2010年01月08日

40歳をすぎて負け組と実感するとき(Twitter風)

ドラえもん来てと思ったとき。

少し落ちてくしゃみをしたくなるとき。
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2010年01月07日

馬は鹿、鹿は馬。 愚者の楽園

 精神衛生に悪いので、活字の類は封印しておりましたが、自宅で『日経』をとるようになって、論説委員より、専門家のはずの方々の方が、失礼ながら身体の上部に位置する部分のお具合が悪いのではと。ネタ政党が政権をとってネタ国家になってしまい、世界中の笑いものになりつつあるどこぞの島国など余命いくばくかはわかりませんが、つける薬がないのは国会議員ばかりではないのだなあと冷笑します。

 1月5日の「経済教室」あたりは、実例以外は意味不明という点では「寝言」を超越していて、これが現代音楽みたいなものかしらというところでしょうか。1月6日は途中までまともな感じなのが、突然、気でもふれたように共通する利害が個別的でしかないのに、日中協商ときました。愚者の楽園ですね。やっぱり一年で契約を終えようかな。

 政策重視の選挙をというのは一見、正論らしく響きますが、政局と政策を分離した上で、この選挙は政局重視の選挙でございます、この選挙は政策重視の選挙でございますと区別する定義がない時点で専門家が実名で書くというのがもはや信じがたい。だから、みんな笑ってはまずいんだろうなと笑いを抑えていることにも気がつかないのでしょう。机上の空論と笑われているうちはよいのですが、そのうち貧乏が身に沁みてくると、役立たずとして社会から放逐される対象になるのかもしれない。


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2010年01月06日

文明の根源 生と死と

 聴いてから数日が経過しましたが、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの『交響曲 第9番』を聴きました。1942年3月の録音です。解説ではドイツ帝国放送協会に関しても簡略ながらも記述があり、フルトヴェングラーの水面下における努力にもかかわらず、ユダヤ系楽員がベルリン・フィルから追い出されていったことが記されています。そのような時代背景にもかかわらず、フルトヴェングラーの指揮は冴えています。冷戦後、ソ連が没収した録音テープからLPに録音したメロディアのLPを再現したのが、今回、聴いたCDです。ガリガリ音が懐かしくもあります。

 1月3日の深夜に聴きはじめましたが、やや疲労を覚えました。単純に1時間を超えるシンフォニーを途切れることなく聴く体力がなくなってきているだけなのですが。この演奏に関して私自身がなにかを述べる必要もないと思います。録音の状態は決して良好ではありませんし、元々の演奏自体が非常事態の下であるにもかかわらず、スケールの大きな演奏に圧倒されました。ナチスの宣伝の道具であったのにもかかわらず、今日でも愛されるのは当然であろうと。他方、優れた演奏に接したおかげで、なぜベートーヴェンですら受けつけなくなったのかも、なんとなくですが、わかったような気がします。スケールの大きさに圧倒される反面、なにか物事が大げさになりすぎることが耳が受けつけなくなった理由であろうと。このあたりは、単に私の好みの問題なので、ベートーヴェンが好きな方の好みをあれこれ批評する気にはならないです。やはり気になるのは、世界観が近代になるほど構成が緻密になる分、音楽が複雑になり、ここまで難しくする必要があるのだろうかということでしょうか。バッハやモーツァルトはベートーヴェンとは異なって意味でが一筋縄では手に負えない音楽家だと思いますが、ベートーヴェンの出現によって、やはり西洋音楽が重い「十字架」を背負ってしまったような印象をもちます。

 唐突ですが、正月に新年周りをしたおかげで、赤ちゃんというのはかわいいものだなあと。子育ての大変さというのは実感がありませんが、目を見て、「よい目をされていますね」と申し上げましたら、ご両親が恐縮されていたので、「白目がきれいなんですよ。私みたいな中年の汚れた目と一番異なるのは、この透き通るような白さ」と軽くおどけておきました。こどもというのは不思議なもので、帰りをあるご夫婦にお世話になってしまいましたが、まだ小学2年生の女の子に発する素朴な質問に参ったなあと。会話をしながら、言葉の素朴な意味を考えさせられることが多かったです。それにしても利発なお子さんで、私はこんなにちゃんとした日本語が話せたのだろうかと不思議に思いました。

