2009年06月25日

将棋、クラシック音楽などをとりとめもなく

 うーむ、ヒラリー・ハーンのメンデルスゾーンとショスタコーヴィッチのヴァイオリン協奏曲がしっかりPCのデータに残っていました。やはり「初代」はサルガッソー海の中ですか。なぜ、大した家でもないのにサルガッソー海が生じるのかといえば、PCを買うたびに外箱を保存していて、2、3年に一度は大掃除になるのですが、うっかり捨てることができない資料の類が年々、増えていて、保有する紙の類に比して容量が慢性的に不足しているという状態が続いているからですね。家を買いたいという意欲がないので(静岡県で職が保障されたら別ですが)、引越しした方がよいかなあ。これは親にも指摘されたことがないのですが、捨てる勇気がないのが最大の弱点の一つかなと感じております。

 それにしても、週の半ばでの名人戦は、観る側もきついです。とても、名人の位のかかった最終局とは思えなかったです。第1局や第2局の様な相矢倉でがっちりと組んで戦う将棋になるのかと思っておりました。実際は、矢倉模様から先の見えにくい手将棋に。羽生名人の指した31手目の▲4六歩はびっくりでした。よく言えば、ハイリスク・ハイリターンというところでしょうが、瞬間とはいえ、角の退路を立つので、観ている側の方が怖いぐらいの踏み込みでした。控え室での検討でもまったく浮かんでいなかったそうですから、素人がびっくりするのは当たり前でしょうか。名人戦の将棋自体を素人が理解しようとすること自体、無謀以外の何者でもありませんが、郷田九段が▲4六歩を見て作戦負けだったと振り返っているのが印象的でした。有料サービスなのでちょっと微妙ですが、応援掲示板には次の感想がアップされていました。

 ひどい作戦負けでどの作戦負けを選ぶ感じで、本譜は一番良くなかったかもしれません。本譜は分かりやすい将棋にしてしまったかもしれません。どこがいけなかったか分からなかったが作戦負けでした。

 第6局もすごい将棋でしたが、▲4六歩には驚きました。後手の郷田九段が矢倉模様から苦心して手を作ろうとされているのが伝わっているのですが、羽生名人が見事に先手の利を主張して、有効な対策が難しいという局面になったのでしょうか。このあたりの呼吸は本当に難しいです。プロが序盤から全力ですと、素人には難しいのですが、本当に広い可能性が81マスの盤に広がっているのだなあと感心します。控え室に渡辺竜王がいると華がありますね。棋譜解説を読んでいても楽しい雰囲気。素人には難解すぎる将棋の連続でしたが、楽しかったです。

 話がヒラリー・ハーンに戻るのですが、バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』を聴いたときにショックでした。ちょっと、自分の耳が一番、信用できませんから。この曲をまぐれで弾きこなせることはないことぐらいはわかるのですが、慌てて、メンデルスゾーンを取り寄せた覚えがあります。おかげで聴き間違いではないことを確信しました。ショスタコーヴィッチはやはり私には難しい。まだ、「庶民的」なはずですが、このあたりは音楽理論がわからないと無理っぽいので、やや投げやりですね。なんとなく、現代音楽を聴いていると、発達したがゆえに袋小路に入ってしまった現代の先進国の文明を象徴しているような感覚です。

 バッハやモーツァルトをプレモダーンと呼ぶのは自分でも違和感がありますが、別の可能性はなかったのだろうかと考え込んでしまうことがあります。ベートーヴェンの音楽家としての偉大さを否定するつもりはないのですが、ベートーヴェンぐらいから現代音楽まで一直線だとも思いませんし、ベートーヴェン個人に帰する問題でもないのでしょうが、どうも音楽の流れが変わったのはベートーヴェンの前後のような気がしてならない部分があります。小林秀雄はモーツァルトの評論で音楽に言葉が入ってきたと表現しましたが、感覚的にはそんなところかもしれないです。

 なんと申すべきか、音楽自体はどの時代でも人の造りしものとという点では時代に依存するわけではないのですが、その作為を行う主体の側は変化しうる。音楽理論自体がわからないことが多いので、的確な表現の術がないのですが、音楽で合理性が高まるほど、合理的ではない部分を音楽として表現していた部分が切り捨てられてしまい、音として表現される以前の部分が弱くなってしまう。ベートーヴェン以降のクラシック音楽がただちに衰えたわけではなく、ヨーロッパの各地域の民族性を取り込む形で隆盛して行くのですが、合理性と合目的性への偏重という流れから逃れることはできなかったという印象をもっています。その流れを鮮烈に顕在化させたという意味ではベートーヴェンは偉大でもあり、同時に罪深い部分もあると感じております。

