2010年01月06日

文明の根源 生と死と

 聴いてから数日が経過しましたが、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの『交響曲 第9番』を聴きました。1942年3月の録音です。解説ではドイツ帝国放送協会に関しても簡略ながらも記述があり、フルトヴェングラーの水面下における努力にもかかわらず、ユダヤ系楽員がベルリン・フィルから追い出されていったことが記されています。そのような時代背景にもかかわらず、フルトヴェングラーの指揮は冴えています。冷戦後、ソ連が没収した録音テープからLPに録音したメロディアのLPを再現したのが、今回、聴いたCDです。ガリガリ音が懐かしくもあります。

 1月3日の深夜に聴きはじめましたが、やや疲労を覚えました。単純に1時間を超えるシンフォニーを途切れることなく聴く体力がなくなってきているだけなのですが。この演奏に関して私自身がなにかを述べる必要もないと思います。録音の状態は決して良好ではありませんし、元々の演奏自体が非常事態の下であるにもかかわらず、スケールの大きな演奏に圧倒されました。ナチスの宣伝の道具であったのにもかかわらず、今日でも愛されるのは当然であろうと。他方、優れた演奏に接したおかげで、なぜベートーヴェンですら受けつけなくなったのかも、なんとなくですが、わかったような気がします。スケールの大きさに圧倒される反面、なにか物事が大げさになりすぎることが耳が受けつけなくなった理由であろうと。このあたりは、単に私の好みの問題なので、ベートーヴェンが好きな方の好みをあれこれ批評する気にはならないです。やはり気になるのは、世界観が近代になるほど構成が緻密になる分、音楽が複雑になり、ここまで難しくする必要があるのだろうかということでしょうか。バッハやモーツァルトはベートーヴェンとは異なって意味でが一筋縄では手に負えない音楽家だと思いますが、ベートーヴェンの出現によって、やはり西洋音楽が重い「十字架」を背負ってしまったような印象をもちます。

 唐突ですが、正月に新年周りをしたおかげで、赤ちゃんというのはかわいいものだなあと。子育ての大変さというのは実感がありませんが、目を見て、「よい目をされていますね」と申し上げましたら、ご両親が恐縮されていたので、「白目がきれいなんですよ。私みたいな中年の汚れた目と一番異なるのは、この透き通るような白さ」と軽くおどけておきました。こどもというのは不思議なもので、帰りをあるご夫婦にお世話になってしまいましたが、まだ小学2年生の女の子に発する素朴な質問に参ったなあと。会話をしながら、言葉の素朴な意味を考えさせられることが多かったです。それにしても利発なお子さんで、私はこんなにちゃんとした日本語が話せたのだろうかと不思議に思いました。

 ご高齢の方はお元気そうでなによりでした。ただ、やはり生と死について切実な問題として考えられているようです。やり込められたのは私自身ではありませんが、生と死の問題に関する感覚が弛緩しているのでしょうか、よい仕事ができないのなら死になさいとおっしゃっていて、こどもたちが、「死ねというのはダメ」と老先生をやりこめて、その通りじゃなあと苦笑いをされるのが印象的でした。ご自身が密教の勉強をされえいるのと、不甲斐ない現役世代の冴えない顔が並んでいたので、やや言葉が過激になったのでしょうが、死ぬ気でやってみよとのことかと。中年のつらいところは、一日が終わると死んだように疲れてしまって、仕事に命を賭けるという感覚自体を維持することが難しいことでしょうか。大変、失礼ながら、2−30年前と比較すると、要求される作業が多岐にわたっておりますので、よほど能力が高くなくては、私自身が高いプライオリティを置いている仕事に専念できないことも大きいです。

 老先生は生命が歴史的にも同時的にも広がりをもっているなかで、一つの生命が失われること自体は、全体から見ればさほど大きなことではないと実にさっぱりしたことを語っておられました。ただ、気になったのは、「死んだらおしまい」という個の問題になると、「生」と「死」は等価なのだろうかと。生を「有」という純粋な無規定的な直接性のうちで捉えれば、対立するのは死なのだろうかと。「死」が「生」と無規定性のゆえに同等であり、しかしながら、真なる世界では両者はやはり絶対的に区別するのであって、夕から無へ、無から有へと推移した運動を織りなすのだろうかと。個体レベルではこれは強いていえば、生きるということと死ぬということは、生という営みが確実に可能性を減じてゆくことを考えれば、決して真ではないことではないのかもしれませんが、違和感を覚えます。生と死とは日常では対立するものとして捉えられますが、両者の関係は容易ではないように思います。

 もっと素朴なレベルではネアンデルタール人が既に死者を追悼していたことは、死ということが生の終わりという点で対立するものとして捉えていたと同時に、無に帰すという意味での向き低であるがゆえの対立関係にあるものではないことを示唆していると思います。しばしば、人は誕生から死までを不可逆的な過程であることや死から生を生まれることはないことなどに囚われて、生の否定が死であるという観念に陥ってしまう。もちろん、生きていないことが死であるという素朴な感覚に異議を唱えようというわけではありませんが、死のもつ重みから、死というものが無内容だという虚無に陥りやすいけれども、むしろ、死後の世界を夢見ることの方がよほど人間らしいとすら感じます。

 私自身の死生観が定まっていませんが、いまだに科学主義・客観主義の根強い現代文明は、「死ねばおしまい」という、恬淡といえば恬淡ですが、あやうい虚無をはらんでいるように思います。死というものが生命の通過点にすぎない(その世界像は現代的にどれほど稚拙であっても)という感覚が失われてしまったことを惜しみます。卑俗な話に戻せば、死んだところで、その人の履歴(ヒストリー)をこの世から消してしまうことなどできないのですから。
posted by Hache at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言