2010年01月01日

K.550

謹んで新年のお慶びを申し上げます

旧年中は御厚情を賜り厚く御礼申し上げます

本年もご指導のほどよろしくお願い致します

 まあ、年が替わってなにが嬉しいのか、実感がないので、真心がこもっていないのはご容赦のほどを。いよいよ、40代に突入して「不惑」となるはずですが、なにもかもが新しく見えて、困惑する毎日です。

 年末年始がありがたいのは、うまい酒が飲める(これを続けたら、破産しますな)こととよい音楽に耽溺できることでしょうか。いつもはのんべえと過ごすのですが、さすがに体力がついてこないので、適当にやりすごして帰ってきました。体力がついてこないというのもありますが、大晦日から元旦にかけて聴いていたモーツァルトで腰を抜かしたからです。完全に酔っぱらうと、最近はアルコールの消化が遅いので困るのですが、あの感覚を忘れてしまいそうなので、早めに切り上げて、K.550モーツァルト「交響曲第40番」)を再度、聴いてみました。やはり驚きです。

 K.551(モーツァルト「交響曲第41番」)から聴き始めたのですが、不覚にもあまりに美しく落涙してしまいました。第2楽章でふと涙腺が緩みましたが、聴きなおすと、秘密が一杯ありそうです。ちょっとK.551は手に負えないので、今回はK.550に話を絞ります。

 この曲は小林秀雄の「モオツァルト」で「かなしみが疾走する」などと書かれてしまったせいか、海外でもさほど変わらないのかもしれませんが、ト短調ということもあって悲劇的な音調として解釈されることが多いようです。最初に40番を聴いたときには、チャイコフスキーやブラームス(どちらも竜頭蛇尾構成が多い)よりも悲しい曲だと感じましたし、小林の評論を読んでそう思いました。あれ以来、悲しい曲というイメージで、ひとまず落ち込んで立ち直りの機会を待つときに聴くといういかにもすちゃらかな扱いをしておりましたが、2010年に聴いた40番はまるで異なりました。41番の第2楽章がほとんど途切れても不思議ではないぐらい繊細に音がつながってゆくのを耳で追いかけていると、不思議なぐらい、安定しているのを聴きながら、あまりの美しさに涙が枯れてしまったからかもしれませんが。第2楽章でこれをやった後で、第3楽章、第4楽章はほとんどモーツァルトがやりたい放題という感じでしょうか。

 それはさておき、K.550です。第1楽章の冒頭部分を、日産かどこかが1990年代だったと思いますが、CMで使っていたので、クルマのCMにはどうかなあと感じたのを思い出します。もちろん、悪い曲というわけではありませんが。ここも奥が深くて、珍しくスコアを見て確認しましたが、かすかにフライング気味でヴィオラが鳴り、ヴァイオリンが主題を提示するのですが、最初の総休止までヴィオラがむしろ主役にさえ、響きます。総休止の後、ヴァイオリンがはっきりと主役になりますが、ひたすらヴィオラが支えているという不思議な構図。スコアを見て、この曲全体がひょっとしてと思ったのですが、いきなり第4楽章にとんでみましょう。

 有名なアレグロ・アッサイですが、現代では前衛的という表現は手垢がついてしまって好まないのですが、あえて言葉に直すと、アバンギャルドとしかいいようのない過激さです。「優雅と激情」とかありきたりの表現で逃げておいた方が精神衛生によいだろうなというぐらい、複雑です。逃げ場がなくなるぐらい技巧的で、あらためて驚きました。今年、初めて聴いたときには途中でどう終わらせるのだろうかと不安になるぐらい。再度、聴き直して、まるで剣舞の達人が王なり公なり高貴な方の前で即興で踊ってみせよと言われて、刀をぎらつかせずに(短調という粉飾)、同じ動作を逆送してみせたり、途中でポンポンと調子を変えたりと、どこかで破綻しそうなのに基本の動作にとことん忠実なので、思わずみとれてしまうような妖しさがあります。

 どこかでベートヴェンと「対決」する必要がありますが、間違いなくロマン派のブラームスやチャイコフスキーが真似をしたら、破綻しそう。そうでなくても、途中からだれているとしか聴こえない曲が多く、たぶん終わりを考えずに作曲をしているからではないかと思いますが、恐ろしいことに、第4楽章は最初から最後まで響いた後で書いているとしか思えない出来栄えです。シューマンのシンフォニーもあやふやですが、作為なのか不作為なのかわからないのですが、似たような試みをしていたと思いますが、やはり無理。これは終わりを響かせるのが難しい。ロマン派の人たちが収拾がつかなくなって強制終了してしまって、「あれっ?」となるところを無理なく「剣」を置くあたりに凄みを感じます。

 再度、スコアを見ながら第1楽章と第2楽章を聴いてみると、やはりカギはヴィオラですか。音楽の「正しい」聴き方というのはないので、K.550に悲しみや苦闘を見出すのが間違っているとは言いませんが、やや異なるような。第2楽章は、つい緩徐楽章として聞き流してしまうところですが、これまた技巧的だなあと。ヴィオラが支えているうちに、ヴァイオリンと木管が絡んで、実に自由で美しい。しかも、K.551と比較すると、はるかにくすんだ音色を目指しているようで、展開部があまりに繊細ですので、ロマン派以降が目指した官能性よりもはるかに官能的ですらあります。聴いているのが、ベーム指揮のウィーン・フィルで1976年ですから、実に抑制的な演奏ですが、やはり完成度が高いなあと。

 第3楽章は形式的にはメヌエットだけれども、もはやメヌエットではないという評価が一般的なようです。確かにそうなのでしょう。この曲で踊るというのはちょっときつい。というのはトリオの部分で、木管があまりに軽くなんでもないかのように、第2楽章とは異なりますが、優しく囁くあたりはロココの繊細さと同時に自由すぎて、ホルンがさらに絡むと、あまりの美しさにイってしまいそうです。「かなし」を感じるのが難しい。ほとんど官能的といってよい音楽なのですが、まったく退廃の色がないのが素晴らしい。K.551を「ジュピター」と呼んで男性的と解釈してしまうと、K.550をどうしても色眼鏡をつけた状態で聴くことになってしまうのでしょう。メヌエットの切れ切れのようにさえ響く官能の底にあるのは健全で逞しい魂ですね。これは参った。徐々に聴き手の耳を慣らしながら、アレグロ・アッサイを披露するモーツァルトは偉大な創造者であると同時に、教育者であったと思います。


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posted by Hache at 18:42| Comment(2) | TrackBack(1) | ごあいさつ