 まあ、自分でも訳のわからない「寝言」を長々と書いているなあと呆れますが、現代文明の根幹にある合理性と合目的性を制御する伝統的な知恵がもはや衰退しきって復興することが難しいのが現状でしょう。ハイフェッツの演奏を聴いていると、ヒラリー・ハーンですら洗練されすぎているかもしれないとすら感じる部分もあります。両者とも、技巧だけでなく音楽性という点ではとび抜けていると感じておりますが、ハーンにケチをつけるとしたら、洗練されすぎていることかもしれません。それは彼女が演奏家としてハイフェッツと比べて劣っているということではなく、合理性と合目的性という現代文明の枠から音楽の分野ですら逃れることが難しいことを示しているのでしょう。

 ならば開き直って合理性と合目的性という呪縛を逆手にとって、合理的に"bounded rationality"を描写するという自己欺瞞かもしれませんが、そういうことはできないのかと模索しています。途端に難しいので率直なところ、もうこの世には帰ることはできないのかもと思うところもあります。実は、情報の不完全性などを前提にしなくても、実は合理的に世界を描写することには限界があるように感じておりますが、"bounded rationality"はそれとも異なる可能性があまりに広くて困惑することだらけです。

 なんのことはない、私自身も含めて生きるということは論理的には説明しきれない飛躍と惰性だらけなのだという平凡な実際に直面しているだけなのですけれど。下品ですが、Hでもふりさけみれば、よくあんなことをしていたなあと。これを合理的に説明せよといわれると絶句するしかない。まるでバカみたいですが(もちろん、ここは読み手があんたはバカそのものでしょと突っ込むところです)、ごく地味に市井で生きるということは実はすごいことなのだとびっくりする日々です。


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2009年06月23日

ハイフェッツのシャコンヌ(J. S. バッハ『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』第2番)

 操作を間違えて書いている途中でうっかり消してしまいました。勢いで書くことが多いので、再現はできないのですが、せっかくなので気の抜けた状態ですが、簡単に。第67期将棋名人戦もいよいよ大詰めですが、第5局、第6局と難しい将棋でした。基本的には「先手の利」が生きる将棋だったように感じるのですが、序盤の構想で負けた側が、相手にこれといって悪い手がないのにもかかわらず、中盤で徐々に盛り返してくる展開が続いて、羽生善治名人と郷田真隆九段は現時点では互角で、名人位が決まるという勝負として重要な最終局ですが、勝ち負けよりもプロセスをじっくりと見たいと感じております。

 カワセミさんのおかげでクラシックの見方が広がったような気がします。あくまで、気のせいであって、たぶん、私のような素人にはもったいない話が少なくないのだろうと。ただ、日常ではクラシックの話題をすることはごく限られた方なので、刺激を受けると同時に、視野が広がった気がします。クラシック音楽が好きというと、よくて「上品ですね」(私には縁がないけれどなんかすごいんでしょうね)というあたりが普通の反応で、おそらく「この鼻持ちならないスノッブ野郎」(どうせ「ざます」なんでしょ)という気もちを、露骨におっしゃる方は少ないですが、まあ、そう思われているのだろうと感じることはあります。協調性のない私ですが、その程度のことは忖度して自分からクラシック音楽の話題をもちだすことは日常ではまずありません。おかげで、欲求不満が解消しました。

 前にも書いた記憶がありますが、シューマンの交響曲第1番がクラシックを聴き始めたきっかけで、第4番が好きでした。クラシック好きの方に言わせると、かなり変わり者で、なおかつ理屈っぽいとのこと。私に言わせると、向こうの方がはるかに難しく、理屈っぽいのですが、そう思える方に変わり者と言われると、否定できない部分はあります。日常生活では普通の人が普通にやれることでひどく苦労したりしますので。

 まったく無関係な話になりますが、日曜日の昼に洋食屋さんで牛カツを食べて、満腹になった後、汗だくになりながら、公園を2時間近く散歩していたら、この世のあれこれを忘れてしまい、「寝言」も浮かばないほど幸せなひとときを過ごしました。牛カツ自体はめったに食べないのですが、火の通り方が絶妙で、できたてを頬張ると、ステーキとは異なった肉の香りが口に広がってまったりと口の中でとけてゆくような感覚でたまらないです。素寒貧にとっては昼の定食としてはちょっと高めの1,500円ですが、これはたまりません。お腹が一杯になったところで、散歩をしたら、蒸し暑いのですが、気分がよく、初夏の木々の香りを味わって幸せでした。

