを書いていたよ」と自分でツッコミを入れるために書いているようなものです。

 20代前半に養老孟司さんの『唯脳論』を読んでいたく共感したことがあります。曖昧な記憶にもとづいているので不正確きわまりないですが、私はインテリだ、子供のときから自意識過剰だったという趣旨のことを書かれていて、間違っても「有識者」とはほど遠い私もその意味ならインテリかもしれないと思いました。もっと露骨な表現をすれば、普通のことが普通のこととして意識しなければ、普通にすらできない不自由さを抱えながらもがいている存在ということになります。

 日曜日に「寝言」を書きながら、自分が気分しだいの、ちゃらんぽらんだとこのブログを書き始めて気がつきましたが、ちゃらんぽらんにも「奥の深さ」があって本当にびっくりしました。脈絡がでたらめですが、私は調和や対称が大好きです。子供のときから、点対称かつ線対称の図形が大好きでした。特別、数学の才能があるわけでもなく、単に調和がとれていることが好きだっただけですが。

 数学の話ではないので乱暴なのはお許しいただきたいのですが、他方で素数が大好きという不思議な傾向も同時にありました。素数の初歩的な定義は中学の数学で覚えたのでしょうが、1とそれ自身でしか割り切れない数というのは不思議と私の感覚に合致したようです。もちろん、数論のような深遠な世界を覗いたわけではなく、単に世の中というのは割り切れないものだという、実に安直な考えにすぎないのですが。たとえば、ジムでロッカーの番号を選ぶときに素数を好んで選ぶという下世話なレベルです。

 「寝言@時の最果て」という変てこなブログのようなブログでないような、まあ、形式上、ブログを始めて、そういった自分のまったく異なる二面性が気分によってでてくるのだと気がつきました。それは大袈裟な話ではなく、どのような形かは人それぞれでしょうが、意識したからといって知的になるわけでもなく、なんのご利益もない話です。振り返ると、しみじみ私の人生というのは「悪い冗談」以外のなにものでもないことに気がつかされます。それでも、一瞬、一瞬、どちらかの傾向が自分を支配しているものだと思い込んでいました。

 ふとした瞬間にそれすら浅い話で、平然と両者が渾然一体となっている自分が、厳然と「寝言」として過去の自分にあることに気がつきました。気分しだいとはいえ、ある瞬間には調和を求め、ある瞬間には割り切れない現実を見ていると思い込んでいましたが、気がつくと、両者はまるで切り離されることなく、ごちゃごちゃに存在していることに驚きました。

 放言みたいなものですが、麦茶を飲んでいる自分にすら驚きます。なぜ、麦茶を飲んでいるのかということすらどうでもよく、麦茶を飲んでいる自分が今、ここにあるということに驚いてしまう。そして、何事もなかったように飲み干してしまう。まだ行為から距離がとれておりませんが、今、自分がここにあるということに驚く日々が続きそうです。
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2008年05月17日

『日経』の「受難」 『産経』の「ご利益」

 職場の人も見ている可能性が高いので、あまり書くべきことではないのですが、今年の3月末をもって『日経』の購読をやめました。理由は実に安直で、3月まで『日経』と『産経』をとっていたのですが、しゃれにならないぐらいの紙ゴミにうんざりしてしまったというのが実情です。まじめに、2紙もとっていると、1ヶ月たつと、とてつもない量で捨てなければならず、大抵は読み流して終わるので、もったいないです。さらに、職場で主要紙は読めますので、とらなくなってからの方が真剣に読むようになったような気すらします。あくまで、気のせいで実際はそんなことはないのでしょうが。

 土曜日の午後7時ごろでしたでしょうか、『日経』の本社から電話がありました。実は、土曜日に電話がかかってくることは少なく、以前、緊急の連絡があったので受話器をとるのが少し怖いです。留守番電話にしておけば、緊急の電話なら必ずといってよいほど、録音が入りますので、しばらく放っておいたら、受信音が止まらずに「あれ?」という感じ。なんのことはない、留守番電話の設定を解除したままになっていたのでした。万が一があるので受話器をとると、日本経済新聞社でした。正直、「緊急事態」ではないとわかって脱力したので、正式な部署名や担当者名は忘れてしまいましたあ(塩爺の「ボケ」とは違いますよ)。

 ちょっと驚きましたが、要約すると、3月末で購読をやめた方に再購読のお願いをしているとのことでした。仕事柄、「とりあえず、『日経』読め」と言う機会が多いのですが、自分が購読をやめたので、最近は、「とりあえず、新聞読め」とトーンを落としております。それはさておき、4月から紙面充実をしましたよという説明を聞きながら、用語集もありますとのこと。内心、用語集は別に要らないんだけどなあと思いながら、「それを言っちゃあ、おしまいよ」ということもあり、電話の向こうの人が必死な様子が伝わってきたので、適度に相槌を打っておりました。このブログをお読みいただいている方には意外でしょうが、よほど機嫌や体調が悪くないかぎり、聞き役に回ることが多く、あまり自己主張をしないタイプだったりします。聞き上手まではゆきませんが。

 晩御飯を早めに済ませて微妙に眠かったせいか、会話の内容を正確に覚えていないのですが、最初に私の住んでいるところでは『日経』の販売店が少ないそうで、言われてみればそうだなと。3月までとっていたときも、『朝日』の販売店が配達していたのでなるほどと思いました。途中は、先ほど書いたとおり、紙面の充実ですが、私が読みたいところは微妙に異なるので、黙って聞いていました。最後の方で、聞き間違えたと思うのですが、決算が苦しいとのことで、「へっ!?」てな感じでした。『日経』に限らず、新聞社の経営には疎いのですが、この時期に決算というのも変な話で、本当に聞き間違えたのかもしれません。

 「お願いいたします」と頼まれて、答えは最初から決まっていたので、簡潔に述べました。「『日経』の紙面の問題ではなくて、新聞を郵便ポストに入れられるんです。出張から帰ってくると、ポストがあふれる状態になっていて、本当に困りました。だから、ごめん」。古新聞を捨てるのが面倒くさいという「本当の理由」はさすがに言えませんでしたので、二番目の「正当な理由」で「撃退」。気の毒なぐらい、落ち込んでいましたが、これだけは譲れない「一線」ですからね。『日経金融』も『日経ヴェリタス』になっちゃうし、決算広告もどこかへと大変なんだろうなあと。それにしても、『日経』が電話勧誘する時代というのは大変だなとふと思いました。余計なお世話ですが、費用対効果に見合うのかは疑問に感じましたが。電話で新聞勧誘というのは意外と斬新ですが、断りやすいですしね。

 『産経』は当面はとめないつもりですが、『毎日』あたりに変えようかなと思うこともあります。勘違いをしている可能性があるのですが、なんとなく『毎日』朝刊の方が分厚くないんですね。『産経』の販売所が気合を入れすぎて、チラシが多くて本当に面倒なんです。最初、うんざりして、「うちだけチラシ抜きにしてもらえません?」と尋ねたら、「それは許してください」とのこと。子供の頃はチラシの裏でメモをとったり、計算用紙の代わりにしておりましたが、今では贅沢なもので、職場のコピーで裏が白紙のものをストックして、計算用紙をつくっております。最近、職場で紙ゴミが増える傾向にあるようで、ちょっとだけ気がかかりなのですが。


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posted by Hache at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言