 ご高齢の方はお元気そうでなによりでした。ただ、やはり生と死について切実な問題として考えられているようです。やり込められたのは私自身ではありませんが、生と死の問題に関する感覚が弛緩しているのでしょうか、よい仕事ができないのなら死になさいとおっしゃっていて、こどもたちが、「死ねというのはダメ」と老先生をやりこめて、その通りじゃなあと苦笑いをされるのが印象的でした。ご自身が密教の勉強をされえいるのと、不甲斐ない現役世代の冴えない顔が並んでいたので、やや言葉が過激になったのでしょうが、死ぬ気でやってみよとのことかと。中年のつらいところは、一日が終わると死んだように疲れてしまって、仕事に命を賭けるという感覚自体を維持することが難しいことでしょうか。大変、失礼ながら、2−30年前と比較すると、要求される作業が多岐にわたっておりますので、よほど能力が高くなくては、私自身が高いプライオリティを置いている仕事に専念できないことも大きいです。

 老先生は生命が歴史的にも同時的にも広がりをもっているなかで、一つの生命が失われること自体は、全体から見ればさほど大きなことではないと実にさっぱりしたことを語っておられました。ただ、気になったのは、「死んだらおしまい」という個の問題になると、「生」と「死」は等価なのだろうかと。生を「有」という純粋な無規定的な直接性のうちで捉えれば、対立するのは死なのだろうかと。「死」が「生」と無規定性のゆえに同等であり、しかしながら、真なる世界では両者はやはり絶対的に区別するのであって、夕から無へ、無から有へと推移した運動を織りなすのだろうかと。個体レベルではこれは強いていえば、生きるということと死ぬということは、生という営みが確実に可能性を減じてゆくことを考えれば、決して真ではないことではないのかもしれませんが、違和感を覚えます。生と死とは日常では対立するものとして捉えられますが、両者の関係は容易ではないように思います。

 もっと素朴なレベルではネアンデルタール人が既に死者を追悼していたことは、死ということが生の終わりという点で対立するものとして捉えていたと同時に、無に帰すという意味での向き低であるがゆえの対立関係にあるものではないことを示唆していると思います。しばしば、人は誕生から死までを不可逆的な過程であることや死から生を生まれることはないことなどに囚われて、生の否定が死であるという観念に陥ってしまう。もちろん、生きていないことが死であるという素朴な感覚に異議を唱えようというわけではありませんが、死のもつ重みから、死というものが無内容だという虚無に陥りやすいけれども、むしろ、死後の世界を夢見ることの方がよほど人間らしいとすら感じます。

 私自身の死生観が定まっていませんが、いまだに科学主義・客観主義の根強い現代文明は、「死ねばおしまい」という、恬淡といえば恬淡ですが、あやうい虚無をはらんでいるように思います。死というものが生命の通過点にすぎない(その世界像は現代的にどれほど稚拙であっても)という感覚が失われてしまったことを惜しみます。卑俗な話に戻せば、死んだところで、その人の履歴(ヒストリー)をこの世から消してしまうことなどできないのですから。
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2010年01月01日

K.550

謹んで新年のお慶びを申し上げます

旧年中は御厚情を賜り厚く御礼申し上げます

本年もご指導のほどよろしくお願い致します

 まあ、年が替わってなにが嬉しいのか、実感がないので、真心がこもっていないのはご容赦のほどを。いよいよ、40代に突入して「不惑」となるはずですが、なにもかもが新しく見えて、困惑する毎日です。

 年末年始がありがたいのは、うまい酒が飲める(これを続けたら、破産しますな)こととよい音楽に耽溺できることでしょうか。いつもはのんべえと過ごすのですが、さすがに体力がついてこないので、適当にやりすごして帰ってきました。体力がついてこないというのもありますが、大晦日から元旦にかけて聴いていたモーツァルトで腰を抜かしたからです。完全に酔っぱらうと、最近はアルコールの消化が遅いので困るのですが、あの感覚を忘れてしまいそうなので、早めに切り上げて、K.550モーツァルト「交響曲第40番」)を再度、聴いてみました。やはり驚きです。

 K.551(モーツァルト「交響曲第41番」)から聴き始めたのですが、不覚にもあまりに美しく落涙してしまいました。第2楽章でふと涙腺が緩みましたが、聴きなおすと、秘密が一杯ありそうです。ちょっとK.551は手に負えないので、今回はK.550に話を絞ります。

 この曲は小林秀雄の「モオツァルト」で「かなしみが疾走する」などと書かれてしまったせいか、海外でもさほど変わらないのかもしれませんが、ト短調ということもあって悲劇的な音調として解釈されることが多いようです。最初に40番を聴いたときには、チャイコフスキーやブラームス(どちらも竜頭蛇尾構成が多い)よりも悲しい曲だと感じましたし、小林の評論を読んでそう思いました。あれ以来、悲しい曲というイメージで、ひとまず落ち込んで立ち直りの機会を待つときに聴くといういかにもすちゃらかな扱いをしておりましたが、2010年に聴いた40番はまるで異なりました。41番の第2楽章がほとんど途切れても不思議ではないぐらい繊細に音がつながってゆくのを耳で追いかけていると、不思議なぐらい、安定しているのを聴きながら、あまりの美しさに涙が枯れてしまったからかもしれませんが。第2楽章でこれをやった後で、第3楽章、第4楽章はほとんどモーツァルトがやりたい放題という感じでしょうか。