 このお店では、昼はハンバーグとメンチカツ、牛カツ、軽めの焼肉とベタな定食が並んでいますが、店の雰囲気が小奇麗なのと、なんといっても、たかがハンバーグですが、肉をかむと、なんともいえない肉汁がほどよく広がって、飽きないです。牛カツは、まだ静脈が詰まっている状態なので贅沢をして病気が増えては困るので、極力、抑えていますが、これはたまりません。牛カツを食べておいてなんですが、なんでこんなにハンバーグがおいしいのかなあとつぶやくと、ふだんは笑って誤魔化されるのですが、珍しく店主さんが語ってくれました。要は、肉がメインでタマネギと塩・コショウが脇役の昔ながらのハンバーグなんですよとのこと。忖度するに、最もシンプルなハンバーグで食べてもらえるという自信があるのだろうなあと。会話をしていて、居酒屋で冷凍の枝豆をだされるとがっかりするから、下手でもよいので生のものをゆがいた枝豆をだしてほしいとのこと。シンプルな料理ほど、誤魔化しがきかないので、リピートするかしないかの目安にしているんですよと語っていました。そういえば、酒も含めて1万円前後の店でも、だし巻き一つ作れない店は二度といかないなあと。もちろん、そのクラスの店で枝豆やだし巻きを頼むこと自体、場違いなのでしょうが、私も基本ができていない店でだす「創作料理」なんてその場ではおいしく思えても、もう一度、食べたいというのは例外です。

 店主さんの心配は、マ○○○○ドのハンバーガーを食べなれた若い人たちにまずいといわれるんじゃないかということでした。なんとなく、ありえそうで嫌だなあと。言いにくいのですが、マ○○○○ドのハンバーガーは外の臭いだけで食べることができませんでした。チェーン店が増えるのは不景気が10年以上、続いている状態ではやむをないのでしょうが、てづくりのよさが駆逐されるのは嫌です。

 それにしても、事実上、20年近く成長の実感がないと、人々は安さを求め、売り手は価格で勝負することが増えてくるのでしょう。経済学なる分野では、価格が低下し、取引が増えれば消費者にとってもハッピーだそうですが、その前提は財の同質性という強い仮定です。遺憾ながら、例外的な市場も少なくはありませんが、なんとなく経済学が想定する世界に現実が近づいているような。そこでは、客観性とは没個性的であることであり、無味乾燥な生活になるのでしょうか。


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2009年06月18日

ワシントン―ソウルのラインは生きている 東京は?

 既にボケが始まっておりまして、仕事の大切なメール(真心のこもった御礼だったのに)を返信する前にうっかり削除してしまうぐらいひどいです(涙)。その衰えを(もともとゼロかもしれず、非負制約があればゼロの状態を維持するだけかもしれませんが)少しでも緩くしようと無駄な抵抗をするための「寝言」です。国際問題に関するアメリカのメディアの関心は圧倒的に中東に集中しているのが実情ですねえ。李明博韓国大統領の訪米にあわせる形で、向こうの日付で2009年8月16日にNew York Timesが"North Korea's Threats"(参照)という社説を載せていたので(RSSリーダーで配信されていただけですが)、ほおと思って読んでみましたが、ざっと見て韓国自体は軽い扱いで中国様頼みという「実情」を感じてしまいますね。まあ、一面的ではありますが、事態の一面は捉えているのでしょう。

 他方、短いのですが、Washington PostはBlaine Hardenの"S. Korea Seeks Assurances From U.S. of Nuclear Shield"という短いコラム(参照)を配信しています。短いのですが、これまで定期的にアメリカ側が韓国へ「核の傘」を保障していると言明しているものの、ホワイトハウスの公式声明としてではなかったことを指摘しています。

The United States has maintained a nuclear umbrella over South Korea since the Korean War, and it periodically reaffirms that protection, although not at the level of a White House statement.

 それでは「核の傘」という保証をどのレベルでアメリカ側がこれまで言及してきたのかという問題がありますが、一例として、このコラムでは2006年の北朝鮮による核実験の「初体験」後、ラムズフェルド国防長官(当時)が言及したと指摘されています。1991年に韓国から米軍が核兵器を移動させたものの、潜水艦からの弾道ミサイルや米本土からのミサイルによって「核の傘」が韓国をカバーしていることも指摘されています。今回、韓国はホワイトハウスが明確に「核の傘」の保証を与えるよう、求めているようです。と書いていたら、『朝日』が「『韓国に核の傘』明記 米韓首脳会談、同盟関係を再定義」という記事(参照)を配信していました。「核の傘」を明記することがどの程度のサプライズなのかは私には測りかねる部分がありますが、あとで簡単に見るように、李明博政権としては韓国国内の情勢を見極めた上で首脳会談に挑んだのでしょう。

 話がそれますが『朝日』の記事に出てくる「米韓相互防衛条約」(アメリカ合衆国と大韓民国との間の相互防衛条約)の原文を田中明彦先生のところで検索したら、あっさりでてきました(参照)。1960年の日米安全保障条約の前文では「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」という一節がありますが、米韓相互防衛条約の前文ではでは「いかなる潜在的侵略者も、いずれか一方の締約国が太平洋地域において孤立しているという錯覚を起すことがないようにするため、外部からの武力攻撃に対して自らを防衛しようとする共同の決意を公然と且つ正式に宣言することを希望し」とあります。さらに、「太平洋地域における地域的安全保障の一層包括的且つ有効な制度が発達するまでの間、平和及び安全を維持するための集団的防衛についての両国の努力を強化することを希望して」とあり、集団的自衛権を米韓両国が有していることをわざわざ確認せずに有事の際には当然、行使することが前提になっているあたりが日米と米韓のあまりに大きな懸隔を感じさせます(もちろん、当時の日韓の政治体制の相違を無視することはできませんが)。

 学生時代に韓国人留学生(修士課程在籍)の女性に「韓国はベトナム戦争に参戦したが、日本は参戦していない。しかるに、両国の地位協定で日本の方がはるかに有利なのはなぜか?」というストレートな質問をぶつけられて、参りました。パラパラとしか見ないのですが、ブログのランキングでは反韓やいわゆる「嫌韓」を基調としているブログのアクセス数がいまだに多いようですが、どうもついてゆけないです。日米韓の安全保障上の関係を考えると、日本が集団的自衛権で訳のわからない留保をつけていることが重荷になっているような気がします。盧武鉉前大統領が戦時作戦統制権の問題で厄介な種を蒔いた点もあるので微妙な部分がありますが、ちょっとそこまで分析する余裕がないので、今回は省略します。

 日米安全保障条約と米韓相互防衛条約で異なる点は、集団的自衛の問題のみならず、冷戦期の条約であるとはいえ、仮想敵国が旧ソ連であるだけではなく、より明白な脅威であった北朝鮮の存在が大きいのでしょう。当時の日米から見れば、北は不安定要素であるとはいえ、直接的な脅威ではないのとは対照的に、米韓にとっては直接的な脅威でしたから。他方、その脅威への感覚への相違からベトナム戦争に関しても、対応が異なったのでしょう。この「後遺症」は現在でも残っており、北朝鮮の核武装、弾道ミサイルの開発に核武装論や策源地攻撃能力(最近は敵基地攻撃能力という表現が使われるようですが)など、せっかちな私からすると、山手線のようなループで各駅停車になりかねない議論ばかりやっているのんきな国を見ておりますと、さっさと有事の際には集団的自衛を当然の選択肢として考えるという当たり前の話をさっさとしないかとイライラしますが。

 それはさておき、Bloombergが Heejin Kooの"Obama to Host Lee as South, North Korea Spar Verbally"という記事を配信していたのはちょっとした驚きでした(参照)。記事の途中に"North Korea last month abandoned the 1953 armistice ending the Korean War and kicked out UN weapons inspectors."という表現が出てきて、微妙な部分もありますが、米韓関係をよく整理していて、へえと思いました。今回の李明博大統領の訪米の背景や交渉の内容を整理していてわかりやすいです。

(1)今回、ホワイトハウスに「核の傘」の保証を明文化するよう求めたのは韓国国内の政治的対立が大きい。与党のハンナラ党にある核武装論、野党の民主労働党にある対北朝鮮宥和政策という両極端の中で、李明博は韓国の安全保障にとって致命的な「核の傘」の保証をオバマ政権に求めた。

(2)現時点でも、米国による対北朝鮮の「予防的攻撃」の選択肢はないとアーミテイジが指摘している(ただし、日韓の防衛に米国が責任をもつことも明言している)。Bloombergの記事は、北朝鮮の核武装やミサイル開発が韓国や日本にとっての脅威であるだけではなく、米国にとっての脅威でもあるという認識の下で書かれているが、米国側は軍事力によるレジームチェンジの選択肢は現実的ではないと認識しているのだろう。

(3)韓国と北朝鮮の軍事的緊張は高まっており、不測の事態が生じることも否定できない。オバマは対話を基本とはしているが、いざというときには軍事的オプションを排除しない可能性が十分にあるだろう。この記事では中国の影響力については論じられておらず、New York Timesの腰の引けた社説よりもかなり厳しい見方をしている。