 それはさておき、K.550です。第1楽章の冒頭部分を、日産かどこかが1990年代だったと思いますが、CMで使っていたので、クルマのCMにはどうかなあと感じたのを思い出します。もちろん、悪い曲というわけではありませんが。ここも奥が深くて、珍しくスコアを見て確認しましたが、かすかにフライング気味でヴィオラが鳴り、ヴァイオリンが主題を提示するのですが、最初の総休止までヴィオラがむしろ主役にさえ、響きます。総休止の後、ヴァイオリンがはっきりと主役になりますが、ひたすらヴィオラが支えているという不思議な構図。スコアを見て、この曲全体がひょっとしてと思ったのですが、いきなり第4楽章にとんでみましょう。

 有名なアレグロ・アッサイですが、現代では前衛的という表現は手垢がついてしまって好まないのですが、あえて言葉に直すと、アバンギャルドとしかいいようのない過激さです。「優雅と激情」とかありきたりの表現で逃げておいた方が精神衛生によいだろうなというぐらい、複雑です。逃げ場がなくなるぐらい技巧的で、あらためて驚きました。今年、初めて聴いたときには途中でどう終わらせるのだろうかと不安になるぐらい。再度、聴き直して、まるで剣舞の達人が王なり公なり高貴な方の前で即興で踊ってみせよと言われて、刀をぎらつかせずに(短調という粉飾)、同じ動作を逆送してみせたり、途中でポンポンと調子を変えたりと、どこかで破綻しそうなのに基本の動作にとことん忠実なので、思わずみとれてしまうような妖しさがあります。

 どこかでベートヴェンと「対決」する必要がありますが、間違いなくロマン派のブラームスやチャイコフスキーが真似をしたら、破綻しそう。そうでなくても、途中からだれているとしか聴こえない曲が多く、たぶん終わりを考えずに作曲をしているからではないかと思いますが、恐ろしいことに、第4楽章は最初から最後まで響いた後で書いているとしか思えない出来栄えです。シューマンのシンフォニーもあやふやですが、作為なのか不作為なのかわからないのですが、似たような試みをしていたと思いますが、やはり無理。これは終わりを響かせるのが難しい。ロマン派の人たちが収拾がつかなくなって強制終了してしまって、「あれっ?」となるところを無理なく「剣」を置くあたりに凄みを感じます。

 再度、スコアを見ながら第1楽章と第2楽章を聴いてみると、やはりカギはヴィオラですか。音楽の「正しい」聴き方というのはないので、K.550に悲しみや苦闘を見出すのが間違っているとは言いませんが、やや異なるような。第2楽章は、つい緩徐楽章として聞き流してしまうところですが、これまた技巧的だなあと。ヴィオラが支えているうちに、ヴァイオリンと木管が絡んで、実に自由で美しい。しかも、K.551と比較すると、はるかにくすんだ音色を目指しているようで、展開部があまりに繊細ですので、ロマン派以降が目指した官能性よりもはるかに官能的ですらあります。聴いているのが、ベーム指揮のウィーン・フィルで1976年ですから、実に抑制的な演奏ですが、やはり完成度が高いなあと。

 第3楽章は形式的にはメヌエットだけれども、もはやメヌエットではないという評価が一般的なようです。確かにそうなのでしょう。この曲で踊るというのはちょっときつい。というのはトリオの部分で、木管があまりに軽くなんでもないかのように、第2楽章とは異なりますが、優しく囁くあたりはロココの繊細さと同時に自由すぎて、ホルンがさらに絡むと、あまりの美しさにイってしまいそうです。「かなし」を感じるのが難しい。ほとんど官能的といってよい音楽なのですが、まったく退廃の色がないのが素晴らしい。K.551を「ジュピター」と呼んで男性的と解釈してしまうと、K.550をどうしても色眼鏡をつけた状態で聴くことになってしまうのでしょう。メヌエットの切れ切れのようにさえ響く官能の底にあるのは健全で逞しい魂ですね。これは参った。徐々に聴き手の耳を慣らしながら、アレグロ・アッサイを披露するモーツァルトは偉大な創造者であると同時に、教育者であったと思います。


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posted by Hache at 18:42| Comment(2) | TrackBack(1) | ごあいさつ