 素朴な感想ですが、カネ関係のメディアの方が損得に直結するだけに、やや粗い部分もあるように感じますが、状況をシビアに見るのでしょう。北朝鮮はイランと異なって、明確に地政学的リスクの源ですから。それにしても、国連安保理の決議が腰砕けだったとか、アメリカの「核の傘」は機能するのかとか不満ばかりで具体的な対応となるとからっきしのどこかの島国とは異なって、李明博政権はオバマ政権と踏み込んだ交渉を行っているとみてよいのでしょう。FTAや米国産牛肉の問題などもあり、こちらも解をセットで出すと(ちょっと李明博が欲張りすぎている印象もありますが)、北朝鮮の選択肢(同時に韓国国内の不安定要素)をかなり限定できるのかもしれません。他方、ひょっとして自分でもマ○ではないかと不安になりますが、『産経』が配信していた「党首討論」なるものを読むと、ワシントン―ソウルのやりとりと比較すると、東京は「脳死状態」ではないかと。与野党問わず、この国の統治能力が地に落ちていることを実感します。

 あと追記というより、蛇足ですが、カイロ演説で日本と韓国がやや唐突な印象もありますが、セットで出てくる箇所がありました。アジア政策を論じているわけではないので、単なる深読みですが、アジアにおいてはオバマ政権のアプローチは同盟国重視になるのかもしれません。周囲では日本と韓国を同列にするなどけしからんと怒る方もいて疲れるのですが。極東における安全保障で日本と韓国を重視するというのはごく自然なアプローチで、カイロ演説全体がレトリックを省くと、ごく当たり前のことを言っているわけでして、そんなに突飛なアプローチをするのかなと。米中という新しいけれども太いパイプと日韓という同盟のハブを機能させるのが、アメリカ側からすれば、普通のアプローチだろうと。カイロ演説そのものに深入りをするのは避けますが、オバマのワーディングが上手すぎるので常識論を言っているだけだということがわかりにくいような。

 話を戻して、現実問題としては、米中関係で同盟関係を代替することはできないので、日本が完全に無視されているのは、明確な戦略をアメリカ側に提示しないからでしょう。現状では自衛隊の戦力は極東における軍事バランスにおいてゼロとカウントせざるをない状態ですから、それを変えることが先決であって、米軍が朝鮮半島から撤退せざるをえない状況をつくらないように、日本列島が半島を支えることが先です。日米韓がアメリカをハブとする同盟として機能する可能性が再びでてきているのにもかかわらず、これを生かさない場合、核武装をしようが、敵基地攻撃能力をもとうが、ミサイル防衛をしようが、日本の安全を、今後、長期にわたって維持することは困難になるでしょう。


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2009年06月15日

プロを育てない社会

 日曜日はのんびりとクラシック談義で終わりましたです。仕事もありましたが。現代音楽はさっぱしの私なので、シェーンベルグ(無理です)とストラビンスキー(こちらはかろうじて耳がついてくる感じ)を最近の演奏家ならという話になって、ヒラリー・ハーンでしょうと。私とは比較にならないクラシック好きがおっしゃるので、これはそうかなと。ベートーヴェンですら音が多すぎると感じる「外道」ですので、モーツァルトが限界ですね。パルティータ&ソナタはオイストラフでも全局録音を断念した難関ですが、さらりと弾いているので驚いたことがありました。使っている楽器がストラドでもジェスでもないそうですよと話すと、やっぱりそうだったかとのこと。

 ついでといっては何ですが、そういえば、辻井さんの話にもなりましたが、チャイコフスキーで上原さんがいるのに、なんであんなに騒ぐかなてな話に。やっぱり、全盲というあたりが日本人好みの浪花節なんじゃないですかなんてちょっと暴投気味の発言をすると、けっこうバカにできないよなあなんて話に。Haochen Zhangも第1位って、日本と米中がマーケットっていうの見え透いていて、アメリカらしくわかりやすいですねなんてひどい話になりました。Haochen Zhangは米中向け、辻井さんが日本向けかなという話になって演奏を聴いていないので、ちょっとついてゆけなくなりました。帰宅してから聴いてみると、なるほど。クラシックをふだん聞かない方が真っ先に挙げる「ラ・カンパネラ」を聴くと、ありゃまあ、これは単に目が不自由な方が一生懸命、努力してとうとう国際コンクールで入賞という話ではないなと。パガニーニが練習用に秘めていた曲をリストが編曲した曲の代表ですが、技巧的に派手になるところを徹底的に抑制した演奏になっていて、演奏者はプロだろうと。公式ホームページを見たら、やっぱり。プロが技巧的に聴かせようとする欲を捨てれば、素人にもわかりやすい演奏になるわけで、受ける理由がわかりました。

 対照的に、Haochen Zhangはファイナルにラヴェルの「夜のガスパール」を選ぶあたり、挑戦的ですな。変な選曲というわけではありませんが、辻井さんよりははっきり魅せよういう意欲を強く感じますね。演奏は技巧全開で、これはアメリカとひょっとしたら中国でも受けそうだなあと。バレンボイムの若い頃はお説教臭かったですし、アシュケーナジは老けるまでお説教臭かったのですが、そういうお説教臭さを省いて、とことん技巧で聴衆を魅せようと。これは聴かせる演奏で、聴衆が慣れてくると、飽きられてしまうリスクもありますが。技巧的には既に高いのでしょうが、さらに伸びてゆくのかもしれません。身も蓋もない言い方をしてしまえば、アメリカ市場で売り出して、中国でさらに開拓すると。アメリカは貧乏臭くなりそうですし、本家のヨーロッパは素寒貧になりかねないので、中国市場はやはり魅力的なのでしょう。コンクールの結果が恣意的だという話ではなくて、元々、出遅れていたアジア勢がクラシックの分野にも進出しているのは間違いなく、アメリカのクラシック業界にとっても、これらの地域出身者から優れた演奏家がでること自体、ありがたいでしょう。プロモーションとしてはほぼ最高といってよい。日本人がアメリカのプロモーションに感動しているのを見ると、ちょっとシニカルに見てしまいます。

(忙しかったので、まだ引っ張っていたのかとびっくりしましたが、お辞めになった方は『新報道2001』で4月あたりだったかなあ、郵政民営化はアメリカの意向を受けた小泉―竹中コンビの陰謀だとおっしゃっていて口あんぐりになった覚えが。橋本―小泉対決のときから郵政民営化論者だったのは私でも覚えておりますけれども。「友人の友人がアルカイダ」だったかな、ペンタゴンにご馳走してもらったり、アルカイダさんとも仲が良かったりお忙しい方でしたねえ。で、クラシックではアメリカのプロモーションに歓喜する日本人というわけで週明け早々、シニカルになってるなあ。)

 ふだんはクラシックというと敷居が高いという人まで話題にするので、ちょっと不思議でしたがなるほど。浪花節あり、ほどよい技巧ありで不景気の世界ではなかなかお上手なこと。浪花節が徹頭徹尾、嫌いな私は斜め下目線から見てしまいますね。生い立ちがどうたらこうたらなんてどうでもいい話で、本人が音楽家として見て欲しいとおっしゃっているのだから、その通りでいいじゃないと思うのですけれども。そもそも技巧がありながら抑制する演奏は日本人には受けそうですし。あと、現代に作品に残している音楽家で、「飲む、打つ、買う」の三拍子なんて珍しい話ではなく、「内面の美しさ」(笑)が音楽に現れるのなら、なんでそんな音楽家の曲を「忠実に」再現して下卑た曲にならないのかを説明して欲しいものだなあと。

 要は、プロが育つのが難しい国なのですよ。一芸に秀でた人物を特化させて、才能を伸ばすという土壌がないのですから。プロの芸と私生活は大いに関連していますが、モーツァルトなんて「飲む、打つ、買う」をやるために借金を抱えて、おかげで必死に作曲せざるを得なかったという点で私生活が絡んでくるのであって、そんな乱れがあろうとも、仕事をやり遂げている限り、何一つ問題もない。逆に言えば、どんなに清廉潔白でも芸ができなければプロとして失格。「水からの伝言」が受けちゃう国ではやっぱり無理かな。こういうドライな感覚は。放言ついでに書いちゃうと、この国の人は身内の中での「私人」の「恥」には敏感ですが、みんなで掻く「恥」には鈍感ですなあ。

 さらに、月曜の朝からドン引きされそうな話をすると、電力関係の方と核武装論どうよという話をすると、論壇がぎゃあぎゃあ騒ぐのも度を越さなければネグれる範囲のようですが、政府が万が一、間違ってそういう話を持ち出すのはやはり勘弁して欲しい様子。北朝鮮のように、制裁を食らっても、いきなり原発が停止というほどのインパクトはないようですが、再処理サイクルも途上の段階で禁輸措置を食らってすみません、発電は無理ですとはいえないですしねという話。真夏の停電時にバケツに水を入れて足を浸からせて、「ぬるいなあ」、「ああ」なんてやるわけにもゆかないですよねと話したら、受けてしまったので、ちとショックでしたが。そのときにはロシアあたりから「通常価格」の倍で天然ガスを買ってきて料金値上げでもしましょうかね(第2次日露協商?)。それにしても、「保守論壇」って頭の中がお花畑(以下略)。
posted by Hache at 08:35| Comment(5) | TrackBack(2) | ふまじめな寝言

2009年06月14日

話せばわかる 話すより書く方がよい

 ふう。なんとか、苦しいところを越えたというところでしょうか。人を斬るというのは苦痛ですが、話してみたら、まったくもって信頼できる人であったというのは珍しいものです。おかげで、やむをえず、刀を抜かなくてはならない状況に追い込まれた場合の準備をしておいたことが意図せざる結果として、話をしてみてダメだったら、実際は急所をすべて突いて血も流れずに終わる準備を3カ月がかりでつくっていましたが、前日に抑鬱状態になって、相手が善意の場合の力加減も想定していたら、想定していた以上に話がよくて、思わぬ喜びをかみしめましたね。まあ、それなりにうまくいったのでしょう。ひそかに「立会人」が覗いていたようで、さらりとパーティで、的をえた話をしてくれてありがとう、と簡潔ですが、言われて、あまりほめられても喜ばないひねくれ者ですが、私を使った方なので、ホッとしながらも、やはり嬉しいものです。役に立ったかどうかは別として、互恵的な関係を築くためには相応の努力が必要なことを感じました。

 最初に届いたものを見たときにはこれはさすがにまずいなと思って、改善策、代替案、ダメだったら、完全破壊といろいろ選択肢を練っていましたが、この2週間ぐらいは完全破壊に至る可能性が高く、苦吟の日々でした。陰険ですが、俺が悪いわけじゃないよと自分のための逃げ道も準備。ただ、やはり完全破壊に至るのは精神的には苦痛でして(露悪的に表現すれば、インチキなものを徹底的にぶち壊すのは快感ですが)、他の人と話をしていて、ちょっと感性がずれているのかもしれないなあと。ある人は、常識が最後にものをいうと言い、なるほど。他の人は、他人のことだからと突き放すのもやさしさと言い、これまたなるほど。私自身は誠実であるか否かであることに偏重しているのかもしれません。この場合の誠実というのは私の能力では表現するのが難しいのですが、単に嘘をつかないというのでは不十分です。私自身もそうですが、「思い込み」という形をとって人は自分に嘘をつく。形式的に言えば、自らが神ならぬ不完全な存在であるという限界を自覚して、不完全な存在にどれだけ迫るべく、自分を追い込めるのか。

 さらにいえば、真実は目の前にあるものの、脳みそなるものがあるがゆえに、人には真実を見ようとするが、見ることができない。目の前にある真実を見ようと思えば、バカバカしいほどの迂回をせざるをえず、そのプロセスにたえられるかどうか。そして、しばしばそのプロセスでは真実そのものではなく、自らが見たいと欲する真実こそが真実であるという誘惑に勝てるかどうか。あえてドライな見方をすれば、見たいと欲する真実と不完全な存在には見ることができない真実が、ひどい表現ですが、なにかの拍子で一致することが少なくないという自覚すら必要だという感覚です。だから、真実をつかんだと思った瞬間に真実は確実にその人の手から離れてしまう。頭のいかれた「外道」の感覚なんてそんなものです。

 しかし、若いというのは実に羨ましい。やっていることは無謀に近いのですが、これができなくなりつつある自分に気がつきます。ただし、無理筋ではない。発想は面白いのですが、このままではダメなので、必死に頭を使いました。久々に、本業で見知らぬ道を歩いてみたのですが、ちょっとは脳が若返ったのかしら。こういう作業の後の酒はおいしく、楽しい時間を過ごしました。もっと早く、コミュニケーションをすればよかったと思う反面、相手が誠実であるか否かが事前にわかっていたら、ここまで掘り下げなかったのかもしれないとも。ただし、困難はここから始まりますね。道のりは長いし、モチベーションをいかに保つかが肝心なので、ありとあらゆる打算と感情で鼓舞して終わりました。若い人に教えてもらうのはなかなか愉快です。

 しかし、話せばわかるというのはあるものだなあと。真の苦痛は、話せばわかることを書くことによって死んだ形式にせざるをえないことあるのでしょう。これに耐えられるのかは、本人しだい。形式というのは空疎に見えますが、思考そのものの再現性を担保するには、現状では、他に代替する手段がないのでしょう。


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posted by Hache at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言

2009年06月03日

苦吟の時間

 この2、3日ですが、8時を過ぎると眠気がきて、11時には床につかないとそのまま寝てしまいそうです。で、5時ぐらいには目が覚めるのですが、寝た気がしなくて、7時ぐらいまで寝てしまう。妙に疲れがひどくて、来週はもっときついのですが、ちょっともつのだろうかという感じです。で、月曜日の「寝言」を読んでいると、ボーっとした状態で書いたせいか、ひどくて誤字・脱字だけではなく、文章もひどい。久しぶりに自己添削しましたが、よほど疲れているようで、仕事でこれはまずいので用心しなくては。

 昨夜の9時すぎから第67期将棋名人戦第5局の棋譜を見ましたが、睡魔がひどくて手がまるで見えません。封じ手局面は、先手の郷田九段が33手目、▲2三歩としたところでした。いくら眠くても、これはさすがに△同金とすると、▲4二角で終了。棋譜解説を見ると、羽生名人が封じ手時刻の6時半をすぎても考え続けていたようで、7時26分に手を封じたとのこと。これはあまり見たことがない話で、封じ手時刻を過ぎて考慮できるようですが、3時間近い、「苦吟」というところでしょうか。▲2三歩がとてつもない厳しさで、ここまでくると、素人目には緩くする手段が見えないです。いったん馬を逃げてもらおうという△5二歩ではいかにも辛い。ただ、他の手もパッとしません。

 △2九飛成と指しあうのが本筋のような気もしますが、棋譜解説にあるように、▲2二歩成が厳しくて、よくて一手違い、悪くすると、ボロボロになりそう。△1五銀はぼんやりとしていますが、本当に手抜かれるとひどいことになりそう。この局面で妙手があるとは思えないのですが、もしそうだとすると、一直線の戦いを選んだ名人になにか誤算があったのか。

 19手目の▲5二玉が▲8七歩、△8五飛を指させない「山崎流」ですが、21手目の▲2六飛が既に勝負手のようで、一直線にやろうという郷田九段に応えたというわけではないのでしょうが、22手目、羽生名人の△8八角成で悲鳴を上げそうになりました。もう、こうなると、素人には最も激しい将棋だと感じる相横歩どりよりも激しい感じです。解説では、以下、▲同銀、△4四角、▲2四飛まで必然で、すさまじいです。27手目の▲5五角は、もちろん、読みが入った上での手でしょうが、棋譜解説ではほとんど時間を使っていないそうで、びっくりします。もう、激しい将棋しかありませんよという感じで、見ている方が怖いぐらいです。

 30手目の△2四銀が怖い手で、次の▲5三角成が見えているだけに、本当に怖い。これで負ければ、ほとんど敗着といってよいぐらいではないでしょうか。▲2三歩はほとんど局面を緩くする余地をなくした手で、羽生名人の「手渡し」を許さない厳しい手。やはり封じ手直前の3時間近い長考は苦吟なのかなあ……。もうわからないです。時間がないので、とりあえず、ここまでです。


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posted by Hache at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言

2009年06月01日

策源地攻撃能力と「善意」

 以前、策源地攻撃能力に関する「寝言」を書きました。この種の議論の前に集団的自衛権の行使ができないという政府の憲法解釈を変えなければ、この国の安全を確保することは困難、もっと率直に言えば、ほとんど不可能だという考えです。さらにいえば、この問題が解決しない限り、やはり日米安全保障体制という表現の方が適切であって、「日米同盟」とは呼べないだろうと感じております(それ以後も、「日米同盟」という表現を用いている「寝言」を書いておりので、われながら一貫性が欠如していることに忸怩たる思いがありますが)。

 もちろん、策源地攻撃能力、あるいは「敵基地攻撃能力」に関する議論をされている方が、この国の安全を守るという愛国者として当然の感覚から主張されていることに疑問を抱いているわけではありません。また、核武装に関する議論も同様でしょう。疑念があるとすれば、アメリカが本当に日本の攻撃に反撃してくれるのだろうかという猜疑が背後にあるという、勘ぐりにすぎませんが、ちょっと危険な感覚を、とりわけ後者には感じないでもないです。ただし、そのような猜疑も、この国の安全を考える際には考慮すべき点ではあり、広い意味での「善意」なのでしょう。

 私自身は、真剣にこの国の安全を守ろうと様々な議論をしている方々に共感しますし、私自身が理解不足のところも少なくないのでしょうが、敬意をもっております。ただし、未だに戦前の状況を鑑みると、時代背景が異なるとはいえ、「愛国者が国を滅ぼす」という懐疑的な感覚もあります(軽い例をこんな「寝言」にしたこともあります)。正確にいえば、軍事におけるリアリズムを欠いた「善意」はこの国の安全を図ろうという意図とは反してむしろ危険な状態を招きかねないという感覚でしょうか。ちょっとひどい表現になりますが、この国の安全を高めるという「善意」は、冷戦期の名残である憲法墨守の立場と実はそれほど変わらないのではないかという感覚をもっております。それは単にリアリズムの欠如(「リアリズム」や「現実主義」という表現は、自分がその立場にあると認識している方からすると、そうではない価値にコミットしている人の役割を過小に評価するという弊害があるという自覚がなければ、生産的な議論を生まないと見ております)というに留まらず、「善」なる立場と自認する者は現実がその立場に合致しないがゆえに誤っていると独断する点で共通する部分があるのでしょう

 ずいぶん、前置きが長くなってしまいましたので、本論は「続き」に回しました。どうも、この問題はやはり「善意」に関する問題であり、やはり危険な感覚があります。


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